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2009年3月14日 (土)

西郷隆盛と勝海舟の会談~その内容は?

 

慶応四年(1868年)3月14日、新政府軍の江戸総攻撃を明日に控えて、東征大総督府・参謀の西郷隆盛と、幕府・陸軍総裁の勝海舟2日目の会談が行われました

・・・・・・・・・・・

慶応四年(1868年)1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いで、錦の御旗を掲げて官軍となった新政府軍・・・かたや、幕府軍の大将である第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が、単身にて大坂城を脱出し、江戸城へと戻った事により、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利に終ります(1月9日参照>>)

その後、東海道東山道の二手に分かれて東へと進軍する新政府軍ですが、特筆すべきぶつかり合いは、東山道側で起こった勝沼戦争(3月6日参照>>)くらい・・・新政府軍は、ほとんど戦いを交える事なく、東海道側は3月12日に品川へ、東山道側も3月13日に江戸に到着しました。

その間に、第13代将軍・徳川家定御台所(正妻)で薩摩藩の出身であった天璋院・篤姫が、同じ薩摩出身で東征大総督府・参謀だった西郷隆盛に手紙を出したり(2008年4月11日参照>>)、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の御台所で孝明天皇の妹であった和宮(静寛宮)橋本実麗(さねあきら・伯父)岩倉具定(ともさだ・岩倉具視の息子)手紙を書いたり、慶喜が朝廷に出す嘆願書の書き方の手ほどきをしたり(1月17日参照>>)と、使えるコネをフルに使って、幕府が戦う意志がない事をアピールします。

しかし、すでに、新政府軍は、3月6日の駿府城での参謀会議の時点で、江戸総攻撃を3月15日に行う事を決定してしまっていたのです。

何とか衝突を回避したい幕府陸軍総裁の勝海舟は、部下の山岡鉄舟(てっしゅう)益満休之助(ますみつきゅうのすけ)という手土産を持たせて、西郷のもとへと走らせます。

この益満という人物は薩摩の出身で、鳥羽伏見の戦いの前に幕府を挑発すべく江戸でテロを行っていた時に逮捕されていた人物(12月27日参照>>)・・・つまり、事実上の釈放みたいなモンなのですが、とにかく、益満を連れていったおかげなのか、山岡は3月9日に西郷に会う事ができ、江戸総攻撃を回避する六つの条件を持ち帰る事に成功しました(条件の内容は2007年4月11日参照>>)

しかし、上記のようにこの時点では、新政府の提示した江戸総攻撃中止のための条件を持ち帰っただけ・・・まだ、3月15日:総攻撃は回避されていません。

未だ、新政府軍は、江戸の市街地を焼き払いながら、まっしぐらで江戸城へと突入する作戦を決行するつもりでいました。

そこで、新政府軍が江戸近くへとやってきた時に、勝が西郷へ会談を持ちかけたわけです。

その会談が、3月13日と14日、2日間に渡って行われた有名な西郷隆盛と勝海舟の会見です。

一日目の13日は、高輪の薩摩藩邸で行われましたが、この時決定されたのは、天璋院・篤姫と和宮の身の安全の保証・・・つまり、「朝廷や薩摩に縁があるからと言って、彼女たちを人質として利用したりはしない」という事だけでした。

そして、やってきた2日目・慶応四年(1868年)3月14日の会談・・・もはや、総攻撃予定の前日・・・一刻の猶予なりません。

その日、田町(たまち)の薩摩藩邸にやってきた勝の前に現れた西郷は、いつも通りの落ち着き払った様子だったと言いますが、この時、勝が出した降伏条件は3つ・・・

  • 江戸城は田安家(たやすけ・徳川御三卿の一つ)預かりとする。
  • 現在、幕府が所持する武器・弾薬・軍艦などは、徳川の新しい石高が決まった時点で、それに見合う量を残し、新政府軍側へ引き渡す。
  • 徳川家が江戸にて巨大な大名として存続する事を保証する。

先ほどの山岡が持ち帰った新政府の六つの条件を確認していただければおわかりのように、とてもじゃないが、それとは似ても似つかない条件・・・ほぼ全面拒否に近いものでした。

もちろん、この条件を提示するにあたっては、勝も覚悟を決めていたようで、決裂したら、速やかに江戸市民をできるだけ避難させ、房総に船を集めて難民を救済する手はずもすでに整えており、なんなら、新政府軍が江戸の中心部に入った時点で、彼らが火を放つ前に、外側から火消しの親分たちに火をつけさせ、敵を孤立させてやろうというダンドリも組んでいたのです(1月23日参照>>)

しかし、勝の意気込みとはうらはらに、西郷はいとも簡単に「はい、わかりました」と言ったというのです。

えぇっ~?up
・・・と思ってしまいますね~

実は、私も、最初にこの話を知った時、「えぇ~?」って思いました。

一般的な印象では、西郷と勝の会見で、江戸総攻撃が回避され、江戸城無血開城となる・・・この二人の会見は世紀の会見!

