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2009年5月 6日 (水)

奮戦!薄田隼人~道明寺・誉田の戦いIN夏の陣

 

元和元年(慶長20年・1615年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、薄田隼人兼相が討死を遂げました。

・・・・・・・・・・

薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)は、講談本に描かれた剣豪・岩見重太郎(いわみじゅたろう)同一人物とも噂され、その生年も含め、謎の前半生を送った武将・・・。

しかし、「柔術・兼相流」の開祖「剣術・無手流」の開祖、などどいう肩書きを見ると、その猛将ぶりは、さぞかし・・・との期待を抱かせてくれる人でもあります。

そんな彼が、歴史の舞台に登場するのは、あの朝鮮出兵=慶長の役の頃・・・当時は、豊臣秀吉の馬廻りを務め、後に豊臣秀頼に仕えて3千石を有したと言いますが、ウソかマコトか、あの大坂冬の陣(11月29日参照>>)の開戦時の11月19日には、娼家で女遊びをしていたため、自らが担当する砦の防御に間に合わなかった・・・なんて、ある意味、豪快なエピソードも残っています。

・・・で、その大坂冬の陣後の和睦交渉の末(12月19日参照>>)、外堀を埋め立てられ、裸城(はだかじろ)になってしまった大坂城に、再び、徳川家康が迫る大坂夏の陣の勃発となるわけですが、その流れについては、一昨年の5月6日のページで見ていただくとして・・・(2007年5月6日を見る>>)

この日、裸城同然の現在の大坂城では、籠城戦は不利と判断した大坂方・・・真田幸村後藤又兵衛基次らは、家康本隊が大坂にやって来る道筋で待ち伏せしようと、道明寺・誉田(ほんだ)へと撃って出ます。

第一軍として、先に向かったのは、後藤又兵衛・・・(又兵衛に関しては4月30日参照>>)

薄田隼人は、3千の兵とともに、その第二軍として、ここ道明寺口にやってきます。

ところが、到着してみると、すでに戦闘は終わり、親友の又兵衛は討死した後・・・敗れた大坂方の兵が、こちらに向かって逃げて来ているところで、それを追って来た伊達政宗水野勝成本多忠政らの軍勢と、彼は、相対する事になります。

もはや、親友の死の感傷に浸っているわけにはいきません。

「我こそは当手の大将・・・」
と、大きく名乗りをあげ、大長刀を振り上げながら集団の中に踊り出て、群がり来る敵を斬っては捨て、斬っては捨て・・・

冒頭に書いた通り、武勇優れた隼人は、その配下の者もスゴ腕揃いだったもんだから、「これは強敵だ!」と感じた伊達隊の先鋒・片倉小十郎重長は、彼らの側面から、鉄砲隊による一斉銃撃を加えます。

嵐のような銃撃に、一旦兵を退いた隼人は、高台に上り戦況を見据え、やがて、再び、決死の戦いに挑みます。

次の激戦で長刀が折れた彼は、槍に持ち替え、またまた突いては捨て、突いては捨て・・・しかし、蹴散らしても蹴散らしても、次々に新手の兵が襲い掛かってきます。

槍も使い物にならなくなってからは、三尺六寸の大太刀を振りかざし、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・

鬼神のごとく戦場を駆け抜ける姿に、後に鬼日向の異名で知られる事になる水野勝成が、「もう、誰でもえぇからアイツを討ち取れ!」と、自軍に檄を飛ばします。

すると、水野隊から1人・・・川村新八なる者が飛び出し、馬上の隼人めがけて斬りつけました。

その身を反らせてかわした隼人は、すかさず、大太刀を新八の頭上に振り下ろしますが、鉄の兜がそれを阻み、カチンと火花が散って押し戻され、バランスを崩します。

それを見たた新八は、ここぞとばかりに、隼人の足を掴み、馬から引きずり下ろさんばかりにしがみつきますが、逆に隼人は、新八の体をグイッと引き上げ、その首をねじ切る勢い・・・。

