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2009年1月31日 (土)

最後の斬首刑で役目を終えた山田浅右衛門

 

明治十二年(1879年)1月31日、強盗殺人で逮捕されていた高橋お伝への死刑が執行されました・・・これが、日本で最後の斬首刑となります。

・・・・・・・・・

高橋お伝の事件のあらましは、一昨年の1月31日に書かせていただいた【高橋お伝】のページへ>>)のですが・・・上記の通り、このお伝は、日本の歴史上、最後の斬首刑となった人です。

以降、明治十三年(1880年)には刑法で「死刑ハ絞首ス」・・・と、絞首刑と定められ、さらに明治十五年(1882年)の1月1日に新刑法で斬首刑が全面廃止となります。

歴史好き&時代劇好きのかたなら、小耳に挟んだ事もおありかと思いますが、この斬首というのは、非常に難しい・・・

そもそも罪人の処刑というのは、本来は役人の仕事なのですが、この斬首に関しては、よほど剣の腕が立つ人がやらないと、かえって罪人の苦しみを長引かせる事にもなり、本人のためにもならないですし、また、残酷な話ですが、この時代はさらし首という場合もあり、その時は、台に乗せやすいという事も考慮して斬らねばならないという使命も帯びていて、かなりの技術が必要なのです。

実は、江戸時代は1600年代の終わりから、この明治の最後まで、江戸時代の約200年を通じて、この役目を代々に渡り、一手に引き受けていた一家があったのです。

つまり、その方々も、この高橋お伝の処刑を最後に、その役目を終えた事になります。

それは、山田浅右衛門(あさえもん)・・・ただし、この山田浅右衛門という名は、一人の人の名前ではなく、家業を代々受け継いだ人が名乗る名前で、江戸を通じて8代・・・つまり、8人の山田浅右衛門さんがいます。

もともとは、剣術の腕に秀でていた初代・山田浅右衛門貞武(さだたけが、「将軍家御試御用(しょうぐんけおためしごよう)という、将軍家の新品の日本刀の切れ味を試す、いわゆる「試し斬り」の役目を仰せつかっていたのですが、この試し斬りも、本当に正確な切れ味を判断するためには、実際に人体を斬ってみなければ判断できないのだそうで、当時の貞武さんは、すでに処刑された罪人の遺体を貰いうけて斬っていたという事らしいです。

しかし、いくら罪人の遺体とは言え、やはり人を斬る仕事ですから、その役目は、幕府の正式の役目とは認められず、身分は浪人扱いでたいへん低いものでした。

やがて、2代目の吉時(よしとき)の頃から、試し斬りだけではなく、罪人の斬首も担当するようにと奉行所から依頼されるようになるのですが、それは、上記のように、斬首という仕事が大変難しい専門職である事から、同じように剣の腕が確かでないとできない試し斬りという仕事をこなしている山田家に・・・という事のようです。

ただ、それでも身分は浪人のままではありましたが、やはり、誰もが敬遠する仕事という事で、報酬はかなり良かったみたいですね。

しかも、試し斬りのほうの仕事もありますから・・・こちらは、将軍家だけでなく、大名や旗本からも頼まれ、高価な日本刀を鑑定するわけですので、その謝礼というのが、かなりの金額になるのは想像できます。

おかげで、山田家は、代々裕福な生活ができたわけですが、そのぶん、常に剣の腕を磨いておかなかればならず、さらに、辞世の歌を詠む者がいれば、その心情を理解し、配慮するために、俳句や和歌などの極意も習得しておく必要もあり、しかも、この役目は日本中で山田家ただ一つの独占営業・・・という、極めて特殊な家柄だったのです。

中でも、第7代・吉利(よしとし)という人は、その鑑定眼も鋭く、剣の腕もバツグンで、この吉利さんの代の時に山田家は最も隆盛を極めているのですが、このかたは、あの安政の大獄(10月7日参照>>)での橋本左内(10月7日参照>>)吉田松陰(10月27日参照>>)の処刑を執行した人でもあります。

・・・で、今回の高橋お伝の斬首を担当したのは、吉利の三男・吉亮(よしふさ)という人。

彼は、父の吉利に連れられ、12歳で初めて刑場に入って以来、兄弟の中では最も多く刑の執行を担当し、8代目に代わる働きをした人なのですが、山田浅右衛門の名は、兄である長男の吉豊が継いでいるので、研究者によっては、彼を9代目としたり、閏8代目、あるいは裏8代目と呼ぶ人もおられるようで、その解釈はまちまちです。

明治七年(1874年)に8代目・吉豊の職が解かれた後も、しばらくは、役目を引き継いでいた吉亮が、斬首刑が廃止となった後に、昔語りとして山田家の事を語った事で、それまでは、あまり知られていなかった闇の部分も明らかになりました。

そんな山田家では、毎晩のように宴会が開かれいたそうで、それも、ハンパない騒ぎっぷりの大宴会だったようですが、近所では、やはり、仕事が仕事なだけに、「山田家では夜な夜な宴会が開かれてるけど、あれは、怨霊にとりつかれへんように夜通し大騒ぎしてんねんで~」などとウワサされていたのだとか・・・。

吉亮さんの証言では、毎夜ではないにしろ、しょっちゅう宴会が開かれていたのは確か・・・。

それは、やはり役目とは言え、彼らも人の子・・・その日の夜は、興奮して眠れないのだそうで、どうせ眠れないなら、気を鎮めるためにも、思いっきり飲もうという事だったようです。

泉岳寺への月に一度のお参りも欠かさなかったようですし、何ヶ所ものお寺に寄付をしたり、慰霊のための供養塔を建てたり、あるいは、浮浪者を自宅に連れ帰ってお風呂に入れて食事をさせて、古着や現金をプレゼントしたり・・・というような事も、いかに山田家が、その精神を保ち続けるのが大変だったかを物語っているでしょう。

そんな山田家の家業継承の最後の人となった吉亮さん・・・とにかく、最後の仕事を終えられて、やっとこさ、ホッと、肩の荷を下ろす事ができたのかも知れません。

ただし、吉亮さんの証言によれば、新刑法で斬首刑が廃止される半年前の7月24日に、彼は最後の仕事をしたという事なので、ひょっとしたら、高橋お伝の後にも、まだ、あったという事なのかも知れませんが、一応、通説では、明治十二年(1879年)1月31日最後の斬首刑となっていますので、この話題を、本日書かせていただきました。
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2009年1月30日 (金)

西南戦争の西郷隆盛に勝算はあったか?

 

明治十年(1877年)1月30日、西郷隆盛が創設した鹿児島の私学校の若者が、政府の火薬庫を襲撃しました。

・・・・・・・・・・

明治六年の政変・・・この征韓論(10月24日参照>>)に破れて、鹿児島に戻った西郷隆盛が見たものは、武士の特権を奪われ、幕府からの(ろく・武士の給料)もなくなって、貧困にあえぎながら不満をつのらせる士族(元武士)たちでした。

なんせ、彼らは、あの戊辰戦争の先頭に立って、命がけで戦った薩摩の武士たち・・・なのに、徳川幕府を倒して得た新政府では、恩賞どころかリストラされちゃったわけですから、「何のために必死で戦ったんだ?」ってなるのは当然です。

そこで、西郷さんは、「彼らが変な方向へ暴走しないようにするためには、ちゃんとした軍事教育が必要だ」と、私学校を創設したのです。

しかし、そんな鹿児島の軍事力は、政府にとっては脅威となりますわな。

よって、政府は、スパイなんかを派遣して、水面下でなんやかんやと、私学校へ探りを入れるわけですが、そんな行為は、逆に私学校の若者から見ると、いかにもアヤシイ・・・当然、不審を抱くわけですが、そんな中、政府は、鹿児島県内にある政府の火薬庫から武器・弾薬を運び出そうとします

それも、鹿児島県に届出もせず、深夜にこっそりと・・・

それが、私学校の生徒に火をつけちゃいました!

明治十年(1877年)1月30日・・・積み替え真っ最中の政府の火薬庫を、私学校の生徒たちが襲撃するという事件が勃発します。

これが引き金となって、西南戦争へと突入するので、この火薬庫襲撃事件を以って西南戦争の勃発・・・という事になるのですが、すでに以前の【西南戦争・終結】のページ(9月24日参照>>)で、その原因となるこの事件の事を書いてしまったもので、ここまでの内容が、ほとんど、そのページとかぶってしまって申し訳ありませんです。

ところで、この戦いにおもむく西郷さん・・・その心の内に勝算はあったのでしょうか?

結論から言わせていただくと・・・おそらく、勝算は無かった・・・いや、勝とうとは思っていなかったのではないか?と思います。

それは、王政復古の大号令(12月9日参照>>)から、戊辰戦争の前半部分の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと向かう幕末期の西郷さんの戦いかたと、この西南戦争の戦いかたとが、あまりにも違う気がするからです。

自らを官軍に・・・そして、幕府を賊軍にしてぶっ潰すために、義理人情に厚い西郷さんとは思えない、見事なまでのゲリラ作戦を展開し、幕府側から手を出させるように仕向け(12月25日参照>>)、さらに江戸城をめざして東へ向かった・・・あの手腕はどこへ?と言いたくなるほどの西南戦争の展開は、やはり、勝つ気がなかったのだろうと思わせます。

その最たるものが、「熊本城を経て陸路での東上する」という作戦・・・先の西南戦争・終結のページでも書かせていただきましたが、この時、この陸路での東上の他にも、「軍艦で海路を進み東京か横浜に上陸する」、あるいは「海路と陸路の二手に別れる」という作戦も、戦争前の作戦会議では出ていたはずです。

なのに、陸路で、しかも、熊本城を制圧して・・・という作戦に決定します。

もちろん、この西南戦争は、もともとは桐野利秋ら幹部たちがイケイケムードで、西郷さんはそんなに乗り気ではなく、結果的に、総大将に担ぎ上げられただけなのかも知れませんが、たとえ、担ぎ上げられただけだとしても、戦う以上、その最高責任者は総大将である西郷さんです。

作戦会議でどのような意見が出ようと、最終決断は、総大将の手にゆだねられているわけですから、この陸路での東上&熊本城攻撃は、西郷さん自身が決断を下したはずです。

しかし、この陸路での東上&熊本城攻撃は、後に、あの板垣退助「西郷、兵を知らず」と言わせるくらい愚策・・・失敗の作戦なのです。

それは、あの関ヶ原&大坂の陣徳川家康の思惑にさかのぼります。
(得意なほうに持って行こうとしていると思ってますね(*´v゚*)ゞ当たり!)

関ヶ原で西軍につきながらも生き残った大物は・・・そう、周防(山口県)毛利薩摩(鹿児島県)島津です。

この二つは、当時の家康にとって、最も気をつけなければならない相手・・・。

やがて、大坂の陣で豊臣を滅ぼした家康は、大坂城を幕府直轄として、西方への睨みをきかせる場所とした事は、先日の【江戸時代の大坂城】のページ(1月23日参照>>)でも書かせていただきましたね。

そこには、最も忠実で最も優秀な人材を配置した事も・・・。

そのページでも書かせていただいたように、家康の開幕当時は、中国・四国地方から西の譜代大名のお城は福山城ただ一つだったのを、秀忠家光→・・・と代々続く中、お取り潰しや転封をくりかえし、徐々に、譜代大名、あるいは、外様の中でも徳川家に忠実な大名の城へと変えて行き、徳川幕府をより強固なものにしていった事がわかります。

その典型が、熊本城・・・熊本城は、あの加藤清正が造った天下の名城・・・。

その城のすばらしさと重要性は、家康も、そして代々の将軍も熟知しています。

そして、その加藤家をぶっ潰して、熊本城を守らせたのは、外様の中でも最も徳川家に忠実で信頼のおける細川家・・・そうです、この熊本城は、薩摩の島津を封じ込めるための城だったのです。

聡明な西郷さんなら、そんな事はとっくの昔にご存知であろうところを、あえて、熊本城を制圧した上での陸路での東上・・・

ひょっとしたら、西郷さんにとっての「勝ち」は、政府を倒す事ではなく、政府をただす事だった??

そのためには、、「我々は反乱軍ではなく、政府の非を正しに行く」という意味での、正々堂々とした行軍をして見せ、政府に一泡ふかせる事・・・誰もが、薩摩のための最前線だと知っている熊本城を、あえて制圧してやろうと思ったのかも知れません。

ただ、かの火薬庫襲撃事件の直後、2月5日に開かれた会議で、自分が総大将となって挙兵する事が決定した時、西郷さんは、周囲にいた幹部以下150人の同志に・・・
「おはんたちがその気なら、おいの身体は差し上げ申そ」
と、言ったのだとか・・・

ひょっとしたら、正々堂々と、かつ政府に一泡ふかせるためには、その命を賭けなけらばならない事も、とっくにご存知だったのかも知れませんね。

・‥…━━━☆

この後、いよいよ鹿児島を出発する薩摩軍のお話2月15日のページでどうぞ>>
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2009年1月28日 (水)

未だ謎多き~生類憐みの令

 

貞享四年(1687年)1月28日、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉によって、犬だけだった『生類憐みの令』が、牛馬にまで拡大されました。

・・・・・・・・・・

徳川綱吉生類憐(あわれ)みの令・・・

この法令は、『生類憐みの令』という一つの法令ではなく、実は「犬猫」「牛馬」やと、別々に発令されていた「覚」と呼ばれる物だったのですが、これがいくつもあってややこしいので、現在では全部まとめて、『生類憐みの令』と呼ぶ・・・という事は、2007年1月10日の綱吉さんのご命日の日のページ(そのページを見る>>)に書かせていただきました。

もちろん、そのおかしな法令のおかしなエピソードや、今では、少し見直されている事もそのページに書かせていただいたんですが、この何回にも分けて発令された法令・・・私が、今も愛読している学生時代の日本史・副読本には、貞享四年(1687年)に発令されたとなっています。

発令した、その理由も、世継ぎの徳松が亡くなった後に、子供に恵まれなかった綱吉が、「後継ぎが生まれないのは、前世で殺生をしたせいで、子供が欲しいなら、殺生を憎み、生き物を大切にしなさい」という僧・隆光(りゅうこう)の話を信じて・・・と、確かに教わりました。

しかし、今の歴史教科書では、最初の発令は貞享二年(1685年)となっているようで、まさに歴史は常に塗り替えられるという事を実感させられます~。

ところが、最近はもっと研究が進んで、さらに以前・・・どうやら、天和二年(1682年)に、すでに発令されていた形跡があるようで、そうなると、綱吉の息子・徳松が亡くなったのが天和三年なので、その時点では世継ぎは健在という事に・・・しかも、その年には、隆光も、まだ、長谷寺にいて江戸には来ていない。

・・・となると、発令された年号だけではなく、その理由まで、再検討の余地がありそうです。

とりあえず整理してみますと・・・

まずは、貞享四年(1687年)1月28日発令された覚は、
「惣(すべ)て、人宿(ひとやど)または牛馬宿そのほかにも、生類煩い重く候えば、いまだ死なざるうちに捨て候よう、あらあら相聞え候。右のふとどきの族(やから)これあらば、きっと仰せ付けらるべく候。」
と、有名な原本が残っている、また、この年に一番多くの生類に関する覚が出されている事から、以前は、「生類憐みの令=貞享四年(1687年)」とされていたのですが・・・

しかし、それ以前の貞享二年(1685年)の7月14日には、
「先にも令せしごとくならせ給ふ御道へ犬猫出るとも苦しからず。何方に成らせ給ふとも今より後つなぎおく事あるべからずとなり」
とあり、今ではこの「犬猫を道に出しても良い、つないではいけない」というコレが最初の発令という事で、「生類憐みの令=貞享二年(1685年)という事になっています。

ただ、それ以前の天和二年(1682年)の段階で、犬を虐殺して死刑になった人がいるらしく、この時、すでに、生類憐みの令の先駆けとも言える法令が出ていたのではないか?という事で、今では天和二年(1682年)の正月から・・・という考えに傾きつつあるようです。

さらに、この生類憐みの令の評価についても、少し変わりつつあります。

上記の文面を見ていただけばわかる通り、「人宿」「牛馬宿」というように、生類の中には人も含まれているんですよね。

また「いまだ死なざるうちに捨て・・・」とありますが、当時は、未だ貧乏ゆえか、病人を捨てたり、子供を捨てたり・・なんて事が頻繁に行われていて、宿なども、病気になると追い出されたり、もちろん、武士の「斬り捨て御免」もまかり通っていましたし、牛馬に関しては、大量の荷物をムリヤリ運ばせたりという事もありました。

その現実と、それを取り締まろうとする上記の文面を見る限りでは、まったく変な法令だとは思えません。

その観点から、最近では、本当の生類憐みの令は、言われているような悪法ではなく、後世の人間がオーバーに書きすぎているんじゃないか?という見方も出てきているようです。

理由に関しても、「子供が欲しいから」ではなく、「仏教信仰によるもの」というのが主流になりつつあります。

ただ、いくつも出された覚を、順々にたどっていくと、徐々にエスカレートしていく感も否めません。

同じ貞享二年(1685年)の7月には、
「犬だけでなく、生類には慈悲の心を持って寛容に・・・」
さらに元禄四年(1691年)10月になると
「へびつかいをはじめ犬・猫・ネズミに至るまで、芸をしこんで見世物にするな」と・・・

しかも、現実に、子供でも鳥を殺して斬殺された場合もあるし、犬を殺して死罪になった人が数多くいたわけですし、例の、広大な犬小屋・・・いや、お犬様屋敷もあったわけですから、やっぱり、「何かおかしい」という気持ちは拭えませんねぇ。

それに、確実に生類憐みの令が実行されていたと思われる貞享四年から数えても、綱吉が亡くなるまでの23年間もの長きに渡って・・・誰も、彼を止められなかったんでしょうか?

この頃の綱吉のブレーンと言えば、後に老中となる御用人・柳澤吉保と勘定奉行の荻原重秀・・・実は、この二人、生まれながらのエリートではなく、低い身分から綱吉に気に入られて出世してきた人。

つまり、綱吉に嫌われでもしたら、せっかく築いた地位が崩れる可能性アリの二人なのです・・・そりゃ、文句言い難いですわな。

ところで、その綱吉が亡くなった後、廃止となった生類憐みの令・・・当然、その犬小屋も廃止になったわけですが、中にあらしゃったお犬様がたは、どうあそばしたのか?

江戸では、収容されて犬たちは、小屋から開放されて自由の身になりましたが、今まで締め付けられていた庶民たちは、ここぞとばかりに石を投げたりして憂さ晴らしをしたのだとか・・・。

ただ、逆に、そんなに締め付けられていなかった農村の人々が、もらって帰ったというほのぼの話もあるそうです。

それよりも大変だったのは、幕府の要請で犬の飼育にあたってた人たちです。

なんと、それまで受け取った養育費を返還するように命じられて、一瞬にして借金まみれになった人もいたのだとか・・・こりゃヒドイ!

現在の中野区立歴史民俗博物館には、この時の借金を48年かかって、幕府に返した人の証文が残っているそうなので、この法令の開始年数や是非はともかく、少なくとも実際に、迷惑をかけられた人がいたという事だけは、確固たる事実と言えるでしょうね。
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2009年1月27日 (火)

将軍・源実朝~暗殺事件の謎・パート2

 

建保七年(1219年)1月27日、鎌倉幕府・第3代将軍の源実朝が、鶴岡八幡宮にで、甥の公暁に暗殺されました。

・・・・・・・・・・・

昨年のこの日にも書かせていただいた源実朝(みなもとのさねとも)暗殺劇・・・その経緯は、昨年のページで見ていただくとして(2008年1月27日を見る>>)、そのページでも書かせていただいたように、鎌倉幕府の正史『吾妻鏡(あづまかがみ)が、亡き2代将軍・源頼家(みなもとのよりいえ)(7月18日参照>>)の遺児・公暁(くぎょう)(2013年1月27日参照>>)怨恨による単独犯とするこの事件には、おそらく黒幕がいて、それは、時の執権・北条義時か?三浦義村か?、はたまたアガサ・クリスティの小説のように有力御家人・全員なのか?

