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2009年1月30日 (金)

西南戦争の西郷隆盛に勝算はあったか?

 

明治十年(1877年)1月30日、西郷隆盛が創設した鹿児島の私学校の若者が、政府の火薬庫を襲撃しました。

・・・・・・・・・・

明治六年の政変・・・この征韓論(10月24日参照>>)に破れて、鹿児島に戻った西郷隆盛が見たものは、武士の特権を奪われ、幕府からの(ろく・武士の給料)もなくなって、貧困にあえぎながら不満をつのらせる士族(元武士)たちでした。

なんせ、彼らは、あの戊辰戦争の先頭に立って、命がけで戦った薩摩の武士たち・・・なのに、徳川幕府を倒して得た新政府では、恩賞どころかリストラされちゃったわけですから、「何のために必死で戦ったんだ?」ってなるのは当然です。

そこで、西郷さんは、「彼らが変な方向へ暴走しないようにするためには、ちゃんとした軍事教育が必要だ」と、私学校を創設したのです。

しかし、そんな鹿児島の軍事力は、政府にとっては脅威となりますわな。

よって、政府は、スパイなんかを派遣して、水面下でなんやかんやと、私学校へ探りを入れるわけですが、そんな行為は、逆に私学校の若者から見ると、いかにもアヤシイ・・・当然、不審を抱くわけですが、そんな中、政府は、鹿児島県内にある政府の火薬庫から武器・弾薬を運び出そうとします

それも、鹿児島県に届出もせず、深夜にこっそりと・・・

それが、私学校の生徒に火をつけちゃいました!

明治十年(1877年)1月30日・・・積み替え真っ最中の政府の火薬庫を、私学校の生徒たちが襲撃するという事件が勃発します。

これが引き金となって、西南戦争へと突入するので、この火薬庫襲撃事件を以って西南戦争の勃発・・・という事になるのですが、すでに以前の【西南戦争・終結】のページ(9月24日参照>>)で、その原因となるこの事件の事を書いてしまったもので、ここまでの内容が、ほとんど、そのページとかぶってしまって申し訳ありませんです。

ところで、この戦いにおもむく西郷さん・・・その心の内に勝算はあったのでしょうか?

結論から言わせていただくと・・・おそらく、勝算は無かった・・・いや、勝とうとは思っていなかったのではないか?と思います。

それは、王政復古の大号令(12月9日参照>>)から、戊辰戦争の前半部分の鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)へと向かう幕末期の西郷さんの戦いかたと、この西南戦争の戦いかたとが、あまりにも違う気がするからです。

自らを官軍に・・・そして、幕府を賊軍にしてぶっ潰すために、義理人情に厚い西郷さんとは思えない、見事なまでのゲリラ作戦を展開し、幕府側から手を出させるように仕向け(12月25日参照>>)、さらに江戸城をめざして東へ向かった・・・あの手腕はどこへ?と言いたくなるほどの西南戦争の展開は、やはり、勝つ気がなかったのだろうと思わせます。

その最たるものが、「熊本城を経て陸路での東上する」という作戦・・・先の西南戦争・終結のページでも書かせていただきましたが、この時、この陸路での東上の他にも、「軍艦で海路を進み東京か横浜に上陸する」、あるいは「海路と陸路の二手に別れる」という作戦も、戦争前の作戦会議では出ていたはずです。

なのに、陸路で、しかも、熊本城を制圧して・・・という作戦に決定します。

もちろん、この西南戦争は、もともとは桐野利秋ら幹部たちがイケイケムードで、西郷さんはそんなに乗り気ではなく、結果的に、総大将に担ぎ上げられただけなのかも知れませんが、たとえ、担ぎ上げられただけだとしても、戦う以上、その最高責任者は総大将である西郷さんです。

作戦会議でどのような意見が出ようと、最終決断は、総大将の手にゆだねられているわけですから、この陸路での東上&熊本城攻撃は、西郷さん自身が決断を下したはずです。

しかし、この陸路での東上&熊本城攻撃は、後に、あの板垣退助「西郷、兵を知らず」と言わせるくらい愚策・・・失敗の作戦なのです。

それは、あの関ヶ原&大坂の陣徳川家康の思惑にさかのぼります。
(得意なほうに持って行こうとしていると思ってますね(*´v゚*)ゞ当たり!)

