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2009年4月23日 (木)

賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱

 

天正十一年(1583年)4月23日、先日の賤ヶ岳の合戦で、戦線を離脱した前田利家が、羽柴秀吉軍の先鋒として北ノ庄に入りました。

・・・・・・・・・・

ご存じ、賤ヶ岳(しずげたけ)の合戦・・・そのおおまかな流れについては2011年の4月21日>>「賤ヶ岳の七本槍」については2009年4月21日>>見ていただくとして、本日は、前田利家の賤ヶ岳合戦での行動について・・・

上記の両ページでも書かせていただいた通り、3月半ばから、こう着状態のにらみ合いが続いていたこの賤ヶ岳の合戦が、わずか最後の1~2日で・・・それも、なかなかの戦上手の柴田勝家が、羽柴(豊臣)秀吉に大敗を喫してしまうのには、いくつかのポイントがあります。

よく言われるのは、柴田配下の佐久間盛政がハリキリすぎて、勝家の撤退命令を聞かなかったため・・・というのを聞きますが、私としては、これは、負け戦という結果からくる後づけのような気もします。

確かに、果敢なアタックは、時として行き過ぎの状態となりもしますが、これが、勝っていれば、「よくやった!」と褒められるわけで、ある程度の勝算があるのであれば、100%の失策とは言い切れない部分があると思います。

・・・で、私が思う、
賤ヶ岳での戦況を左右した出来事は二つ・・・

その一つは、あの本能寺の時の中国大返しを彷彿とさせるスピードで秀吉が美濃(岐阜県)から戻ってきた(4月20日参照>>)

そして、もう一つは、前田利家の戦線離脱だと思っています。

その日、中川清秀大岩山砦を落とした盛政らは、そのイケイケムードのまま、勝家の撤退命令を聞かず、余呉湖の南岸に駐屯していましたが、日づけが4月20日から21日に変わろうとする午前0時頃・・・南側の遠くに明るく照らされた松明(たいまつ)を見て、秀吉が戻ってきた事を知ります。

そこで、さらに先頭に位置していた弟・柴田勝政(勝家の養子となっていたので柴田姓)撤退命令を出し、自らも撤退を開始したところを、徐々に到着した秀吉軍が追撃を開始しますが、これがけっこう秀吉軍の苦戦で、それほど成果をあげる事ができていなかったのです。

そこで、秀吉は、最も最前線の勝政隊だけにターゲットを絞って追撃・・・ここで、この勝政隊の追撃に大活躍にたのが、冒頭の賤ヶ岳の七本槍の9人で、この時、その勝政も討ち取られています。

ただ、このように、勝政隊こそは秀吉の追撃の犠牲となりましたが、この時点では、盛政の本隊は、未だ、ほとんど無傷の状態だったのです。

それを、くつがえしたのが、ここにきての前田利家の戦線離脱・・・利家は、この盛政隊の後方に位置していましたが、利家配下の2000ほどの軍勢がいきなり敦賀方面(北)へ向かって撤退しはじめたわけです。

つまり、南から1番=盛政、2番=利家、と並んでいる2番手の団体がサ~ッといなくなるという状況・・・これは、3番手、4番手に控えている諸将から見れば、まるで盛政隊自身が総崩れしているかのように見えてしまったんです。

・・・で、この状況を見た3番手・4番手の部隊からは脱落者が続出し、当然、ここも崩れていきますし、さらにその光景を見た勝家本隊からも、逃げ出す者が続出してしまう結果となり、最終的に、柴田軍全体が北へ向かって敗走する事になってしまったわけです。

考えようによっちゃぁ、秀吉軍の追撃よりも、前田軍の戦線離脱のほうが、影響が大きかったとも言えるわけです。

この件に関して、『川角太閤記』では、秀吉が美濃から戻る途中に・・・
「かがり火が見えたら合戦と考えといてちょ。
モロに裏切る事はできんやろけど、そのかわり参戦もしないでネ」

