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2009年1月 2日 (金)

日露戦争のキーポイント~旅順・陥落

 

明治三十八年(1905年)1月2日、乃木希典将軍率いる日本軍によって、日露戦争の重要ポイントである旅順が陥落しました。

・・・・・・・・・・

これまでの日露戦争の経緯について、
くわしくは、コチラ↓のリンクから…

・‥…━━━☆

明治三十七年(1904年)2月10日に、日本の宣戦布告によって始まった日露戦争(2月10日参照>>)・・・開戦前の作戦では、陸軍の第1軍が朝鮮半島を占領し、第2軍が満州南部でロシアの主力を撃破、海軍がウラジオストック旅順(りょじゅん)を本拠地とするロシア太平洋艦隊を撃破して黄海と日本海の制海権を掌握する事でした(2月9日参照>>)

開戦早々の2月~5月にかけて、旅順港内での連合艦隊とロシア太平洋艦隊の激突は、双方ともに大きな犠牲を払い、これによって日本軍は、海軍による旅順攻略から、陸軍による旅順奪取へと傾きます。

当然ロシアも、陸上からの旅順攻撃を警戒し、太平洋艦隊をウラジオストックに移動させるべく、8月10日に旅順港を出航・・・これを追う形になった東郷平八郎(とうごうへいはちろう)率いる連合艦隊は、黄海での決死の追撃作戦に勝利し、壊滅状態となって散り散りになったロシアの戦艦は、結局、1隻もウラジオストックにたどりつく事なく、何とか旅順に戻った船も、もはや戦闘能力すらない状態でした(8月10日参照>>)

一方、陸路からの旅順攻略の目的で新たに編制された陸軍・第3軍は、乃木希典(のぎまれすけ)を司令官に、6月には旅順近郊にまで兵を進めていました

やがて8月19日、最初の総攻撃を開始します。

まずは、徹底的に砲撃した後、歩兵の突撃を開始させますが、塹壕(ざんごう・土を積上げた防御施設)に隠れていた敵兵の機関銃攻撃により、多数の死傷者が出てしまい、結局、24日に、それ以上の攻撃を中止・・・初戦は失敗に終ります。

次ぎは、日本側が敵の要塞近くへと、ジグザグの塹壕を構築し、接近して奪取する作戦に切り替えるとともに、本土から対馬防衛のために移動させていた28サンチ榴弾砲(りゅうだんほう)を、旅順の要塞への攻撃に使用するため、こちらに移動させました。

28サンチ榴弾砲は、もともと海沿いの要塞から、敵艦船を砲撃するために開発されたもので、その威力はすさまじく、この時も、コンクリートで固めた要塞の屋根を吹き飛ばすほどのダメージを与え、敵兵を大いに振るえあがらせました。

しかし、10月26日に開始された、この2回目の総攻撃でも、結局、旅順要塞を落す事はできず、11月1日を以って攻撃は中止されます。

度重なる攻撃失敗のニュースは世界を駆け巡ります。

先の黄海での海戦で、すでに壊滅状態となっているロシア太平洋艦隊ですが、あまりに旅順の攻略に手こずっていると、後の講和交渉にも影響を及ぼすかも知れません。

さらに、ここに来て、ロシは、未だ温存していたバルチック艦隊を、ヨーロッパ戦線から、対日本へ向けて動員する事を決定・・・日本側としては、遠くヨーロッパからのバルチック艦隊が、こちらに到着するまでには、何とか旅順攻略を果たしたい。

日本軍は、バルチック艦隊の到着は、「早くても翌年の1月」と判断し、それまでに旅順を攻略すべく、11月25日に、3回目の総攻撃を開始します。

それまでの第3軍の主力だった第1師団=東京・第9師団=金沢・第11師団=善通寺に、第7師団=旭川を加えて、まずは、北西側に位置する203高地への攻撃・・・たびたびの逆襲に遭いながらも、12月5日、ここを、完全制圧する事に成功しました。

この旅順を見下ろす高台をゲットできた事で、戦況は一気に逆転されます。

なんせ、ここから、あの28サンチ榴弾砲を発射する事ができるわけですから・・・ここから発射された砲弾の数は、約1万7000発と言われています。

そして、年が明けた明治三十八年(1905年)1月2日、ロシアのステッセル中佐が降伏に応じ、旅順は開城されました。

その後、日露戦争は、極寒の奉天(ほうてん)会戦(3月10日参照>>)・・・さらに、あの日本海海戦(5月27日参照>>)へと続く事になります。

ところで、有名な小説・『坂の上の雲』では、この時の旅順攻略戦において多くの戦死者を出してしまった事で、「乃木希典・愚将論」なるものが展開されているようですが・・・と言っても、度々書いていますように、私、小説はまったく読まないので、噂で聞いた程度なのですが・・・。

