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2008年12月19日 (金)

海援隊の生みの親~龍馬も憧れた河田小龍

 

明治三十一年(1898年)12月19日、あの坂本龍馬にも影響を与えた土佐の知識人河田小龍が75歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

Touziinsyouryou150cc 河田小龍(かわだしょうりょう)・・・この方の本職は画家です。

小龍というのも、数ある号の中のひとつで本名は篤太郎・・・。

しかし、冒頭に画家・・・と書かずに、知識人とさせていただいたのは、土佐という地方にありながら、その先見の明というか、世界を見る目が時代の最先端をいっていて、とても画家という枠では収まりきらないような人だからです。

小龍は、土佐藩の下士の身分であった土生(はぶ)玉助の長男として生まれますが、その身分を嫌ってか、家督を弟に譲り、自分は、地侍だった祖父・金衛門の養子となって河田姓を継ぎます。

幼い頃から絵が上手だった小龍は、12歳で島本蘭渓(らんけい)に入門して本格的に絵の勉強をするとともに、15歳からは、儒学者・岡本寧浦(ねいほ)から儒学も学びます。

やがて、狩野永岳(えいがく)の弟子にもなり、20歳を過ぎた頃からは、多くの兄弟子を抑えて京都二条城の襖絵の修理にも抜擢されていますから、画家としての腕前は相当のものだったようです。

その頃からは、西欧の絵の技法にも興味を持ちはじめ、そのためのオランダ語を習い京都長崎で海外の情報を集めているうちに、どんどんとその視野が広がっていく事になるのですが、貪欲にありとあらゆる情報が集めるがゆえに、あまりに奔放な生活態度となってしまい、土佐藩のおエラいさんに目をつけられてしまって、高知に連れ戻されてしまいます。

地元・高知に戻った彼は、墨雲洞(ぼくうんどう)という私塾を開きますが、本来、画を教えるための塾であったここも、それはそこ、奔放な小龍の事ですから、京都や長崎で得た知識を学問としても教えるようになり、多くの下級武士や町民が、その門を叩く事になります。

そんなこんなの嘉永四年(1851年)、小龍27歳の時、彼の人生を大きく変える出来事が起こります。

あのジョン万次郎こと中浜万次郎が10年ぶりに帰国したのです(1月3日参照>>)

中浜万次郎は、土佐の漁師の息子でしたが、14歳の時に漁に出て嵐に遭い、アメリカの捕鯨船に助けられ、そのままアメリカで暮らしていたために、もはや、すっかり日本語を忘れてしまっていました。

当時は、鎖国中の日本・・・外国を見てきた者は、牢に入れられ、まるで犯罪者のように扱われるのが常で、土佐出身である万次郎は、あちこちの牢に入れられた後、当然、土佐でも取り調べを受ける事になるのですが、上記の通り、すっかり日本語を忘れてしまっている彼の取調べは、まったくもって進みません。

そこで、白羽の矢が立ったのが、オランダ語のできる小龍でした。

もちろん、オランダ語と英語は違いますが、何もできないものが何人かかっても、らちがあきませんから、ここは一つ、オランダ語ができて外国の事情にもくわしい小龍に・・・という事になったのです。

小龍は、万次郎を自宅に引き取り、取調べというよりは、寝食をともにする同居人という感じで、まずは日本語を思い出させるところから始めます。

紙にアルファベットを書き、その横に日本語を照らし合わせ・・・万次郎に日本語を教えるとともに、それは小龍自身も英語を覚えるという、ともに学ぶ姿勢を貫きます。

やがて、コミュニケーションがとれるようになると、万次郎が話すナマのアメリカ情報に小龍は興奮しっぱなし・・・

殿様(大統領)を入れ札(選挙)で選らび、
地上に敷いた鉄の道を馬のない車が走る、
蒸気で動く船、巨大な大砲を積んだ軍艦・・・

中でも、モールス信号に至っては、「その原理を教えろ!」と万次郎のぐび根っこを捕まえて迫るほどでした。

そして小龍は、もはや友人となった二人の問答を『漂巽紀略(ひょうそんきりゃく)という一冊の本にまとめます。

この本を読んだ土佐藩主・山内豊信(とよしげ・容堂)は、あまりの感激に、「土佐藩だけではもったいない」と、幕府要人に回覧し、それは、アメリカという国の情報の手引き書となったと同時に、中浜万次郎という人物を江戸幕府のおエラ方が知るきっかけともなりました。

それから2年後の嘉永六年(1853年)、またまた大事件です!

