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2009年2月 9日 (月)

少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ・・・

 

平治二年(永暦元年・1160年)2月9日、前年の12月に起こった平治の乱で、父・源義朝とともに敗走した源頼朝が近江にて捕まりました。

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平清盛が熊野詣でに出かけた留守中に、藤原親頼によって決行されたクーデター・平治の乱(12月9日参照>>)・・・熊野からとってかえした清盛によって乱は終焉を向かえ、敗者となった親頼に味方した源義朝(よしとも)は、ともに合戦に参加した息子たちと敗走します。

この時、13歳で参戦していた義朝の三男・源頼朝も、父や兄とともに敗走しますが、雪深い山中での移動のため、途中ではぐれてしまいます。

その後、執拗な落ち武者狩りで、次兄・朝長(ともなが)が深手を負い、美濃の山中で自害(殺害されたとも、義朝がとどめを指したとも)したのが12月28日・・・。

明けて平治二年(永暦元年・1160年)の1月4日には、父・義朝が家来の騙まし討ちに遭い、絶命(1月4日参照>>)・・・1月25日には、その死を知って復讐を決意し、単身、京に舞い戻った長兄・義平が捕らえられて斬首されています(1月25日参照>>)

そして、平治二年(永暦元年・1160年)2月9日・・・とうとう、頼朝も捕まってしまったわけですが、上記の通り、父や兄は、すでに死亡していますから、13歳の少年としては、かなり頑張りましたよね。

その後、平家の本拠地である六波羅へと送られた頼朝・・・彼は、二人の兄を持つ三男ではありますが、兄二人の母親が遊女であったとされるところから、熱田神宮大宮司藤原季範(すえのり)の娘・由良御前を母に持つ頼朝こそが嫡男とするならば、当然の事ながら、その処分は死罪も考えられます。

しかし、ご存知の通り、頼朝はここで死にましぇ~ん。

捕らえられた頼朝と六波羅にて面会した清盛・・・その心の中は、やはり頼朝を殺すつもりでいました。

少年とは言え、生きていれば大人になりますから、成長したあかつきには「父の仇」と恨むに違いありませんから・・・。

ところが、頼朝の顔を見た、清盛の母の池禅尼(いけのぜんに)が、涙ながらに頼朝の命乞いをしたのです。

この池禅尼さん・・・出家前のお名前を藤原宗子と言い、清盛の父である平忠盛正室なので、清盛の母という事になりますが、以前、書かせていただいたように、清盛の生母は、祇園女御(ぎおんにょうご)と呼ばれた女性か、もしくは、その妹とおぼしき女性(2月11日参照>>)なので、いわゆるなさぬ仲=継母です。

・・・で、『平治物語』によれば、この池禅尼さんは、この10年前に、忠盛との間に生まれた家盛という息子を亡くしていて、この頼朝が、その家盛によく似ていたのだとか・・・。

当然、清盛は反対しますが、池禅尼が断食するに至って、しかたなく死罪をやめて伊豆への流罪へと減刑したとされています。

また、それだけではなく、後白河上皇や頼朝が仕えていた上西門院(後白河上皇の姉)意向も大いに働いているようです。

ただし、それは情というよりは思惑・・・もちろん、ウワサの通りに清盛が白河天皇の息子であったとしたら後白河上皇とも血縁となるわけですが、上皇としては、そんな血縁よりも、我が天皇家が大事なわけで、異例の出世で、奈良時代の藤原一門のごとく権勢を持ち始めるかも知れない清盛への牽制。

源氏のすべてをもぎ取ってしまって、平家の一人勝ちになってしまう事への危険性を感じての働きかけ・・・という事でしょうね。

先の池禅尼にしても、正室は彼女なのですから、本来なら、彼女の子供が平家の棟梁になったかもしれないにも関わらず、上の息子の家盛は死に、下の息子の頼盛が年若かったために、身分の低い一般人の女の子供の清盛がトップに立ち、全盛を極めようとする事を、すなおに喜んでいたのかどうか疑いたくなる部分もあります。

「頼朝に亡き息子の面影を見た」というよりは、なさぬ仲の清盛に反対して、後白河上皇を、かわいい我が子の味方につけておきたかったのかも知れません。

現に、この後の頼盛は、平家一門というよりも、後白河上皇の側近として動いているような気がします。

そう考えると、頼朝を助命するにあたって、最も情の部分が大きかったのは、他ならぬ清盛だったのかも知れません。

なんせ、清盛自身には、頼朝を助けて得になるような事は無いのですから・・・。

なんだかんだで、結局、伊豆への流罪と決まった頼朝は、3月11日(ひる)ヶ小島へと流され、そこで20年という流人生活を送る事になります。

ただ、流人と言っても、屋敷内での日々の暮らしは比較的自由でした。

まぁ、さすがに、勝手に外に出歩いたりというのには、厳しい監視の目が光っていましたが・・・。

清盛の命を受けて、その頼朝の監視をしていたのが、伊東祐親(すけちか)北条時政・・・この両方の監視役の娘の、二人ともに手を出してしまうのですから、頼朝君もなかなか、すみにおけないしたたかさを持っておるわけですが、そのお話は、20年後の8月17日【伊豆に白旗!頼朝挙兵】でどうぞ>>
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