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2009年2月28日 (土)

島原の乱・終結~天草四郎・生存説

 

寛永十五年(1638年)2月28日、幕府の総攻撃によって、天草四郎が率いる反乱軍が籠城する原城が落城・・・島原の乱が終結しました。

・・・・・・・・・・・・

徳川幕府を震撼させた島原の乱については、以前、その勃発('06年10月25日参照>>)と、終結('07年2月28日参照>>)の二度に渡って書かせていただきましたが、本日は、その首謀者と言われる天草四郎・・・本名・益田四郎時貞にまつわる生存説について書かせていただきます。

源義経(12月30日参照>>)豊臣秀頼真田幸村(5月8日参照>>)・・・果ては、人間味あふれるあの西郷さん(12月18日参照>>)にまである生存説ですから、神の子と崇められた天草四郎の生存説は、まさに期待通りと言ったところなのでしょうが、確かに、その根拠となる出来事が、この原城が落城した寛永十五年(1638年)2月28日に起こっていたのです。

その一昨年のページにも書かせていただいたように、3ヶ月近い籠城で、食糧も弾薬も底をつきかけた頃、そのタイミングを見計らっての幕府軍の総攻撃に、もはや、反乱軍は抵抗する気力も残っていなかった事は確かかも知れませんが、最後の28日の戦闘は、早朝に攻撃が開始され、午前10時頃には終了してしまいます。

この、あっけない速さには、反乱軍の士気の低下も、かなり影響しているものと思われます。

実は、この日からさかのぼること半月前の2月14日・・・鍋島藩の撃った大砲の砲弾が、反乱軍の重要部分に着弾し、天草四郎の側近数名が死亡するとともに、それは、四郎の着物の左袖を撃ち抜いていたのです。

この時、四郎を不死身の神の子と信じていた者たちには動揺がはしり、「神のご加護が失われた!」と嘆いたと言います。

もともと四郎は、そのカリスマ性のために祭り上げられたような存在で、神のお告げや儀式などには姿を見せるものの、戦闘の軍儀にはほとんど参加せず、作戦を指揮していたのは、旧・小西氏の家臣たちでしたから、そのカリスマ性に陰りが見えはじめると、反乱軍の士気も下がる事は容易に想像できます。

そして、原城の最後となった、この28日・・・落城後に、総指揮官であった松平信綱(3月16日参照>>)の前には、年恰好がよく似た四郎とおぼしき少年の首が並べられ、首実検が行われるのです。

首実検に駆り出されたのは、熊本から連行されていた四郎の母・マルタ・・・しかし、母は、どの首を見ても微動だにせず、「四郎は天から来た子供ですから、天に戻ったか南蛮に渡ったに違いありません」と、答えるばかりでした。

しかし、それらの首を順々に洗い、化粧を落し始めた時、ある首にあった疱瘡の跡を見た瞬間、彼女が泣き崩れたというのです。

それは、この日の攻撃で、最後まで残った本丸に火が放たれた時、本丸に突入する幕府軍と脱出しようとする反乱軍が交錯する中、肥後(熊本県)細川家の家臣であった陣佐左衛門(じんのすけざえもん)が、たまたま、中から出てきた一人の少年を斬った・・・その少年の首でした。

もちろん、佐左衛門は四郎の顔を知りませんので、四郎だとわかって斬ったわけではありません。

そうなんです。

実は、母は、その首を「四郎だ」と言ったわけではなく、その首を見て泣いたので、それが四郎の首だと断定されたのです。

彼女は、いかに動揺しようとも、最後まで「これが四郎です」と、断定する事はなかったのです。

そして、ここに、一つの謎が生まれます。

実は、四郎の顔を見知っていると思われる者が、もう一人いたのです。

それは、旧小西氏の家臣と同様に、反乱軍の先導者の立場にいた有馬氏の旧・家臣で、山田右衛門作(やまだえもさく)という人物・・・。

彼は、もともと反乱軍の中心人物的立場にいましたが、先ほどの鍋島藩の大砲着弾の14日前後に、すでに幕府軍に内通しており、幕府側と矢文のやり取りをして、中の様子を伝えていたのですが、その手紙が反乱軍に見つかって、本丸にて捕らえられていたところ、落城のドサクサで幕府側に助けられ、無事に生き残っていたのです。

その大砲着弾の時の、反乱軍の士気の下がりぐあいも、彼が、生還したからこそ、後世に伝わっているわけです。

おそらく、彼なら、四郎の顔を知っていたはず・・・しかし、なぜか、右衛門作が首実検に駆り出される事はなかったのです。

母親がはっきりと認めたわけでもないのに、なぜ、右衛門作を首実検に立ちあわせなかったのか?という謎から、あの首は本当に四郎だったのか?という憶測が飛び交い、天草四郎・生存説は、乱の直後から囁かれ、今もなお、消える事がないのです。

もちろん、乱が鎮圧された後も、四郎が神の子であるという事を信じ続けている人も数多くいたという事です。

それは、四郎の敵となった島原城主・松倉勝家の松倉家や、唐津城主・寺沢堅高(かたたか)の寺沢家が、乱の後、ほどなく断絶となる事で、「天の意志が下された」と囁かれるようになったからなのですが・・・

ただ、残念ながら、どちらかというと、それは、「徳川の意志」ではないかと・・・

徳川に忠実な細川家は、きっちり生き残ってますからね。
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2009年2月27日 (金)

弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

 

天武二年(673年)2月27日、壬申の乱に勝利した大海人皇子が、飛鳥浄御原宮にて即位し、第40代・天武天皇となりました。

・・・・・・・・・

一昨日、律令制定の詔(みことのり)発令(2月25日参照>>)で書かせていただいたばかりの大海人皇子(おおあまのおうじ)天武天皇のまたまたの登場で恐縮ですが・・・

そのページでも触れましたように、その真偽はともかく、現在のところ第一の史料である『古事記』『日本書紀』によれば、大海人皇子=後の天武天皇は、第34代舒明(じょめい)天皇と、その皇后である宝皇女(たからのおうじょ・後の皇極&斉明天皇)との間に生まれ、同じ父と母から生まれた兄に、後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、姉に間人皇女(はしひとのおうじょ・孝徳天皇皇后)がいます。

その兄の息子である大友皇子(弘文天皇)壬申の乱で攻め、政権を奪い取り、天武二年(673年)2月27日、晴れて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位し、第40代・天武天皇となったわけです。

ところで、この天武天皇・・・その年齢がよくわかりません。

古事記のほうは物語性が強く、もっと古い時代をくわしく書いてあるので、この時代の人々の年齢を調べるのに用いられるのは、やはり日本書紀です。

・・・とは言うものの、その日本書紀にも、何年生まれなんていう生年月日をそのまま記載してあるわけではなく、年齢や年号(えと)に関する記述を取り出して、そこから計算して年齢を割り出すわけですが、それによると、兄の天智天皇は推古三十四年(626年)の生まというのが、現在のところ定説となってします。

ところが、天武天皇の年齢は、日本書紀の記述だけでは計算できないのです。

そこで、多くの学者さんは、鎌倉時代に書かれた『本朝皇胤紹運禄(ほんちょうこういんじょううんろく)と、南北朝時代に書かれた『一代要記(いちだいようき)の二つともが、天武天皇の没年齢を65歳としているところから、日本書紀に書かれている天武天皇の亡くなった年号=朱鳥元年(686年)から逆算して、生まれた年を割り出すのですが・・・

これが、推古三十年(622年)となり、兄の天智天皇より、4歳年上になってしまうのです。

そこで、この矛盾を解決する説としては、「この後の世の二つの文書の作者が、天武天皇の没年齢を56歳とするところを65歳と書き間違えたのだ」と・・・多くの歴史家のかたが、現在も、この解釈をしておられるようです。

歴史を学問として専門的に研究されている方々にとっては、「後世に書かれた物ほど不正確である」というのが定番で、やはり日本書紀の記述が最優先のようです。

まぁ、鎌倉時代と言えば、お亡くなりになってからすでに2~300年は経ってますから、しかたがないのかもしれません。

また、単に「間違えた」では心もとないと、表記のしかたの違いをイロイロに解釈する場合もあるようです。

それは、先の『本朝皇胤紹運禄』の中では、天智天皇の没年齢は58歳となっていて、日本書紀の46歳死亡とは12歳のズレがあり、天武天皇の年齢との矛盾はありません。

これは、『本朝皇胤紹運禄』の編者が、日本書紀のままの年齢だと、天智天皇が大化の改新を行った時の年齢が20歳という、あまりに若い年齢であるため、「生まれ年のえとを一巡繰り上げて、没年齢を記したのでは?」という解釈で、それだと、天智天皇が亡くなったのが天智十年(671年)ですから、生まれたのは推古二十一年(613年)という事になり、天武天皇より年上という事になります。

また、『一代要記』のほうも、天智天皇の生まれた年を推古二十七年(619年)としていますので、『日本書紀』とはズレがありますが、『一代要記』の中の内容では、矛盾なく、天武天皇のほうが年下となるわけです。

ただ、これは、ご覧いただいてわかるように、アチラを信じればコチラがおかしくなり、コチラを信じればアチラがおかしくなり・・・年齢の矛盾を解決するために、両方の都合のいいところだけを並べ立てて、つじつまを合わしているような気もします。

歴史学者の方々は、これらの史料を日々研究されて、矛盾を解決する方法を模索しておられるので、新しい研究結果に期待したい!というところですね。

・・・と、イロイロ書かせていただきましたが、とにかく、この年齢の計算は、素人の私にはムリ!

とりあえず、具体的な年齢の事は、専門家のかたにおまかせするとして、弟が兄より年上であろうがなかろうが、何より重要な事をわすれちゃいませんか!って事です。

それは、かの『日本書紀』に、「天武天皇の没年齢がわかる記述が一つも書いていない」という事・・・一昨日のページにも書かせていただいたように、この日本書紀を編さんするように命じたのは、その天武天皇ですよ!

そして、編さんにあたった中心人物は舎人親王(とねりしんのう)・・・天武天皇の息子です(11月14日参照>>)

父親の遺言で、編さんを始めた書物に、その父親の年齢を書き忘れるアホがいるわけがありません。

しかも、一人ではなく、何人もの人が関わってチェックしてるんですから・・・。

それに、日本書紀は、この日本という国の歴史がいかに古く伝統のあるものか、そして、いかに自分たちがこの国を支配するにふさわしい家系かを、海外向けにアピールするための外交のための史料でもあるわけで、一個人の自分史とはわけが違います。

そして、そこから想像できる事は、ただ一つ・・・書き忘れたのではなく、書かなかったという事です。

『斉明即位前紀』には、こうあります・・・
「初に橘豊日天皇(たちばなのとよひ・用明天皇の事)の孫高向(たかむく)に適(みあひ)して(あや)皇子を生(あ)れませり」と・・・・つまり、天智&天武天皇のお母さんである宝皇女は、舒明天皇と結婚する前に、高向王という人物と結婚していて漢皇子という子供がいたという事です。

しかも、この高向王・・・上記の通り用明天皇の孫となっていますが、両親が誰かという情報がまったくなく、いつ亡くなったかも不明、さらに漢皇子に関しての記録もなし・・・なので、宝皇女は夫とは早くに死別して、漢皇子も幼くしてなくなり、その後、舒明天皇の皇后となったのであろうというのが通説となっていますが、実に不可解です。

・・・で、ひょっとしたら漢皇子=天武天皇かも知れない、あるいは、イコールではないにしても、宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に、すでに天武天皇を産んでいたのでは?となるわけです。

この推理は、上記の通り何もかも不明なので、想像の域を出ないものですが、これだと、たとえ天武天皇のほうが年上だったとしても、先に天智天皇が即位するのも納得できます・・・なんせ、天武天皇のお父さん天皇ではないわけですから・・・。

ひょっとしたら、謎だらけのその父親も用明天皇の孫などではないのかも・・・さらに、飛躍すれば、天武天皇は、まったく別のところから現れた天智天皇の兄弟ですらない別人の可能性も・・・そうなると、やっぱり、その通りには書けませんわなぁ。

一昨日同様、天武天皇での政権交代疑惑ですが、そこまでの飛躍はないにしても、天武天皇のほうが年上だったという可能性は、なきにしもあらずって感じですね。

・・・とは言うものの、歴史って、様々な憶測を呼んで、推理を張りめぐらすわりには、案外、実際には、そんなに複雑な事ではなかったりする事もあるので、もしかしたら、「当時は誰もが知っている事なので書かなかっただけ」なんていうオチもありだと思いますが・・・

なんせ、舎人親王は、千年以上も後の人がこれを見て、あーだこーだと言うとは思っていなかったかも知れませんからね。
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2009年2月26日 (木)

幕末の極楽トンボ~佐久間象山の息子・三浦啓之助

 

明治十年(1877年)2月26日、佐久間象山の息子で、元新撰組・隊士三浦啓之助がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

本日の主役・三浦啓之助さん・・・本名を佐久間格二郎(かくじろう)と言います。

あの佐久間象山と、そのお妾さんのお蝶さんとの間に嘉永元年(1848年)に生まれます。

三浦という姓は、象山の正妻だったさんの姓をいただいて、そのように名乗っていたようです。

佐久間象山は、ご存知のように、幕末でも屈指の尊敬すべき思想家・・・開国論者ではあったものの、それは外国に屈する開国ではなく、西洋の文明や科学技術を積極的に取り入れつつ、日本独自の近代国家を目指すもので、まさに、後の世の明治新政府が理想としたもの・・・。

その先進的な思想は、吉田松陰をはじめ、勝海舟高杉晋作伊藤博文・・・そして、あの坂本龍馬にまで影響を与えています。

しかし、その思想があまりにも先進的すぎて、まだ、時代がついていっていなかった・・・象山の思想は「西洋かぶれ」と言われ、外国を排除しようとする尊皇攘夷派から狙われる結果となったのです。

啓之助は、そんな父とともに、元治元年(1864年)に京都にやってきますが、その年の7月11日に、父・象山は、尊皇攘夷派の志士・河上彦斎(げんさい)暗殺されてしまいます(12月4日参照>>)

その時、まだ、14~15歳の少年だった啓之助は、父の復讐を誓い、あの新撰組に入隊するのです。

・・・と、あの天才・佐久間象山の息子で、父の仇を討つために新撰組・隊士にぃ~・・・どんだけカッコイイんだぁ~と言いたいところですが、実はこの啓之助さん、あまり評判が良くありません。

歴史が好き=歴史人物も全員好きな私ですので、ブログには悪口は書きたくないし、いつものように、その日の主役のかたは、できるだけカッコよく描いてさしあげたいと頑張ってみましたが・・・啓之助さん、ゴメンナサイ・・・ここまでです。

ただ、啓之助さんご本人になり代わり弁解させていただくならば、あまりにもすばらしい父を持ったがゆえ、その父を尊敬するまわりの大人たちが彼をあまやかした感がありますね

プラス、その象山暗殺のページにも書かせていただきましたが、この象山さん・・・確かに、思想は先進的で、尊敬に値するかも知れませんが、そのぶん、自分で自分を天才だと認識していて、かなり高ビーな性格の持ち主なのです。

どうやら、この啓之助さんは、天才の父の、その高飛車な部分はしっかりと受け継いでしまったようで、象山の場合は、その高飛車な態度も、本人の天才的思想がくっついてますから、何とか許せますが、それがなければ、ただのプライドの高い小生意気な小僧という事になってしまうわけです。

とにかく、その新撰組に入隊の時にしても、啓之助は、伯父の勝海舟(正妻の順さんが勝の妹です)の紹介状を持って登場するわけで、そこには「父の仇を討ちたいという志がある」と・・・

あの勝海舟の、そんな手紙を見たひにゃぁ、そりゃぁ、局長の近藤勇も特別扱いしますがな。

こうして、新撰組に入隊し、局長の側近として他の隊士よりいい扱いを受ける啓之助・・・それでも、最初のうちは借りてきた猫のごとく、おとなしくしていたのですが、やはり、ここでも、まわりがチヤホヤするにつけ、徐々に、その坊ちゃん育ちの側面があらわになってきます。

ある日、啓之助が・・・
「俺、今、いい刀、探してるんや!どこかにええのん売ってないかな~」
と言ったところ、ある同僚の隊士が・・・
「刀より、先に腕を磨いたほうがええんとちゃうか?」
と、からかったところ、早速、刀を購入した啓之助は、一番にそのからかった隊士を斬りに行ったのです。

斬りつけたところを、他の隊士に止められ、両者とも大事には至りませんでしたが、その理由を聞いてみると・・・
「いや、腕が悪いと言われたので、本当に悪いかどうか斬ってやろうと思った」
と、悪びれる事なく平然と答えたのだそうです。

その後も、とりあえず、勝海舟の手前もあるので、新撰組幹部たちも、あたらずさわらずで、しばらく静観していたのですが、啓之助には、他の隊士とは違い、定期的に母親からの多額の仕送りがあり、それ目当てに、チヤホヤとおだてながらの取り巻きなどもできてきて、本人、ますます調子に乗り始めます。

毎夜のように遊郭に繰り出しては大騒ぎ、ちょっと嫌な事があると暴れる・・・ある時などは、屯所の前で、ただぶつかったという理由だけで、物売りの女性を斬ってしまった事もありました。

さすがに、ここらあたりからは、新撰組幹部たちも堪忍袋の緒が切れ出し、再三注意しはじめるのですが、当の本人はまったく反省の色なし!

それでも、すでに30歳前後の近藤らは、大人の対応で何とか冷静に注意をうながしていましたが、まだ20歳そこそこの沖田総司からは、何度も斬られそうになったのだとか・・・。

その沖田に恐れをなしたのかどうかわかりませんが、とうとう啓之助は、あの父の仇もどこへやらと、新撰組を脱走してしまうのです。

しかし、隊を脱走しても、その態度はあいもかわらず、やりたい放題・・・しかし、それまではある程度許されていたワルサも、新撰組という看板がなくなってしまっては、ただの犯罪・・・結局、ちょっとしたイザコザが罪に問われ、投獄されてしまうハメに・・・。

だけど、この人はどこまで悪運が強いのか!・・・
(いや、ひょっとしたら、象山の息子として生まれたという事自体が運がいいという事なのかも知れんが・・・)

この投獄されている間に、あの戊辰戦争(1月3日参照>>)が起こり、多くの同僚が死に急ぐ中、彼はまったくの無傷で明治維新を迎えるのです。

ここで、名前を(いそし)と改め、またまた、父の七光りをフルに利用して、西郷隆盛の配下にちゃっかりと入り込みます。

さらに、お坊ちゃんらしく、外国人から英語を習ったり、慶応義塾に通ったりもしましたが、女にうつつを抜かして、勉学は挫折・・・結局、学校は中退します。

学校を中退したら、「さすがに働かなくては・・・」と、またまた七光りを活用して司法省に出仕・・・しかし、今度は、日本橋でケンカしているところを仲裁に入った巡査をボコボコにして、ここもクビになってしまいます

そこで、さらに、またまた七光りで・・・と思っている矢先の明治十年(1877年)2月26日、たまたま食べたウナギの蒲焼にあたって、あっけなく死んでしまったのです。

生まれたのが嘉永元年(1848年)、亡くなったのが明治十年(1877年)・・・って事は、まだ29歳?

残念ながら、啓之助さん・・・29年で運を使い果たしてしまったのでしょうか・・・

・・・と、こんな風に書きながらも、何となく憎めないキャラ・・・以前、ご紹介した織田信雄さん(4月30日参照>>)を思い出してしまいました~。

織田信雄が戦国の極楽トンボなら、三浦啓之助は幕末の極楽トンボ・・・しかし、信雄さんも、織田信長という大きな父の影に、生まれながらに父と比較される宿命のもとに生きるしかなかった・・・そんな宿命にあらがえない彼らには、彼らにしかわからない悩みや言い分があった事でしょう。

ひょっとしたら、本日の記事のお題に、「佐久間象山の息子」とつけてしまう事すら、彼には重荷となるのかも知れません。
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2009年2月25日 (水)

ここから日本の歴史が始まる?天武天皇の律令国家

 

天武十年(681年)2月25日、第40代・天武天皇が律令の制定を命じました

・・・・・・・・・・

古代最大の争乱と言われる壬申の乱(7月22日参照>>)において、兄・天智天皇の息子(つまり甥)大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)を倒して政権を奪取した大海人皇子(おおあまのおうじ)は、翌・天武二年(673年)2月27日、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、第40代・天武天皇となります。

そんな天武天皇が新しい国家を目指して、天武十年(681年)2月25日律令の制定を命ずる詔(みことのり)を発するわけです。

「律」とは刑法の事、「令」とは国家統治組織や官吏職務規定・・・つまり行政の事なのですが、この律令がまだ完成していない朱鳥元年(686年)に天武天皇は亡くなってしまいます(9月9日参照>>)

その後、その遺志を継いだ奥さんの鵜野讃良皇女(うののさららのおうじょ・後の持統天皇)と息子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が、制定事業を進めていくのですが、その草壁皇子も、持統三年(689年)の4月に急死してしまいます。

そして、その直後の6月に『飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)なる日本史上初の体系的な律令法が発令されるのですが、そのもの自体は現存せず、発令された時は令のみで律はなかったとも言われ、次期天皇になるべき草壁皇子の急死によって、急遽、慌てて発令した感はぬぐえませんねぇ。

現在言われている内容も、おそらく「これも決めてた」「あれも決めてた」的な感じで、後から付け加えていったような気もします。

ただし、その後、奥さん自らが持統天皇となって、藤原京に遷都したり(12月6日参照>>)という大事業をこなしていますので、たとえ、後から作られたとしても、その『飛鳥浄御原令』に、天武天皇の意向が反映されていた事は確かだと思いますが・・・。

では、天武天皇が実現したかった律令国家というものは、どんなものだったのでしょうか?

