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2009年4月14日 (火)

本物か?ニセ物か?直江兼続の「直江状」

 

慶長五年(1600年)4月14日、今年の大河ドラマの主役・直江兼続が、西笑承兌に宛てて一通の手紙を送っています・・・これが、あの徳川家康を激怒させたと言われる有名な手紙・『直江状』です。

・・・・・・・・・・・

豊臣秀吉が亡くなって以来、五大老の1人であった上杉景勝は、京を離れる事もままならず、慶長四年(1599年)秋・・・やっと2年前に引っ越した(1月10日参照>>)会津に帰って、いざ、内政を行おとしたところへ、秀吉亡き後に実権を握りつつある徳川家康からの上洛要請・・・で、先日の4月1日、この上洛の要請を、景勝が断ったというお話をさせていただきました(4月1日参照>>)

そのページにも書かせていただいたように、その後、家康は、相国寺の搭頭(たっちゅう)豊光寺の僧・西笑承兌(せいしょうじょうたい)に頼んで、再び、景勝の上洛と釈明を要請する手紙を、家臣の直江兼続宛てに出させたのです。

その返事として、慶長五年(1600年)4月14日兼続から西笑承兌へと送られたのが、後に『直江状』と呼ばれる手紙です。

16か条からなるその内容を要約させていただきますと・・・

「ウチの景勝が上洛を延期してる事を、なんやかんや噂してはるみたいですけど、越後から会津へと引越しして間もなくに、秀吉はんが亡くならはって、とるもんもとりあえず上洛してから、去年の9月にやっと帰れたばっかりやのに、また正月に来いって言われても、ほんなら、いつ内政の事やったらよろしいねん。

しかも、ウチは雪国で、10月~3月は動きが取れん事も、東北の事知ってるヤツに聞いたらわかりますやん。

橋や道路を整備する事は、新しい領地を治めるには当たり前の事やし、田舎の武士が武器を集めるのんは、そちらさんら都会の武士が茶器を集めんのとおんなじですがな。
なんで非難されなあきませんのん?・・・だいたい、ウチの景勝とおんなじ五大老の1人である家康さんにゴチャゴチャ言われる筋合いのもんやおまへんやろ。

ウチの景勝は、秀吉さんの時代から律儀な人間で通ってて、それは今も変りません。

逆心がないねやったら、誓詞を出せ出せて言わはりますけど、今まで、何枚も書いた起請文はどないなってますのん?

逆心なんかあるわけないですやん。
ない以上は、上洛も、する必要おませんでっしゃろ?

だいいち、昨日まで逆心を抱いてたくせに、チャンスがなくなった途端に、今日は知らん顔して上洛して誰かさんにとりいったりするような恥もがいぶんもない人間とつき合う事は、ウチの景勝の性格に合わんのんですわ。

正月からこっち、へんな噂がたってんのは、勝手に誰かが言いふらしてるだけなんと違いまっか?
ちゃんと、確かめはりましたか?
それ、確かめてはれへんねやったら、家康さんがウソを信じ込まされてる事になりまっせ・・・世間は、どないな風に見ますやろな。」

長~い文章になってしまいましたが、もとの手紙も、かなり長いです。

ただし、現在複数伝わっている直江状ですが、現実にはすべて後世の写しという物で、本人直筆の原本は残っていません。

また、写しの中でも、内容が少し違っている物もあり、中には・・・
「PS:家康さんか秀忠さんが、こっちへ来はんねやったら、いつでもお相手しまっせ!」
という、メッチャ怪しい雰囲気の追伸つきのものもあり、ひょっとしてニセ物なのではないか?との疑いがかけられているシロモノでもあります。

上記の要約では、少し、挑戦的な表現にしてみましたが、実際の現存する写しの文章も、敬語の使い方が変だという事ですし、そのあまりの過激な内容から、疑いの目が向けられているわけですが、一方では、「当時の雰囲気からみれば違和感はない」と、直江状はホンモノという意見もあります。

