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2009年1月 5日 (月)

戦場に翻る錦の御旗~鳥羽伏見の戦い・3日め

 

慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、伏見方面の戦場に錦の御旗が掲げられました。

・・・・・・・・・・・・・

京都へ向かう幕府軍の隊列に、薩摩が砲撃を加えた事によって始まった鳥羽伏見の戦い・・・ここまでのお話は1月3日参照>>(前日の大坂湾の海戦1月2日参照>>

翌日の1月4日には、征討大将軍に任ぜられた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)が、錦の御旗(みはた)を掲げて薩摩藩兵に先導され新政府軍の本営・東寺に入ります。

Tobafusimimihata この錦の御旗は、あの後鳥羽上皇北条義時を倒そうとした承久の乱(5月14日参照>>)の時や、後醍醐天皇鎌倉幕府を倒そうと(4月8日参照>>)した時に掲げられたという記録をもとに、天皇の配下の軍である事を強調するために、岩倉具視が友人の国学者・玉松操(たままつみさお)(2月15日参照>>)にデザインを依頼して、密かに用意していたもの
・・・新政府軍が官軍で、幕府軍は天皇に刃向かう賊軍という事をはっきりと表したワケです。

この錦の御旗の威光が、この後、水戸黄門の印籠のように、まさしく、その威力を発揮します。

この4日には、早朝から反撃を試みる幕府軍でしたが、伏見でも鳥羽街道でも、苦戦を強いられます。

なんせ、未だ、前日と同じ縦列行軍・・・この期に及んで、まだ、強行姿勢をとれば、薩長は道を譲ると思っていたのでしょうか?・・・というより、幕府軍は諸藩の藩兵を寄せ集めただけの軍で、作戦らしい作戦も立てられておらず、統率のとれた集団は、かの見廻組と新撰組くらい・・・

しかも、その見廻組と新撰組はご存知のように刀槍の集団ですから、最新銃器の薩長からは狙い撃ちされるのは必至・・・ただ数が多いだけではとてもたちうちできなかった・・・というところでしょうか。

やがて、薩長軍が優勢のまま迎えた慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、伏見の戦場に、ついに錦の御旗が掲げられます。

Hosimotoyamazakitizucc 相手方の状況を、それほど把握していなかった幕府の諸兵たちは、その御旗を見て愕然とします。

上のほうの人はともかく、一般の藩兵にとっては、これはお国のため、良い事だと思いこんで戦っていたはずなのに、いつの間にか、自分が天皇に弓を向ける賊軍=極悪人になってしまっているのですから・・・。

逆に、当然の事ながら、薩長軍の士気はあがります。

さらに、それまで、薩長とともに戦場に出ていたものの、様子見ぃで戦闘に参加していなかった土佐藩兵は、この御旗を見るなり薩長軍に加勢・・・やがて鳥取藩兵も加わって、薩長は大いに力を増し、劣勢の幕府軍はしかたなく淀城への撤退を開始します。

Yodoa800 淀城跡:京都競馬場で有名な京阪・淀駅から石垣が見える近さです・・・ちなみに、この淀城は、豊臣秀吉が側室・茶々(淀殿)のために建てた淀城とは別の物です。

淀城は、老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の居城・・・大坂を出発した1月2日の夜に、幕府軍の本営として一夜を過ごした場所です。

その場所で態勢を立て直し、再び新政府軍と相まみえるつもりでした。

ところが・・・です。

幕府軍の兵たちが戻っても、淀城の城門はピッタリと閉ざされたまま・・・実は、この日、藩主の稲葉は、幕府の役職のため城を留守にしていたのですが・・・
「藩主の許可がない限り城門を開ける事はできない」と、拒否されたのです。

もちろん、それは単なるいいわけ・・・錦の御旗の威光に負けて、淀藩も新政府軍に寝返ったのです。

幕府の兵たちは激怒して、城門を力ずくで壊そうそますが、とてもじゃないがムリ・・・。

城門を「開けろ!「開けない!」1時間ほどの小競り合いの末、諦めた幕府軍の諸兵は、さらに南の橋本にある久修園院(くしゅうおんいん・くずおんいん)を本営として、ここを最後の抵抗拠点と定め、眠れぬ夜を迎えます。