・・・っと、その前に・・・

この時代の第一の史料とされるのは、ご存知『古事記』『日本書紀』で、それ以外には、ほとんど史料というものが無いのが現状です。

なので、この頃の歴史は、記紀を本筋にして考えて行くしかなく、そこから逸脱すれば、学問的には異説・トンデモ説となるわけですが、やっぱり、どう考えてもおかしな部分があるのも確かです。

もはや、記紀に書かれている事が100%正しいと思っている人も少ないでしょうが、実は、その記紀を編さんするように命令を出したのも天武天皇・・・しかも、この同じ年、天武十年(681年)に出しているのです。

そして、完成したのは・・・
古事記が和銅五年(712年・1月28日参照>>)、
日本書紀が養老四年(720年・4月21日参照>>

ともに、『帝記』『旧辞』をもとにしていると言いますが、つまりは、この天武天皇より以前の出来事を、天武天皇から後に書いたという事になります。

臭います~

以前、【蘇我入鹿・暗殺≠大化の改新】(6月12日参照>>)でも、書かせていただいたように、ひょっとしたら大化の改新は、改新というほどの改新は無かった可能性も・・・

だいたい、この入鹿暗殺は、明らかにクーデターです。

クーデターとは、政権を持たない者が、その政権を奪取すべく行う力づくの政変・・・もし、記紀が語るように、この時、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)の母親の皇極天皇が、その名の通り王であったのなら、その息子がクーデターを起す必要はないわけです。

ひょっとして、この時、政権を握っていた・・・つまり王だったのは蘇我氏ではないか?と考えます。

なので、王である蘇我氏から中大兄皇子=天智天皇は政権を奪取したのです。

そして、再び起こった政権交代が、この大海人皇子=天武天皇・・・。

冒頭に書いた通り、記紀では、この天武天皇は、天智天皇の弟という事になってますが、それにしては、天武天皇の抱いていた国家というものが、それまでの国家と、あまりに、違うような気がするのです。

やっと、天武天皇の律令国家のところに話が戻ってきましたが・・・(^-^;

実は、この天皇という称号・・・それまで「大王」と呼ばれていたのを「天皇」に変えたのは天武天皇です。

そして、それまで「倭国」と称していた国名を「日本」に変えたのも天武天皇・・・。

国家元首の名前と国名を変えるなんて!・・・単に、兄貴&その息子から政権を奪取したにしては、かなりの変化だと思いませんか?

そのうえ、太政大臣や右大臣・左大臣も廃止し、現天皇とその息子たちが政権の首脳部を握り、それまでの豪族は、その外側の一段下に置かれるのです。

さらに、天皇家の祖として天照大神(アマテラスオオミカミ)を祀る伊勢神宮を特別扱いしだすのも、この時期からです。

つまり、それまでの政権だった天智天皇を兄とし、その兄が倒した蘇我氏を、王ではなく臣下とする事で、それ以前に政権を握っていた別の系統とつなぎ合わせ、神代の昔から一本につながる現政権の正統性を造り上げたのが、古事記であり日本書紀の編さんという事になります。

これらのつじつまを合わせるために、蘇我氏が政権を握っていた間にあった、悪い事はすべて蘇我氏のせい、良い事はすべて聖徳太子のおかげ・・・しかも、その蘇我と太子の両方ともの直系の子孫が絶えるという、よけいつじつまの合わない歴史を作る事になり、さらに、現政権があたかもそれを受け継いでいるかのような大化の改新をでっちあげなければならなくなったのでは?

・・・と、少し、断定的でキツイ言い回しをしてしまいましたが、これは、あくまで私見・・・空想の産物で、確固たる証拠があるわけではありません。

もちろん、現在につながる天皇家や日本の歴史を否定するものでもありません。

学問としてではなく、あくまで、歴史を楽しむ中の一つの説として提案してみました。

こう言いながらも、実際には、第一の史料である古事記&日本書紀以上のシロモノが発見されない限り、その内容に沿って歴史が綴られるのが、正統であると考えますので・・・。

【聖徳太子のどこが怪しいのか?】>>
【聖徳太子の子・山背大兄王を殺したのは誰か?】>>
も見てね!
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2009年2月24日 (火)

こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は何処へ?

天文十八年(1549年)2月24日、織田信長斉藤道三の娘・濃姫と結婚しました。

・・・・・・・・・・・

その猛将ぶりで、尾張(愛知県西部)の半分を手中に収め、隣国・三河(愛知県東部)にも手を伸ばし、さらに領地を拡大しつつあった織田信秀でしたが、もう一つの隣国・美濃(岐阜県)への進攻は、何度挑戦しても、どうもうまくいきません。

なんせ相手は、あのマムシと呼ばれた斉藤道三(どうさん)ですから・・・。

天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)では、越前(福井県)朝倉氏の援助を受けながらも手痛い敗北を受け、ここに来て方針転換をせざるをえなくなります。

・・・というのも、信秀の度々の進攻を牽制するため、三河松平広忠が、駿河(静岡県)今川義元と同盟を結んだのですが、その同盟の証しとして今川のもとへと人質に出されたはずの長男・竹千代(後の家康)を途中で連れ去り、織田の人質として、ここ尾張に連れてきたのが、ちょうど、同じ年の天正十六年・・・(8月2日参照>>)

当然の事ながら、広忠&義元との間には険悪なムードが流れますから、ここは、そちらとの抗戦を優先して、とりあえずは、美濃からの攻撃を受けないようにしなければ・・・

なんせ、信秀はまだ尾張を統一する事すらできてはいないのですから、主家筋である清洲織田家が、そのマムシの道三と手を結んだりなんかしてしまっては大変です。

同盟の締結役として抜擢されたのは、信秀の息子である、あの織田信長傅役(もりやく)としてもおなじみの平手政秀(1月13日参照>>)でした。

同盟の申し出を受けた道三にとっては、寝耳に水の話ではありましたが、無い事ではありません。

美濃は、例の朝倉氏の越前とも接していますし、近江(滋賀県)六角氏は、事実上、道三が乗っ取った土岐頼芸(よりあき・よりなり)の嫁の実家ですから、いたって油断がなりません。

道三は、この同盟の申し出を受ける事にし、その証しとして行われたのが、信秀の息子・信長と道三の娘・濃姫(のうひめ)の結婚でした。

その時、信長は15歳か16歳くらい、濃姫は、その一つ下か二つ下くらいなので、政略結婚とは言え、お似合いのカップルだったかも・・・ですね。

ちなみに、道三が、信長の器量を知りたくて会う約束を取りつけ、当日は、ナマの様子を見たいばかりに先に行って建物から覗き見した時には、例の尾張の大うつけの風貌で、「こりゃ、あかん」と思わせておいて、すぐあとの正式の会見には、凛々しい正装で現れて道三のド肝を抜く、あの有名なシーン・・・

ドラマでも度々描かれて、実際の信長を見た道三が「わが領地は、婿殿の引き出物になるだろう」と言ったなんてのも、もう、皆さんご存知のエピソードだとは思いますが、あれは、信長の父・信秀が亡くなってからの出来事ですから、この結婚から数年経った後のお話(2014年4月20日参照>>)・・・って事は、この結婚の話が決まった時には、信長がどんな人物かは、人づてに聞いたウワサのみだったはずですから、なかなか決断力が必要だったかも知れませんねww。

ところで、この信長の正室である濃姫・・・

天下を手中に収め、天皇をもビビらせる人物の正室にしては、史料がほとんど残っていません。

それでも、結婚当初からしばらくは、この婚礼に大喜びの信長が宴会を催した話や、ともに津島神社(愛知県津島市)のお祭りに出かけた話などで、その姿を感じとれますが、後半に至っては、まるで、そこにいなかったかのように、こつ然と姿を消し、その死さえうやむやになってしまっているのです。

ドラマなどでも、大抵、濃姫と呼ばれる彼女ですが、ご存知のように、これは「美濃から来た姫」という意味での呼び名で、本名を帰蝶(きちょう)とする文献もありますが、実際のところはわかっていません。

彼女は、信長との間に子供ができなかったようなので、そのために記録として残る事が少なかったと思われますが、それにしても、あれだけ信長の事が書かれてある『信長公記』でさえ、その死について、まったく触れてくれてはくれません。

信長には、ご存知、弘治三年(1557年)に生まれた信忠という息子がいますが、この信忠を産んだのは、濃姫ではなく、尾張・丹羽郡(愛知県江南市)の豪族・生駒氏の娘の吉乃(きつの)という女性・・・(9月13日参照>>)

いくつかの史料で、この吉乃さんの事を、「御台(みだい)という正室の呼び名で記している事から、この信忠誕生の時に、すでに、濃姫は信長のそばにはいなかったのでは?という憶測も飛んでいます。

それは、その前年の弘治二年(1556年)の長良川の合戦で、義父の道三が息子の義龍(よしたつ)敗戦して命を落とした(4月20日参照>>)事で、道三との同盟としての役割を終えたというものです。

よって、必要ではなくなった濃姫は美濃へ返されたとか、母の実家の明智氏に返されとか、中には、殺されたなどというウワサもあります。

しかし、長良川の合戦の時に、「援助してくれたら美濃をあげる」という道三から信長への手紙(4月19日参照>>)もありますし、たとえその手紙が偽作だったとしても、この先、美濃を攻める信長にとって、濃姫がいなかったら、「義父の弔い合戦」という大義名分が無くなるわけですから、道三の死の時点で、濃姫が不要になる事は考え難いです。

ただ、病死という事はありえるかも知れません。

『濃陽諸士伝記(のうようしょしでんき)という書物には、永禄四年(1561年)にかの義龍が亡くなった頃には、濃姫が死亡していた事を感じさせる記述もあるようです。

しかし、山科言継(やましなときつぐ)という公家の書いた日記・『言継卿記(ときつぐきょうき)には、その義龍が亡くなった後に、その妻が持っていた名器の壷を信長が欲しがった時に、「信長本妻が抗議した」と記されていて、斉藤家との関わりを考えると、この本妻というのは、濃姫の可能性が高く、だとすると、この時点では、信長のそばにいた事になります。

また、逆に、長生き説もあります。

よく言われるのは、「あの本能寺の変の時に、そばにいた」という説・・・。

三年前の大河ドラマ・功名が辻でも、この説を採用して濃姫が長刀で応戦してた気がするんですが・・・(別のドラマだったらゴメンナサイ)

これは、本能寺の変の時に「おのう」という女性がそばにいたと記されている事からきているようですが、この時の「おのう」という人には、本妻とも正室とも御台とも書かれておらず、まったく別の女性で侍女か何かだった可能性もあるのです。

そもそも、濃姫が本当に濃姫と呼ばれていたのかすら危ういわけですから・・・。

更なる、長生き説としては、信長の菩提所・摠見寺(そうけんじ・滋賀県安土町)の織田家の過去帳には「養華院殿粟津妙大姉 慶長十七壬子七月九日信長公御台」とあり、この養華院さんが濃姫だとする説もあるので、だとしたら、慶長十七年(1612年)という大坂の陣の2年前まで生きていた事になります。

また、京都の大徳寺の塔頭・総見院の織田家墓所にある五輪塔の一つにも、「信長公御台」と刻まれた物があり、こちらも年号は慶長十七年となっていますので、やはり78歳前後というご高齢まで健在であった事になります。

ただ、上記の通り、「信長本妻」「信長公御台」というのが、濃姫を指すとは限らないわけで、謎は、やはり謎のまま・・・。

しかし、こういう感じの謎まみれのほうが、ドラマや小説などでは、いろんな脚色をつけやすいので、案外おもしろい作品になるかも知れません。

国盗り物語の松坂慶子さんは、お嫁に行くにあたって、
「何かあったら、この剣で・・・」
と、そっと懐剣を手渡した父に・・・
「この剣は、父上を刺す剣になるやも知れませぬ」と、答え、

功名が辻の和久井映見さんは、明智光秀と心魅かれ合いながらも、本能寺で夫を守って奮戦します。

たとえ、長良川の合戦のあとあたりから、史上に登場しなくなっても「用済みになったので殺された」とは、誰も思いたくはないのです。

信長の奥さんは才媛であってほしい
二人の間には愛があってほしい

現在の濃姫像には、そんな歴史好きの思いがこめられているのかも知れません。
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2009年2月23日 (月)

江戸を死守する最後の砦~彰義隊・結成!

 

慶応四年(1868年)2月23日、浅草本願寺にて開かれた尊王恭順有志会の4度めの会合で、会の名称を『彰義隊』とする事が決定されました。

・・・・・・・・・・・・

この年の1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)・・・戦いに負けたうえ、賊軍(天皇に反抗する側)となってしまった第15代江戸幕府将軍・徳川慶喜(よしのぶ)は、わずかの側近だけを連れて大坂城を脱出し、江戸城へと入りました(1月6日参照>>)

その後、慶喜は、この先、戦う意志がない事を表明し、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の奥さんで故・孝明天皇の妹の和宮(かずのみや)を通じて、徳川家の存続と自らの処分に寛大な処置をしてくれるよう、朝廷に働きかけるとともに、2月12日には上野寛永寺にて謹慎生活に入りました(1月17日参照>>)

慌てたのは、その慶喜を主君と仰ぐ一橋(ひとつばし)家の家臣たちです。

鳥羽伏見で負けたとは言え、まだ、幕府というものは存在し、将軍の下には多くの者がいるわけですから、トップだけに「戦争や~めた!」と、恭順な態度をとられても、俺らはどうしたら・・・てな感じでしょうね。

そんな一橋家の家臣で、旧陸軍調役(しらべやく)だった本多敏三郎伴門五郎(ばんもんごろう)らが、一橋家の同志・17名に声をかけ、雑司ヶ谷茗荷屋(ぞうしがやみょうがや)にて会合を開いたのは、慶喜が謹慎に入ったのと同じ2月12日でした。

第1回目の会合で『尊王恭順有志会(そんのうきょうじゅんゆうしかい)と名付けられたこの集団は、その名の通り、慶喜の恭順な態度を指示し、その名誉回復に努めるべく結成された集団で、新政府軍に対して戦いを挑む集団ではなかったのです。

ところが、5日後の2月17日に開かれた第2回目の会合で、すでに、その方向性が変わってしまいます。

・・・というのも、上記の通り、第1回目の出席者がわずか17名・・・「これだけでは心もとない」と、一橋家以外の直参の武士たちにも声をかけたところ、おかげで出席者が30名になったものの、そうなると、慶喜の名誉回復だけでは、話が済まされなくなってしまったのです。

慶喜は一橋家出身ではありますが、なんせ、将軍ですから・・・先ほどの通り、将軍の下には多くの武士がいるわけで、慶喜のこれからは、彼らのこれからでもあるわけですし、慶喜の名誉回復というより幕府の名誉回復、さらに、これまでの幕府への恩義に報いるにはどうすべきか?てな事が話し合われるようになってくるのです。

その4日後に開かれた第3回目の会合では、さらに参加者も67名に増え、その新参者の中には、渋沢成一郎(せいいちろう)天野八郎もいました。

大きな集団となり、さらにヒートアップする彼らは、慶応四年(1868年)2月23日、浅草本願寺で開かれた第4回目の会合で、この集団の名称を『彰義隊(しょうぎたい)とする事とし、一橋家に仕えて慶喜の奥祐筆(おくゆうひつ・秘書)をしていた渋沢を頭取に、農民出身ながら幕臣だった天野を副頭取に任命し、この本願寺を駐屯とする彰義隊が正式に誕生したのです。

しかし、そんな彼らは、幕府にとってもヒヤヒヤもんです。

なんせ、トップはただひたすら恭順な態度をとっているわけですから・・・なのに、慶喜の名誉回復&護衛と言っても、血気盛んな男どもが集団になれば、いつ暴発するとも限りません。

そこで、幕府は、現在、戦いの混乱から無政府状態のようになってしまっている江戸の町の治安維持という役目を彼らに与えて、その矛先を別の方向へ向けさせようと考えました。

ところが、これで、彰義隊はますます、その勢力を拡大する事になります。

なんせ、幕府公認って事は・・・要するに給料が出ます。

もはや、貧困にあえいでいた食いぶちのない旗本の次男坊や三男坊が、どんどこ集まり、あっという間に彰義隊の隊員は1000名にも膨れ上がり、さらに、3月中旬頃には、慶喜の警固と称して、上野寛永寺に駐屯するようになります。

寛永寺は、歴代の徳川将軍が眠る寺院でありながら、軍事的な要塞としての使用も可能な城郭にも似た設計・・・ますます、来たるべき政府軍との抗戦の雰囲気が色濃くなってくるのですが、ここで、頭取であった渋沢が脱退します。

渋沢は、あくまで慶喜の名誉回復と身辺警護を主張する穏健派・・・最初の段階の尊王恭順有志会の方針のままでいきたかったのです。

しかし、上記の通り、彰義隊が別の方向へとさらに過激になっていく現状を見て、武闘派の副頭取・天野との間に生じた溝が大きくなる一方である事を感じていたのでした。

こうして、彰義隊のトップに立った天野は、もはや身分もクソも関係なく、来る者は拒まず状態・・・積極的に入隊希望者を次々と採用して、隊員は2000~3000名ほどの大きなものになっていきました。

こうなると、ただひたすら恭順な態度で謹慎している慶喜にとっても、逆に迷惑な話ですから、慶喜も何度も天野に、上野から撤退するようにすすめるのですが、天野は決して応じなかったのです。

やがて、新政府軍大総督・有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)駿府城に入り、3月6日には、その参謀会議で、3月15日に江戸城総攻撃が決定されます。

東海道を進んだ新政府軍は一戦も交える事なく3月12日に品川に到着、東山道を進んだ別働隊も甲府勝沼甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を破って(3月6日参照>>)3月13日に江戸に入りました。

もはや、江戸での決戦は避けられない状況となりますが、ここで登場するのが、かの勝海舟(かつかいしゅう)・・・。

さすがに、彰義隊の主導権を握っているのは天野でも、幕府の主導権を握っているのは陸軍総督の勝・・・ご存知のように、勝の命を受けた山岡鉄舟(てっしゅう)によってダンドリされた勝と西郷隆盛の会談(3月14日参照>>)

江戸城総攻撃・直前の3月13日と14日、2日間に渡って行われたこの会談によって、江戸城無血開城が決定するのです(4月11日参照>>)

なんだかんだとありながらも、とりあえず一大名として存続する事になった徳川家・・・慶喜は、その会談での決定通り、寛永寺を出て、水戸へと移りますが、彰義隊は、それでも寛永寺を動こうとしませんでした。

寛永寺住持・輪王寺宮公現法親王(りんのうじのみやこうげんほうしんのう・北白川宮能久親王)を奉じて、徳川家霊廟守護(れいびょうしゅご)・・・つまり、徳川家のお墓を守るという名目で、そのまま寛永寺に居座り続けるのです。

彼らは、それまでと同様、無政府状態の江戸の町を横行する盗賊などを捕まえ、町の治安維持に貢献していましたので、江戸の一般市民にはたいへんありがたい存在。

しかも、朱色の文字で大きく「彰」とか「義」とか書かれた目立つ提灯を掲げて、見回りを続けるもんだから、カッコイイったりゃありゃしない。

逆に、江戸城に入った新政府軍は、兵力も軍資金も底をついていて、江戸の町の治安維持まで手が回らないのが現状・・・

こうなると、彰義隊の人気はますます上がるのですが・・・そうは問屋が卸さないのは、皆様ご存知の通り・・・。

この状況を打開すべく新政府軍が白羽の矢を立てたのが、天才軍略家・大村益次郎なのですが・・・と、今日はこのあたりまでにさせていただいて、このお話の続きは、その益次郎が、新政府軍・大総督補佐として江戸にやって来る4月4日のページでどうぞ>>

注:この年は閏月で4月が2回あります・・・江戸城無血開城は4月11日で、益次郎が江戸に入るのはその翌月の閏4月4日です
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2009年2月22日 (日)

西南戦争~熊本城・攻防戦

 