歴史の専門家の間でも、ホンモノがニセ物かの意見が分かれているのですから、一般人の私が、その真偽を確かめる余地などないわけですが、この後、家康が会津への出陣を考えた時に、それに反対した五奉行の長束(なつか)正家増田(ました)長盛らの連判状に、「お怒りはごもっともですが・・・」とか、「田舎者の礼儀知らずやと思て・・・」といった文章が見られるところから、現存する直江状が、たとえすべてニセ物であったとしても、この時期に、兼続が、家康を怒らせるような過激な書状を送った事は確かであろうというのが、現在の定説となってします。

専門家のかたが、「過激な書状を送った事は確か」とおっしゃるのですから、おそらくは、その通りなのでしょうが、それならそれで、新たな疑問が湧いてくる事も確かです。

なぜなら、この時、家康は怒りたかった・・・つまり、この時期に家康を怒らせる事は、家康の思う壺であって、もし、本当に兼続がそんな過激な手紙を送ったのだとしたら、見事、家康の策略にハメられた事になります。

この後、「会津征伐」と称して畿内を離れる家康ですが、家康が本当に征伐したいのは、会津の上杉ではなくて、大坂の豊臣です。

しかし、実力はある家康ですが、地位としては未だ豊臣の家臣・・・いきなり豊臣に攻撃すれば、逆心の謀反人となるわけで、ここは、何が何でも豊臣家内で内紛を起してもらって、それに乗じて、自らが一方の豊臣の家臣として、もう一方の豊臣家を叩き潰して、豊臣の力を半減させてしまう事が肝心なのです。

そのために、わざわざ、加藤清正らから襲われた石田三成をかくまって、そのお命を助けてさしあげてるわけですから・・・(3月4日参照>>)

ここで、家康を怒らせて畿内から遠く離してしまう事は、そのスキに豊臣で内紛が勃発し・・・というシナリオに乗っかっちゃった事になりますね。

・・・とは、言え、やっぱり、この推理はアトヅケ・・・、この後の歴史を知っているから、それ以前の様々な家康の行動を関ヶ原へ結びつけて、家康のシナリオだったと言ってるわけで、ひょっとしたら、兼続は本気で家康と一戦かまえる気持ちで、かの書状を書いたのかも知れませんし、受け取った家康も、本気で会津を潰そうと出陣したのかも知れません。

現に、上杉の当時の領地には、この時の、家康の攻めに対抗すべく構築したであろう土塁や堀の遺構が残っている場所もあり、最大で東西3kmに及ぶ塁壁があたのではないか?とも言われています。

ただ、そうだとすると、またまた矛盾が生じてきます。

それは、畿内で三成が挙兵し、家康が小山で軍儀を行い、会津攻めを中止して、軍を西へ向けた時、上杉はなぜ追撃しなかったのでしょうか?

これだけ強気の挑発して、それだけヤル気満々であったとすれば、追撃しなかったのは完全にオカシイ・・・

ここで、家康を追撃していたなら、家康は江戸城から身動きがとれず、その後の関ヶ原での決戦は、西軍有利に進んだ事は、間違いないところでしょう。

この時、小山を撤退した家康が、自分が利根川を渡ったところで、後続部隊がいるにも関わらず、舟橋を切断してしまっている事も、家康が、それだけ、上杉の追撃を警戒していた証拠と言える行動かも知れません。

しかし、上杉は追撃しませんでした。

実は、この時、家康追撃を進言していたのがかの兼続・・・それを、「攻撃をしてこない敵を撃つ事は義に反するとして、かたくなに拒否したのが景勝だと言われます。

そうです。

かの上杉謙信に義があったかどうかは、また別の機会にお話しさせていただくとして、とりあえず、大河ドラマでは、兼続こそが亡き謙信の義を継ぐ者として描かれていますが(主役なので・・・)、どうやら、実際には、義を受け継いでいたのは景勝さんのほうだったようですね。