・・・てな事を書かせていただきましたが、私の個人的見解としましては、おそらくは、義時&義村の共犯ではないか?と考えているのですが・・・。

まずは、実行犯・公暁の行動です。

彼は、鶴岡八幡宮で実朝を襲った後、その首を持って自宅に戻り、食事をします。

この時、公暁は、食事の最中、かたときもその首をはなさず、首を小脇に抱えたまま食事を済ませたという事で、かなりの興奮状態だった事がわかります。

その後、彼は、一通の手紙を書き、それを使者に預け、義村のもとへ届けさせます

その手紙には・・・
「今日から、俺が将軍や!準備せぇや」と・・・

受け取った義村は、「ただ今、迎えの者をさしあげます」と返答し、公暁も、自宅にて、その迎えを待つのですが、いくら待っても迎えは来ず、しびれを切らした公暁は、自宅を出て、雪の降る中、ひとり、義村の邸宅へと向かいます。

すると、向こうから武士の一団が・・・
「おぉ・・・迎えが来た!」
と、思った瞬間、その武士の一団は公暁を取り囲み、刀を抜きます。

武士たちに応戦しながら、何とか切り抜け、先を急ぐ公暁・・・それでも、まだ、武士の一団が義村の配下とは思っていなかったようで、何とか彼らをまいて、必死に塀を乗り越えて、義村の屋敷に入ろうとしたところを追いつかれ、その邸宅の前で息絶えたのです。

この公暁の行動を見る限り、義村との約束ができていたとしか考えられません・・・つまり、黒幕は三浦義村・・・。

しかし、そうなると、徹底的におかしな事が・・・それは、もし、義村が黒幕であったのなら、義時が、それに気づかない事は考えられません。

現に、ここまで公暁の行動がバレちゃってるわけですから・・・ところが、義村には、お咎めどころか、疑いすらかけられていません。

本当なら、この日は、義時自身が実朝に付き添うはずだったわけで、仲章と交代しなければ、将軍殺害どころか、自分が殺害されてた可能性があるのですから、もし、義時が潔白であるなら、これ幸いと義村の追い落としにかかる事もできるはずです。

ならば、やっぱり北条義時が黒幕?

いや、それなら、公暁が義時だと思って、実朝のそばにいる仲章を斬ったというところのがつじつまが合わなくなってきます。

ただ、公暁と義時の間に密約ができていて、直前になって付き添いを交代する事も了承済みなら、わざと仲章を斬ったという事になりますが、それなら、そんな秘密を知る公暁を、わざわざ義村のもとに走らせたりはしません・・・さっさと、殺してしまわないと、秘密がバレてしまいます。

つまり、二人ともが実朝の暗殺を知っていたのでは?

もちろん、この時代に最も力のある義時と義村の二人が黒幕なら、もはや、他の御家人は見て無ぬふりをするしかありませんから、結果的には、全員が?・・・という可能性も・・・。

ここで、注目したいのは、殺された実朝自身の生前の行動です。

実朝は、この3年前の建保四年(1216年)、にわかに(そう・中国)に渡る」と言いだし、大船を建造しています。

宋から来た僧・陳和卿(ちんなけい)に、「あなたは、私の前世で師匠だった」とおだてられての行動だとも言われますが、当の義時や、母の北条政子に猛反対されたにも関わらず、その反対を押し切って船を造らせています(11月24日参照>>)

彼は、どうしても宋へ行きたかった・・・というより、この国から逃げたかったような気がしてなりません。

結局、その船は大きすぎて、海に浮かべた直後に沈んでしまい、渡海の計画はそのままになってしまうのですが・・・いったい、実朝は何から逃げたかったのでしょうか?

やがて訪れた建保七年(1219年)1月27日・・・その日の朝、家臣が実朝の髪をセットしていたところ、櫛にまとっている髪を一筋取った実朝は、「記念にせよ」と、その者に渡したのだとか・・・

やがて、したくを整え、式典に出るために庭に降り立った実朝は、庭に立つ梅の木を見つけて・・・
♪出てゐなば 主なき宿と なりぬとも
  軒ばの梅よ 春をわするな ♪

きっと、実朝は、すでに、ここに自分の居場所がない事を知っていたのでしょう。

武士団の合議制によって、すべての事項を決定する鎌倉幕府には、将軍はいらないのだと・・・。

家臣であるはずの御家人という敵に、周囲を囲まれた孤独な将軍は、この春の梅を見る事なく28歳の生涯を閉じ、庭の梅の木はあるじを失いました。

同じ日に、20歳で死んだ公暁・・・この推理が正しければ、彼もまた被害者という事になります。

公暁さん、どうせ密約を交わすなら、実朝と交わしてほしかった・・・本来なら、同じ頼朝の血を分けた最も信頼できる相手だったはずなのに・・・残念です。
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2009年1月26日 (月)

泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い

 

文禄二年(1593年)1月26日、文禄の役で、宇喜多秀家率いる大軍が、漢城北部の碧蹄館で、明&朝鮮軍と激突した『碧蹄館の戦い』がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・

大陸への野望か?老人の暴走か?

今以って、その理由が様々に取りざたされる豊臣秀吉朝鮮出兵・・・(3月26日参照>>)

文禄元年(1592年)4月13日の夜明け頃、釜山(プサン)に上陸した秀吉軍は、その昼には釜山城を攻略し、首都・漢城(ハンソン・現ソウル)を目指して北上・・・(4月13日参照>>)

当初は、朝鮮王朝に対して不満を持つ朝鮮人自身の協力もあって、3日後には慶州(キョンジュ)を攻略した加藤清正の2番隊を筆頭に、別働隊で動く小西行長の2番隊・黒田長政の3番隊が、破竹の勢いで進攻します。

Bunrokunoekikankeizucc↑画像をクリックすると、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

危険を感じた国王は、4月30日に漢城を脱出し、高麗時代の古都・開城(ケソン)へと向かいました。

その後、5月2日の夕方には、小西隊が漢城への無血入城を果たし、まもなく加藤隊も入城し、一方の国王はさらに北上して平壌(ピョンヤン)を目指しました。

翌日には、漢城を出て、さらに北上する小西隊や黒田隊と別れて、北東を目指した加藤隊は、一時は、国境を越えてロシアに迫る勢いでしたが、押されっぱなしの朝鮮王朝側も、ここらで一つ、反撃に転じます

5月7日、李舜臣(イスンシン)の率いる海軍が、巨済島(コジェド)沖に停泊する日本軍の船団に攻撃を仕掛けたのを皮切りに、それに同調した義兵が、陸上の各地でゲリラ戦を展開します。

戦況の変化に加えて、母・なかの危篤の知らせを聞いた秀吉は、自らの大陸への出陣を中止し、一旦京都へ・・・(11月7日参照>>)、代わりに、石田三成増田長盛(ましたながもり)大谷吉継(よしつぐ)奉行が朝鮮半島に向かいました

8月7日、奉行らを交えて漢城で開かれた軍儀では、「これ以上無理な北上はせず、漢城の防衛に重点を置くべき」との意見が大半を占め、これを受けて細川忠興(ただおき)が漢城を出陣・・・10月には晋州(チンジュ)を取り囲みます。

一方、すでに平壌まで北上していた小西行長は、8月29日、明国(みんこく・中国)の使者・沈椎敬(しんいけい)和睦交渉に入っていました。

沈椎敬が、和睦の条件を北京にいる皇帝に伝えるというので、その間、休戦に入っていたのですが、これが彼の計略で、翌・1月、休戦中の小西隊を、明&朝鮮連合軍の大軍が、いきなり襲撃するのです。

不意の攻撃を受けて、やむなく撤退する小西隊は、とるものもとりあえず、後方にある鳳山(ポンサン)へと退却するのですが、ここを守っていたはずの大友義統(よしむね・大友宗麟の息子)は、すでに逃亡し、城はもぬけの殻・・・しかたなく小西隊も漢城まで戻りました

もはや、漢城の目の前までの敵軍の南下を確認した秀吉軍・諸将は、その目標を、漢城の徹底防衛一本に絞ります。

かくして文禄二年(1593年)1月26日宇喜多秀家率いる2万の軍勢が、漢城の北方にある碧蹄館(ビョクジェグァン)に布陣し、今後の戦況を左右する起死回生の一戦に賭けたわけです。

一方の明&朝鮮連合軍も、最前線である開城から4万の大軍を出陣させます。

前日から続く雨の中で繰り広げられた死闘は、何とか宇喜多隊が勝利し、連合軍は平壌へと撤退するのですが、もはや勝利した側にも疲れの色が濃く、追撃する力もありません。

さらに、先の細川隊が挑む晋州城も落せずじまいで、戦況の膠着(こうちゃく)状態が続く中、やはり、徐々に、秀吉軍にのしかかってくる問題となるのが兵糧です。

腹が減っては何とやら・・・もはや、兵士の士気もあがらず、漢城からの撤退も時間の問題で、城内は和睦ムード一色

そこで、行長を中心に和睦交渉が進められ、やがて、明の講和使節が、行長と三成に伴われて日本へとやって来る事になるのですが・・・。

ご存知のように、一旦和睦は成立するも、慶長元年(1596年)に再び・・・という事になるのですが、そのお話は、2度目の朝鮮出兵が終わりを告げる11月20日のページでどうぞ>>
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2009年1月25日 (日)

世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平の最期

 

平治二年(1160年)1月25日、平治の乱で敗れた源氏の棟梁・源義朝の長男・悪源太(源)義平が京都の六条河原で斬首されました。

義平の斬首の日に関しては21日説もありますが、とりあえず今日書かせていただきます。

・・・・・・・・・・・・

源義平(みなもとのよしひら)は、源氏の棟梁・源義朝(みなもとのよしとも)長男・・・つまり、鎌倉幕府で有名な源頼朝(みなもとのよりとも)お兄さんという事になります。

一番下の弟・義経の事を九郎義経(くろうよしつね)と呼ぶ事でもおわかりのように、義朝には、9人の息子がいたわけですが、その中で、父に従って平治の乱の参加したのは、この長男の義平、次男の朝長(ともなが)、三男の頼朝、そして四男の義門(よしかど)の4人です。

ちなみに、その下は・・・五男の希義(まれよし)、六男・範頼(のりより)、七男・今若(全成)、八男・乙若(義円)、九男・牛若(義経)と続きますが、この平治の乱の時には、三男の頼朝でも13歳なので、おそらく、下の5人に合戦はムリって事でしょうね。

・・・で、平治の乱の様子は以前12月9日に書かせていただいた【平治の乱を引っ掻き回した藤原親頼】>>で見ていただくとして、その戦いに負けた義朝は、追手を混乱させるべく、途中で息子たちとは別れて、それそれに逃走するのですが、ご存知のように、父・義朝は、頼りにしていた家臣の騙し討ちによって命を落とします(1月4日参照>>)

次男・朝長は、美濃(岐阜県)山中で落ち武者狩りに遭って討ち取られたとも、負傷して動けなくなり自害したとも言われます。

三男・頼朝は、逃走中に近江(滋賀県)で捕まり、ご存知のように、その後、伊豆に流罪となります(8月17日参照>>)

四男・義門は、合戦自体に参戦していたかどうかも不明なところですが、一時、義朝側が朝廷を占拠した際に官位を賜り、その後に消息不明となっているので、合戦中に討死した可能性が高いと言われています。

さらに下の弟たちは・・・希義が土佐(高知県)に流罪、範頼は公家に、今若&乙若は寺へ預けられ、義経だけは赤ん坊だったため、しばらく母・常盤(ときわ)(1月17日参照>>)の手元で育てられますが、後に、あの鞍馬寺へ預けられています。

・・・と、平治の乱の敗退でバラバラになってしまう義朝一家ですが、本日の主役・長男の義平さん・・・源氏の中ではトップクラスの猛将で、この平治の乱では大活躍を見せる人なのです。

そもそも、関東に領地を持ちながら朝廷にも出向かねばならない立場にある義朝は、ほとんど京都に行ったっきりの単身赴任状態・・・そんな留守をしっかりと守っていたのが、長男の義平なのです。

父・義朝には、義賢(よしかた)という弟がいましたが、兄弟という事は、その義賢も関東に多くの領地を持っていたわけで、お互いに少しでも領地を増やそうと、兄弟の間では境界線争いでのモメ事が頻繁に起こります。

義賢は、京都で帯刀先生(たてわきせんじょう・東宮護衛の兵士長)を努めた事もある武勇の誉れ高い武将でしたが、そんな叔父を相手に、義平は一歩も退けをとらず、父が留守にしている領地を守りぬいていたのです。

ちなみに、この義賢の息子が、後に平家を都落ちさせるあの木曽義仲です(8月16日参照>>)

そして、そんな義平は、とうとう・・・15歳の時、その叔父を倒してしまうのです。

わずか15歳の少年が、その武勇の誉高い義賢を討ち破った事で、義平の猛将ぶりは、まさに都の評判となります。

この時から、彼は悪源太義平(あくげんたよしひら)と呼ばれるようになります。

この「悪」というのは、今イメージする悪いという意味の「悪」ではなく、「恐ろしいほど強い」といったような意味です。

同じような使い方をするもので「鬼」というのもありますが、この「鬼」も、今では「鬼のような人」と言うと、血も涙もない極悪な人という事になりますが、この時代で、しかも武将の形容詞としての場合は、やはり、恐ろしく強いという意味の褒め言葉・・・。

「悪」も同じように強い人への褒め言葉として使われていて、つまりは、「悪=強い」「源=源氏の」「太(太郎)=長男」・・・で、「悪源太」という事です。

それから4年後・・・19歳に成長した義平は、父の右腕となって平治の乱に立ち向かう事となります。

この戦いで、一旦は御所を制圧した義朝たちでしたが、二条天皇後白河上皇平氏側に奪われた(12月25日参照>>)事で形勢は一転・・・平清盛は官軍となってその士気はあがり、平氏の大軍は内裏(だいり)待賢門(たいけんもん)へと押し寄せたのです。

先陣の500騎を従えてやってきたのは、清盛の長男・平重盛(たいらのしげもり)です。

「ここの大将は親頼やと思とったが、違うんかい!俺は、桓武天皇の末裔で太宰大弐・清盛の長男・左衛門佐重盛・・・23歳や!」

それを見た義朝は、義平に・・・
「あれを散らしてこい!」
と、指示・・・義平はわずか17騎で、門へと向かいます。

「そっちの大将は誰や?俺は清和天皇9代の佐馬頭・義朝の長男で鎌倉の悪源太義平・・・武蔵の戦で叔父を討ってから、ただの一度も負け知らずの19歳や!」

名乗りをあげるかはやいか、500騎の真ん中に割って入る義平・・・小者を蹴散らして大将・重盛に迫ります。

形勢不利と見た重盛は、一旦は退きますが、家臣に励まされ再び前へ出ます。

新手の兵士たちの中に、先ほどの重盛を見つけた義平・・・
「うれしい事に、俺は源氏の長男、アンタは平家の長男・・・敵に不足はない。
さぁ、組もう!一騎打ちや!」

19歳と23歳・・・源氏と平家の若き御曹子の一騎打ち・・・しかも、場所は御所・紫辰殿の南庭

平治の乱、一番の名場面です。

Dscn5376ab800 京都御所:紫辰殿・南庭・・・左近の桜が咲いてます

現在の京都御所は土御門東洞院殿なので、もちろん、この時の御所とは違いますが、建物の構造は、ほぼ同じ・・・

紫辰殿の南側には、白砂の広い庭があり、ここには右近の橘左近の桜の二本の樹だけが配され、その他には一本の木も一つの草もありません。

白く敷き詰められた砂の上に、「いざ!組まん!」と向かい合う若武者二人・・・

もう、こうなったら、『平治物語』のこのシーンの、どこまでが事実かなんて事は、棚の上に置いといて、この光景に酔いしれようではありませんか!

右近の橘と左近の桜の間を、7~8度駆け巡りながら追う義平と、ひらりとかわしながら逃げる重盛・・・つがいのアゲハのごとく追いつ追われつ、抜きつ抜かれつ舞い踊る・・・

紫辰殿を背景に、箒(ほうき)の目が美しく立てられた白砂の上を、ワイルドな東国武者が高く飛べば、雅な貴公子が低く構える・・・

カッコイイ~!゙(((*´ε` *)(* ´З`*)))

やがて、義平の勇猛ぶりに、一旦は六波羅へと退く平氏でしたが、なにぶん平氏の多勢に対して、関東に拠点を置く源氏は無勢・・・平氏の軍勢を追って、六波羅近くまでやってきた源氏勢も、疲れは隠しきれず、この状態で平氏側から新手が繰り出されれば、もう、戦う気力もありません。

やむなく、義朝らは東国へ落ちていくのです。

そして、冒頭に書いたように一家がバラバラに・・・

美濃の山中で父と別れた義平は、父から北国へ向かうよう指示されていましたが、やがて、父が暗殺されたという知らせを耳にします。

ここで、義平に従っていた兵士たちも、源氏の棟梁が亡くなったと知るや、蜘蛛の子を散らすように、どこへともなく去り、義平はただ一人となってしまいます。

しかし、さすがは悪源太・・・一人になっても、不屈の闘志は燃え上がるばかり。

「こうなったら、清盛か重盛の首を取ってやろう」と、ゲリラ的暗殺をくわだて、単身、京へと舞い戻るのです。

しかし、その思いも空しく、密告によって、その身柄は拘束され、平治二年(1160年)1月25日、京都・六条河原にて処刑され、その生涯を閉じたのです。

彼は処刑される寸前まで、一旦、御所を制圧した時に、その勢いのまま熊野から帰ってくる清盛を迎え撃つ作戦を、実行できなかった事を悔やんでいたと言います。

処刑執行役となった難波三郎恒房(なんばさぶろうつねふさ)という男が・・・
「そんな、グチんなや~」
と言うと、義平は・・・
「お前・・・ウマイ事、首を斬って、一発で俺を殺さんと、その顔に喰いついたんぞ!・・・ほんで百日後には雷になって殺したる!」

はたして、恒房は、後日、本当に雷に撃たれて死んだのだとか・・・まぁ、あくまで平治物語の言い分なので、アレですが・・・

負けた側ではありながら、むしろ平治の乱のヒーローのようにも思える義平。

歴史にもしもは禁物ですが、彼が京へは戻らず、そのまま生きのびていたとしたら・・・果たして三男(母が正室なので三男だけど嫡男と思われる)である頼朝の鎌倉幕府を、どのようにサポートしていたのでしょうか?
 
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2009年1月24日 (土)

明治に起こった「大逆事件」とは?

 

明治四十四年(1911年)1月24日、前年に発覚した大逆事件の関係者・幸徳秋水ら11名が処刑されました。

・・・・・・・・・・・・

事の起こりは、前年の明治四十三年(1910年)5月25日・・・

宮下太吉(たきち)という人物が、爆発物を所持していたという罪にて長野県で逮捕され、松本署に連行された事にはじまります。

警察の取り調べによって、彼は、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)なる人物らとともに、明治天皇を暗殺する計画をたてていた事が発覚し、6月1日には、その秋水が滞在先の湯河原温泉で逮捕され、その後、8月までに次々と仲間が逮捕・・・最終的に26名が、大逆罪で裁判にかけられる事になりました。

この大逆(だいぎゃく)というのは、皇室に対する罪という意味で、刑法にある「天皇、大皇太后、皇后、皇太子、または皇太孫に対し、危害を加へ、又は加へんとしたる者は死刑に処す」という条文の「危害をくわへんとしたる者」という部分が適用されたので、今後、この事件を大逆事件と呼ぶ事になります。

やがて、12月10日に大審院(最高裁判所)ではじまった裁判は、翌・明治四十四年(1911年)1月18日に、24名に死刑判決、2名に有期刑という判決が下されますが、死刑判決24名のうち半数の12名は、天皇の提言により無期懲役に減刑されました。

かくして、明治四十四年(1911年)1月24日幸徳秋水ら11名が処刑され、残りの1名は翌日処刑されたのです。

この間、裁判は、一般の傍聴も許されない秘密裁判で、しかも再審を認めない一度きりの裁判・・・さらに、判決がらわずか6日で、死刑が執行されているのです。

なぜ、明治政府は、そんなに急いだんでしょう?