明治十年(1877年)2月22日、鹿児島私学校の生徒たちによる政府・火薬庫襲撃事件に単を発した西南戦争で、薩摩軍が政府軍の守る熊本城を包囲しました。

・・・・・・・・・・・・・・

四民平等・富国強兵によって戦う場を失ったプロの戦闘員たち・・・不満が爆発した彼ら士族(元武士)らが起した最後の内乱・西南戦争で、総大将となった西郷隆盛以下薩軍が、鹿児島を出立したところまでを先日お話させていただきました(2月15日参照>>)

熊本鎮台(政府陸軍)の司令官・谷干城(たにたてき)が籠城作戦に出る事を察知した薩軍は、全軍を熊本城の攻撃へと向かわせて包囲を完了・・・

かくして明治十年(1877年)2月22日早朝。

薩軍の池上(いけのうえ)四郎隊が城の東側を流れる白川の河岸に到着したところ、突然の城内からの砲撃!・・・これによって戦いの火蓋が切られました。

池上隊とともに、正面攻撃軍であった桐野利秋隊も、城の東南側から突進しますが、鎮台兵による石垣からの猛射撃によってなかなか先へは進めません。

一方、同時に熊本城の西側へ攻め寄せていた搦手(からめて)からの攻撃隊・・・篠原国幹(くにもと)隊と村田新八隊も苦戦を強いられてしまいました。

結局、この日の薩軍は、城郭の一角すら抜く事ができずに戦闘を終える事に・・・。

農民たちの寄せ集めだと思っていた鎮台兵たちに、意外にも苦戦してしまった薩軍・・・夜になって、このまま熊本城への攻撃を続行するか、それとも、長期戦を睨んだ包囲に持っていくのかの軍儀が行われる中、西郷らの挙兵を知って、新たに駆けつける者もいました。

九州の各藩の士族たちです。

彼らは、薩軍に党(くみ)した部隊という事で、全部を合わせて党薩隊(とうさつたい)と呼ばれますが、実際には出身の藩も住む場所も違い、熊本藩出身でも熊本隊竜口隊(たつぐちたい)協同隊など、さらに、人吉藩出身の人吉隊、延岡藩出身の延岡隊などなど、12ほどの部隊に分かれて、別行動をとっていました

しかし、やはり彼らも、明治政府が行った、苗字帯刀といった武士の特権を奪った事や禄(武士の給料)のカットなどに不満を持ち、反政府という同じ意見の下、集まった者たちだったのです。

彼ら党薩隊は、約1万名ほど・・・最大の部隊の熊本隊は約2300名ほどおり、この22日に合わせて挙兵し、薩軍に加わっていたのです。

ところで、先ほどの軍儀ですが・・・大勢の味方を得たせいか、一旦は攻撃続行に傾きかけたものの、後続部隊の西郷小兵衛(こへえ)隊と野村忍介(おしすけ)隊が駆けつけて軍儀に参加し、熊本城の賢固さを主張するに至って、最終的に強攻の中止を決定したのです。

こうして、一部の兵を熊本城の包囲のために残し、残りの全軍を、この先、南下してくるであろう政府軍本隊を迎撃するために北上させる事にしたのです。

そうなんです。

この薩軍が熊本城を包囲していた頃には、すでに政府軍は例の海運輸送によって続々と博多に上陸・・・乃木希典(まれすけ)率いる500人の小倉第14連隊はすぐ目の前にまでやってきていました。

一足先に熊本を出発して北上した薩軍の先鋒隊400名は、早くもこの日、上記の第14連隊と植木(熊本県植木町)でぶつかっています。

しばらくの間、銃撃戦が繰り返された後、弾薬が尽きた頃、薩軍は斬り込み作戦に変更・・・そうなると、例のごとく富国強兵で徴兵したばかりの政府軍の兵は、がぜん弱腰になります。

なんせ、彼らはこのあいだまでは一般人・・・相手は、刀の扱いに慣れた元武士ですから・・・。

・・・で、この植木での決戦は、薩軍の完全なる勝利・・・この時、政府軍は連隊旗を奪われるという屈辱を味わってしまいました。

連隊を率いていた希典は、生涯に渡ってこの事を汚点と考え、重荷として背負う事になります(9月13日参照>>)

一方、包囲戦に持ち込む事に決定したにも関わらず、上記の一部の先鋒隊を除き、翌日も、その翌日も熊本城に攻撃を仕掛けていた薩軍でしたが、やはり城郭を崩す事はできず、結局、3000名の兵を包囲のために残して、主力は、やっと北へと向かいます。

その間にも、政府軍には続々と援軍が加わり、兵力が増強する中、搦(から)め手の豊後街道からは警視隊が熊本城の救援に向かい(3月18日参照>>)、正面を南下した本隊は、あの運命の田原坂で、北上する西郷軍とぶつかる事となります(3月20日参照>>)

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●薩摩軍・鹿児島を出陣>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年2月21日 (土)

史上最強力士・雷電為右衛門の意外な本業は?

 

文政八年(1825年)2月21日、史上最強の力士として名高い雷電為右衛門が56歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

雷電為右衛門(らいでんためえもん)は、江戸後期に活躍した信濃(長野県)出身の相撲取り・・・その身長は六尺五寸(1m90cm)、体重は四十五貫(168.7kg)。

その恵まれた体格が、地方巡業に来ていた江戸相撲の浦風林右衛門(うらかぜりんえもん)の目に止まってスカウトされ、寛政二年(1790年)、雷電・24歳の時にデビューします。

デビュー前から、すでに出雲国(島根県)松江藩のお抱え・・・つまり、スポンサーがついていたほか、番付も、いきなり関脇からのスタートという異例づくし・・・。

それだけ、期待もされていたし、その力量もあったという事なのでしょうが、その期待を裏切る事なく、見事な成績を収めてくれます。

なんせ、デビュー戦でいきなりの初優勝ですから・・・。

その後も、45歳で引退するまでの21年間・・・
35場所の総取組数が285で、
そのうち、254勝・10敗、
引き分け=2、
預り=14、
無勝負=5、
休み=41

・・・ただし、この休みというのは、江戸時代のルールでは、相手が休場すれば本人も休み扱いとなるので、雷電のせいだけではない事をご承知いただきたい。

これで、計算すると、勝率は96.2%という事になり、当然、史上第1位です。

優勝回数こそ25回ですが、これも当時は、年2場所ですから、現在の力士との回数とは比較できないのが当たり前です。

そんな史上最高の強さを誇った雷電ですが、なぜか最高位は大関で、横綱にはなっていません。

もちろん、以前、谷風のところで書かせていただいた【横綱誕生秘話】(11月19日参照>>)でもお話しさせていただいたように、横綱が番付の最高位となるのは明治二十三年(1890年)からで、それまでは、番付の最高位は大関で、横綱は免許制ですから、当然、雷電の時代は、横綱免許という事になるのですが・・・。

今でも、雷電が横綱免許を受けなかった事は、相撲史上最大の謎と言われているのだとか・・・

理由の一つとしては、上記の通り、雷電が松江藩のお抱え力士で、横綱免許を下す吉田司家(よしだつかさけ)が、あの熊本細川家の家臣であった事から、本人の預かり知らぬところで、藩同士の確執なんかがあり、藩の意地の張り合い、メンツの立て合いの犠牲になったのでは?とも・・・。

また、雷電が土俵上で、相手の力士を投げ飛ばした時、相手が死んでしまった事が影響しているのでは?とも言われますが、これに関しては、この話は、雷電がいかに強かったかを誇張するための伝説で、現在では、そのような事実はなかったとされています。

そんな中、雷電は、通称・雷電日記と呼ばれる『諸国相撲控帳』なる記録を残しています。

「八月五日、出立仕ろ候。出羽鶴ヶ岡へ参り候ところ・・・」
・・・で始まる8月5日の日記には・・・

六合から本庄塩越へ向かって歩きましたが、六合のあたりから壁は壊れ、家はつぶれて、石の地蔵も壊れ、石塔も倒れており、さらに、塩越では、家々が皆ひしゃげていて、大きな杉の木は地下へもぐり、喜サ形(象潟)というところでは、引き潮の時でも、ひざのあたりまで水がありました」
といった風な内容の事を書いています。

これは、巡業で秋田へ行った際に、奥羽地方を襲った大地震に遭遇した時の記述なのですが、日記にしては、エライ客観的で刻銘な描写・・・

雷電は、この日記を20年間に渡って書き続け、しかも、この日記をもとに『萬御用覚帳(よろずごようおぼえ)という公文書を作成し、逐一、松江藩に提出していたのです。

それは、引退後の文政二年(1819年)の5月まで、キッチリと続けられています。

この雷電の日記は、今でも、相撲だけではなく、江戸時代の風俗を知る事のできる貴重な史料とされているところからみても、日記・・・というよりは、現地ルポ・・・

そうなると、雷電は、巡業にいった先で、見た事、聞いた事を、現地特派員のような形で、いちいち松江藩に報告していたという事になります。

勝手な想像ですが・・・ひょっとして、こっちが本職だったのでは?

以前からたびたび書かせていただいているように、江戸時代の日本というものは、表向きは平静を装った徳川幕府の配下ではあったものの、それぞれの地方は一つの国・・・つまり、独立国家の集合体みたいな形であったわけですから、全国各地を巡って、あまりにも詳細な現地ルポを、自身の藩に報告するというのは、ある意味スパイ行為なのでは?

もし、力士というのが仮の姿で、現地レポートを作成する隠密行動が本職なのだとしたら・・・あれだけ強くても、横綱免許を受けなかった、あるいは与えなかった事にも、納得がいく気がするのですが・・・。

ただ、本職ではないのに、史上最強・・・というのにも、納得がいかないのは確かですが、本職で無いのに大発見しちゃった間宮林蔵(まみやりんぞう)(5月17日参照>>)の例もありますからねぇ・・・。

隠密剣士(←古い!)ならぬ隠密力士・ライディーン
(1975年に放送されたロボットアニメ「勇者ライディーン」は、この雷電の名前をもじってつけられています)

なんか、隠密となると、雷電為右衛門=めっちゃイケメンを想像してしまいました~

きっと、その体格では、屋根から屋根へ飛び移る事はできなかったでしょうけど・・・。
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2009年2月20日 (金)

怨霊・心霊・怖い話

 

注)この類のお話には、現実にはありえないような物もあり、伝説の域を出ないものが含まれておるのが常でございまして、史実とは言い難い部分も多々あろうかとは思いますが、その点をご了承いただきながら、いざ!摩訶不思議な魑魅魍魎の世界へどうぞ~

・‥…━━━☆

★日本三大怨霊

●菅原道真
  【清涼殿に落雷!道真の怨霊か?】
●平将門
  【平将門・怨霊伝説】
●崇徳天皇
  【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】

★日本三大怪談

●四谷怪談
  【もう一つの忠臣蔵・四谷怪談】
●番長皿屋敷
  【真夏の夜の怪談話…播州皿屋敷】
●牡丹燈籠
  【三遊亭円朝と「怪談・牡丹燈籠」】

・‥…━━━☆

★真夏の夜の怪談話シリーズ

●播州皿屋敷
 【真夏の夜の怪談話…播州皿屋敷】

●新町化物屋敷
 【真夏の夜の怪談話2…会津若松・新町化物屋敷】

●姫路城天守閣の妖怪退治
 【真夏の夜の怪談話3…宮本武蔵の妖怪退治】

●姫路城天守閣の長壁明神
 【真夏の夜の怪談話4…姫路城の刑部姫】

●姫路城の七不思議
 【姫路城の七不思議の不思議】

●灯明守の娘
 【真夏の夜の怪談話6…灯明守の娘in山崎】

●高松城
 【生駒騒動を引き起こした?山口彦十郎の亡霊】

●松前藩の怖い話
 【怨みの井戸・門昌庵事件~松前藩の怖い話】

・・・・・・・・・・

●丑の刻参りのやり方マニュアル
 【丑の刻参り~その歴史とやり方】

●蘇我入鹿と聖徳太子
 【山背大兄王を殺したのは誰か?】

●吉備真備
 【天平の陰陽師・吉備真備】

●早良親王(崇道天皇)
 【お彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために・・・】

●小野篁
 【魔界の使者・小野篁】

●後鳥羽上皇
 【オカルトの日と後鳥羽上皇】

●橋姫
 【橋の日なので橋姫の怖い話】

●紫式部の噂
 【源氏物語を書いて地獄に堕ちた紫式部】

●百人一首の謎
 【百人一首に隠された暗号】

●咎なくて死す
 【江戸時代から有名な「いろは歌」の暗号】

●源頼政の鵺退治
 【源頼政の鵺退治~敗北の英雄】 

●神霊・矢口の渡し
 【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】

●雲景の魔界体験
 【魔界へ訪問…太平記の「雲景未来記」】

●吉崎鬼面伝説
 【吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」】

●上杉謙信の春日山城
 【上杉謙信と春日山城…の怪現象】

●九十九橋の首なし武者
 【柴田勝家自刃…福井・九十九橋の怨霊伝説】 

●飛騨松倉城
 【飛騨松倉城の人柱伝説】

●八王子城
 【小田原攻めで最も悲惨~八王子城の怖い伝説】

●奥州征伐・九戸城
 【今夏最後の怪談話…九戸政実~怨みます!】

●大阪城の不思議な話
 【秀吉の怨念?大阪城の不思議な話】

●大阪城の怪談話
 【大坂の陣・落城記念~大阪城の怖い話】

●京都・養源院の血天井
 【伏見城・攻防戦と血天井】

●駿府城の「肉人」と常陸の「虚舟」
 【徳川家康の未知との遭遇&「虚舟」の話】

●富士山の異常気象
 【異常気象と富士山信仰】

●岡山城・開かずの間
 【小早川秀秋を苦しめた恐怖~岡山城・開かずの間】 

●熊本城・築城
 【築城にまつわる怖い話】

●福岡城の怨霊
 【黒田如水の福岡城…扇坂門の怨霊話】

●大阪城
 【大坂の陣・落城記念~大阪城の怖い話】

●彦根城の人柱
 【彦根城に菊は咲かない?築城時の人柱】

●鍋島の化け猫騒動
 【佐賀・鍋島藩~化け猫騒動の真相】

●松山城の俎石(まないたいし)
 【名将・氏郷から3代…断絶となった蒲生忠知の怖い話】

●四谷怪談
 【もう一つの忠臣蔵・四谷怪談】 

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2009年2月19日 (木)

めざせ!救民~大塩平八郎の乱

 

天保八年(1837年)2月19日、元大坂町奉行所与力大塩平八郎「救民」を掲げて挙兵・・・世に言う『大塩平八郎の乱』がありました。

・・・・・・・・・・・・

天保八年(1837年)2月19日朝8時・・・天満の方角に轟いた砲音が、大坂市民を目覚めさせます。

Kawasakitousyougu800 まずは自宅に火を放った大塩平八郎・・・次に江戸幕府の祖・徳川家康を祀る川崎東照宮に集合した一団は、東照宮に一発、北隣の朝岡邸に一発の大筒を打ち込んで、北側にある与力町・同心町でひと暴れした後、一路、天満橋筋を南下します

着込みの野袴に、白木綿のハチマキを巻いた総大将の平八郎を先頭に、『天照皇太神宮』『湯武両聖王』『八幡大菩薩』『東照大権現』などと書かれた旗をを持ち、『救民』と大きく染め上げられたのぼりを風になびかせて・・・

しかし、二問の大砲を備えてはいるものの、その姿はいかにもまちまちで、陣羽織を着ている者、はっぴ姿の者、火事頭巾をかぶっている者など、見るからに寄せ集め・・・

手に持つ武器も、槍や刀や長刀やらとまちまちで、中には武器らしい武器を持っていないため、鍋や釜など家にある武器になりそうな物を、とりあえず手にしている者もいました。

そんな集団が、騒ぎを聞きつけて集まってきた周囲の人々に「味方につけ!」と声をかけながら進軍して行きます。

淀川に架かる天満橋までやってきた集団は、天神橋が、すでに幕府によって落とされていたために、西に進路を変え、天神橋をめざしましたが、ここでは橋を渡らず、そのまま淀川沿いを西に行き、難波橋を南下して、北船場に指しかかろうとしたのが正午頃・・・

この頃には、総勢300人の大集団になっていました。

Oosioheihatirounorankankeizucc 見にくければ画像をクリックして下さい、大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

やがて、北浜・北船場に入った集団は、豪商の家を次々と襲撃しながら、今度は、進路を東に変え、高麗橋を渡り、東町奉行所から大坂城をめざしたところで、城から出陣してきた幕府軍と壮絶な戦闘状態に入ります。

幕府軍は、城代・土井利位(としつら)(7月2日参照>>)の指揮のもと、加勢を求められた藩兵たち・・・そうなると、大塩軍の形勢は見る間に悪くなっていきます。

なんせ、向こうは武士=戦いのプロたちです。

こちらは、平八郎の弟子の一部を除けばほとんどが、近隣の貧しい農民や、差別部落の人たち・・・2度目の砲撃戦で死者がでたのをきっかけに、軍団は散り散りになってしまい、夕方4時頃には、もはや集団の形ではなくなってしまいました。

形勢不利と見た平八郎は養子の格之助とともに、見物人の群集にまぎれて姿を消し、八軒屋船着場から船に乗って逃走していきました。

以上・・・わずか9時間ほどで鎮圧された烏合の衆の反乱大塩平八郎の乱です。

しかし、それまででも、農民の一揆や打ちこわしなど、いくらでもあったにも関わらず、規模的にも時間的にも、それらとあまり変わらないこの反乱が、250年続いた幕府を震撼させるでき事となります。

それは、まず、首謀者の平八郎が、元幕府の役人であった事、そして、歯車が少しズレた事で、結果的にすぐに鎮圧されて失敗には終るものの、ただの打ちこわしにはない計画性があった事・・・そして、何より、世論に与えた影響の大きさです。

なんせ、平八郎は、現役の与力時代は、かなりの敏腕で名を馳せた人物・・・

文政十年(1827年)の切支丹逮捕
文政十二年(1829年)の奸吏糾弾(かんりきゅうだん)
その翌年には破壊僧遠島事件・・・と、後に『三大功績』と呼ばれる大きな民政上の事件も解決しています。

気の合う上司・高井実徳(さねのり)の下で腕を奮い、目付役筆頭・地方役筆頭・盗賊役筆頭・唐物取締役筆頭・諸御用調役などの奉行所の重役を兼務して、与力としては最高と言えるぐらいの出世をした平八郎でしたが、やがて、その上司・実徳が高齢を理由に奉行所を去った事で、彼の人生は大きく変わります。

それは、先の『三大功績』の2番目・・・奸吏糾弾

その名前でお察しの通り、これは、奉行所内の役人の悪事を暴いた事件・・・つまり内部告発です。

内部告発をした人間が、その後も、その職場にいられるのは、まわりに理解者がいるからで、その理解者がいなくなれば、そこにいづらくなるのは当然の事・・・平八郎は、実徳の退職をきっかけに、自分も奉行所を去り、すでに自宅に開設していた陽明学の私塾・『洗心洞』の運営に専念する事にします。

やがて、時は天保に変わり、未曾有の飢饉=天保の大飢饉が日本を襲います。

米の値段は上がり、一部の商人を除いては、ほとんどの庶民がその日食べる物にも困る状態となりますが、幕府はいっこうに対策をほどこしません

それどころか、時の老中・水野忠邦は、自らの弟・跡部良弼(よしすけ)を、町奉行として大坂に派遣したのです。

良弼が、せっせと兄のために米を買い付け、江戸に回すと、大坂市中の豪商たちも、それを利用して平気で米の値段を吊り上げにかかります。

平八郎は、陽明学の知識を活かして考えた自らの『飢饉救済策案』を、何度も良弼にうったえますが、良弼には、兄・忠邦という強力なバックもいますから、元与力の隠居の意見など聞くはずがありません。

逆に、「与力の隠居ふぜいが身分をわきまえない事をしつこく言うのならのなら、お前を牢屋にぶち込むぞ」とまで言われてしまいます。

ここで、平八郎さん、ブチ切れました

「もう、我慢でけへん!」とばかりに、塾の弟子たちとともに、天保八年(1837年)2月19日乱を決行する計画を立てるのです。

なぜ、この日だったのか?

