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2009年1月12日 (月)

龍馬も斬った?見廻組随一の刺客・佐々木只三郎

 

慶応四年(1868年)1月12日、先の鳥羽伏見の戦いで負傷した、京都・見廻組の佐々木只三郎が、和歌山にて死亡しました。

・・・・・・・・・・・

会津藩士の子として生まれた佐々木只三郎(たださぶろうは、親戚の旗本を頼って江戸に出て、その親戚の養子となって神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を務めるまでに腕を上げます。

そんな時に、沸き起こったのが、あの清河八郎浪士隊募集の話題です。

それは、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の上洛の先駆けとして京都に向かい、その後、将軍の身辺警護にあたるというもの・・・

「京にいる尊皇攘夷派(朝廷側)の志士たちを一掃する組織だ」と聞かされ、彼は、すぐさま応募して隊員となります。

佐幕派(幕府側)の会津出身で、現在は幕臣・・・しかも、腕がたつとなれば、この動乱の時代に、何か、幕府の役に立ちたいと思うのは当然の事です。

ところが、その清河は、実は尊皇攘夷派・・・幕府の金で集めた精鋭たちを、そっくりそのまま朝廷の軍に変えるつもりでいたのです。

京都に着いた途端、その姿勢を180度ひるがえして本性を表した清河に、只三郎は愕然としますが、幕府もそこは素早く・・・何だかんだの理由をつけて、浪士組を江戸へ呼び戻します。

このブログでは、すでに何度か書かせていただいているので、もう、ご承知でありましょうが、その時に、江戸に戻る事を拒否して、そのまま京都に残って幕府のために働こうとしたのが、芹沢鴨近藤勇のグループ・・・後の新撰組です(2月23日参照>>)

・・・で、今日の主役・只三郎は、江戸へ戻ったグループ・・・江戸に戻った只三郎には、すぐに幕府からの指令が下ります。

そう、清河の暗殺です。

幕府に忠実で、腕のたつ剣客・・・彼は、見事に指令をまっとうし、文久三年(1863年)4月13日、清河を赤羽橋にて殺害します。

リーダーを失った浪士組は、新徴組(しんちょうぐみ)と名を改め、庄内藩の預かりとなりますが、只三郎自身は、新徴組には入らず、その翌年に、幕府が京都に設けた見廻組(みまわりぐみ)に参加します。

見廻組は、先の新撰組と同様、京都守護職・松平容保(かたもり)配下の治安部隊ですが、新撰組が、その成り立ちからして浪人たちの契約社員だとすれば、こちらの見廻組は、幕府自らが立ち上げ、旗本の次男坊・三男坊たちで組織された正社員・・・只三郎は、その3番目の地位をいただいて、禁門の変(7月19日参照>>)などで、大いに活躍します。

そして、いよいよ慶応四年(1868年)1月3日・・・この日、只三郎は、鳥羽街道を行く別働隊の指揮官・滝川具挙(ともあき)の護衛として見廻組・400名を率いていました。

そう、あの「通せ」「通さん」の押し問答の末、薩摩が一発めの砲撃を開始した、あの場所にいたのです(1月3日参照>>)

2列の隊列を組んで進もうとする幕府軍に、左右から銃撃をしかける薩摩・・・刀一本で踏ん張るも、銃を持たない見廻組は、すぐさま壊滅状態となります

それでも只三郎は、しぶとく生き残り、何度も夜襲などかけますが、きっちりした作戦すらない幕府軍の敗戦は目に見えていました。

そんな中の1月6日早朝・・・腰に銃撃を受け、重傷を負った只三郎は、何とか紀州(和歌山県)へと逃走を図りますが、その傷は重く、慶応四年(1868年)1月12日紀三井寺にて36歳の生涯を閉じたのです。

ところで、佐々木只三郎といって、もう一つ気になるのは、あの坂本龍馬・暗殺事件(11月15日参照>>)です。

今現在も、龍馬暗殺に関する唯一の公文書である元・見廻組の今井信郎(のぶお)の調書=刑部省口書(くちがき)では、「只三郎以下、数名の見廻組隊士が犯人」となっています。

幕末最大の謎として、あーだこーだと推理される龍馬暗殺ですが、正式な史料と呼べる物は、未だ、この一つしかありません。

ところが、その今井の自白も、取調べの時は「自分は見張りをしていただけ」と言っておきながら、後には、「自分が殺った」と言い、話が二転三転・・・しかも、暗殺に関わった見廻組で、明治まで生き残ったのは、彼一人ですから、何とも・・・。