それは・・・
後世の歴史家の調査によれば、実際に天皇暗殺計画はあったものの、それに関与していたのは、最初に逮捕された宮下太吉と、菅野スガ新村忠雄古河力作(りきさく)・・・この4人だけだったのだとか・・・。

そして、この4人の中の、菅野スガという女性が秋水の愛人だったという事で、秋水は、この女性から聞いて、暗殺計画なる物がある事だけは聞いていたものの、実行に関しては、ほとんど無関係だったとも・・・

つまり、秋水は計画を知っていた事で関与になるとしても、上記の5人以外は冤罪って事になるのですよ。

実は、彼ら26名は全員が社会主義派・・・この大逆事件は、時の桂太郎内閣が社会主義を倒すための事件だったのでは?と言われているのです。

話は、日清戦争直後の労働運動にさかのぼります。

当時、劣悪な環境で過酷な労働に耐えられなくなった労働者たちが、明治三十年(1897年)に起こったアメリカの労働者運動の影響を受けて労働組合を結成し、一致団結して賃金アップや待遇改善の要求を会社側に行うようになっていたんです。

そんな労働者たちを先導していたのが社会主義思想の人々・・・秋水は、この社会主義派のリーダー的存在だったわけです。

三省堂の国語辞典によれば、社会主義とは・・・
「資本主義の社会を合理的に改革して階級をなくし、勤労階級のために民主的な社会を実現しようとする主義」
・・・だそうですが、この社会主義の思想については、私は語れるほどくわしくはありませんので、そこのところは専門的な知識をお持ちのかたにおまかせするとして、とにかく、この社会主義の思想が、明治政府にとっては脅威だったワケです。

なんせ、明治政府は、「天皇制」という国家体制をとっていますので・・・。

過去には、民衆の手で国王が殺害されるというフランス革命も起こっていますし、実際に、この時、隣国ロシアでは社会主義の高まりで、今にも国家体制が崩れそうな雰囲気をかもしだしていたのです。

しかし、そんな盛り上がりを見せていた社会主義も、日露戦争の勃発(2月10日参照>>)とともに下火になっていくのです。

それは、社会主義派が労働問題よりも戦争反対に力を入れたためでした。

当時、多くの国民が日露戦争に賛成していて、ただただ戦争反対を訴える彼らから、民衆の多くが離れていっていってしまったのです。

しかし、日露戦争が終結すると、再び情勢が変わります。

日比谷焼き討ち事件(9月5日参照>>)に代表されるような民衆運動が盛んになり、一時は鎮圧化されていた労働運動も再開され、各地で大規模なストライキが勃発するようになりました。

この盛り上がりを見て、明治三十九年(1906年)には、社会主義者たちによって日本社会党が結成されますが、彼らが「憲法の許す範囲内での社会主義をめざす」と主張していたため、時の西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣は、彼らに寛容な態度で接していました。

ところが、明治四十一年(1908年)6月、赤旗事件が勃発します。

赤旗事件とは、社会主義派の大杉栄ら数名が、仲間の出獄祝いで、社会主義のシンボルである赤旗を掲げて革命歌を唄ったために逮捕される・・・という、事件自体は、そんなに大きくもない事件だったのですが、これが原因で西園寺内閣が総辞職に追い込まれてしまうのです。

「こんな事件が起こるのも、西園寺内閣が社会主義者に甘いせいだ」というわけです。

そして、この西園寺内閣に代わって登場したのが桂太郎内閣・・・つまり、この内閣は、社会主義を押さえ込む宿命を背負っての船出だったのです。

この大逆事件で、社会主義運動はそのリーダーを失ったうえに、一般の人々からは、天皇暗殺などという恐ろしい事件を起した社会主義思想・・・という目でとらえられるようになり、徐々に社会主義は民衆の支持を得られなくなってしまったのです。

桂内閣にしては、「してやったり」といったところだったでしょうが、今度は、社会主義に代わって、民主主義自由主義の思想が盛り上がり、やがては、大正デモクラシーの時代へと移り変わり、結局は、この桂内閣も民衆の力によって潰される事となるようなのですが、そのお話は、もう少し近代史を勉強させていただいてから、書かせていただく事にします。
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2009年1月23日 (金)

徳川政権・西方の最前線~江戸時代の大阪城

 

元和六年(1620年)1月23日、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の命により、諸大名が大坂城の修築を開始・・・この日から10年の歳月をかけて、徳川時代の大坂城が再築されました。

・・・・・・・・・・・・

「大阪城=豊臣秀吉」のイメージが強い大阪城ですが、このブログでも度々書かせていただいているように、現在の大阪城の石垣や建物(天守閣は昭和の再建)は、あの大坂夏の陣で焼け落ちた豊臣時代の大坂城に土をすっぽりとかぶせて、まったく新しく造り上げた徳川政権による大坂城です(8月18日参照>>)

残念ながら豊臣時代の遺構は、地中に埋まっていて目にする事はできません。

しかし、上記のように、10年にも及ぶ歳月をかけての再築・・・いかに、大坂城が徳川政権にとって、重要な城であったかがうかがえます。

・・・というのも、現在、大阪城天守閣が所蔵する『瀬戸内海・西海航路図屏風』・・・寛永年間(1624年~1643年)の初年に書かれたと思われるこの屏風には、大坂から西の瀬戸内海沿岸に位置する各城が、全部で30ほど描かれているのですが、その中で、譜代大名の城は、岸和田城尼崎城姫路城明石城福山城の5つだけ。

Saikaikourozu800 瀬戸内海・西海航路図屏風:大坂部分

そうです、中国・四国地方より西にある譜代大名の城は、福山城、たった一つ・・・あとは、皆、外様大名の持ち城なのです。

まだ、動き始めたばかりの徳川政権にとって、その外様大名が、いかに脅威の存在であったかは、関ヶ原の合戦にて、多大な恩賞という飴を与えながら、その後、徐々に転封→減封→お取り潰しというムチでしめつけていった事でも明白。

中には、以前、書かせていただいた加藤清正のように、「暗殺されたんちゃうん?」と疑いたくなる人物もチラホラ(6月24日参照>>)・・・その加藤家も、2代目で即、潰されちゃってますし(12月6日参照>>)、あの加賀百万石の前田家だって、常に狙われていた感があります(10月12日参照>>)(前田家は西国じゃないですが・・・(^-^;)

そう、この大坂城は、そんな徳川政権にとって、西国を支配するための重要な拠点だったのです。

土佐2代目藩主・山内忠義が国元の家臣たちに送った元和九年(1623年)8月11日付けの手紙によれば・・・
「大御所様(秀忠の事)が、先日、大坂へ行かれて、お城の縄張り(設計)をイロイロ指示されて、来年には石垣の普請をするようにと、諸大名に命じられた」
・・・とあります。

この年、秀忠は、7月6日から1週間ほど、大坂を視察したという別の記録があるので、手紙の中の「先日」とは、そのいずれかの日にちの事で、この時、諸大名に命じたのは第二期工事の事であると思われます。

ちなみに、余談ですが、秀忠は、この視察を終えて江戸に戻った直後の7月21日に、息子の家光に将軍職を譲っていますので、8月付けの手紙の中では「大御所様」という呼び方になっているんです。

この手紙でもわかるように、将軍自らが現地へ行って指示をするという力の入れよう・・・大阪城に今も残る巨大な城郭も、各大名に寄進させた大きな石垣も、西国の大名たちへ、将軍の圧倒的な力を誇示するためのものでもあったのですね。

Dscn6510a800 大阪城・乾櫓:大阪城の戌亥(北西)の方角を守る櫓・乾櫓は、小堀遠州によって元和六年の第一期工事で構築されたもの・・・千貫櫓とともに、幕末も太平洋戦争もくぐりぬけた大阪城に現存する最古の建築物です。

ところで、そんな大坂城の城主は?

一瞬、考えてしまいますが、あの幕末の動乱の事を思い出すと、すぐわかりますよね。

幕府直轄・・・つまり、大坂城の城主は、江戸にいる将軍なんです。

・・・かと言って、大坂城は、城主=将軍のいない単なる空き城ではありません。

先ほども言いましたように、未だ脅威のタネである外様大名が多くを占める西国を支配するための重要な拠点・・・むしろ、西の最前線とも言うべき存在です。

・・・なので、そこには、特に徳川家と強固な主従関係で結ばれ、かつ力量のある優秀な人材を、江戸にいる老中や幕閣と同等の権力を行使できる存在として配置する事になります。

幕府重役でもある大坂城代、それを支える大坂定番2名京橋口玉造口に配置、さらに、本丸二の丸は、将軍直属部隊の大番2隊加番4名の大名が常に守り、東町と西町の2名の大坂町奉行もいます。

ちなみに、初代の城代は紀伊守・内藤信正さん・・・病気で亡くなられたので、わずか8年間の任務でしたが、その後を継いだ阿部正次さんは、以後22年間の長きに渡って城代を務めています。

そして、これらの人たちが、皆、江戸に居る幕閣と、常に綿密な連絡をとり、連携し、おびただしい量の兵糧と、武器弾薬を保持し、いつでも戦闘態勢に入れる状態にしていたのが、江戸時代の大坂城なのです。

以前、明治維新が成った後の版籍奉還(はんせきほうかん)のところで、江戸時代の日本は、一つの国というよりは、独立国家の集合体のような物だという風に書かせていただきましたが(6月17日参照>>)、そんな江戸時代においても、大坂城は、江戸幕府と直結した特別なものだったわけです。

ただ、さすがに、200年・300年の長期政権が続くと、江戸初期の「いつでも戦闘態勢に入れる」というような緊張は、徐々になくなってくるのですが、それが、再び、重要な拠点として意識されるのが、かの幕末・・・それは、第14代・徳川家茂が、大坂城に入城したあの日から・・・という事になります。

・・・・・・・・・・・・

文中の乾櫓(いぬいやぐら)のくわしい場所は、HPの「大阪城パーフェクト歴史散歩」でどうぞ>>
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2009年1月22日 (木)

豊臣政権の要~大和大納言・秀長の死

 

天正十九年(1591年)1月22日、豊臣秀吉の弟・大納言秀長が51歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・・・

豊臣(羽柴)秀長は、秀吉の生母・なかが、再婚相手・築阿見(ちくあみ)との間にもうけた3歳年下の異父弟(同父の説もあり)と言われています。

永禄五年(1562年)、織田信長のもとで足軽頭に出世した秀吉が、故郷の尾張(愛知県)中村に立ち寄った時に、まだ農民として暮らしていた秀長を、自分のもとで働くよう誘っのです。

温厚でおとなしい性格の秀長は、「自分に戦はできない」と言って断りますが、信長や家康のように、父の代からの家臣を従えている殿様と違って、裸一貫・農民から身を起し、未だ家来と呼べる家来がいなかった秀吉にとって、最も信頼できる家臣は、やっぱ身内・・・半強制的に連れ帰ります。

しかし、そのワリには、「よくもまぁ、こんな身近なところに、ここまですごいサポート役がいたものだ」と思うくらい、秀長は優秀な人物です。

ひょっとして、秀長がいなかったら、秀吉の天下はなかったかも・・・派手なパフォーマンスを好み、時に暴走しがちなほどの個性を持つ兄を、彼は、見事にサポートするのです。

長島一向一揆(5月16日参照>>)では、近江(滋賀県)今浜(長浜)を与えられたばかりで、築城や町づくりに忙しい秀吉に代わって先陣を努め、その後の秀吉の中国平定にもつき従います。

本能寺の変の後の、秀吉の天下分け目となった山崎の合戦(6月13日参照>>)はもちろん、賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)紀州征伐(3月21日参照>>)でも活躍し、但馬・播磨(兵庫県西部)和泉(大阪府)紀伊(和歌山県)を拝領します。

・・・とは言うものの、秀長の、合戦における具体的な活躍ぶりは、あまりくわしくは伝わってはいないのです。

それは、おそらく、常に副将として影に徹していたからかも知れません。

そんな彼が、大将として出陣する時がやってきます。

それが、あの四国征伐・・・長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)との決戦です。

体調を崩していた秀吉に代わって、3万の軍勢の総大将となった秀長・・・四国上陸直後から、破竹の勢いで次々と諸城を陥落させ、最後に残ったのは一宮城

しかし、この一宮城を守るのは、音に聞こえた名将の谷忠澄(たにただすみ)江村親俊(ちかとし)・・・ここで、少しばかり手こずってしまいます(7月25日参照>>)

ちょうど、その時、体の調子が良くなった秀吉は、「ほな、いっちょ、ワシが・・・」と、何やら四国へと出陣する様子・・・

今まで、影に徹してきた秀長・・・ここで、はじめて兄に逆らいます。
「出陣、御無用」
自分に任せてくれと、きっぱりと断るのです。

はたして、まもなく一宮城は陥落し、あの元親は秀吉の臣下となるのです。

ここに、温厚でおとなしい秀長に秘められた強い意志を感じます。

そんな彼だからこそ、個性的な兄と一度も衝突する事なく、猛スピードで駆け抜ける天下人のブレーキとなる事ができたのでしょう。

Kooriyamazyousi800 大和郡山城跡

この四国征伐の恩賞で大和(奈良県)44万石を加増された秀長は、大和郡山城に入り、これで、和泉・紀伊・大和の3カ国を支配する事になるわけですが、ここで、彼の内政手腕が発揮されます。

実は、彼の与えられた土地は、いずれも土豪や寺社勢力の強い場所で、本来ならとても新参者が治めきれないような場所・・・そこを、秀長は見事に、何の問題もなく治めます。

特に、大和郡山(こおりやま)では、本格的な城の改築とともに、城下町の整備を行い、「箱本(はこもと)という自治制度を定めました。

箱本とは、各町にそれぞれの営業独占権や地代免除などの特権を与えるとともに、当番制で町政を仕切る独特の自治制度で、これによって商工業が大いに発展し、現在の郡山の基礎となったと言われています。

わずか6年間の支配だったにも関わらず、今も、地元・郡山に秀長さんのファンが多いのは、そういったところにあるのかも知れません。

やがて、九州を平定し、太政大臣となって豊臣の姓も賜り、名実ともに天下人となった秀吉の政権下で、要となった彼の存在は・・・

『内々の儀は宗易、広義の事は宰相』「私的な事は千利休に、公の事は秀長に頼め」と称されるまでになっていました。

最終的に、従二位・権大納言(ごんだいなごん)にまで昇進した秀長は、これ以降、大和大納言と呼ばれます。

しかし、そんな秀長は、湯治に訪れた有馬温泉で病となり、郡山城に戻っても快復せず、天正十九年(1591年)1月22日、帰らぬ人となりました。

Dainagonduka800 大納言塚:秀長の墓所(大和郡山市)

秀長が、秀吉にとって、いかに重要であったか・・・

彼の死後、わずか3ヶ月で起こったのが千利休切腹事件(2月28日参照>>)

一年後には、朝鮮出兵(3月26日参照>>)

さらに、その2年後に秀吉は、甥・豊臣(羽柴)秀次を切腹に追いやり(7月15日参照>>)、その2年後には、再びの朝鮮出兵(11月20日参照>>)に、長崎でのキリスト教徒の処刑(2月5日参照>>)と・・・。

秀長の死から、わずか6年間で、まるで、タガが外れたかのような秀吉の一連の行動・・・後世の人々が、「秀長がもう少し長く生きていたら、豊臣の滅亡はなかったかも知れない」と思ってしまうのも無理はありません。

現在、その、奈良県大和郡山市にある秀長の墓所:大納言塚の前には、『お願いの砂』という砂が置かれています。

願い事を唱えながら塚の前の砂を持ち帰り、願い事が叶えば返しに来るというその砂・・・これは、その昔、庶民の願い事をしっかりと聞いてくれたという秀長さんに由来する言い伝えなのだとか・・・
その人柄がうかがえるエピソードです。

秀吉を影で支えた、名サポーターの死とともに、豊臣家の悲惨な末路が決定づけられたのかも知れません。

・・・・・・・・・・・・

秀長がその基礎を築いた「大和郡山」の城下町を、本家HPの歴史散歩で紹介しています・・・
よろしければコチラからどうぞ>>
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2009年1月21日 (水)

この日本国のために~薩長同盟・成立

 

慶応二年(1866年)1月21日、長州桂小五郎薩摩西郷隆盛が、坂本龍馬の仲介により会見・・・薩長同盟が結ばれました。
(22日説もありますが、とりあえず今日書かせていただきます)

ちなみに、これを記念?して、今日1月21日は『ライバルの日』、または、『ライバルと手を結ぶ日』という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・・・

時は慶応元年(1865年)5月1日、西郷吉之助(きちのすけ・隆盛)小松帯刀(たてわき)とともに、薩摩藩の船・胡蝶丸(こちょうまる)に乗って鹿児島へやって来た坂本龍馬は、彼らから、実は薩摩が幕府の長州征伐に反対している事や長州との和解を願っている事を聞かされます。

しかし、2年前の文久三年(1863年)に勃発した八月十八日の政変(8月18日参照>>)や、その翌年に起こった蛤御門(禁門)の変(7月19日参照>>)で、朝敵となった長州藩と何度も交戦している天敵状態の薩摩藩には、いまさら和解したいと言ったって、そのつながりはすっかり断たれてしまっているわけで・・・そこで、彼らが目をつけたのが、かの龍馬だったのです。

この頃の龍馬は、すでに閉鎖されてしまった海軍操練所の仲間たちと貿易商社・亀山社中の立ち上げを行ってる最中で、その資金を提供していたのが、薩摩藩の家老の帯刀・・・そして、その亀山社中が銃器や軍艦を売ろうとする相手が、朝敵となった事で外国から武器を買う事ができなくなっていた長州藩・・・。

つまり、龍馬は薩摩藩と長州藩の両方につながる事ができる・・・というわけです。

龍馬は、早速、5月16日に鹿児島を発って、当時、大宰府にいた三条実美(さねとみ)に会いにいきます。

実美は、あの八月十八日の政変で政界から追われた公卿の一人で、その後、長州藩の保護を受けていた人です。

うまく実美に謁見できた龍馬は、西郷や帯刀の思いを切々と伝えるのですが、この時、二人の会談に同席していた東久世道禧(ひがしくぜみちとみ・実美と一緒に政界を追われた公卿)の日記では、この日初対面の龍馬の事を「すばらしい人物」だと絶賛していますので、おそらく、実美の龍馬に対する印象も、たいへんよろしかったものと思われます。

その後、龍馬は、その足で、今は長州藩に身を寄せている友人・中岡慎太郎に会いに下関に行きます。

薩摩と長州を和解させる事には、すでに慎太郎も奔走中(8月6日参照>>)・・・ここで、二人して、いかにて薩摩と長州をくっつけるかの作戦を練ります。

・・・と言っても、薩摩藩はすでに「和解したい」と言ってるわけですから、問題は長州・・・そこで、龍馬がこのまま下関に留まって、実質的な長州のリーダーである桂小五郎(木戸孝允)を説得し、その間に慎太郎が薩摩へ行き、西郷に下関まで来てくれるように頼む・・・という事にしました。

こうして、小五郎に対しても実美と会った時同様、西郷らの意向を切々と伝える龍馬でしたが、それは小五郎にとって、にわかには信じ難い話です。

なんせ、彼が知ってる薩摩の姿は、あの蛤御門で、我が長州に銃口を向ける薩摩なのですから・・・。

それでも、「向こうが下関まで来るから会ってやってくれないか?」という龍馬の必死の説得に、徐々に心動かされる小五郎・・・やがて、ついに承諾します。

一方の慎太郎も、西郷の説得に成功し、西郷は鹿児島を出発するのですが・・・何と、下関を素通りして京都へ・・・。

何だか知らんが、その時、京都に滞在していた大久保一蔵(いちぞう・利通)に、急に呼ばれたんだと・・・「なんじゃ、そら!」と、当然の事ながら、せっかくその気になった小五郎は激怒し、両者会見の話は、一旦、白紙に戻されます。

やがて、設立されたばかりの亀山社中に最初の仕事が舞い込んできます。

薩摩藩の名義でイギリス人貿易商・グラバーから購入した銃器と汽船を、亀山社中の仲介で長州に売る・・・というものでしが、その間にも、龍馬と慎太郎はあきらめず両者の和解のために奔走します。

やがて、和解の重要性を理解している高杉晋作の説得もあって、再び、会見に応じる気持ちになった小五郎・・・両者の会見は、年があらたまった慶応二年(1866年)の1月8日京都の薩摩藩邸にて開始されます(小松帯刀邸の説もあり)

そんな両者の会見の席に、龍馬が遅れて到着したのは1月20日の事でした。

8日から始まっている両者の会見・・・もう、すっかり同盟ができあがってるものと思っていた龍馬は驚きます。

そう、話はいっこうに進展していなかったのです。

お互い席には着くものの、話す内容は雑談ばかり・・・肝心の和解については、会見の中ではまったく話されていなかったのです。

しかも、小五郎は、すでに帰国を決意していました。

「何をやっとんねん!」
と、小五郎を責める龍馬・・・。

すると、小五郎はポツリと言います。
「和解の話は、薩摩から切り出してもらわないと、コチラからはできない」と・・・。

すでに、すべてを敵に回して戦っている長州・・・前の年の9月には、禁裏御守衛総督・徳川慶喜(よしのぶ)の奉請に対して、孝明天皇「長州再征」の勅許(ちっきょ・天皇の許可)も下されています。