そこへ、同僚の危機を見かねた中川島之介なる者が、隼人の馬をめがけて槍を突きたて、馬の前足が、ガクッと落ち、隼人は、ゴロンと転倒します。

しかし、それでも新八の首を離さず、さらに、馬乗りになったうえ、島之介をも引き寄せ、二人をもろともに・・・

そこへ、勝成の小姓・寺島助九郎が、太刀を振り上げ、二人の馬乗りになっている隼人の足に斬りつけ、その足を斬りおとします。

痛みにのけぞる彼を、新八&島之介が二人同時に胸と胴を貫き元和元年(1615年)5月6日剣豪・薄田隼人は、命果てました。

・・・とは言うものの、また別の史料では、薄田隼人を討ち取ったのは渋谷右馬允(しぶやうまのすけ)なる人物・・・という記述も見え、上記のあまりの細かな描写も、とても事実とは言い難い範ちゅうの物である事は確かです。

・・・というのも、冒頭の岩見重太郎と呼ばれた時代の武者修行&諸国漫遊の伝説めいた過去も含め(岩見重太郎については9月20日参照>>)、薄田隼人という人は、一昔前の少年たちにとって、あこがれのヒーロー

日本に、アニメというジャンルが生まれる前の世代にとって、彼は、鉄腕アトムであり、ドラゴンボールの悟空であったわけですから、より強く、よりかっこよく、少年たちが胸躍らせるヒーローとして、ちょっとだけオーバーに演出してしまったのも、歴史の専門家ではない私にとっては、うれしい創作・・・と言える範囲内のもの。

できれば、再び、伝説のヒーローとして、ブラウン管・・・いや、液晶orプラズマの中で薄田隼人の大活躍を見てみたいものです。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

拝啓、いかが お過ごしでしょうか。

 私は、薄田 浩二 (susukida koji)と申します。 長崎県在住の建築構造設計事務所を今月設立したものです。 ( アルバ設計室)

私の祖父は、長崎の島原出身です。
島原は、島原の乱にて住民のほとんどが
徳川幕府にて殺害され、私の祖先は岡山からその後移住してきたらしいのです。

もしかしたら、薄田隼人は生きのびて、落武者として 移り住んだのかもしれません。

岡山には、薄田泣菫という有名な詩人(薄田隼人の弟の子孫)が おりました。

   2009.5/9 薄田 浩二


投稿: 薄田 浩二 | 2009年5月 9日 (土) 17時18分

薄田 浩二さん、コメントありがとうございます。

生存説は英雄の証・・・

今のところ存じ上げませんが、これだけの英傑ですから、どこかに薄田隼人さんの生存説も残っているかも知れませんね。

また、情報を得ましたら、ブログでご紹介したいと思います。

投稿: 茶々 | 2009年5月 9日 (土) 23時11分

隼人を討ち取ったのは水野家家臣、河村重長です。結城藩士だった河村家には
幕末まで薄田隼人を討ち取った槍と
家康から下賜された陣羽織がありました。祖母から聞いた話です。

投稿: | 2010年2月26日 (金) 22時14分

>隼人を討ち取ったのは・・・

情報ありがとうございます。
いろいろな説があるのですね~

薄田さんは、岩見重太郎も含め、謎の多い人ですから・・・

投稿: 茶々 | 2010年2月26日 (金) 23時45分

薄田隼人について興味をもち、たどり着きました。
離別した父の姓が、薄田だったので。


また詳しい情報あればお願いします。

投稿: 尚子 | 2014年9月26日 (金) 15時21分

尚子さん、こんばんは~

ご先祖様かも知れないのですね。。。
それなら、調べていくうちに、どんどん楽しくなっていくと思いますよ!

投稿: 茶々 | 2014年9月26日 (金) 18時21分

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