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2009年5月30日 (土)

神様・仏様&昔話・伝説集

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このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別に記事へのリンクをつけたまとめページ=目次です。

今回は、重なってる部分が多い【神様・仏様】【昔話・伝説】をピックアップさせていただきました~

他のテーマと重複している記事もありますが、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

・‥…━━━☆

★神様・仏様

●稲荷信仰
 【初午の日と稲荷信仰】

●神様が留守になる神無月
 【留守番役の神様は?】

●四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)
 【究極の魔界封じの都・平安京誕生】

●七福神
 【いい夢見ろよ~初夢と七福神のお話】

●鬼子母神
 【鬼子母神のお話】

●スサノヲのミコト
 【茅の輪くぐりのお話】

●コノハナサクヤヒメ
 【異常気象と富士山信仰】

●大物主神
 【運命の赤い糸の伝説・・・その由来は?】
 【オオクニヌシとネズミの関係】

●金毘羅
 【「金毘羅?」「金刀比羅?」~こんぴらさんのお話】

●愛宕神社
 【愛宕神社のお話】

●味噌天神
 【お味噌の歴史と味噌天神の話】

●観音
 【観音様のお話】

●閻魔大王
 【半年に一度・地獄の釜開き】

●不動明王
 【不動明王のお話】

●達磨大師
 【ダルマさんのご命日】

●千手観音
 【千手観音の手は千本あるの?】

●お地蔵様
 【お地蔵様のお話】

●吉祥天
 【吉祥天女と結婚?~古本説話集より~】

●庚申講・庚申待ち
 【思いは遥かシルクロードへ…古き良き「庚申待ち」】

●火の神・カマド神・ひょっとこ
 【火の神・カマド神~ひょっとこと竜宮童子のお話】

●角大師&おみくじの元祖
 【延暦寺・中興の祖&おみくじの元祖…慈恵大師良源】

●天理王命
 【中山みきと天理教】
  

★伝説・昔話・説話

●浦島太郎(京都府丹後地方)
 【浦島太郎の変貌~開けてびっくり玉手箱】
 【丹後風土記の「浦の島子」の物語】

●海幸・山幸
 【針供養の期限と針のお話】

●河童
 【河童忌なので、河童のお話】

●両面宿儺
 【異形の怪物・両面宿儺の正体】

●余呉の羽衣伝説(滋賀県・余呉地方)
 【余呉の羽衣伝説】

●雀の瓢箪~「腰折雀」「舌切り雀」(滋賀県・湖北
 【滋賀県・湖北の昔話~「腰折雀」と「舌切り雀」】

●比良の八荒(滋賀県・琵琶湖)
  【比良八講荒れじまい~近江の昔話】

●亀井の尼(今物語)
 【天王寺七名水と亀井の尼の物語】

●跡かくしの雪(京都府・兵庫県丹波地方)
 【今夜は丹波に雪が降る~弘法大師の伝説】

●桃太郎(岡山県吉備地方)
 【昔話・桃太郎と製鉄の関係】

●田中広虫女(日本霊異記)
 【牛になった女房~田中広虫女の話】

●一寸法師(大阪府住吉)
 【本当はオトナの一寸法師】

●星月夜の織姫(大阪府高槻市)
 【七夕によせて~大阪・池田の民話】

●竹取物語(今昔物語より)
 【竹取物語は社会派風刺小説】

●鉢かづき姫(大阪府寝屋川市)
 【大阪の昔話~ちょっと色っぽい「鉢かづき姫」】

●天稚彦物語(御伽草子より)
 【日本の七夕伝説・天稚彦物語】

●南西諸島の七夕伝説(奄美・沖縄地方)
 【天降子と天人女房】

●良弁杉(奈良県)
 【東大寺・二月堂にまつわる奈良の昔話~良弁杉】

●大井子の力石伝説(古今著聞集より)
 【気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説】

●うば捨て山
 【「うば捨て山」は本当にあったのか?】

●或る殿上人の家に忍びて名僧の通ひし語(今昔物語より)
 【春の陽気に浮気がバレた??…「今昔物語」より】

●八百比丘尼
 【不老長寿は幸せ?人魚伝説・八百比丘尼】

●貧乏神(京都・丹後地方)
 【京都の昔話~愛すべき貧乏神】

●長柄の人柱(雉も鳴かずば・大阪府)
 【父は長柄の人柱~大阪の昔話より】

●はりぼての野田城(大阪府)
 【千早城攻防戦・秘話~はりぼての野田城】

●楠の木の秘密(奈良・大和高原地方)
 【奈良の昔話「楠の木の秘密」…金閣寺・建立にちなんで】

●吉崎鬼面伝説(福井県)
 【吉崎の鬼面伝説…「嫁威し肉附きの面」】

●一夜官女(大阪府)
 【岩見重太郎のヒヒ退治と一夜官女のものがたり】

●彦八ばなし
 【庚申の夜の昔話~彦八ばなしin京都】

●大坂城の虎(大阪府)
 【大阪城に生きた虎が?~大阪の昔話・大坂城の虎】

●酒呑童子(京都府)
 【排除された邪教の神~酒呑童子の叫び】

●茨木童子(大阪府・茨木市)
 【鬼の目にも涙??茨木童子のお話】

●牛方と山姥
 【山姥はサバが好き?~「さばの日」にちなんで…】

●雪鬼(大阪府・枚方市)
 【雪鬼~在原業平と交野の君の話】

●ゆきちゃん(奈良県・大和高原地方)
 【冬の夜の昔話~奈良の「ゆきちゃん」】

●福の神の福助(大阪府・和泉地方)
 【ウソも方便…遠めがねの福助さん】

●灯明守の娘(大阪府三島郡)
 【真夏の夜の怪談話6…灯明守の娘in山崎】

●夜歩き地蔵と遊女の話(大阪府枚方市)
 【枚方宿~夜歩き地蔵と遊女の話】

●出っ歯の出刃包丁(大阪府・堺市)
 【出っ歯の出刃包丁~刃物の日にちなんで…】

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2009年5月29日 (金)

浮いた!沈んだ!悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀

 

治承元年(1177年)5月29日、俊寛の山荘で行われていた平家打倒の集会の場に、後白河法皇が出席・・・後に『鹿ヶ谷の陰謀』と称される会合が開かれました。

・・・・・・・・・・

そもそもは、仁安二年(1167年)、あの平清盛がいきなりの3段飛びの昇進で太政大臣に就任(2009年2月11日参照>>)してからというもの・・・その力はますます絶大な物となり、京の町には、髪を短く切り、お揃いの真っ赤なひれ垂を着た「禿童(かぶろ)と呼ばれる15~16歳の少年たち300人ほどが放たれ、平家に反発する者や悪口を言う者を取り締まっていました。

彼らは、京の町のいたるところを歩き回り、反発する者を見つけては、屋敷に押し入って財産を没収し、本人を捕まえては六波羅に引き渡すという秘密警察のような役割をはたしていたのです。

京の町の人々は、その名前を聞いただけで震え上がり、道を行くのも避けて通ったと言いますから、警察というよりはならず者のようですが・・・。

しかし、そうなると、その横暴極まりない態度に、表立っては反発しないものの、影でコソコソやりたくなってくるのが人の常・・・。

特に不満タラタラなのは、大納言の藤原成親(なりちか)という人物・・・彼は、先日、欠員ができた左大将というポストを狙っていたのですが、かの清盛の采配によって、右大将だった清盛の長男・重盛が左大将へと移り、空ポストとなった右大将には三男の宗盛が、まだ中納言なのにも関わらず上位数人抜きの昇進でついてしまったのです。

もちろん、彼以外にも、平氏でありながらも主流になりきれていなかった平康頼(やすより)や、藤原家の復権を願う藤原成経(なりつね)、先の平治の乱(12月9日参照>>)で亡くなった信西の乳母の子・西光などなど・・・。

やがて、いつのほどからか、法勝寺の執行・俊寛(しゅんかん)法師鹿ヶ谷(ししがたに)の山荘に、彼らは集まるようになり、夜な夜な、平家打倒の話し合いが行われるようになったのです。

Sisigadani791 鹿ヶ谷とは、京都・東山の哲学の道のあたり・・・道沿いにある霊鑑寺の横の山道を登った所に俊寛の山荘がありました・・・写真、右側の赤い柱と自転車の間にある石碑には「此奥俊寛山荘地」とあります。
霊鑑寺のくわしい場所は
HPの歴史散歩のページへどうぞ>>

そんなこんなの治承元年(1177年)5月29日・・・その会合の場に、後白河法皇(ごしらかわほうおう)自らが姿を現したのです。

以前も、書かせていただいたように、もともとは、大の仲良しだった2人・・・後白河法皇は、清盛の武力を後ろ盾にその院政を強め、清盛は法皇の権力に支えられ政界に君臨する事となったわけで、お互い、持ちつ持たれつの間柄・・・。

しかし、徐々に清盛は法皇を軽視するようになり、ここに来て、両者の関係にひびが入りつつあったのです。

この日、後白河法皇のお供をして、ここにやってきたのは、信西の息子・浄憲法印(じょうけんほういん)・・・彼は、この酒宴の席に出て、はじめて、この集まりが平家打倒の集会である事に気づいてびっくりしたのです。

宴もたけなわの頃、法印は成親に話かけます。
「お宅ら、気ぃつけなはれや・・・こういう話は、いずれどっかから洩れるもんでっせ。天下の一大事を招きまっせ」

「な~に~up!」と、言わんばっかりに、血相を変えて成親が立ち上がった拍子に、すぐ前に置いてあった瓶子(へいし・徳利の事)を着物の端っこに引っ掛けて倒してしまいます。

それを見た法皇が・・・
「何しとんねん」
と、言うと、成親は、慌てて座りなおして・・・
「瓶子が倒れてしもて・・・」

すると、法皇は大笑い・・・・
そうです・・・瓶子=へいし=平氏
瓶子=平氏が倒れた・・・と・・・

すると、康頼がスクッと立ち上がって
「あ~あ、瓶子(平氏)が多すぎて酔っ払ってもたがな」
(↑お前も平氏やんけ!)というツッコミがあると思いきや、そうではなく・・・

すかさず俊寛が・・・
「せやな、この倒れた瓶子(平氏)、どないしたりまひょ」
すると、西光が・・・
「やっぱ、首取りましょか~」
と、手に取った瓶子の首を叩き落としたのだとか・・・

・・・って、陰謀っていうから、どんだけの陰湿な策略を話合ってんのかと思えば、単なる悪口大会やないかい!