このタイミングで、長州側から和解の話を持ちかける事は、「薩摩に泣きついた」的な感じにもとらえられかねません。

たとえ国中が焦土となり、滅亡に至ったとしても、そのプライドだけは譲れなかったのです。

そんな小五郎の態度に、武士の誇りを垣間見た龍馬・・・すぐさま、西郷のもとへ走り、薩摩から和解の話を切り出すように説得します。

結果、再び、西郷・小松と小五郎が会見の席につきます。

自らの心の内を、包み隠さず話す西郷・・・「この国を救うため、薩摩は全勢力を以って長州にお味方し申す」

かくして、慶応二年(1866年)1月21日、急転直下の薩長同盟が成立したのです。
(異説については8月30日の【薩長同盟の龍馬の活躍に疑問?】をどうぞ>>)

・・・が、しかし、その影響はすぐに現れます。

この2日後・・・そう、龍馬が京都・伏見で襲撃された寺田屋事件なのですが、そのお話は、1月23日のページでどうぞ>>
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2009年1月20日 (火)

露と消えた九州独立国家~梶原景時の乱

 

正治二年(1200年)1月20日、鎌倉幕府・開幕をサポートしながらも、源頼朝の死後に幕府を追われた後家人・梶原景時が、非業の死を遂げました。

・・・・・・・・・・

このブログでも、度々登場している梶原景時(かげとき)さん・・・その印象は、あまりよろしくありません。

それは、以前も書かせていただいた通り、源義経をヒーローに描きたい『義経記』『平家物語』では、義経に苦言を呈す敵役として描かれ、鎌倉幕府=北条氏の正史である『吾妻鏡(あずまかがみ)では、目の上のタンコブの極悪人として描かれているため・・・。

しかし、例の屋島の合戦(2月16日参照>>)や、壇ノ浦の合戦(3月24日参照>>)なども、義経が勝ったからこそ奇抜なアイデアでの勝利となりますが、考えようによっちゃぁ、命がいくつあっても足りないような無謀な作戦をルール無用でやっちゃってるワケですから、遠く鎌倉にいる兄・頼朝に、目付けとして派遣されている立場の景時なら、文句の一つも言ってあたりまえです。

北条氏の歴史である吾妻鏡も、頼朝の重臣であった彼を葬り去るために極悪人に仕立てあげなければならないのは当然の事・・・自分たち=北条氏のほうを悪く書くわけありませんからね。

そんな景時さんが、平家物語や吾妻鏡で描かれているような悪人ではない事は、あの石橋山の合戦(8月23日参照>>)のエピソードからも垣間見えます。

もともと平家の配下であった景時は、石橋山の合戦で窮地に追い込まれた頼朝を助けます。

それも、大庭景親(おおばかげちか)の軍に囲まれ、わずか数人の側近とともに、岩屋に隠れているところを発見し、それを見逃したのですから、もはや、命の恩人・・・彼が、一言大声で「ここにおるゾ~」と叫べば、頼朝の命は無かったのですから・・・。

ところが、その石橋山の翌年には、頼朝に仕えるようになる景時が、その命の恩人という伝家の宝刀をひけらかしてるのを見た事がありません。

本当なら、もっとこの宝刀を使いまくって、エラそうにしても良いはずですが・・・。

岩屋に隠れる頼朝を見て、一目でその才気を見抜いたところと言い、使える宝刀をひけらかさなかったところと言い・・・いかに、景時が優れた人物であったかがわかる気がするのですが・・・。

景時は頼朝に恩を売る事なく、ただひたすらに忠誠を尽くし、その手足となって働きます。

一方の頼朝も、そんな景時に全面的な信頼を置き、目付けのような役割を与えたのでしょう。

景時は、あの義経の平家討伐の時だけではなく、平家を倒し、源氏の世になった後も、他の御家人の言動を常にチェックし、頼朝に報告するという役割を荷い続けます。

それは、チクられる者たちからすれば、非常にうっとうしいでしょうが、多くの武士をまとめる立場にある将軍・頼朝にとっては重要な事で、これは告げ口ではなく、れっきとした職務上の報告です。

しかし、そんな立場の景時は、正治元年(1199年)1月13日に頼朝が亡くなると、いの一番に他の御家人たちのターゲットとなるのです。

それが、頼朝が亡くなったその年の10月28日に作成された『梶原景時・弾劾状(だんがいじょう)です(10月28日参照>>)

そのきっかけは、結城朝光(ともみつ)小山政光が亡き頼朝を偲んで言った言葉・・・「忠臣二君に仕えずっていう例えもあるから、俺ら、頼朝さんが亡くならはった時に、同時に出家しといたら良かったんかなぁ」てな会話を、小耳に挟んだ景時が、2代将軍を継いでいた頼朝の息子・頼家「これは、現・将軍には仕えたくないという意味なのでは?」と、頼朝の時同様にチクったわけです。

その事を知った朝光が、逆に他の御家人たちに相談・・・御家人66人が集結し、景時の悪口を書きまくった弾劾状を作成し、彼を失脚させたのです。

この後、将軍・頼家に、弾劾状の釈明のために呼び出された景時でしたが、はたして一言の弁明もする事なく退室したのだとか・・・。

優れた人物であるが故に、ここで、そのすべてを悟った事でしょう。

弾劾状から約2ヵ月後の12月18日彼は鎌倉を出て、領地の相模(さがみ・神奈川県)一宮に移ります。

もはや、幕府に対抗する意思を固めていた景時は、即座に寒川神社付近に要害を構えて守りを固め、一族を連れて京に向かいます。

それは、当時、すでに譲位していた後鳥羽上皇が、幕府に対抗して院政を行い、朝廷の復権を図ろうとしていたからです。

彼も、これに同調して、上皇から院宣(天皇の命令書)を賜り、甲斐源氏の武田有義(ありよし)将軍に掲げ、九州に独立した幕府を構えるつもりであったと言われています・・・ただし、これも、北条側の記述なので、真実かどうかアヤシイ事は怪しいのですが・・・。

しかし、彼の構想は打ち砕かれます。

正治二年(1200年)1月20日・・・駿河国(静岡県)清見関(きよみがせき)まで来たところで、付近の御家人・芦原小次郎工藤八郎三沢八郎飯田五郎らの襲撃を受けてしまったのです。

一旦は、息子らとともに反撃を試みますが、功名を挙げて恩賞に預かりたい周囲の御家人たちがどんどん加わってきて、もはや多勢に無勢・・・雨のように降り注ぐ矢に、ほとんどの者が倒れ、景時自身も深手を負ってしまいました。

死を覚悟した景時は、長男・景季(かげすえ)、次男・景高とともに後方の山に身を隠し、壮絶な自刃を遂げました。

頼朝とともに新しい世を夢見て、戦いに身を投じた景時は、その主君の死から、わずか一年後に自らの命を断つ事となったのです。
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2009年1月19日 (月)

時代とともに生きた~東西・二つの本願寺

 

天正十九年(1591年)1月19日、豊臣秀吉七条堀川の寺地を、十一世法主・顕如に寄進・・・本願寺が京都に移る事になりました。

・・・・・・・・・・・

本願寺については、すでにブログで度々書かせていただいていますので、以前のページと少し内容がかぶるかも知れませんが、ここは一つ、秀吉が寺地を寄進したのをきっかけに、東西の本願寺について書かせていただきたいと思います。

開祖の親鸞聖人(11月28日参照>>)より続いた浄土真宗は、中興の祖・蓮如(2月25日参照>>)によって、加賀に信徒の国を誕生させる程の発展を遂げます(6月9日参照>>)

やがて、天下統一目前の織田信長と対立した本願寺は、長島一向一揆(9月29日参照>>)加賀一向一揆(11月17日参照>>)と連動した10年に及ぶ石山合戦(11月6日参照>>)の末、天正八年(1580年)3月17日、正親町(おおぎまち)天皇の仲介によって和睦交渉が成立し、本拠地である大坂の石山本願寺を明け渡す事となります。

この時の法主(ほっす)は第11代の顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)・・・そのページでも書かせていただいたように、4月9日に顕如が石山本願寺を出た後も、長男・教如(きょうにょ)は、なおも籠城を続け、信徒に対して徹底抗戦を呼びかける教如と、戦いを終らせようと呼びかける顕如のハザマで、信徒は大きく揺れ動きます。

そして、兄・教如が石山本願寺に居座り続ける数ヶ月の間に、顕如が弟の准如(じゅんにょ)後継者に指名してしまった事で、後に話がややこしくなるのですが・・・とりあえずは、明け渡し期限ギリギリの8月2日、教如も石山本願寺を退去し、ようやく信長に渡されます(8月2日参照>>)

しかし、その本願寺を手に入れた信長は、その跡地に手をつける事なく、その2年後、本能寺で亡くなってしまいます。・・・(この石山本願寺の跡地には、後に秀吉によって大坂城が築城されます)

信長の死後、天正十一年(1583年)に、事実上の後継者争いとなった織田家重臣の柴田勝家VS羽柴(豊臣)秀吉賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(4月21日参照>>)の時には、本願寺坊官(ぼうかん・世話係の僧侶)下間頼廉(しもつまらいれん)が、「加賀の信徒を動員してお味方しまっせ」と、秀吉に囁いたのだとか・・・。

戦国乱世には、政治にまで介入し、徹底的に権力と戦った本願寺も、どうやら、このあたりで、その方向性を、権力への対抗から権力の庇護のもと生きる事に変えたようです。

そうなると、独立国家を造るほどの激しさはなくなったとは言え、まだまだ全国各地に大勢の信徒をかかえる本願寺ですから、彼らが味方につくかつかないかで、戦況が左右される事も考えられます。

その方向転換をいち早く察した徳川家康は、賤ヶ岳の合戦から8ヶ月後の12月、かつて領国で勃発した三河一向一揆(9月5日参照>>)のせいで実施していた三河国内での浄土真宗の禁制を、ここで解除しています。

そして、翌年、やはり信長の後継者を巡って、家康を味方につけた信長の次男・織田信雄と、秀吉の間で勃発した小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)で、家康は、ここぞとばかりに、昨年、禁制を解除したばかりの本願寺信徒を味方につけようと、かの顕如に働きかけますが、顕如はこれを拒否します。

当然、秀吉は、この顕如の態度に大喜びし、早速、顕如に対して、大坂・天満に寺地を寄進・・・さらに、天正十九年(1591年)1月19日、京都の七条堀川という一等地に広大な寺地を寄進したというワケです。

Karamon800 西本願寺:唐門

かくして、本願寺は天文元年(1532年)に山科(やましな)本願寺という本拠地を消失して以来、約60年ぶりに発祥の地・京都に戻ってくる事になりました。

この京都の本願寺の建設中に、顕如が亡くなった事で、第12代法主として後を継いだのは、あの教如でした。

この後継ぎは、すでに秀吉の許可を得たものでありましたが、そこに「待った!」をかけたのが・・・そう、顕如から後継者として指名されたと主張する弟・准如です。

しかも、准如には生母の如春尼(にょしゅんに)が味方についており、顕如直筆の「譲状(ゆずりじょう)もあると・・・

ちなみに、この如春尼さんは、教如さんの生母でもあるんですが、どうやら兄貴とは仲が悪く、末っ子を可愛がっていたようですね。

・・・で、結局、秀吉が中に入って、「10年間は教如が宗主を務め、その後、准如に譲る」という約束を両者にとりつけて、何とか、この後継者争いに、一応の決着をつけました。

ところが、その采配に不満を持った教如側の僧侶たちが「譲状はニセ物だ!」と騒ぎはじめ、再び一触即発の状態へと戻ってしまいます。

これに怒った秀吉が、「ワシの采配が気に入らんのかい!」と逆ギレ・・・「ほな、10年と言わず、今すぐ譲れや!」と、教如を引退に追い込み、准如を第12代法主と定めたのでした。

その後、しばらくの間、不遇の生活を余儀なくされた教如でしたが、再び、日の目を見る時がやってきます。

そう、慶長三年(1597年)に秀吉が亡くなった後、時は慶長五年(1600年)・・・関ヶ原の合戦の直前に、家康の陣中見舞いに訪れた教如・・・あの小牧長久手の戦いの時に、冷たくあしらわれた家康は、ここですり寄って来た教如を全面的にバックアップする決意を固め、亡き秀吉が支援していた准如を排除するつもりでいました。

ところが、ここで進言したのが、重臣・本多正信・・・彼は、あの三河一向一揆の時、浄土真宗にどっぷりハマり、家康に対抗して一度は徳川を去った人です。

「どちらか一方に味方すれば、他方に不満が残り、また争いになるかも知れません。ここは一つ、准如の本願寺はそのままに、教如に別の寺地を寄進してはどうでしょう?」

Dscn3490a600h さすがに、一度ハマッた人の言う事は違う・・・これで、本願寺信徒の力を半分にする事ができます!

たとえ、全国に信徒がいて、その信仰心が厚くとも、もはや、政治や合戦に介入する事はありません。

東本願寺

こうして、慶長七年(1602年)、家康は教如に対して、六条烏丸(からすま)に寺地を寄進します。

つまり・・・
先の准如が、そのまま第12代法主を務めたのが西本願寺
新たに教如が第12代法主を務めたのが東本願寺・・・ここに、東西二つの本願寺が誕生したのです。

東西本願寺への行きかたは
   
HPの「七条通りを歩く」へどうぞ>>
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2009年1月18日 (日)

策士策に溺れる~謀略の将・最上義光

 

慶長十九年(1614年)1月18日、伊達政宗上杉景勝東北の覇権を巡って渡りあった出羽国・山形の戦国大名・最上義光が69歳の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・

今年の大河ドラマ「天地人」は東北が舞台・・・おそらく、この最上義光(もがみよしあき)さんにもスポットが当たるものと期待しております。

・・・とは言え、義光は謀略の達人、しかも主役が上杉側となれば、にっくきライバルとして描かれるのでしょうが、なにぶん私は原作を読んでいないので、本当にドラマに登場するのかどうかは確信が持てませんのであしからず・・・。

そんな最上義光さんは、天文十五年(1546年)1月1日、清和源氏の流れを汲む足利一門という由緒正しき最上氏の第10代当主・最上義守(よしもり)長男として生まれます。

16歳の時には、父とともに出かけた高湯(蔵王)温泉にて、自らの手で盗賊を退治したという逸話を残すくらいの勇猛果敢な少年であったようですが、そんな彼は、父とはあまりうまくいっていなかったようです。

・・・というのも、この頃の最上氏は、隣国の伊達氏完全に押され気味・・・何とかお家を保ってはいましたが、一時はその傘下に組み込まれそうになった事もあり、義守は、娘の義姫伊達輝宗(てるむね)へと嫁に出し、伊達氏とうまくやっていく方向へと持っていっていたのです。

しかし、義光は上記の通り勇猛果敢な性質・・・伊達氏の呪縛から我が最上氏を解き放ち、東北のこの地で、伊達氏と対等に渡りあう覚悟でいたのですね。

この時、そんな義光を恐れた義守が、彼を幽閉して次男の義時に家督を譲ろうとしたところを、幽閉先から脱出した義光が、弟・義時を殺害して自らが家督を継いだという話もありますが、どうやら、それは後世の創作のようで、実際には、父と子のモメ事があったにはあったものの、あくまで、父子の話し合いのもと、元亀二年(1571年)に義光が最上氏の当主となったようです。

ちなみに、先ほどの伊達氏にお嫁に行った父・義守の娘・・・つまり、義光の妹の義姫が産んだ息子があの伊達政宗で、この後、義光と政宗は、隣国同士で常にライバル関係・・・一触即発の状態が続く事になります。

やがて、越後上杉も加わりつつ、東北の覇権を巡って争い続けていた義光でしたが、そんな彼に一つの転換期がやってきます。

そう、天下統一を目前に、小田原攻めを開始した豊臣秀吉です(4月3日参照>>)

長年、争ってきた東北の武将たちが、秀吉の采配一つで、その領土を失ったり増やしたり・・・「コイツはズゴイ!」と思って友好関係を結んでいた徳川家康さえも、秀吉の傘下となり(10月17日参照>>)、ライバル政宗も決死の覚悟で弁明にまい進する(8月5日参照>>)・・・全国ネットのスゴさを目の当たりにした瞬間でした。

小田原攻めの後の奥州征伐(11月24日参照>>)で、領地を大幅にカットされた政宗に対して、家康と友好関係にあった義光は、その家康の口添えで最上の領地を安堵され、その後は、家康と、そして秀吉との関係を、最優先する手法へと路線変更・・・もはや、若い時の血気盛んなだけでは、生き抜いていけない事を悟った彼は、その変わり身の早さもスゴイ・・・。

秀吉が、東北の諸将の反感を買いながら行った検地(7月8日参照>>)にも積極的に協力しつつ、美貌の娘・駒姫豊臣(羽柴)秀次が気に入ったようだと聞けば側室として差し出し、次男・家親(いえちか)家康の近侍に・・・、三男・義親(よしちか)秀吉の小姓に・・・と、見事な徹底ぶりです。

しかし、ご存知のように、この後、秀次は、秀吉によって切腹させられ(7月15日参照>>)、側室となっていた義光の娘・駒姫も、わずか15歳という若さで、京都の三条河原にて処刑されてしまうのです。

さらに、父である義光自身も謹慎処分に・・・謹慎はさほど期間は長くなく、ほどなく許されますが、この時の一件は、義光の心にグサリと刺さった事でしょう・・・秀吉亡き後の慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦では、迷う事なく家康の東軍につく事になります。

例のごとく、上杉討伐の名目で伏見城を後にした家康とともに、上杉景勝との合戦準備をする義光でしたが、留守となった伏見城を石田三成が攻撃した事で、計画変更・・・いや、家康にとっては、こっちが計画通りなのかも知れませんが、とにかく、上杉討伐は中止となって、家康は再び西へと戻ります。(7月25日参照>>)

家康は、関ヶ原の2日前の7月23日付けで、義光宛ての書状を書き、この事を伝えています(9月7日参照>>)

しかし、三成と通じていたとおぼしき景勝は、かの関ヶ原と連動すべく、重臣・直江兼続(かねつぐ)を大将に、義光の持ち城であった長谷堂城(山形市)を攻めたのです。

これが、東北の関ヶ原と言われる長谷堂の戦い(9月16日参照>>)です。

この戦いで兼続が長谷堂城を取り囲んだのが9月15日・・・そう、その関ヶ原と同じ日です。

ところが、その肝心の関ヶ原はご存知のように、わずか半日で決着がついてしまい、東軍の大勝利に終るのですが、その事を知らない東北では、約半月に渡って、一進一退の戦いが繰り広げられます。

やがて、9月の終わり頃になって、関ヶ原での勝敗が東北に伝えられる事になると、もはや上杉側では長谷堂城どころではありません。

他の西軍に加担した武将がそうであるように、上杉の家名そのもが危うい状態となるわけですから、上杉軍も、速やかに軍を退き、家名存続に向けて走り回る事になります。

一方の義光は、これによって57万石という大きな領地を得るとなり、最上氏は最高潮の時代を向かえます。

この頃には、義光も内政に力を注ぎ、城下町の町割や交通網の整備、治水工事なども行い、農業生産も充実し、まさに繁栄を極めるのですが、その全盛は、長くは続きませんでした。

かの全国ネットのスゴさを知ったあの日から、要領よく立ち回ってきた義光でしたが、ここに来て、その要領の良さが仇となります。

実は、家康との関係をより強くしたい義光は、家康のもとへ差し出していた次男・家親に家督を譲ろうと考えるのですが、次男という事は、当然、その上に長男がいます。

さらに、その長男・義康とは、以前はともに戦場で苦楽をともにした仲・・・その父子関係は良好なものでしたが、ここに来て家臣同士の険悪なムードも相まって、何やら不穏な空気だったのです。

ところが、そんな長男・義康が、慶長九年(1604年)・・・このタイミングで変死を遂げてしまいます。

これには、義光の命によるものとのウワサもありながらも、真実のほどはわからないのですが、ただ・・・この後の義光が、禅と阿弥陀信仰にどっぷりとハマる事を考えれば、ちょっとばかりアヤシイ気がしないでもありません。