それは、赴任してきたばかりの西町奉行・堀利堅(としかた)が、東町奉行の良弼の案内で、天満を巡回する日だったからで、途中の朝岡邸で休息する時間を狙って、ふたりを一挙に爆死させる計画・・・つまり、この乱は単なる打ちこわしではなく、幕臣の暗殺計画だったわけです。

ところが、計画は裏切り者の密告によって、奉行所側にバレてしまったために、急遽、時間を早めての決行となってしまったのです。

それが、冒頭に書いた朝8時・・・おかげで、良弼と利堅が命拾いすると同時に、一つ目の歯車が狂ってしまいました。

次に、平八郎は、乱を決起すると同時に、奉行所内のワイロまみれの実態を綴った書類を江戸へ向けて発進していたのですが、頼んだ定飛脚(じょうびきゃく)が急病のため、しかたなく知人に頼んだものの、それが、箱根から三島宿に転送される途中で開封されて持ち去られ、木箱だけが箱根山中で発見されてしまうのです。

「この騒ぎが江戸に伝わると同時に、あの密書が届いたなら、江戸で何かが起こり、幕藩体制に変化があるかもしれない」という期待は潰えてしまい、二つ目の歯車も狂ってしまったのです。

そう、やはり、この乱は単なる打ちこわしではなく、「幕藩体制を変えたい」という明確な意思のもとで決行されたのです。

・・・とは言え、上記の通り、わずかの時間で鎮圧されてしまった大塩平八郎の乱・・・しかし、民衆は、しっかりとその意図を見抜いていました。

乱は終結しても、その影響は千里を走ります・・・が、そのお話は、逃走した平八郎父子の消息がわかる3月27日のページでどうぞ>>

・‥…━━━☆

本家HPでは、大塩ゆかりの地を訪ねる歴史散歩【大塩平八郎の足跡をたどる】>>
で史跡への行き方を紹介していますので、よろしければどうぞ!
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2009年2月18日 (水)

学問の神様・菅原道真の学力は?

 

文亀三年(1503年)2月18日、絵師・土佐光信によって三年の歳月をかけて描かれた『北野天神縁起絵巻』が完成しました。

・・・・・・・・・・・・

・・・て事で、今日はその関連から、北野天満宮の祭神である天神様=菅原道真公について、またまた書かせていただきます。

またまた・・・という事は、道真さんには、すでに、このブログで何度かご登場いただいているわけで・・・

【菅原道真・没】のページ(2月25日参照>>)では、少々遅れ咲きとは言え、右大臣にまで出世しながら、ライバル・藤原時平との政争に破れ、遠く大宰府へと左遷されて、その地で非業の死を遂げる事・・・

その直後に起こった天変地異により怨霊と恐れられ、その怨霊を鎮めるために雷神として天満宮に祀られた事など書かせていただきました。

また、【怨霊伝説】のページ(6月26日参照>>)には、怨霊だった道真さんが、学問の神様となった経緯について、「学ぶ事が好きで清廉潔白だった道真公は、やはり清廉潔白で真面目に努力する人には罰を与えない」とされているので・・・という事を書かせていただきました。

・・・とは言うものの、【左遷の日】のページ(1月25日参照>>)で、実は、道真公は、学問一筋の人ではなく、けっこうしたたかな政治的手腕を発揮していたんじゃないか?・・・てな事も書かせていただきました。

まぁ、道真公が、清廉潔白というよりは出世欲を持った政治家で、たとえ学門一筋ではなかったとしても、学業に優れた人だった事は確かです。

もともとは、災いを起す恐ろしい雷神だった道真公でしたが、室町時代に、「天神が禅僧について禅の修業を行ったという伝説」が、中国から伝わった事で、多くの禅僧が、天神様を祀った北野天満宮に参拝するようになったのだとか。

それで、徐々に、一般の人々からも、天神様は恐ろしい神様ではなく、願いを叶えてくれる神様として信仰されるようになったという事だそうですが、そこに、先ほどの学業に優れていた道真公本人の伝説が相まって、最終的に学業成就の神様というかたちになったのでしょう。

ではでは、その道真公の学業の成績は、いかがなものであったのでしょうか?

平安時代の中央官吏(国家公務員)の養成学校には、明経(みょうぎょう・儒学)明法(みょうほう・法学)紀伝(きでん・文章作成)(さん・数学)の4種類がありました。

その中で、道真公が専攻したのは紀伝・・・って事は、道真公は文系って事ですね。

その養成学校では、教官である文章博士(もんじょうはかせ)の定員が2名で、学生である文章生(もんじょうしょう)が20名・・・

定員があるって事は、もちろん、試験があるわけですが、お父さんの是善(これよし)が、その教官だった道真公は、幼い頃から徹底したお受験教育を受けていたようで、何と、18歳で、その文章生に合格!・・・これは、当時の最年少記録とタイの記録なのだそうです。

・・・で、その文章生の中から優秀な2名が文章特業生(とくごうしょう)というのになるのですが、道真公は23歳でこれになってます。

さらに、特業生になったら、その後の7年の間に方略試(ほうりゃくし)という国家試験を受けなければならないのですが、これも26歳で受けています。

この方略試は、当時の国家試験の中で、最も難しいもので、慶雲年間(704年~708年)から承平年間(931年~938年)の約230年間で、合格者がわずか65名という狭き門なのです。

Dscn1968b330 北野天満宮

・・・で、その結果は・・・?

実は、この時の試験問題と答案が、『菅家文草』『菅家後集』の中に現存するのですよ。

試験問題は「氏族を明らかにす」「地震を弁ず」の2問・・・このうちの地震について、道真公は答えているのですが、原文は漢文で、難しいったらありゃしないε-( ̄ヘ ̄)┌ ダミダコリャ…

自分では読めないので、『日本古典文学大系』の解説を見させていただくと・・・
“事実をのべるよりも、儒道仏の三教にわたって、地震に関係するような事柄を取り出してきて、きらびやかな美文にしたてている”のだそうです。

ちなみに、この試験が行われたのは、貞観十二年(870年)だったのですが、その前年には多賀城(宮城県)大津波に襲われ、さらにその前年には京都M7以上の地震があって大きな被害が出たという事なのです。

・・・て事はこれは時事問題?

試験問題が直前のニュース的なものから出題される傾向は、この時からあったのか・・・とまざまざと感じてしまいます~。

・・・で、気になる評価は・・・「言ってる事はだいたい正しいし、ダメなところもあるけれど文章はなかなかいい・・・よって、中の上と判定し、合格!

道真公、見事合格しました。

これで、一躍その文才を認められた道真公は、この頃から藤原良房(よしふさ)などの高官から依頼されて、ちょくちょく公文書の代筆なんかも頼まれたりするようになり、最終的に33歳で、例の文章博士=教官にまで登りつめてます。

やっぱ、さすがに学問の神様だけありますね~。

こりゃ、ご利益ありそうです。
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2009年2月17日 (火)

伝統行事&習慣・言い伝えの歴史・豆知識

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、【伝統ある年中行事&習慣・言い伝え】というテーマでピックアップさせていただきました~

ただし、こういった伝統・習慣というものの中には、その起源があまりにも古く、また、地方から地方へ伝わるうち、様々に変化しているものもありますので、あくまで、諸説あるうちの一つとお考えください。

・‥…━━━☆

★年中行事の由来・豆知識

●えとの意味と由来
 【えと・十二支の由来と意味】

●年賀状の由来
 【いよいよ師走~年賀状の由来と年賀状イラスト】

●初詣
 【古式ゆかしい正月行事と初詣の起源】

●お年玉
 【お年玉の由来】

●おせち料理とお雑煮の由来
 【おせち料理とお雑煮の由来・起源】

●初夢
 【いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話】

●羽根突き
 【ただの遊びじゃない!羽子板の由来と起源】

●おみくじ
 【延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源】

●貧乏神
 【京都の昔話~愛すべき貧乏神】

●七草粥
 【「七草粥」の起源】

●左義長・どんど焼き
 【左義長・どんど焼きの由来と意味は?】

●閻魔の斎日
 【半年に一度・地獄の釜開き】

●成人式
 【成人式=元服の歴史】

●小正月・小豆粥・嫁叩き
 【1月15日は小正月…お粥を食べて男も女も「嫁叩き」】

●針供養
 【針供養の起源と針のお話】

●御事始め
 【農耕のはじまり~『御事始め』から連想】

●節分・豆まき
 【節分・豆まきの起源と鬼】

●初午
 【初午の日と稲荷信仰】 

●涅槃会
 【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図の見どころ】

●一夜官女
 【岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女のものがたり】

●雛祭り
 【意外に新しい?雛祭りの起源と歴史】

●お水取り(東大寺二月堂・修二会)
 【あをによし奈良の都のお水取り】

●お彼岸
 【お彼岸の起源・由来~ひとりの怨霊を鎮めるために・・・】

●お花見
 【お花見の歴史】

●庚申講・庚申待ち
 【思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」】

●八十八夜
 【夏も近づく八十八夜♪雑節のお話】

●端午の節句
 【端午の節句は女の祭り?】

●母の日
 【母の日の起こり】

●父の日
 【父の日事始】

●ほおずき市
 【ほおずき市の起源は頼朝さん】

●京都・鴨川の川床の始まり
 【秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床】

●中元
 【人はなぜ中元に贈り物をするのか?】

●お盆
 【お盆の由来~大文字焼きは巨大灯籠の最終形?】

●夏越の大祓
 【茅の輪くぐり神事のお話】

●祇園祭
 【京都・祇園祭の由来】

●七夕
 【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】
 【星月夜の織姫~七夕に寄せて】
 【日本の七夕伝説・天稚彦物語】
 【南西諸島の七夕伝説】

●土用の丑の鰻
 【夏バテに鰻は万葉の昔から…】

●八朔
 【八朔と家康の江戸入府】

●7月と8月・大の月が続く
 【7月と8月・・・大の月が続くのはナゼ?】

●流鏑馬(やぶさめ)神事
 【大阪天満宮の流鏑馬神事】

●七五三
 【意外に最近?11月15日の七五三の歴史】

●クリスマス
 【クリスマスの起源】

●お歳暮の由来
 【お歳暮はお正月の神様のため?】

●『高島易断』の祖
 【横浜を造った実業家・高島嘉右衛門と『高島易断』】

●除夜の鐘の108つ?
 【大晦日は除夜の鐘~108つの意味は?】
 

★習慣・言い伝えの由来・豆知識

●二十四節季って何?
 【二十四節季のお話】

●大安とか仏滅とかって?
 【やっぱり気になる?大安・仏滅って何よ】 

●ひのえうまのウワサ
 【八百屋お七と丙午】

●丑の刻参りのやり方
 【丑の刻参り~その歴史とやり方】

●一日三食はいつから?
 【戦国時代の食べ物事情】

●火葬・第一号は?
 【日本の火葬の習慣はいつから?】

●手を振るという行為
 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】

●運命の赤い糸
 【運命の赤い糸はなぜ赤い?】

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2009年2月16日 (月)

佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに

 

明治七年(1874年)2月16日、明治維新後の初めての士族の反乱である佐賀の乱で、不平士族たちが佐賀城への攻撃を開始しました。

・・・・・・・・・・・・・

命をかけて幕末の戊辰戦争を戦ったにも関わらず、もぎ取った政権で誕生した明治新政府の方針は、武士の特権を奪う四民平等・・・職を失った士族(元武士)たちの不満は徐々に大きくなります。

やがて、明治七年(1874年)・・・1月14日には、東京にて、政府高官である岩倉具視(いわくらともみ)が土佐の士族に襲われるという赤坂喰違(くいちがい)の変(1月14日参照>>)が勃発し、さらに2月3日には佐賀で、やはり不平士族のグループが、政商の小野組(江戸時代の豪商・井筒屋)に押しかける事件(2月3日参照>>)が発生・・・。

中央政府を追われた佐賀出身の江藤新平が、ちょうどこのタイミングで故郷に戻っていた事で、危機感を抱いた大久保利通(としみち)は、治安維持のため岩村高俊佐賀県令(県の長官)に任命して出兵させます。

これに激怒したのが、不平士族たちの暴走を説得するつもりでいた江藤新平・・・不平士族グループの征韓党のトップに担ぎ上げられた彼は、敵対グループ・憂国党島義勇(よしたけ)と、故郷・佐賀を守るためという理念で意気投合し、ともに立ち上がったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

征韓党と憂国党の合併集団・・・ここでは、とりあえず佐賀軍と呼ばせていただきますが・・・

上記の通り、彼らのリーダーである新平も義勇も、本来は、皆が反乱を起さないように説得するつもりでいた二人です。

ただ、県令に任命された高俊が、はなから兵を率いての佐賀入りという事を聞きつけて、「そっちがその気なら・・・」という事ですから、彼らの決起の判断は、あくまで相手の態度次第・・・。

会議にて、「鎮台(政府陸軍)兵が何の布告もなしに佐賀に入るのであれば・・・」という条件を決定し、相手の出方を待ちます。

そんなこんなの2月15日・・・かの高俊が、熊本の鎮台兵640名を率いて佐賀城に入って来たのです。

すぐに、新平らは征韓党所属の山中一郎という者を代表として佐賀城へ向かわせ、高俊の真意を尋ねます。

「兵隊を率いての佐賀への入城は、俺ら士族を殺すためなんか?」
高俊の返答は、ただ一言・・・
「答える必要はない」

この報告を受けて、新平らの心は決まりました。

「答える必要はない」は、イコール「YES」なわけですから・・・

早速、その夜、佐賀軍の偵察にやってきた鎮台兵と、それを見つけた憂国党の兵士・十数名とが小競り合いを起しますが、本格的な戦闘は翌日の早朝・・・明治七年(1874年)2月16日です。

近くの八幡神社から佐賀城へ打ち込まれた大砲にて、火蓋が切られた佐賀の乱は、3日間に渡り、佐賀城の攻防をめぐっての激戦が繰りひろげられましたが、上記の通り、鎮台兵は数百名で、対する佐賀軍は4500名ほど・・・

人数的にも有利な佐賀軍は、この佐賀城攻防戦での戦闘では圧倒的に優勢・・・

2月18日までに、鎮台兵の3分の1が戦死するに至って、見事、佐賀城は陥落・・・高俊は何とか城を脱出し、代わって新平ら佐賀軍が城を占拠したのです。

しかし、その翌日・・・すでに高俊を派遣した時から、自らの出陣を決意していた大久保利通が、政府の軍艦15隻に、大量の武器・弾薬を積んで、博多湾へとやってきていたのです。

上陸した利通は、早速、未だフリーの士族たちに向けて、貫属隊(かんぞくたい)なる名目で兵を募集したところ、何と1万人もの人数が集まります。

もともと利通が、東京や大阪でかき集めて連れてきた鎮台兵が、5000名ほどいますから、合わせて1万5000以上・・・

今度は逆に、多勢の敵から佐賀城を守らなければならなくなった新平ら佐賀軍は、博多から佐賀へ向かってくる政府軍を迎え撃つべく、佐賀城の北東に位置する朝日山に先鋒を配置します。

やがて、2月22日の早朝から始まった朝日山での決戦でしたが、わずか数時間で、数の勝る政府軍の勝利となり、佐賀軍は退却・・・佐賀城下にて戦況を見守っていた新平は、自ら兵を率いて田手川(たでがわ・佐賀県吉野ヶ里町)へ撃って出ました。

結果的に、佐賀の乱の最大の激戦となってしまった、この田手川の攻防戦で、佐賀軍は多数の死者を出し、翌・23日の夕方には、ここも退却をせざるを得なくなってしまいます。

佐賀城に戻った新平は、「もはや、これ以上戦っても、死者を増やす一方で勝ち目はない」と判断し、しばらく様子を見て、再び訪れる絶好の機会に再起する事として、一旦、軍の解散を提案しますが、一方の憂国党の代表である義勇は「徹底抗戦」を主張して譲りません。

しかたなく、新平は、征韓党の兵士にだけ、後日再び集結する事を誓うとともに、解散の命令を下し、佐賀城をあとにしたのです。

そして、佐賀を脱出した新平が向かった先は・・・

あの明治六年の政変(10月24日参照>>)で、ともに政界を辞職した鹿児島の西郷隆盛でした。

2月25日・・・佐賀から逃れて必死の思いで西郷に面会した新平・・・

その願いは、西郷以下・薩摩士族の挙兵か、はたまた、反乱の正当性を中央に訴える事への協力か・・・とにかく、義の人=西郷隆盛しか、彼には頼る人はいなかったでしょう。

しかし、西郷の答えは・・・「NO」でした。

しかたなく、新平は次ぎの協力者を求めて高知へ・・・しかし、ここでも断られ、更なる協力者を求めて徳島に向かう途中、国境付近の(かん)の浦にて逮捕されるのです。

佐賀を出てから約1ヶ月・・・3月29日の事でした。

皮肉な事に、新平が明治政府で活躍していた頃に、その法律の知識を遺憾なく発揮して整えた制度のおかげで見事に近代化した警察機能による逮捕劇でした。

・・・で、この後、彼は、裁かれる事になるわけですが、冒頭に書いた通り、この佐賀の乱は、これから次々と起こる不平士族による反乱の一番最初に起こった反乱です。

司法制度の近代化に向けて、新たな法律をいくつも作った新平への処分は、その時代の流れに逆行するものでしかなく、更なる大きな不満を残すことになるのですが、そのお話は、やはり、新平さんのご命日の【4月13日のページ】でどうぞ>>
 

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2009年2月15日 (日)

いよいよ西南戦争~薩摩軍・鹿児島を発つ!

 

明治十年(1877年)2月15日、西郷隆盛率いる1万3千の薩摩軍が鹿児島を出発・・・いよいよ西南戦争が開始されました。

・・・・・・・・

明治十年(1877年)1月30日に勃発した鹿児島の私学校の若者たちによる政府火薬庫・襲撃事件(1月30日参照>>)・・・その日のページでは、明治新政府の方針に不満をつのらせる士族(元武士)たちに後押しされた西郷隆盛が、事件直後の2月5日に開かれた会議の席で、自らが総大将となって挙兵する決意をしたところまでお話させていただきましたが・・・

早速、翌日の2月6日には、私学校の名を「薩軍本営」と改め、具体的な作戦会議に入ります。

ここで、海路にて東京まで行って上陸する作戦や、本隊と別働隊に分ける作戦など話し合われましたが、先日お話させていただいたように、「奇襲作戦など行うは恥、正々堂々と陸路にて進軍し大義を天下に問うのだ」てな話になったわけです。

募集に答えて集まったのは約1万3千人・・・皆「我こそは!」と腕に覚えのある精鋭部隊です。

しかし、当然の事ながら、この鹿児島の不穏な空気は政府にも伝わります。

2月9日、西郷本人から直で現状を聞くべく、政府から派遣された川村純義(すみよし)林友幸(ともゆき)でしたが、もはや血気MAXの私学校の生徒らのおかげで、西郷に会う事すらできない状態・・・しかたなく、広島尾道から、政府と熊本県令に「もう、あかん!」と、爆発寸前の状況を打電します。

この電報を受け取った陸軍の山県有朋(やまがたありとも)は、即、各地の鎮台(陸軍)に出動命令を発し、特に、熊本鎮台の司令官である谷干城(たてき)には、「絶対死守」の檄文を送りました。

かくして明治十年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪に見舞われた朝・・・いざ!熊本へ向けて、先鋒をまかされた別府晋介率いる薩軍・先発隊が、意気揚々と鹿児島を出発したのです。

一方の政府軍・・・熊本鎮台を守る3400人の兵は、政府の援軍が到着するその日まで、上記の通り「絶対死守」・・・何とか守り抜かねばなりません。

幸いにして、ここは、あの加藤清正が築いた難攻不落の熊本城・・・谷は、籠城での抗戦を決意します。

この間にも政府は、着々と兵や物資の輸送を進めます。

ただ、この明治十年の時点で、開通していた鉄道は、わずかに新橋⇔横浜間(9月12日参照>>)と、京都⇔大阪⇔神戸間にすぎなかったため、ここで、こと物資の輸送に関して大いに活躍したのは海軍でした。

東京の軍隊は、新橋から横浜へ行き、横浜港から船で九州へ・・・
京都の軍隊は、神戸まで行き、神戸港から瀬戸内海を海路、西へ向かったのです。

余談ですが、この時、大量の兵士が、梅田(大阪)神戸駅を利用したために、その客をあてこんで弁当を売る売り子が出現し、これが駅弁の発祥とも言われています。

ちなみに、脱線覚悟で余談の余談ですが・・・

以前は、明治十八年(1885年)に宇都宮駅で販売されたおにぎり2個が駅弁の発祥とされていましたが、後に、上記の梅田・神戸をはじめ、高崎駅上野駅敦賀駅など、「ウチのほうがもっと早い!」と主張するところが次々と登場した事と、宇都宮の記録が70年後に書かれたものである事から、現在では「駅弁の発祥は不明・・・もしくは、諸説あり」って事になってます。

・・・と、話を戻します。

徹底籠城の構えを見せる熊本鎮台ですが、まだ、薩軍が到着する前の2月19日、熊本城の大天守と小天守を、原因不明の出火で焼失させてしまいます。

これには、薩軍のスパイの先制攻撃によるとか、失火であるとかの説がありますが、司令官である谷自身が、自軍の士気を高めるため、あるいは、薩軍が隠れる場所をなくすために、城下町もろとも焼いたとのウワサもあります。

そんなこんなの2月20日の夜・・・最初の交戦が勃発します。

薩軍の先鋒隊である別府隊が川尻(熊本県)にさしかかった時、熊本鎮台兵による急襲が決行されたのです。

小競り合い程度のぶつかり合いでしたが、わずかに薩軍有利の中、鎮台の伍長が捕らえられてしまい、谷少将以下・鎮台側が、籠城による徹底抗戦の準備をしている事が、薩軍の知るところとなります。