と、利家に連絡していて、利家も「OK!」の返事を出していたと記されていますが、中国大返しさながらの、猛スピードで駆け抜けているときに、こんな約束ができたかどうかは微妙なところではあります。

なので、この時・・・というよりは、むしろ、もっと以前から、秀吉と利家の密約ができていたと考えるのが妥当でしょう。

・・・でないと、まだまだ戦える状況・・・いや、むしろ、今から反撃に出ようという意気込みさえあった盛政を先頭に、1番手・2番手と並んでる中、いきなり撤退を開始したりしないでしょうからね。

ところで、この利家の戦線離脱・・・結果から見れば、完全に「裏切り」となるわけですが、はたして本当に、裏切り行為だったのか、どうだったのか?

答えは・・・NO!
裏切り行為ではありません。

それは、周囲の武将たちも、そして勝家自身も理解しているところです。

なんせ、勝家は、賤ヶ岳から撤退して北ノ庄に帰る途中、利家の息子・前田利長府中城に立ち寄って、先に戦線離脱した利家と、普通に対面しているのですから・・・。

この時、勝家は、「戦いで疲れたわが軍の兵士たちに、湯漬けを食わしてやってくれないか」と頼み、利家も、快く、「湯漬けと言わず、お酒もどうぞ」と、酒の肴まで用意しています。

そして、ひとときの話す機会にめぐまれた二人・・・

勝家は、利家に対して、戦線離脱に関しての事は一言も口にせず、ともに織田家の者として頑張った北陸での支配にからむ苦労をねぎらいながら・・・
「お前は、秀吉と仲がいいんだから、秀吉が誘ってきたら仲間になってやれよ」

そう言って、領国の北ノ庄へと戻って行ったのだとか・・・
カッコイイぞ!勝家(≧∇≦)

翌・4月22日に府中城を囲んだ秀吉は、利家を説得・・・そのまま、戦わずして秀吉に投降した利家は、天正十一年(1583年)4月23日、その秀吉軍の先鋒として、勝家の領地・北ノ庄へと入ったのです。

・・・で、なぜ、この利家の行為が裏切り行為とはならないのか?

それは、勝家と利家は、ともに織田信長の家臣という同等の立場にあったからです。

信長が、当時、越前を支配していた朝倉義景を滅ぼし(8月6日参照>>)、その朝倉の領地であった場所を、家臣である勝家が賜った時、同時に、利家と佐々成政不破光治(ふわみつはる)3人も越前の一部に領地を与えられ、一家臣から大名へと出世しています。

ただ、独立した大名ではあるものの役職は、勝家の与力・・・つまり、織田家の北陸支部長である勝家の指揮下で、その手伝いをする役職なわけで、指揮・命令系統は受けるものの、勝家の家臣ではなく、主君は信長・・・つまり、織田家本社から北陸支部への出向みたいな事になるのです。

ですから、さきほども書いたように、勝家と利家は、同じ信長の家臣という立場で、これが、北陸での一向一揆に再び火がついて、その一揆軍を制圧しなければならないというような時なら、利家は勝家の命令を受けて、ともに織田家として戦わねばならない立場にありますが、今回の場合は、戦う相手である秀吉も、織田家の家臣なわけで、あくまで、織田家内のトップ争いなのです。

家臣同士の織田家トップ争いなら、同じ家臣である利家は、どちらに味方しようが本人の自由・・・という事になります。

それは、おそらく、利家以外の、秀吉の味方となった織田家家臣たちも、同じであった事でしょう。

なぜなら、この後、北ノ庄城が落城しようとした時、秀吉に味方した武将たちの間で勝家の助命運動なる物が巻き起こっているからです。

利家を含む、多くの信長の家臣たちは、これは、織田家家臣による主導権を握るための争いであり、勝負がついたところで、また、もとのさやに納まると思っていたのかも知れません。

ただ、秀吉だけには、すでに、天下統一へのシナリオが見えていたのかも知れませんが・・・。
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戦国・桃山~秀吉の時代」カテゴリの記事

