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2009年4月 7日 (火)

桜花絢爛!醍醐の花見に行ってきました~

 

豊臣秀吉に思いを馳せながら醍醐の花見に行って参りました~

・‥…━━━☆

京都伏見近くにある醍醐寺(だいごじ)は、真言宗醍醐派の総本山

弘法大師の孫弟子にあたる理源(りげん)大師・聖宝(しょうほう)が、山岳信仰の霊山であった笠取山一帯に貞観十六年(874年)に創建しました。

しかし、何と言っても、この醍醐寺の有名どころと言えば、あの天下人・豊臣秀吉の醍醐の花見ですよね。

Daigonohanami800 醍醐の花見

その醍醐の花見が催されたのは、慶長三年(1598年)3月15日の事・・・。

その頃の秀吉は、この国のすべてを手中に治め、まさに、夢のまた夢の生活を送っていた事でしょうが、一方では、前年からおこなっていた2度目の朝鮮出兵(11月20日参照>>)も思うように進まず、イライラもしていたでしょうし、何より、自らの老いをひしひしと感じていたのかも知れません。
この年の8月に亡くなります8月18日参照>>

Daigosidaret600以前、秀吉の吉野の花見でも書かせていただいたように、お花見は見るタマフリ(2月27日参照>>)・・・活き活きと花を咲かせ、今盛りの樹木の発する色の波長を全身に浴び、あるいは、目から体内に取り込む事で、その生命力を分けていただこうというもの・・・。

お祝いというよりは、落ち込んだ時、停滞の時期に、運気を好転させるために行うのがお花見・・・まさに、この時の秀吉は、そういった思いがあったのでしょう。

「こんな時だからこそ盛大にやろう!」

その準備は、かなり前から行われたようです。

当時、ちょうど親交を深めていた義演(ぎえん)が、第80代座主を務める醍醐寺で花見を行う事を決定した秀吉は、自ら下見に赴いたと言います。

しかし、この醍醐寺・・・歴史はあるものの、応仁の乱の戦火に遭い、当時はかなり荒れ果てた状態だったのです。

秀吉は、建物を再建し、庭を整備し、自分のため・・・というよりは、周囲の皆をいかに楽しませるかに重点を置いて、自ら指揮をとりながら、この醍醐寺の修復にあたったと言います。

特に、三宝院の庭園は、基本設計をしたのも秀吉・・・桃山文化の華やかさを今に伝える見事なお庭です。
*お庭は撮影禁止ですので、その目でお確かめください。

かくして3月15日・・・

「そこに桜があったから花見をした」
のではなく、
「花見をしたいから、そこに桜を植えた」・・・

まさに奇想天外な発想で植えられた約700本の桜の下で、各大名を含む、従者1300人を従えて、盛大に行われた醍醐の花見・・・

Dscn7810at686 北政所・ねねを先頭に、淀殿・・・以下、側室の輿のあとには、あの前田利家の妻・まつの姿もあったとか・・・。

★醍醐寺では、毎年4月の第二日曜に、この時の花見を再現した『豊太閤花見行列』行われています。

当日の秀吉は、多くの女性たちと、多くの家臣に囲まれて、まさに、最後の一花を咲かせたといった感じであった事でしょうが、昨日の醍醐寺も、今盛りの桜が、人々を魅了していましたよ。

最も美しいポイントと言われる仁王門ですが・・・
やっぱり、最も、人の多いところでもあるわけで、平日とは言え春休み・・・人を、写さないように撮影するのは、ほぼ不可能の状態なので、仕方なく、こんなアングルで・・・

Dscn7830a800 醍醐寺・仁王門

秀吉ゆかりの三宝院は、建物内の見物も数珠つなぎで、波に乗って、何がなんやら、ワカラン間に出口のところまで来てしまいました~

三宝院の門内には、CMで有名(関西だけのCMだったらゴメンナサイ)な、クローンの桜と、DNA提供者の桜さんが・・・

Dscn7803a800 手前の左がクローンです

わたしも、従者を従えて盛大に・・・とは、いかないですが、豪華絢爛ならぬ桜花絢爛のタマフリをいただいて英気を養ってまいりました~といっても、昨日は、醍醐寺だけでなく、平重衡輔子さん(3月10日参照>>)を偲んでの日野一帯から奈良街道を通って、小野小町ゆかりの小野まで、全15kmほどを歩いてきましたので、ちょいバテ気味ではありますが・・・
 

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コメント

momokoだよん。
別に醍醐の花見に行ってきたのを聞いたから、ここに書くのではないけれど、、

実はあれからここに来るのは初めてなのm(__)m

そして、コメントあるところで、こんなことを書きたくはない(^^;)

茶々に恥を書かせるから(^^;)

わたしなんぞ、あんぐりして読んでいるだけです。
意見はでない。へえ。へえと読んでいるだけ。
いったい、どんだけ本を読んでんねん!
びっくりするわ。
なんやて。100万ビュー越え?
三年で。
そりゃ、まあ、こんなに詳しく書いていたら、見に来るわ。

今まで自分で歴史詳しい。と自負していてのがめちゃ恥ずかしい。

ちょっとは私がコメントできる簡単なレベルを書いてよ(^^;)
お願いだよん。

投稿: momoko | 2009年4月10日 (金) 23時21分

momokoさん、コメントありがとうございます

おかげ様で、ウレシイことに、もうすぐ100万アクセスの大台に乗れそうです。

歴史は深い・・・まだまだ知らない事ばかり・・・っというか、知れば知るほど、知らない事が増えていく・・・てな感じ・・・。

これからも、よろしくお願いしますね~

投稿: 茶々 | 2009年4月11日 (土) 02時06分

茶々さん、こんばんは!

さて、秀吉最晩年のイベント・醍醐の花見ですが、先日「秀吉が愛した桜~“醍醐の花見”物語」という番組を観ていた際に、秀吉の二大文化イベントの「北野の大茶会」とこの「醍醐の花見」を比べられ、前者の場合、秀吉は一般庶民に対し「一緒に茶飲もうぜ!」って感じのオープンさがあったのに対し、後者の場合は厳重警備で「関係者以外立入禁止!」なある特定者のみ限定された閉鎖性があったと説明されてました。そういう部分から、後者の段階では、権力者・秀吉として下剋上が終了した事を示しているのに対し、前者の段階は未だ乱世真っ只中で一般庶民に気を使わなければならなかった秀吉の姿が読み取れる…というんですね。

それと、この醍醐の花見と時を同じくする時期に、秀吉と家康との間で実は暗黙の了解事項が進められていたそうです。それは「秀吉が淀殿を家康に側室として進呈する代わりに豊臣家の安泰を約束させるというものだったとか―秀吉がもう少しだけ生き長らえていたら、実現していたかもしれませんよね。

投稿: 御堂 | 2011年4月 5日 (火) 01時00分

御堂さん、こんにちは~

>「秀吉が淀殿を家康に側室として進呈する代わりに豊臣家の安泰を約束させるというものだったとか…

そうです、そうです、
9月10日に祝言を挙げる事が決まっていたのを大野治長が…>>って話を去年の暮に書かせていただいたんですが、確かに、秀吉が意外に長く生きていたら事情はまた変わったかも知れませんね

投稿: 茶々 | 2011年4月 5日 (火) 14時32分

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