いえいえ、これは『平家物語』にある一場面であって、この日以外にも、度重なる会合を開いて、ちゃんと具体的な作戦も練ってはいたようですが、いかんせん、僧や貴族中心の現状では、武力に欠けると考え、彼らは、北面の武士である多田行綱を味方に引きいれたのです。

しかし、これが命取りとなります。

軍事に精通している行綱から見れば、彼らの作戦は、とてもとても成功するとは思えない作戦・・・いや、作戦うんぬんよりも、現在の平家を倒すためには、とてつもない武力と、それを準備する日数も必要で、とてもじゃないが、おいそれと行動は起せないばかりか、自分が、この場所にいて、こんな作戦に加担してる事がバレたら、それこそ・・・

後々発覚してから処分をされる事を恐れた行綱は、すぐさま、西八条の清盛の屋敷へと駆け込み、事のすべてを暴露したのです。

この話を聞いて、怒り心頭の清盛・・・早速、兵を派遣して、彼らの逮捕に取り掛かりました。

6月1日の早朝、成親と西光が捕らえられ、西光の自供により、陰謀に参加した者が次々と芋づる式に捕まりました。

翌・6月2日、西光は拷問の末、斬首
成親は備前(岡山県)流罪となった後に斬られ、俊寛・康頼・成経の3名が鬼界ヶ島(きかいがしま・硫黄島だとされています)への流罪となりました。

・・・と、ここで、ひとりだけ・・・
そう、後白河法皇です。

さすがは、「日本一の大天狗」・・・うまい事、自分だけ罪を逃れましたね~。

『平家物語』では、ここで、法皇をも捕らえようとした清盛の前に、颯爽と現れた息子・重盛が・・・
「忠ならんと欲すれば孝ならず、孝ならんと欲すれば忠ならず、重盛の進退ここに極まれり」
という名文句をサラリ・・・

これに感激した清盛が、法皇への攻撃を思いとどまる・・・となっていますが、以前、2009年の2月11日のページ(冒頭にリンクがあります)にも書かせていただいたように、平家物語は、かなりの重盛びいきなので、ここは、おそらくは、法皇がウマイ事、立ち回ったというところでしょう。

ひょっとしたら、この陰謀自体を、ウラで操っていた可能性もある人ですから、はなから、自分の逃げ道は作っていた事でしょう。

とは言え、結局は、ブチ切れ清盛のクーデター治承三年の政変(11月17日参照>>)に突き進んでしまいますが・・・

ところで、この時、流罪となった3人のかたには、まだ後日談があります。

後の恩赦で、康頼と成経は許され、島を去る事ができたものの、なぜか、俊寛だけは許される事なくその後の悲しみを、平家物語は切々と語ってくれるのですが、その俊寛さんの余生については、3月2日のページでどうぞ>>
 .

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2009年5月28日 (木)

明智光秀の愛宕山連歌会の句は本能寺の意思表明か?

 

天正十年(1582年)5月28日、明智光秀愛宕山西坊で、紹巴らを招いて「愛宕百韻」を催しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)・・・この年の3月に武田勝頼を自刃に追い込み、戦国乱世にその名を馳せた武田氏を滅ぼした織田信長・・・(3月11日参照>>)

その時に武田から寝返り、滅亡に一役かった穴山梅雪(ばいせつ・信君)(3月1日参照>>)を連れて、徳川家康が挨拶がてら安土を訪れたのは5月15日でした。

この年は、織田と徳川が同盟を結んで、ちょうど二十年目にあたる節目の年でもあり、戦国最強と言われた武田を滅ぼした事もあり、その日の酒宴は大いに盛り上がったようですが、ちょうど同じ日に信長のもとに届いたのが、中国地方への遠征担当だった・羽柴(豊臣)秀吉からの援軍要請です。

この時、備中(岡山県・西部)高松城を水攻め(4月27日参照>>)の真っ最中だった秀吉が、「敵は、毛利輝元ら主力軍が出陣する事となったので・・・」と、信長自らのお出ましを願ってきたわけです。

信長は、自ら出陣する準備に取り掛かると同時に、5月17日、明智光秀に、その先鋒を努めるよう命令を発します。

光秀は、その日のうちに安土を発ち、坂本城へ入城・・・さらに、5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入り、中国出陣の準備を始めます。

翌・27日には、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝します。

以前から、時おり書かせていただいております通り、愛宕神社のご本尊は勝軍地蔵・・・その名の通り、合戦に勝利をもたらしてくれる神様で、当時の武将たちから篤い信仰を受けていた神様です(1月24日参照>>)

Dscn6806800 清滝から愛宕山への登山道

『信長公記』によれば、この日、山内の太郎坊でおみくじを引いた光秀は、2度も3度も引きなおしたのだとか・・・引いても引いても「凶」だったからって事らしいですが、どうも、この話は、後づけ臭いですね。

そして、翌日・・・天正十年(1582年)5月28日、愛宕山内の西坊威徳院(にしのぼういとくいん)で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)として有名な連歌会を催すのです。

当時の連歌会は、茶会と同様の文化・教養を披露しつつ、学びつつ行われる社交行事で、今回のように神仏を前に行う場合は、戦勝祈願の意味合いも含まれています。

主催したのは、光秀と仲良しの威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)ら9名・・・

連歌会では、順番に出席者による即興の句が次々と詠まれていくわけですが・・・ここで、光秀が一番に詠んだのがあの有名な例の句です。

♪ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな♪

このあと・・・
♪水上(みなかみ)まさる 夏山♪ 行裕
♪花落つる 流れの末を せきとめて♪ 紹巴
・・・・と続き、
最後に、嫡男の光慶が
♪国々は 猶(なお)のどかなるころ♪
と、最後を締めくくる句を詠んでいます。

この時の光秀の句が、「自分が天下を盗る」=「本能寺の変を起す」という意志表明だったのではないか?と言われているわけですが、その解釈は・・・

光秀が土岐(とき)の出身であるとされるところから・・・(9月20日参照>>)

最初の
♪ときは今♪「土岐は今」
♪あめの下知る♪「天(あめ)の下知る」
となって、「土岐氏(の自分)が、今、天下を盗る」という意味に取れると・・・

果たして・・・
その真相は、もちろん、今も謎なわけですが・・・

・・・で、黒幕がいたか?いなかったか?、謀反のを起した光秀の心境は?というお話は、別のページで見ていただくとして、本日のところは、この句が、本能寺の意志表明だったかどうかについて書かせていただきますね。

・‥…━━━☆

結論から言わせていただくならば・・・「ない」と思っています(個人の感想です)

この句の解釈も、先のおみくじ同様、この後の出来事を知っている後世の人の後づけだと思います。

それは、以前から時々書かせていただいているように、「この時の光秀は天下を取ろうとは思っていなかった」と考えるからです。

その理由の一番は・・・
天下を取ろうと思うのであれば、一番の味方になってくれるであろう筒井順慶やら細川藤孝やらに根回しをせず、味方になってくれるかどうかもわからない状態で事を起こすのは無謀極まりないと思うからです。

それとなく打診して、それなりの感触を得てからでないと、誰も味方にはなってくれません・・・現に、2人とも光秀側にはついてくれませんでした。

第二に・・・というか、こっちのほうが重要ですが、以前も書かせていただいた信長の息子・信忠を無視しての本能寺攻撃です。

この本能寺の時点では、すでに後継者は信忠に決まっていたわけですから(11月28日参照>>)信長1人を殺害しても、信忠が、その後を継ぐだけで、光秀に天下は回ってきません。

ですから、この時、光秀が本当に天下を盗るつもりであるのならば、本能寺にいる信長と、妙覚寺にいる信忠を、同時に攻撃しなければ話になりません。

しかし、兵の数は充分にあったにも関わらず、ご存知のように、光秀は、本能寺だけに攻撃を仕掛け、信長の遺体を捜しまくり、その後、思い出したように妙覚寺の信忠の攻撃へと向かいます。

この時、光秀が本能寺の信長にかまっている間に、信忠が安土へと逃走するか、大坂で四国への出陣準備をしている弟・信孝と合流しているかすれば、もう、それで、終っていたのです。

信忠が、逃避せずに、妙覚寺から二条御所へと移動して籠城してくれたおかげで、光秀は信忠をも討つ事ができ、そこで、はじめて「天下」という話になるわけです。

信忠の自刃は、むしろ光秀にとってはラッキーサプライズで、そこに計画的な天下盗りはありません。

この日詠んだ句が、「信長を討つ」という意味にとれる内容なら、意志表明だったかも知れませんが、「天下を盗る」という意味にとれる内容なので、これは、本能寺の変の意志表示ではありません・・・と、これが、現在のところの、連歌会の句に対する私的な見解であります。

・・・とは言え、連歌会の句が意志表示でなかったとしても、この時点で、光秀に謀反の意志があったかどうか・・・というのは、黒幕説と同様、まだまだ検討の余地アリです。

これまでに書いた「本能寺の変」関係のページ・・・よろしければどうぞo(_ _)o

 
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2009年5月27日 (水)