コメント

毎日、欠かさず訪問して、応援してます~
今回の「いくさ場の光景」はぜひ入手したいと思いました~。
私のブログは歴史とは関係のないバイクの物ですが、勝手に「お気に入り」に登録しています。(富山県在住)

投稿: 山は緑 | 2009年4月24日 (金) 08時26分

山は緑さん、コメントありがとうございます。

わぁ!・・・富山のかたですかぁ?
ホタルイカ・・・そろそろ、シーズン最後ですね~
大阪に帰ってきてから、ホント、富山のお魚のおいしさを再確認しています・・・
やっぱ、キトキトは違いますww

ところで、上記の山は緑さんのコメントで、大阪城のサイトから図録を購入できる事を思い出し、追記させていただく事にしました。

重ね重ねありがとうございましたo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2009年4月24日 (金) 16時00分

 リンクありがとうございます~
いつもとは違い自宅のPCからの訪問です。
たぶん、呉羽山より東側に住んで居られたようですね~。
 ご丁寧なごあいさつ、痛み入ります~ そして、お礼が遅れましたことをお詫びいたします~。これからもがんばってください!
PS:トラックバックってこうなるんだぁ~って分かりました(重ね重ねすみません~)
では~失礼します

投稿: 山は緑 | 2009年4月27日 (月) 19時02分

山は緑さん、コメントありがとうございます。

お察しの通り、富山市内に住んでおりました。

呉羽山で東西の文化が分かれる・・・これも、富山に行って初めて知りましたww

私は、富山の事を「日本のイスタンブール」と呼んでました。
まさに、文明の十字路です。

投稿: 茶々 | 2009年4月27日 (月) 22時51分

ご無沙汰しております o(_ _)oペコッ
来年の「江 姫たちの戦国」では必ず出てくる前半のハイライトの1つですね。
前田利家は「槍の又左」と言われたくらいの槍名人ですね。
そろそろ来年の主要配役・第1次発表だと思います。誰が出るか楽しみです。

投稿: えびすこ | 2010年4月11日 (日) 16時43分

えびすこさん、こんばんは~

落城の際のお市の方との描写も登場するのでしょうか?
楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2010年4月12日 (月) 01時55分

そういえば、「江 姫たちの戦国」ではこのところ出ていないですね。ちょっと最近の大河ドラマでの、前田利家の登場を振り返ってみました。
「利家とまつ」では主人公だから毎回出るのは当たり前、「功名が辻」では1回登場してのみ、「天地人」では豊臣秀吉の関白就任あたりから出ていました。
今年の大河ドラマでは影が薄いですね。
演じる和田さんの仕事の関係でしょうか?
もう少しすると「重役」になるんですが。
「秀吉に利家あり」と言うのが、歴史好きの発想ですがね。

投稿: えびすこ | 2011年4月26日 (火) 17時54分

えびすこさん、こんばんは~

これまでの枠にハマらないのが、今回の「江」ですから…

何がどうなるやら、予想不可能ですね。

投稿: 茶々 | 2011年4月26日 (火) 18時38分

NHK大河ドラマの主人公は、「若い時代に努力して出世した人」が主人公になるのが、意外と少ないような感じがします。
視聴者が努力を感じる事がない主人公(「努力」の解釈にもよる)が、なんとなく多い気がします。
前田利家や山内一豊は努力した人だと思いますが、女性では北政所は若い時代に努力していますね。ただ、「労せずして功を得る」と言うのはないと思います。

投稿: えびすこ | 2011年4月27日 (水) 18時42分

えびすこさん、こんばんは~

龍馬伝の時に、スタッフさんが「もはや出るべき人が出尽くした感がある」みたいな内容の事をおっしゃってましたが、個人的には、もっと、いろいろな人を主人公にしていただきたいなぁ~と思います。

投稿: 茶々 | 2011年4月27日 (水) 23時41分

全然、関係ないのですが、富山には日本のイスタンブールあるんですか?

