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2009年4月15日 (水)

西南戦争~熊本城・救出作戦

 

明治十年(1877年)4月15日、西南戦争で薩摩軍に包囲されていた熊本城に政府軍が入城・・・52日間にわたる熊本城・攻防戦が終結しました。

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明治十年(1877年)1月30日、鹿児島の私学校の生徒による政府火薬庫襲撃事件に単を発した、ご存知、西南戦争・・・(1月30日参照>>)

正々堂々と陸路での北上を決定した薩摩軍は、2月15日に鹿児島を出陣(2月15日参照>>)、2月22日には九州の守りの要である熊本城を攻撃しますが、天下の名城の守りに苦戦する中、政府の援軍が海路にて九州へ向かい、続々と博多から上陸しているとの情報を得て、一部の兵を熊本城の包囲に残し、本隊は、南下する政府軍を迎撃すべく、さらに北上する事となります(2月22日参照>>)

その後、政府軍に一線を越えさせてはならずと、山鹿田原吉次一帯の約40kmに渡って防塁を構築して備えを強化する薩摩軍に対して、3月の初め頃から攻撃を加えはじめた政府軍でしたが、3月18日に東側から熊本城の救援を試みる政府警視隊が薩摩軍の熊本城包囲隊に、二重峠にて攻撃を仕掛け(3月18日参照>>)ると同時に、翌・19日に海路にて迂回して、熊本城の南側にあたる八代海から上陸した別働隊・衝背軍が、八代(熊本県八代市)を占領した事で、政府軍は、3月20日に、田原坂(たばるざか)への総攻撃を開始・・・西南戦争の分岐点とも言える田原坂は、その日のうちに陥落しました(3月20日参照>>)

最先端の電信網にて連絡を取り合う政府軍に対して、未だ人による伝達に頼っていた薩摩軍は、少し遅れて、この八代の陥落を知り、慌てて軍を南下させます。

Seinansensouseifucc_2 ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

3月26日には、この薩摩の南下軍と衝背軍が小川(熊本県浮城市)にて衝突・・・その日のうちに勝利した衝背軍は、さらに北上し、負けた薩摩軍も北へ後退・・・

次の、3月31日の松橋まつばせ・熊本県宇城市)での衝突では、水田に海水を引き込んで、あたり一帯を水没させ、何とか防衛しようとする薩摩南下軍でしたが、ひき潮を利用して迂回した衝背軍に背後を突かれ、この松橋も落としてしまいます。

4月1日には宇土(熊本県宇土市)を落とした衝背軍は、その勢いのままの4月12日・・・いよいよ熊本城へと進軍します。

翌・13日・・・この時、南下軍の指揮をまかされていた薩摩軍・3番大隊長の永山弥一郎は、意気揚々と進軍する衝背軍を目の当たりにして、「この敗戦の責任は自分にある」とばかりに、買い取ったばかりの民家に火を放ち、壮絶な自刃を遂げました。

かくして明治十年(1877年)4月15日、1万数千の薩摩の兵に囲まれながらも、農民あがりの素人兵の集団であった鎮台(政府陸軍)兵とともに52日間耐え抜いた熊本城への包囲が解かれたのです。

この間、籠城する熊本鎮台の指令長官であった谷千城(たにたてき)は、敵に狙撃され、弾丸が喉を貫通するという重傷を負いながらも、運良く弾丸が気管を外れていた事で、1週間寝込んだ後、再び指揮をとるという激務をこなしていたと言います。

歴史にもしもは禁物ですが・・・
もし、この時の弾丸が谷の喉を貫き、彼が命を落としていたら、おそらく、政府軍が到着するまで持ちこたえる事はできず、熊本城は薩摩軍に奪われていたのでは?と推測する歴史家も多いのだとか・・・

そうなれば、当然、西南戦争はさらに長引き、泥沼を化していたかも知れませんね。

一方、熊本城を放棄した薩摩軍は、一旦、さらに南の人吉(熊本県・人吉市)に拠点を置きますが、ここも6月1日に陥落・・・その後、日向(宮崎県)を転戦するも、7月24日には都城が陥落、30日には宮崎も落とされ、翌月の8月14日には、本営の延岡も占領されてしまいます。

翌・8月15日、その延岡を奪回すべく、決死の戦いを決意した薩摩軍・・・ここで、この西南戦争で初めて、総指揮官である西郷隆盛自らが戦闘の陣頭指揮をとる事となります。

憧れの西郷の姿を目の当たりにして、奮い立ち、士気あがる兵士たち・・・

その戦いは、ひょっとしたら、西郷は、ここを最後の死に場所と考えていたのでは?とも言われるくらい激しい戦いで、薩摩軍3000人は大いに奮戦するのですが、結局敗退し、翌日には、西郷は、薩摩軍の解散を布告・・・

そのため、薩摩軍の多くの者が投降し、最終的に600余りとなった軍は、夜の闇にまぎれて、どこへともなく姿を消したのです。

・・・ですが、ご存知のように、まだ西南戦争は終りません。

この後、いよいよ城山の最終決戦!!(9月24日参照>>)
となるのですが、その前に・・・
この年が火星大接近の年だった事から話題となった西郷さんの噂(9月3日参照>>)についてもどうぞ。
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