関ヶ原で西軍につきながらも生き残った大物は・・・そう、周防(山口県)毛利薩摩(鹿児島県)島津です。

この二つは、当時の家康にとって、最も気をつけなければならない相手・・・。

やがて、大坂の陣で豊臣を滅ぼした家康は、大坂城を幕府直轄として、西方への睨みをきかせる場所とした事は、先日の【江戸時代の大坂城】のページ(1月23日参照>>)でも書かせていただきましたね。

そこには、最も忠実で最も優秀な人材を配置した事も・・・。

そのページでも書かせていただいたように、家康の開幕当時は、中国・四国地方から西の譜代大名のお城は福山城ただ一つだったのを、秀忠家光→・・・と代々続く中、お取り潰しや転封をくりかえし、徐々に、譜代大名、あるいは、外様の中でも徳川家に忠実な大名の城へと変えて行き、徳川幕府をより強固なものにしていった事がわかります。

その典型が、熊本城・・・熊本城は、あの加藤清正が造った天下の名城・・・。

その城のすばらしさと重要性は、家康も、そして代々の将軍も熟知しています。

そして、その加藤家をぶっ潰して、熊本城を守らせたのは、外様の中でも最も徳川家に忠実で信頼のおける細川家・・・そうです、この熊本城は、薩摩の島津を封じ込めるための城だったのです。

聡明な西郷さんなら、そんな事はとっくの昔にご存知であろうところを、あえて、熊本城を制圧した上での陸路での東上・・・

ひょっとしたら、西郷さんにとっての「勝ち」は、政府を倒す事ではなく、政府をただす事だった??

そのためには、、「我々は反乱軍ではなく、政府の非を正しに行く」という意味での、正々堂々とした行軍をして見せ、政府に一泡ふかせる事・・・誰もが、薩摩のための最前線だと知っている熊本城を、あえて制圧してやろうと思ったのかも知れません。

ただ、かの火薬庫襲撃事件の直後、2月5日に開かれた会議で、自分が総大将となって挙兵する事が決定した時、西郷さんは、周囲にいた幹部以下150人の同志に・・・
「おはんたちがその気なら、おいの身体は差し上げ申そ」
と、言ったのだとか・・・

ひょっとしたら、正々堂々と、かつ政府に一泡ふかせるためには、その命を賭けなけらばならない事も、とっくにご存知だったのかも知れませんね。

・‥…━━━☆

この後、いよいよ鹿児島を出発する薩摩軍のお話下記の薩摩軍・鹿児島を出陣で>>

*西南戦争関連ページ
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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コメント

不満を持っていた士族を鎮める為の西南戦争。

西郷さんは始めから勝利しようなんて考えていなかったんでしょうね。

死に場所を探していた...なんて思ったりもします。

西郷さんの小説も大好きです。


清正贔屓の私には熊本城の堅固さが素晴らしく思ったりして(^^

投稿: 虎之助 | 2009年1月30日 (金) 10時07分

虎之助さん、コメントありがとうございます。

やっぱり、熊本城は難攻不落ですよね
( ̄▽ ̄)

投稿: 茶々 | 2009年1月30日 (金) 18時07分

西郷さん、鼻からやる気はゼロだったと思われます。
戦闘については陣頭指揮をとったことはついに一度もありませんでした。
どーでもよかったんでしょうね~。もう(こんなこと地元ではとても言えないwww)
自分はただの神輿になるだけ、と思っていたようです。

征韓論は今は韓遣論と言われています。
この辺は勝海舟が早くから証言しています。

もともと「若いやつらが暴れそうになったら自分がまとめて面倒を見る」と大久保さんに言ってますしね。
いざ事が起こっても大久保さんがあとは何とかすると思っていたようです。
大久保さんもそのときは遠慮なくやる、と言ってます。
犬猿だったようで実は深いところで友情はつながっていたんじゃないかなぁ。

投稿: 味のり | 2009年2月 8日 (日) 23時52分

味のりさん、こんにちは~

>やる気はゼロだったと思われます・・・

やっぱ、そうでしょうね・・・

そうでなきゃ、きっと船で江戸へ行くでしょうし、ゲリラ戦も駆使するでしょう。

投稿: 茶々 | 2009年2月 9日 (月) 11時09分

「征韓論」論争の時に一緒に政府を離れた面々が開戦前に西郷どんを説得していたら、明治10年代の歴史は変わったでしょうね。最終的には薩摩出身者が政府内の主導権を失ってしまうので。
来年の大河ドラマ「八重の桜」に登場するとなると、悪役の位置づけ(会津と薩摩は対立関係)になりそうな感じがします。テレビ・映画を通じて西郷隆盛が「悪役」として位置付けられたのはあまりないですね。

投稿: えびすこ | 2012年1月11日 (水) 17時54分

えびすこさん、コメントに気づかずに遅くなって申し訳ないです。

>来年の大河ドラマ「八重の桜」に登場するとなると、悪役の位置づけ…

人気の西郷さんの事ですから、例え敵でもカッコイイ敵=赤い彗星のシャアの扱いになるのではないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2012年1月30日 (月) 01時28分

スゲー分かりやすい

投稿: はまちゃん | 2012年5月20日 (日) 16時54分

はまちゃんさん、こんばんは~

わかりやすいと言っていただけで、うれしいです。

また、遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2012年5月20日 (日) 23時19分

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