しぶる西郷を勝が説得し・・・なんてシーンを想像していたもので・・・

ただ、あっさりめではありますが、確かに、世紀の会見には間違いないです・・・なんせ、明日の江戸総攻撃がなくなったのですから・・・。

そうなんです。

この西郷の「はい、わかりました」というのは、「明日の江戸総攻撃を中止します」という意味なのです。

つまり、この2日目の会談で決定した事は、3月15日の江戸総攻撃が無くなった=攻撃を延期した事だけで、それ以外の今後の事は、上記の条件も含め、すべて「相談してきます」と、西郷がこの日に返事をする事なく持ち帰っているのです。

そう言えば・・・考えてもみてください。

西郷の肩書きは東征大総督府・参謀・・・つまり、彼が独断で決定できる範囲は、「とりあえず、明日は攻撃をしない」という事だけでせい一杯、いや、むしろ、これでもムリめの決断です。

現に、もう一方の東山道東征軍・参謀の板垣退助などは、「なんで、そんな事、勝手に決めたんだ!」と怒り爆発でした。

実は、この会談の直前に、西郷は、木梨精一郎渡辺清左衛門という二人の部下を、イギリス公使のパークスのもとへ派遣して、「江戸の戦争でのケガ人の治療をするのに、医師や病院施設を貸してほしい」と頼みに行っていたのですが、きっちりと断られているのです、

いや、むしろ、怒られました。

イギリスをはじめとする欧米列強は、すでに幕府側が戦争を回避しようと恭順な態度をとっている事を知っていて、「それなのに、攻めるのは無法である!」と、皆、戦争に反対の立場をとっていたのです。

このままの状態で、江戸総攻撃をすれば、外国勢を敵に回す事になりますし、西から移動してきた新政府軍ですから、外国の施設が使えないとなると、けが人を収容する場所すらない事になってしまいます。

この事は、少なからず西郷の攻撃中止の決定に影響したと思われます。

なぜなら、その噛みついた板垣を抑えるのに、このパ-クスの意見を例に出して説得していますので・・・。

とにもかくにも、この3月14日の会談で、江戸総攻撃は中止され、その後、西郷と勝だけではなく、新政府・幕府の両方から、様々な人たちによる幾度かの会談がなされ、紆余曲折ありながら、徳川家の一大名としての存続や、江戸城明け渡しなどが決定していく事になるのです。

ちなみに、「池上本門寺と薩摩藩邸の両方が会談場所となっているけど、どっちが本当なの?」てな疑問をよく聞きますが、上記の通り、この13日と14日の会見は、どちらも薩摩藩邸で行われています。

ただ、本日書かせていただいたように、その2日間ですべてが決定したわけではないので、その後に行われた何度か話し合いの中には、池上本門寺での会談もあったようなので、どちらも本当であるという事のようです。
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コメント

こんばんは 今日は土曜日なので夜更かしで、高句麗の歴史についてしらべています♪
西郷さん 結構大胆・・・というか考えない人だったんですね
西郷さんといえば、なぞめいた人ですよね
本当の顔問題や生存説など。
このホームページは堅苦しい感じではなく、ストーリーのような、身近な感じでいいですよね
これからも ドンドン 調べます!

投稿: 力道山 | 2009年3月14日 (土) 22時56分

力道山さん、こんばんは~

そうですね。
西郷さんは、義に熱い人ですから・・・

この会談の後に行われた幾度かの会談の合間にも、「私情を挟んでしまうので、勝さんには会わないようにしている」と、友人の大久保利通に語っていますから、きっと、相手の立場に立って考える事ができる人で、どうしても鬼になりきる事ができない・・・それが自分の弱点である事も知っていたのでしょうね。

だから、「攻撃を延期する」という事だけを決定して、「他の事は、相談して・・・」というふうにしたんだと思います。

なるべく、私情を挟まないように・・・。

投稿: 茶々 | 2009年3月15日 (日) 00時58分

「龍馬伝」でこの場面に触れるでしょうか?
この会談が坂本龍馬暗殺の翌年なので。でもあのドラマは逸話や巷間とは違う展開・演出がよくあるので、最終盤は予想しない展開(スタッフが「最終版は岩崎弥太郎を軸にストーリーが動く」ような事をほのめかしたらしいです)と言う事も。最終回あたりで触れるのか、触れないで終わるのか。

龍馬伝に関して、いつも不思議に感じているのが、新聞の投書で好評意見が年配者ばかりで、若い世代の物がないのが不思議。今日の朝刊のテレビ解説欄の投書もそうでした。

投稿: えびすこ | 2010年6月 3日 (木) 08時56分

えびすこさん、こんにちは~

今回の龍馬伝は、龍馬の死を以って終らず、第1回のあの弥太郎パーティのシーンくらいまでやるんでしょうか?

それなら出てくるかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2010年6月 3日 (木) 13時34分

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