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2009年2月27日 (金)

弟が年上?天智と天武~天皇・年齢矛盾疑惑

 

天武二年(673年)2月27日、壬申の乱に勝利した大海人皇子が、飛鳥浄御原宮にて即位し、第40代・天武天皇となりました。

・・・・・・・・・

一昨日、律令制定の詔(みことのり)発令(2月25日参照>>)で書かせていただいたばかりの大海人皇子(おおあまのおうじ)天武天皇のまたまたの登場で恐縮ですが・・・

そのページでも触れましたように、その真偽はともかく、現在のところ第一の史料である『古事記』『日本書紀』によれば、大海人皇子=後の天武天皇は、第34代舒明(じょめい)天皇と、その皇后である宝皇女(たからのおうじょ・後の皇極&斉明天皇)との間に生まれ、同じ父と母から生まれた兄に、後の天智天皇である中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、姉に間人皇女(はしひとのおうじょ・孝徳天皇皇后)がいます。

その兄の息子である大友皇子(弘文天皇)壬申の乱で攻め、政権を奪い取り、天武二年(673年)2月27日、晴れて飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)にて即位し、第40代・天武天皇となったわけです。

ところで、この天武天皇・・・その年齢がよくわかりません。

古事記のほうは物語性が強く、もっと古い時代をくわしく書いてあるので、この時代の人々の年齢を調べるのに用いられるのは、やはり日本書紀です。

・・・とは言うものの、その日本書紀にも、何年生まれなんていう生年月日をそのまま記載してあるわけではなく、年齢や年号(えと)に関する記述を取り出して、そこから計算して年齢を割り出すわけですが、それによると、兄の天智天皇は推古三十四年(626年)の生まというのが、現在のところ定説となってします。

ところが、天武天皇の年齢は、日本書紀の記述だけでは計算できないのです。

そこで、多くの学者さんは、鎌倉時代に書かれた『本朝皇胤紹運禄(ほんちょうこういんじょううんろく)と、南北朝時代に書かれた『一代要記(いちだいようき)の二つともが、天武天皇の没年齢を65歳としているところから、日本書紀に書かれている天武天皇の亡くなった年号=朱鳥元年(686年)から逆算して、生まれた年を割り出すのですが・・・

これが、推古三十年(622年)となり、兄の天智天皇より、4歳年上になってしまうのです。

そこで、この矛盾を解決する説としては、「この後の世の二つの文書の作者が、天武天皇の没年齢を56歳とするところを65歳と書き間違えたのだ」と・・・多くの歴史家のかたが、現在も、この解釈をしておられるようです。

歴史を学問として専門的に研究されている方々にとっては、「後世に書かれた物ほど不正確である」というのが定番で、やはり日本書紀の記述が最優先のようです。

まぁ、鎌倉時代と言えば、お亡くなりになってからすでに2~300年は経ってますから、しかたがないのかもしれません。

また、単に「間違えた」では心もとないと、表記のしかたの違いをイロイロに解釈する場合もあるようです。

それは、先の『本朝皇胤紹運禄』の中では、天智天皇の没年齢は58歳となっていて、日本書紀の46歳死亡とは12歳のズレがあり、天武天皇の年齢との矛盾はありません。

これは、『本朝皇胤紹運禄』の編者が、日本書紀のままの年齢だと、天智天皇が大化の改新を行った時の年齢が20歳という、あまりに若い年齢であるため、「生まれ年のえとを一巡繰り上げて、没年齢を記したのでは?」という解釈で、それだと、天智天皇が亡くなったのが天智十年(671年)ですから、生まれたのは推古二十一年(613年)という事になり、天武天皇より年上という事になります。

また、『一代要記』のほうも、天智天皇の生まれた年を推古二十七年(619年)としていますので、『日本書紀』とはズレがありますが、『一代要記』の中の内容では、矛盾なく、天武天皇のほうが年下となるわけです。

ただ、これは、ご覧いただいてわかるように、アチラを信じればコチラがおかしくなり、コチラを信じればアチラがおかしくなり・・・年齢の矛盾を解決するために、両方の都合のいいところだけを並べ立てて、つじつまを合わしているような気もします。

歴史学者の方々は、これらの史料を日々研究されて、矛盾を解決する方法を模索しておられるので、新しい研究結果に期待したい!というところですね。

・・・と、イロイロ書かせていただきましたが、とにかく、この年齢の計算は、素人の私にはムリ!

とりあえず、具体的な年齢の事は、専門家のかたにおまかせするとして、弟が兄より年上であろうがなかろうが、何より重要な事をわすれちゃいませんか!って事です。

それは、かの『日本書紀』に、「天武天皇の没年齢がわかる記述が一つも書いていない」という事・・・一昨日のページにも書かせていただいたように、この日本書紀を編さんするように命じたのは、その天武天皇ですよ!