そう、あのペリーの黒船来航(6月3日参照>>)

そんな時、浦賀で黒船を目の当たりにして興奮気味の一人の青年が小龍のもとを訪れます。

坂本龍馬です。

この頃の龍馬は、「いっちょ、黒船に斬り込んでやろう!」と、まだまだ血気盛んな頃でしたが、かと言って、目の前のあの大きな軍艦に尻込みしてしまう・・・そんなジレンマに悶々とした日々を送っていて、知識豊富な小龍の意見を聞きにきたのです。

そんな龍馬に彼は・・・

今、欧米と戦っても日本には勝ち目のない事、争うのではなく、その技術を身につける事の大切さを切々と語るのです。

さらに、具体的に・・・
「まずは船を手に入れろ。
そして、志を同じくする同志を集め、運輸業を行いつつ、西洋の航海術を学びなさい。
そして、外国と貿易し、国を豊かにし、外国と肩を並べるのだ。」
と・・・

そう、これは、まさに、後の海援隊です。

それを思うと、この小龍こそ海援隊の生みの親・・・それを、そっくりそのまま実現させた龍馬にとって、いかに、小龍の影響が大きかったかがわかります。

もちろん、人に言うだけではなく、自分でも実践しています。

文久三年(1863年)には、船を買うための資金を作ろうと、藩の支援を受けて塩田事業を行います。

いい土地も購入し、一流のスタッフもヘッドハンティングして、意気揚々と開始した事業でしたが、残念ながら、この塩田は失敗に終っています。

さすがの小龍さんも、金儲けの才能までは、備えていなかったのかも・・・。

ただ、貧しいながらも、絵の才能のほうは、未だバツグンで、数々の山水画や美人画などを残しています。

また、その技術を生かして、反射炉の施設の図面を書いたり、大砲鋳造の際の図面を書いたり、高知の市街地図を書いたり・・・と、幕末から明治にかけて、新しい仕事にもどんどんチャレンジし、明治三十一年(1898年)12月19日75歳で亡くなるその日まで、意欲的に活躍し続けたのです。

Suirokakusyouryuu330cc 琵琶湖疏水・水路閣

京都資料館にあるあの琵琶湖疏水工事(4月7日参照>>)の絵図も彼が手掛けたもの・・・

かくして、75歳の生涯を閉じた小龍は、現在、あの足利尊氏の菩提寺である京都の等持院に静かに眠っています。

・‥…━━━☆

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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

こんばんは。
いろいろな才能のある方だったのですね。しかも御金儲けの才能がない…まさに天才でしょう(・∀・)
でもお金儲けができて自らが海援隊を作っていたとしたら、75歳の天寿は全うできなかったかもしれないですね。
幸い(?)事業に失敗してくれたおかげでその後のご活躍があったのですから、それも一つの才能でしょうか。( ̄◆ ̄;)

投稿: おきよ | 2008年12月19日 (金) 20時47分

小龍さん…勝海舟と共に竜馬に最も影響を与えた人物ですね。小龍さんは開国派と見て良いんですか?あと勝海舟なんかは攘夷派の刺客に命を狙われてたりしたみたいですが、小龍さんもやはり攘夷派の人達から命を狙われてたりしたんでしょうか?明治初頭に75歳と当時としては長命を保ったという事は、命を狙われたりはしなかったと見て間違いないですか?。幕末の歴史には疎くて、お恥ずかしいばかりですが、その辺のトコ教えて下さい。

投稿: マー君 | 2008年12月20日 (土) 00時39分

おきよさん、こんばんは~

あの平賀源内も、発明ではほとんど食えず、バイト感覚でのコピーライターは成功したものの、事業といった類のものはことごとく失敗してるので、天才と呼ばれる人は、意外とそういうのは苦手なのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月20日 (土) 22時25分

マー君さん、こんばんは~

やはり小龍さんは、開国派でしょうね。
でも、私も、狙われていた話は聞いた事がないです。

記事を書くにあたって、もう一度チョコチョコっと調べてみましたが、やはり狙われていた話は出てきませんでしたね。

しかし、以前、【龍馬亡き後の海援隊】で書かせていただいた2代目海援隊・隊長となる長岡謙吉をはじめ、多くの土佐出身の志士たちが、彼の塾に通っていたらしいので、知らないだけで、実際には狙われていた可能性もありますね。

