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2009年3月15日 (日)

江戸総攻撃の予定日に散った忠義の幕臣・川路聖謨

 

慶応四年(1868年)3月15日、大坂東町奉行や外国奉行などを歴任した幕臣・川路聖謨が自殺しました。

・・・・・・・・・・・

享和元年(1801年)に、豊後(大分県)日田の下級武士の家に生まれた川路聖謨(かわじとしあきら)・・・父は、とても実直な人で、しつけに厳しく、武士としての心構えを、息子に徹底的に叩き込むような人でした。

その父の教えに素直に答え、聖謨も、武士道を重んじる真面目で一所懸命な少年に育ちますが、いかんせん、彼の実家は、下級武士の中でも、さらに下のほうの身分でした。

12歳で、ちょっとだけマシな川路三左衛門の養子となって、その後、川路姓を名乗りますが、やはり下級であった事には変わりませんでした。

江戸時代・・・武士とは言え、それ相当の特別な家柄に生まれなければ、何もしないでの出世は望めません。

彼ら、下級武士は、とにかく猛勉強して、幕府がおこなう採用試験に合格し、その後、仕事を真面目に、かつ順調にこなし、成果をあげ、少しずつ出世していく・・・低い身分から脱出するためには、それしかありません。

そんな中、聖謨は17歳で勘定所の採用試験に合格し、勘定奉行所支配勘定出役という下級官吏からスタートします。

もともと、頭のいい人ですし、実父の教えを守り、合格後も努力を惜しまず仕事に励みますから、徐々に徐々にではありますが、やがては重要な役どころにつく事になります。

老中・水野忠邦の派閥に属していた彼は、その忠邦の失脚とともに、一時、左遷されたりもしましたが、それにもめげず仕事に励み、52歳で勘定奉行に就任し、500石の知行取りとなります。

これは、スタートが下級武士だった事を考えると、まさに、異例の出世と言えます。

常に努力していた、その真面目さがうかがえますね。

しかし、その翌年の嘉永六年(1853年)、幕府を揺るがす出来事が起こります。

ご存知、ペリーの黒船来航です・・・と、一般的に有名なペリーの名を出しましたが、以前、ブログに書かせていただいたように、わずか1ヶ月半遅れで、ロシアプチャーチン長崎に来航しています(10月14日参照>>)

少しだけ、ペリーが早かった事、江戸に近い浦賀に来航した事で、ペリーばかりが注目を浴びますが、この時、ロシア側との交渉に臨んだのが、本日の主役・川路聖謨でした。

彼は、もともと、仕事のかたわら、シーボルト鳴滝塾の卒業生をはじめ蘭学者・儒学者などが集う尚歯会(しょうしかい)という勉強会に参加しており、その会の高野長英らとの親交もあつく、西洋事情にもくわしかったと言いますので、その腕を振るえる大役に胸が躍った事でしょう。

そのプチャーチン来航のページにも書かせていただいたように、その後、長崎での交渉が難しくて場所を変えた事や、ロシア自身のお国の事情などで少し遅れはしましたが、安政元年(1853年)、聖謨の努力の甲斐あって、日露の国境などを定めた日露和親条約の締結にこぎつけました。

しかし、これが、彼の人生のピークでした。

この後、和親条約に続く、修好条約の締結に関して、朝廷の勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)をもらうために上洛するのですが、どうしても許しが得られなかったのです。

つまり・・・仕事に失敗してしまいました。

さらに、ちょうど起こった次期・将軍問題・・・当時、第13代・徳川家定の次ぎの将軍を決めるにあたって、紀州徳川慶福(よしとみ・後の家茂)を推す派と、一橋家徳川慶喜(よしのぶ)を推す派に、幕府内は真っ二つに分かれていたのですが、ご存知のように、第14代将軍は慶福に決まり、大老・井伊直弼(なおすけ)によって、一橋派を一掃する安政の大獄(3月3日参照>>)が行われます。

・・・で、一橋派だった聖謨も、安政六年(1869年)、隠居&蟄居(謹慎処分)を言いわたされてしまうのです。

聖謨・・・60歳の時でした。

「この平成の現代だって、定年は60歳・・・異例の出世もした事だし、ちょうど良かったんじゃない?」
・・・と思いますが・・・

現に、彼の多くの友人もそう思っていたようですが、何よりも、聖謨自身が、その事に納得していなかったようです。

その後、63歳で中風を患って、半身不随になった後も、外出時は必ず馬に乗り、従者を連れて、武士らしい姿での外出にこだわっていました。

かの友人から・・・
「もう、隠居してるんやから、もっと気軽な外出したら?」
と言われると・・・
「いつ、登城せよとの声がかかるかも知れぬ」
と言って、その後もずっと、現役時代のままの生活を続けていたそうです。