遊撃隊奮戦!ここが最後の箱根戦争

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月27日、前日、湯本山崎で新政府軍と激突した遊撃隊が、熱海まで撤退後、榎本艦隊や奥羽越列藩同盟などと合流・・・世に言う箱根戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・・

もともとは、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂(いえもち)の親衛隊として組織された『奥詰(おくづめ)と呼ばれた集団・・・それが15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)のもとで『遊撃隊(ゆうげきたい)と名を変え、鳥羽伏見の戦い(1月3日参照>>)などで気勢をあげました。

鳥羽伏見の敗戦後は、慶喜・護衛の任務を与えられた遊撃隊でしたが、その慶喜が水戸へと退去するにあたって、一部の隊士は上野に籠る彰義隊(しょうぎたい)に加わり(2月23日参照>>)、また、一部の者は、独自に反新政府活動をすべく脱走者となりました。

そんな、独自の道を歩み始めたメンバーが約30名ほど・・・彼らを率いていたのが、人見勝太郎(ひとみかつたろう)伊庭(いば)八郎でした。

慶応四年(明治元年・1868年)4月28日、勝太郎らは、上総請西藩(かずさじょうざいはん・千葉県)1万石の若き藩主・林忠崇(ただたか)を訪ねます。

忠崇は、まだ21歳の若さでしたが、「将来は幕府老中になるべき器である」との評判の人物で、徳川家の再興を願ってもいましたから、「ともに戦おう!」と呼びかけたのです。

勝太郎と八郎に面会し、一目で彼らを気に入った忠崇は、彼らと行動をともにする事を決めますが、いかんせん請西藩は、真っ向から新政府を相手に戦えるほど大きな藩ではありません。

このまま、彼が、反新政府の姿勢をとれば、藩士はもちろん、領民までをも巻き込んで全員玉砕ともなりかねませんし、第一、恭順の態度を示して、水戸にて謹慎中の慶喜にも迷惑が及ぶかも知れません。

そこで、忠崇・・・なんと、59名の藩士を引き連れて、藩主自らが脱藩するという前代未聞の方法で、遊撃隊とともに立つ事を選んだのです(1月22日参照>>)

さらに、勝山藩(千葉県安房)館山藩(千葉県館山市)などの諸藩からメンバーに加え、200名以上に膨れ上がった彼らは、閏4月12日、真鶴(神奈川県真鶴町)へとやってきます。

小田原藩(神奈川県)を取り込んで、京都の首脳部と江戸の軍部を分断し、さらに、江戸の新政府軍を背後から突こうという作戦です。

・・・そこへ、江戸の緊迫した知らせが舞い込んできます。

そう・・・5月15日、上野寛永寺に籠る彰義隊を新政府軍が総攻撃したあの上野戦争(5月15日参照>>)の一報です。

彼らが、彰義隊の敗戦を聞いたのは、3日後の5月18日・・・勝太郎はすぐに第1軍を率いて出陣して三島の関所を破り、20日には、小田原藩との和議を成立させ、箱根の関所を占拠しました。

しかし、この小田原藩の態度に黙っていないのは新政府軍・・・すぐに、小田原藩に圧力をかけ、ビビッた小田原藩は、アッと言う間に新政府へ寝返り、遊撃隊は兵糧と弾薬を手土産に渡されて「ハイ!さようなら」とばかりに、城下から追い出されていまいました。

しかたなく、勝太郎は、品川沖に停泊中の艦隊を指揮する榎本武揚(えのもとたけあき)の救援を求めるべく、単身、品川へと向かいますが、その間に、寝返ったばかりの小田原藩は、新政府軍の先鋒となって箱根へと進攻してきます。

5月26日、湯本山崎において両者は激突します。

早川に架かる三枚橋を挟んで、砲撃戦から銃撃戦・・・やがては、兵士同士の斬り合いとなっていきます。

勝太郎の留守を守って、ここを死守するのは、第2軍を指揮する八郎・・・彼は、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)の使い手で、「伊庭の小天狗」との異名を持つ剣客です。

その腕で、バッタバッタと敵を倒す八郎でしたが、いくら剣の達人と言えど、合間合間に飛んでくる銃弾を避けきれず、一発の銃弾が腰を貫通してしまいます。

さらに、そこに高橋藤太郎なる人物が襲いかかり、左手首を切断せんがばかりの重傷を負ってしまいます。

しかし、斬られた左手をブラブラさせながらも、藤太郎を斬り殺し、さらに2名を斬り、勢い余って岩をも打ち砕くという離れ業をやってのけますが、さすがに、これ以上は戦えず、この日の遊撃隊は、やむなく、湯本から箱根へと後退せざえるをえませんでした。

そして翌日・・・戻ってきた勝太郎と熱海で合流した遊撃隊は、重傷を負った八郎を榎本艦隊に預け、残りの彼らは、この先、長岡城を奪回せんと意気込む奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)(5月19日参照>>)へと合流する事になります。

慶応四年(明治元年・1868年)5月27日、この遊撃隊の撤退を以って箱根戦争=箱根湯本の戦いは終結し、上野飯能(5月23日参照>>)箱根と続いた関東における反新政府勢力は姿を消しました。

この後は、北越東北(9月22日参照>>)函館(5月18日参照>>)と、戊辰戦争の舞台は北へ向かう事となります。

Ibahatiroucc 函館以来のイラストに挑戦pen

描くは、やはり、三枚橋で奮戦する伊庭八郎さんで・・・

この後、八郎は、榎本らとともに蝦夷地へと渡り、そこでまたまた奮戦する事になるのですが、そのお話は、5月16日のページでどうぞ>>
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2009年5月26日 (火)

全盛の平家に一矢報いた以仁王~その生存伝説

 

治承四年(1180年)5月26日、源頼政とともに宇治の橋合戦に敗れた以仁王が、奈良へと逃走中、平家に追撃され死亡しました。

・・・・・・・・・

後白河法皇の第三皇子として生まれた以仁王(もちひとおう)・・・聡明かつ人望もあり、次期天皇候補として充分な素質を持っていた以仁王でしたが、当時、権力を欲しいままにしていた平清盛によって、その夢を断たれてしまいます。

一方、先の平治の乱(12月9日参照>>)で、平家側についたおかげで、平家全盛の時代にも生き残った源氏の源頼政(よりまさ)も、齢70を過ぎ、もはや出世も望めない状況・・・。

この2人が結びついて、源氏をはじめとする各地に残る反平家に対して打倒平家を呼びかける令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を発したのは治承四年(1180年)の4月9日でした(4月9日参照>>)

しかし、やがて彼らの動きは、各地の反平家勢力が挙兵をする前に平家側の知るところとなり、危険を感じた以仁王は三井寺へと逃走・・・三井寺でおちあった頼政とともに、奈良の興福寺へと向かいました。

逃げる以仁王と追う平家・・・両者がぶつかったのは治承四年(1180年)5月26日正午頃、宇治川を挟んでの対峙。

宇治橋を落として追手を防ぐ頼政でしたが、怒涛のごとく襲い掛かる平家軍に、「もはやこれまで!」と、以仁王を先に奈良方面へと逃し、頼政は平等院にて自害しました。

これが、一の谷から壇ノ浦へと続く源平争乱の幕開けとなった宇治の橋合戦と呼ばれる戦いです。

その後、わずかの側近とともに、宇治を後にした以仁王も、木津川を渡ったあたりで追いつかれ、命を落す事になるのですが、ここまでは一昨年の5月26日に書かせていただきましたので、くわしくは、そちらで見ていただくとして(5月26日参照>>)・・・本日は、やはり、あります「以仁王・生存説」

・・・と、言うのは、結局は失敗に終った以仁王と頼政の平家打倒でしたが、横暴を極める平家への不満は、すでに頂点に達しており、それに対抗した聡明な以仁王への期待が大きく膨らんでいたからなのでしょう。

それと同時に、以仁王は先々代天皇の息子という高貴なお方・・・その素顔を知る人が極めて少なかったため、討ち取られた首を自信をもって検分できる人がおらず、果たして、本当にその人が以仁王だったかどうだったのか?・・・というところから、噂が噂を呼んで、生存説へと発展していったようです。

そして、西国に勢力を誇る平家に対抗という背景からか、その生存説は、やはり東へ逃れた・・・というところから始まります。

まずは・・・
♪夏がく~れば 思い出す~♪
の歌でもお馴染み、ミズバショウで有名な尾瀬(おぜ・群馬県)・・・。

この尾瀬という地名は、以仁王の侍臣・尾瀬中納言頼実(おぜちゅうなごんよりざね)の名前からきているのだとか・・・

頼実が、以仁王とともに、この地まで逃れたものの、ここで病に倒れ、そのまま没したというのです。

湿原の中ほどには、尾瀬塚と呼ばれる塚が現在も残っているのですが、この尾瀬塚が頼実のお墓だと、現地では伝えられているのだそうです。

そして、もちろん、以仁王は、ここ尾瀬より、さらに逃走して日光へ向かったのだとか。

さらにさらに、福島県南会津郡下郷町に建つ高倉神社なる神社は、ある者が、ここまで逃れて来た以仁王を、その恩賞欲しさに討とうとしたところ、雷鳴が鳴り響いた・・・「このような高貴なお方を討ってはならないという神のお告げでは?」と思ったその人物は、以仁王を討つ事を断念し、逆に王を祀った神社を建立したのだそうです。

確かに、その高倉神社の主祭神は以仁王・・・そう言えば、伝説ではなく、一応正史とされる歴史上で、宇治から奈良へと向かった以仁王が討たれた場所とされる京都府相楽郡山城町にも以仁王のお墓がありますが、そこも高倉神社ですね。

もちろん、以仁王が高倉宮と呼ばれていた事で、神社の名前が同じなのは当然ですが、京都と福島・・・まったく違う場所に、同じ方を祀る同じ名前の神社がある事に、何だか感動しますね。