Dscn1178a800 久修園院:あたりが焦土となった鳥羽伏見の戦いの中、久修園院は残りました。

ここを破られたなら、もはや、敵の流れをせき止める場所はなく、そのまま大坂への侵入を許す事になってしまうのです。

一方の新政府軍は、幕府軍が去った淀城に入り、ここに配備されていた8問の大砲を手に入れ、5kmほど離れた幕府軍に睨みをきかせます。

しかし、翌・1月6日の昼近く、幕府軍は予想もしなかった場所からの攻撃を受ける事になります。

それは、淀川を挟んで、橋本の対岸にある山崎の地・・・ここは、あの豊臣秀吉が、本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀と戦った、あの山崎の合戦(6月13日参照>>)のあった天王山の麓。

Hasimotohoudaibacc ここ山崎に布陣していた津藩が、対岸の高浜砲台から、いきなり橋本砲台場に狙いをさだめて砲撃してきたのです。

もちろん、津藩は、それまでは幕府側・・・慶応元年(1865年)から山崎の警固を任せれていたのですが、前日の夜に勅使(天皇の使い)四条隆平(たかとし)が、津藩の代表に会い、新政府軍への寝返りを即していたのです。

敵は、北から来るものと思っていた幕府の兵は、この対岸からの攻撃に浮き足立ち、京街道沿いの寺や民家に火を放ちながら逃走・・・中には、農民に変装して、一目散に逃げる者もいたのだとか・・・

こうして、幕府軍最後の守りの地は破られました。

一方、この時、大坂城にいた将軍・徳川慶喜・・・3日・4日・5日と、刻々と伝えられる戦況は、おそらく予想外だった事でしょう。

度重なる敗北、諸藩の裏切り、そして、錦の御旗・・・しかし、この6日の日、慶喜は、大坂城に詰める将兵に向かって・・・
「たとえ、城が焦土と化しても国賊を倒すまで戦おう!」
と、徹底抗戦を表明します。

ところが、その夜・・・ご存知、慶喜の敵前逃亡・・・

彼は、わずかの側近とともに、大坂城を抜け出すのですが・・・その日のお話は、
2008年の1月6日【慶喜の本心は?】>>
2009年の1月6日【原因は御三家にあり?】>>
の二度に渡って書かせていただいておりますので、お好きなほうからどうぞ・・・

★久修園院&橋本砲台場跡へのくわしい行きかたは本家HPの「京都歴史散歩」でどうぞ>>
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コメント

本文中に鳥取藩の名前が出てきましたね。時の鳥取藩主は慶喜公の異母兄…慶徳公です。また鳥取池田家は外様とは言え、初代の光仲公が家康公の外孫にあたるため、松平の称号と葵紋の使用を許され準親藩の格式を与えられてましたので、尊王派と佐幕派で藩論が分裂してたようですね。父方の祖先が鳥取藩の下級藩士だったのですが、戦闘に加わって居たとしたら、どんな気持ちで戦ったのか聞いてみたかったです。だって藩主は水戸家の教えを忠実に守るなら尊王の意志を貫きたい、されども弟の軍と戦うのは避けたいと思っていたでしょうから、家臣達も主君の心中を思えば戦い辛かったんじゃないですかね。

投稿: マー君 | 2009年1月 6日 (火) 08時02分

かなり曖昧な記憶ですが、武士はたとえ主君の命令が間違っているとわかっていても、従わなくてはならない、というのが江戸時代の武士の心得と聞いた記憶があります。江戸も最晩年ともなると、既に形骸化していたことが、こうして形に表れたのでしょうか。
十年余り前、新潟の新発田を訪れた折、幕府軍に参加しようとしていた藩主を押し込めにした屋敷を見学しました。美しい庭園が、余計に藩主の無念を思わせるようで…。

投稿: おきよ | 2009年1月 6日 (火) 08時55分

マー君さん、こんばんは~

やはり、当時は、どこの藩も尊王か佐幕かで揺れていたのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年1月 6日 (火) 18時04分

おきよさん、こんばんは~

薩長なんてすでに「藩主もクソもない」って状態でしたし、やはり、錦の御旗の影響も大きいのかも知れません。

日本の歴史上、天皇家に反旗をひるがえす事はイコール悪とされてましたからね~

投稿: 茶々 | 2009年1月 6日 (火) 18時09分

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