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2009年3月28日 (土)

秀吉VS家康のにらみ合い~膠着・小牧の陣

 

天正十二年(1584年)3月28日、小牧長久手の戦いに出陣した羽柴(豊臣)秀吉が、小牧山城の北東・楽田城に着陣しました。

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織田信長亡き後、血族としてその後継者となりたい信長の次男・織田信雄と、臣下としてその後を引き継いでいきたい羽柴秀吉が戦った小牧長久手の戦い・・・

武将としては、あまり力のない信雄が、秀吉に匹敵する相手・徳川家康に援助を求めたため、この一連の戦いは、歴史上唯一の秀吉VS家康の直接対決となりました

天正十二年(1584年)3月13日、秀吉傘下の池田恒興(つねおき)犬山城・攻略(3月13日参照>>)で火蓋を切ったこの合戦は、信雄という真の信長の跡継ぎを看板に掲げた東海一の実力者の家康と、ライバルの柴田勝家を倒して(4月24日参照>>)畿内の中枢を押さえた秀吉との戦い・・・おそらく、勝ったほうが、今にも天下を治めんがばかりにあった、かの信長の位置に立つ事ができるのは明白です。

この戦いは、そういう意味で、全国の武将に大きな影響を与えた戦いでもありました。

もちろん、どちらにつくのか?という事です。

この時、家康は、次女・督姫(とくひめ)を嫁に出して同盟を結んでいた関東の北条氏直からの援軍を断りますが、一方では、いの一番に家康側に手を挙げた紀州(和歌山県)根来衆(ねごろしゅう)雑賀衆(さいが・さいかしゅう)とは、うまく連携を取り、畿内での彼らのゲリラ戦に悩まされる秀吉は、合戦の勃発後も大坂城を離れる事ができないでいたのです。

しかし、3月17日の羽黒での敗戦(3月17日参照>>)で、そうも言ってられなくなり、3月21日、秀吉自ら3万の大軍を率いて大坂城を出陣したのです。

もちろん、秀吉出陣のニュースを聞いた根来・雑賀衆は、翌日の22日には秀吉の南の最前線であった岸和田城を攻撃(3月22日参照>>)・・・その勢いで、26日には、大坂城近くにまで攻め上り城にいた女子供たちが近江(滋賀県)坂本まで避難する事態となります。

・・・が、さすがに城の守りを預かる武将も、蜂須賀家政(はちすかいえまさ)宇喜多秀家(うきたひでいえ)といった名将揃いとあって、この時は、根来・雑賀衆を追い返しています。

一方、近江を経由して美濃(岐阜県)に入った秀吉は、27日に犬山城に到着・・・到着後すぐに周囲を視察すると同時に戦況を把握し、天正十二年(1584年)3月28日小牧山城の北東約2kmのあたりの楽田城に布陣しました。

かたや信雄も、翌・29日に、伊勢長島から小牧山に移動し、家康と合流しました。

ここに、秀吉・8万と家康+信雄・1万6千は、わずかの距離を挟んだだけの一触即発の状態のまま、にらみ合う事となります。

・・・と書きましたが、以前の羽黒の戦いの後半にもチョコッと書かせていただいたように、ここでは、家康が、秀吉到着前の時間を利用して土塁などの構築を行い、完璧な守備を固めていたほか、お互いの出方をお互いが見極めようとしたため、大きなぶつかり合いはなく、いずれも小競り合い程度で、最初から最後まで、ほとんどにらみ合いのままでした。

一連の小牧長久手の戦いの中で、犬山城攻略から、ここまでを「小牧の戦い」と、後半の長久手と区別して呼ぶ場合もありますが、上記のように、ここ小牧では大きな衝突がなかっため、この小牧での事だけを区別する場合は、小牧の陣、あるいは、小牧の対峙と呼びます。

ところで、この小牧の陣・・・大きなぶつかり合いはありませんでしたが、そのぶん、水面下での戦いが繰り広げられていました

それは、悪口の言い合い・・・そんなん効果あるんかいな?と以前も書かせていただきましたが、複数の史料にこの事が記されているところから、実際にあった事はあったようです。

有名なところでは、徳川四天王のひとり・榊原康政檄文・・・
「秀吉は野人の子で、馬を引く小者でしかなかったのが、信長の恩で出世して一人前の武将になれたのに、信長が死んだとたんに、その恩を忘れて国家を奪おうとしている非道の男である」といった内容のもの・・・

これを、周囲にばら撒いて、秀吉の悪口を言いふらしたのだとか・・・

ただ、これは、榊原側の史料にしか書かれていないため、この戦いでの榊原の活躍を強調するための作り話であるという向きもありますが、一方では、数々のよからぬウワサに対して、秀吉が最前線の、敵からよく見える位置に登場し、「おのれら、これでも喰らえ!」と、相手にケツを向けて、「お尻ペンペン」をした・・・なんて有名な話も、『大三川志(だいみかわし)『常山紀談(じょうざんきだん)には見られます。

そこには、秀吉のほうからも家康への挑戦状を送った・・・とありますので、きっと、お互いにやってたんでしょうねぇ・・・。

ただ、このように、現地では、ちょっとトボけた感じのする小牧の陣ですが、冒頭に書いたように、未だ傘下に入っていない地方の諸大名にとっては、秀吉・家康、どちらの味方をするのかは、今後の人生に関わる一大事なわけです。

信濃(長野県)では秀吉側の木曽義昌上杉景勝が家康側の保科正直(ほしなまさなお)小笠原貞慶(さだよし)と、関東では秀吉側の佐竹義重が家康の娘婿の北条氏直と、四国では仙石(せんごく)久秀長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)と・・・そして、最も有名なところでは、秀吉の親友・前田利家VS佐々成政(さっさなりまさ)末森城の攻防戦(8月28日参照>>)があります。

このように、秀吉VS家康の火種が全国に飛び火する中、この現地でのこう着状態の悪口合戦にイライラ気味の二人が・・・

最初の口火こそ切ったものの、羽黒の戦いで手痛い負けを喰らってしまった池田恒興と森長可(ながよし・恒興の娘婿)・・・この二人を先頭に、汚名返上とばかりに突入していくのが、4月9日に勃発する後半戦・長久手の戦いという事なのですが、そのお話は・・・

・・・の、いずれかでお楽しみいただければ幸いです。
 

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コメント

こんばんは
秀吉VS家康!! 「かっこいいんだろうなぁ」と思いながら、読んでいましたが、とてもかっこ悪い・・・。
かっこ悪すぎる・・・お尻ぺんぺんに悪口の言い合い。戦国武将って感じしませんね。これは。
ちょっとガッカリしました。
しかし戦いは始まったばかり。続きを2007年2008年のもので見たいと思います。
これからも楽しい記事をどんどん書いていってください!もうすぐ中学生なので見る機会はへるかもしれませんが(ごめんなさい)

投稿: 力道山 | 2009年3月28日 (土) 20時05分

力道山さん、こんばんは~

そっか~
もうすぐ、入学式ですね。

実り多き中学生活でありますように・・・

時間が空いたら、また、遊びにきてください。

投稿: 茶々 | 2009年3月29日 (日) 00時44分

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