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2008年12月28日 (日)

故意か?失火か?~平重衡の南都焼き討ち

 

治承四年(1180年)12月28日、平重衡による南都焼き討ちがありました。

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平重衡(たいらのしげひら)は、あの平清盛の五男・・・尾張(愛知県)墨俣の合戦水嶋・室山での合戦など、後に捕虜にされる一の谷の合戦以外は、ほぼ全戦全勝の武勇すぐれた武将。

その容姿は牡丹の花に例えられるイケメンで、その性格も細かな気配りができる好青年・・・平家物語だけでなく、源氏側の記録にも、彼の事は褒めて書かれてあるところを見れば、やはり、人間的にもすばらしい人物だったのでしょう。

しかし、そんな彼が、この南都焼き討ちの罪を、一人かぶる事になるのは、何ともお気の毒です。

時は、源平の合戦があらわになった、その年・・・治承四年(1180年)。

5月には、後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)源頼政とともに挙兵(5月28日参照>>)、8月には、その以仁王から打倒平家の令旨(天皇家の命令書)を受け取った源頼朝伊豆で旗揚げし(8月17日参照>>)、10月には、富士川で、その頼朝との合戦に、平家が戦わずして負けてしまう(10月20日参照>>)という出来事が起こっています。

また、この間に清盛が自らの理想とする福原(神戸)に遷都するも、わずか半年で、また平安京に都を戻す(11月26日参照>>)というドタバタ劇もありました。

そんな中の12月25日・・・重衡は、父・清盛の命により南都の悪徒追放のため奈良に入ります。

南都とは、現在の奈良県の東大寺興福寺のある、あの一帯の事ですが、この南都攻めの時に、東大寺をはじめとする七つの寺や堂塔が焼き尽くされ、多くの死者を出してしまい、この事が、当人である重衡はもちろん、平家に対する世間の風当たりを強くする事になるのです。

そもそも興福寺は、あの藤原氏のお寺ですし、東大寺は聖武天皇のお宝が正倉院に収められている事でもわかるように、皇室との関係の深いお寺ですから、庶民の信仰も厚く、特にあの象徴的とも言える大仏殿を焼いてしまう事は、奈良の一般の人々にとっても非常にショックな事・・・神仏を恐れぬ悪行と解釈されてしまうわけです。

では、もともと、なぜ、平家が、南都を攻めなければならなかったのか?

その発端は、保元の乱以前の久安三年(1147年)にさかのぼります。

その日、祇園のイベントに参加していた清盛の父・忠盛の郎党と祇園社の所司(官庁の役人)との間に、ちょっとしたトラブルがあり、その時のドサクサにまぎれて郎党の一人の放った矢が神殿に突き刺さるという事態になってしまったのです。

以来、本山である比叡山をはじめ宗徒たちが、平家を敵視するようになり、何かと挑発的な態度をとるようになっていたのです。

もともと、そんな背景があるうえに、ここに来て、前年の清盛のクーデター(11月17日参照>>)によって院政をとめられた後白河法皇の、「何とか、復権したい」という思惑も絡みつつ・・・。

なんせ、あの、何も思い通りにならないものはなかったという清盛のオヤジかも知れない大権力者の白河天皇(2月11日参照>>)も、「賀茂川の水とサイコロの目と比叡山の僧兵」と、その名をあげたくらい大寺院の僧兵は思い通りにならない横暴な存在だったのです。

この頃はすでに政治の実験を握っていた清盛にとっても、その宗教的権威を振りかざす彼らは目の上のタンゴブ・・・しかも、そんな彼らに乗じて、朝廷も抵抗するわけで、だいたい、周囲の猛反対を受けながらも、清盛が福原への遷都を決行するのは、これらの山門の勢力と、それに結びつく貴族たちの思惑から離れた場所で政治を行いたいがためのものだったのですから・・・。

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ところで、25歳という若さで南都攻めの総大将を任された重衡ですが・・・この頃の合戦は、だいたい2~3時間で山場を迎え、勝敗の見通しがつくにも関わらず、この南都攻めは12時間もの時間を費やしてしまいました。

・・・というのも、すでに、各地での源氏による挙兵を聞きつけている比叡山や園城寺の僧兵たちが、この興福寺に全面協力の態勢をとり、京都から奈良に入ろうとする彼らを待ち受けていたからなのです。

