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2009年2月16日 (月)

佐賀の乱・勃発~江藤新平の運命やいかに

 

明治七年(1874年)2月16日、明治維新後の初めての士族の反乱である佐賀の乱で、不平士族たちが佐賀城への攻撃を開始しました。

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命をかけて幕末の戊辰戦争を戦ったにも関わらず、もぎ取った政権で誕生した明治新政府の方針は、武士の特権を奪う四民平等・・・職を失った士族(元武士)たちの不満は徐々に大きくなります。

やがて、明治七年(1874年)・・・1月14日には、東京にて、政府高官である岩倉具視(いわくらともみ)が土佐の士族に襲われるという赤坂喰違(くいちがい)の変(1月14日参照>>)が勃発し、さらに2月3日には佐賀で、やはり不平士族のグループが、政商の小野組(江戸時代の豪商・井筒屋)に押しかける事件(2月3日参照>>)が発生・・・。

中央政府を追われた佐賀出身の江藤新平が、ちょうどこのタイミングで故郷に戻っていた事で、危機感を抱いた大久保利通(としみち)は、治安維持のため岩村高俊佐賀県令(県の長官)に任命して出兵させます。

これに激怒したのが、不平士族たちの暴走を説得するつもりでいた江藤新平・・・不平士族グループの征韓党のトップに担ぎ上げられた彼は、敵対グループ・憂国党島義勇(よしたけ)と、故郷・佐賀を守るためという理念で意気投合し、ともに立ち上がったのです。

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征韓党と憂国党の合併集団・・・ここでは、とりあえず佐賀軍と呼ばせていただきますが・・・

上記の通り、彼らのリーダーである新平も義勇も、本来は、皆が反乱を起さないように説得するつもりでいた二人です。

ただ、県令に任命された高俊が、はなから兵を率いての佐賀入りという事を聞きつけて、「そっちがその気なら・・・」という事ですから、彼らの決起の判断は、あくまで相手の態度次第・・・。

会議にて、「鎮台(政府陸軍)兵が何の布告もなしに佐賀に入るのであれば・・・」という条件を決定し、相手の出方を待ちます。

そんなこんなの2月15日・・・かの高俊が、熊本の鎮台兵640名を率いて佐賀城に入って来たのです。

すぐに、新平らは征韓党所属の山中一郎という者を代表として佐賀城へ向かわせ、高俊の真意を尋ねます。

「兵隊を率いての佐賀への入城は、俺ら士族を殺すためなんか?」
高俊の返答は、ただ一言・・・
「答える必要はない」

この報告を受けて、新平らの心は決まりました。

「答える必要はない」は、イコール「YES」なわけですから・・・

早速、その夜、佐賀軍の偵察にやってきた鎮台兵と、それを見つけた憂国党の兵士・十数名とが小競り合いを起しますが、本格的な戦闘は翌日の早朝・・・明治七年(1874年)2月16日です。

近くの八幡神社から佐賀城へ打ち込まれた大砲にて、火蓋が切られた佐賀の乱は、3日間に渡り、佐賀城の攻防をめぐっての激戦が繰りひろげられましたが、上記の通り、鎮台兵は数百名で、対する佐賀軍は4500名ほど・・・

人数的にも有利な佐賀軍は、この佐賀城攻防戦での戦闘では圧倒的に優勢・・・

2月18日までに、鎮台兵の3分の1が戦死するに至って、見事、佐賀城は陥落・・・高俊は何とか城を脱出し、代わって新平ら佐賀軍が城を占拠したのです。

しかし、その翌日・・・すでに高俊を派遣した時から、自らの出陣を決意していた大久保利通が、政府の軍艦15隻に、大量の武器・弾薬を積んで、博多湾へとやってきていたのです。

上陸した利通は、早速、未だフリーの士族たちに向けて、貫属隊(かんぞくたい)なる名目で兵を募集したところ、何と1万人もの人数が集まります。

もともと利通が、東京や大阪でかき集めて連れてきた鎮台兵が、5000名ほどいますから、合わせて1万5000以上・・・

今度は逆に、多勢の敵から佐賀城を守らなければならなくなった新平ら佐賀軍は、博多から佐賀へ向かってくる政府軍を迎え撃つべく、佐賀城の北東に位置する朝日山に先鋒を配置します。

やがて、2月22日の早朝から始まった朝日山での決戦でしたが、わずか数時間で、数の勝る政府軍の勝利となり、佐賀軍は退却・・・佐賀城下にて戦況を見守っていた新平は、自ら兵を率いて田手川(たでがわ・佐賀県吉野ヶ里町)へ撃って出ました。

結果的に、佐賀の乱の最大の激戦となってしまった、この田手川の攻防戦で、佐賀軍は多数の死者を出し、翌・23日の夕方には、ここも退却をせざるを得なくなってしまいます。

佐賀城に戻った新平は、「もはや、これ以上戦っても、死者を増やす一方で勝ち目はない」と判断し、しばらく様子を見て、再び訪れる絶好の機会に再起する事として、一旦、軍の解散を提案しますが、一方の憂国党の代表である義勇は「徹底抗戦」を主張して譲りません。

しかたなく、新平は、征韓党の兵士にだけ、後日再び集結する事を誓うとともに、解散の命令を下し、佐賀城をあとにしたのです。

そして、佐賀を脱出した新平が向かった先は・・・

あの明治六年の政変(10月24日参照>>)で、ともに政界を辞職した鹿児島の西郷隆盛でした。

2月25日・・・佐賀から逃れて必死の思いで西郷に面会した新平・・・

その願いは、西郷以下・薩摩士族の挙兵か、はたまた、反乱の正当性を中央に訴える事への協力か・・・とにかく、義の人=西郷隆盛しか、彼には頼る人はいなかったでしょう。

しかし、西郷の答えは・・・「NO」でした。

しかたなく、新平は次ぎの協力者を求めて高知へ・・・しかし、ここでも断られ、更なる協力者を求めて徳島に向かう途中、国境付近の(かん)の浦にて逮捕されるのです。

佐賀を出てから約1ヶ月・・・3月29日の事でした。

皮肉な事に、新平が明治政府で活躍していた頃に、その法律の知識を遺憾なく発揮して整えた制度のおかげで見事に近代化した警察機能による逮捕劇でした。

・・・で、この後、彼は、裁かれる事になるわけですが、冒頭に書いた通り、この佐賀の乱は、これから次々と起こる不平士族による反乱の一番最初に起こった反乱です。

司法制度の近代化に向けて、新たな法律をいくつも作った新平への処分は、その時代の流れに逆行するものでしかなく、更なる大きな不満を残すことになるのですが、そのお話は、やはり、新平さんのご命日の【4月13日のページ】でどうぞ>>
 

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