いやいや、群馬→福島と来て、さらに・・・今では、三条市の一部となった新潟県南蒲原郡下田村というところには、以仁王と行動をともにした椿家の末裔という一族の伝説が残るのだとか・・・。

・・・とは言え、もちろん、これらは、やはり伝説の域を出ないもの・・・おそらくは、一般的な歴史の通りに、木津川を渡るあたりで討ち取られ、志半ばで京都・山城町の高倉神社に眠るというのが正解なのかも知れません。

しかし、以仁王の放った一矢は、確実に平家を捕らえ、やがては立ち上がる源頼朝へ、木曽義仲へと届いた事は確か・・・それは、この先の歴史が証明しています。
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2009年5月25日 (月)

ツンデレ満載の「天地人」~忘れちゃいけない新発田城

 

tulipキレイな花にはとげがある・・・tulip

昨日、放送されたNIHK大河ドラマ「天地人」・第21回:三成の涙の冒頭での「書」・・・

コレって、本当は女性に対する表現なのでは?と思いつつも、「イケメン三成の小栗クン(花)には、横暴な態度(とげ)がある」っていう事のようです。

番組冒頭では、発掘された頭蓋骨の鑑定にも触れられていましたが、これは、明治四十年(1907年)に渡辺世祐(よすけ)さんという日本史研究の大家が、三成の伝記を執筆するにあたって、京都の大徳寺三玄院を調査された時に発見された遺骨を、解剖学者の足立文太郎教授が鑑定したもの・・・

「身長は156cm前後で、頭はやや前後に出た木槌頭、細面で鼻筋の通ったヤサ男で、やや反っ歯」
・・・て事だそうで、鼻筋が通ってるとは言え、誰も、「キレイな花=男前」とは言ってないが、まぁ、そこはドラマなので、主人公の友人となるのであれば、男前にこした事はござんせん。

それにしても、このドラマは・・・
原作者がお好きなのか、脚本家がお好きなのか、それともスタッフがお好きなのか・・・

次から次へと「ツンデレ」のご登場です。

「ツンデレ」とは=「初めはツンツンして敵対視しているが、何かのきっかけでデレデレの大好き状態に変化する、あるいは、他の人にはツンツンしてるが、特定の人物にだけやさしくする」みたいな感じのキャラクター設定の事で、アニメファンがよく使う言葉です。

そもそもは、子供時代から・・・
まったく話さないツンツン状態の殿が、雪の中を少年・与六を迎えに行って主従関係を確立・・・他のゆかいな仲間たちも、イジメから始まっての友人関係・・・。

今は主人公の直江兼続の奥さんとなったお船さんも、初めての時は、「男のくせに馬も操れんのか」的な言葉を吐くツンツンでのご登場だったのが、いつのまにやらラブラブ状態。

殿のところに嫁に来た菊姫も、懐剣突き立てた直後に「武田をお救いください」と涙を流し、引き籠った後に心を開く・・・

途中で去っていかれた吉江どのや、お船さんの前のダンナの信綱さんも、「お前は嫌いだ」の後に「上杉を頼む」という言葉とともに逝かれました。

ひょっとして、あの初音という神出鬼没のお姉さんも、最初は敵のような雰囲気で登場してませんでしたっけ?

もちろん、昨日の三成さんも・・・。

家族だけが「ツンデレ」でなく、最初っから愛情たっぷりな事がせめてもの救いですが、来週の予告を見る限りでは、次週から登場する真田幸村までもが「ツンデレ」のご様子・・・どうやら、女性層をターゲットにしている今回の大河ドラマでは、「そのツンツンキャラが心を開く瞬間が、一番盛り上がる」という事なのでしょう。

戦闘シーンよりも多い夫婦の会話、兼続と三成の友情物語、子供ができたのできないのと嫁×姑バトル・・・まぁ、あくまでドラマなので、ほのぼのとしたそんな感じも、それはそれでおもしろいかも知れません。

・・・とは言え、わがブログは一応「歴史ブログ」・・・ドラマの筋書きとは別に、ここらあたりで知っておいたほうが良いのでは?と思うところがありますので、ちょいとだけ、そのお話を・・・

ドラマでは、かなり平和な日々を送っている兼続さんたちですが、歴史上では、この時、上杉家は、まだ、戦闘中です。

昨日の放送でも、三成との会話の中で、「越後の民のために・・・」的な事を、あたかも上杉家が越後のすべてを統一したかのようにおっしゃっていましたが、まだ、越後の統一はなされていません。

・・・というのも、例の上杉謙信の死後の後継者争いとなった御館の乱(3月17日参照>>)で、上杉景勝側について戦った新発田重家(しばたしげいえ)という人物・・・

実は、主役なのでしかたないですが、ドラマでは兼続がやった事になっていた武田を寝返らせる交渉・・・あの大金を持って勝頼のところへ行ったのは、実際には、この重家だったとされています。

ドラマでおわかりのように、とても重要な交渉です。

・・・で、その活躍ぶりから、当然、重家は戦後の恩賞を期待していたわけですが、例のごとく、上田衆ばかりが優遇されたために不満を抱いていたところ、天正九年(1581年)に織田信長からのお声がかかり、信長の傘下となったのです

重家は、新発田城(新発田市)を本拠に、現在の新潟市から三条市周辺あたりまでを支配していた国人ですから、それまで上杉の重臣として働いてきた彼が、織田へ寝返ったとなると、その領地もそっくりそのまま上杉の支配から外れるという事になります。

ドラマでは、南側の魚津城を信長配下の柴田勝家に攻められ、留守にした春日山城へは、信州側から森長可滝川一益に迫られ(6月26日参照>>)、最大のピンチだった上杉ですが、北側もこの重家もろとも離反して織田の傘下となり、本当に風前の灯火だったわけです。

その後、魚津城が落城する前日に信長が本能寺で倒れ(6月3日参照>>)、上杉は急死に一生を得たわけですが、この重家は、独立した大名になる事を最終目標としていましたから、信長の死後も当然抵抗を続けます。

兼続らは、天正十年(1582年)から約5年間に渡って、たびたび重家討伐のために新発田城攻めへと出陣していますが、堅固な守りに阻まれ、ずっと攻めあぐねていたのです。

途中、徳川家康との関係が緊張状態となった豊臣秀吉に和睦を勧められ、和解への道を考えたりもしましたが、結局、天正十五年(1587年)10月、新発田城を落城させ、重家を自刃へと追い込みました。(10月28日参照>>)

ドラマで描かれた落水での秀吉との会談が天正十三年(1585年)の8月、来週放送の真田幸村の人質・越後入りが同じ天正十三年の7月ですから、本来なら描かれても良い頃・・・その新発田城から2年後に配下に治める佐渡(6月12日参照>>)も含めて、越後統一は、本当なら、上杉にとって最重要な出来事で、歴史としては知っておきたい事・・・

なのに、ひょっとして、この「天地人」では新発田城の事は、スルーもしくはナレーションのみで終ってしまうのではないか?と・・・本日は、チョコッとだけ心配になって書かせていただきました。

もう、こうなったら、この後登場する人も、皆「ツンデレ」にしていただいて、歴史は歴史、ドラマはドラマで楽しんでいきたいと思っています。
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2009年5月24日 (日)

時代別年表:鎌倉時代

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このページは、鎌倉時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaikamakura110



 