古くから「奈良坂越えの京街道」と呼ばれた平安京と平城京を結ぶ道の、奈良の入り口に当たる奈良坂・・・僧兵たちは、その奈良坂にある般若寺に城郭を築き、重衡ら平家軍を奈良に一歩も入れまいと抵抗します。

Hannyazi800 般若寺:奈良坂&般若寺へのくわしい行き方はHPの歴史散歩へどうぞ>>

27日の昼間から始まった合戦は、やがて夜となり、あたりは真っ暗になってしまいます。

もはや、人がどこにいるのかもわからない状況となり、「これでは戦えない」と、明かりをとるために、大松明(おおたいまつ)に火をつけるのですが、これが、折からの強風にあおられ、民家に燃え移り、やがて、治承四年(1180年)12月28日南都一帯に燃え広がってしまったのです。

目の前の般若寺はもちろん、興福寺も、そして、東大寺の大仏殿も・・・。

文献の中には、この時、戦いを有利に進めるために、平家側が火を放ったとする物もあるようですが、私、個人的には、この火事は、失火だったのではないか?と思っています。

それは、後に、捕虜となった際も、あの頼朝が、その助命を考えるほど、立派な、そして、セコイ弁解などせず、武士らしい堂々とした態度であった重衡(6月23日参照>>)が、ただ一つ、死ぬまぎわにまで、「南都を焼き尽くしてしまった事は、自分の意図するところではなかった」と言っていたという事で、重衡びいきの私としては、やはり、彼の言葉を信じたい。

結局、この時の南都の僧兵との戦いには勝利した形の重衡ですが、大仏を焼いてしまったというその重罪は許される事なく、一の谷の合戦で捕虜となって、鎌倉に送られる途中の京の町では市中引き回し、そして、鎌倉での詮議の後は、その南都焼き討ちに怒り狂う僧兵たちに引き渡される事になるのです。

南都を焼いてしまった事で、「神仏を恐れぬ不届き者!天罰が下るに違いない」と、町の人々に噂された重衡・・・

しかし、最後の最後に、最愛の妻・輔子(すけこ)と再会できるのは、やはり神仏のおぼしめし・・・それこそが、この焼き討ちが失火であった事を物語っているように思うのですが・・・

その再会のお話は、以前、書かせていただいた【平家の公達・平重衡と輔子】3月10日のページでどうぞ>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

私は平家物語が好きで、繰り返し読んでいます。その内容からも、いわゆる南都炎上は、意図のない失火だったのだと思います。炎上の部分は迫力があり、重衡と頼朝の会見から重衡最期の部分は、趣き深い部分ですね。千手の前もステキな女性です。実在の人物なのでしょうかね?
平家物語で他に印象的な人物は重盛と忠度。こちらのブログに既に記事があるようでしたら、日付をお教えください。
まだだったら、何かの機会に何か記事をお願いしますo(_ _)oペコッ

投稿: ななみみず | 2008年12月30日 (火) 08時19分

ななみみずさん、コメントありがとうございます。

そうなんです・・・千手さんとの事もいつか書きたいと思っているんです。

物語風の細かな事はどうだかわかりませんが、そのお名前自体は、「吾妻鏡」にも登場するので、おそらく実在の人物だったと、私は思ってるんですが・・・。

あと、重盛さんは清盛と後白河法皇の間の潤滑油的な立場ではなかったか?というような事で、チョコっと登場してはいただいてますが、主役としてのページは、まだありません。
この人も魅力的な人です・・・もう少し長生きしてくださったら、後の歴史も変わったかも知れません。

忠度さんは、平家の都落ちの日(7月25日)に「忠度の都落ち」というページを書かせていただきましたが、左サイドバーの「人物列伝」の「た行」か、「出来事カレンダー」の「7月」か、「年表サイトマップ」の「平清盛と平家物語の年表」から入っていただくと見つけやすいと思います。

面倒くさければ、右サイドバーの「ブログ内検索」のボックスに名前を入れてクリックしてくだされば、主役のページだけでなく、チョコッとでも名前が出て来るページが、すべて黄色のマーカーつきで表示されますので、試してみてくださいね。

投稿: 茶々 | 2008年12月30日 (火) 10時45分

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