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2009年3月22日 (日)

武田滅亡へのカウントダウン~第3次・高天神城の戦い

 

天正九年(1581年)3月22日、徳川家康武田勝頼配下の岡部元信が守る遠江・高天神城を落とした第三次高天神城の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

某人気クイズ番組が、「武田氏が滅亡した戦い」と、間違った出題をしてしまうくらいの大敗の印象を受ける長篠の合戦(5月21日参照>>)・・・この戦いの結果によって信玄亡き後の武田氏を受け継いだ武田勝頼は、父との比較で愚将のレッテルを貼られる事が多いわけですが、領地の広さから見れば、信玄の時代より、勝頼の時代のほうが、少し大きくなっているのが事実です。

その象徴とも言えるのが、遠江(静岡県西部)駿河(静岡県東部)の国境の位置に建つ高天神城(たかてんじんじょう・静岡県掛川市)・・・。

鶴舞城とも呼ばれるこの城は、16世紀の初頭に築城され、戦国時代は小笠原氏の居城でありましたが、甲斐(山梨県)の国から南側へ進攻したい武田氏にとっては、喉から手が出るほど欲しいと思う城だったわけで、信玄が度々攻めるも、どうしても落せなかった城なのです。

天正二年(1574年)に、この念願の高天神城を奪取した勝頼が、それを栄光のシンボルのように思った事は確かでしょう・・・なんせ、父・信玄が落とせなかった城を手に入れたのですから・・・(5月12日参照>>)

勝頼は、この城を、勇将の誉れ高き岡部元信に守らせ、重要な戦略拠点としたのです。

しかし、翌年の天正三年(1575年)に起こった、先の長篠の合戦で、やはり、重要な南の拠点であった長篠城(愛知県新城市)が、織田信長との強力タッグを組んだ徳川家康に奪われ、勝頼と、信玄時代からの古い家臣との間の溝は、ますます深まります。

そんな中、天正六年(1578年)に、あの上杉謙信が亡くなり(3月13日参照>>)天下の情勢は大きく信長へと向く時代となっていき、さらに勢力下降気味の武田氏にとって、国境=甲斐中心部から離れた位置にある高天神城の維持が難しくなってくる・・・という家康に恰好の展開となってきます。

天正七年(1579年)10月・・・わずか1ヶ月前に、妻・築山殿と息子・信康を死に追いやって(8月29日参照>>)まで、武田との敵対をあらわにした家康は、いよいよ、高天神城・攻略の準備に入ります・・・それも、家康らしく、慎重に慎重を重ねて・・・。

翌年・天正八年(1580年)には、この城を兵糧攻めにすべく、周辺の三井山などに、六つの砦・対城(ついのしろ・攻撃の拠点とするための仮の城8月19日【城割の重要性】参照>>などを構築し、さらに深い水堀、何重にも連なった大柵を築きます。

「鳥も通わぬ」と称されたこの包囲網に、さらに、勝頼からの援軍に備えて、一間ずつに番兵を配置しました。

城を守る元信以下約1000名の城兵は、弾薬も兵糧も運び込めない状態の籠城戦となりましたが、さすがは勇将の元信・・・その采配は、見事で、徳川軍の度々の攻撃にも、その都度撃退し、耐え抜いていました。

しかし、もはや、それも時間の問題であるのは、誰もが思うところ・・・しかも、勝頼からの援軍も望めない状況となるに至って、元信らは決意を固めます。

こうなったら、降伏をして開城するか、城を枕に討死するか・・・

かくして、完全包囲されてから10ヶ月持ちこたえた天正九年(1581年)3月22日・・・彼らは、後者を選びます。

そう、この高天神城最後の戦いは、籠城していた元信から仕掛けたのです。

その日の午後10時、夜陰にまぎれて2手に分かれて出撃します。

・・・というのも、この高天神城・・・海抜132mの山の上に建つ山城なのですが、その峰は上部で東西に分かれており、その二つは独立した構造となってしました。

東に本丸・御前曲輪・三の丸、西に二の丸・西の丸など・・・と、どれも広い曲輪ではないうえ、斜面はどこも急な勾配だったのです。

まずは、西の丸から出撃した城主・岡部元信が率いる約500の軍勢・・・北西側に構築されていた空堀をなんなく通過し、その向こうを守っていた大久保忠世(ただよ)と接触!