もし、本当に家康の世となった事で、より家康に近い次男に家督を継がせるために、長男を暗殺したのだとしたら、苦渋の選択とは言え、思い通りになった事で、義光自身は一安心したのかも知れませんが・・・先ほども言いましたように、これが、最上氏の命取りとなるのです。

慶長十六年(1611年)頃から、病気がちになった義光さん・・・慶長十九年(1614年)1月18日69歳の生涯を閉じるのですが、その後を継いだ次男・家親は、わずか6年後の元和三年(1617年)に急死します。

しかも、この家親は、長年、家康のもとにいた・・・つまり、ほとんど国を離れていたため、家臣団との信頼関係がうまく運んでいなかったようなのです。

相次ぐ急死に加え、さらに、その家親の後を継いだ長男(つまり義光の孫)義俊(よしとし)が、わずか12歳という幼さであったため、より家臣との溝が深まり、家臣団の混乱を治める事もできない状態が続く・・・これらのお家騒動=最上騒動(8月18日参照>>)によって、元和八年(1622年)、最上家は改易となってしまいます。

義光の死から、わずか8年後の事でした

ひょっとしたら、謀将と呼ばれた義光の、その謀略こそが、最終的に最上家に引導を渡したのかも知れません。
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2009年1月17日 (土)

徳川家の存続をかけて~和宮の尽力

 

慶応四年(1868年)1月17日、徳川慶喜のしたためた嘆願書を読んだ和宮が、内容の訂正を言渡しました。

・・・・・・・・・・・・・・

さてさて、鳥羽伏見の戦いに破れ(1月9日参照>>)江戸へと戻って来た15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)・・・彼が、浜離宮に上陸したのは、慶応四年(1868年)の1月12日の事でした。

江戸城内でも、未だ抗戦を主張する者もいましたが、今後の徳川家の存続を考える慶喜にとって、もはや抗戦はありえない事・・・ただ、ひたすら恭順な態度で、家名存続と自分自身の助命を願うほかありません。

かの勝海舟に言わせれば・・・
「天璋院は、しまひまで、慶喜が嫌いサ」
との事で、どうやら、あの篤姫慶喜の事を、かなり嫌っていたようですが、ここはお家の大ピンチ・・彼女も協力するしかありません。

江戸に戻った慶喜は、まずは海舟に、「敗戦したのはアンタのせいや!」と怒られながらも、彼のとりなしで篤姫に会い、今度は、その篤姫が、しぶる和宮(かずのみや・静寛院宮=14代・徳川家茂の奥さん)「徳川の一大事なんだから・・・」と説得し、何とか二人の会見を、1月15日にセッティング・・・そこで、慶喜は和宮に、朝廷への謝罪のサポートをしてくれるよう頼みます。

正式な日付はわかりませんが、その会見の前後に、慶喜が和宮に宛てて書いた書状が残っています。

「この慶喜、徳川を相続して以来、天皇家を大事に思ってきましたが、このたびの事件・・・行き違いとは言え、朝廷に対して失礼な事をしてしまいましたので、自分は引退するつもりでいます。

聞くところによれば、京から軍勢を差し向けられるそうですが、万が一そんな事になれば騒乱になりますので、どうか、この気持ちを察していただいて、ご配慮をお願いします。

徳川家がこのまま続き、今までと変わりなく忠働を尽くせるよう御所の方に働きかけてはいただけないでしょうか。」

この慶喜からの手紙を、和宮は会見の前に読んだのか?後に読んだのか?・・・それはともかく「慶喜キモイ・・・」と言ってる場合ではない事は彼女にもわかりますから、ここは、とにかく徳川家一致団結とばかりに、慶喜の嘆願を引き受ける事にあいなりました。

・・・となると、慶喜が朝廷へと出す嘆願書・・・宮中には宮中のしきたりという物がありますから、相手のご機嫌をそこねぬよう、そのしきたりに乗っ取った書き方をしなければならないわけで、慶応四年(1868年)1月17日慶喜の手紙に和宮のチェックが入る・・・という事になったわけです。

和宮のチェックのもと、書き直された慶喜の嘆願書と、和宮自身が書いた直書をたずさえた土御門藤子(つちみかどふじこ・和宮の乳母)が、使者として橋本実麗(さねあきら・和宮の母の兄)のもとへと向かったのは1月21日の事でした。

その後、1月27日・・・慶喜は、内外に恭順を示すかのように、抗戦派であった陸軍奉行並の小栗忠順(ただまさ(4月6日参照>>)やめさせて、勝を軍事総裁に任命、さらに2月5日には、松平春嶽(しゅんがく・慶永)正式な書面で恭順の気持ちを表明します。

そして、2月12日には江戸城を出て、上野寛永寺大慈院(だいじいん)に移り、自ら、謹慎生活に入りました。

この時点で、未だ江戸城に残っているのは篤姫と和宮(4月11日参照>>)・・・2月25日には、新政府軍が出陣したとの知らせが届き、大奥に残る彼女たちは気が気でなかった事でしょうが、そんな中の2月30日・・・かの藤子さんが、江戸城に戻ってきます。

彼女がたずさえて来た伯父・実麗の返答は・・・

実は、その時、朝廷や新政府軍の内部でも、徳川家の処分をめぐって意見が対立していました。

徹底的な倒幕を求める西郷隆盛ら薩摩藩と寛大な処置にしようとする岩倉具視(ともみ)・・・そんな中での実麗の見解は、明解には答えられないものの、「とにかく恭順な態度を示し続ければ、寛大な処分もありうる」との事・・・和宮も、そして篤姫も、ホッと胸をなでおろした事でしょう。

「まだ、少しでも、徳川存続の希望があるのだ」と・・・。

もちろん、この後も和宮は、その尽力を惜しむことなく、何度も朝廷への働きかけを続ける事となります。

最後は、時間がなかったのかも知れないけれど、ここらへんの慶喜さんと篤姫と和宮のやりとりの部分を、もう少しくわしく大河ドラマで見てみたかったですね~。
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2009年1月16日 (金)

鑑真がそうまでして日本に来たかったワケは?

 

天平勝宝六年(754年)1月16日、6度目の挑戦で渡海に成功した唐の高僧鑑真が、平城京に到着しました。

・・・・・・・・・・・・

(中国)の高僧・鑑真和上(がんじんわじょう)・・・歴史教科書にも大きく取り上げられ、おそらく、それほど歴史に興味のないかたでも、きっと、名前はご存知の事と思います。

その来日は、苦難の連続・・・5度も失敗しても諦めずに果敢にアタックし、6度目の挑戦で、やっと九州に漂着した鑑真は、その苦労のため、途中で失明していたと言います。

しかも、時の皇帝・玄宗(げんそう)出国を許可しなかったため、最終的には密航という形で、日本に帰る遣唐使船に乗船しての来日だったのです。

ちなみに、この時、同時に唐を出発した別の船には、あの♪・・・三笠の山に出でし月かも♪でお馴染みの阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が乗船していましたが、彼の船は別の場所に到着し、日本に帰る事はできませんでした(8月20日参照>>)

まさに、命がけの渡海・・・

ところで、
そうまでして、日本が鑑真を欲しがった理由、
そして
鑑真が日本に来たかった理由は、いったい何だったのでしょうか?

この二つの理由の中で、日本が鑑真を必要とした理由は、明白です。

そもそも日本に鑑真を呼び寄せようと働きかけたのは、天平七年(735年)の遣唐使船で、遣唐使とともに唐へ渡った興福寺の僧・栄叡(ようえい)普照(ふしょう)でした。

もちろん、それには、仏教への熱い情熱・・・というのもあったでしょうが、当時の日本には、もっと現実的かつ、せっぱつまった事情があったのです。

それは・・・
当時の平城京は、天平の甍(いらか)と称されるような壮麗な都であった半面、庶民はその重税に苦しみ、労役や兵役に苦しむ極貧の生活で、社会的不安も大きな問題となる時代でした(11月8日参照>>)

そのページでも書かせていただいたように、そんな苦しい生活から逃れる方法は、「逃げる!」しかないわけですが、それは、同時に戸籍=自分の存在そのものも失ってしまう事になります。

そこで、もう一つの救われる方法・・・それが、僧になる事でした。

確かに、僧になれば、兵役や税金から逃れられるうえ、自分という物を失わなくてすみます。

しかし、そうなると、当然、本来、僧になるべき人ではない人までが僧になるわけで、その質が落ちる事は明白ですから、政府は早速、勝手に僧になる事を禁止し、厳重に管理しようとしますが、それでもさらに増え続け、結局は統制も、ほとんど効果なし!

当然の事ながら、庶民から見る僧への尊敬や権威も低下し、それを管理できない政府への不満も、さらに大きくなります。

しかも、当時の日本には、授戒(戒律を授ける事)を授ける高僧が一人もいない状況で、自分で自分を授戒する状態だったのです。

・・・って事で、国家の安定をはかるためには、正しい仏教の戒律を確立させる必要があったわけで、そのためには、本場・唐で尊敬されている高僧を日本にお招きするしかなかったのです。

そして、一方の、鑑真が日本に来たかった理由・・・

もちろん、これも仏教への情熱・・・日本の仏教の荒廃した実態を聞いて、「俺がやらねば誰がやる!」と鑑真が思ったという事が一番だと思われますが、それを後押しした物もあったのでは?という見方もあるようです。

実は、より政情が不安定だったのは唐のほうで、この先の動乱を予感した鑑真は、むしろ日本に亡命したがっていたというもの・・・確かに、翌年の西暦755年にあの安禄山の乱(11月9日参照>>)が起こっていますから、なきにしもあらず・・・ですが・・・。

さらに、唐に渡った日本人の僧から、かの聖徳太子の話を聞き、かなりの太子ファンになった鑑真が、その太子を生んだ日本に行ってみたいと思ったというもの・・・確かに、フアンなら、その生誕の地へ行ってみたくなる気持ちはワカランでもないが・・・。

そして、最もスゴイ説は、鑑真=スパイ説・・・

ちょうど、その頃に開かれた唐での酒宴の席で、日本の代表と新羅(しらぎ)の代表が席順を争ったあげく、日本代表がよりイイ席を奪い取ったという、ちょっとした事件があったそうで、「カワイイ新羅くんに何て事するんだ!」と、唐が日本への警戒を強め隣国の情勢を探らせるために、鑑真を派遣したというもの・・・これは、トンデモ説としては、オモシロイかも知れませんが、失明してまで来る必要はない気がするので、あくまで、そんな説もあるという程度で・・・。

ただし、たとえ、鑑真が日本に来たのが、仏教への情熱だけでなく、後押ししたキッカケという物があったとしても、鑑真のその偉大さを、何らそこねるものではありません。

なんせ、5度も失敗してもなお、失明してまで(12月20日参照>>)・・・というのは、やはり、仏教に対する情熱という以外の何物でもない!というのが本当の所でしょうから・・・。

しかも、鑑真の偉業というものは、日本へ来る過程もさる事ながら、その後の日本での活躍がすばらしいのです。

Dscn2194330 唐招提寺・戒壇:戒壇とは授戒を授ける場所・・・鑑真にとって最も重要な場所だった事でしょう

日本が願った通り、その戒律の確立をおこなうべく、あの唐招提寺を建立(8月3日参照>>)、人々にたくさんの知識を与え、乱れつつあった仏教の世界を、正しいものに導いてくださったのですから・・・。

千年に渡って語り継がれる鑑真の偉業・・・それは、おそらく、この先、千年経っても変わらなく語り継がれていく事でしょう。

唐招提寺へのくわしい行きかたは・・・HPの歴史散歩へどうぞ>>
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2009年1月15日 (木)

八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけとなったか?

 

天正四年(1576年)1月15日、丹波・黒井城攻略中明智光秀に、波多野秀治が反旗をひるがえし、光秀は近江・坂本へ撤退・・・これをきっかけに、八上城攻めが開始されます。

・・・・・・・・・・・

その高低差が200mという天然の要害に立つ丹波八上城(やがみじょう・兵庫県篠山市)は、天文二十二年(1553年)春には三好長慶(ながよし)、秋には松永久秀、弘治元年(1555年)には三好政康・・・などなど、これまで何度となく攻められたにも関わらず、いずれの武将も落す事ができなかった戦国屈指の山城でした。

そんな八上城を、代々守ってきたのが、丹波の戦国大名・波多野氏・・・その出自は、あの平将門を討った藤原秀郷(ひでさと・俵藤太)とも、石見国津和野吉見氏であったとも言われていて定かではありませんが、すでに応仁の乱の頃には表舞台に登場し、そこでの功績によって、この丹波一帯を与えられ、永正五年(1508年)に波多野元清によって八上城が築かれました。

未だ戦国武将が群雄割拠していた永禄三年(1560年)には、当主の波多野秀治1万2千の兵を率いて上洛し、時の天皇・正親町天皇(おおぎまちてんのう)に金箔を献上・・・戦国武将の夢でもあった上洛をいち早く実現しています。

しかし、そんな波多野氏も、やがて第15代室町幕府将軍・足利義昭を奉じて上洛した織田信長の勢いには勝てず、信長が明智光秀を総大将に、丹波平定へ乗り出す頃には、その傘下となっていました。

その後、信長の命を受けた光秀が、圧倒的な兵力で赤井(荻野)直正の籠る黒井城(兵庫県丹波市)を囲んだのは天正三年(1575年)10月・・・戦況は光秀有利に働き、もはや先の見えた籠城戦でした。(8月9日参照>>)

ところが、翌年の天正四年(1576年)1月15日いきなりの寝返りで、秀治は黒井城を包囲していた明智軍を攻めたのです。

この秀治の裏切りによって、光秀はやむなく近江(滋賀県)坂本に撤退しますが、当然の事ながら、怒り心頭の信長は、光秀に秀治討伐の命令を下します。

しかしながら、丹波平定をまかされている光秀にとって、攻めるべき相手が波多野氏だけではなかった(10月26日【籾井城の戦い】参照>>)事や、八上城が冒頭に書いた通りの堅固な山城であった事もあって、落城までには長い年月を要してしまいます。

この後、光秀が本格的に八上城の包囲を固めたのは、天正六年(1578年)の3月4日から・・・そして、翌・天正七年の2月にやっと、八上城一つに集中して城攻めを開始し、その年の6月2日に、一瞬のスキを突いて、八上城の奪取に成功します。

生け捕りにされた秀治と、その弟・秀尚は、信長のいる安土城へと送られ、6月4日には磔(はりつけ)となって命を落しました。

ところで、江戸は元禄時代に書かれた『総見記(そうけんき)には、この時の逸話として・・・

なかなか落ちない八上城を攻めあぐねた光秀が、秀治・秀尚兄弟の命を助けるという約束で城を開城させ、その証しとして自分の母を人質として八上城に預け、兄弟を信長のもとへ連れていったところ、信長が有無を言わさず兄弟を磔にしてしまったため、八上城兵が「約束が違う!」と怒り出し、光秀の母を殺害した・・・という話が書かれていてます。

そうなると、「光秀の母は、信長のせいで殺されたみたいなものだ」という事になって、この時の怨みが、あの本能寺の変を起すきっかけになったのでは?と、長く信じられてきましたが、近年の研究では、光秀の母親はもっと早くに亡くなっていたとの見方が強く、現在では、この話は後の創作であろうというのが一般的な見方となっています。

だいたい、百歩譲って実際にあった出来事だったとしても、これで光秀が信長を恨むとは、到底思えませんよね。

確かに、お母さんは大事ですが、もし、この話の通りだと、光秀が自らの決意で、母親を人質に出したわけで、その時点で、ある程度の覚悟ができていなければ戦国武将としてやっていけません。

平和な時代じゃないんだし、敵に殺されて、主君を恨むのはお門違い・・・それなら、はなから人質になど出さずに、別の方法で攻略すべきです。

実際には、攻略に長くかかったぶん、光秀は策略を張りめぐらす事ができ、すでに周囲の武将たちを味方につける事に成功していて、孤立した八上城は、もはや補給路も断たれ、落ちるべくして落ちたといったところではないでしょうか。

ところで、光秀は、天正七年(1579年)の10月に、それまでの丹波平定を信長に報告していますが(10月24日参照>>)、実は、この丹波攻略に時間がかかった事で、怒った信長が、光秀への理不尽な折檻を繰り返し、それが、後に謀反を起すきっかけになったのでは?との話もあります。

しかし、ご存知のように、信長の光秀に対するツライ仕打ちのほとんどが、後世の創作でありますので、やっぱり、それもないでしょうね。
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2009年1月14日 (水)

岩倉具視・危機一髪~赤坂喰違の変

 

明治七年(1874年)1月14日、王政復古のリーダー的存在で、新政府でも重職についていた岩倉具視が赤坂にて襲撃された『赤坂喰違の変』がありました。

・・・・・・・・・・・・

岩倉具視(いわくらともみ)・・・名前の響きだけ聞けば、アイドルのような美女を想像していまいますが、昭和を生きた世代には、あの青い五百円札でお馴染みのオジサマであります。

文政八年(1825年)、前権中納言・堀河康親(やすちか)の次男として生まれた具視は、幼い頃から知恵者の誉れ高く、その才能をかわれて14歳の時に岩倉具慶(ともやす)養子になります。

・・・とは言っても、村上源氏の流れを汲む由緒正しき家柄の岩倉家も、当時の家計は火の車の極貧状態・・・公家と言っても、かなり下級に位置にいました。

しかし、そこは知恵者の具視くん・・・時の関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)に接近してお気に入りとなり、第121代・孝明天皇侍従になる事に成功します。

鷹司家は五摂家の一つで、政道は関白だけでなく、左大臣や太政大臣・摂政などを歴任してきた天皇の側近ですから、下級公家の具視くんとしては大出世!です。

そんな中のペリー来航(6月3日参照>>)によって、この国は、開国か攘夷(外国排除)かで揺れ動く事となるのですが、ご存知のように、日米和親条約日米修好通商条約を締結し、幕府は開国の道へと歩み始めます。

しかし、老中・井伊直弼(なおすけ)が攘夷派をぶっ潰すべく行った安政の大獄(10月7日参照>>)で、ますます、国内は真っ二つ・・・。

その敵対関係を修復すべく進められた公武合体(こうぶがったい・天皇家と幕府が協力)・・・その象徴として行われた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮結婚の時も、しぶる天皇の説得にあたったのが具視でした(8月26日参照>>)

しかし、そんな行動が攘夷派に睨まれる事となり、一旦、政界から追われます。

それから約5年間、京都・洛北の岩倉村で謹慎生活を送る具視くんでしたが、そこは知恵者の彼・・・転んでもただでは起きません。

この間に、桂小五郎西郷隆盛大久保利通といった倒幕派の面々と親交を深めていたのです。

やがて、孝明天皇が亡くなって(12月25日参照>>)明治天皇が即位すると、彼の交友関係は、王政復古の大号令(12月9日参照>>)というクーデターとして花開く事になります。

もちろん、具視も、見事、政界に復活!・・・というより、むしろ中心人物です。

おかげで、新政府では三条実美(さねとみ)とともに副総裁となり、他にも海陸軍の総督や会計事務の総督なども兼務するという、まさに出世は頂点を極めます。

しかし、ご存知のように、その明治政府も順風満帆ではありません。

まずは、新政府の第一の目標として、幕末・維新の混乱の中で結んだ不平等な条約を改正するために使節団を編制して、外国を回る具視でしたが、そんな中で感じたのは、新政府にとっての内政の整備の重要性でした。

しかし、帰国した彼を待っていたのは、国内で盛り上がる征韓論・・・

もともと、江戸幕府の時代には、ともに鎖国制度を敷いていた朝鮮と国交のあった日本でしたが、維新とともに日本が開国してしまった事に朝鮮が異論を唱え、ここに来て両国は険悪なムードになってしまっていたのです。

留守を預かっていた西郷隆盛は、朝鮮へ出向く事を主張しますが、上記の通り、内政の整備が最優先と考える具視ら帰国組は、それを反対・・・西郷は政界を去りました(10月24日参照>>)

これに反感を持ったのが、西郷らを支持していた征韓論者の士族たちです。

かくして、明治七年(1874年)1月14日、馬車に乗って宮中を出た具視が、赤坂の喰違見附(くいちがいみつけ)に差し掛かったところを、土佐士族・武市熊吉らが襲撃したのです・・・これが、赤坂喰違の変(あかさかくいちがいのへん)です。

彼らは、馬の足を斬りおとして馬車をムリヤリにストップさせ、具視に襲いかかります。

落ちるように馬車を降りた具視は、犯人たちと、くんずほぐれつしながら、横にあった土手に転がり落ち、そのまま濠に落ちていきます。

馬車についていた従者は、慌てて宮中に走り、岩倉・死すの報告を・・・襲った刺客たちも、手ごたえアリと判断し、すばやく逃走します。

ところが・・・ここで知恵者・具視の本領発揮!

