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2009年3月 4日 (水)

征隼人持節大将軍・大伴旅人と隼人族の悲しみ

 

養老四年(720年)3月4日、大隅隼人の乱の鎮圧のため、大伴旅人が征隼人持節大将軍に任じられました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

なんじゃら、かんじゃらと、スッタモンダのあった古代日本国でしたが、大宝元年(701年)の大宝律令(8月3日参照>>)で法律を定めて戸籍や土地を管理し、和銅三年(710年)には、唐にならった立派な首都・平城京もでき(2月15日参照>>)大和朝廷を中心とした律令国家は、ほぼ完成しました。

次ぎは、未だ従わぬ地方を配下に加え、より広範囲の中央集権国家にする事です。

都のある畿内から西へは、山陽道山陰道南海道西海道、東へは東海道東山道北陸道・・・当時、これらの七道を区分して支配を進めていた政府でしたが、東北地方の蝦夷(えみし・えびす)、南九州地方の隼人(はやと)は、最後まで、その支配に抵抗していた人たちです。

そのうち東北の蝦夷に対しては、すでに斉明天皇の時代(655年~661年)から阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して、日本海側を中心に新潟県秋田県あたりまでを探索させて、何度もちょっかいをかけていますが、その蝦夷平定を現実の物にしたのは、ご存知、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)・・・(11月5日参照>>)

田村麻呂が、蝦夷を征伐するという意味の征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、その後、蝦夷が平定された後もその名称が使用され、いずれは武家の棟梁を指す名称になる事はご存知でしょう(1月11日参照>>)

一方、今回の征隼人持節大将軍(じせつたいしょうぐん)・・・他にも、平安期にはいくつかよく似た名前の将軍職があったようですが、その後は使用されなかったのか、あまり聞きなれませんねぇ。

とにかく、読んで字の如く、こちらは、南九州地方の隼人を征伐するために派遣された将軍です。

隼人は、5世紀頃の仁徳天皇の時代の一時期に、大和政権に服属していた事がありましたが、その支配体制は完全ではなく、農業国家としての体制を進める大和政権と、稲作に適した土地があまりなかった南九州とでは、なかなか相容れる事ができなかったのです。

大和政権も、農業指導者を移住させるなどして、何とか、この地を律令体制の支配下に置こうとしますが、中国大陸との交易が盛んな南九州の住人たちが、ムリヤリ稲作に従事するより、交易に力を入れたほうが良いと考えるのは当然のなりゆきで、やがて、大和政権が、その支配を強化するに至って、彼らは抵抗するようになったわけです。

ただ、こちらの地方は一枚岩ではなく、その住んでいる地域によって、日向隼人(ひゅうがはやと)大隅隼人(おおすみはやと)薩摩隼人(さつまはやと)甑隼人(こしきはやと)などと呼ばれる小さな部族集団であったため、大和政権は、その一つ一つを順々に統治していくのです。

上記のように、彼らが小集団であったせいか、あまり大きな反乱にならず、各首長が治める地域ごとに都を配置するという形で、徐々に統治し、律令体制を整えていく事になるのですが、その中での今回の大隅隼人の反乱・・・。

養老四年(720年)の2月29日に、大隅国司の陽候史麻呂(やこのふみまろ)が殺害された事に単を発したこの反乱は、数千人の隼人勢が7箇所の城に立てこもり、1年半に渡って抵抗を続けた大きな反乱で、現在では、隼人の反乱と言えば、この養老四年の反乱の事を指すようです。

・・・で、今回、養老四年(720年)3月4日に、その国司殺害を受けて、かの征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人(おおとものたびと)さん・・・

このかた、あの万葉集の編者とされる大伴家持(おおとものやかもち)(8月28日参照>>)のお父さんで、私としては、将軍というイメージより、歌人としてのイメージのほうが強い人であります。

この大隅隼人の反乱の時にも、最初の5箇所の城を攻略して、残りの城の攻略を長期戦の持ち込む作戦に切り替えた8月12日、これからの事を副将軍たちにまかせて戦線を離脱・・・都に戻ってきています。