そんな中、昭和十三年(1938年)に刊行された書物に、只三郎の兄の証言というのが掲載されます。

実は、只三郎には、という息子がいたのですが、その息子が早くに亡くなってしまい、佐々木家は断絶していたのですが、昭和の時代になって縁者によってお家が再興される事になり、それがきっかけで『佐々木只三郎伝』なる物が刊行されたのです。

只三郎の実兄・手代木直右衛門(てしろぎなおえもん)なる人物は、幕末当時、会津藩の若年寄で、藩主・松平容保の右腕だった人・・・病気がちだった容保に代わって、かなり重要な政務もこなしていたようです。

そんな彼が、亡くなる数日前・・・ふと、「龍馬を殺害したのは、我が弟・只三郎であり、それは某諸侯の命令であった」と語ったというのです。

彼の立場上、某諸侯とは、当然、容保の事でしょうが、それは、もちろん、個人的な考えでの命令ではなく、京都守護職としての立場から放った命令・・・。

慶応三年(1867年)10月、大政奉還(10月14日参照>>)目前の京都の町に入った龍馬でしたが、その時は、わずか数人の知り合いを連れていただけだったにも関わらず、当時の京都の町では、「海援隊・300名が京都に入った」という噂が立ち、瓦版まで出ての大騒ぎだったと言いますから、京都の治安を守る守護職としては、その状況を見逃せなかったのかも知れません。

大政奉還に龍馬が関わっていたかも知れない事は、もっと後にわかる事ですからね・・・。

しかし、結局その兄の言った事すらも、真実かどうかも、わからぬまま・・・今井が龍馬暗殺の犯人だと証言した彼ら=只三郎以下、数名の見廻組隊士は、何も語らず、何も残さず、鳥羽伏見の戦いで散っていく事となり、すべては藪の中に隠されてしまったのです。
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コメント

紀三井寺の只三郎の墓は比較的簡単にみつかります。大きなものではありませんが。きちんと保存されてます。
実行犯の彼は死んだので明治に名乗りを上げるわけがなく、一方の今井は囚われの身のときは「直接手を下してない」、自由になってから「やった」発言は人間として十分理解できる言動の変転。剣の達人で能力あり。動機も十分。ここまではつじつま合います。問題は客を装って訪れた刺客を竜馬が気を許した形跡があること。
見回り組みのリーダーである佐々木や今井は面が割れてた可能性があり、十分警戒していた竜馬の宿に3,4人がぶらっと乗り込むことができたのかどうか。

投稿: 佐々木と今井が下手人か | 2011年1月25日 (火) 12時51分

佐々木と今井が下手人かさん、こんにちは~

>竜馬が気を許した形跡

あったんですか?

今では定番となってる
「ほたえなや」by龍馬
「こなくそ」by犯人
の言動も、実際にはなかったと主張される歴史家の方も多いです。

謎は渦巻いてますね~

投稿: 茶々 | 2011年1月25日 (火) 15時42分

そうなんですか?竜馬にたいしてその刺客が
「先生、お久しぶりです」と言いつつ名札のような
ものを差し出し、特に警戒もせずそれを竜馬が読もうとして目を落としたところを切りかかったという中岡の証言も信憑性がなくなってるんですか?

中岡も刀を抜く暇もなくいきなり斬られ、竜馬も居合い抜きの一撃を浴びてから自分の刀に手を伸ばした(が遅かった)というのが中岡の説明でしたが、
ところで今井は自分らは7人いたといってますからね、警戒されずに見回り組が近づけたのか、という点が気がかりでしたが、もし中岡の証言に信憑性なければ、もう下手人は彼らで間違いない。今井の「家族には自慢げに言うが薩長政府が怖いからおおっぴらには言わない」あたりがいかにも現実味がある。


竜馬といえば、彼を使ってしたという薩摩藩の文書が十年ちょっと前に見つかりましたが、その後、竜馬の研究は新方向に進んだんでしょうか。竜馬といえば、あの司馬の小説のイメージとそぐわぬ事実はまるで無視する歴史オタクが研究の妨げになるような気がしてなりません。酒が入ると「いやあ、竜馬はね・・・」とか熱く語る奴、「お前の友達か」ってつっこむと怒ってくるんです。

投稿: 竜馬と薩摩ですが | 2011年1月25日 (火) 16時30分

竜馬と薩摩ですがさん、こんばんは~

昨年は、龍馬関連の新発見が相次ぎました。
大河ドラマでブームになると、そういう副産物がある事をまざまざと見せつけられましたね。

投稿: 茶々 | 2011年1月26日 (水) 01時35分

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