側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの徳川家斉
天保十二年(1841年)閏1月7日、江戸幕府・第11代将軍・徳川家斉が、69歳でこの世を去りました。
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第11代将軍・徳川家斉(いえなり)・・・この方が、歴代将軍の中で最も長い50年間に渡る在位の期間中、「将軍としてどんな政務を行ったか?」と聞かれると、ちょっと考え込んでしまいますが、「何をしたか?」と聞かれると、即座に答えられます。
「子供をつくった!」
なんせ、それは歴代将軍の中でズバ抜けてトップの数・・・
40人とも言われる側室の中から命中した16人に、28人の男の子と27人の女の子・・・なんと!合計・55人もの子供を作ったのです。
中でも、寛政八年(1796年)・享和三年(1803年)・文化六年(1809年)・文化十二年(1815年)・文政二年(1827年)・・・この5つの年には、年間3人。
さらに文政十年(1827年)の年には、年間に4人の子供を産ませています。
同じ学年にわが子が3人も4人もいたら、参観日はハシゴに次ぐハシゴ・・・運動会なんかビデオ回しっぱなし、三者面談で進路を迷ってるヒマもありませんがな!
あまりに好色で、あまりに精力絶倫な家斉さん・・・あの質素倹約の寛政の改革を推し勧めたカタブツ老中の松平定信(6月19日参照>>)から「回数が多過ぎては体に良くない」と注意されるほどでした。
・・・とは言え、この子づくりに関しては、ただ、本人が好きというだけではなく、実家から「子供を作れ!作れ!」と、かなりのプレッシャーをかけられてもいたようです。
なんせ、家斉さんは、あの御三卿(ごさんきょう)の一つであった一橋家から、後継者のいない第10代将軍・徳川家治(いえはる)の養子となって将軍を継いだ人・・・
この御三卿というのは、あの暴れん坊の第8代将軍・徳川吉宗が、将軍家に後継者がおらず、紀州出身で初めての将軍となった時、その後、自分の子孫以外に将軍の座を取られないために創設した、次男・四男・孫たちの、いわゆる分家(11月10日参照>>)でしたが、第9代と第10代は吉宗の長男の家系が将軍職を継いでいて、この第11代の家斉さんで、やっと一橋家に回ってきたのです。
こうなったら、ジッチャン・吉宗同様、今度は、一橋家以外へ将軍の座を渡してなるものか!となるわけで、そのためには、たくさんの子供を作って作って作り抜かねばならないのです。
なんせ、この頃は、子供の死亡率が大変高かったですから、たとえ無事に生まれても、成人するまで生きられるかどうか・・・現に、この家斉さんの子供たちも、無事成人したのは、55人のうち25人だけだったのですから・・・(それでも多いが・・・)。
・・・とは、言うものの、将軍たるもの、第3代の徳川家光の時代から「子供を作れ!作れ!」とけしかけられている中で、家斉さんの55人はダントツ!・・・やはり、プレッシャーだけではない「アンタも好きねぇ~」というところがあったという事でしょう。
そもそも、17歳で薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘・茂姫を正室に迎えた時にも、すでに婚礼の前に手を出していたという噂があるくらい好きモノだったようですから・・・。
その振る舞いを注意したカタブツ・定信をクビにして、水野忠成(ただあきら)が幕閣に返り咲いて実権を握ってからは、もはや、注意する者もなく、酒池肉林の毎日・・・
しかも、毎夜、正室や側室のところに渡るだけではなく、昼間には大奥の奥女中たちの部屋のあたりをさまよい歩き、「イイ女がいないか?」「何かェロい情報はないか?」とチェックして回っていたなんて話もあります。
どこまで史実かはわかりませんが・・・
ある時、奥女中たちが、大奥一巨漢の女中の事を・・・
「あの娘が妊娠したら、あの太鼓腹はどうなるんだろう?」
「さらに大きくなるのかしら?」
と噂話をしているのを聞いて、早速、その巨漢の女中を寝所に呼び出して手をつけた・・・なんて逸話も残っています。
ところで、世継ぎを絶やさないためとは言え、そんな多くの子供を作った以上、産ませっぱなしというワケにはいきません。
55人のうちの、ほぼ半分の25人ではありますが、成長したあかつきには、それこそ、三者面談&進路相談・・・その先の見の振りかたを考えてあげなければ・・・
しかし、質素倹約が失敗した反動で、生活は贅沢三昧。
さらに、その後は賄賂に始まる腐敗政治が横行し、幕府の財政は火の車となり、いくら自分の子供とは言え、そうやすやすと新しい大名家を作るわけにもいかず、男の子は他の大名の養子に、女の子は大名に輿入れに・・・
確かに、将軍の子供となると、養子として迎える大名にとっても名誉な事ではありますが、その大名にも何人かの子供がいて、すでに嫡男がいる場合は、けっこう迷惑な話で、中にはムリヤリ押しつけられたような人もいるとか・・・。
ただ、これには、大名たちと血縁関係を結ぶ事によって、より強固な関係づくりを計ろうとした、あるいは、そうやって経済的な負担を与えて、将軍家に反発できないようにした・・・という見方もあるようですが、もはや、傾きかけた幕府には、あまり効果がなかったみたいです。
・・・で、結局、25人の子供の中の次男である徳川家慶(いえよし)が、彼の後を継いで第12代将軍となり、「オヤジに続け!」とばかりに励みまくり、果ては父親の側室にまで手を出しながら34人の子供をもうけたのですが、その中で成人したのは、たった一人・・・それが、昨年の大河ドラマで、篤姫のダンナとなった第14代将軍・徳川家定です。
そして、ご存知のように、家定には、子供は生まれずじまいです。
天保十二年(1841年)閏1月7日、その69歳の生涯を閉じた家斉さん・・・一橋家のために、55人もの子供を作りながらも、結局、その一橋家は、後継者がいなくなり徳川慶喜(よしのぶ)という水戸家からの養子をもらい、その慶喜は第15代将軍となって徳川幕府の幕を引く事になります。
なんとも皮肉な事です。
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コメント
家斉さんの将軍就任自体かなり怪しい噂が付き纏ってますからねぇ。家治さんの嫡男…家基さんの不可解な死。田安家の実質的後継者であった松平定信の急な白河藩との養子縁組など、明らかに家斉さんサイドによる…他の将軍後継候補の蹴落とし工作と見られる行為が多々有りますからね。そんなにしてまで就任した将軍職、そして直系の子孫への継承を願って励んだ子作りも、結果はindoor-mama.さんの仰る通りになったんですから、これは皮肉と言うより家治さん家基さん親子、また田安家を追われ将軍職に就けなかった定信などの祟りだったんじゃないかと思えて仕方有りません。
投稿: マー君 | 2009年1月 7日 (水) 10時03分
マー君さん、こんにちは~
>祟り・・・
言えますね。
松平定信は相当恨んでたみたいですし、家基さんに関しては、家斉さん自身が、その法要に欠かさず使いを出しているという後ろめたさ丸出しの態度ですから・・・
ご本人にも、心当たりがあったんじゃないでしょうか?
投稿: indoor-mama | 2009年1月 7日 (水) 10時28分