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2008年12月23日 (火)

三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦いと平手汎秀の死

 

元亀三年(1572年)12月23日、昨日の戦いに勝利した武田信玄が、首実検を行いました。

・・・・・・・・・・・・・

元亀三年(1572年)12月22日の夜、その日の三方ヶ原の戦い(12月22日参照>>)に勝利した武田信玄は、徳川家康が逃げ帰った浜松城の北方1kmのところにある犀ヶ崖(さいががけ)の北側に布陣します。

深夜になって、家康配下の天野康景(やすかげ)大久保忠世(ただよ)らが、負け戦に一矢報いようと、夜襲をかける作戦を練ります。

16挺の鉄砲と約100名の兵を引き連れ、密かに間道を行く彼ら・・・幸い、今日の空は雪模様の闇夜、敵は地の利を持たず。

90mの崖に布を渡し、橋に見せかけて準備万端・・・時を見計らって一斉に鉄砲を撃ち鳴らして鬨(とき)の声を挙げると、思わぬ夜襲に動揺した武田勢が、見せかけの橋に殺到し、次から次へと崖に転落して多くの死傷者を出し、大打撃を受けたと・・・

それゆえ、このあたりの地名は「布橋」と呼ばれるようになった・・・と言うのです。

しかも、この話には、更なる後日談があって、戦いから三年後になって、崖の下から奇妙なうめき声が聞こえたり、イナゴが異常発生するなどの不吉な事が度重なり、誰とも無く、この犀ヶ崖の戦いの祟りではないか?」と騒ぎになったため、家康の命により、祟りを鎮める念仏修法が行われ、その踊り念仏が、いつしかお盆の行事として行われるようになり、それが、現在も浜松市伝統芸能として残る遠州大念仏なのだとか・・・

ただし、この話は、徳川方の史料にしか書かれておらず、どうやら、あまり信頼のおける話ではないようで、正史としては疑問視されています。

しかし、もう一つ・・・
『柏崎物語』にも、徳川四天王の一人・榊原康政が、三方ヶ原の戦いの後、信玄が浜松城の近くに陣を構えたのを確認して、「夜のうちに城攻めがあるかも知れない」と、迎撃すべく、100名の兵とともに城下にて待ち構えていたという話が書かれています。

ただ、この時は、結局、いつまでたっても武田勢が攻めて来る様子が無かったので、「このまま帰ってもつまらん!」と、少しだけ敵の陣に近づき、大声を挙げて鉄砲を撃ち鳴らし、敵陣が大騒ぎになったところで、サッと退きあげたとなっています。

こちらの場合は、ただ脅しただけという事ですから、武田が大ダメージを喰らうという事はなかった事になります。

これらを踏まえて、今では、三方ヶ原の戦いの後に起こった犀ヶ崖の戦いでは、夜襲らしきものがあった事はあったが武田勢に大打撃を与えるほどの物ではなかったというのが、一般的な見方となっているようです。

そして、翌日の元亀三年(1572年)12月23日信玄は三方ヶ原の戦いで討ち取った武将の首実検を行うのですが、その中には、家康と同盟関係にあった織田信長が援軍として派遣した平手汎秀(ひらてひろひで)の首もあったのです。

この平手汎秀は、信長の傅役(もりやく)であった重臣・平手政秀(まさひで)三男(孫という説もあり)です。

汎秀の父・政秀は、その昔、若き日の信長が、奇抜なファッションに身を包み、ワル仲間のリーダーとなって、近所を暴れまわり、尾張のうつけと呼ばれていた頃、その素行の悪さをいさめようと、その命を捨てて信長に訴えた人物・・・(1月13日参照>>)

ご存知のように、結局は、信長はただのうつけではなかったわけですから、当時の自分には何等かの考えがあっての事だったとは言え、命を賭けていさめようとしてくれた家臣を死から救えなかった事は、成長した信長の中にも、重く圧し掛かっていたわけで、信長は、そんな政秀の息子・汎秀には、日頃から、特に心をかけていたのです。

その汎秀は、もう一人の重臣・佐久間信盛とともに3000の兵を従えて、援軍としてやってきていたのですが、三方ヶ原の戦いの直前、浜松城下に滞在していた彼らのところに、陣中見舞いにやってきた家康は、大将である汎秀や信盛に何の言葉もかけず、ただ、そのへんを見て廻っただけ・・・

その家康の態度を見た汎秀は、「殿様の命令やさかいに、援軍としてわざわざやって来たってんのに、大将の我々に挨拶もせんと、しかも、高ピーなあの態度は許せん!」と怒り爆発!