司馬遼太郎さんという、すばらしい小説家がお書きになった、この優れた小説のおかげで、何やら、この旅順攻略戦においての乃木さんの作戦が、失敗であったかのような印象を受けてしまいます。

かくいう私も、近代史は苦手なので、漠然と、そのような印象を受けていましたが、ここ最近では、「この時の乃木さんの作戦は正しかった」という見方も出てきているようです。

そもそも、敵の鉄壁の要塞を攻撃するわけですから、戦国で言えば城攻め・・・この城攻めには多大の犠牲を払わねばならないのは、孫子の昔からの常識ですからね・・・そう考えれば納得です。

今年の秋には、NHKが総力をかけたスペシャルドラマとして、この『坂の上の雲』が放送されるとの事なので、小説の内容は、そちらのほうでチェックしてみたいと思っている次第です。
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明治・大正・昭和」カテゴリの記事

コメント

僕も近代史には疎いのと近代史を基にした小説は殆ど読んだ事が無いので、乃木大将がどんな風に評されてるのか知りません。ただ乃木大将愚将論は、東郷大将が比較的に軽微な損傷で大国ロシア海軍を壊滅状態に追い込んだのに比して、あまりにも多くの犠牲者を出したって点で論じられてるんでしょうね。話は変わりますが…今年も我が家では祖父の義兄が日露戦役凱旋記念の盃でお屠蘇を戴きました。

投稿: マー君 | 2009年1月 2日 (金) 08時01分

マー君さん、こんにちは~

司馬遼太郎さんは、ご自身は、フィクションとノンフィクションとを、ちゃんと書き分けていらっしゃるようですが、小説があまりのよいデキなので、読む側の人が、つい、それが本当の事だったように思ってしまうんでしょうね。

多少なりとも記録が残る乃木将軍は大丈夫でしょうが、坂本龍馬は、もはや収拾がつかない状態になってしまってますね。

>日露戦役凱旋記念の盃・・・いいですね。

投稿: 茶々 | 2009年1月 2日 (金) 10時43分

明けましておめでとうございます。

私も近代史は中世・近世ほど詳しくはありません。
ただ、日露戦争は日本が初めて列強を相手にした戦争なので(ロシアの動員兵力が不本意な数だったとはいえ)、どこかで苦戦を強いられるのは大いに有り得たことでしょう。乃木希典将軍を愚将というのは言い過ぎだと思いますね。

投稿: KAKI | 2009年1月 2日 (金) 19時48分

KAKIさん、あけましておめでとうございます。

「坂の上の雲」の場合は小説なので、善と悪をはっきりさせたほうがオモシロイので、そういう描き方になってるんだと思います。

投稿: 茶々 | 2009年1月 2日 (金) 22時49分

乃木さんが善良なだけで愚将だったという話は、比較的広まっているようですが、張本人は司馬さんですかw(゚o゚)w

私が住んでいるのはウィーンで、以前に市立図書館分館に行ったとき、受付の人が「目下、日本海海戦に関する本を読んでいる」と言うので、ビックリしたことがあります。その人の話によると、当時のロシアは帝政末期で汚職がはびこり、軍艦なども手抜き建造で、日本側の砲撃でどんどん穴の開くようなオソマツなものだったとのこと。その後、自分で調べてはいませんが、そういうロシア帝国側の内部崩壊も、日本側に有利に作用したのでしょうか?

イギリスの考古学者ゲルトルート・ベルの旅行記によると、日露戦争の結果で、オスマントルコ領内も沸きあがっていたようです。オスマントルコは露土戦争に負けた後で、ヨーロッパ列強の圧迫を受けていたので「敵の敵は友」ということだったでしょうかね( ´_ゝ`)フーン

投稿: ななみみず | 2009年1月 5日 (月) 02時25分

ななみみずさん、こんばんは~

つい最近見たテレビ番組の中のトルコでの街頭インタビューで、「あなたの知っている日本人は誰ですか?」という質問に、ヨーロッパで活躍中のサッカー選手と肩を並べて東郷平八郎が3位か4位に入ってました。

やっぱり、日本海海戦の勝利は、アチラでも有名なんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2009年1月 5日 (月) 03時22分