・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1192 2 8 貞慶が隠遁を願い出る
【エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶】
7 12 源頼朝が征夷大将軍に任命される
【鎌倉幕府の誕生は…いつ?】
11 25 熊谷直実が出家する
【戦いの空しさに出家した源氏の猛将】
1193 5 28 曽我兄弟の仇討ち
【曽我兄弟の仇討ち・もう一人のターゲット】
8 17 源範頼が死去
【頼朝は平凡な弟の何が怖かった?】
1195 3 7 平(藤原)景清が死去
【平家の生き残り・平景清】
1197 7 14 源頼朝の娘・大姫が逝く
【頼朝の愛娘・大姫のお話】
【大姫の死にまつわる疑惑】
1198 12 27 源頼朝が死去
【頼朝の死因をめぐる疑惑】
1199 2 5 平清盛の曾孫・六代が斬首に
【生きさせては貰えなかった平家の嫡流】
4 12 鎌倉幕府が合議制を採用
【先進システム?鎌倉幕府の合議制】
10 28 梶原景時・弾劾状を作成
【梶原景時・弾劾状を作成】
1200 1 20 梶原景時の乱
【露と消えた九州独立国家】
9 2 朝比奈義秀が兄・常盛と相撲勝負
【鬼神のごとき朝比奈義秀の話】
1201 1 25 式子内親王が薨去
【恋の歌姫~式子内親王と藤原定家】
1203 7 21 僧・文覚が配流中に死亡
【頼朝に挙兵を決意…強力ブレーン・文覚】
7 24 運慶が東大寺の金剛力士像の制作開始
【鎌版「プロジェクトX」東大寺復興と運慶】
9 2 甘糟忠綱が法然を訪問
【法然に見守られ~甘糟忠綱・最期の時】
10 15 比企能員の乱
【鎌倉幕府・震撼~比企能員の乱】
1204 7 18 将軍・源頼家の暗殺
【父に愛され、母に抹殺された源頼家】
1205 6 22 武蔵二俣川の合戦
【畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦】
1207 2 18 法然が流罪となり専修念仏が禁止に
【イケメン弟子のサービス過剰】
1210 12 18 順徳天皇・即位
【順徳天皇の心の内は・・・】
1213 5 2 和田義盛の乱
【幕府を揺るがす和田合戦】
12 13 建礼門院・平徳子が死去
【建礼門院・平徳子の忌日】
1215 1 6 北条時政が死去
【若い嫁にはご注意~北条時政の失脚】
7 5 栄西が死去
【茶祖・栄西がまいた臨済宗とお茶の種】
1216 6 8 鴨長明が死去
【鴨長明さんのご命日なので・・・】
11 24 源実朝が陳和卿に大船の建造を命令
【源実朝…実現しなかった夢の船出】
1219 1 27 将軍・源実朝の暗殺
【実朝・暗殺事件の謎】
【実朝・暗殺事件の謎・パート2】
【謎多き…源実朝暗殺犯・公暁の最期】
1221 4 20 仲恭天皇が即位
【承久の乱に翻弄された幸薄き帝】
6 14 承久の乱
【北条政子・涙の演説】
7 13 後鳥羽上皇が隠岐に流される
【オカルトの日と後鳥羽上皇】
1224 6 13 北条義時が死去
【鎌倉2代執権~北条義時の最期の謎】
1225 6 10 大江広元が死去
【広元を祖に持つ戦国武将…4本目の】
7 11 北条政子が死去
【北条政子~尼将軍・誕生への道】
1231 10 11 土御門天皇が崩御
【時代の波に呑まれた穏やかな天皇】
1232 8 10 北条泰時が御成敗式目を定める
【御成敗式目て何じゃらホイ?】
1235 5 27 藤原定家が小倉百人一首を完成
【百人一首に隠された暗号】
1238 3 23 鎌倉の大仏を建立
【鎌倉の大仏と奈良の大仏】
1244 7 18 道元が大仏寺(後の永平寺)を建立
【曹洞宗の開祖・道元の永平寺・建立】
1246 3 23 北条時頼が第5代執権に就任
【「いざ!鎌倉」~鉢の木と北条時頼】
1252 4 1 宗尊親王第6代将軍に就任
【鎌倉幕府・初の皇族将軍…宗尊親王】
1262 11 28 親鸞聖人が死去
【本願寺・門徒は一向宗じゃない?】
1271 9 12 日蓮が佐渡に流罪
【蒙古襲来を予言して流罪となった日蓮】
1272 2 17 後嵯峨天皇・崩御
【南北朝対立の火種…後嵯峨天皇】
1274 10 5 元軍が対馬沖に出現
【フビライの日本侵略計画はあったか?】
10 19 元軍・博多湾に侵入
【蒙古襲来!文永の役】
1275 9 7 北条時宗が元の使者を斬殺
【時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
1276 3 10 鎌倉幕府が博多湾岸に防塁を構築
【準備万端!北条時宗の元寇防塁】
1281 6 6 元軍が再び博多湾に侵入
【第2次蒙古襲来~弘安の役】
7 1 嵐で元軍が壊滅し弘安の役が終結
【第2次蒙古襲来~弘安の役に神風が…】
1282 12 8 北条時宗が円覚寺を建立
【蒙古襲来絵詞に隠れた元寇のその後】
1289 8 23 時宗の開祖・一遍上人が死去
【一代聖教皆つきて~一遍・最後の言葉】
1297 3 6 日本初の徳政令「永仁の徳政令」発令
【幕府公認の借金踏み倒し・徳政令】
1303 7 12 北山十八間戸を造った忍性が没す
【「衆生救済」…北山十八間戸と忍性】
1316 7 10 北条高時が第14代執権に…
【鎌倉幕府14代執権・北条高時】
1317 9 3 伏見天皇・崩御
【南北朝の兆?皇位の綱引き・伏見天皇】
1318 2 26 後醍醐天皇・即位
【北闕天を望みたい!後醍醐天皇の最期】
1324 9 19 正中の変
【正中の変~寝物語でバレちゃった】
1326 10 30 惟康親王が死去
【周囲に翻弄された皇族将軍・惟康親王】
1331 8 27 後醍醐天皇が笠置山に入る
【笠置「楠の夢告」~後醍醐天皇と正成】
9 28 元弘の変・勃発~笠置山の戦い
【元弘の変~笠置山の戦い】
10 21 元弘の変~赤坂城の戦い
【正成のゲリラ術炸裂!赤坂城の戦い】
吉田兼好・徒然草を執筆
【兼好法師の恋愛感って・・】
1332 3 7 後醍醐天皇が隠岐に流罪に…
【隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳】
1333 2 1 護良親王が高野山へ脱出
【護良親王&楠木正成・再起】
2 5 幕府軍が千早城を攻撃
【楠木正成最大の見せ場・千早城の戦い】
【大阪の昔話~はりぼての野田城】
2 24 後醍醐天皇が隠岐を脱出し船上山へ…
【後醍醐天皇・隠岐脱出~名和長年・登場】
3 12 三月十二日合戦
【赤松則村の三月十二日合戦】
3 15 山崎合戦
【鎌倉討幕~赤松則村の山崎合戦】
4 3 四月三日合戦
【四月三日合戦の名勝負】
4 8 京合戦
【千種忠顕&児島高徳の京合戦】
4 16 足利高氏が入京
【鎌倉討幕を内に秘め足利高氏が上洛】
【足利尊氏・裏切りの要因】
5 7 足利高氏が六波羅探題を攻撃
【六波羅探題攻撃…守る北条仲時】
5 9 六波羅探題北方・北条仲時ら432人自刃
【432名の忠臣と供に…北条仲時・自刃】
5 11 新田義貞が小手指原で幕府軍に勝利
【鎌倉討幕…新田義貞の挙兵】
5 15 分倍河原の戦い
【起死回生…新田義貞の分倍河原】
5 21 新田義貞が稲村ケ崎の干潟から奇襲
【新田義貞・稲村ケ崎の龍神伝説】
5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉炎上…北条高時・自刃】
【鎌倉幕府の滅亡】
5 23 後醍醐天皇が京に向け船上山を出発
【「鎌倉炎上…北条高時・自刃」の後に】
6 6 後醍醐天皇が京入り新政を開始
【後醍醐天皇の建武の新政】
7 9 幕府軍の全面降伏で阿蘇治時ら処刑
【鎌倉幕府軍…最後の全面降伏】
鎌倉豆知識 【栄西の茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
【氏・素性と苗字の話】
【心太と書いてなぜ?トコロテンと詠む】
【和菓子の歴史~そのルーツと豆知識】
【端午の節句は女の祭?】
【のろしと密書・髻の綸旨の話】
【お味噌の歴史】
【質屋の歴史】
【成人式~元服の歴史】
【八朔~家康の江戸入府】

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2009年5月23日 (土)

イケメン揃いの幕末~上野の後の飯能戦争

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月23日、先日の上野戦争に勝利した新政府軍が、その勢いのまま振武軍を攻撃・・・世に言う『飯能戦争』がありました。

・・・・・・・・・・・

上野戦争をさかのぼる事2ヶ月前・・・ちょうど、彰義隊(しょうぎたい)浅草本願寺から寛永寺へとその本拠地を遷す時の事です。

もともと、将軍・徳川慶喜(よしのぶ)の名誉回復と身辺警固を目的として結成された彰義隊が、徐々に新政府に対抗する武装集団と変わっていくさまをヨシとしなかった頭取渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)は、10数名の隊士とともに本願寺に残りました。

やがて、彰義隊がその権力で以って、市中の豪商から軍資金を募ったりするようになって、ガマンしきれなくなった成一郎は、4月11日、「新政府軍にはならない」「新政府軍に降伏しない」の2つを条件に、約100名ほどの隊士を連れて彰義隊から脱退します。

この後に彰義隊は、副頭取だった天野八郎を中心に動いていく事になります(2月23日参照>>)が、一方の成一郎は、新たに振武軍(しんぶぐん)を結成し、青梅(おうめ)街道沿いの田無(たなし)にある西光寺(総持寺)を本拠とし、従兄弟の尾高惇忠(おだかあつただ)とともに、しばらくは隊士集めに奔走していました。

しかし、そうこうしているうちの5月1日、江戸(東京)の治安維持が幕府から新政府へと移った事で、勝海舟から彰義隊への解散命令が出されますが、それでも解散せずに上野に籠る彰義隊に対して、新政府は5月15日の総攻撃を決定します(4月4日参照>>)

かくして5月15日に上野戦争(5月15日参照>>)が勃発するわけですが、その決戦の前日、成一郎ら振武軍は、田無から箱根ヶ崎(東京都瑞穂町)に移動していたのです。

それは、やはり、5月15日の上野総攻撃の話を耳にしたから・・・その方針の違いにより、途中で二つに分かれた彰義隊と振武軍でしたが、もとはと言えば、ともに幕府のため、慶喜のために立ち上がった者同士、旧友の一大事に、成一郎はいてもたってもいられなかったのです。

翌朝、成一郎は400名余りの隊士を引きつれ、彰義隊を加勢するべく箱根ヶ崎をを出発しました。

その中には、振武軍の参謀として活躍する渋沢平九郎の姿も・・・

平九郎は、成一郎の従兄弟・・・つまり、成一郎とともに振武軍の隊士集めに奔走していた先の尾高惇忠の弟なのですが、成一郎の従兄弟でもある実業家・渋沢栄一の養子となっていたので渋沢姓を名乗っていた人です。

こうして、一旦は出陣した振武軍でしたが、途中で彰義隊の敗戦を知り、その日はやむなく田無へと引き返したのでした。

5月15日の夕方には雌雄を決した上野戦争・・・その後、上野から敗走した彰義隊隊士の中には、江戸市中に潜伏して再起の機会を図る者、旧幕府の海軍を掌握している榎本武揚(えのもとたけあき)のもとへ向かう者など、様々でしたが、やはり、昔のよしみを頼って青梅街道をひた走り田無の振武軍のもとへと来る者もいました。

彰義隊の生き残りを吸収し、1000名~1500名に膨れ上がった振武軍・・・「このまま、新政府軍が何もしないはずはない」と考えた成一郎らは、5月18日、本拠地を飯能(はんのう・埼玉県)にある能仁寺(のうにんじ)に移し、新政府軍の来襲に備えます。

