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2009年1月28日 (水)

未だ謎多き~生類憐みの令

 

貞享四年(1687年)1月28日、江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉によって、犬だけだった『生類憐みの令』が、牛馬にまで拡大されました。

・・・・・・・・・・

徳川綱吉生類憐(あわれ)みの令・・・

この法令は、『生類憐みの令』という一つの法令ではなく、実は「犬猫」「牛馬」やと、別々に発令されていた「覚」と呼ばれる物だったのですが、これがいくつもあってややこしいので、現在では全部まとめて、『生類憐みの令』と呼ぶ・・・という事は、2007年1月10日の綱吉さんのご命日の日のページ(そのページを見る>>)に書かせていただきました。

もちろん、そのおかしな法令のおかしなエピソードや、今では、少し見直されている事もそのページに書かせていただいたんですが、この何回にも分けて発令された法令・・・私が、今も愛読している学生時代の日本史・副読本には、貞享四年(1687年)に発令されたとなっています。

発令した、その理由も、世継ぎの徳松が亡くなった後に、子供に恵まれなかった綱吉が、「後継ぎが生まれないのは、前世で殺生をしたせいで、子供が欲しいなら、殺生を憎み、生き物を大切にしなさい」という僧・隆光(りゅうこう)の話を信じて・・・と、確かに教わりました。

しかし、今の歴史教科書では、最初の発令は貞享二年(1685年)となっているようで、まさに歴史は常に塗り替えられるという事を実感させられます~。

ところが、最近はもっと研究が進んで、さらに以前・・・どうやら、天和二年(1682年)に、すでに発令されていた形跡があるようで、そうなると、綱吉の息子・徳松が亡くなったのが天和三年なので、その時点では世継ぎは健在という事に・・・しかも、その年には、隆光も、まだ、長谷寺にいて江戸には来ていない。

・・・となると、発令された年号だけではなく、その理由まで、再検討の余地がありそうです。

とりあえず整理してみますと・・・

まずは、貞享四年(1687年)1月28日発令された覚は、
「惣(すべ)て、人宿(ひとやど)または牛馬宿そのほかにも、生類煩い重く候えば、いまだ死なざるうちに捨て候よう、あらあら相聞え候。右のふとどきの族(やから)これあらば、きっと仰せ付けらるべく候。」
と、有名な原本が残っている、また、この年に一番多くの生類に関する覚が出されている事から、以前は、「生類憐みの令=貞享四年(1687年)」とされていたのですが・・・

しかし、それ以前の貞享二年(1685年)の7月14日には、
「先にも令せしごとくならせ給ふ御道へ犬猫出るとも苦しからず。何方に成らせ給ふとも今より後つなぎおく事あるべからずとなり」
とあり、今ではこの「犬猫を道に出しても良い、つないではいけない」というコレが最初の発令という事で、「生類憐みの令=貞享二年(1685年)という事になっています。

ただ、それ以前の天和二年(1682年)の段階で、犬を虐殺して死刑になった人がいるらしく、この時、すでに、生類憐みの令の先駆けとも言える法令が出ていたのではないか?という事で、今では天和二年(1682年)の正月から・・・という考えに傾きつつあるようです。

さらに、この生類憐みの令の評価についても、少し変わりつつあります。

上記の文面を見ていただけばわかる通り、「人宿」「牛馬宿」というように、生類の中には人も含まれているんですよね。

また「いまだ死なざるうちに捨て・・・」とありますが、当時は、未だ貧乏ゆえか、病人を捨てたり、子供を捨てたり・・なんて事が頻繁に行われていて、宿なども、病気になると追い出されたり、もちろん、武士の「斬り捨て御免」もまかり通っていましたし、牛馬に関しては、大量の荷物をムリヤリ運ばせたりという事もありました。

その現実と、それを取り締まろうとする上記の文面を見る限りでは、まったく変な法令だとは思えません。

その観点から、最近では、本当の生類憐みの令は、言われているような悪法ではなく、後世の人間がオーバーに書きすぎているんじゃないか?という見方も出てきているようです。