和歌山県の串本にある大島に行った時、オスマントルコの軍艦が沈没したときに多くの人が救助されていて、今もトルコの人は日本に対していい印象を持っている、という話を知りました。好印象を持っていた相手が共通の敵を撃ち破ってくれて、更に好感度アップ、といったところもあるのでしょうか。

投稿: おきよ | 2009年1月 6日 (火) 09時12分

おきよさん、こんばんは~

>オスマントルコの軍艦が沈没したときに多くの人が救助されて・・・

それ、テレビ番組か何かで聴いた事があります。
ただ、和歌山だという事は、すっかり忘れてました~

日本の戦後養育のおかげで、そういった感じの事が消されてしまって残念ですね。

投稿: 茶々 | 2009年1月 6日 (火) 18時16分

司馬遼太郎先生で思い出した話です。
以前、「歴史研究家や史学専攻の大学教授などは、時代小説・歴史小説を書かない」と投稿で書いた事がありますが、「書けない」のではないかとも思います。
フィクションである場合は架空の人物が主人公でも、読者に「東大の教授が書いたのだから、内容が100%うそではないよ」との目で見られたり、職業的立場が邪魔をして、「この俗説は書くのに躊躇する」と場面の現実性を求めたり、ノンフィクションでも時代考証が正確な反面、「~の部分は別の説もあります」と言う指摘があると、立場上否定できません。どうしても「専門家ゆえのジレンマ」(=内容の柔軟性を奪う)が生じるらしいです。
どうしても上記に該当する人が、時代小説や歴史小説を書きたい時は、本名や経歴を伏せるのでないか(実際に「時代作家」の中にいる可能性あり?)と思います。
だから、「歴史の専門家ではない立場」の人は、執筆にあたる独自調査と「読者の想像に任せる立場」で、歴史小説などを障害なく書ける(内容がどうであれ)と言われます。

投稿: えびすこ | 2011年7月 8日 (金) 18時56分

えびすこさん、こんばんは~

確かに、それもあるかも知れません。
ただ、もともと教授や歴史研究者の方は、論文や研究の執筆活動で手いっぱい…って感じもしないではないです。

講演もこなしておられますしね。

投稿: 茶々 | 2011年7月 8日 (金) 19時49分

またまた登場(大爆笑)うちの母が、♪旅順開城 約成りて 敵の将軍ステッセル 乃木大将と会見の所は何処
水師営 ♪庭に一本棗の木 弾丸痕もいちじるく 崩れ残る民屋に
今ぞ相見る二将軍 ♪乃木大将は厳かに お恵み深き大君の 大詔伝うれば 彼かしこみて謝し奉る♪を歌います。この歌を妹がスマホで調べたら、何と9番までありました(\(◎o◎)/!)。流石に母も、4番以降は知りませんでした。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月16日 (土) 21時54分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

以前、どこかのページでも書かせていただきましたが、こういう系の唱歌の歌詞は、今では、変更されていたり、割愛されていたりする事が多いですよね。

投稿: 茶々 | 2015年5月17日 (日) 02時23分

初めてメール差し上げます。
私は普段アメブロで上記のハンドルネームで、どーしよーもない記事を書いているものです。
いつもいつも羽柴茶々管理人様の綿密な資料集めと繊細で人を引き付ける文章構成、特に1500-1600年代の国盗り合戦ものでしょうか、は楽しみにと申しますより、尊敬のまなざしで拝読させていただいております。
「耳川の合戦」をはじめとする九州合戦の布陣展開図と間然とするところなき説明文、私の教科書となっております。

ところで、今回、旭川師団を「第9」とお書きになっておられますが、旭川は「7師」であります。国内で最後に旅順に向け出征、当時203は7で割り切れるので「割る=敵陣(203高地)を破る」とまことしやかに師団をヨイショして送り出したとうかがっております。
初めてお送りしたメールですのに長文となりましたことご容赦ください。
203÷7=29の話は、私の高校時代(当時も今も札幌在住です)の日本史で習いました。

投稿: カラスのクンセイ | 2015年6月 6日 (土) 02時04分

カラスのクンセイさん、こんばんは~

アッ(゚0゚)ホントだ!
金沢と旭川の両方が第9師団になってしまっているのに、全然気づいてませんでしたね(゚ー゚;
おっしゃる通り、旭川は第7ですね。

早速…(と言っても、記事を書いてからだいぶなりますが)訂正させていただきました。
ありがとうございます。

投稿: 茶々 | 2015年6月 6日 (土) 03時31分

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