そして、訪れた慶応四年(明治元年・1868年)5月23日未明、上野を落とした勢いもそのままに、新政府軍・約3500が振武軍への攻撃を開始しました。

しかし、残念ながら、その兵力の差は歴然としていました。

圧倒的な火力を擁する新政府軍に対して、未だ振武軍はにわか仕立て・・・なんせ、つい1ヶ月前には、隊士募集に走り回っていた状況なのですから・・・。

わずかに市街戦が繰り広げられたものの、午前10時頃には勝敗は決し、さらに、成一郎が被弾して負傷するに至って、味方は散り散りとなって敗走していくのでした。

惇忠は、負傷した成一郎を助けながら上野(こうずけ・群馬県)伊香保へと落ちました。

一方の平九郎も、気づいた時には、もう、周りには味方の姿も見えない状況で、大宮へと落ちるべく道を急ぎますが、途中、黒山村(埼玉県越生町)に差し掛かったところで、新政府軍の捜索隊に見つかってしまいます。

追手の目をごまかすため、武士に見えないように途中で刀を捨てていた平九郎でしたが、捜索隊の詰問によって、振武軍である事がバレ、手にした小刀で応戦・・・敵・数名に傷を負わせ、何とかその場を逃走しました。

敵の姿が、見えなくなったところで、少し、休息する平九郎でしたが、すでに、一発の銃弾が太腿を貫通・・・さらに、2ヶ所ほどの重傷を負い「もはや、逃げ切れない」と悟った彼は、かたわらにあった岩に腰掛け、自ら割腹して、その22歳の生涯を終えました。

一方、伊香保に落ちた惇忠と成一郎は、再び江戸に戻り、品川沖にいた榎本艦隊と合流し、この先、北へと向かう事になります。

・‥…━━━☆

・・・と、今日は、ここで終らない・・・というのも、以前から、本日の主役とも言える渋沢平九郎の男ぶりが、はなはだ気になっております。

このところ、「幕末がイケメン揃いな件」が話題になっている中で、「誰が一番イケメンなのか?」という事を話題にしたブログ等、時おり拝見させていただいておりますが、大抵の場合、ダントツで、新撰組・副長の土方歳三という意見が多い・・・。

確かに、土方さんは、かなりのイケメンです・・・認めます。

そこに、新撰組というオマケがプラスされ、その有名度も相まって1位という事になるのでしょうが、あまりにも土方さんを推す声が多すぎて、天邪鬼&マイナー好きな私としては、「ちょっと待ったぁ~」と、声を出したくもなるワケで・・・

以前、ご紹介した池田長発さん(3月20日参照>>)もそうですが、今回の渋沢平九郎さんは、ハンパない男前(写真は投票のページで見てね)なのに、その声をまったく聞かないのは納得がいかん!

・・・って、事で、個人的好みを大いに含んだ幕末の男前をご紹介しようと思ったのですが、どうせなら、紹介だけじゃなく、皆さんに写真を見てもらって、誰が、一番のイケメンなのか?と投票していただくのも面白いかと、別ページに投票コーナーを作ってみましので、よろしければコチラ>>からお願いいたしますです。

イケメンの写真の紹介とともに、投票と、その結果をお楽しみくださいませ~
 

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幕末ナンバー1のイケメンは誰?

 

幕末がイケメン揃いな件は、もう、皆さんご存知でしょうが、その中でも一番は誰?って事で、いくつかのサイトで話題になっている男前10人をピックアップさせていただいて、ご紹介を兼ねて、投票もしてもらっちゃおう!というページを作ってみました。

・‥…━━━☆

50音順のご紹介
写真は「wiki」「幕末維新館」さんを参照させていただきました

 

以上、独断と偏見に満ちた人選ではありますが、投票にご協力いただければ幸いです。

ちなみに、個人的好みとしては・・・
渋沢平九郎
東郷平八郎
大鳥圭介

これが、「幕末三大男前」やと思いますが・・・

・‥…━━━☆

6月3日を以って、投票を締め切りました

たくさんの投票&コメント、ありがとうございましたo(_ _)o

結果は・・・コチラからどうぞ>>
 

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2009年5月22日 (金)

いかにして第二次長州征伐は始まったか?

 

慶応元年(1865年)閏5月22日、長州征討の趣旨を天皇に奏上するため、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂が京都に入りました

・・・・・・・・・・

いわゆる第二次長州征伐ってヤツですが、この時、第121代・孝明天皇から下された勅語(ちょくご)は・・・

「しばらく大坂城に滞在して、長州征伐は猶予せよ」
というもので、結局、幕府は、天皇のお許しが出るまでの約一年間、数万という大軍もろとも、ここ大坂で足止めされてしまう事になるのですが・・・

・・・で、本日は、そもそも、なぜ、幕府が長州藩を征伐する事になったのか?その流れを、おさらいも含めて振り返ってみたいと思います。

・‥…━━━☆

嘉永六年(1853年)6月3日、浦賀に来航したペリー率いる4隻の黒船によって(6月3日参照>>)不平等な条約で開国してしまった幕府は、安政の大獄を決行して反対派を一掃させますが、そのような徹底的な弾圧に反発した水戸浪士らによって大老・井伊直弼(いいなおすけ)桜田門外の変で暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

このあたりは、幕府の敵と言えば水戸藩だったわけですが、その後も攘夷(じょうい・外国排除)を訴える朝廷との融和をはかるため、幕府は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を推し進めます。

その象徴として、文久二年(1862年)に行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮婚礼でしたが(8月26日参照>>)、翌・文久三年(1863年)には、家茂は将軍として260年ぶりに上洛し、孝明天皇に「攘夷の決行」を約束します。

当時、攘夷論一色だった長州藩は、この「攘夷の決行」を受けて、5月10日、関門海峡を通りがかったアメリカ商船に砲撃したのを皮切りにフランスオランダの船を次々と攻撃しますが、逆に手痛い反撃を喰らった事で、高杉晋作を総督とする「奇兵隊」を結成して近代軍隊の育成に着手します。

一方で、京都において政治の中核を荷っていた長州でしたが、8月18日、突然、京都から追い出され、長州に加担していた三条実美(さねとみ)公卿7名も追放されてしまいます【八月十八日の政変】(8月18日参照>>)

さらに、元治元年(1864年)6月5日、京都の池田屋に潜伏していた長州藩士らが新撰組に襲撃される【池田屋事件】(6月5日参照>>)が起こると、長州藩の強硬派の家老たちが兵を率いて上京・・・御所の蛤御門(はまぐりごもん)で、守る桑名会津・薩摩の藩兵たちと激しい戦闘となります【蛤御門(禁門)の変】(7月19日参照>>)

この時、長州藩からの発砲が御所の壁に命中した事で、長州藩は朝敵となり、天皇から長州征伐の勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)を得た幕府は、諸藩に軍を起す事を命令します。

さらに、このタイミングで、アメリカ・フランス・イギリス・オランダの4カ国の連合軍が、あの関門海峡での砲撃の仕返しのために来襲・・・長州側の砲台はこれら連合軍の攻撃で壊滅状態となり、何とか講和を結びます(8月8日参照>>)

それと同時に、長州藩内の「俗論派」が、先の蛤御門で主導権を握っていた家老ら3人に切腹を命じて、幕府に恭順の姿勢を見せたため、この時の第一次長州征伐は戦う事なく終わりを告げました(11月12日参照>>)

しかし、そんな藩の恭順姿勢に不満を持つ高杉晋作が、奇兵隊を率いてクーデターを決行(12月16日参照>>)・・・これで、俗論派は一掃され、生まれ変わった長州藩は、表向きは幕府に従いながらも、裏では武力を蓄える不気味な存在となります。

すでに、幕府の許可なく拠点を萩から山口に遷していた事もあり、長州藩の水面下での不穏な動きに警戒を強めた一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)松平容保(かたもり)の主張によって、幕府は2度目の長州征伐を決定するのです。

しかし、慶応元年(1865年)閏5月22日の将軍・家茂の上洛を以っても、長州征伐の許しを得られず、一年間の足止めを喰らった幕府は、翌・慶応二年(1866年)の5月1日、老中・小笠原長行(ながみち)を広島に派遣して・・・

毛利敬親(たかちか)は隠居して蟄居(ちっきょ・謹慎)、息子の元徳(もとのり)も蟄居して、家督は息子の興丸へ譲り、領地は10万石マイナスし、興丸へ26万9411石を与える」
という処分を伝えます。

しかし、長州はこの処分を拒否し、両者の交渉は絶たれます。

実は、この一年、幕府がモタついている間に、あの蛤御門であれだけ長州に敵対した薩摩藩が、すでに水面下で長州と軍事的同盟を結んでおり(1月21日参照>>)、密かに薩摩藩を通じて武器を購入・・・長州は、充分に戦いの準備を整えていたのです。

さらに、この長州征伐に関して、薩摩は出兵を辞退・・・この薩摩の出兵拒否は、幕府にとって想定外の事でしたが、なんせ、コチラは国、相手は一つの藩・・・その威信に賭けても、このままにしておくわけにはいきません。

そんなこんなの6月5日、幕府は半ば強引に、天皇から長州征伐の勅許を取りつけ、長州に宣戦布告を申し渡します

こうして、幕府側からは第二次長州征伐・・・長州側からは四境(しきょう)戦争と呼ばれる戦いの幕が上がる事になるのですが、そのくわしいお話は、やはり第二次長州征伐の幕が切って落とされる6月8日【大島口・攻防戦】>>に書かせていただく事とします。
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2009年5月21日 (木)

陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」

 

