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2008年12月25日 (木)

討幕が決定的となった薩摩藩邸焼き討ち事件

 

慶応三年(1867年)12月25日、幕府軍によって江戸にある薩摩藩邸が焼き討ちされました。

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夏頃から始まった「ええじゃないか」の大流行(7月15日参照>>)に、時代の転換期を予感させる慶応三年(1867年)・・・

何が何でも徳川家を潰したい武力討幕派の矛先をかわすように、10月14日、15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)大政奉還が上表されます(10月14日参照>>)

慶喜の思惑は、一旦、朝廷に政権を返還した後、新政府の名のもとで再び徳川家が主導権を握る事でした。

それを阻止したい討幕派は、12月9日、王政復古の大号令というクーデターを決行し、慶喜の将軍職辞任と江戸幕府の廃止が決定されます(12月9日参照>>)

教科書等では、大政奉還を江戸幕府の終りとし、翌日から明治時代と区分するのが一般的で、さらに王政復古の大号令が出たひにゃ、ここで、幕府の運も尽きたか・・・と思いがちですが、いやいや、実は、まだまだ挽回のチャンスはあったのです。

王政復古の大号令の小御所会議にも出席していた土佐藩の山内容堂(ようどう・豊信)公儀政体派(朝廷のもとで徳川家や諸藩主による議会での政治を理想とする)は、イギリス・アメリカ・フランスなど6ヶ国と交渉して、その外交権を掌握未だ政権担当能力ない朝廷から、慶喜の議定就任の約束を取りつけます。

つまり、このまま、後日、慶喜が朝廷に赴いて任命を受ければ、彼が新政府の議会の最高責任者となるはずだったのです。

その議定就任は、この12月28日に正式に決定される手はずとなっていました。

ところが・・・です。

それらの事を画策する京都大坂から遠く離れた江戸で、事件は起こってしまいます。

慶応三年(1867年)12月25日、取り締まりと称して、江戸の幕府軍が薩摩藩邸を襲撃・・・焼き討ちにしてしまったのです。

実は、これは、あの西郷隆盛の計略に、幕府がまんまとはめられた結果・・・

このまま平和裏に事が進めば、上記のような徳川家を中心とした議会が朝廷の下に誕生し、新政府と言いながら、江戸幕府と何ら変わらない政治体制となってしまう・・・

これを阻止するためには、幕府が朝廷の敵となる事が必要・・・幕府が自ら武力に訴え、それを薩長ら新政府側が粉砕するというシナリオでなくてはなりません。

そこで西郷は、未だ江戸城にいる13代将軍・徳川家定夫人・・・そう、あの篤姫を警護するという名目で浪士たちを江戸市中に集め、江戸近隣でゲリラ作戦を展開し、あちこちで騒ぎを起させていたのです。

この作戦を秘密裏に遂行したのが、西郷の右腕と言われた人斬り半次郎こと桐野利秋(きりのとしあき)、後に赤報隊隊長となる相楽総三(さがらそうぞう)(3月3日参照>>)といった面々だとされます。

彼らの度重なるテロ行為に対して、幕府側は、取締りとして薩摩藩邸を襲撃したわけです。

この江戸でのニュースが慶喜のいる大坂城内にもたらされたのは、奇しくも議定就任が決定されるはずだった28日・・・。

これによって、大坂城内は大騒ぎとなり、城に詰めていた幕府の兵士たちは冷静さを失い、「すぐにでも薩摩を討つべし!」の声があがるのです。

大坂城内には、慎重派もいましたが、もはや、いきり立つ兵士を制御するのは難しい状態・・・しかも、政権担当能力のない朝廷が泣きついてくるのを、ここまで待ち続けた慶喜が、1月1日、『討薩の表』=「朝廷の意に反して王政復古を行った薩摩の者を引き渡せ」という主張とともに、各藩にも出兵を要請・・・薩摩への宣戦布告を発してしまいます。

この『討薩の表』を朝廷に提出すべく、老中格大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とする幕府軍が、大坂城を出立したのは、翌1月2日・・・

彼らの入京を阻止しようと、薩長を中心とした兵が伏見&鳥羽で待ち構えます。

そう、これが、本当の幕府崩壊へとつながる鳥羽伏見の戦いなのですが、この先のお話は1月3日のページでお楽しみください>>
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

幕末の歴史も興味を持って見てみると面白いですね。昔から近代史には興味が無くて、徳川慶喜なんて…二百数十年も続いた幕府を潰したバカ殿様のイメージを持ってましたモン。あの時代…誰が将軍になっていようと幕府の消滅は避け得ない状況だったんでしょうね。慶喜の評価は様々ですが幕府を崩壊させた将軍て視点で見た場合、室町幕府の足利義昭とは人物の出来に雲泥の差がありますね。

投稿: マー君 | 2008年12月25日 (木) 08時26分

マー君さん、こんにちは~

私も、幕末は未だ勉強中ですが、新しい情報を、知れば知るほど様々な考えが浮かんできて、あらためて歴史のおもしろさを味わわせていただいとります。

投稿: 茶々 | 2008年12月25日 (木) 10時58分

どうしても、王朝最後の君主って…暗愚なイメージが付いて回ります。古くは中国は夏の桀王・殷の紂王…彼らの様に、王朝崩壊時の君主と言えば倫理感が欠如し、故に側室を多数侍らせて享楽に耽り政務を省みない。また父祖の代からの忠臣の諫言には耳を貸さず、獅子身中の虫みたいな奸賊の甘言に惑わされて忠臣達に無実の罪を被せて殺害してしまう。オマケに悪辣非道の限りを尽くし庶民に重労働を負わせ過酷な年貢を課す等したため、ついには人心を掌握できなくなり、庶民の一揆やら家臣の反乱を招き王朝を崩壊させてしまったんですから、どうしようもないボンクラ王ばかりだったと言えますね。そんなこんなで自分は子供の頃、徳川慶喜に対してもボンクラ殿様のイメージを持ってました。

投稿: マー君 | 2008年12月25日 (木) 19時49分

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