そして、編さんにあたった中心人物は舎人親王(とねりしんのう)・・・天武天皇の息子です(11月14日参照>>)

父親の遺言で、編さんを始めた書物に、その父親の年齢を書き忘れるアホがいるわけがありません。

しかも、一人ではなく、何人もの人が関わってチェックしてるんですから・・・。

それに、日本書紀は、この日本という国の歴史がいかに古く伝統のあるものか、そして、いかに自分たちがこの国を支配するにふさわしい家系かを、海外向けにアピールするための外交のための史料でもあるわけで、一個人の自分史とはわけが違います。

そして、そこから想像できる事は、ただ一つ・・・書き忘れたのではなく、書かなかったという事です。

『斉明即位前紀』には、こうあります・・・
「初に橘豊日天皇(たちばなのとよひ・用明天皇の事)の孫高向(たかむく)に適(みあひ)して(あや)皇子を生(あ)れませり」と・・・・つまり、天智&天武天皇のお母さんである宝皇女は、舒明天皇と結婚する前に、高向王という人物と結婚していて漢皇子という子供がいたという事です。

しかも、この高向王・・・上記の通り用明天皇の孫となっていますが、両親が誰かという情報がまったくなく、いつ亡くなったかも不明、さらに漢皇子に関しての記録もなし・・・なので、宝皇女は夫とは早くに死別して、漢皇子も幼くしてなくなり、その後、舒明天皇の皇后となったのであろうというのが通説となっていますが、実に不可解です。

・・・で、ひょっとしたら漢皇子=天武天皇かも知れない、あるいは、イコールではないにしても、宝皇女が舒明天皇の皇后になる前に、すでに天武天皇を産んでいたのでは?となるわけです。

この推理は、上記の通り何もかも不明なので、想像の域を出ないものですが、これだと、たとえ天武天皇のほうが年上だったとしても、先に天智天皇が即位するのも納得できます・・・なんせ、天武天皇のお父さん天皇ではないわけですから・・・。

ひょっとしたら、謎だらけのその父親も用明天皇の孫などではないのかも・・・さらに、飛躍すれば、天武天皇は、まったく別のところから現れた天智天皇の兄弟ですらない別人の可能性も・・・そうなると、やっぱり、その通りには書けませんわなぁ。

一昨日同様、天武天皇での政権交代疑惑ですが、そこまでの飛躍はないにしても、天武天皇のほうが年上だったという可能性は、なきにしもあらずって感じですね。

・・・とは言うものの、歴史って、様々な憶測を呼んで、推理を張りめぐらすわりには、案外、実際には、そんなに複雑な事ではなかったりする事もあるので、もしかしたら、「当時は誰もが知っている事なので書かなかっただけ」なんていうオチもありだと思いますが・・・

なんせ、舎人親王は、千年以上も後の人がこれを見て、あーだこーだと言うとは思っていなかったかも知れませんからね。
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飛鳥時代」カテゴリの記事

コメント

 はじめまして。歴史はあいまい、だから面白いというのもありますよね。これからも見に来ます!

投稿: ごんぐり | 2009年2月27日 (金) 13時28分

ごんぐりさん、こんにちは~

学者・教授と呼ばれる専門家の方々は、確固たる証拠をもとに、何かしらの答えを導き出さなければならない立場にあるので、大変だと思います。

その点、一般人の私は、あいまいはあいまいのまま楽しめるので、あっちに転んだり、こっちに転んだり、思う存分楽しませていただいてます。

また、覗きにきてくださいね。

投稿: 茶々 | 2009年2月27日 (金) 19時14分

おつむの出来が悪く、キャパシティが少量の僕は古文書毎に違う記述内容を覚えるのも覚束ない状況で、その背後にある政治的事情まで読みとる能力はないです。

投稿: マー君 | 2009年2月27日 (金) 21時18分

マー君さん、こんばんは~

ギリシャ神話などと違って、記紀神話の場合は、現在につながる歴史を含んでいるため、扱いが難しいです。

私は外野席にいるので、好きなように考えられますが、実際に関わりのあるかたでしたら、慎重にならざるをえないと思います。

投稿: 茶々 | 2009年2月27日 (金) 23時47分

>「当時は誰もが知っている事なので書かなかっただけ」
今でもありそうで、だからこそ説得力があると思います。
 
でも、漢皇子の件、面白いです。
大海人皇子の登場の仕方が、実力のある皇弟とは言え、唐突な印象を受けますし、
天智天皇の皇女を4人も(!!)妃としているところが、後の藤原氏の閨閥を連想させ、血縁の薄さを表しているように思います。
 
兄弟で無いほうが、いろんなドラマを妄想できて、面白そうだなぁ...

投稿: ことかね | 2009年3月 1日 (日) 14時46分

ことかねさん、こんばんは~

>兄弟で無いほうが、いろんなドラマを妄想できて、面白そうだなぁ...

ホントに・・・

ドラマとしては、そっちのほうが断然オモシロイです。

投稿: 茶々 | 2009年3月 1日 (日) 22時57分

茶々さん、おはようございます。
いつもご丁寧なお返事有難うございます。

さて、
大海人皇子が27歳、鵜野讃良皇女が13歳で結婚。しかも皇女には同じ父の姉がいる。
もしこれが事実なら、皇女の父の中大兄皇子は何才の時に‥
てゆーか、これが原因で天武天皇は元服を制度化した⁉️
あー私も妄想が‥happy02

投稿: とーぱぱ | 2017年4月27日 (木) 06時02分

とーぱぱさん、こんにちは~

ほんと…イロイロと妄想してしまいますね。

一般的には、鵜野讃良皇女は天智天皇19歳の時の子供って事になってるので、彼女が13歳で結婚した時は32歳って事になりますが…

あくまで、個人的な妄想ですが…
もし、兄弟の年齢が逆転してるとしたら、天智天皇がコレより若いのではなく、天武天皇がもっと年上なんじゃないかと…
ひょっとして、鵜野讃良皇女との結婚当時に、すでに40歳を越えてた可能性も?Σ(゚□゚(゚□゚*)

投稿: 茶々 | 2017年4月27日 (木) 15時02分

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