決死の覚悟の岡部隊に推された大久保隊は、やむなく一時撤退するのですが、そこに南側を守っていた大須賀康高隊が救援に駆けつけ、数に劣る岡部隊は、城へと押し戻される形となり、その混乱の中、勇将・元信は討死します。

一方、岡部隊と同時に本丸から、北西に向かって出撃したのは、残る約500の兵をまかされた江馬(えま)直盛が率いる軍勢・・・本丸北西部の勾配は特に急になっており、断崖絶壁を綱づたいに降りていく彼らでしたが、その真下には、徳川方が構築した2重の堀が設けられているうえ、その場を守る石川康道隊と激突します。

さらに搦(からめ)手横を守っていた水野勝成隊、その東側を守ってした鈴木重時隊が、石川隊を加勢します。

なんせ、徳川方は総勢5000いますから・・・。

ここでは、徳川方の圧勝・・・江馬隊の中には、水堀にて溺死した者も多数いたのだとか・・・。

この間に、徳川方の正面部隊である松平康忠(家康の義弟)率いる部隊が大手門をぶち破って、城内に侵入し、城へと戻されつつあった、先の岡部隊の生き残りを討ち果たします。

もはや、城の北西部へ撃って出た岡部隊も江馬隊も全滅状態・・・しかし、この間にわずか50名の小隊で、西の丸から南西方向へ出撃した横田尹松(ただとし)・・・。

もちろん、徳川方の包囲は「鳥も通わぬ」わけですから、彼らの向かう方向にも、守りの兵はいたわけですが、その小隊ゆえのこまわりの良さをうまく利用し、彼らは、わざと徳川方の兵の少ない険しい山道を駆け抜けます

そう、彼らの使命は、敵を倒す事ではなく、この包囲網を突破する事・・・。

しかし、それも決死の使命には変わりません。

彼ら50名のうち、尹松を含む、わずか11名が信濃・伊那方面への脱出に成功し、甲府の勝頼のもとへと走ります。

尹松らから、高天神城・陥落のニュースを聞いた勝頼は、死を覚悟した壮絶な最期の一部始終を、ただただ涙を流しながら聞いていたと言います。

自分が唯一、父に誇れるこの城を失った勝頼の悲しみは、勇将・元信の死とともに、心に、深い傷を与えた事でしょう。

そんな勝頼が、妻子とともに、天目山にて最期を遂げるのは、ちょうど1年後の天正10年(1582年)3月11日・・・(3月11日参照>>)

長篠の合戦から、武田の衰退が始まったのだとしたら、この高天神城の戦いは、まさに、滅亡へのカウントダウンが始まった合戦と言えるでしょう。
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コメント

武田の滅亡を長篠合戦て思ってる人は多いですよね。かく言う自分も不意に聞かれたら、武田氏は長篠合戦で滅んだんじゃん!なんて言っちゃいそうです。それほどに大打撃を被った戦いだったのでしょうね。

投稿: マー君 | 2009年3月23日 (月) 00時11分

マー君さん、こんばんは~

そうですね、
私自身は、長篠の合戦は、言われているほどの織田&徳川連合軍の圧倒的勝利とは思っていませんが、勝頼と古参の家臣との確執が決定的となった事は確かだと思っています。

主君と家臣との間の信頼関係が崩れると、未だ兵農分離が確実に行えていない武田氏では、国人や土豪たちの離反が避けられなくなるのは必須・・・てな感じではないでしょうか。

投稿: 茶々 | 2009年3月23日 (月) 02時03分

おはようございます。
2ヶ月前に高天神城跡に行きました。
三の丸跡は、かなり前に観光化しようとした後の名残のようなもの(子ども向けに、穴から顔を出して記念撮影できる「小笠原長忠夫妻」の絵看板)が立っていて(;д;)、かなり興醒めでしたが、本丸跡からははるかに遠州灘が見えました。
また、西の峯にある二の丸跡には高天神社がありますが、その裏には切割や空堀も形を留めていました。大手門跡には大きな杉があり、のぼりの道も整備されていなければ子どもにはつらいかな、と思われる急な道で、攻めるには大変だろうと思われました。
下にあった案内板には、西の峰から「犬戻り猿戻りの険」として横田尹松の辿った道が示されていました。名前からして、かなりの険しさを思わせますね。
しかし、この広さに1000人が10ヶ月もいたら・・・かなりつらいと思います。と言うか、1000人すし詰めを想像してしまいました。ほんとに狭かったものですから。

投稿: おきよ | 2009年3月23日 (月) 09時02分

おきよさん、こんにちは~

へぇ、行かれたのですか・・・

相変わらず、実際に現地でご覧になった感想はリアルで魅力的です。

また、どこかへ行きたくなってきました~

投稿: 茶々 | 2009年3月23日 (月) 11時22分

初めまして。
歴史はちゃんと勉強するのが苦手だったので、気に入ったことがあった部分しか知りません。高天神城は、たまたま訪れてからすっかり気に入ってしまいましたが、何があったかは不勉強でした。こちらで、大変わかりやすく学ばせていただきました。
実は「城ラマ」という城と地形を再現したジオラマがあるのですが、第一弾が「長篠城」開発中の第2段が「高天神城」です。発売されたらこれを持って現地に行くのが楽しみでしたが、こちらのサイトを読みながら、当時の戦いを思い浮かべるのも楽しみになって来ました。

投稿: 業泣鬼 | 2014年8月12日 (火) 12時47分

業泣鬼さん、こんにちは~

>城と地形を再現したジオラマ…

なんか、その広告を見た事ある気がします。
ジオラマを造ると、城や周囲の様子が手に取るようにわかるでしょうね~

おっしゃる通り、妄想が膨らみますね~
ステキですヽ(´▽`)/

投稿: 茶々 | 2014年8月12日 (火) 15時04分

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