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2009年1月11日 (日)

幕末~日本最大の危機だった?アメリカ水兵射殺・神戸事件

 

慶応四年(1868年)1月11日、鳥羽伏見の戦いで混乱する中、神戸に避難していたアメリカ人水兵を、岡山藩兵が射殺する事件が起きました。

・・・・・・・・・

さすがに、先日の大坂城・開城&炎上(1月9日参照>>)で、その話題は尽きただろうと思った鳥羽伏見の戦い・・・実は、まだ、残ってました~ww。

それは、すでに、大坂などにたくさんいた外国人たちと鳥羽伏見の戦いの関係です。

幕末のこの時期、幕府が修好通商条約を結んだ国は、アメリカイギリスフランスオランダロシア・・・などなど・・・。

その中でも、大きな力を持っていたのは、フランスのロッシュとイギリスのパークス

当時、フランスとイギリスは、遠きヨーロッパでは対立関係にありましたが、対・日本に関しては、その利害関係が一致すれば、あの下関戦争(8月8日参照>>)の時のように、お互いに協力するという姿勢を見せていました。

そんな中の12月7日、列強各国の一番の目標であった大坂と神戸(兵庫)の開港が成されて多くの外国人が大坂へと集まってきて、ホッとしたのもつかの間、王政復古の大号令(12月9日参照>>)が断行され、彼ら外国人も、この日本の行く末が気になるところとなります。

なんせ、彼らが「タイクン」と呼んでいた将軍・徳川慶喜の幕府と、「ミカド」と読んでいた明治天皇の新政府・・・二つの政府が同時に並び立つ状況になってしまったからです。

そこでもって勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)・・・そして、大坂城・開城。

この時、やはり、大坂に滞在していたイギリス人通訳・アーネスト・サトウ(8月26日参照>>)は、いつでも大坂湾上の船に乗り込めるよう天保山のあたりに避難していましたが、イギリス公使館の事が気になって城下に向かったところ、燃え盛る大坂城を目の当たりにし、周辺は大変な人だかりで、暴徒化した民衆が略奪行為に走っていたと、その恐怖を生々しく記録しています。

そこで、多くの外国人は、戦火を逃れるように、大坂から神戸へと移動しますが、戦いはあくまで日本国内の内政・・・ここは口を挟まず、動向を見守っていたのです。

しかし、慶応四年(1868年)1月11日、事件は起こります。

戦いの混乱の中、その神戸で岡山藩兵が発砲し、アメリカ人水兵を射殺してしまったのです。

怒った列強国軍隊は、神戸港に停泊中だった船から、すぐさま上陸し、外国人居住地を占拠してしまいます。

すわ!国際問題に・・・っと、ここで、この問題に立ち向かわねばならないのは・・・そうです、以前、【薩摩藩邸・焼き討ち事件】のページ(12月25日参照>>)で書かせていただいたように、この時、外交権を握っていたのは、幕府のほう・・・

という事は、この問題を解決するのは、幕府の役目なのですが、その肝心の将軍・慶喜は、6日の夜に大坂城を抜け出し(1月6日参照>>)、8日に大坂湾を出航し(1月8日参照>>)、もはや、洋上の人・・・(慶喜が浜離宮に上陸するのは12日)

そこで、この列強国との話し合いをやったのが、新政府・・・勅使(ちょくし・天皇の使い)として派遣されたのは、かつて、あの八月十八日の政変(8月18日参照>>)で、三条実美(さねとみ)らとともに政界から追われ、その後、長州の保護を受けていた東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)でした。

1月15日、彼は早速、各国の公使らとの話し合いの場を持ち、そこで、見事に列強国の怒りを鎮める事に成功します。

それどころか、彼ら外国人に、できたばかりの新政府を、幕府と並び立つ対等の政府である事を認めさせ、両者の交戦中は、どちらの味方につく事もなく、中立の立場をとるという約束も取りつけたのです。

一般的に「神戸事件」と呼ばれるこの事件・・・結果論ではありますが、このアメリカ水兵射殺事件は、見事、新政府にとってのラッキー・サプライズとなったのです。

もしかして、この事件がなければ、もうしばらくは幕府が外交権を握ったままだったかも知れないわけですから・・・。

ただし、以前【慶喜の敵前逃亡~その本心は?】(2007年1月6日参照>>)で書かせていただいたように、フランス公使のロッシュだけは、この約束を破って、江戸城に戻ったばかりの慶喜に会いに行き、「フランスが全面協力するから、薩摩を倒せ!」と、誘いをかけています。

しかし、ご存知のように、慶喜はキッパリと、この誘いを断り、新政府への恭順の姿勢をとって、自ら謹慎に入りますから、ロッシュも仕方なく、他の列強国と歩調を合わせ、戊辰戦争に関与する事はありませんでしたが・・・

もともと、幕府軍の近代化へ向けての新兵器の導入に一役かっていたのはフランスですし、逆に、イギリスは薩摩や長州に接近していましたから、もし、ここで、ライバル同士の二つの国が、それぞれの政府を後押しし、この後の戊辰戦争が行われていたとしたら・・・と考えると、ある意味、日本存亡に関わる最大の危機だったのかも知れません。

この時の通禧さんの外交官としての手腕と、弱腰と罵られながらも貫いた慶喜の恭順ぶりに、あらためて敬意を表さなけらばならないかも・・・ですね。

戊辰戦争のこの後の流れについては「幕末維新の年表」でどうぞ>>
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コメント

幕末と言うと薩長を中心に語られるが、存外に他の藩絡みの大事件てのも有るんですね。しかも、先日の鳥取藩といい、この岡山藩といい両方とも藩主は慶喜さんの兄弟だってんだから、何だか歴史の妙味を感じずには居られません。

投稿: マー君 | 2009年1月13日 (火) 00時08分

マー君さん、こんにちは~

ホントいろいろありますね~

大坂城炎上で、鳥羽伏見の戦いも終焉かと思いましたが、なんの、なんのって感じです。

投稿: 茶々 | 2009年1月13日 (火) 17時59分

新政府の対応についてのみ記されてますが、この時の岡山藩の対応はどうだったんですか?

投稿: マー君 | 2009年1月13日 (火) 23時59分

マー君さん、こんばんは~

発砲した兵士が所属していた隊の隊長だった滝善三郎という人が責任をとって自刃したと聞きましたが、小耳に挟んだ程度の話なので本文には書きませんでした。

投稿: 茶々 | 2009年1月14日 (水) 01時12分

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