これによって薩軍は、全軍をあげての熊本城・攻撃を決定するのです。

まずは、全軍を半分に分けて、一つを攻撃軍、もう一つを守備軍とし、さらに、攻撃軍を正面(城の東南)と搦(からめ)手(城の西北)の二手に分けて熊本城の包囲にとりかかります。

薩軍の四番大隊長で西郷の片腕でもあった桐野利秋(きりのとしあき)は、「相手は農民・・・たとえ100万いても一蹴できる!」と、兵士の士気を高めます。

包囲を完了した薩軍に、熊本城内からの砲撃がぶち込まれ、いよいよ熊本城攻防戦が開始されるのは2月22日未明の事・・・なので、ここから先のお話は、2月22日のページへどうぞ>>

*西南戦争関連ページ
●西郷隆盛に勝算はあったか?>>
●熊本城の攻防>>
●佐川官兵衛が討死>>
●田原坂が陥落>>
●熊本城・救出作戦>>
●城山の最終決戦>>
西南戦争が変えた戦い方と通信システム>>
●西郷隆盛と火星大接近>>
●大津事件・前編>>
●大津事件・後編>>
●大津事件のその後>>
●西郷隆盛生存説と銅像建立>>
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2009年2月14日 (土)

ともに一つの蓮の上~平通盛の妻・小宰相

 

寿永三年(1184年)2月14日、去る一の谷の合戦で討死した平通盛の妻・小宰相が入水自殺を遂げました。

・・・・・・・・・

平通盛(みちもり)は、あの清盛の弟である平教盛(のりもり)の息子・・・治承三年(1179年)10月に中宮亮(ちゅうぐうのすけ)に任命された男盛りの25歳(前後)・・・。

かたや、小宰相(こざいしょうは、ともに紫式部の夫・藤原宣孝(のぶたか)を祖先に持つ、いとこ同士の両親から生まれた女性で、後白河法皇の姉・上西門院(じょうさいもんいん)に仕える16歳(前後)の乙女でした。

二人の出会いは、その上西門院が法勝寺(ほつしょうじ)へ参拝に出かけた時の事・・・上西門院に随行する小宰相の姿を、やはり参会していた通盛が見つけ、彼は、一目で恋に落ちてしまうのです。

その日から、通盛は、思いのたけを込めて、彼女へ手紙を送ります

何度も・・・何度も・・・

やがて・・・
後白河法皇の息子・以仁王(もちひとおう)が源頼政(よりまさ)挙兵(5月26日参照>>)
関東では源頼朝が白旗を掲げ(8月17日参照>>)
北陸では木曽義仲が立ち上がり(9月7日参照>>)
・・・と、平家を取り巻く状況が大きく変わる中、通盛は、片翼の大将として、何度も北陸への遠征をするかたわら、小宰相への手紙を送り続けていました。

しかし、相手は、宮中一とウワサされる美女・・・出会いの日から三年間経っても、だたの一度も返事がくる事はなく、さすがの通盛も、「これで、ダメやったら、もう、あきらめよう」と心に決めて、最後の手紙を書き、使者に託したのです。

最後の望みを託された使者は、いつものように手紙を届けに行きますが、その日は、たまたま、院に向かう途中の彼女の車に出くわし、いつもは御所の女房に渡す手紙を、直接、彼女の車の中に投げ入れます。

通勤途中に、いつもとは違うパターンで、いきなり、熱烈ラブレターを渡された小宰相・・・その手紙の置き場に困って、とりあえず袴に挟んで出勤したのですが、それを、勤務中の上西門院の御所の中で落としてしまい、しかも上西門院本人に拾われて、さらに、中身を読まれてしまったのです。

会社のPCに送られてきたラブラブメールを上司に見られちゃったようなもの・・・これは、いかん!万事休す・・・かと思いきや、上西門院も粋な人・・・通盛の一途な気持ちにほだされ、何と、キューピット役を買って出てくれたのです。

上西門院が声をかければ、話はトントン拍子・・・

もともと小宰相も、恥ずかしさから、どうしていいかわからずに無視していただけだったようで、こうなったら、若い二人はノンストップ!で、周囲も認める恋人同士となります。

・・・とは言うものの、通盛には、すでに正室となる約束を交わした相手がいたのです。

それは、清盛の三男・・・つまり通盛のいとこにあたる宗盛(むねもり)の娘で、この宗盛は、すでに亡くなった通盛の姉の夫でもあった事から、宗盛と通盛は密接な関係にあり、かなり早くから、その約束が交わされていたようです。

養和元年(1181年)に清盛が亡くなり、長男・次男がすでに他界していた事で、宗盛が平家の棟梁となった頃に、正式に正室と定められたようですが、なにぶんその娘は、まだ12歳くらいの少女だったようで、通盛の恋の相手になれるわけがないのは、誰が見ても明らかな事・・・

それが、平家一門の結束を強めるための結婚である事は、周囲も百も承知でしたから、逆に、通盛も小宰相も、気兼ねなく、愛を育む事ができたと思われます。

しかし、二人の幸せな日々は長くは続きませんでした。

そう、あの倶利伽羅(くりから)峠の合戦(5月11日参照>>)で、大敗を喫した平家は、怒涛の如く押し寄せる義仲軍相手に、都落ちをせざるを得なくなるのです。

この時、当然の事ながら、小宰相も連れて、ともに都落ちをしたい通盛ですが、上記の通り、正室がいる以上、小宰相は正式な妻ではありませんから、さすがに周囲は、彼女を連れての都落ちには反対します。

当然、彼女の両親も反対しますが、小宰相の意志は固かったのです。

やがて、寿永二年(1183年)7月25日、平家一門とともに都落ちした小宰相・・・もちろん、その平家一門の中には通盛もいるわけですが、この後、二人が会う機会はほとんどありませんでした。

・・・というのも、彼らの都落ちのあとに堂々入京した義仲と、鎌倉の頼朝が、源氏の棟梁の座を争っている間に、平家は、かつての都・福原(神戸)にて、城郭を構築して、次の戦闘準備をしていたわけですが、この間は、実は、ほとんどが船中漂泊の状態・・・通盛は一族の船で、正式な妻でない小宰相は、乳母や兵が乗る船に乗らなくてはならなかったのです。

しかも、通盛は、一門をまとめる立場にある大将軍・・・二人は会話をかわす事すらできない状態でした。

しかし、源氏の方々が、同族でドンパチやってくれていたおかげで、少しの間、平和な日々が持てた平家・・・やがて急ごしらえではあるものの、屋敷もでき、御所も建てられ、ようやく、少し落ち着きます。

都落ちをしてから7ヶ月・・・そうこうしているうちに義仲を倒して源氏のトップに立った頼朝の命を受け、弟の源範頼(のりより)義経福原に迫ります。

(からめ)手・一の谷の大将を命じられた通盛・・・いよいよ明日は合戦という時、人目を忍びながらも陣の仮屋で、ひとときの再会を果たした二人・・・

ここで、小宰相は、通盛に、妊娠している事を告げるのです。

「俺に子供が!何ヶ月やろ?体調はどうなん?船の中やったら揺れるやろに・・・どうしたらえぇんやろ」

初めての我が子を喜びながら、すでに産所の心配をする通盛を、うれしそうに見る小宰相・・・二人は心安らぐひと時を過ごした事でしょう。

しかし、これが永久(とわ)の別れになってしまうとは・・・

翌日・寿永三年(1184年)2月7日、通盛の守る一の谷は、義経による鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし(2月7日参照>>)という奇襲によって修羅場と化します。

陸も海も大混乱となる中、小宰相は通盛を心配しつつも、もともと乗る船が違う事もあって、お互いの安否がわからぬまま、船に乗り込み、一路、屋島を目指す事となります。

しかし、その船上で、彼女は悲しい知らせを聞くのです。

「内甲(うちかぶと)を射られて、味方とはぐれてしまい、どこか静かな場所で自害しようと東に向かっておられたところ、近江の佐々木成綱、武蔵の玉井資景(すけかげ)ら七騎に囲まれ、お討ち死になさいました」と・・・

その場で倒れ、数日間寝込んでしまった小宰相・・・しかし、数日経つと、最初は信じられず、受け入れられなかった通盛の死が、逆に、本当に死んでしまった事を痛感してしまうようになっていきます。

かくして寿永三年(1184年)2月14日、信頼のおける乳母に・・・「死にたい・・・」
と、正直な気持ちを打ち明けた彼女。

しかし、逆に乳母に、
「お腹の子供のためにも、しっかりと生きなさい」
と、諭され、何とか思いとどまります。

いえ、思いとどまったふりをしました。

どうやら、彼女は相当モテたらしく、都には強く彼女に言い寄る男がいたのだとか・・・つまり、合戦の勝敗に関わらず、このまま命が助かり、都に戻れたとしても、もともと平家とは縁の薄い家柄の生まれであるうえ、通盛の正式な妻でもなかった彼女は、必ず、誰か、別の男と結婚する事になり、生まれた子供と二人で、ひっそりと暮らす事など許される事ではなかったのです。

清盛の娘の建礼門院(けんれいもんいん)徳子に仕えた右京大夫(うきょうのだいぶ)によれば、おそらく、彼女は、それに耐えられなかったのだろうという事です。

安心して眠った乳母の様子を確かめて、おもむろに起き上がり、夜風に吹かれる彼女・・・おりしも、今夜はおぼろ月夜

鳴く千鳥と、海峡を渡る船の梶音・・・
月は、西に傾いて、はるか彼方の海面を照らします。

あのあたりが、愛しい人のいる西方浄土・・・船べりで、大きく手を広げ、その月へとさしのべます。

「飽かで別れし妹背(いもせ)の仲らい、必ず一つ蓮(はちす)に迎へ給へ…」
ムリヤリ引き裂かれた二人だから、今こそ、あの世では同じ場所=一枚のハスの葉の上に迎えられたい・・・

さぁ、あなた・・・私の手を引いて、あなたのいる場所へと連れてって・・・と、ばかりに、まだ見ぬ子供とともに、彼女は千尋の海の底へと旅立ったのです。
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2009年2月13日 (金)

氏・素姓と苗字の話

 

明治八年(1875年)2月13日、平民に苗字をつける事が強制され、すべての国民が姓を名乗る事が義務づけられました。

・・・・・・・・・・・・・

それ以前の明治三年(1870年)9月19日の太政官布告で、「庶民ノ氏ヲ称スルヲ許ス」と、すでに許されていたのですが、この明治八年(1875年)2月13日、新たに、「平民ニ令シテ氏ヲ称シ、其詳ナラサル者ハ、新ニ之ヲ設ケシム」という太政官布告が出されたのです。

つまり、最初のは「許可」で、今度のは「命令」・・・なので、冒頭の文章のように「平民に苗字をつける事が強制・・・」という言い回しになるわけです。

果たして、当時の人々が、「俺もサムライみたいに苗字を名乗りたい」と思っていたか、「別に、えぇやん、面倒くさい」と思っていたかは、人それぞれってトコでしょうが、とにかく「命令」なので、自分で考えつかない一般庶民は、村の庄屋さんのところへ相談しに行ったり、エライお坊さんにつけてもらうためにお寺へ走ったり・・・と、なかなか大変だったようです。

ところで、現在では苗字と姓は、ほぼ同じ物という認識で、いわゆるフルネームの事を、「姓名」と言ったり、「氏名」と言ったりしますが、これも、その国民全員が苗字を名乗るようになったからで、もともとは苗字と姓は別物・・・。

以前、羽柴秀吉が、朝廷から豊臣の姓を賜ったところの【豊臣という姓に秘められた秀吉のコンプレックス】(12月19日参照>>)のページでも書かせていただいたので、以下、少し内容がかぶる部分がありますがお許しを・・・。

・‥…━━━☆

そもそもは、記紀神話の時代・・・神倭伊波礼毘古命(カムイヤマトイハテビコノミコト・神武天皇)日向から東へと進む、いわゆる神武東征の中で登場する、天皇を助けてともに戦ったり、敵対するも負けて臣下になったりする人たち・・・。

たとえば、宇陀(奈良県)兄宇迦斯(エウカシ)を倒す手助けをする道臣命(ミチノオミノミコト)・・・このかたは大伴(おおとも)の祖先であると、また、宝物を献上して天皇の臣下となる河内(大阪府)一帯を治めていた邇芸速日命(ニギハヤヒのミコト)物部(もののべ)の祖先・・・と、こんな感じで、神話の中に登場するのが、いわゆる一族の氏素姓を意味する「本姓・姓(かばね)という物で、代表としては、大伴・物部の他に中臣(なかとみ)蘇我(そが)などの姓があります。

さらに、これに加えて、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、天智天皇から藤原の姓を賜ったように、多大な功績のあった人が天皇から賜る・・・というのもあり、橘諸兄(たちばなのもろえ)という姓もコレです。

やがて、平安時代になって、桓武天皇嵯峨天皇清和天皇みたく、たくさんのお妃との間にたくさんの子供をもうけるようになると、そんなに天皇家がたくさんいても困るので、天皇家を継がない次男や三男などの息子に(7月6日参照>>)といった姓を与えて、天皇家を守る臣下としたのです。

これが、源氏平氏・・・なので、源氏には、清和源氏嵯峨源氏宇多源氏など、それぞれの天皇から枝分かれした源氏があるわけですが、以上のように、これら姓というものは、天皇から賜わる物だったのです。

ところが、平安末期から鎌倉時代あたりになると、中央の貴族も地方の武士も、ほとんど源・平・藤・橘の四姓で占められるようになり、あの人もこの人も源で藤原で・・・ってややこしくてしかたがない!・・・という事で、一族を表す姓の他に、苗字という物を名乗り始めます。

つまり、朝廷から賜る姓に対して、苗字は勝手に名乗っていい物・・・中央貴族の場合は、本第(ほんてい)の屋号や一族の祭祀所の名前を名乗りました。

たとえば、藤原氏北家なら、近衛九条鷹司(たかつかさ)一条三条五条・・・てな具合です。

一方、地方の武士は、本宅のある土地の名前・・・つまり領地の地名を苗字として名乗りました。

たとえば、現在の足利市のあたりを領地としていたので足利・・・です。

よく、疑問に思う事・・・「源頼朝=みなもとよりとも」は、姓と名の間に「の」が入るのに、なぜ足利尊氏「あしかがたかうじ」と言わないのか?というのは、この姓と苗字の違いです。

尊氏の足利家も、源氏の子孫ですから、尊氏の本名は源尊氏(みなもとたかうじ)です。

朝廷に赴く時は、正式な、この源尊氏を名乗りますが、それ以外は足利尊氏・・・つまりは、氏という一族足利という一家尊氏という事になるわけですが・・・

そんなこんなで、どんどん勝手に名乗っては増えていった苗字ですが、この明治八年(1875年)2月13日の命令が出るまで、武士以外は、皆、苗字が無かったのか?と言えば、そうではありません。

以前書かせていただいた【意外!?中世の名も無き人の名前とは?】(8月21日参照>>)一揆の起請文に見るように、農民の中でもある程度の地位のある人は、苗字を名乗っていたようです。

まぁ、上記の通り、基本、勝手に名乗ってるのが、苗字ですから・・・周囲が認めればOKという事なのでしょう。

・・・で、この日の命令により国民全員が名乗った事で、飛躍的に数が増えた苗字の種類・・・現在、日本の苗字は約12万種類もあるそうです。

世界一の人口を誇る同じ漢字の国の中国でも約500種類、ヨーロッパでは全体でも約6万種類くらいなのだそうで、いかに日本の苗字が多種なのかがわかりますね。

そんな中でも、最も多いと言われるのが「佐藤さん」「鈴木さん」・・・

佐藤さんは、あの平将門を討ち取った藤原秀郷(ひでさと)の子孫の藤原公清左衛門尉を務めたので、佐藤と称し、以後その子孫が佐藤というのを継いでいったのだとか・・・

さらに、(すけ)という官職についた藤原氏が、皆、佐藤と名乗った事で格段に増えた・・・なんて話もあります。

鈴木さんのほうは、熊野(和歌山県)地方に住んでいた物部氏の子孫の穂積(ほづみ)の人たちが、その地方では穂を積んだ物を「すずき」と呼んだ事から鈴木と名乗るようになり、さらに熊野信仰の布教活動によって全国に散らばったらしい・・・との事・・・。

まぁ、なんせ、勝手に名乗っても良いのが苗字なので、なかなか、そのルーツをたどる事は難しそうですね。
 .

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2009年2月12日 (木)

祝!3周年&もうすぐ100万アクセスに寄せて・・・

 

わたくし事で恐縮ですが・・・
本日2009年2月12日をもちまして、このブログが3周年を迎える事になりました~。

しかも、アクセス数も、もうすぐ100万になろうとしています
(v^ー゜)ヤッタネ!!

思えば・・・
もともと歴史好き&知りえた情報を他人に言いたくたまらない性格が、ブログという物の存在を知り、「これやったら、嫌がってる人をムリヤリ振り向かせてしゃべりまくらんでも、勝手に言いたいことをブチまける事ができる!」とばかりに、後先考えず初めてみましたが、最初のうちは、ココログの使い方もわからず、右往左往の毎日でした。

やがて、徐々に閲覧してくださる方も増えてまいりましたが、歴史関連の記事を書くうち、「間違ってはいけない」と、蔵書を引っ張り出して読み返してみますと、歴史好きと自分自身で言っておきながらも、まだまだ知らない事が多いのに驚かさせ、日々、勉強しながらの執筆で、矢のように過ぎた日々でした。

おかげ様で、ブログを始める前よりは、格段に情報量が増え、次は何を話そうかと楽しい毎日を過ごさせていただいております。

「今日は何の日?」と銘打っている以上、「自分の誕生日や記念日には何が書いてあるんだろう?」と思ってブログを覗いてくださったかたが、「その日の記事は無かった・・・」なんて事があると寂しい・・・と思い、最初の頃は、毎日更新を目標に掲げて書かせていただいていたので、3周年を迎えた今では、何とか、一日に対して1~3個の記事が存在するようになりました。

ただ、最近は何かと時間に追われ、本家のホームページのほうの更新がおぼつかない状況になっている事も確か・・・昨年の12月に訪れた嵐山の紹介ページも、未だ現在進行形の状態でupできていないのです~(´・ω・`)ショボーン

かと言って、時間がないのに毎日更新を重視して、未完成なページをupするのも不本意です。

そりゃぁ、おぼつかない文章の素人ブログですが、一般人なら一般人なりに、自分自身が納得できるラインっちゅーものがあるわけですし、それに、何より、長く続けて行きたいのです。

そうです・・・長く続けていくためには、焦らず、騒がず、落ち着いて・・・

ホームページも更新しつつ、ブログも・・・

まだまだ、やりたい事、話したい事がいっぱいあります。

これからは、ゆっくりと・・・
時々、休む日があるかも知れませんが、そんな日は、「あぁ、ホームページのほうをやってるんだな!」ってな感じで、長~い目で、広~いお心で、見守ってくださいませ。

日々のアクセス数に・・・
応援コメントに・・・
参加している「人気ブログランキング」の順位に・・・

閲覧してくださる皆様の目には見えない形を感じた時、うれしさとともに、元気が湧いてきます。

今後とも
「今日は何の日?徒然日記」をよろしくお願いします。

はりきって、4年目に突入です!
 .
 