その後、大宰師(だざいのそち・大宰府の長官)になった事で、中央政界から一線を引く形となった彼は、山上憶良(やまのうえのおくら)らと親交を深めます。

多くの歌を詠んだのは、この頃で、それゆえ、将軍というよりも歌人としての印象が強いのでしょう。

とにかく、彼はお酒好き・・・そのお酒にまつわる歌は、現代のお酒好きにも通じるものがあり、とても面白いです。

♪あな醜賢(みにくさか)しらをすと
  酒飲まぬ人をよく見れば 猿にかも似む♪

「酒も飲まんと、かしこぶってるヤツって、猿みたいでメッチャぶっさいくやんけ」

♪なかなかに人とあらずは 酒壷に
  なりにてしかも 酒にしみなむ  ♪

「中途半端に人として生きるよりは、酒の入れもんになって、ず~と酒に浸かってたいわ~」

♪験(しるし)なき 物を念(おも)わず一杯(ひとつき)
  にごれる酒を飲むべくあるらし♪

「グダグダ悩むんやったら、一杯のにごり酒でも飲んだほうがマシやっ・・・て」

♪言はむすべ せむすべ知らず極まりて
  貴きものは 酒にあるらし  ♪

「言葉に出して言うすべも、なすすべもなく追い詰められた俺には、酒ほどえぇもんはないなぁ」

・・・って、どんだけ酒好きやねん!
ほんで、どんだけ、悩んどんねん!

実は、あの菅原道真の一件(1月25日参照>>)でもおわかりのように、やはり中央から地方へ派遣されるのは、長官と言えど、左遷です。

しかも、この時代は、家柄による昇進が一般的ですから、代々勇敢な武将として仕えてきた大伴家の自分が中央から追われたとなると、もはやお家は没落・・・復活は、ほぼあり得ません。

さらに、そんな没落必至の自分を慕って、はるばる大宰府までついてきてくれた奥さんを、到着後まもなく亡くしてしまい、旅人さん・・・昇進を断念の傷心です。

その悲しみのあまり、どうやら、晩年の彼は、酒好きの風流なオッチャンになっていたようです・・・おかげで、ステキな歌がたくさん残りましたが・・・。

ところで、先ほどの反乱を起した隼人の皆さんですが・・・

翌・養老五年(721年)7月7日に鎮圧された彼らを待っていたのは、征服者による卑劣な支配でした。

大隅の彼らだけではなく、南九州一帯の隼人たちの中の多くの者が強制的に中央に移住させられ、守護人(まもりびと)として宮殿の警備をする仕事や竹製品作りの仕事に従事させられました。

また、6年交代で土地の特産物献上するために上京し、天皇の前で舞いや相撲などを披露する事が義務づけられていたのです。

それに、先ほどの宮殿の警備にしても、ただの警備ではなく、犬の遠吠えのマネをするといったようなミジメなもので、天皇の前で舞う舞いも、カッコイイものではなく、どちらかと言えば恥ずかしい舞いだったそうで、中央の政権は、彼らをかなり差別的に扱っていたようです。

皆さんは、昔話としても有名な海幸山幸の神話をご存知でしょうか?

以前、【針供養】のページ(2月8日参照>>)で、チョコッとこのお話を紹介させていただきましたが、昔話の場合は、大抵、海の神の宮殿に行って宝物を持ち帰ってきた弟の山幸彦が、攻めてきた兄・海幸彦を、その宝物を使って散々にやっつけてしまうところで終っています。

しかし、『古事記』『日本書紀』では、この時に戦いに勝利した弟・山幸彦=ホヲリノミコト(火遠理命)の孫が初代の神武天皇で、その弟に征服されて家来となる兄・海幸彦=ホデリノミコト(火照命)の子孫が隼人族なのだと・・・

しかも、天皇の前で舞う舞いは、山幸彦の持ち帰った潮の満ち退きを自由に操れる宝物によって、海幸彦の一族が溺れさせられた時の状況を再現したものなのだそうです・・・ヒドイ( ゚皿゚)