実は、襲われて軽傷を負いながらも、ギリギリで刀をかわし、わざと水に落ち、死んだと思わせて難を逃れたのです。

しかも、犯人が残していった下駄を、しっかりと確認する具視・・・不平士族による政府高官の襲撃を重大事項と判断した大久保利通の指示により、警察は、その下駄を頼りに下駄屋を割り出し、3日後には、犯人9人・全員を逮捕したのです。

昨年の大河ドラマでは、この岩倉具視の役を片岡鶴太郎さんが、大久保利通の役を原田泰造さんが演じておられましたが、私、個人的には、まさにピッタリな人選だと思って見させていただいておりました。

馬車に乗ってるところを刺客に襲われ・・・という、同じような状況で、後に命を落す利通(5月14日参照>>)と、今回、拾った具視・・・。

もちろん、相手のいる事なので、時の運もあるのでしょうが、その性格の微妙な違いが演じたお二人に備わっているようで・・・。

ただし、さすがの具視くんも、この襲撃事件の後は、1ヶ月間休職していますので、心に受けた傷は大きかったようです。

この喰違の変の後、不平不満を持った士族と明治政府の食い違いはさらに大きくなり佐賀の乱(2月16日参照>>)神風連の乱(10月24日参照>>)秋月の乱(10月27日参照>>)萩の乱(10月28日参照>>)、果ては西南戦争(9月24日参照>>)へと発展していくのですが、そのお話は、それぞれのその日のページでどうぞ。
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2009年1月12日 (月)

龍馬も斬った?見廻組随一の刺客・佐々木只三郎

 

慶応四年(1868年)1月12日、先の鳥羽伏見の戦いで負傷した、京都・見廻組の佐々木只三郎が、和歌山にて死亡しました。

・・・・・・・・・・・

会津藩士の子として生まれた佐々木只三郎(たださぶろうは、親戚の旗本を頼って江戸に出て、その親戚の養子となって神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を務めるまでに腕を上げます。

そんな時に、沸き起こったのが、あの清河八郎浪士隊募集の話題です。

それは、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛の先駆けとして京都に向かい、その後、将軍の身辺警護にあたるというもの・・・

「京にいる尊皇攘夷派(朝廷側)の志士たちを一掃する組織だ」と聞かされ、彼は、すぐさま応募して隊員となります。

佐幕派(幕府側)の会津出身で、現在は幕臣・・・しかも、腕がたつとなれば、この動乱の時代に、何か、幕府の役に立ちたいと思うのは当然の事です。

ところが、その清河は、実は尊皇攘夷派・・・幕府の金で集めた精鋭たちを、そっくりそのまま朝廷の軍に変えるつもりでいたのです。

京都に着いた途端、その姿勢を180度ひるがえして本性を表した清河に、只三郎は愕然としますが、幕府もそこは素早く・・・何だかんだの理由をつけて、浪士組を江戸へ呼び戻します。

このブログでは、すでに何度か書かせていただいているので、もう、ご承知でありましょうが、その時に、江戸に戻る事を拒否して、そのまま京都に残って幕府のために働こうとしたのが、芹沢鴨近藤勇のグループ・・・後の新撰組です(2月23日参照>>)

・・・で、今日の主役・只三郎は、江戸へ戻ったグループ・・・江戸に戻った只三郎には、すぐに幕府からの指令が下ります。

そう、清河の暗殺です。

幕府に忠実で、腕のたつ剣客・・・彼は、見事に指令をまっとうし、文久三年(1863年)4月13日、清河を赤羽橋にて殺害します。

リーダーを失った浪士組は、新徴組(しんちょうぐみ)と名を改め、庄内藩の預かりとなりますが、只三郎自身は、新徴組には入らず、その翌年に、幕府が京都に設けた見廻組(みまわりぐみ)に参加します。

見廻組は、先の新撰組と同様、京都守護職・松平容保(かたもり)配下の治安部隊ですが、新撰組が、その成り立ちからして浪人たちの契約社員だとすれば、こちらの見廻組は、幕府自らが立ち上げ、旗本の次男坊・三男坊たちで組織された正社員・・・只三郎は、その3番目の地位をいただいて、禁門の変(7月19日参照>>)などで、大いに活躍します。

そして、いよいよ慶応四年(1868年)1月3日・・・この日、只三郎は、鳥羽街道を行く別働隊の指揮官・滝川具挙(ともあき)の護衛として見廻組・400名を率いていました。

そう、あの「通せ」「通さん」の押し問答の末、薩摩が一発めの砲撃を開始した、あの場所にいたのです(1月3日参照>>)

2列の隊列を組んで進もうとする幕府軍に、左右から銃撃をしかける薩摩・・・刀一本で踏ん張るも、銃を持たない見廻組は、すぐさま壊滅状態となります

それでも只三郎は、しぶとく生き残り、何度も夜襲などかけますが、きっちりした作戦すらない幕府軍の敗戦は目に見えていました。

そんな中の1月6日早朝・・・腰に銃撃を受け、重傷を負った只三郎は、何とか紀州(和歌山県)へと逃走を図りますが、その傷は重く、慶応四年(1868年)1月12日紀三井寺にて36歳の生涯を閉じたのです。

ところで、佐々木只三郎といって、もう一つ気になるのは、あの坂本龍馬・暗殺事件(11月15日参照>>)です。

今現在も、龍馬暗殺に関する唯一の公文書である元・見廻組の今井信郎(のぶお)の調書=刑部省口書(くちがき)では、「只三郎以下、数名の見廻組隊士が犯人」となっています。

幕末最大の謎として、あーだこーだと推理される龍馬暗殺ですが、正式な史料と呼べる物は、未だ、この一つしかありません。

ところが、その今井の自白も、取調べの時は「自分は見張りをしていただけ」と言っておきながら、後には、「自分が殺った」と言い、話が二転三転・・・しかも、暗殺に関わった見廻組で、明治まで生き残ったのは、彼一人ですから、何とも・・・。

そんな中、昭和十三年(1938年)に刊行された書物に、只三郎の兄の証言というのが掲載されます。

実は、只三郎には、という息子がいたのですが、その息子が早くに亡くなってしまい、佐々木家は断絶していたのですが、昭和の時代になって縁者によってお家が再興される事になり、それがきっかけで『佐々木只三郎伝』なる物が刊行されたのです。

只三郎の実兄・手代木直右衛門(てしろぎなおえもん)なる人物は、幕末当時、会津藩の若年寄で、藩主・松平容保の右腕だった人・・・病気がちだった容保に代わって、かなり重要な政務もこなしていたようです。

そんな彼が、亡くなる数日前・・・ふと、「龍馬を殺害したのは、我が弟・只三郎であり、それは某諸侯の命令であった」と語ったというのです。

彼の立場上、某諸侯とは、当然、容保の事でしょうが、それは、もちろん、個人的な考えでの命令ではなく、京都守護職としての立場から放った命令・・・。

慶応三年(1867年)10月、大政奉還(10月14日参照>>)目前の京都の町に入った龍馬でしたが、その時は、わずか数人の知り合いを連れていただけだったにも関わらず、当時の京都の町では、「海援隊・300名が京都に入った」という噂が立ち、瓦版まで出ての大騒ぎだったと言いますから、京都の治安を守る守護職としては、その状況を見逃せなかったのかも知れません。

大政奉還に龍馬が関わっていたかも知れない事は、もっと後にわかる事ですからね・・・。

しかし、結局その兄の言った事すらも、真実かどうかも、わからぬまま・・・今井が龍馬暗殺の犯人だと証言した彼ら=只三郎以下、数名の見廻組隊士は、何も語らず、何も残さず、鳥羽伏見の戦いで散っていく事となり、すべては藪の中に隠されてしまったのです。
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2009年1月11日 (日)

幕末~日本最大の危機だった?アメリカ水兵射殺・神戸事件

 

慶応四年(1868年)1月11日、鳥羽伏見の戦いで混乱する中、神戸に避難していたアメリカ人水兵を、岡山藩兵が射殺する事件が起きました。

・・・・・・・・・

さすがに、先日の大坂城・開城&炎上(1月9日参照>>)で、その話題は尽きただろうと思った鳥羽伏見の戦い・・・実は、まだ、残ってました~ww。

それは、すでに、大坂などにたくさんいた外国人たちと鳥羽伏見の戦いの関係です。

幕末のこの時期、幕府が修好通商条約を結んだ国は、アメリカイギリスフランスオランダロシア・・・などなど・・・。

その中でも、大きな力を持っていたのは、フランスのロッシュとイギリスのパークス

当時、フランスとイギリスは、遠きヨーロッパでは対立関係にありましたが、対・日本に関しては、その利害関係が一致すれば、あの下関戦争(8月8日参照>>)の時のように、お互いに協力するという姿勢を見せていました。

そんな中の12月7日、列強各国の一番の目標であった大坂と神戸(兵庫)の開港が成されて多くの外国人が大坂へと集まってきて、ホッとしたのもつかの間、王政復古の大号令(12月9日参照>>)が断行され、彼ら外国人も、この日本の行く末が気になるところとなります。

なんせ、彼らが「タイクン」と呼んでいた将軍・徳川慶喜の幕府と、「ミカド」と読んでいた明治天皇の新政府・・・二つの政府が同時に並び立つ状況になってしまったからです。

そこでもって勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)・・・そして、大坂城・開城。

この時、やはり、大坂に滞在していたイギリス人通訳・アーネスト・サトウ(8月26日参照>>)は、いつでも大坂湾上の船に乗り込めるよう天保山のあたりに避難していましたが、イギリス公使館の事が気になって城下に向かったところ、燃え盛る大坂城を目の当たりにし、周辺は大変な人だかりで、暴徒化した民衆が略奪行為に走っていたと、その恐怖を生々しく記録しています。

そこで、多くの外国人は、戦火を逃れるように、大坂から神戸へと移動しますが、戦いはあくまで日本国内の内政・・・ここは口を挟まず、動向を見守っていたのです。

しかし、慶応四年(1868年)1月11日、事件は起こります。

戦いの混乱の中、その神戸で岡山藩兵が発砲し、アメリカ人水兵を射殺してしまったのです。

怒った列強国軍隊は、神戸港に停泊中だった船から、すぐさま上陸し、外国人居住地を占拠してしまいます。

すわ!国際問題に・・・っと、ここで、この問題に立ち向かわねばならないのは・・・そうです、以前、【薩摩藩邸・焼き討ち事件】のページ(12月25日参照>>)で書かせていただいたように、この時、外交権を握っていたのは、幕府のほう・・・

という事は、この問題を解決するのは、幕府の役目なのですが、その肝心の将軍・慶喜は、6日の夜に大坂城を抜け出し(1月6日参照>>)、8日に大坂湾を出航し(1月8日参照>>)、もはや、洋上の人・・・(慶喜が浜離宮に上陸するのは12日)

そこで、この列強国との話し合いをやったのが、新政府・・・勅使(ちょくし・天皇の使い)として派遣されたのは、かつて、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、三条実美(さねとみ)らとともに政界から追われ、その後、長州の保護を受けていた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)でした。

1月15日、彼は早速、各国の公使らとの話し合いの場を持ち、そこで、見事に列強国の怒りを鎮める事に成功します。

それどころか、彼ら外国人に、できたばかりの新政府を、幕府と並び立つ対等の政府である事を認めさせ、両者の交戦中は、どちらの味方につく事もなく、中立の立場をとるという約束も取りつけたのです。

一般的に「神戸事件」と呼ばれるこの事件・・・結果論ではありますが、このアメリカ水兵射殺事件は、見事、新政府にとってのラッキー・サプライズとなったのです。

もしかして、この事件がなければ、もうしばらくは幕府が外交権を握ったままだったかも知れないわけですから・・・。

ただし、以前【慶喜の敵前逃亡~その本心は?】(2007年1月6日参照>>)で書かせていただいたように、フランス公使のロッシュだけは、この約束を破って、江戸城に戻ったばかりの慶喜に会いに行き、「フランスが全面協力するから、薩摩を倒せ!」と、誘いをかけています。

しかし、ご存知のように、慶喜はキッパリと、この誘いを断り、新政府への恭順の姿勢をとって、自ら謹慎に入りますから、ロッシュも仕方なく、他の列強国と歩調を合わせ、戊辰戦争に関与する事はありませんでしたが・・・

もともと、幕府軍の近代化へ向けての新兵器の導入に一役かっていたのはフランスですし、逆に、イギリスは薩摩や長州に接近していましたから、もし、ここで、ライバル同士の二つの国が、それぞれの政府を後押しし、この後の戊辰戦争が行われていたとしたら・・・と考えると、ある意味、日本存亡に関わる最大の危機だったのかも知れません。

この時の通禧さんの外交官としての手腕と、弱腰と罵られながらも貫いた慶喜の恭順ぶりに、あらためて敬意を表さなけらばならないかも・・・ですね。

戊辰戦争のこの後の流れについては「幕末維新の年表」でどうぞ>>
 .

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2009年1月10日 (土)

大奥・開かずの間~徳川綱吉、刺殺の噂

 

宝永六年(1709年)1月10日、江戸幕府・第5代将軍で、「犬公方」で知られる徳川綱吉が亡くなりました。

一昨年は、その「犬公方」の呼び名のもととなった『生類憐みの令』・・・その死とともに廃止になった、この法令について書かせていただきましたが(2007年1月10日参照>>)、今回は、その死にまつわる奇妙な噂について書かせていただきます。

・・・・・・・・・

それは、江戸城大奥・・・開かずの間の物語・・・

その昔、江戸城・大奥には、「宇治の間」と呼ばれる開かずの間がありました。

そのお部屋は、襖絵に、京都・宇治茶摘の風景が描かれていた事で、宇治の間と呼ばれていたのですが、開かずの間であるはずのその部屋が、幾度となく起こった江戸城の火災でも、再建されるたびに、なぜか必ず、その部屋も作り直され、その襖絵も、もとと同じように造り直されたのだとか・・・

嘉永六年(1852年)に、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)が、この開かずの間の前を通りかかった時、その部屋の前に座っていた黒い紋付を着た老女から挨拶を受けます。

「見知らぬ顔だな・・・」と思いつつ、通りすぎた後、そばにいた者に、「あの老女は誰なのだ?」と訪ねますが、そばにいた者たちは、誰一人として、そんな老女の姿を見てはいなかったのです。

慌てて宇治の間のほうを振り返ると、もう、老女の姿はありませんでした。

そして、間もなく・・・
家慶は亡くなります・・・キャ━━Σ(゚д゚;)━━!!
 

もちろん、この宇治の間は、最初から開かずの間であったわけではありません。

その部屋が開かずの間となった理由に、綱吉の死が絡んでいるのです。

綱吉の没後70年を経て、神沢杜口(かんざわとこう)によって書かれた随筆・『翁草(おきなぐさ)には、人づてに聞いた話として、この宇治の間が開かずの間となった経緯が書かれています。

それは、将軍・綱吉の時代・・・

なかなか後継ぎにめぐまれなかった綱吉・・・後々、後継者争いが起きないためにも、誰かを養子を迎えて、次期将軍を指名しておいたほうが良いのでは?という話が持ち上がるのですが、その時、綱吉が養子に迎えようとしたのが、御用人・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)の息子・吉里(よしさと)だったのです。

なぜ?・・・
たとえ綱吉に子供がいなくても、徳川の血を引く人は、いくらでもいるはず・・・例の御三家だって、そのためにあるようなものなのですから・・・

ところが、この吉保の息子・・・

実は、綱吉は、この吉保の側室・染子と深い仲になっていて、その側室が生んだ子供=吉里を、自分の子供だと思い込んでいたらしいのです。

しかし、当然の事ながら周囲は猛反対・・・正室の鷹司(たかつかさ)信子も、もちろん反対です。

ある日、そんな彼を説得しようと、信子は、あの宇治の間に綱吉を訪ねました。

しかし、いくら説得しても、綱吉の意思は固く、いっこうに聞き入れてはくれません。

どうしても、この養子縁組を阻止した信子は、持っていた懐剣(かいけん)を取り出して一突き・・・綱吉を殺害し、その直後、自らもノドを突いて自害したのです。

異変に気づいて駆けつけた家臣が見たものは・・・血の海に横たわり、すでに息絶えた二人の姿であったのです・・・って、さっきの老女の亡霊は、関係ないのかい?

・・・で、それ以降、誰もその宇治の間を使用する者がいなくなったのだと・・・
 

・・・と、長々と書きましたが、これは、あくまで噂・・・正史としては認められてはいません。

歴史の記録としては・・・

綱吉は、宝永六年(1706年)1月10日麻疹=はしかで死亡・・・奥さんの信子も、1ヵ月後の2月7日に、やはり麻疹で亡くなったとされています。

ただ、前年の暮れから発病していた綱吉が、この前日には、自分の誕生パーティ(綱吉は1月8日生まれ)を行うくらいに快復していたにも関わらず、容態が急変して死んでしまった事で、「殺されたのではないか?」という疑いが・・・

さらに、生前に夫婦関係がうまくいっていなかった事・・・そのワリには、同じ病気で後を追うように奥さんも亡くなってしまった事などで、二人の死亡直後から、巷では、その死について妙な噂が立っていました

しかも、かの信子さんのお墓には、しばらく金網が掛けられていたなんて話もあり、それが、いっそう噂に拍車をかけたようです。

このお墓に金網というのは、あの8代将軍・徳川吉宗享保の改革を非難した尾張・徳川家の徳川宗春のお墓が有名で、いわゆる幕府に刃向かった罪人という意味で、死してなお許す事ができない・・・てな事で掛けられるのだそうですが、やはり、将軍を刺し殺したとなれば、そりゃ、罪人として扱われるでしょう。

ただし、このお墓に金網も、あくまで噂・・・

実際には、この綱吉死亡の時には、徳川家光の孫が、すでに綱吉の養子となって江戸城に住まいしていたという事で、次期将軍に吉里の名があがる事はなかったと思われます。

その養子となった家光の孫というのが、第6代将軍の徳川家宣(いえのぶ)なのですから・・・。

でも、でも・・・
意地悪な考えかたをすれば、当時の封建的な時代背景から見て、「御台所が将軍を刺し殺した」なんて話を、徳川家の正式な文書に書き残すとは、とても思えないわけで、ひょっとしたら、事実をひた隠しにしている可能性もなきにしもあらず・・・

それに、実際に、大奥には、宇治の間という、開かずの間と化している部屋はあったようですし、その部屋が開かずの間となったのも、狩野派の描いた茶摘の絵が、あまりに美しいので、絵を守るためにその部屋を使用しなかったという言い訳は、あまりに苦しい気がします。

それなら、美しい襖絵の部屋は、皆、開かずの間になっちゃいますからねぇ。

はたして、真相はいかに・・・。
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2009年1月 9日 (金)

鳥羽伏見の戦い終結~大坂城の炎上はもののふの魂

 

慶応四年(1868年)1月9日、鳥羽伏見の戦いで敗戦し、徳川慶喜が去った後の大坂城が開城され、そして炎上しました。

・・・・・・・・・・・・

幕末・戊辰戦争の最初の山場である鳥羽伏見の戦いも、いよいよ最後です。

一応、これまでの経緯をまとめさせていただきますと・・・

慶応三年
 ●10月14日:大政奉還(参照>>)
 ●12月9日:王政復古の大号令(参照>>)
 ●12月25日:薩摩藩邸焼き討ち事件(参照>>)
開けて慶応四年
 ●1月1日:徳川慶喜が「討薩の表」を発する
 ●1月2日:「討薩の表」を提出すべく上洛
       :大坂湾・海戦(参照>>)
 ●1月3日:上洛中の幕府の隊列に薩摩が砲撃
        
(参照>>)
 ● ~6日:鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗退(参照>>)
 ●1月6日朝:慶喜が諸兵に大坂城への撤退を命令し、
         城に戻った将兵に「徹底抗戦の檄(げき)」を
         飛ばす
       夜:慶喜が大坂城を脱出(参照>>)