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このブログの歩み

手前味噌ですが・・・
「このブログの歩み」「歴代人気記事ベスト10」を表にしてみました。

もちろん、
このページは新展開があるごとに更新していきます~

表がどんどん伸び、
ベストテンがどんどん入れ替わる事を願って・・・

・‥…━━━☆

出来事とアクセス数
2006 2 12 今日は何の日徒然日記・開設
 初日のアクセスは12でした(゚ー゚;
8 23 1万アクセス達成
   この間の平均アクセス数: 70/日
11 25 2万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:107/日
2007 1 31 3万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:150/日
2 12 ブログ1周年を迎えました~
  アクセス合計:33082
  一年間の平均アクセス数:126/日
2 16 @niftyトップページに旬の記事として【一休さんのとんちは本当?】を紹介して戴きました~
    記事アクセス数:310
   ブログアクセス数:721
翌日のココログ歴史部門デイリーランキングで初めて1位を獲得
3 6 @niftyトップページに旬の記事として【大奥スキャンダル絵島の真相】を紹介して戴きました~
    記事アクセス数:658
   ブログアクセス数:1368
3 7 4万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:308/日
4 10 5万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:269/日
8 5 10万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:429/日
10 31 【戦国時代の食べ物事情】のページを、Yahooニュース「大阪城から慶長の宴会跡発見」の参照記事として紹介して戴きました~
    記事アクセス数:4302
   ブログアクセス数:8041
翌日のココログデイリーランキング2位を獲得
11 26 20万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:888/日
2008 2 12 ブログ2周年を迎えました~
  アクセス合計:272367
  一年間の平均アクセス数:656/日
3 13 30万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:923/日
6 17 40万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:1045/日
6 27 Yahooカテゴリーに[歴史>今日は何の日]で登録されました
8 15 50万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:1689/日
8 28 【三行半~江戸の離婚事情】のページを、Yahooニュース「福井で日本最古の三行半発見」の参照記事として紹介して戴きました。
    記事アクセス数:21477
   ブログアクセス数:34050
翌日のココログデイリーランキング1位を獲得
9 12 60万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:3542/日
10 25 ブログ内の記事数が1000ページに達しました
10 29 70万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:2144/日
11 23 @niftyトップページに旬の記事として【勤労感謝の日~新嘗祭は、もう一つの新年行事?】紹介して戴きました~
    記事アクセス数:278
   ブログアクセス数:2405
12 26 80万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:2061/日
2009 2 7 90万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:1919/日
2 12 ブログ3周年を迎えました~
  アクセス数合計:909211
  一年間の平均アクセス数:1745/日
4 13 100万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:1523/日
5 29 【最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!】のページを、Yahooニュース「真言宗 天台宗 1200年ぶりの交流」の参照記事として紹介して戴きました。
    記事アクセス数:13659
   ブログアクセス数:20456
翌日のココログデイリーランキング1位を獲得
6 16 【最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間!】のページを、Yahooニュース「天台宗座主 高野山を参拝」の参照記事として紹介して戴きました。
    記事アクセス数:4965
   ブログアクセス数:10812
翌日のココログデイリーランキング6位を獲得
10 31 150万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:2491/日
2010 2 12 ブログ4周年を迎えました~
  アクセス数合計:1755951
  一年間の平均アクセス数:2314/日
6 1 200万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:2348/日
6 26 【合戦布陣図保管室:大坂夏の陣・布陣図】のページを、Yahooニュース「秀頼自刃「山里丸」の遺構発見」の参照ページとして紹介して戴きました。
   ページアクセス数:21016
   ブログアクセス数:144586
9 15 250万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:4683/日
2011 1 28 300万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:3710/日
2 12 ブログ5周年を迎えました~
  アクセス数合計:3070251
  一年間の平均アクセス数:2703/日
8 25 400万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:4800/日
2012 2 4 500万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:6122/日
2 12 ブログ6周年を迎えました~
  アクセス数合計:5057550
  一年間の平均アクセス数:5433/日
6 18 600万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:7484/日
9 16 700万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:10994/日
2013 1 5 800万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:8464/日
2 12 ブログ7周年を迎えました~
  アクセス数合計:8416269
  一年間の平均アクセス数:9216/日
4 17 900万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:9846/日
7 27 1000万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:9850/日
2014 2 12 ブログ8周年を迎えました~
  アクセス数合計:11827848
  一年間の平均アクセス数:9066/日
12 13 1500万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:10331/日
2015 2 12 ブログ9周年を迎えました~
  アクセス数合計:15589392
  一年間の平均アクセス数:10282/日
2016 2 12 ブログ10周年を迎えました~
  アクセス数合計:19060116
  一年間の平均アクセス数:9562/日
5 16 2000万アクセス達成
   この間の平均アクセス数:9626/日
2017 2 12 ブログ11周年を迎えました~
  アクセス数合計:22389668
  一年間の平均アクセス数:9072/日
2018 2 12 ブログ12周年を迎えました~
  アクセス数合計:24274211
  一年間の平均アクセス数:5188/日

 
・・・・・・・・・・・・・

      歴代・人気記事・ベスト10
       (一日のアクセス数が多かった記事)

順位 記事/アクセスのあった日 アクセス数
1位 三行半~江戸の離婚事情08/8/28 21477
2位 最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間09/5/29 13659
3位 1位づくしの徳川家斉 16/1/29 12523
4位 平治の乱で「さらし首」となった信西12/6/24 12431
5位 キスカ撤退作戦・成功!11/6/24 11816
6位 森可成・討死…宇佐山城の戦い 14/12/1 11741
7位 女戦士・鶴姫~常山女軍の戦い 16/10/1 5974
8位 千利休・切腹の謎 14/10/12 5878
9位 謀略の達人・宇喜多直家 14/4/6 4648
10位 史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説 13/2/25 4496

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テーマ別~目次~

 

このページは、その中の「テーマ別」という切り口でのまとめページを紹介しています。

たとえば、「怖い話・不思議な話シリーズ」とか、「雑学・豆知識シリーズ」といった感じでまとめて更新していきますので、このページを起点に、お目当ての記事を探していただければ幸いです。

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2009年2月11日 (水)

信長と似てる?暴君ではない平清盛のもう一つ顔

 

仁安二年(1167年)2月11日、平清盛が太政大臣に就任しました
 

・・・って事で、昨年は、その異常な出世の要因ではないかと思われる平清盛の出生の秘密について書かせていただきましたが(2008年のページを見る>>)、今回は、彼の人物像に迫ってみたいと思います。

・・・・・・・・・・・・・

以前、どこかで、「平清盛と織田信長の人物像が大変似ている」という話を小耳に挟んだ事がありますが、私自身も、確かに似ている気がしてます。

まずは、何と言っても経済発展への関心度・・・

清盛が(中国との貿易を重視したのに対し、信長は南蛮貿易を行い、清盛が瀬戸内の海運で物流を発展させれば、信長は楽市楽座で・・・。

次に、政教分離に関しても・・・

確かに、清盛の時代は完全に分離とはいきませんが、その姿勢は垣間見えます。

その最たるものが南都・焼き討ち(12月28日参照>>)・・・そのページには「失火かもしれない」とは書きましたが、少なくとも、興福寺や東大寺の僧兵相手に武力を行使した事は確かです。

信長は、言うまでもなく延暦寺と本願寺(11月7日参照>>)ですね。

さらに、天下目前で、まさかの終わりを告げるところも・・・。

清盛自身は病死(2月4日参照>>)ですが、彼の一門を滅亡に追い込むのは、昔、情けをかけてその命を助けた、かの源頼朝(2月9日参照>>)

信長も、可愛がっていた家臣・明智光秀に、本能寺へ攻め込まれます(6月2日参照>>)

ともに、仏を敵に回した事で、その人物像は魔王のごとき暴君のように伝えられ、その死が、あたかも自業自得の天罰のように描かれるところまでそっくりです。

しかし、ご存知のように、信長が光秀にしたとされるパワーハラスメント的な仕打ちは、ほぼ、後世の創作とされていますし、比叡山焼き討ちや一向一揆への殺戮に関しても、かなりの偏った脚色がされていて、信長を魔王に仕立てあげたい仏教側の意図が見え隠れします。

今、思い描く清盛の人物像も、かの『平家物語』作者の意図で、聞き手に暴君のイメージを描かせているのにすぎないのではないでしょうか。

「祇園精舎の鐘の声・・・」
で始まる有名な冒頭部分・・・教科書に載っている「・・・ひとえに風の前の塵に同じ」の後には、「遠く異朝をとむらえば・・・」と続きます。

この異朝というのは中国の事ですが、平家物語では、この冒頭の部分で、その中国の趙高(ちょうこう)や、安禄山(11月9日参照>>)やらを引き合いに出し、日本からは平将門藤原純友やらと比較して、「それらに勝るとも劣らない、その暴君ぶりを今から披露しますよ」といった雰囲気で話を進めていくわけです。

その1巻に書かれている平家の横暴ぶりを象徴する有名なエピソード・・・。

清盛の孫・資盛(すけもり)が、時の摂政・藤原基房(もとふさ)ご一行と道端でバッタリ出会った時の事・・・相手は、摂政なのですから、当時の常識としては、資盛は、馬から下りてご挨拶しなければならないのですが、それをしなかったために、怒った基房の従者が、資盛をムリヤリ馬から引きずり下ろしたという事件。

これに激怒した清盛が、今度は基房の行列を待ち伏せして襲撃し、ボコボコにした上、従者らのチュンマゲを切っちゃったというものです。

この野蛮な行為を恥じた清盛の長男・重盛は、非は資盛にあるとして、後日、資盛を謹慎処分にした・・・と平家物語は言いますが、、実は、この頃の清盛には、福原(神戸)に滞在中というアリバイがあり、この報復をやったのは、その長男の重盛なのです。

平家物語は、とにかく清盛を悪人に描きたいために、それに対比するように、父より先に死に行く重盛を、清廉潔白な人物として描いているようです。

逆に、その清盛が滞在していた福原には、「経ヶ島(きょうがしま)の伝説」という言い伝えが残ってします。

それは、この経ヶ島は、先に触れた海運の発展を見越して作られた船を停泊させるための人工島なのですが、この島を造成する時に、清盛は、それまで習慣として行われていた人柱(いけにえ)を廃止し、そのかわりに経文を刻んだ石を埋めて造ったのだとか・・・それで、この島の名前が経ヶ島となったというのです。

また、ほぼ清盛の生存中と同時代に書かれたと言われる『愚管抄(ぐかんしょう)では、彼の印象を「慎み深く、何とか良い方向へ持っていこうと、あっちにもこっちにも気をつかう人だ」と書いています。

もう一つ、『十訓抄(じっきんしょう)という説話集では、さらに具体的に、「彼の気をひこうと、つまらんギャグを言う人にも、さも面白そうに笑ってあげるし、仕事をトチッた人がいても、ヒドイ言い方で叱責するような事はなく、寒い季節には、宿直の部下を暖かい場所で寝かせてやり、自分が先に目覚めると、彼らを起さないようにそ~っと、ぬき足さし足で、部屋の前を通っていく」と・・・

何て、イイ人なんだ~・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。

考えてみれば、清盛のやった史実とされる事で、100%悪行と言えるのは、後白河法皇と対立して法皇を幽閉した(11月17日参照>>)ぐらいですが、それこそ、後白河法皇は、あの頼朝に「日本一の大天狗」と言われた人なのですから、そんな策略好きには、それなりの対処は必要なわけで、清盛側が一方的に悪いとは言い切れないような気がしてきました。

そう言えば、冒頭にお話した頼朝の助命もそうです。

イイ人でない限り、どんなに周りから頼まれたって、あんなアブナイやつを生かしておくはずがありません。

何となく、清盛さんの印象が変わりましたね。

あ・・・かと言って、清盛を悪人に仕立てあげた平家物語がダメだというのではないですよ。

なんせ、平家物語は軍記物・・・言わば歴史小説ですから、あの『忠臣蔵』(12月14日参照>>)と同じで、善と悪をはっきりさせて、よりドラマチックに演出していただいたほうが、読み手としても楽しいわけですから・・・

時代劇や大河ドラマも、「あそこが違う」「ここがヘン」とほじくり返しながら見るよりも、そのストーリーの展開を楽しんだほうが・・・史実は史実として知る事は大事ですが、ドラマはあくまでドラマなんですから・・・

・・・て事は、本日の清盛さんには、もう少しの間、悪人を演じていただくのも、アリなのかも知れませんね。
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2009年2月10日 (火)

棚ぼた?計略?宗麟の「大友二階崩れ」

 

天文十九年(1550年)2月10日、豊後の戦国大名・大友氏の20代当主・大友義鑑後継者を巡ってお家騒動が勃発・・・世に言う『大友二階崩れの変』です。

・・・・・・・・・・・・・

豊後(大分県)の戦国大名であった名門・大友氏の第20代当主・大友義鑑(よしあき)には、正室の産んだ義鎮(よししげ)という21歳になる長男がいましたが、側室の産んだ三男・塩市丸(しおいちまる)後継者にしたくてたまりません。

その理由は・・・

長男・義鎮は、少し気に入らない事があると家臣を手打ちにしたり、剣術の稽古なのにブレーキが効かずに相手をメッタ打ちにしたりという気性の荒いところが気に入らなかったとか・・・

逆に、義鎮が病弱であったため、当主には向かないと思ったとか・・・

義鎮の母というのが、周防(山口県)の名門・大内氏の娘であったため、実家の強大な勢力からの影響が大きくなりすぎてはいけないと判断したからだとか・・・

塩市丸の母・・・つまり、側室の彼女が好きで好きでたならないとか・・・

塩市丸が幼いながらも聡明なので溺愛していたとか・・・

様々に言われますが、実際のところはわかりません。

ただし、塩市丸は、この時点で3歳だったようなので、「幼いながら聡明」って・・・バカボンのはじめちゃんじゃあるまいし、3歳と21歳を比較して聡明もクソもない気がするので、おそらく、これは無いだろう?と思います。

しかし、理由はどうであれ、後継者を巡って何かしらのモメ事があった事は確か・・・でない限りは、誰がどう見ても、正室の子で長男の義鎮が家督を継ぐのが正統なわけですから・・・

やっぱ、ここには、それぞれの息子の味方をしている家臣同士の派閥や、現当主の義鑑の思惑などが渦巻いていたのでしょう。

かくして、天文十九年(1550年)2月10日、義鑑は、長男・義鎮を別府温泉へと出かけさせ、その留守中に重臣・4名を、順々に大友館に呼び出します。

呼ばれたのは、斉藤播磨守小佐井大和守津久見美作守田口蔵人佐の4名・・・

義鑑は、それぞれの家臣に、そっと、心の内を打ち明けます。

「塩市丸に家督を譲ろうと思ってるんやけど・・・」と・・・。

その話を聞いた4名は、それぞれ「そんなんしたら、家内でモメまっせ!」「やめときなはれ~」と猛反対するのですが、何と義鑑は、猛反対した4人のうちの二人=斉藤と小佐井を斬ってしまうのです。

これに驚いたのは、残った二人・津久見と田口です。

「こんなもん、黙っとたら、俺らも殺られるんと違うんけ?」と思うのは当然の事・・・

「そっちがその気なら、殺られる前に殺るしかない!」

その日の夜・・・彼らは、館の二階で寝ていた塩市丸とその母を襲撃するのです。

まずは、確実に殺さなければならない塩市丸を津久見が・・・田口はその横にいた側室とその娘・二人を殺害します。

さらに、二人は義鑑の部屋へも乱入して大暴れ!

しかし、義鑑とともにいた側近が主君を守るべく応戦し、あえなく二人は討たれてしまいますが、当の義鑑も、すでに重傷を負っていました。

別府にて、このニュースを聞いた義鎮・・・

すぐに、府内(大分市)に戻り、もはや虫の息の父・義鑑に向かって・・・
「家督を俺に譲ると言わんかい!」と・・・

見事、家督相続をとりつけたその後、義鑑は2日後の2月12日に死亡します。

この騒ぎの要因を、最も塩市丸を推していた親族・入田親誠(にゅうたorいりたちかざね)にあると判断した義鎮は、家臣たちに入田征伐を命令・・・逃げる入田は、嫁の実家である阿蘇惟豊(あそこれとよ)を頼って身を寄せるのですが、逆に、そこで「お前が悪い」罵られて殺されてしまいます。

結局、この騒動は、重臣の二人(津久見と田口)による主君への謀反として処理され、一件落着・・・上記のように館の二階で起こったので、『二階崩れの変』と呼ばれます。

・・・て、どう思います~?

この、あまりの手際の良さ、あまりの処理のうまさ、そして、あまりに義鎮有利に事が運んだ事で、ひょっとしたら、彼=義鎮が、すべての黒幕では?などとも囁かれているのですが・・・。

結局、関係者は全員、死んでしまうわけですし・・・

とにもかくにも、こうして、大友氏21代当主の座を手に入れた義鎮さん・・・後に、33歳の時に出家して、法号を宗麟(そうりん)と称します。

そう、彼が、豊後の王・大友宗麟です。

後に、母親の実家とおぼしき大内氏の養子となって、家臣の陶晴賢(すえはるかた・隆房)のあやつり人形とされた弟・大内義長が、毛利元就(もとなり)に攻められた時も、彼・宗麟はまったく行動を起さず、見殺しにした形となった(4月3日参照>>)事を考えると・・・なにやら、この時も・・・という気がしないではありません。
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2009年2月 9日 (月)

少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ・・・

 

平治二年(永暦元年・1160年)2月9日、前年の12月に起こった平治の乱で、父・源義朝とともに敗走した源頼朝が近江にて捕まりました。

・・・・・・・・・・・

平清盛が熊野詣でに出かけた留守中に、藤原親頼によって決行されたクーデター・平治の乱(12月9日参照>>)・・・熊野からとってかえした清盛によって乱は終焉を向かえ、敗者となった親頼に味方した源義朝(よしとも)は、ともに合戦に参加した息子たちと敗走します。

この時、13歳で参戦していた義朝の三男・源頼朝も、父や兄とともに敗走しますが、雪深い山中での移動のため、途中ではぐれてしまいます。

その後、執拗な落ち武者狩りで、次兄・朝長(ともなが)が深手を負い、美濃の山中で自害(殺害されたとも、義朝がとどめを指したとも)したのが12月28日・・・。

明けて平治二年(永暦元年・1160年)の1月4日には、父・義朝が家来の騙まし討ちに遭い、絶命(1月4日参照>>)・・・1月25日には、その死を知って復讐を決意し、単身、京に舞い戻った長兄・義平が捕らえられて斬首されています(1月25日参照>>)

そして、平治二年(永暦元年・1160年)2月9日・・・とうとう、頼朝も捕まってしまったわけですが、上記の通り、父や兄は、すでに死亡していますから、13歳の少年としては、かなり頑張りましたよね。

その後、平家の本拠地である六波羅へと送られた頼朝・・・彼は、二人の兄を持つ三男ではありますが、兄二人の母親が遊女であったとされるところから、熱田神宮大宮司藤原季範(すえのり)の娘・由良御前を母に持つ頼朝こそが嫡男とするならば、当然の事ながら、その処分は死罪も考えられます。

しかし、ご存知の通り、頼朝はここで死にましぇ~ん。

捕らえられた頼朝と六波羅にて面会した清盛・・・その心の中は、やはり頼朝を殺すつもりでいました。

少年とは言え、生きていれば大人になりますから、成長したあかつきには「父の仇」と恨むに違いありませんから・・・。

ところが、頼朝の顔を見た、清盛の母の池禅尼(いけのぜんに)が、涙ながらに頼朝の命乞いをしたのです。

この池禅尼さん・・・出家前のお名前を藤原宗子と言い、清盛の父である平忠盛正室なので、清盛の母という事になりますが、以前、書かせていただいたように、清盛の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)と呼ばれた女性か、もしくは、その妹とおぼしき女性(2月11日参照>>)なので、いわゆるなさぬ仲=継母です。

・・・で、『平治物語』によれば、この池禅尼さんは、この10年前に、忠盛との間に生まれた家盛という息子を亡くしていて、この頼朝が、その家盛によく似ていたのだとか・・・。

当然、清盛は反対しますが、池禅尼が断食するに至って、しかたなく死罪をやめて伊豆への流罪へと減刑したとされています。

また、それだけではなく、後白河上皇や頼朝が仕えていた上西門院(後白河上皇の姉)意向も大いに働いているようです。

ただし、それは情というよりは思惑・・・もちろん、ウワサの通りに清盛が白河天皇の息子であったとしたら後白河上皇とも血縁となるわけですが、上皇としては、そんな血縁よりも、我が天皇家が大事なわけで、異例の出世で、奈良時代の藤原一門のごとく権勢を持ち始めるかも知れない清盛への牽制。

源氏のすべてをもぎ取ってしまって、平家の一人勝ちになってしまう事への危険性を感じての働きかけ・・・という事でしょうね。

先の池禅尼にしても、正室は彼女なのですから、本来なら、彼女の子供が平家の棟梁になったかもしれないにも関わらず、上の息子の家盛は死に、下の息子の頼盛が年若かったために、身分の低い一般人の女の子供の清盛がトップに立ち、全盛を極めようとする事を、すなおに喜んでいたのかどうか疑いたくなる部分もあります。

「頼朝に亡き息子の面影を見た」というよりは、なさぬ仲の清盛に反対して、後白河上皇を、かわいい我が子の味方につけておきたかったのかも知れません。

現に、この後の頼盛は、平家一門というよりも、後白河上皇の側近として動いているような気がします。

そう考えると、頼朝を助命するにあたって、最も情の部分が大きかったのは、他ならぬ清盛だったのかも知れません。

なんせ、清盛自身には、頼朝を助けて得になるような事は無いのですから・・・。

なんだかんだで、結局、伊豆への流罪と決まった頼朝は、3月11日(ひる)ヶ小島へと流され、そこで20年という流人生活を送る事になります。

ただ、流人と言っても、屋敷内での日々の暮らしは比較的自由でした。

まぁ、さすがに、勝手に外に出歩いたりというのには、厳しい監視の目が光っていましたが・・・。

清盛の命を受けて、その頼朝の監視をしていたのが、伊東祐親(すけちか)北条時政・・・この両方の監視役の娘の、二人ともに手を出してしまうのですから、頼朝君もなかなか、すみにおけないしたたかさを持っておるわけですが、そのお話は、20年後の8月17日【伊豆に白旗!頼朝挙兵】でどうぞ>>
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2009年2月 7日 (土)

一の谷の合戦~平忠度の最期

 