慶長二十年(元和元年・1615年)5月21日、大坂夏の陣の後、逃亡先の京都で捕縛された佐野道可こと内藤元盛が山城国・鷲巣寺にて切腹しました。

・・・・・・・・・・・

徳川家康が豊臣家を滅亡へと追い込んだ最後の戦い・大坂の陣・・・慶長十九年の冬の陣と慶長二十年の夏の陣の二度に渡って行われたこの合戦の経緯について、このブログでは、すでにいくつものエピソードを書かせていただいていますので、一つ一つに関しては【大坂の陣の年表】>>で見ていただくとして、先日、5月7日のページで書かせていただいた毛利秀元の奮戦・・・(5月7日参照>>)

そのページで、この秀元のただならぬ奮戦ぶりは、それだけ、家康が、彼ら毛利に対して、疑いの目を向けていたからではないか?てな事を書かせていただきましたが、それは、毛利家にとって、まさにただならぬ人物が参戦していたから・・・と書かせていただきました。

その、ただならぬ人物というのが、本日の主役・佐野道可(どうか)こと内藤元盛なのです。

内藤元盛の内藤氏は、もともと中国地方一帯に勢力を誇った守護大名・大内氏の家臣

元盛の祖父・内藤隆春は、大内義隆に仕えて家老にまで上りつめた人物で、その隆春の姉は義隆の養女となった後、毛利元就の長男・隆元に嫁いでいます(8月4日参照>>)

つまり、毛利輝元の叔父さんになるわけです。

また、その隆春の娘が毛利一門の宍戸元秀に嫁いて生まれたのが元盛・・・その人、という事で、ややこしいですが、つまりは、毛利の家臣と言えど、れっきとした血縁関係のある重臣という事になります。

とにかく、そのような人物が、大坂城に入って采配を振るっていたわけですから、事は重大です。

その事を、徳川方がどの時点で知ったのかは、定かではありませんが、事が公になるのは、やはり、大坂城の落城後、京都に潜伏していた元盛が、徳川方に捕らえられた時・・・。

きびしい取調べに対して、元盛は、その素性だけは自白しますが、あくまで、「豊臣家に恩義を感じていた自分の意志によって独断で大坂方に走ったのであって、輝元以下、毛利家は、何も知らない事である」と主張し続けます。

しかし、もちろん、徳川方は、すぐには納得できません。

取調べ役となった柳生宗矩(やぎゅうむねのり)(3月26日参照>>)は、元盛の2人の息子・内藤元珍(もとよし)粟屋元豊(あわやもととみ)を呼び出し、彼ら兄弟にも尋問しますが、「俺ら兄弟は、もともとオヤジとは仲悪いんで、最近は話もしてませんし、ぜんぜん知りません」と主張します。

彼らの言い分に一貫性があって、信用のおけるものだったのか・・・とにかく、徳川方は、納得して、これ以上、毛利への追及はしませんでした。

確かに、例の関ヶ原の合戦の後の大幅な減封で、周防長門(山口県)の2国に押し込められた事に不満を持った毛利の家臣たちが出奔して豊臣に走るという事があったのも事実で、元盛も同様に思われのでしょう。

・・・で、結局、その元盛が、慶長二十年(元和元年・1615年)5月21日、山城国・鷲巣寺にて切腹し、後に『佐野道可事件』と呼ばれるこの出来事は一件落着となるのですが・・・

やっぱり、そこに、毛利家としての関与があったのか?なかったのか?気になるところではあります。

なんせ、以前書かせていただいたように、毛利は、あの関ヶ原でも、東西どっちが勝ってもいいように画策していたのではないか?(7月15日参照>>)と思われるふしがあるわけですから、今回の大坂の陣でも、豊臣×徳川・・・どっちが勝っても生き残れるように考えていた可能性大です。

後世の歴史を知っている私たちから見れば、もう、この大坂の陣の頃の家康の勢いは止めようがなく、もはや豊臣は風前の灯のようにも見えますが、よ~く考えてみたら・・・そうです、家康の年齢です。

この時の家康の年齢は73歳・・・戦国の世の寿命から見れば、もう、明日をも知れぬ年齢です。

夏の陣の大坂城総攻撃の日に、真田幸村「家康の首さえ取れば、戦況が変わるかも・・・」と、とにかく、家康の本陣めがけて突っ込んでいった話をさせていただきましたが、それと同じです。

大坂の陣の前でも後でも、途中でも、家康が亡くなってしまった時点で、徳川家の勢いが、どう変わるかは、わかったもんじゃありません。

なんせ、徳川に味方している武将の中には、多くの元豊臣家臣が含まれているわけですから、脅威に感じる家康が亡くなって、逆に、向こうには、秀吉の遺児・秀頼がいる・・・となると、彼らの心情に変化が起こる可能性も無きにしもあらずです。

そこで、輝元と秀元は考えます。

徳川には、秀元が思いっきり奮戦して忠誠心を見せつけ、一方で、豊臣方にも人を送ろう・・・しかし、輝元やその息子・秀就(ひでなり)では、完全に毛利が豊臣についた事になってしまうので、それはムリ・・・・かと言って、中途半端な人物では、豊臣に対して信用が得られない・・・

そこで、白羽の矢が立ったのが、血縁関係のある重臣・内藤元盛・・・彼なら、輝元&秀就の分身として充分に役目を果たせます。

元盛は、その名を佐野道可と改め、軍資金・大判500枚を手土産に、10人の家臣を従えて大坂城に入ります。

もちろん、勝利のあかつきには、旧領の6ヶ国の返還という条件を持たせて・・・

・・・と、これは、『萩藩閥閲(ばつえつろく)など、萩藩の複数の史料に登場するお話ですが、これに関しては、合戦後100年ほど経ってから書かれている事から、後世の創作ではないか?という疑いもあります。

ただ、道可=元盛という毛利の重臣が大坂方にいた事は事実ですから、その事実に、後々、先祖のカッコイイ話として付け加えたのでは?という事なのですが、それにしては、もう一つ、萩藩の家老・福原広俊吉川広家に宛てた手紙というのも残っているのです。

それは、大坂夏の陣の直前に書かれたとされる手紙なのだそうですが・・・

その広俊は、冬の陣の最中に、豊臣方に元盛がいるという噂を聞きつけますが、その時は、単なる噂として一蹴していたのを、夏の陣の直前になって、本当に元盛がいる事を確信し、秀元にその事を聞いたところ「俺、知~らない」とトボけたのだとか・・・で、

「家老の俺にナイショで、勝手な画策してからに、どうせ、輝元はんと秀元はんがやってるんやろけど、これが萩に知れたら、地元で留守を預かってる重臣らもカンカンでっせ」という、怒り爆発の内容だそうで、この手紙がホンモノだとすると、やっぱり、輝元の名代として元盛を送り込んだという事になります。

また、その事がどこかから洩れて噂となっている事で、いつしか、その噂が徳川方に伝わる事を考え、逆に、秀元が異常に奮戦したという納得のいく結果が得られる事にもなります。

さらに、この事件の後、疑いが晴れて帰国した元盛の息子・元珍に、7月5日付けで、輝元から、「息子が家督を継いでも良い」というお許しが出ているのですが、もし、元盛が、毛利を出奔して豊臣方についたのなら、受け継ぐ家督など無い事になりますから、やはり、ここでも、元盛が、毛利家の指示のもと、大坂城に入った可能性が高いと言えます。

しかし、わずか、その3ヵ月後に、輝元の態度は急変します。

慶長から元和に元号が変わった10月19日、輝元は、元珍・元豊兄弟に、いきなり切腹の命令を出し、2人は、周防・滝谷寺にて自刃させられてしまいます。

おそらくは、何やら新たな証拠らしきものが見つかって、またまた、毛利に疑惑が浮上した・・・ってところなのでしょうが、元盛の大坂城送り込み作戦自体が、仮説の域を出ないものである以上、これも、想像でしかありません。

何やら、ウサン臭さ満載の、悲しい結果となってしまいましたが、2人の兄弟の死をもって、『佐野道可事件』は、本当の結末を迎える事になったのです。
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2009年5月20日 (水)

加賀百万石を守った男~前田利長・毒殺疑惑

 

慶長十九年(1614年)5月20日、加賀百万石の祖・前田利家の長男で、初代・加賀藩主となった前田利長が亡くなりました

・・・・・・・・・・・

親友・豊臣秀吉の政権下で、五大老の1人として活躍した父・前田利家・・・その利家とまつの間に長男として生まれたのが前田利長(としなが)さんです。

秀吉亡き後、五大老として徳川家康に対抗できる位置にあった利家でしたが、彼も、秀吉の後を追うように亡くなってしまい(3月3日参照>>)、その夜には、もう、加藤清正らの武闘派の面々が、文治派の石田三成を襲撃するという事件が起こり(3月4日参照>>)豊臣家内での内紛の兆しが見え始めます。

利長は、亡き父の家督を継いで五大老の1人となり、秀吉の息子・豊臣秀頼傅役(もりやく)も引き継ぐ事になりますが、ご存知のように家康は、利家という気をつかう相手がいなくなったせいか、生前の秀吉と交わした約束事を無視して、大名同士の勝手な婚姻を結んだり、勝手に恩賞を与えたり、自らの派閥の形成へと動き出します。

利家は、その死の間際に、遺言として、息子・利長に「三年間は加賀に戻るな」と言い残していましたが、そんな豊臣家内のモメ事や、家康の態度に嫌気がさしたのか、利長は、父との約束を破って、加賀へと戻ってしまいます。

その利長の態度に、「これ幸い」前田家潰しに取り掛かる家康・・・「秀頼の傅役を無断で放棄して加賀に帰ったのは、浅野長政大野治長(はるなが)らと組んで、家康暗殺を企てているのだ」と、根も葉もない暗殺計画をでっち上げ、加賀征伐を仕掛けてきたのです。

この家康からの売られたケンカを、買うのか?買わないのか?・・・前田家の家臣団は真っ二つに分かれます。

そもそも、父・利家の遺言である「三年間は加賀に戻るな」というのは、「幼い秀頼と豊臣家の現状を守れ」という意味ですから、すでに豊臣家のバランスを崩そうとしている家康の味方になる事は、その遺言に反してしまう事になります。