・・・で、昨日書かせていただいたように、7日の朝になって幕府軍の総大将である慶喜がいなくなった事に気づいた将兵たちで大坂城内が大騒ぎ(1月8日参照>>)となるのですが・・・

その時、大坂城内にいたのは、陸軍伝習隊(でんしゅうたい)新撰組などの幕府直属の将兵に、会津桑名鳥羽大垣などの諸藩の者たちで、未だ詳細を知らぬ鳥羽伏見の生き残りが、続々と大坂城に戻ってきている状況でした。

しかし、もはや総大将がいなくなってしまった以上、どうもこうもありませんから、皆、しかたなく、7日~8日にかけて準備の整った順に、大坂城をあとにする事になります。

桑名藩などは、7日の夕方に城を出て、で一泊、陸路で和歌山の突端の串本まで行き、そこから船で領国まで戻ったという事です。

老中格の大河内正質(おおこうちまさただ)など、幕府の直臣は船で江戸を目指しました。

そう、あの慶喜は、幕府艦隊の中の旗艦である開陽丸に乗り、その一隻だけで江戸に向かいましたから、開陽丸以外の船は、未だ大坂湾に停泊中のままだったので、その残りの船に分乗して帰ったわけです。

慶喜と入れ違いに大坂城にやってきて、スカを喰らわされた榎本武揚(たけあき)も、そのウップンを晴らすかのように、大坂城に残っていた武器や什器などをはじめ、18万両の御用金までもを、富士丸という船に積み込んで持ってってます。

新撰組の近藤勇土方歳三も、この富士丸に乗船して江戸に戻りました。

これらの、船は2~3日の間に、次々と出航していったという事です。

そして、ほとんどもぬけの殻となった大坂城に新政府軍がやってきたのは、慶応四年(1868年)1月9日の早朝の事でした。

城開け渡しの交渉役となったのは、幕府軍目付の妻木頼矩(よりのり・多宮)・・・新政府軍の代表を丁寧に出迎え、早速、開城の交渉に入ります。

ところが、です。

その会議の最中の午前9時・・・いきなり本丸から火の手が上がったのです。

その火は、またたく間に本丸全体を包み、やがて火薬庫に燃え移り、大爆発と同時にあたりは炎の海となります。

そうなんです。

実は、もぬけの殻だと思われていた大坂城ですが、未だ、開城に納得できない多くの兵たちが残っていたのです。

彼らは、あの6日の朝、慶喜が発した「たとえ城が焦土と化しても戦い抜こう!」という言葉に、その、もののふの魂を奮い立たせ、城を枕に討死する覚悟でいた者たちでした。

しかし、もはや、大量に押し寄せた新政府軍・・・ほとんどの将兵が去ってしまった今、抗戦する事は不可能と判断した彼らは、城に火を放ち、次々と自刃していったのです。

誰も消火にあたる者がいないうえ、冬特有の強い北風にあおられた大坂城は、一晩中燃え続け、ほとんどの建物を焼いた後、翌日の夕方にやっと鎮火します。

Takoisihikakucc 幕末期の蛸石(左)と現在の蛸石(右)
大阪城で一番の巨石として有名な桜門にある蛸石・・・幕末期の写真では、その蛸石の上にも建物があった事がわかります・・・この時の火災で焼失しました。

Taikoyagurahikakucc 幕末期の太鼓櫓(左)と現在の太鼓櫓跡(右)
この太鼓櫓も、この時の火災で焼失しました・・・ほぼ、同じ角度からの撮影です。

錦の御旗を掲げた征討大将軍・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)が大坂に入ったのは、その10日の事・・・。

仁和寺宮とともに、大坂城に入城した新政府軍の主力・薩摩と長州の藩兵は、焼け焦げた建物の中から多くの遺体を回収し、城とともに散った彼らを武士の鑑(かがみ)と称賛し、その遺志を汲んで、ここ大坂城内に埋葬しました。

それが、後に大阪市民に「残念塚」と呼ばれ、どんな願いも叶えてくれる神様として親しまれた現在の城中焼亡埋骨墳(じょうちゅうしょうぼうまいこつふん)・・・もはや、この墓石の事を知る人も少なくなった平成の今も、彼らは大阪城公園内にひっそりと眠ります。

Maikotufun800_3 大阪城・玉造口にある城中焼亡埋骨墳・・・くわしい場所はHPの【大阪城周辺・パーフェクト歴史散歩】でどうぞ>>

ここに、鳥羽伏見の戦いは終結しました。

この先、戊辰戦争は、江戸へ、東北へ、そして、函館へと舞台を移していく事になりますが、その前に・・・この直後に起こるアメリカ兵射殺事件については1月11日のページへどうぞ>>
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2009年1月 8日 (木)

徳川慶喜の忘れ物と火消し・新門辰五郎

 

慶応四年(1868年)1月8日正午、第15代将軍・徳川慶喜を乗せた開陽丸が、江戸へ向けて出航しました。

・・・・・・・・・

さて、1月5日の錦の御旗の出現によって、諸藩の寝返り、八幡橋本での敗戦を喫した幕府軍(1月5日参照>>)、敗走しながらも、枚方あたりで防戦をくりかえしていましたが、6日の朝にになって、幕府軍の総大将である15代将軍・徳川慶喜撤退命令が全軍に伝わり、その日の夜から7日の朝にかけて、続々と大坂城へと入城しました。

戦火をくぐり抜けて生き残った兵たちは、負けたとは言え、まだまだ、その士気は衰えていません。

そこへ、「たとえ、城が焦土となっても戦い抜こう!」という慶喜の檄(げき)が飛び、彼らは多いに奮い立ったのです。

なんせ、ここは難攻不落の大坂城・・・この時期の大坂城は、現在の大阪城と違って、天守閣こそ江戸期の落雷で失ったままであったものの、大手の多聞櫓(11月2日参照>>)をはじめ、天守閣以外のそれまでに失った建物は、ほとんど再建されていて、再び鉄壁の要塞となっていましたから、この大坂城さえあれば何とか持ちこたえられ、長期戦になれば、状況は変わると睨んでいたのです。

ところが、一昨日お話したように、慶喜は6日の夜に大坂城を抜け出してしまいます(1月6日参照>>)

7日の朝になって、慶喜がいない事に気づいた将兵たちは、唖然、愕然、呆然・・・やがて激怒!

そして、城内で・・・
「慶喜は松平容保(かたもり)とフランスへ逃げた」
などという噂が飛び交う中、そこへやって来たのは、あの榎本武揚(たけあき)・・・。

彼は、大坂湾に停泊中だった最強艦隊の旗艦である開陽丸(かいようまる)に乗船し、幕府艦隊の指揮をとっていたのですが、鳥羽伏見の戦いの敗戦を聞いて、その胸の内に反撃計画をたずさえ、慶喜に謁見するために大坂城へやって来たのです(1月2日参照>>)

そう、つまり、二人はすれ違い・・・

逆に、大坂城を出て大坂湾へ向かった慶喜は、武揚のいなくなった開陽丸に乗り、慶応四年(1868年)1月8日正午、江戸へと出航してしまったのです。

・・・と、ここで慶喜は、大坂城に大きな忘れ物をしてしまいます。

いや、忘れ物というより・・・それは、2mもあるシロモノなので、わずかの側近だけを連れて大坂城を脱出した慶喜には、持ち出せなかったのかも知れません。

そのシロモノとは・・・
神君家康公から受け継がれた徳川宗家の証し『金扇馬標(きんせんのうまじるし)です。

Kinsenumazirusisekigaharacc 馬標(馬印)とは、合戦の時に名のある武将が、大将の位置を示すために、その陣に掲げた目印で、有名なところでは豊臣秀吉逆さ瓢箪(さかさびょうたん)などがありますが、家康の場合は、その馬標が金の扇だったわけで、小牧長久手の戦い関ヶ原の合戦などでも、この馬標を使用しています。

・・てか、そんな大事な物を・・・(;´д`)トホホ…

・・・で、その大事な大事な馬標の回収を承ったのが、江戸町火消し『を組』の大親分として有名なあの新門辰五郎(しんもんたつごろう)だったのです。

彼は本名を町田辰五郎と言い、町田家が浅草寺の新門の警固をしていた事から、通称・新門辰五郎と名乗っていて、とび職のかたわらに町火消しの頭取となり、江戸の町の消火に一役買っていました。

しかし、45歳の時に、消火にあたっていた火事場で、有馬藩邸のお抱え力士とケンカ沙汰を起してしまい石川島の人足寄場に送られてしまいます。

しかし、そこで一年も経たないうちに人足たちをまとめる事に成功し、その人足たちを率いて大火事の消火に大活躍した事から罪を許された上、子分3千人を束ねて、江戸市中の警固をおおせつかります。

しかも、娘が奥女中として仕えていた事で、慶喜のお手がつき、今回の慶喜の上洛にあたっては、愛妾の父として、200人の子分を連れて、慶喜の身辺警護にあたっていたのでした。

その慶喜の命を受け、もはや、いつ敵軍が攻めてくるかもわからない大坂城で、金扇馬標を手にした辰五郎は、一目散に大坂湾へ急ぎますが、彼が到着した時には、開陽丸はすでに出航していました・・・待っとったれよ!慶喜

そこで、彼は、子分20名ほどとともに、敵軍真っ只中の東海道をひた走り、陸路で江戸に届けたのです。

現在も、久能山東照宮博物館に所蔵される金扇馬標・・・これは、その時の辰五郎以下、火消したちの勇気のたまもの、命がけの大仕事の証しだったのです。

さて、総大将のいなくなった大坂城では・・・と、続きのお話は1月9日:大坂城炎上>>で・・・
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2009年1月 7日 (水)

側室40人に子供55人・在位50年~1位づくしの徳川家斉

 

天保十二年(1841年)閏1月7日、江戸幕府・第11代将軍・徳川家斉が、69歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

第11代将軍・徳川家斉(いえなり)・・・この方が、歴代将軍の中で最も長い50年間に渡る在位の期間中、「将軍としてどんな政務を行ったか?」と聞かれると、ちょっと考え込んでしまいますが、「何をしたか?」と聞かれると、即座に答えられます。

「子供をつくった!」

なんせ、それは、もう歴代将軍の中でズバ抜けてトップの子だくさん・・・

40人とも言われる側室の中から命中した16人に、28人の男の子と27人の女の子・・・なんと!合計・55人もの子供を作ったのです。

中でも、寛政八年(1796年)・享和三年(1803年)・文化六年(1809年)・文化十二年(1815年)・文政二年(1827年)・・・この5つの年には、年間3人

さらに文政十年(1827年)の年には、年間に4人の子供を産ませています。

同じ学年にわが子が3人も4人もいたら、参観日はハシゴに次ぐハシゴ・・・運動会なんかビデオ回しっぱなし、三者面談で進路を迷ってるヒマもありませんがな!

あまりに精力絶倫な家斉さん・・・あの質素倹約の寛政の改革を推し勧めたカタブツ老中の松平定信(6月19日参照>>)から「回数が多過ぎては体に良くない」と注意されるほどでした。

・・・とは言え、この子づくりに関しては、ただ、本人が好きというだけではなく、実家から「子供を作れ!作れ!」と、かなりのプレッシャーをかけられてもいたようです。

Tokugawasyougunkeizu なんせ、家斉さんは、あの御三卿(ごさんきょう)の一つであった一橋家から、後継者のいない第10代将軍・徳川家治(いえはる)養子となって将軍を継いだ人・・・

この御三卿というのは、あの暴れん坊の第8代将軍・徳川吉宗が、将軍家に後継者がおらず、紀州出身で初めての将軍となった時、その後、自分の子孫以外に将軍の座を取られないために創設した、次男・四男・孫たちの、いわゆる分家(11月10日参照>>)でしたが、第9代と第10代は吉宗の長男の家系が将軍職を継いでいて、この第11代の家斉さんで、やっと一橋家に回ってきたのです。

こうなったら、ジッチャン・吉宗同様、今度は、一橋家以外へ将軍の座を渡してなるものか!となるわけで、そのためには、たくさんの子供を作って作って作り抜かねばならないのです。

なんせ、この頃は、子供の死亡率が大変高かったですから、たとえ無事に生まれても、成人するまで生きられるかどうか・・・現に、この家斉さんの子供たちも、無事成人したのは、55人のうち25人だけだったのですから・・・(それでも多いが・・・)

・・・とは、言うものの、将軍たるもの、第3代の徳川家光の時代から「子供を作れ!作れ!」とけしかけられている中で、家斉さんの55人はダントツ!・・・やはり、プレッシャーだけではない「アンタも好きねぇ~」というところがあったという事でしょう。

そもそも、17歳で薩摩藩主・島津重豪(しげひで)の娘・茂姫を正室に迎えた時にも、すでに婚礼の前に手を出していたという噂があるくらいお盛んだったようですから・・・。

その振る舞いを注意したカタブツ・定信をクビにして、水野忠成(ただあきら)が幕閣に返り咲いて実権を握ってからは、もはや、注意する者もなく、酒池肉林の毎日・・・

しかも、毎夜、正室や側室のところに渡るだけではなく、昼間には大奥の奥女中たちの部屋のあたりをさまよい歩き、「イイ女がいないか?」「何かェロい情報はないか?」とチェックして回っていたなんて話もあります。

どこまで史実かはわかりませんが・・・

ある時、奥女中たちが、大奥一巨漢の女中の事を・・・
「あの娘が妊娠したら、あの太鼓腹はどうなるんだろう?」
「さらに大きくなるのかしら?」
と噂話をしているのを聞いて、早速、その巨漢の女中を寝所に呼び出して手をつけた・・・なんて逸話も残っています。

ところで、世継ぎを絶やさないためとは言え、そんな多くの子供を作った以上、産ませっぱなしというワケにはいきません。

55人のうちの、ほぼ半分の25人ではありますが、成長したあかつきには、それこそ、三者面談&進路相談・・・その先の身の振りかたを考えてあげなければ・・・

しかし、質素倹約が失敗した反動で、生活は贅沢三昧。

さらに、その後は賄賂に始まる腐敗政治が横行し、幕府の財政は火の車となり、いくら自分の子供とは言え、そうやすやすと新しい大名家を作るわけにもいかず、男の子は他の大名の養子に、女の子は大名に輿入れに・・・

確かに、将軍の子供となると、養子として迎える大名にとっても名誉な事ではありますが、その大名にも何人かの子供がいて、すでに嫡男がいる場合は、けっこう迷惑な話で、中にはムリヤリ押しつけられたような人もいるとか・・・

ただ、これには、大名たちと血縁関係を結ぶ事によって、より強固な関係づくりを計ろうとした、あるいは、そうやって経済的な負担を与えて、将軍家に反発できないようにした・・・という見方もあるようですが、もはや、傾きかけた幕府には、あまり効果がなかったみたいです。

・・・で、結局、25人の子供の中の次男である徳川家慶(いえよし)が、彼の後を継いで第12代将軍となり、「オヤジに続け!」とばかりに励みまくり、果ては父親の側室にまで手を出しながら34人の子供をもうけたのですが、その中で成人したのは、たった一人・・・それが、昨年の大河ドラマで、篤姫のダンナとなった第14代将軍・徳川家定です。

そして、ご存知のように、家定には、子供は生まれずじまいです。

天保十二年(1841年)閏1月7日、その69歳の生涯を閉じた家斉さん・・・一橋家のために、55人もの子供を作りながらも、結局、その一橋家は、後継者がいなくなり徳川慶喜(よしのぶ)という水戸家からの養子をもらい、その慶喜は第15代将軍となって徳川幕府の幕を引く事に・・・。

なんとも皮肉な事です。
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2009年1月 6日 (火)

徳川慶喜の敵前逃亡~その原因は御三家にあり?

 

慶応四年(1868年)1月6日、3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、幕府軍の敗戦を聞いた第15代将軍・徳川慶喜が、大坂城を脱出し、江戸へ向かいました。

・・・・・・・・・・・・・

先一昨日の鳥羽伏見の戦い勃発(1月3日参照>>)、昨日の幕府軍の敗走(1月5日参照>>)・・・。

そして、いよいよ本日・・・慶応四年(1868年)1月6日に、その敗戦を聞いた江戸幕府第15代将軍(もう大政奉還してるので過去形)徳川慶喜が、わずかの側近だけを連れて、大坂城を脱出・・・いわゆる敵前逃亡するワケですが、そのお話はすでに、昨年の1月6日に書かせていただいております(昨年の1月6日を見る>>)

そこに書かせていただいたように、この賛否両論渦巻く慶喜の行動の真意は、おそらく、「今まさに、外国を相手にせねばならない時期に、日本人同士で争っている場合ではないが、このまま大坂城にいては戦いは避けられない」というところにあったと考えていますが、やはり、武家の大将としては、大勢の部下を残したままでの逃避は、「弱腰」と言われても仕方のないところではあります。

しかし、後日、そのような批判を受けなけらばならないようになる事は、さすがに、この時点の慶喜さんにも予想できたはず・・・なのに、彼は大坂城を後にしました。

状況を見る限り、周囲には目もくれず、強行突破とも言えるやり方で・・・。

そのかたくなな姿勢の背後には、何があったのでしょうか?

おそらくは、戦争回避あるいは日本の分断を阻止・・・だけではない、彼なりの思想という物が存在したのではないか?と思っています。

それは、慶喜が水戸の出身であるという事です。

もし、慶喜のこの敵前逃亡を、「徳川家の将軍=幕府軍の大将としてあるまじき行動である」と批判するのであれば、もともと水戸家の坊ちゃんを将軍にした事こそが間違いだったのでは?・・・と思うのです。

そう、本来、水戸家の人物は将軍になってはいけなかった・・・そのキザシという物は、徳川家の最初の最初からすでに見え隠れしていました。

以前、水戸黄門さまのところで書かせていただきましたが(12月6日参照>>)、あの初代の徳川家康が、徳川将軍家の安泰を願って作った御三家・・・

九男・義直尾張
十男・頼宣紀州
十一男・頼房水戸

後継ぎがいない時や将軍家に危機が訪れた時に手助けするこの3つの分家ですが、この中で、水戸家だけが『定府』と呼ばれる特別扱い・・・。

水戸家だけがなぜ定府となったかについては、そのページでも書かせていただいたように、諸説あって定かではないのですが、その特別扱いが、単なるお世継ぎサポートだけの分家ではない事は想像できます

それは、その水戸2代め藩主である黄門様こと徳川光圀の言動にも表れているように思うのです。

光圀が隠居して綱条(つなえだ)に藩主の座を譲ろうとした時、将軍・徳川綱吉の側近・牧野成貞が、綱条に苦言を呈したところ・・・
「わが水戸家は、尾張・紀州の両家とは違い、一朝ある時は、将軍の名代として采配をふるう事を許されている家柄・・・この神君以来の格式は、綱条の代になっても変わらない」てな事を、堂々と本人に向かって直接言っているのです。

さらに・・・
水戸家にとって、主君は天皇家であって、徳川将軍家は、親戚の中の長に過ぎない」というような言葉も残しています。
(私見ですが…この黄門様の言葉があったからこそ、水戸で水戸学が発展したのではないかと→10月2日参照>>

しかも、これらの言葉が、徳川250年の間、批判される事もなく、抹消される事もなく、堂々と残っているのですから、そこに、誰も手を出せない特別扱いがあったという事でしょう。

もちろん、その特別扱いをした張本人は、御三家を作った家康で、神君家康公の特別扱いだから、誰も手を出せないのです。

ひょっとして、これは、一種の保険=二股をかけたのでは・・・?

