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2009年2月 5日 (木)

楠木正成・最大の見せ場!千早城の戦い

 

元弘三年(1333年)閏2月5日、楠木正成の籠る千早城に、鎌倉幕府軍が攻め寄せました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒すべく挙兵した第96代・後醍醐(ごだいご)天皇に従って、ともに戦う楠木正成でしたが、笠置山で捕らえられた天皇が隠岐へと流され、彼もまた籠っていた下赤坂城を捨て、姿を隠しました(10月21日参照>>)

やがて、先の笠置山で何とか脱出に成功していた、天皇の息子・護良親王(もりよししんのう・「もりなが」とも)吉野山にて挙兵した事で、正成も再び立ち上がりますが、幕府も20万の大軍を派遣して応戦・・・吉野を攻撃して護良親王を敗走させ、正成の弟・正季(まさすえ)の守る上赤坂城も落し、いよいよ全軍を傾けて、正成の籠る千早城へと迫ります・・・と、ここまで先日(2月1日参照>>)書かせていただきました。

・‥…━━━☆

千早城は金剛山中にあり、3方を渓谷に囲まれた天然の要害でしたが、周囲は4kmほどの小さな山城で、守る兵もわずか1000ほどでした。

そこへ、幕府全軍・20万が攻め寄せます。

元弘三年(1333年)閏2月5日、いよいよ幕府軍は攻撃を仕掛けてきますが、あまりの数の差に、ちょっと自信過剰だったのか、幕府軍には大した作戦も計算もなく、各将兵が自分勝手に我先に攻め寄せたため、例のごとく、大石を落したり、糞尿をかけたりの正成お得意のゲリラ戦法にしてやられてしまいます。

「これは、いかん!」
・・・と、先の上赤坂城同様、水源を断っての長期戦に切り替えますが、その作戦変更は、すでに正成はお見通し・・・準備万端、千早城には、すでに、たっぷりの水を確保して、正成側もその長期戦を受けて立つのです。

・・・で、ここで長期戦へと持ち込まれた千早城の戦いで、正成の逸話な中でも、最もドラマチックな名場面が展開される事になります。

ある日、正成はわらで作った武者人形を20~30体用意、夜のうちに城外の山の麓に人形を並べておきます。

やがて、白々と夜が明けるところを見計らって、後方から一斉に鬨(とき)の声を「わぁ~~」っと・・・長期の籠城に絶えられなくなった兵が、決死の攻撃に出たと思った幕府軍は一斉に雨あられのように矢を射かけます。

しかし、当然の事ながら、いくら矢を射かけでも兵(人形)は倒れず、やがて、矢が底をついてしまい、更なる攻撃をと敵が前に殺到したところで大石を投げ落とす・・・これで、敵兵は300人が即死し、500人が負傷、しかも、正成は、新たなる10万本の矢を手に入れる事ができた・・・というもので、「わら人形の策」と呼ばれています。

また、ある時、なかなか落ちない千早城に業を煮やした幕府軍が、京都から5000人の大工を呼び寄せ、幅4.5m長さ30mのハシゴを造らせ、これを向かい側の山から城壁へと渡して、新たなルートを確保・・・そこから一気に城内へ攻め寄せようとしたのです。

これに気づいた正成は大量の水鉄砲を用意し、その水鉄砲の中に油を仕込み、ピュッピュ、ピュッピュとハシゴに向かって噴射!

たっぷりと油がしみこんだハシゴに、今度は燃え盛る松明(たいまつ)を投げつけ、ハシゴは一気に炎に包まれます。

驚く前方の兵の足は止まりますが、「一気に進め~!いてまえ~!」と指示されている後方の兵は止まらず、押し合いへし合いになったハシゴの上は大混乱!

しばらくして、中ほどから焼け落ちるハシゴとともに、兵は谷底へ・・・こちらは、「長梯子(ながばしご)の計」と呼ばれます。

千早城の近くには、懸橋(かけはし)なる地名も残っていて、まさに、奇策で大軍を手玉にとる楠公ならではの痛快なエピソードとして有名な話で、ファンの心を掴んではなさない最も魅力的な部分・・・

ですが、もう、お気づきのかたも多いと思いますが、「わら人形の策」は、あの『三国志』赤壁の戦い諸葛孔明(しょかつこうめい)がやった奇策にそっくり・・・孔明の場合は100万本の矢でしたね。

後者の「長梯子の計」も、中国の春秋戦国時代(紀元前770年頃~紀元前403年頃)の書物『墨子(ぼくし)の中に登場するエピソードです。

まぁ、『太平記』軍記物であって、誰も、史実を書いているとは言ってませんし、書いた本人も、実際に戦いを見たわけではないでしょうから、おそらく、悪気はなく、正成がいかに優れた策士であるかを強調したいがための借用といった感じなのでしょうが、まさか、後世の日本で、これほどまでに三国志が有名になって、映画までヒットして、多くの人が知るところとなるとは思ってなかったんでしょうね。