万が一、幕府に一大事が起これば、その身を投じて、将軍様に奉公する・・・彼の心の中は、下級武士から勘定奉行へと取り上げてくれた、幕府への恩義に満ち溢れていたのです。

きっと、武士=幕臣以外の自分の姿など、彼には考えられない事だったのでしょう。

やがて、聖謨・67歳・・・運命の慶応四年(1868年)3月14日

そうです。
昨日の西郷隆盛と勝海舟の会談です(3月14日参照>>)

彼は、この会談で、江戸城明け渡しが決まった事を耳にします。

昨日のページで書かせていただいたように、昨日の会談で正式に決定されたのは、この日=3月15日に決行される予定であった江戸総攻撃が中止になった事だけですが、降伏の条件などの話し合いとともに、江戸城明け渡しが話し合われた事は確か・・・。

書面での正式決定は、また後ほどですが、幕府に江戸城を明け渡す用意があり、新政府軍が攻撃を中止したとなると、武士たちの間では、「江戸城は明け渡されるのだ」というニュースとなって飛び交う事は当然です。

厳密には、まだ、しばらくの間、徳川家は一大名として残り、彰義隊(しょうぎたい)とのひとモンチャクもあり、鳥羽伏見に始まった戊辰戦争も、東北から果ては北海道まで続く事になるわけですが、実直な聖謨は、「ここで幕府は終った・・・」と考えたのです。

世紀の会談から一夜明けた慶応四年(1868年)3月15日・・・江戸総攻撃が予定されていたその日に、聖謨は、幕府とともに散る事を選びます。

あの幼い頃の父の教え通り、武士らしく、忠義の念を込めて・・・

しかし、半身不随となったこの身では、うまく切腹できないかも知れない・・・と、彼は、念のめ用意したピストルをかたわらに置きます。

彼は、あのロシアとの交渉の時、条約締結に喜んだプチャーチンが、「一緒に写真を撮ろう」と誘うと・・・

「これ、帰ってロシア人に見せるよね・・・なんか、俺みたいなブサイクが日本人の平均だと思われたらマズイなぁ」
と、冗談を言って、プチャーチンらを大いに笑わせたのだとか・・・

決意を固めた彼の脳裏には、その頃の活き活きと仕事をこなす自分が浮かんでは消えた事でしょう。

おもむろに刀を構え、見事、武士らしく割腹した聖謨は、そのまま、ピストルを手に持ち、喉を撃ち抜いて、自分自身にトドメを刺しました。

幕府の崩壊とともに散った川路聖謨・・・子孫に宛てたその遺書には、「忠義の心は片時も忘れないように・・」と書かれていたと言います。

♪天津神に 背(そむ)くもよかり 蕨(わらび)つみ
 飢えにし人の 昔思えば  ♪
    川路聖謨・辞世

・‥…━━━☆

そんな川路聖謨さんは、地方の役職につく事も多く、佐渡奉行奈良奉行などをこなしていた事で、その地方での逸話も多く残るかたなのですが、それぞれのエピソードは、また別の機会に書かせていただきたいと思います。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

この人の話し今までブログを読ませていただくまで知りませんでした、ひそかにいい話ですね。感銘を受けました。

投稿: minoru | 2012年3月14日 (水) 14時37分

minoruさん、こんばんは~

>ひそかにいい話…

そうなんです。
私も、「川路さん、いいなぁ」って思います。

現在、奈良の興福寺と猿沢池の間には、明治時代の奈良市民が建てた奈良奉行時代の彼の業績を讃えた記念碑があるのですよ。

「わずか5年間の奈良奉行職で、市民にそんなにも愛された人なんだなぁ」と感動します。
もう少し、調べて煮詰めてから、その事も、いつか書きたいと思っています。

投稿: 茶々 | 2012年3月14日 (水) 19時56分

はじめまして。
時々寄らせて頂いております。
自分のブログのネタに『今日は何の日だろう?』と、本日寄らせてもらったのですが、川路さんでしたかー。
 
川路さんの事は昔読んだ、歴史読本の別冊『ご臨終』という本で知りました。
確か"日本人最初のピストル自殺"とかかれていて顔写真も載っていました。
 
忠義の徳川家の武士だったと。
中風じゃなかったら最期まで切腹の形を取りたかったと。
 
真面目な性格でしたら当時の複雑な時代からすると"忠義の死"も納得ですが、最期は川路さんの"忠義"の行き場がなくなってしまったから…という気がします。
 
あ、何だか訳わからなくなりました(笑)。
今日の私のブログは川路さんネタにします。
長文失礼しました。

投稿: 霧端諒 | 2013年3月15日 (金) 08時54分

霧端諒さん、こんにちは~

幕末・維新は、ものスゴイ速さで世の中が変わっていきましたから…
川路さんのような、一本気でマジメで武士の中の武士のような人は、その速さに違和感を感じたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2013年3月15日 (金) 14時08分

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