家の2階から、家康に聞こえるように・・・
「俺は、明日、先陣を務めて討死するよって、陣中見舞いになんか来んでもええぞ!」
と、大きな声で叫んだのです。

そして、翌日の戦いで、汎秀が本当に先陣を切って敵に向かって行こうとしたところ、さすがに家康の家臣たちも止めに入るのですが、そんな彼らに・・・

「今回の俺は、葉武者(はむしゃ・小物)ゆえ気遣い無用!」・・・つまり、信長より格下の家康さえ挨拶に来ない小物だと言い放って、敵陣に中に突っ込んで行ったのだとか・・・

これは、『利家夜話(としいえやわ)に書かれている逸話ですが、まぁ、家康さんにも悪気は無かったんでしょうが、まだまだ若年・・・おもらしの一件でもわかる通り、この戦いに関して、彼は余裕がなかったというところがホンネではないでしょうか。

しかし、そうして討ち取られた汎秀の首を、この日の信玄は、岐阜の信長のもとに、織田家への絶交の宣言として送ったのです。

それを知った信長は、汎秀の死を惜しむとともに、その怒りも頂点に達したと言います。

この時、三方ヶ原から無事帰還した信盛を、後に追放した時、その追放の条件の一つとして、今日の平手の死をあけている(7月24日参照>>)ところからみても、やはり信長にとって、汎秀の死は特別なものだったようです。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

この記事、初っ端から疑問というか矛盾点を見つけてしまい、犀ケ崖での出来事は虚構だろうと思いました。それは、当夜は雪模様の闇夜で云々という点です。当時の火縄銃は小雨で使えなくなる代物なのに、そんな日に鉄砲隊を連れてっても何の役にも立たないでしょうから、こんな記述がある時点で資料の信憑性を疑わざるを得ませんね。

投稿: マー君 | 2008年12月23日 (火) 10時23分

マー君さん、こんにちは~

ホント・・・
だいたい、だから「布橋」って言われても、武田に大ダメージを与えるくらいの数の兵士を崖に落すためには、どんだけの大きさの布がいるんだ?ってトコでも引っかかりますもんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月23日 (火) 11時59分

汎秀さん…平手の爺の三男説と孫の二説有るようですが、ズバリ孫でしょう。何故なら汎秀さんの生まれ年が政秀さんの没年と一緒ですもん。月日までは分からないため、政秀さんの死と汎秀さんの誕生はどちらが先か分かりませんが、汎秀さんが政秀さんの子だったら、信長公を諫める為にしても乳飲み子を残して命を断たないと思うので、汎秀さんは政秀さんの長男である久秀さんの長男と見るほうが自然な気がします。

投稿: マー君 | 2008年12月25日 (木) 01時34分

なるほど・・・

新たなる決定的証拠の発見に期待・・・ですね。

投稿: 茶々 | 2008年12月25日 (木) 02時01分

汎秀さん…三方ケ原へ遣わされた将の中ではダントツに若いですね。この記事では佐久間さんと二人しか出てきませんが、滝川一益と水野元信(信元)の両人も一緒に派遣されてるようですね。水野さんが生年不詳ですが異母妹である…家康の母・於大の方が1528年生まれであることから考えても1520〜1525年生まれと思われます。滝川さんが1525年生まれ。佐久間さんが1528年生まれなので、1553生まれの汎秀さんとはみんな親子ほど歳が離れてた勘定になりますね。滝川さんも・佐久間さんも織田家の宿老と言っても良いほどの武将。また水野さんは織田家の武将とは言え、家康の伯父に当るため…三人とも徳川の諸将に比して決して低い立場とは言えない地位にあったと考えられます。そこに若干二十歳の汎秀さんが一緒に派遣されてるのは、驚かされます。

投稿: マー君 | 2008年12月27日 (土) 13時35分

年齢が若い事も、信長さんにとってその死のショックが大きかった原因かも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2008年12月27日 (土) 14時56分

汎秀さん…よっぽど家康公が挨拶に来なかったんが腹に据えかねたんでしょうかね。佐久間はんやら、滝川はんに、水野はんも来とるのに挨拶が無いっちゅうんはワシが若造やから舐めとるんやろ!若年やっちゅうて舐められたまんま、何の手柄も立てずに帰ったら御館様に会わす顔もない。徳川はんがワシを端武者扱いしよるなら、ワシも死を覚悟の上で一丁華々しいに先陣切って突撃したるワァ…ってな思いだったんでしょうね。正に若気の至りってモンですかね。然し汎秀さん、佐久間・滝川・水野なんて名立たる重臣達に交じって徳川はんの援軍に差し向けられてるんだから、家康公が挨拶に来なかったからって腹を立てずに自重して、もっと長生きしてほしかったですね。若干二十歳で重臣達に交じって活動の場を与えられてるコトを考えると、長生きをしてれば本能寺の変の後の織田家の行く末ももっと違ったモノになったんじゃないかと残念で仕方ないです。

投稿: マー君 | 2008年12月27日 (土) 19時43分

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