確かに、家康は、長期にわたる徳川家の安泰を願ってはいましたが、まさか、本当に300年間もの長きにわたって、徳川が将軍の座に着き続けるとは、あの開幕の直後には思っていなかったはず・・・

なんせ、天皇をあれだけビビらせた織田信長織田家も、天下を丸ごと息子に残した豊臣秀吉豊臣家も、2代目からは坂道を転げ落ちるように衰退していったワケですから・・・。

そこに浮かんだのは、家康自身が戦って目の当たりにした関ヶ原の合戦での現状・・・兄と弟が東西に別れて戦った前田利長・利政(7月14日参照>>)妹婿宇喜多秀家(8月6日参照>>)、そして、やはり兄弟・親子で別れた真田昌幸・信幸・幸村(7月21日参照>>)、さらに、本家と分家で画策した毛利輝元吉川広家(7月15日参照>>)

用意周到な家康が、これらの大名が行った「どっちか生き残り作戦」を見逃すはずはありません。

つまり、将来、再び関ヶ原のような天下分け目の戦いがあった時、二股をかけるための分家が水戸家ではなかったのか?という事です。

水戸光圀の時代から主君は天皇家と言ってはばからなかった水戸家・・・まして、慶喜は、その母も有栖川宮吉子(ありすがわのみやよしこ)様という皇族なのですから・・・。

水戸家から、将軍継承の家柄である一橋家に養子として入ったために、15代将軍となってしまった慶喜・・・

もし、本当に、家康が、まさかの時に本家とは別の道を選ぶ保険として水戸家を特別扱いにしたのだとしたら、慶喜は見事、その期待に答えた事になります。

ただ、本人=水戸家の人間が、その時の将軍だった事のほうが、家康の想定の範囲内ではなかったという事なのかも知れません。
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2009年1月 5日 (月)

戦場に翻る錦の御旗~鳥羽伏見の戦い・3日め

 

慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、伏見方面の戦場に錦の御旗が掲げられました。

・・・・・・・・・・・・・

京都へ向かう幕府軍の隊列に、薩摩が砲撃を加えた事によって始まった鳥羽伏見の戦い・・・ここまでのお話は1月3日参照>>(前日の大坂湾の海戦1月2日参照>>

翌日の1月4日には、征討大将軍に任ぜられた仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)が、錦の御旗(みはた)を掲げて薩摩藩兵に先導され新政府軍の本営・東寺に入ります。

Tobafusimimihata この錦の御旗は、あの後鳥羽上皇北条義時を倒そうとした承久の乱(5月14日参照>>)の時や、後醍醐天皇鎌倉幕府を倒そうと(4月8日参照>>)した時に掲げられたという記録をもとに、天皇の配下の軍である事を強調するために、岩倉具視が友人の国学者・玉松操(たままつみさお)(2月15日参照>>)にデザインを依頼して、密かに用意していたもの
・・・新政府軍が官軍で、幕府軍は天皇に刃向かう賊軍という事をはっきりと表したワケです。

この錦の御旗の威光が、この後、水戸黄門の印籠のように、まさしく、その威力を発揮します。

この4日には、早朝から反撃を試みる幕府軍でしたが、伏見でも鳥羽街道でも、苦戦を強いられます。

なんせ、未だ、前日と同じ縦列行軍・・・この期に及んで、まだ、強行姿勢をとれば、薩長は道を譲ると思っていたのでしょうか?・・・というより、幕府軍は諸藩の藩兵を寄せ集めただけの軍で、作戦らしい作戦も立てられておらず、統率のとれた集団は、かの見廻組と新撰組くらい・・・

しかも、その見廻組と新撰組はご存知のように刀槍の集団ですから、最新銃器の薩長からは狙い撃ちされるのは必至・・・ただ数が多いだけではとてもたちうちできなかった・・・というところでしょうか。

やがて、薩長軍が優勢のまま迎えた慶応四年(1868年)1月5日午後2時頃、伏見の戦場に、ついに錦の御旗が掲げられます。

Hosimotoyamazakitizucc 相手方の状況を、それほど把握していなかった幕府の諸兵たちは、その御旗を見て愕然とします。

上のほうの人はともかく、一般の藩兵にとっては、これはお国のため、良い事だと思いこんで戦っていたはずなのに、いつの間にか、自分が天皇に弓を向ける賊軍=極悪人になってしまっているのですから・・・。

逆に、当然の事ながら、薩長軍の士気はあがります。

さらに、それまで、薩長とともに戦場に出ていたものの、様子見ぃで戦闘に参加していなかった土佐藩兵は、この御旗を見るなり薩長軍に加勢・・・やがて鳥取藩兵も加わって、薩長は大いに力を増し、劣勢の幕府軍はしかたなく淀城への撤退を開始します。

Yodoa800 淀城跡:京都競馬場で有名な京阪・淀駅から石垣が見える近さです・・・ちなみに、この淀城は、豊臣秀吉が側室・茶々(淀殿)のために建てた淀城とは別の物です。

淀城は、老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の居城・・・大坂を出発した1月2日の夜に、幕府軍の本営として一夜を過ごした場所です。

その場所で態勢を立て直し、再び新政府軍と相まみえるつもりでした。

ところが・・・です。

幕府軍の兵たちが戻っても、淀城の城門はピッタリと閉ざされたまま・・・実は、この日、藩主の稲葉は、幕府の役職のため城を留守にしていたのですが・・・
「藩主の許可がない限り城門を開ける事はできない」と、拒否されたのです。

もちろん、それは単なるいいわけ・・・錦の御旗の威光に負けて、淀藩も新政府軍に寝返ったのです。

幕府の兵たちは激怒して、城門を力ずくで壊そうそますが、とてもじゃないがムリ・・・。

城門を「開けろ!「開けない!」1時間ほどの小競り合いの末、諦めた幕府軍の諸兵は、さらに南の橋本にある久修園院(くしゅうおんいん・くずおんいん)を本営として、ここを最後の抵抗拠点と定め、眠れぬ夜を迎えます。

Dscn1178a800 久修園院:あたりが焦土となった鳥羽伏見の戦いの中、久修園院は残りました。

ここを破られたなら、もはや、敵の流れをせき止める場所はなく、そのまま大坂への侵入を許す事になってしまうのです。

一方の新政府軍は、幕府軍が去った淀城に入り、ここに配備されていた8問の大砲を手に入れ、5kmほど離れた幕府軍に睨みをきかせます。

しかし、翌・1月6日の昼近く、幕府軍は予想もしなかった場所からの攻撃を受ける事になります。

それは、淀川を挟んで、橋本の対岸にある山崎の地・・・ここは、あの豊臣秀吉が、本能寺で主君・織田信長を討った明智光秀と戦った、あの山崎の合戦(6月13日参照>>)のあった天王山の麓。

Hasimotohoudaibacc ここ山崎に布陣していた津藩が、対岸の高浜砲台から、いきなり橋本砲台場に狙いをさだめて砲撃してきたのです。

もちろん、津藩は、それまでは幕府側・・・慶応元年(1865年)から山崎の警固を任せれていたのですが、前日の夜に勅使(天皇の使い)四条隆平(たかとし)が、津藩の代表に会い、新政府軍への寝返りを即していたのです。

敵は、北から来るものと思っていた幕府の兵は、この対岸からの攻撃に浮き足立ち、京街道沿いの寺や民家に火を放ちながら逃走・・・中には、農民に変装して、一目散に逃げる者もいたのだとか・・・

こうして、幕府軍最後の守りの地は破られました。

一方、この時、大坂城にいた将軍・徳川慶喜・・・3日・4日・5日と、刻々と伝えられる戦況は、おそらく予想外だった事でしょう。

度重なる敗北、諸藩の裏切り、そして、錦の御旗・・・しかし、この6日の日、慶喜は、大坂城に詰める将兵に向かって・・・
「たとえ、城が焦土と化しても国賊を倒すまで戦おう!」
と、徹底抗戦を表明します。

ところが、その夜・・・ご存知、慶喜の敵前逃亡・・・

彼は、わずかの側近とともに、大坂城を抜け出すのですが・・・その日のお話は、
2008年の1月6日【慶喜の本心は?】>>
2009年の1月6日【原因は御三家にあり?】>>
の二度に渡って書かせていただいておりますので、お好きなほうからどうぞ・・・

★久修園院&橋本砲台場跡へのくわしい行きかたは本家HPの「京都歴史散歩」でどうぞ>>
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2009年1月 3日 (土)

薩摩の砲撃で戦闘開始!~鳥羽伏見の戦い

 

慶応四年(1868年)1月3日、京に向かう幕府の隊列に、薩摩藩が砲撃・・・鳥羽伏見の戦いが開戦されました。

・・・・・・・・・・・・・・

江戸市中で展開されていた薩摩藩のテロ行為に対し、取締りと称して、幕府軍が薩摩藩邸を焼き討ちしたのが、前年・慶応三年(1867年)の12月25日・・・。

その知らせが大坂城にいる第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとに届いたのが12月28日で、「即刻、薩摩を討つべし!」と、城内が盛り上がる中、3日後の新年・1月1日には、その慶喜から『討薩の表』=薩摩藩への宣戦布告が発せられ、翌日の1月2日には、その『討薩の表』を朝廷に提出すべく、老中格の大河内正質(おおこうちまさただ)を総督に1万5000の幕府軍が、京を目指して大坂城を出立・・・と、12月25日のページでは、ここまで書かせていただきました(12月25日参照>>)
 

大坂を出立した幕府軍は、その日の夕方に老中・稲葉正邦(いなばまさくに)の本拠地・淀城へと到着し、ここで一夜を過ごします。

実は、この日、鳥羽伏見より先に、大坂湾にて海戦が行われています…くわしくは1月2日参照>>

そして、いよいよ翌・慶応四年(1868年)1月3日、幕府軍は、陸軍奉行・竹中重固(しげかた)率いる会津藩鳥羽藩新撰組などの伏見街道を進む本隊と、大目付・滝川具拳(ともあき)率いる桑名藩大垣藩見廻組などの鳥羽街道を進む別働隊との二手に別れ、それぞれ京を目指します。

Dscn3710800 一方、行く手を阻む新政府軍は5000・・・長州藩が中心の伏見街道方面担当は御香宮神社に布陣し、薩摩藩中心の鳥羽街道担当は、鴨川に架かる小枝橋付近に布陣します。

双方ともに、すでに軍備の近代化を図っており、ライフル銃などの最新火器は導入済み・・・数の上では、断然、幕府軍のほうが有利でした。

しかし、新政府軍の目下の心配は、その兵力差ではありません。

新政府軍が何より恐れていたのは、これが薩長による私的な戦いと見なされる事・・・先日の12月25日のページにも書かせていただいたように、未だ政権担当能力のない朝廷は、その条件によっては、慶喜が新しい議会での最高責任者となる約束をしたりなんぞしています。

だからこそ、幕府軍は、朝廷に『討薩の表』なる物を提出しに行くわけで、本隊を率いる竹中は、幕府側が強行突破の姿勢をとれば、立ちはだかる薩長も道を譲るに違いないと判断していて、この日の正午頃には、「この隊列は、将軍・慶喜が入京するための先陣としての通行である」事を薩摩に通告していました。

しかし、彼ら、新政府軍にとっては、この戦いが単なる薩長の反乱ではなく、新政府が旧幕府に取って代わるクーデターでなくては困るのです。

なんせ、これが、薩長の私的な戦いだとなれば、多くの藩が幕府側につくかも知れませんし、そうなれば、弱腰の朝廷もどうなるものかわかりません。

そこで新政府軍は、総裁・議定・参与などを召集して緊急会議を開き「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」事を決定させます。

やがて、幕府軍の隊列が新政府軍の布陣するあたりに到着すると、伏見街道と鳥羽街道の両方で・・・
「このまま通行させろ」
「朝廷の許可が出るまで通行できない」
の小競り合いがはじまります。

そして、夕刻・・・午後5時頃、鳥羽街道にて強行突破しようとする幕府の隊列に、薩摩側が砲撃を開始し、これをきっかけに戦闘が始まります。

その時、一方の伏見では、御香宮に陣取る長州と、伏見奉行所に陣取る幕府軍とがにらみ合い状態でしたが、かの鳥羽街道での砲撃の音をきっかけに、こちらでも戦闘が開始されます。

鳥羽街道では、道を開けてくれるものと思って、2列の縦列で行軍していた幕府軍は、左右に兵を配置していた薩摩軍の集中砲火を浴び、またたく間に被害者が続出・・・さらに、砲撃の音に驚いた馬が奔走して、早くも統率を取る事が不可能な状態に陥るとともに、戦闘に長けた見廻組は、刀中心で銃砲の前には、まったく歯が立たない状況・・・。

Fusimikondoutizucc 以前upした丹波橋周辺の地図ですが・・・

その点、しっかりと陣取った伏見では・・・と言いたいところですが、本隊ゆえに兵の数が多く、狭い市街戦となってしまった事で、逆に身動きがとれなくなってしまってしました。

頼みの綱の新撰組でしたが、やはり彼らも刀中心・・・統率のとれた新政府軍は、彼らをかわして本陣の伏見奉行所に向かって銃砲の集中砲火・・・幕府軍は畳を並べて盾とし、反撃を繰り返しますが、やがて夜になる頃には、伏見奉行所そのものが炎上し、やむなく淀城へと撤退しました。

一方の鳥羽街道は、もともと薩摩側が優勢だったところに、さらに夜になって、昼間の会議で決定された「幕府軍が撤退しなければ朝敵とみなす」の一報が届き、薩摩側が官軍、幕府側が賊軍となった事で、薩摩は盛り上がり、幕府は落ち込み、その勝敗が決定的となってしまい、幕府軍は後方へと撤退します。

この日、戦況が気になって、伏見まで視察にやってきた西郷隆盛は、大久保利通へ・・・
「明日は、錦の御旗を本陣にひるがえして、皆で盛り上がろうぜ!」
と、喜びを隠しきれないご様子・・・。

Tobafusimimihata そして、翌・4日、朝廷から征討大将軍に任じられた議定・仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう・後の小松宮彰仁親王)は、天皇から錦の御旗を授かり、その御旗を先頭に、新政府軍の本営・東寺へと向かう事になります。

この錦の御旗が、戦場にかかげられるのは5日の事・・・

やがて、御旗の威光によって、鳥羽伏見の戦いは、更なる展開を見せるのですが、そのお話は、やはり1月5日のその日ページへどうぞ>>

(戦場となった伏見周辺の歴史散歩へはコチラからどうぞ>>
 

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2009年1月 2日 (金)

日露戦争のキーポイント~旅順・陥落

 

明治三十八年(1905年)1月2日、乃木希典将軍率いる日本軍によって、日露戦争の重要ポイントである旅順が陥落しました。

・・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

明治三十七年(1904年)2月10日に、日本の宣戦布告によって始まった日露戦争(2月10日参照>>)・・・開戦前の作戦では、陸軍の第1軍が朝鮮半島を占領し、第2軍が満州南部でロシアの主力を撃破、海軍がウラジオストック旅順(りょじゅん)を本拠地とするロシア太平洋艦隊を撃破して黄海と日本海の制海権を掌握する事でした(2月9日参照>>)

開戦早々の2月~5月にかけて、旅順港内での連合艦隊とロシア太平洋艦隊の激突は、双方ともに大きな犠牲を払い、これによって日本軍は、海軍による旅順攻略から、陸軍による旅順奪取へと傾きます。

当然ロシアも、陸上からの旅順攻撃を警戒し、太平洋艦隊をウラジオストックに移動させるべく、8月10日に旅順港を出航・・・これを追う形になった東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる連合艦隊は、黄海での決死の追撃作戦に勝利し、壊滅状態となって散り散りになったロシアの戦艦は、結局、1隻もウラジオストックにたどりつく事なく、何とか旅順に戻った船も、もはや戦闘能力すらない状態でした(8月10日参照>>)

一方、陸路からの旅順攻略の目的で新たに編制された陸軍・第3軍は、乃木希典(のぎまれすけ)を司令官に、6月には旅順近郊にまで兵を進めていました

やがて8月19日、最初の総攻撃を開始します。

まずは、徹底的に砲撃した後、歩兵の突撃を開始させますが、塹壕(ざんごう・土を積上げた防御施設)に隠れていた敵兵の機関銃攻撃により、多数の死傷者が出てしまい、結局、24日に、それ以上の攻撃を中止・・・初戦は失敗に終ります。

次ぎは、日本側が敵の要塞近くへと、ジグザグの塹壕を構築し、接近して奪取する作戦に切り替えるとともに、本土から対馬防衛のために移動させていた28サンチ榴弾砲(りゅうだんほう)を、旅順の要塞への攻撃に使用するため、こちらに移動させました。

28サンチ榴弾砲は、もともと海沿いの要塞から、敵艦船を砲撃するために開発されたもので、その威力はすさまじく、この時も、コンクリートで固めた要塞の屋根を吹き飛ばすほどのダメージを与え、敵兵を大いに振るえあがらせました。

しかし、10月26日に開始された、この2回目の総攻撃でも、結局、旅順要塞を落す事はできず、11月1日を以って攻撃は中止されます。

度重なる攻撃失敗のニュースは世界を駆け巡ります。

先の黄海での海戦で、すでに壊滅状態となっているロシア太平洋艦隊ですが、あまりに旅順の攻略に手こずっていると、後の講和交渉にも影響を及ぼすかも知れません。

さらに、ここに来て、ロシは、未だ温存していたバルチック艦隊を、ヨーロッパ戦線から、対日本へ向けて動員する事を決定・・・日本側としては、遠くヨーロッパからのバルチック艦隊が、こちらに到着するまでには、何とか旅順攻略を果たしたい。

日本軍は、バルチック艦隊の到着は、「早くても翌年の1月」と判断し、それまでに旅順を攻略すべく、11月25日に、3回目の総攻撃を開始します。

それまでの第3軍の主力だった第1師団=東京・第9師団=金沢・第11師団=善通寺に、第7師団=旭川を加えて、まずは、北西側に位置する203高地への攻撃・・・たびたびの逆襲に遭いながらも、12月5日、ここを、完全制圧する事に成功しました。

この旅順を見下ろす高台をゲットできた事で、戦況は一気に逆転されます。

なんせ、ここから、あの28サンチ榴弾砲を発射する事ができるわけですから・・・ここから発射された砲弾の数は、約1万7000発と言われています。

そして、年が明けた明治三十八年(1905年)1月2日、ロシアのステッセル中佐が降伏に応じ、旅順は開城されました。

その後、日露戦争は、極寒の奉天(ほうてん)会戦(3月10日参照>>)・・・さらに、あの日本海海戦(5月27日参照>>)へと続く事になります。

ところで、有名な小説・『坂の上の雲』では、この時の旅順攻略戦において多くの戦死者を出してしまった事で、「乃木希典・愚将論」なるものが展開されているようですが・・・と言っても、度々書いていますように、私、小説はまったく読まないので、噂で聞いた程度なのですが・・・。

司馬遼太郎さんという、すばらしい小説家がお書きになった、この優れた小説のおかげで、何やら、この旅順攻略戦においての乃木さんの作戦が、失敗であったかのような印象を受けてしまいます。

かくいう私も、近代史は苦手なので、漠然と、そのような印象を受けていましたが、ここ最近では、「この時の乃木さんの作戦は正しかった」という見方も出てきているようです。

そもそも、敵の鉄壁の要塞を攻撃するわけですから、戦国で言えば城攻め・・・この城攻めには多大の犠牲を払わねばならないのは、孫子の昔からの常識ですからね・・・そう考えれば納得です。

今年の秋には、NHKが総力をかけたスペシャルドラマとして、この『坂の上の雲』が放送されるとの事なので、小説の内容は、そちらのほうでチェックしてみたいと思っている次第です。
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2009年1月 1日 (木)

ぶろぐ河原の落書2009~新年のごあいさつ

 

この頃 都にハヤル物
おバカ アラフォー 蟹工船

ガソリン探して西東
暫定税率 大騒ぎ
あれは いったい 何だった?

ゲリラ豪雨に耐えぬけど
リーマン兄弟 くしゃみすりゃ
遠い日本で派遣切り

ウソで飾った祭典も
上野 投げきり、北島 泳ぎ
終わり良ければ、すべてヨシ?

ささやき女将がささやいて
「もったいない」と二度三度
エコ重視にも、ほどがある

年金テロと思いきや
愛犬チロの復讐で
未だ、動機は不解明

「あなたと違う」とチェンジした
ローゼン麻生の支持率は
もはや、未曾有
(みぞうゆ)の低迷(ていまい)
去年も書いた独法は、停滞どころか骨抜きに

悪戦苦闘の一年も
気分一新 再出発

去年の苦悩は より高く
ジャンプのための準備なり

Hen2cc

 

まずは、例年通り、「二条河原の落書」っぽく、昨年の世相を振り返り、新年のご挨拶とさせていただきました~

上記の文の中の「去年も書いた独法」というのは、昨年の新年のご挨拶にも、独立法人の事を書かせていただいた・・・という意味でございます。
(昨年のご挨拶はコチラからどうぞ>>

 

 ではでは、あらためまして・・・

新年、明けましておめでとうございます。

今年も、新年早々、「今日は何の日?徒然日記」に遊びに来ていただいてありがとうございます。

昨年同様、本年もよろしくお願いいたします。
 

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