寿永三年(1184年)2月7日は、源平の戦いの中でも、屈指の名場面・一の谷の合戦があった日です。

このブログでは・・
生田の森の激戦い(2013年2月7日参照>>)
源義経の鵯越
(ひよどりごえ)の逆落し(2008年参照>>)
青葉の笛(2007年参照>>)
を、すでにご紹介させていただいておりますが、本日は、平家物語をベースに、『忠度の最期』をご紹介させていただきます。

・・・・・・・・・・・・・

寿永二年(1183年)7月25日、木曽義仲の怒涛の進軍により、わずか6歳の安徳天皇とともに都落ちをした平家一門平忠度(たいらのただのり)・・・(忠度の都落ち参照>>)

年が明けて早々、義仲と源頼朝が源氏トップの座を争ってる間に(1月16日参照>>)、少しは態勢を立て直す平家・・・(10月1日参照>>)

亡き平清盛が、以前、一時の都とした福原(現在の神戸)(11月26日参照>>)に落ち着き、西側の一の谷に城郭を築いて西の入り口とし、生田(いくた)の森(現在の生田神社)を大手正面として、大将・平知盛と副将・平重衡(しげひら)が守りを固めます。

やがて、義仲を倒して(1月20日参照>>)、名実ともに源氏棟梁となった頼朝の命を受けた源氏軍が一の谷に迫ります

正面・大手を攻めるは頼朝の弟・源範頼(のりより)が率いる本軍・5万余騎。

搦手(からめて)の一の谷を攻めるのは、同じく頼朝の弟・源義経の率いる1万騎。

ここで、義経は自軍を二手に分け7千騎を一の谷の西口へ・・・自らは3千騎を率いて、一の谷の背後を突くべく山中に入ります。

寿永三年(1184年)2月7日の早朝・・・源氏軍の西口への攻撃から一の谷の合戦の幕があがります(2013年参照>>)

当然、大手・生田の森への攻撃も、それと連携するように開始され、やがて、背後に回った義経軍が・・・例の鵯越の逆落し(2008年参照>>)です。

この急襲によって、一の谷の平家軍は大混乱となったのです。

この時、一の谷の搦手口の大将を努めていたのが清盛の弟・平忠度です。

すでに、敵軍に囲まれながらも、忠度は慌てず騒がず・・・その中を100騎もの味方の軍勢に守られながら、悠々と落ち延びようとするのですが、その姿を見つけたのが源氏方の岡辺六野太忠純(おかべのろくやたただずみ)

もちろん、忠純は、忠度の顔を知りませんから、その武将が誰であるのかはわかりませんが、周囲の軍勢の様子から、名のある大将クラスである事は想像できます。

「こりゃ、ええ相手を見つけたゾ!」
と、ばかりに、忠度の近くへとやってきて・・・
「ちょっと、君・・・見たところ大将軍っぽい雰囲気かもし出してるけど、なんか、逃げよ~ってしてないか?敵に背中見せるような事せんと、戻りぃや!」

すると、忠度は、忠純の方を振り返り・・・
「え・・?僕、君の味方やねんけど・・・」
と、言いながら、さらに平然と戦場を離れようとします。

「ちょっと、待ったぁ~!」
振り返ったその顔の薄化粧を、忠純は見逃しませんでした。

「アホか!源氏軍にお歯黒なんかやってる雅びなヤツがおるわけないやろが!」
と、馬を押し寄せ、飛びかからんばかりに組みついたのです。

忠度の周囲の兵は、この戦いのために急遽雇われたアルバイトだったため、こうなると、蜘蛛の子を散らすように去っていってしまいました。

「んもぉ~!、味方やっちゅーてんねんから、そっとしとしてくれたらえぇのに・・・」
と忠度・・・しかし、彼も、雅な風貌の公達ではあるものの育ちは熊野の山中、腕には覚えがあります。

言うがはやいか、目にも止まらぬ速さで馬上から二太刀斬りつけ、馬から転げ落ちたところにさらに一太刀・・・計3度、立て続けに忠純に浴びせかけました。

ただ、先の二太刀は鎧の上からで突き通らず、最後の一太刀は甲の内側に入ったものの深い傷には至っておらず・・・

忠度は、すかさず馬から下りて忠純の上へと覆いかぶさり、組しいて、今、まさに、首を取ろうとした時・・・

忠純の郎党が走り寄り、忠度の右腕を斬り落としたのです。

刀を持つ手を斬られては・・・「もはや、これまで」と、観念する忠度・・・。

そばに寄ろうとする忠純を・・・
「念仏を唱えるから、どかんかい!」
と、投げ飛ばし、西方浄土へと向かって念仏を唱えます。
「光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨
(こうみょうへんじょうじゅっぽせかい、ねんぶつしゅじょうせっしゅふしゃ)

・・・と言い終るか終らないか・・・後ろから近づいた忠純によって、その首は討ち取られました。

忠純は、立派な大将を討ち取ったとは思うものの、その名前がわかりませんから、何か手がかりがないものかと、(えびら・矢を入れて背負う道具)に結びつけてあった一枚の紙を手に取ります。

そこには・・・
「旅宿(りょしゅく)の花」
と題した歌が・・・

♪行き暮れて 木(こ)の下かげを宿とせば
  花やこよひ
(い)の あるじならまし♪・・・忠度

「日が暮れて、桜の木の下を今宵の宿としたなら、その木の花が一夜のホストとして、自分をもてなしてくれるだろう」

この歌を見て、忠純は、討ち取ったその武将が忠度であった事を知ったのです。

源氏側の人間である自分にでも、彼のうわさは耳に届いていました。

武芸にも歌道にも優れた立派な武将であると・・・

敵味方の区別なく、その死を惜しむ中、己の気持ちを吹っ切らんがばかりに忠純は、太刀の先にその首を刺し、高く高く差し上げ、力の限りの大声で・・・

「近頃、平家の中でも剛勇の誉れ高き薩摩守(さつまのかみ・忠度の事)殿を、武蔵の住人は猪熊党・岡部六野太忠純が討ち取ったぞぉ~」

皆、鎧の袖をぞぬらしける・・・
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2009年2月 6日 (金)

姫路城・化粧櫓に千姫を偲んで・・・

 

寛文六年(1666年)2月6日、徳川家康の孫で、豊臣秀頼との政略結婚から大坂城・落城・・・と波乱の人生を歩んだ千姫が、70年の生涯を閉じました。

・・・・・・・・・・・・

豊臣家と徳川家をつなぐ架け橋として、わずか7歳で豊臣秀吉の息子・秀頼と結婚した千姫・・・やがて、大坂夏の陣の時、炎に包まれて落城する大坂城内から脱出し、その後、家康の忠臣・本多忠勝の孫・忠刻と再婚するも、夫に先立たれて・・・

・・・と、動乱の戦国を生きた千姫ですが、一昨年のご命日の日に、坂崎直盛との結婚を断った高ピーなお嬢様像や、ウワサになっているご乱行なども、ほとんどが後世の創作である事を書かせていただきました(2007年2月6日参照>>)

実際の千姫は、二度目の夫の死後に、仏門に入って質素な生活を送り、ひっそりとこの世を去っています。

Dscn7573a300 姫路城と言えばやはり、このショットが必要かと・・・

そんな千姫さまを偲びながら、本日は、あの姫路城西の丸にある千姫さまゆかりの化粧櫓(けしょうやぐら)を紹介したいと思います。

・・・・・・・・・・・・

本多忠刻の元へと二度目の結婚をした千姫・・・その忠刻の母親は、家康の孫の熊姫で、つまりは、千姫とは従兄弟になるわけですが、その熊姫が、千姫を「ぜひ、息子の嫁に・・・」と願った理由は、やはり、将軍家直系の血筋と、将軍の娘という立場から発生するケタ違いの持参金です。

結局は短い結婚生活であり、授かった男の子も3歳で亡くなってしまったため、姑・熊姫が望んだ将軍の血を引く男子という夢は叶いませんでしたが、持参金は望み通り・・・おかげで、本多家の姫路城には、立派な櫓が建った・・・という事を、そのご命日のページにも書かせていただきましたが、その持参金で建てた櫓というのが、現在の姫路城の西の丸にある化粧櫓なのです。

Kesyouyagura2330 化粧櫓

持参金=化粧料で建てたので化粧櫓なんですかね?やっぱり。

もちろん、この化粧櫓だけでなく、そこから続く渡櫓(わたりやぐらと塀に囲まれた西の丸一帯が、千姫の持参金で構築され、当時は、忠刻&千姫の住まうお屋敷も、この西の丸内に建てられていました。

二人のお屋敷は、あの伏見城を取り壊した材料を使用して建てられた桃山文化の色濃い立派な書院造だったそうですが、現在は、西の丸を囲むよう建つ櫓だけになってしましました。

Himezinisinomaru800 西の丸全体の写真:右手前が化粧櫓、後方の山が男山です

上記の写真は、その西の丸ですが、右手前の少し大きな建物が化粧櫓で、そこから向こう側に連なっているのが渡櫓・・・写真では、西の丸全体が塀で囲まれているように見えますが、塀は手前側だけで、向こう側は渡櫓です。

Dscn7584800 渡櫓とは、内部に廊下がある長い櫓の事で、写真の西の丸の場合は、左半分ほどが渡櫓で、途中からは、廊下の横に八畳ほほどに区切られた部屋(←写真)が連なる部分となり、この部分は長局(ながつぼね)と呼ばれて奥女中たちが暮らしていました。

しかし、女の園とは言え、以前ご紹介した大阪城の多聞櫓(たもんやぐら)(11月2日参照>>)同様、やはり、石落しなる物が存在しますので、いざという時は戦うんですね~。

Himezizyouisiotosi 石落し

幸いな事に、この姫路城が戦火に見舞われる事はありませんでしたが・・・。

化粧櫓は、この長局の端の部分にあり、18畳・15畳・6畳の三つの部屋に区切られたその内装は、居住性があり、城の内部とは思えないようなきらびやかな装飾がされていたという事なので、やはり、ここが、男社会とは一線を引く女の園だった事がうかがえますね。

天満天神を信仰していた千姫は、姫路への輿入れ後、この姫路城の西方にある男山に天神様を祀り、毎朝、西の丸の長局の廊下から、西に向かって参拝したのだそうですよ。

上記の西の丸全体の写真の奥に見えるこんもりとした森のような小山が男山です。

参拝する際の千姫さまは、この化粧櫓を休息所として利用したって事ですが、西の丸の真ん中にあった屋敷から、長局の廊下まで行くのに、途中で休憩が必要・・・という感覚は、小市民の私にはわかりかねますが、豪華な着物をまとっている場合は、けっこう疲れるのかも知れません。

世界遺産で国宝で、日本のお城の中ではトップの人気を誇る姫路城・・・やはり、菱の門をくぐっってからは、直で天守閣に向かわれるかたが多いように思いましたが、時には、この西の丸でのんびりと、戦国の動乱を生き抜いた千姫に思いを馳せるのも良いかと思います。
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2009年2月 5日 (木)

楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い

 

元弘三年(1333年)閏2月5日、楠木正成の籠る千早城に、鎌倉幕府軍が攻め寄せました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒すべく挙兵した第96代・後醍醐(ごだいご)天皇に従って、ともに戦う楠木正成でしたが、笠置山で捕らえられた天皇が隠岐へと流され、彼もまた籠っていた下赤坂城を捨て、姿を隠しました(10月21日参照>>)

やがて、先の笠置山で何とか脱出に成功していた、天皇の息子・護良親王(もりよししんのう・「もりなが」とも)吉野山にて挙兵した事で、正成も再び立ち上がりますが、幕府も20万の大軍を派遣して応戦・・・吉野を攻撃して護良親王を敗走させ、正成の弟・正季(まさすえ)の守る上赤坂城も落し、いよいよ全軍を傾けて、正成の籠る千早城へと迫ります・・・と、ここまで先日(2月1日参照>>)書かせていただきました。

・‥…━━━☆

千早城は金剛山中にあり、3方を渓谷に囲まれた天然の要害でしたが、周囲は4kmほどの小さな山城で、守る兵もわずか1000ほどでした。

そこへ、幕府全軍・20万が攻め寄せます。

元弘三年(1333年)閏2月5日、いよいよ幕府軍は攻撃を仕掛けてきますが、あまりの数の差に、ちょっと自信過剰だったのか、幕府軍には大した作戦も計算もなく、各将兵が自分勝手に我先に攻め寄せたため、例のごとく、大石を落したり、糞尿をかけたりの正成お得意のゲリラ戦法にしてやられてしまいます。

「これは、いかん!」
・・・と、先の上赤坂城同様、水源を断っての長期戦に切り替えますが、その作戦変更は、すでに正成はお見通し・・・準備万端、千早城には、すでに、たっぷりの水を確保して、正成側もその長期戦を受けて立つのです。

・・・で、ここで長期戦へと持ち込まれた千早城の戦いで、正成の逸話な中でも、最もドラマチックな名場面が展開される事になります。

ある日、正成はわらで作った武者人形を20~30体用意、夜のうちに城外の山の麓に人形を並べておきます。

やがて、白々と夜が明けるところを見計らって、後方から一斉に鬨(とき)の声を「わぁ~~」っと・・・長期の籠城に絶えられなくなった兵が、決死の攻撃に出たと思った幕府軍は一斉に雨あられのように矢を射かけます。

しかし、当然の事ながら、いくら矢を射かけでも兵(人形)は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石を投げ落とす・・・これで、敵兵は300人が即死し、500人が負傷、しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れる事ができた・・・というもので、「わら人形の策」と呼ばれています。

また、ある時、なかなか落ちない千早城に業を煮やした幕府軍が、京都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、新たなルートを確保・・・そこから一気に城内へ攻め寄せようとしたのです。

これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込み、ピュッピュ、ピュッピュとハシゴに向かって噴射!

たっぷりと油がしみこんだハシゴに、今度は燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、ハシゴは一気に炎に包まれます。

驚く前方の兵の足は止まりますが、「一気に進め~!いてまえ~!」と指示されている後方の兵は止まらず、押し合いへし合いになったハシゴの上は大混乱!

しばらくして、中ほどから焼け落ちるハシゴとともに、兵は谷底へ・・・こちらは、「長梯子(ながばしご)の計」と呼ばれます。

千早城の近くには、懸橋(かけはし)なる地名も残っていて、まさに、奇策で大軍を手玉にとる楠公ならではの痛快なエピソードとして有名な話で、ファンの心を掴んではなさない最も魅力的な部分・・・

ですが、もう、お気づきのかたも多いと思いますが、「わら人形の策」は、あの『三国志』赤壁の戦い諸葛孔明(しょかつこうめい)がやった奇策にそっくり・・・孔明の場合は100万本の矢でしたね。

後者の「長梯子の計」も、中国の春秋戦国時代(紀元前770年頃~紀元前403年頃)の書物『墨子(ぼくし)の中に登場するエピソードです。

まぁ、『太平記』軍記物であって、誰も、史実を書いているとは言ってませんし、書いた本人も、実際に戦いを見たわけではないでしょうから、おそらく、悪気はなく、正成がいかに優れた策士であるかを強調したいがための借用といった感じなのでしょうが、まさか、後世の日本で、これほどまでに三国志が有名になって、映画までヒットして、多くの人が知るところとなるとは思ってなかったんでしょうね。

とは言え、少ない城兵でありながら、千早城が幕府の大軍の攻撃に耐えた事は、事実・・・。

最初の攻撃から約3ヶ月後の5月10日、結局、幕府軍は千早城を落すことなく、包囲を解き、撤退する事になるのですが、それは、この千早城が耐え抜いた事で起こった情勢の変化・・・幕府は、もう千早城どころではなくなってしまっていたのです。

すでに閏2月24日には、伯耆(ほうき・鳥取県中西部)の豪族・名和長年(なわながとし)の手助けにより後醍醐天皇が隠岐かだ脱出して全国に倒幕の綸旨(天皇の命令)を発令します。

さらに、播磨(はりま・兵庫県西南部)では赤松則村(のりむら・円心)が、肥後(熊本県)では菊池武時(たけとき)が次々と立ち上がり、この千早城の攻防戦にも参戦していた新田義貞は、すでに3月頃にヤル気をなくして帰国の途についています。

そして、とうとう、後醍醐天皇を倒すべく幕府から派遣された足利高氏(尊氏)までもが、後醍醐天皇側について六波羅探題を攻撃し(5月7日参照>>)、この前日には、その六波羅探題も消滅してしまいました(5月9日参照>>)

さぁ、いよいよ時代が変わるその時がやって来ます。
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2009年2月 4日 (水)

消えた47番目の赤穂浪士~寺坂吉右衛門

 

元禄十六年(1703年)2月4日、昨年の暮れに吉良邸に討ち入りした大石内蔵助赤穂浪士・46名が切腹しました。

・・・・・・・・・・・

もう、皆さんご存知の超有名な『忠臣蔵』・・・

大事な日の江戸城内で、大先輩の吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)に斬りつけちゃった赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)・・・(3月14日参照>>)

ケンカ両成敗のはずが、浅野家だけが藩主の切腹&お取り潰しとなり、吉良家はお咎めなしとなった事で、不満を抱いた元赤穂藩の家老・大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしお)と浪士たちが、元禄十五年(1702年)の12月14日に吉良邸に討ち入りを決行する・・・(12月14日参照>>)

最初の段階での幕府の采配にも落ち度があった感もあり、事件直後から芝居化され(8月14日参照>>)「忠義の仇討ち」と江戸で評判となった事もあり、本来なら罪人として処刑されるところを、大石含む46名の浪士たちは全員切腹という事で武士の名誉を守り(1月19日の中央部分参照>>)、一件落着となる赤穂四十七士の物語・・・・

と、ちょっと待ったぁ~!

赤穂浪士は四十七士で、今回の元禄十六年(1703年)2月4日切腹したのは46人・・・一人足らんのではないか?

・・・って事で、今日はそのお話をさせていただきます。

・・・・・・・・・・・・・・

元禄十五年(1702年)の12月15日の早朝・・・吉良邸にて上野介の首を討ち取った彼ら浪士たちは、その首を亡き主君の墓前に捧げるべく、泉岳寺(せんがくじ)へと向かいます。

そして、泉岳寺境内にて、寺社奉行へ届け出るため、その場で、一枚の紙に全員の名前を書き記したのです。

その時、四十七士の中の吉田忠左衛門兼亮(ちゅうざえもんかねすけ)富森助右衛門正因(すけえもんまさより)の二人は、大目付の仙石伯耆守久尚(ほうきのかみひさなお)のもとへ、この一件を報告をしに行っていたので、とりあえず、その場にいる45人の名前が、その紙に書かれた事になります。

ところが、その場にいた人数を数えてみると、どう確認しても44人・・・一同がざわつく中、点呼をとってみると・・・「アッ!吉右衛門がいない!」と、大騒ぎになったのだとか・・・。

いなくなったのは、寺坂吉右衛門信行(きちえもんのぶゆき)・・・足軽という身分でただ一人、討ち入りに参加した人物です。

もちろん、この疑問は、そっくりそのまま詮議する大目付の疑問となります。

なんせ、代表で大目付の元に自首した先ほどの二人・・・富森のほうの記録には、当日、吉良邸の裏門の前で全員の点呼をした事が書かれてあり、「一人ずつ呼び出して47人を確認した」となっているのですから・・・。

では、寺坂はいつ、いなくなったのか?

富森によれば、本懐を遂げた直後にも点呼したという事なので、その時にいなければ、その時点で一同が知るところとなるわけですから、泉岳寺で気づいて騒然となったという事は、討ち入りが終って、泉岳寺に向かう途中にいなくなったという事になります。

しかし、大目付・仙石から公式の詮議の場で、名簿の人数と、実際の人数の違いについて聞かれた吉田は・・・

「自分の配下の足軽である寺坂吉右衛門という者が、吉良邸の門の前までは一緒に行きましたけど、邸内でソイツを見かけた者はいてませんし、討ち入りをしたのは46人ですわ」
と、あくまで、討ち入りの時点で46人であったと答えるのです。

主犯の大石も・・・
「アイツはヘタレです・・・無視してください」
と、寺坂の無関係を主張します。

その後、細川邸預かりとなった吉田が、故郷・赤穂の様子が気になり、細川邸の用人である堀内伝右衛門(でんえもん)を通じて、娘婿の伊藤十郎太夫(じゅうろうだゆう)に近況を知らせてくるよう頼むのですが、その近況報告の中に、「事件後、寺坂が伊藤の家を訪ねて来た」という話が含まれていたのですが・・・

堀内からその話を聞いた吉田は、にわかに怒りだし・・・
「アイツは裏切り者ですわ!僕の前で二度とアイツの話せんといて下さい。みんながアイツは逃げたと言うてますし、僕もそうやろと思てますさかいに・・・」
と、かなりのご立腹だったと言います。

では、やっぱり寺坂は、討ち入り直前に怖くなって逃げたのか?