日本書紀は、この反乱の勃発した年と同じ年に、古事記は、もう少し先に誕生していますが、もちろん、これは、征服された側の隼人族が、なぜ、そんなミジメな奉仕をさせられるのかを、もっともらしく説明するものだったのでしょう。

浦島太郎によく似たこの手の神話が、ポリネシアや南太平洋生まれの神話であった事は、よく知られていますが、かの隼人の人たちが、南方系の人だった事で、記紀神話にこの話を取り入れ、大和朝廷の中央集権を、より強固なものにしようとしたのかも知れません。

ひょっとしたら、大伴旅人が途中で都に戻ったのも、大宰府に左遷されたのも、坂上田村麻呂と同様に、中央の役人や官僚と、最前線の軍人との間にあった、彼ら隼人族の扱いについての意識の違いがあったのかも知れませんね・・・田村麻呂と蝦夷の場合と違って、こちらは、あくまで想像ですが・・・。

征服される者と没落する者・・・二者の悲しい結末が、涙を誘います(ノ_-。)

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奈良時代」カテゴリの記事

コメント

ここ二年ほど、愛読させてもらっています。

茶々さんとマー君さんのコメントがかなり好きです。

ところで質問なんですが、かの藤原の北家は今も脈々と続いているのでしょうか?

投稿: よろづ | 2009年3月 5日 (木) 04時37分

よろづさん、こんにちは~

藤原北家って、ものすごくたくさんに枝分かれしているので、子孫の方は、たくさんいらっしゃると思いますが、聞いていらっしゃるのは、「嫡流の家系が続いているか?」という事ですよね?

私も、全部調べた事がないので、いくつくらいのお家が現在も続いているのかわかりませんが、確か、元総理大臣だった細川さんの弟さんが、近衛家の養子になってらっしゃるので、少なくとも近衛家は続いていると思います。

また、調べてみますね。

投稿: 茶々 | 2009年3月 5日 (木) 09時08分

よろづさん初めまして。コメントを誉めていただき有り難う御座います。さて、神社関係者にも藤原家の子孫は結構いますよ。有名なところでは京都の平安神宮の宮司さんが九条家の御子孫でいらっしゃいます。また藤原北家の嫡流ではないかも知れませんが、奈良の春日大社の宮司さんも藤原家の末裔のお一人ですよ。春日大社は藤原氏の氏神なので宮司には藤原氏の末裔しか就けないって内規があるそうです。あと…藤原氏の末裔で作られた藤裔会ってのが有って春日大社に事務局があるんで、藤原氏のコト色々聞いてみたら詳しく教えてくれると思いますよ。

投稿: マー君 | 2009年3月 6日 (金) 09時49分

お返事、有難うございます。

私は無学であまり知識がないので、疑問なんですが、「藤原」という名字を名乗る末裔の方々はいらっしゃらないということなんでしょうか?

以前、茶々さんが、日記に書かれていた「姓と氏の違い」とも関連があるのでしょうか?

定額給付金が出たら、伊勢神宮か春日大社か、出雲大社にお出掛けしてみようと思っていたので、ちょうどいいかもしれませんね。

有難うございます。

投稿: よろづ | 2009年3月 7日 (土) 06時22分

あ、間違えました。

「姓・素性と苗字の違い」ですね。

投稿: よろづ | 2009年3月 7日 (土) 06時29分

よろづさん、お早うございます~

藤原北家の子孫と言えば、徳川時代にお公家さんだった人たちですが、あの明治の始めに「全員苗字をつけろ」っておふれが出た時に、お公家さんの中で、藤原という苗字にした人はいないらしいです。

なので、もし、つながりがあったとしても、かなり枝分かれした家系で無い限り藤原の苗字の人はいないと思われます。

投稿: 茶々 | 2009年3月 7日 (土) 08時44分

なるほど〜。

勉強になりました、有難うございます。

投稿: よろづ | 2009年3月 8日 (日) 06時05分

よろづさん、

楽しい旅行を満喫してきてください。

投稿: 茶々 | 2009年3月 8日 (日) 09時44分

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