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2009年3月20日 (金)

激戦!田原坂・陥落~薩摩の敗因は?

 

明治十年(1877年)3月20日、西南戦争の中で最も激戦だったとされる田原坂の戦いで、政府軍が田原坂を占領しました

・・・・・・・・・

西郷隆盛の設立した私学校の生徒らの暴挙から、明治政府に不満の持つ士族の反乱へと発展した西南戦争・・・(1月30日参照>>)

まずは、熊本城を落す事を目標に鹿児島を出陣した薩摩軍でしたが(2月15日参照>>)、その堅固な城郭と鎮台(政府陸軍)兵の頑張りに阻まれる中、次々と上陸する政府の援軍を迎撃すべく、熊本城には包囲の兵を残し、本隊は北上する作戦へと切り替えたところまでは、先日、書かせていただきました(2月22日参照>>)

そして、北上まもなくぶつかった植木の決戦に勝利した薩摩軍に、「現在、政府軍が高瀬(玉名市)に集結中」との知らせが入ります。

2月27日、その高瀬を攻略すべく向かった桐野利秋ら主力2800名が、高瀬近くで政府軍とぶつかります。

しかし、政府軍は鉄道と船による大量輸送で、次々と戦力を増強中・・・この日の桐野らは撃退され、その後も、なかなか高瀬を落す事ができませんでした。

そこで、薩摩軍は、ムリを承知での進軍よりも、今は、この一線を死守する作戦へと変更します。

今、この時点では、本隊は、熊本城よりも北に位置してるわけで、しかも、熊本城の包囲も解いてはいませんから、孤立した熊本城は、いずれ兵糧がなくなり、籠城も時間の問題となったところで城を占拠すれば、そこを拠点に反撃を開始する事もできますから・・・。

山鹿田原吉次(きちじ)河内海岸・・・この40kmにわたる一帯に防衛線を築く薩摩軍。

特に、田原~吉次にかけては防塁や胸壁なと堅固な対策をほどこしました。

しかし、それは政府軍も考えるところ・・・

逆に、政府軍から見れば、熊本城の兵糧が尽きるまでに、この一線を突破しなければなりません。

3月3日・・・政府軍は、田原坂と吉次峠に焦点を絞って攻撃を開始しました。

翌日の4日では、薩摩軍に吉次峠から撃退されたため、その後の政府軍は、攻撃目標を田原坂一本に絞り、この頃から、薩摩が誇る斬り込み作戦に対抗できるよう、士族出身者による抜刀隊を組織したという事です。

つい先日書かせていただいた佐川官兵衛もそうでしたが、この抜刀隊には、旧会津藩士を多く起用して、戊辰戦争の恨みとばかりに活躍させた・・・なんて話もありますが、確かに、官兵衛さんが、熊本城の救援に豊後街道をひた走ったのも、この頃ですね(3月18日参照>>)

一方の薩摩軍は、田原坂の両側が高い土手になっている事を利用して、そこを通る政府軍の兵士に頭上から銃撃を浴びせ、そのドサクサで斬り込み隊が突っ込んでいく・・・というやりかたで、しばらくの間は政府軍を蹴散らしますが、徐々に形成は不利になっていき、3月15日には、田原坂と吉次峠の中間にあった薩摩軍の要所・横平山を奪取されてしまいます。

・・・というのも、すでに政府軍は、「数に勝る」「最新鋭の武器」以外にも、新たな秘密兵器を持っていたのです。

以前、西郷が鹿児島を出陣した時点で、陸軍の山県有朋(やまがたありとも)が、熊本鎮台・司令官の谷千城(たにたてき)に、「絶対死守!」の檄文を送ったと書かせていただきましたが・・・つまり、電報・・・この時、情報をいち早く得られる通信網を、政府は確保していたわけです。

日本の電信技術は、明治二年(1869年)の12月に東京⇔横浜間で電報の取り扱いを開始したのを皮切りに、急速にその網を広げていき、明治八年(1875年)には、すでに熊本まで架設されていたのです。

以前、明治九年(1876年)に起こった神風連の乱のページで、殺害された種田政明の愛人・小波さんの電報が話題になったお話を書かせていただいたのを、覚えてくださってる方もいらっしゃるかも・・・(10月24日参照>>)

この西南戦争の時には、政府軍はその上陸とともに通信網の構築を行い、占領していった地に次々と電信を架設していったのです。

しかも、電報は暗号化されていて、薩摩軍が傍受しても、解読できないようになっていたのだとか・・・。

実は、この田原坂の激戦中にも、南下する政府軍主力部隊と同時進行で、南側からの上陸作戦が展開されていて、3月19日には、熊本城のある島原湾から宇土半島を挟んだ八代海州口海岸から上陸し、海岸の防備にあたっていた少数の薩摩軍を蹴散らして、その日のうちに八代(熊本県八代市)を占領してしまっていたのです。

上記の連絡網の事を考えれば、田原坂の政府軍・主力部隊にも、そして熊本城で籠城する谷司令官にも、この八代の占領が即座に伝わった可能性もあります。

それゆえ・・・なのでしょうか、政府軍は、その日、翌日の田原坂・総攻撃を決定したのです。

3月3日に始まって、激戦を極めた17日間・・・ほとんどの日が雨だった田原坂の激突。

やはり、この日も、どんよりとした視界の悪さ・・・そこにつけ込んで、政府軍は夜の間に田原坂の南側を迂回して南東側に回りこみ、夜明けと同時に奇襲攻撃を仕掛けました。

「こちらからの攻撃はないだろう」と少し油断していた七本(ななもと)台場の薩摩軍は、一気に崩れ、またたく間に敗走・・・その勢いで連鎖的に崩れ出す薩摩軍は、もはやどうしようもありませんでした。

明治十年(1877年)3月20日・・・田原坂は、その日のうちに陥落しました。

この時、報知新聞の記者として、西南戦争を取材していた犬養毅(いぬかいつよし)は、薩摩の敗因を「一に雨、二に赤帽、三に大砲」と報告しています。

上記の通り、激戦の17日間のほとんどが雨であったため、旧式の銃が主流だった薩摩軍は、湿気のため薬きょうに火がつき難かった・・・一方の政府軍の銃は、雨にも負けない最新の銃・・・。

そして、富国強兵で集められた農民中心の鎮台兵に比べて、士族中心で形勢された赤帽と呼ばれる近衛兵たち・・・

さらに、大砲の数は、政府軍が圧倒的に多かった・・・犬養の報告によれば、「薩摩軍は、大砲も小銃もほとんど撃つ事がなかった」と言います。

一方、田原坂を撤退した薩摩軍・・・政府軍と違って、こちらの情報網は、もっぱら人間による伝令だったため、戦いが終った後に、八代の占領を知る事になり、慌てて軍勢を南下させる事になるのですが・・・

そのお話は、4月15日の【熊本城救出作戦】でどうぞ>>
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