理由に関しても、「子供が欲しいから」ではなく、「仏教信仰によるもの」というのが主流になりつつあります。

ただ、いくつも出された覚を、順々にたどっていくと、徐々にエスカレートしていく感も否めません。

同じ貞享二年(1685年)の7月には、
「犬だけでなく、生類には慈悲の心を持って寛容に・・・」
さらに元禄四年(1691年)10月になると
「へびつかいをはじめ犬・猫・ネズミに至るまで、芸をしこんで見世物にするな」と・・・

しかも、現実に、子供でも鳥を殺して斬殺された場合もあるし、犬を殺して死罪になった人が数多くいたわけですし、例の、広大な犬小屋・・・いや、お犬様屋敷もあったわけですから、やっぱり、「何かおかしい」という気持ちは拭えませんねぇ。

それに、確実に生類憐みの令が実行されていたと思われる貞享四年から数えても、綱吉が亡くなるまでの23年間もの長きに渡って・・・誰も、彼を止められなかったんでしょうか?

この頃の綱吉のブレーンと言えば、後に老中となる御用人・柳澤吉保と勘定奉行の荻原重秀・・・実は、この二人、生まれながらのエリートではなく、低い身分から綱吉に気に入られて出世してきた人。

つまり、綱吉に嫌われでもしたら、せっかく築いた地位が崩れる可能性アリの二人なのです・・・そりゃ、文句言い難いですわな。

ところで、その綱吉が亡くなった後、廃止となった生類憐みの令・・・当然、その犬小屋も廃止になったわけですが、中にあらしゃったお犬様がたは、どうあそばしたのか?

江戸では、収容されて犬たちは、小屋から開放されて自由の身になりましたが、今まで締め付けられていた庶民たちは、ここぞとばかりに石を投げたりして憂さ晴らしをしたのだとか・・・。

ただ、逆に、そんなに締め付けられていなかった農村の人々が、もらって帰ったというほのぼの話もあるそうです。

それよりも大変だったのは、幕府の要請で犬の飼育にあたってた人たちです。

なんと、それまで受け取った養育費を返還するように命じられて、一瞬にして借金まみれになった人もいたのだとか・・・こりゃヒドイ!

現在の中野区立歴史民俗博物館には、この時の借金を48年かかって、幕府に返した人の証文が残っているそうなので、この法令の開始年数や是非はともかく、少なくとも実際に、迷惑をかけられた人がいたという事だけは、確固たる事実と言えるでしょうね。
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コメント

1685年の発令文書の冒頭に、先にも令せし云々と有るんでしたら、やはり1862年が最初の発令年だったんでしょう。何はともあれ、生類哀れみの令は悪法だったと思いますね。制定の事由・発令の理念は随分と立派だったようですが、民の生活に多大な不便と迷惑、苦しみを与えたって点じゃあ…どう弁護しようとも弁護しきれない法令ですからね。まぁ何事も過ぎたるは及ばざるが如しってトコですかね。

投稿: マー君 | 2009年1月28日 (水) 09時48分

マー君さん、コメントありがとうございます。

多分、どんどん出してるうちに、ワケわかんなくなっちゃったんでしょうね。

なんかそんな気がします・・・

投稿: 茶々 | 2009年1月28日 (水) 10時10分

 こんばんは

 綱吉さんにはお世継ぎができないので祈りも込めてこの法令ができたのかと私は思っていました。徳松という亡くなってしまったけれど、お子さんがいたんですね。お気の毒ですが、他には男のお子さんがいなかったんでしょうね。
 法令ができたのは仏教信仰によるものというのはその通りなんでしょう。その信仰のせいであちらこちらに神社仏閣を建てて幕府の財政はかなり逼迫するようになったとか…。
 信仰もほどほどに…。でもこういう立場、状況ではどうしてもそうなってしまいますかね。(笑)
 

投稿: おみや | 2009年1月30日 (金) 00時13分

おみやさん、こんばんは~

>お世継ぎができないので祈りも込めてこの法令ができたのかと私は思っていました

私も、以前は、そう思っていました・・・というか、そう習ったとような気がします。

現在は、学者さんの間でも論議が交わされているようなので、まだまだ時間はかかるでしょうが、ひょっとしたら教科書が書き換えられるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年1月30日 (金) 00時33分

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