すでに、この頃には、景勝は、国政から外交までのすべてを兼続にまかせ、むしろ、謙信以来の家臣の水原親憲(ちかのりなどは「主君を軽んじて、自分の思いのままにしている・・・上杉も末だ」と嘆いたりなんかしてる状況であったはずなのですが、なぜか、この家康の追撃だけは、兼続の必死の進言にも首をたてに振らず、「家康が江戸に引き返した以上、コチラも引き返すのが道理というもんだ」と、景勝は、かたくなに拒否をしたと言います。

つまり、上杉も一枚岩ではなくヤル気満々だったのは、兼続だけ・・・という可能性もなきにしもあらず・・・といったところでしょうか。

さらに、ここでよく言われるのは、兼続と三成との間に、なんらかの密約があったのかどうか・・・という話し・・・。

確かに、秀吉の葬儀のために、景勝がずっと京都にいたという事は、当然兼続もいたという事で、そうなると、はなから秀吉のそばにいた三成とは、会津に帰る直前まで、密約を交わすチャンスはあった事になります。

お互い同い年で、けっこう気が合う二人だったと言われてますしね。

もちろん、その密約というのは、兼続が家康を怒らせ、怒った家康が会津へ出陣し、その留守の間に三成が伏見城を攻撃して、両方から挟み撃ち・・・というシナリオの密約という事になります。

とは言え、やはり、この時点での密約があったかどうかは、その証拠もない事で、空想の中にある出来事なわけで、おそらく、この後、長谷堂の戦い(9月16日参照>>)までには、なんらかの連絡をとったものと思われますが・・・

ただ、今年の大河ドラマでは、人気の彼が三成を演じている以上、何らかの密約があったという描かれかたをするのでは?・・・と、ちょっと期待してしまいますね。

やっと御館の乱(3月17日参照>>)が終った「天地人」・・・今年は11月で終っちゃうという事で、あと7ヶ月足らず・・・ちゃんと最後までやっていただけるのか、ちょっとばかり心配ながらも、楽しみに見させていただいている今日この頃です。
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コメント

本物・偽物…どちらの説も一応理にかなってるんでしょうが、決定的な論拠に至ってないって感じなんですね。今後の研究成果が待たれますね。或いは写本ではなく、兼継自筆の原本が発見されれば一番いいんですが………。

投稿: マー君 | 2009年4月15日 (水) 09時36分

専門家の間でも意見が分かれているので、新発見が無い限り決着は難しいでしょうね。

いっその事、直江状から連判状まで、全部が家康のでっちあげだったら、ドラマとしては盛り上がるんですけどねww

今年の大河の兼続さんは、ケンカを売りそうにもないやさしそうな善人なので、この手紙がどのように描かれるのか楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2009年4月15日 (水) 11時03分

直江状、そのものとは違うかもしれませんが、やはり似たような手紙はあったんでしょうね。
追伸の部分は後世に加えられたものかもしれませんが。
大河ドラマの兼続、御館の乱でも結構な活躍で、主戦派ぽっくも見えましたし、この直江状もどんな風に描かれるか、楽しみです。
今年は11月で終わるんですか、知りませんでした。

投稿: 桃源児 | 2009年4月15日 (水) 19時52分

桃源児さん、こんばんは~

昨今の大不況から、大河ドラマでは、人生後半の財政の建て直し部分をイチオシで描かれるのかと思っていたところ、意外と御館の乱が長かったので、11月までに入りきるのかどうか、ちょっと心配に・・・

なんか、今年は、12月にSPドラマとして「坂の上の雲」をやるらしく、そのぶん大河ドラマが早く終るというのを聞きました。

情報が間違っていたらゴメンナサイです。

投稿: 茶々 | 2009年4月16日 (木) 02時12分

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