画家を隠れ蓑にうまく逃げていたのかも・・・。

投稿: 茶々 | 2008年12月20日 (土) 22時42分

こちらのエントリは大変興味深く拝見しましたが、私の調べでは河田小龍は琵琶湖疏水の「図面」は書いていないと思います(^^)。

投稿: 幻灯機 | 2010年2月14日 (日) 21時55分

幻灯機さん、こんばんは~

>「図面」は書いていないと思います・・・

「図面」じゃなくて「絵図」という表現で…という事でしょうか?
では、表記を「絵図」と訂正しときます。

投稿: 茶々 | 2010年2月14日 (日) 22時57分

近藤長次郎の切腹は、昨日の放送では自発的か「第三者」の命令で、となっていましたが亀山社中の処分とも言われます。「切腹の理由」が「英国密航未遂」ではなく、社中の金を「横領」したのが実際の理由らしいです。

亀山社中が「ただのカステラ屋」では存在意義がないです。現代の商社だったら会社の業績を上げるために、社員個人で契約をまとめるのは当たり前ですね。そもそも社中の理念は何でしょう?「世のための金儲け」ではないとなると疑問。
考えてみると「龍馬伝」での坂本龍馬が、どうしても「小物」に見えてしまう…。

投稿: えびすこ | 2010年8月23日 (月) 16時19分

えびすこさん、こんばんは~

それこそ個人的な好みだと思いますが、「世の中のためになる」=「お金を儲けてはいけない」っていうのが、子供っぽい考えのような気がしてなりません。

結局は商社なんですから、儲けて良いと思うんです。
問題は使い道ではないかと…
世のために使ってくれるんなら、どんどん儲けても良い気がします。

投稿: 茶々 | 2010年8月23日 (月) 22時17分

よくぞここまできちんと調べて載せてくださいました。ありがとうございます。祖父(小龍の孫)は京都で研究しておりましたが、私は子どものころよく話こそ聞いたものの、そのままにしておりました。祖父から聞いたことでずっとジョン万次郎や龍馬さんは他人のよな気がしていませんでした。祖父の家にはいっぱい当時の写真(たぶん多くは上野彦馬さんが撮ったもの)がありました。息子がジョン万次郎に興味を持ってきたのでかかわりがあると話してやったらとても興奮して・・・ちゃんと話をして来なかったのでいま改めて自分なりに調べているところです。

投稿: 子孫(孫の孫) | 2011年2月 7日 (月) 21時20分

子孫(孫の孫)さん、こんばんは~

>とても興奮して…

それは興奮しますね~

かかわりがあるどころか、万次郎も龍馬も小龍さんにドップリですよね~
新しい発見をされる事を期待しています。

投稿: 茶々 | 2011年2月 8日 (火) 01時02分

「小龍は、現在、あの足利尊氏の菩提寺である京都の等持院に静かに眠っています。」とブログにお書きになっていますが、3カ所ある墓地のどこでしょうか?一通り探してみたのですが見つかりませんでした。もしご存じでないなら、この元資料をお知らせねがえませんか。

投稿: Kei | 2014年4月 9日 (水) 11時16分

Keiさん、こんにちは~

確か、正面の拝観入口からではなく、裏手の立命館大学の方(一旦構内に入ったような?)にある墓地だったと思います。

私が行ったのは、けっこう前ですし、同時に金閣寺やらにも行ってて、かなりうろ覚えなので、なんなら、拝観の所におられる方に聞いてみていただければ…

等持院の墓地である事は、間違いないです。

投稿: 茶々 | 2014年4月 9日 (水) 11時58分

茶々さんそうですか。旧墓地ですね。時代からいっても旧墓地のはずですが、念のため新しいところも巡ってみましたが見つけられませんでした。私の家の墓地も旧墓地にあるのですが、小龍さんのお墓を見つけられませんでした。御子孫がおられるようですがご存じならお知らせください。一度お参りしたいと思っています。

投稿: Kei | 2014年4月 9日 (水) 23時06分

Keiさん、こんばんは~

そうですか…あそこは旧墓地なのですね。

残念ながら御子孫の方の連絡先は存じあげません。
今度、お参りに行かれた時は、無事、見つけられますよう願っております。

投稿: 茶々 | 2014年4月10日 (木) 02時01分

茶々さん。先ほどお参りしてきました。
古いお墓だと思って山の上の方をさがしていましたが、なんと当家のすぐ近くに小龍先生のお墓を見つけました。御子孫のかたが区画をリニューアルされて立派に整備されていました.立命館の学舎に近い一角にまつられていました。私の曽祖父がお教えを頂いた可能性もあるかたなので感慨もひとしおでした。貴重なお話を有り難うございました。

投稿: Kei | 2014年4月10日 (木) 09時53分

Keiさん、こんにちは~

無事、お参りされたのですね。
良かったです。
うまく場所説明できなくて申し訳なかったです。

投稿: 茶々 | 2014年4月10日 (木) 11時49分

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