投稿: minoru | 2014年4月24日 (木) 04時11分

minoruさん、こんにちは~

富山にイスタンブールがあるのではなく、「富山がイスタンブールみたいだ」という意味です(*´v゚*)ゞ

イスタンブールは、ヨーロッパとアジアが結ばれるシルクロードの途中にあって、ちょうど、西洋文明と東洋文明が混ざり合う地点だった事から、古くから「文明の十字路」って呼ばれたりしてたんですね。

…で、富山は、ちょうど西日本の文化と東日本の文化が混ざり合う地点という意味で、イスタンブールみたいだなと思った次第です。

富山では、カップうどんが東仕様(カツオ出汁の濃口)と西仕様(こぶ出汁の薄口)の両方売ってたりとか、トコロテンにお酢(関東)と黒みつ(関西)の両方がついてたりするんですよ。

まぁ、住んでたのは10年以上前なので、今もそうなのかはわかりませんし、ずっと住んでおられる方は、それが当たり前なので、そんな風には思っておられないかも知れませんが…

投稿: 茶々 | 2014年4月24日 (木) 12時48分

つまらない質問に丁寧にありがとうございます。イスタンブールは7年前に行った事があります。魅力的な町でした。富山がイスタンブールみたいなのですね。ぜひ、カップうどんとところてんの両方を比較したいです。でも、ところてんは絶対黒蜜でしょ!お酢なんて!!

投稿: minoru | 2014年4月24日 (木) 14時16分

minoruさん、お返事ありがとうございます。

私も、関西人なんで、トコロテンは黒蜜で食べる物だと思っていたのでビックリでした。

あと、「ちくわぶ」というのも富山で初めて見ました…関東ではおでんに入れるそうです。

おでん材料と言えば、「がんもどき」と「ひろうす」が混在してますが、牛すじの串指しはあります。

投稿: 茶々 | 2014年4月24日 (木) 15時09分

茶々様、コメント返信ありがとうございます。返信読みながら、日本って国土は狭いけど、本当に一つ一つきめ細かい、配慮があって、土地ごとに違いがあって、また同時に美しい国だと思います。それと、「ちくわぶ」ってはじめて聞きました。いろいろありますね。韓国にいた時は「韓国式おでん」よく屋台で食べました。日本と似ていますよ(外国にしては~という意味です)でも、日本って東と西で全然違いますもんね、韓国はソウルとプサンはやはり違いますよ、東京と大阪とは言いませんが、似たものあります。首都と第二の都市の持つ関係って宿命かもしれません。

投稿: minoru | 2014年4月25日 (金) 06時43分

minoruさん、こんばんは~

奈良→京都→東京と、首都がどんなに変わろうと、大阪は永遠の2番手ですが、私自身は、その位置が心地よいです(*^-^)

東西の文化の違いはおもしろくて興味深いです。

投稿: 茶々 | 2014年4月26日 (土) 00時50分

難波宮ってありませんでした?小学校の遠足で聞いた覚えが。何はともあれ大阪!でも、今回の出張は東京。

投稿: minoru | 2014年4月26日 (土) 14時58分

minoruさん、こんにちは~

>難波宮って…

アハハ…一時だけ(*´v゚*)ゞ。。いや、大化の改新の時と天平と…前期後期の2回ですが、それを言うと、仁徳天皇の時代の高津宮も大阪なので、主な都という感じの広~いお心で受け止めていただければ…(*_ _)人

出張、お気をつけて…おはようお帰りやす(←「いってらっしゃい」の大阪弁です)

投稿: 茶々 | 2014年4月26日 (土) 16時09分

実はそんなにあったんですね、高津宮ってはじめて聞きました。今回は久しぶりに帰国なのに大阪素通りです。

投稿: minoru | 2014年4月29日 (火) 15時56分

minoruさん、こんにちは~

まぁ、ほとんど伝説のお話ですが、意外と大阪は、奈良や京都よりも歴史が古いんですよ(*^-^)

なんせ、神武天皇が上陸した地ですから…

投稿: 茶々 | 2014年4月30日 (水) 09時42分

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