とは言え、少ない城兵でありながら、千早城が幕府の大軍の攻撃に耐えた事は、事実・・・。

最初の攻撃から約3ヶ月後の5月10日、結局、幕府軍は千早城を落すことなく、包囲を解き、撤退する事になるのですが、それは、この千早城が耐え抜いた事で起こった情勢の変化・・・幕府は、もう千早城どころではなくなってしまっていたのです。

すでに閏2月24日には、伯耆(ほうき・鳥取県中西部)の豪族・名和長年(なわながとし)の手助けにより後醍醐天皇が隠岐かだ脱出して全国に倒幕の綸旨(天皇の命令)を発令します。

さらに、播磨(はりま・兵庫県西南部)では赤松則村(のりむら・円心)が、肥後(熊本県)では菊池武時(たけとき)が次々と立ち上がり、この千早城の攻防戦にも参戦していた新田義貞は、すでに3月頃にヤル気をなくして帰国の途についています。

そして、とうとう、後醍醐天皇を倒すべく幕府から派遣された足利高氏(尊氏)までもが、後醍醐天皇側について六波羅探題を攻撃し(5月7日参照>>)、この前日には、その六波羅探題も消滅してしまいました(5月9日参照>>)

さぁ、いよいよ時代が変わるその時がやって来ます。
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コメント

本旨とは懸け離れますが護良親王の読み仮名…モリヨシシンノウとされてますが、モリナガシンノウとする説も有ります。と言うか戦前はモリナガシンノウと言う読みが主流だったようです。またその流れを承け、建武の中興に関わる皇祖皇宗や忠臣を祀る神社で構成する建武の中興顕彰会などは、護良親王だけじゃなく他の後醍醐天皇の皇子に関しても、良の字をナガと読ませてます。戦後の研究の結果、今では良の字はヨシと読むって説が主流になってるようですが、ただそれも主流であるってだけで、確定された意見とまでは言い切れないとおもいます。なので今後は護良親王他、後醍醐天皇の皇子の読み仮名にはヨシとナガを併記してほしいと思います。

投稿: マー君 | 2009年2月 5日 (木) 13時50分

マー君さん、こんばんは~

やっぱ併記したほうがいいっすか・・・

今度、護良親王が主役の時には、両方書くつもりだったんですが・・・

なら、つけたさしていただいときます。

投稿: 茶々 | 2009年2月 5日 (木) 21時41分

てか
当然 正成は軍学を学んでたでしょうから
三国志やらその他から学んだ戦法を使ったって事でしょう
「軍記物で史実じゃない」と言うなら
太平記だけじゃなく元の三国志やらも史実じゃない(どっちもどっち)って事ですよねw
一方が史実で太平記のみが史実じゃないってのはフェアじゃないと思いますよ

投稿: | 2015年10月13日 (火) 19時10分

こんばんは~

8年前の記事なので自分でも久々に、改めてこのページを読みなおしてみましたが、まだまだ「若い」ですね~
もちろん、年齢がという意味ではなく、ブログを初めて未だ3年目という事で「記事が若い!」ww

文才の無い私が、未だ初心者とも言える頃の記事ですので、その未熟さゆえの誤解を招いてしまったかも知れませんが、言いたかったのは単純に「軍記物だから史実では無い」という意味ではなく、「軍記物は今でいうところの歴史小説や大河ドラマなので、盛ってる事が多い」という意味です。

歴史小説や大河ドラマも大まかな歴史の流れは史実としても、細かな登場人物のキャラや言動まで史実だと思って見ている人は少ないし、創作が入ってるからこそオモシロイわけで、「軍記物も、そういう事を踏まえたうえで読み説かなければならないのではないか?」という意味です。

もちろん、創作が入ってるのは『太平記』だけではなく、『三国志』や『墨子』もですよ。
私も『三国志』や『墨子』のぜ~んぶが史実だとは思ってませんし、そんな事を書いたつもりはありません。

「史実か史実で無いか」ではなく「内容が似ている」と書いているつもりです。
そして、現在の小説やドラマもそうですが、物語という物は、似かよった内容である場合は、やはり最初に出した方がオリジナルと考えるのが普通だと思うんですよ。
ましてそれが有名な物であった場合は…

あと、「正成は三国志などから軍学を学んでいたであろうし…」とおっしゃるのであれば、相手の鎌倉武士だって学んでると思いますよ。
もし、本当に正成が三国志で学んで同じ作戦を実行したのだとしたら、相手の鎌倉武士たちは、彼らの方がもっと学べたであろう三国志に出て来たその作戦に「書いてある通りに騙され、書いてある通りに負けた」事になり、なんだかとても気の毒です。

ちなみに、他の正成関連のページを見ていただけばお解りいただけると思いますが、私は個人的には正成ファンですし、この痛快な千早城の戦いも大好きです。
もちろん、少数の兵で大軍の幕府軍に勝った事は史実でしょうし、カッコ良かったと思いますよ。
ただ、そこに、ちょっとばかり面白くしようと話を盛った可能性があるんじゃないかな?と感じているだけです。

もちろん、これはあくまで個人の感じ方で、「それが正しい」という意味ではありませんよ。

投稿: 茶々 | 2015年10月14日 (水) 01時31分

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