ならば、なぜ、四十六士ではなく、四十七士と語り継がれているのか?

この消えた寺坂の事件は、上記の・・・、

  • 「途中で逃げた」説
  • 「足軽の身分の者が討ち入りに加わっている事を隠したかった」説。
  • 「公にはできない密命を受けて姿を隠した」説

・・・などなど、さまざまに囁かれますが、実際のところ、真相は、未だ迷宮入りの謎です。

ただ、大石や吉田が、「彼は無関係」「途中で逃げた」と主張してくれたおかげで、寺坂には、まったく、公儀からの追手が出されなかったのも事実・・・。

お芝居やドラマなどでは、無事、本懐を遂げた事を亡き主君・浅野内匠頭の奥さんである瑤泉院(ようぜんいん)や、弟の浅野大学、その他、浪士たちの家族に報告する役目を帯びて現場から立ち去り故郷へと急ぐ・・・つまり、「公にはできない密命を受けて姿を隠した」説として描かれる場合が多いようですが、案外、それが当たりかも知れません。

・・・というのも、「アイツの話はするな!」とあんなに怒っていたはずの吉田が、切腹の前日に書いた伊藤宛の手紙には「こないだ、寺坂の事を堀内さんから聞かれたけど、わけあって今は何も言いたくないねん」と・・・

しかも、「その後の寺坂夫婦の事をよろしく頼む」とも言ってます。

現に、この後、寺坂は12年間も、この伊藤からの世話を受けているのです。

途中で逃げた不届き者とされる事で、追手からも逃れ、切腹もしなかった寺坂・・・しかし、赤穂義士は、切腹をした46人だけではなく、寺坂も加えての四十七士。

そこには、身分の低い彼なればこその生き残る事で果たせる使命があったからなのかも知れません。

同じく、赤穂浪士に加わらなかった大野九郎兵衛さんについては2010年12月14日でどうぞ>>
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2009年2月 3日 (火)

立つ!江藤新平~迫る!佐賀の乱

 

明治七年(1874年)2月3日、佐賀の憂国党小野組から、強引に資金を借り出すという事件が発生・・・これが、佐賀の乱の引き金となりました。

・・・・・・・・・・・・

征韓論の論争に破れて、あの西郷隆盛が政界を去った明治六年の政変(10月24日参照>>)・・・つい先日も書かせていただいたように、後に西南戦争が勃発する(1月30日参照>>)鹿児島にも影響を与えたこの政変ですが、同時に佐賀にも大きな影響を与えていました。

それは、その西郷隆盛や板垣退助らとともに、佐賀出身の江藤新平(えとうしんぺい)副島種臣(そえじまたねおみ)といった人たちも、同時に政界を去ったからです。

この時期の佐賀には、明治新政府の方針によって幕府からの(給与)も無くなり、廃刀令によって刀も奪われて、不平不満をつのらせる士族(元武士)たちによって、いくつかの団体が結成されていました。

一つは「憂国党(ゆうこくとう)・・・
これは、こんなんやったら前のほうが良かったわ!「昔の時代(徳川時代)に戻せ!」と主張する者たちの集団で、先の征韓論には反対していた人たち・・・。

逆に、征韓論に賛成して朝鮮への出兵を主張していたのが、その名の通り「征韓党(せいかんとう)・・・また、明治政府に味方する「中立党」という団体もありました。

・・・で、先の政変を知った彼ら団体の幹部たちが、それぞれに動き始めるのです。

憂国党は東京へ使者を出し、佐賀出身者で侍従や秋田県権令(県令・県の長官)などを勤めた経験のある島義勇(しまよしたけ)「憂国党の指導者になってもらえないか?」と説得をはじめます。

そして、一方の征韓党の使者が「佐賀に戻って指導者になってほしい」と説得したのが江藤新平・・・後に起こる佐賀の乱の主役と言える人です。

この江藤さんの人となりに関しては、書きたい事がいっぱいある、とても魅力的なかたなのですが、これから起こる佐賀の乱の関連でおいおい書かせていただく事として・・・とにかく、貧困にあえぐ下級武士の出身でありながら、苦学生として勉学に励み、戊辰戦争では官軍の一人として江戸城無血開城にも立会い、上野戦争での活躍などにより、明治新政府では、法律に関しての重要な役どころをこなしていた人なのです。

近代に則さない「さらし首」を廃止する法律を作ったり、一定の年齢に達した子供全員に教育の場を・・・いわゆる義務教育の方針を打ち出したのも彼・・・。

権力を振りかざして一般市民を苦しめる役人や政治家を裁く法律も作って、腐敗政治に正義の鉄槌を下した事もありました。

そんな彼ですから、たとえ政変によって政界を追われても、武力で反乱を起すなんて事は、まったく考えていませんでしたが、上記の征韓党の使者と対面した新平は、故郷・佐賀に戻る決意をします。

それは、むしろ、「反乱を起さないように」と、彼ら不平士族たちを説得するつもりの帰郷・・・明治七年(1874年)1月13日、彼は東京を発ちました。

ところが、その翌日・・・事件は起こります。

先日書かせていただいた赤坂喰違(くいちがい)の変(1月14日参照>>)・・・あの岩倉具視(いわくらともみ)が、土佐の不平士族に襲われた一件です。

幸いにして命は無事だった具視でしたが、この事件によって、全国に散らばる不平士族の危険性を、まざまざと感じたのが大久保利通(としみち)・・・そんな不平分子の中心人物となりそうな新平の帰郷を、利通は、そのままにしておくわけにはいきません。

1月18日・・・急遽、岩村高俊(たかとし)佐賀権令に任命し、佐賀内の治安維持のための出兵を決定します。

一方の新平は、先に嬉野(うれしの)温泉に寄ってから、1月25日に、一旦、佐賀城下に入りましたが、もはや不平士族たちは爆発寸前・・・しかも、その影響の大きさから、敵対する団体からの暗殺のウワサが出ていた事もあって、再び佐賀を後にし、長崎にて様子をうかがう事にしました。

そんなこんなの明治七年(1874年)2月3日・・・士族団体の一つ憂国党が、政商の小野組(江戸時代の豪商・井筒屋)に押しかけ活動資金を借り出すという事件が起こります。

そのニュースを聞いた島義勇・・・そう、憂国党から、「指導者に・・・」との要請を受けていた彼です。

彼もまた、反乱を起す事に反対の考えを持っていましたから、それまでは、その指導者になる話を断り続けていたのですが、そのニュースを聞いて、彼らを落ち着かせるために佐賀に行く決意を固めます。

一方、この憂国党のニュースは、すぐに政府にも届く事になるのですが、どこでどう間違えたのか?憂国党が小野組を・・・」が、征韓党が小野組を襲った」となって、政府に届いてしまうのです。

誤報とは知らず、そのニュースを受け取った利通・・・当然の事ながら、「それ、見た事か!江藤が征韓党を率いて反乱を起こしやがった!」と、翌日の4日には、熊本鎮台(政府陸軍)へ出兵を命じ、自らも佐賀へと向かう事を決意します。

ところで、先ほど佐賀へと向かう事を決意した義勇さん・・・事は急を要しますので、早速、船にて佐賀に向かうわけですが、その船の中で、顔見知りの男を発見します。

利通から佐賀権令に任命された岩村高俊です。

しかも、その高俊が、直接佐賀へは向かわず、途中の下関にて下船するのを目の当たりにしてしまいます。

さらに、その途中下船の理由が、「集めた兵を率いて佐賀に入るため」と聞いて、まだ、これから佐賀の士族たちを説得するつもりでいた義勇はびっくり!

権令とは、言わば県知事です。
その県知事が、兵を連れて武装して、新たな任地におもむくなど、ありえない事・・・いくら不良の集まりの学校だからと言っても、まだ、何もしていない生徒たちの教室に、新任教師がいきなり鉄パイプ持って、仲間とともに出勤して来たら、「何、考えとんじゃ!ワレ~」って感じにもなりますがな。

長崎に上陸した義勇は、早速、新平と面会し、この状況を報告します。

これには、やはり、反乱を抑えるつもりでいた新平もブチ切れ・・・ここに、今まで敵対していた二つの団体が、郷土・佐賀を守るためという理念で一致し、ともに手を組んで立ち上がるのです。

新平の率いる征韓党義勇の率いる憂国党・・・さぁ、佐賀の乱の始まりです。

・・・が、そのお話は、佐賀城攻防戦となるその日・・・2月16日のページでどうぞ>>
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2009年2月 2日 (月)

祝日&記念日の歴史・豆知識

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、『祝日・記念日』というテーマでピックアップさせていただきました~

ブログを始めたばかりのつたない記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

・‥…━━━☆

1月1日:元旦
 【年末年始とお正月の由来・起源・豆知識集】

1月第2月曜:成人の日
 【成人式=元服の歴史】

●1月6日:色の日
 【神代から現代まで…色の色々な歴史】

●1月9日:クイズの日・とんちの日
 【歴史クイズ】←やってみてね!

●1月12日:スキーの日
 【日本のスキー発祥は?】

●1月15日:いい碁の日
 【いい碁の日に囲碁のお話】

●1月16日と7月16日:閻魔の斎日
 【半年に一度・地獄の釜開き】

●1月20日:玉の輿の日
 【玉の輿に乗りたい!~平安の自分磨き】

●1月21日:ライバルの日
 【この日本国のために~薩長同盟・成立】

●1月25日:左遷の日
 【菅原道真は学者じゃない?その策謀的政治手腕】

●1月27日:求婚の日
 【初の国際結婚&結婚の歴史】

●1月29日:人口調査記念日
 【昔の人口ってどれくらい?】

●2月5日:長崎二十六聖人殉教の日
 【長崎二十六聖人殉教の日】

2月11日:建国記念の日・万歳三唱の日
 【建国記念の日と神武天皇】

●2月13日:銀行強盗の日
 【大泥棒・日本佐衛門ってどんな人?】

●2月14日:ふんどしの日
 【2月14日は「ふんどしの日」】

●2月20日:歌舞伎の日
 【女歌舞伎の禁止令】

●2月22日:猫の日
 【猫と日本人・その交流の歴史】

●2月23日:富士山の日
 【戦国から明治まで有料だった?富士登山】
 【富士山~最古の噴火記録】

●2月27日:新撰組の日
 【今日は新撰組の日】

●3月1日:枚方平和の日(大阪府枚方市)
 【陸軍禁野火薬庫大爆発~未来への記憶】

●3月5日:ミスコンの日
 【ミス日本に選ばれて退学処分】

●3月5日:スチュワーデスの日
 【日本初は世界初?はじめてのスチュワーデス物語】

●3月8日:さばの日
 【山姥はサバが好き?~「さばの日」にちなんで…】

●3月12日:サンデーホリデーの日
       :半ドンの日
 【半ドンの日~号砲1発!大阪城の大砲】

●3月15日:靴の記念日
 【日本初の靴・製造工場】

●3月22日:放送記念日
 【放送記念日~初めてのラジオ放送】 

●3月26日:カチューシャの歌の日
 【ヒット曲第一号に寄せて流行歌の歴史】

●4月1日:エイプリルフール
 【ウソも方便…遠めがねの福助さん】
 【はりぼての野田城】

●4月6日:城の日
 【戦国から江戸の城の変貌~「城の日」に因んで】

●4月19日:地図の日
 【50の手習い、伊能忠敬の日本地図】

●4月20日:郵政(逓信)記念日
 【郵便の父・前島密の功績】

●4月24日:日本ダービー記念日
 【競馬の歴史】

●4月28日:象の日
 【象の日】      
 
●5月1日:扇の日
 【江戸の媚薬・イモリの黒焼き】

5月5日:こどもの日
 【端午の節句は女の祭り?】

●5月第2日曜:母の日
 【母の日の起こり】

●5月18日:ことばの日
 【ことばの日】

●5月27日:百人一首の日
 【百人一首に隠された暗号】

●5月29日:呉服の日
 【呉服の日】
 【江戸時代の帯結び…「呉服の日」に因んで】

●6月10日:時の記念日
 【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】

●6月16日:和菓子の日
 【和菓子の歴史~そのルーツと豆知識】

●6月第3日曜:父の日
 【父の日事始】

●7月8日:質屋の日
 【質屋の歴史】

●7月13日:オカルトの日
 【オカルトの日と後鳥羽上皇】

7月第3月曜日:海の日
 【国民の祝日と海の記念日】

●7月24日:河童忌
 【河童のお話】

●7月26日:幽霊の日
 【もう一つの忠臣蔵~四谷怪談】

●8月4日:橋の日
 【橋の日なので橋姫の怖い話】

●8月5日:タクシーの日
 【日本初のタクシー誕生】

●8月5日:箱の日
 【浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱

●8月8日:ヒゲの日
 【乱世と平時で髭のある無し…ヒゲの日に因んで】

●8月9日:野球の日
 【野球の歴史は1本のバットから・・・】

●8月10日:道の日
 【東海道は五十七次!~道の日にちなんで】

●8月10日:トイレの日(日本衛生整備機器工業会)
 【トイレの歴史】

●8月29日:ケーブルカーの日
 【日本初のケーブルカー…生駒山に誕生】

●9月2日:お手玉の日
 【お手玉の歴史】

●9月16日:マッチの日
 【マッチ王…清水誠と瀧川辧三~マッチの日】

●9月29日:招き猫の日
 【招き猫の由来】

●10月1日:醤油の日
 【醤油の歴史】

●10月8日:入れ歯の日
 【世界最古の入れ歯は日本製?】

●10月17日:上水道の日
 【江戸の上水・大阪の下水】

●10月25日:大阪天満宮の流鏑馬(やぶさめ)
 【大阪天満宮の流鏑馬神事】

●10月29日:宝くじの日
 【昭和の宝くじ・江戸の富くじ】

●10月30日:香りの記念日
 【香りにうるさい平安貴族】

●10月31日:日本茶の日
 【栄西のお土産・日本茶の日】
 【闘茶と御茶壷道中】

●11月1日:灯台記念日
 【灯台記念日に灯台の歴史】

11月3日:文化の日(旧・明治節)
 【皇子から武人へ~明治天皇の大変身】

●11月8日:刃物の日
 【出っ歯の出刃包丁~刃物の日にちなんで…】

●11月9日:太陽暦採用記念日
 【今日は太陽暦採用記念日】

●11月10日:トイレの日(日本トイレ協会)
 【トイレの歴史】

●11月10日:エレベーターの日
 【日本初のエレベーター…浅草・凌雲閣に誕生】

●11月11日:下駄の日
 【かかとの無い履き物と「ナンバ」】

●11月13日:ネッシーの日
 【ネッシー写真で大論争】

●11月14日:ギャンブルの日
 【天武天皇も怒られた?ギャンブルの歴史】

●11月15日:七五三
 【意外に最近?11月15日の七五三の歴史】

●11月17日:将棋の日
 【「将棋の日」にちなんで将棋の歴史】

●11月18日:土木の日
 【石舞台古墳のあるじは?】

11月23日:勤労感謝の日(旧・新嘗祭)
 【新嘗祭はもう一つの新年行事?】

●11月30日:シルバーラブの日
 【今日はシルバーラブの日】

●11月30日:鏡の日
 【古代日本における鏡とは?】

●12月1日:映画の日
 【映画の日に映画の歴史】

●12月1日:鉄の記念日
 【昔話・桃太郎と製鉄の関係】

●12月5日:バミューダトライアングルの日
 【バミューダトライアングルの日】

●12月14日:南極の日
 【南極探検と観測の歴史】

●12月16日:電話の日・電話創業の日
 【電話はじめて物語】

●12月17日:飛行機の日
 【ライト兄弟よりも早く?日本人が空を制す】

●12月25日:クリスマス
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2009年2月 1日 (日)

護良親王&楠木正成・再起~千早赤坂・攻防戦へ

 

元弘三年(1333年)閏2月1日、吉野山に籠っていた護良親王が、鎌倉幕府からの攻撃を受けて、高野山へと脱出しました。

・・・・・・・・・・

天皇自らが政治を行う事を夢見て、何度も水面下で謀反の計画を立てる第96代後醍醐(ごだいご)天皇でしたが、世は、まさに鎌倉幕府=武士の時代・・・第14代執権・北条高時が実権を握っています。

悲しいかな、幕府に匹敵するような軍事力を持たない天皇・・・そこへ、登場したのが、かの楠木正成です。

心強い男を味方に得た天皇は、笠置山にて挙兵して、倒幕ののろしを挙げました。

元弘元年(1331年)9月28日・・・これが世に言う元弘の変です。

しかし、幕府の大軍による総攻撃で、わずか一日で笠置御所はあえなく撃沈(9月28日参照>>)・・・山中を逃げ回っていた天皇も捕らえられてしまいます。一方の正成は、下赤坂城(大阪府千早赤坂村)に籠り、幕府軍相手に得意のゲリラ戦で奮闘しますが、砦に毛の生えたような急ごしらえの城では太刀打ちできないと判断し、10月21日に自ら城に火を放ち、金剛山中へと姿を消しました(10月21日参照>>)

翌・元弘二年(1332年)の3月には後醍醐天皇が隠岐(おき)へ流され(3月7日参照>>)、6月には天皇の側近・日野資朝(すけとも)日野俊基(としもと)が処刑され、万事休す・・・戦いは終結してしまいました。

それから約1年、もはや後醍醐天皇の夢も露と消えたか・・・と思いきや、あの笠置山から脱出して、奈良や和歌山を点々としていた後醍醐天皇の息子・護良親王(もりよし・もりながしんのう)が、各地の反幕府勢力をまとめる事に成功!・・・11月、再び、倒幕ののろしを挙げ、吉野山に立てこもったのです。

護良親王は、各地の武士に令旨(りょうじ・天皇家の命令)を発し、「ともに戦おう!」と呼びかけます。

このグッドタイミングで再び登場するは、あの赤坂城の戦いで死んだと思われていた正成です。

正成は、先の戦いで幕府側に奪われていた下赤坂城を、早々に奪回し、その勢いのまま、和泉(大阪府南部)から摂津(大阪府北部)へ進攻・・・年が明けた元弘三年(1333年)の1月には、天王寺の戦い六波羅探題(ろくはらたんだい・鎌倉幕府が京都の守護のために設置した出先機関)に勝利します。

こうなっては、幕府ものんびりとはしていられません。

倉から20万の大軍を畿内へ向けて発進するとともに、悪党・正成の首に多大なる恩賞をかけて将兵の士気をあおり、いざ!再びの全面戦争へと突入です。

幕府による大軍の派遣を聞いた正成は、北方の最前線である上赤坂城を弟・正季(まさすえ)に300の兵をつけて守らせ、自らは、その南東に築いた千早城(ちはやじょう・大阪府千早赤坂村)にて、幕府の大軍への備えを計ります。

やがて、護良親王の籠る吉野方面と、正成らが守る河内方面、さらに反幕府派が点在する紀伊方面の三手に分かれた幕府軍・・・

その中の河内方面・先鋒である阿蘇治時(あそはるとき)率いる8万の軍勢が、下赤坂城に迫ったのは、2月22日の事でした。

3方を山に囲まれた天然の要害である上赤坂城・・・しかも、城兵は、日頃から正成に鍛えられたゲリラ作戦で敵をまどわせ、少ないながらも善戦に次ぐ善戦で、8万の大軍相手によく戦いましたが、敵も、さすがに戦いのプロ・・・2月27日、水の補給路を断った事により、ついに落城してしまいます。

正季は、ギリギリで脱出に成功し、金剛山へと敗走しました。

一方、護良親王の籠る吉野を攻撃したのは、大仏家時(おさらぎいえとき)率いる吉野方面軍・・・こちらも、下赤坂城同様、大軍相手に奮戦してはいましたが、なにぶん手勢は、わずかに1000・・・しかも、その中の多くが僧兵ですから、鎌倉武士のプロ集団による総攻撃にはひとたまりもありませんでした。

もはや、陥落も時間の問題となった元弘三年(1333年)閏2月1日・・・
 :閏(うるう)とついているので、おわかりかとは思いますが、旧暦なので、この年の2月は2回あり、この「2月1日」というのは、先の下赤坂城の落城の前ではなく、落城後の2回目の2月の1日という事になります。

覚悟を決めた側近の村上義光(よしてる)は、護良親王の鎧・直垂(ひれたれ・鎧の下に着る平服)身につけ、親王の身代わりとなって切腹し、敵の目を惹きつけ、その間に親王は吉野を脱出・・・高野山へと逃れたのでした。

その後、しばらくの間、親王の行方を探索する家時でしたが、結局、見つける事ができず、軍勢は・・・そう、正成の籠る千早城へと進軍します。

そして、もちろん、下赤坂城を落とした治時軍も・・・そして、紀伊方面担当だった名越宗京(なごしむねのり)が率いる軍も・・・。

幕府軍は、そのすべてをかけて、千早城への総攻撃へと突入します・・・いよいよ、正成の一番の見せ場である千早城の戦いが始まります。

・・・が、そのお話は、やはり、戦いが勃発した2月5日のページでどうぞ>>
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