・・・かと言って、家康に対抗して、この先、前田家が存続できるのかどうか・・・

ここで、「亡き利家の遺言に反してでも前田家を存続させる道を選ぶべき」との意見を通したのが、他ならぬ利家の妻=利長の母・まつでした。

まつは、自ら、家康の求めに応じて、人質として江戸へと下る道を選びます。

この時、まつは、「覚悟はできているので、いざという時は、母を捨ててでも家を守りなさい」と、利長に言い残して江戸に向かいます(5月17日参照>>)

それが、慶長五年(1600年)5月の事・・・そう、その前月の4月1日には、会津上杉景勝家康からの上洛要請を拒否し(4月1日参照>>)、4月14日には、景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)が、家康に対して強気の「直江状」を叩きつけています(4月14日参照>>)

それを受けた家康が、会津征伐と称して大坂をあとにするのが6月16日ですから、もう、すっかり関ヶ原へのカウントダウンが始まっていた時期という事になります。

母の思いをしっかりと受け止めた利長・・・関ヶ原の現地へ出陣する事はありませんでしたが、北陸の関ヶ原とも言える浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)での勝利をはじめ、北陸における反家康勢力を抑えるという役目を果たし、見事、大幅加増で前田家を守り抜きました。

ただ、母の意志を汲み、人質となった母の身の安全のために、関ヶ原で家康についた利長ですが、その心の内が、どうであったかは定かではありません。

いや、おそらく、心から望んで家康の味方になったわけではなかったでしょう。

利長は、関ヶ原から五年後、わずか43歳にて隠居して、異母弟の利常(としつね)に家督を譲ります。

そして、その9年後の慶長十九年(1614年)5月20日53歳でこの世を去る事になるのですが、その利長が、心の底から自分の味方にはなっていない事は、おそらく、家康自身も気づいていたに違いありません。

なぜなら、上記の隠居という事態になっても、まだ、まつが加賀へ返される事はなく、まつが金沢に戻る事ができたのは慶長十九年(1614年)の6月・・・つまり、利長の死の1ヵ月後です。

しかも、この慶長十九年・・・何があったか、もうお解かりですね。

そう、大坂冬の陣です。

その原因となった、あの方広寺の鐘に、家康がイチャモンをつけるのが7月21日・・・(7月21日参照>>)

まさに、利長の死はその直前の出来事となるわけですが、もちろん、徳川幕府の正式な史料には、その死因について「病死」と書かれていて、利長が長い間、病気に苦しんでいた事が記されています。

しかし、このタイミングでの死には、やはり、疑いを持ちたくなってしまうわけで、さらには、病気に苦しむ利長のために、家康から医師を派遣した」なんて事を聞くと、逆に「その医者に毒を盛られたんちゃうん?」と、思ったりなんかもします。

7月17日には、大坂城にいたあの織田信長の弟・織田信包(のぶかね)急死していて、彼にも毒殺疑惑がある事も、以前書かせていただきました(7月17日参照>>)

やはり、利長の豊臣家への忠誠心は、ずっと、彼の心の奥底に残っていて、家康もそれを脅威に感じていたのかも知れませんね。

ただ、一方では、その忠誠心ゆえ、豊臣家を守りきれない自分の立場に心を痛めていという話もあります。

『懐恵夜話(かいけいやわ)という加賀藩の文書には、その冬の陣の前には豊臣方から「味方につくように」とのお誘いの書状が送られてきてはいたものの、未だ母は人質の身、さらに、家督を譲った弟・利常の奥さんは家康の孫娘・・・しかし、自分の気持ちは・・・と、大いに悩んでいた事が書かれています。

・・・で、結局その葛藤に悩まされた利長は、自ら毒を飲んで自殺したのだとも言われています。

病死・毒殺・自殺・・・もちろん、いずれが事実かは藪の中ですが、彼が、自らの気持ちを押し殺し、母とともに、父の遺言に背いてまで、家康傘下を貫いてくれたおかげで、加賀百万石は守られ、明治に至るまで、その安泰をはかる事ができたわけですから、やはり、以前、利常さんのページのコメント欄で書かせていただいた通り(10月12日参照>>)加賀藩の祖は前田利家でも、初代・藩主は利長さん・・・江戸時代の加賀百万石は利長あっての事だと、個人的には思っております。
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2009年5月19日 (火)

ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月19日、北越戊辰戦争において長岡城が陥落しました。

・・・・・・・・・・・・

鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、江戸無血開城の後、さらに北へと向かう新政府軍に対し、会津藩庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結成し、抵抗する東北の諸藩・・・

小千谷(おぢや)会談にて、新政府との話し合いが決裂した長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は、5月13日、新政府が本営を置く、その小千谷を攻撃する拠点とすべく、すでに新政府軍のものとなっていた軍事的要所・(えのき)峠と朝日山を奪いました(5月13日参照>>)

その後、しばらくの間、信濃川を挟んでこう着状態となった両者・・・鳥羽伏見の開戦以来、ほとんど負け知らずで進んできた新政府軍では、この朝日山争奪戦での手痛い敗北に動揺が走り、この方面からの撤退の声も出始めます。

しかし、断固として撤退を受け入れなかったのは、長州藩の奇兵隊を率いていた総督府下参謀・山県有朋(やまがたありとも)・・・

Nagaokazyoukoubouzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

有朋は、現在の状況を打開すべく、小千谷より北にある関原から軍を進めて信濃川を渡り、同盟軍の背後から長岡城を急襲しようという作戦を提案しますが、薩摩藩の総督府下参謀・黒田清隆(8月23日参照>>)には一蹴されてしまいます。

しかたなく、有朋は、奇兵隊出身の三好重臣(みよししげおみ・軍太郎)らとともに、慶応四年(明治元年・1868年)5月19日、この作戦を決行する事にします。

一方、列藩同盟軍の継之助も、このまま朝日山へ新政府軍を引きつけておいて、密かに主力部隊を、北にある前島に集結させ、そこから信濃川を渡り、小千谷の本営を襲撃する作戦を立てます。

実は、この作戦の決行も、同じ5月19日でした。

ただし、有朋の作戦決行は5月19日未明・・・
対する、継之助の作戦決行は5月19日夜・・・

この時間の差が、両者の勝敗を分けました。

薩長の精鋭部隊に、加賀藩高田藩の兵を加えた約1500の新政府軍は、まだ夜が明け切らぬ信濃川を渡ります。

先日来からの雨によって増水した信濃川は激流と化していましたが、そこは精製部隊・・・何とか、切り抜けて渡りきり、一斉に長岡城に攻めかかります。

長岡城は、信濃川を天然の要害とした湿地に構築された平城でしたが、すでに砲撃が主流となっていた幕末の戦いには、その天然の要害は、ほぼ無力・・・しかも、同盟軍は、未だ朝日山や榎峠に多くの兵を配置していましたし、継之助が考えていた前島にも、わずかの兵しか集結してはいません。

急襲を知った継之助は、すぐに長岡城へと駆けつけ、大手門にて、自ら、岡藩の秘密兵器・ガトリング砲を手に奮戦します。

このガトリング砲というのは、アメリカの南北戦争の時に発明された手動式の機関銃・・・ハンドルを回すと、数本の銃身が束ねられた中心が回転して銃弾を発射するもので、1分間に150発~200発が発射されるズグレモノ。

日本には3門輸入され、そのうち2問を、この長岡藩が持っていたのです。

しかし、準備整わぬまま攻撃された状態の長岡城・・・もはや、勝敗は明らかでした。

やがて、継之助自身が敵の銃撃を肩に受けて負傷したため、城内へと戻り、藩主の牧野忠訓(ただくに)らを城外へと逃がし、一旦、長岡城を捨てる決意を固めました。

長岡城を出て、東へ・・・悠久(ゆうきゅう)、さらに森立(もりたて)峠へと撤退を余技なくされる列藩同盟軍・・・

振り返ると、遠く燃え盛る長岡城・・・しかし、もちろん、このままでは終われません。

心の奥底で、長岡城の奪回を決意する継之助・・・まずは、新政府軍が前線の補給基地と位置づけていた今町(いままち)へ狙いを定めます。

今度は、最善の準備を整え、充分な現状調査を行い作戦を決行する継之助・・・ですが、そのお話は、やはり、今町攻略への戦いが行われる6月1日でどうぞ>>
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2009年5月18日 (月)

函館戦争で敵味方の区別なく・・・医師・高松凌雲

 

明治二年(1869年)5月18日、先日の5月11日の函館総攻撃の日に書かせていただいたように、その翌日から始まった黒田清隆(くろだきよたか)による再三の降伏勧告に応じて、ついに榎本武揚(えのもとたけあき)五稜郭の開城を決意し、函館戦争が終結しました。

・・・・・・・・・・・・

この時、当然と言えば当然ですが、黒田と榎本は敵同士なので、この黒田の再三の降伏勧告を榎本に伝えた人・・・つまり、2人の間に入って、函館戦争の終結に尽力した人がいたわけです。

Takamaturyouun500 その人の名は高松凌雲(りょううん)・・・幕府側の医師でした。

彼は、久留米の出身で、幕臣の養子となっていた兄・古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)を頼って、一旦、江戸に出た後、大坂緒方耕庵(おがたこうあん)に医学を学びました。

やがて、慶応二年(1866年)、当時大坂城にて病に倒れた第14代将軍・徳川家茂(いえもち)の治療のためにその実力を買われ、奥医師に抜擢されます。

翌年には、パリ万博への特派使節(3月7日参照>>)の1人としてヨーロッパに渡り、そこで西洋医学を直接学ぶというラッキーにも恵まれました。

ところが、そこへ勃発したのが、あの鳥羽伏見の戦いです(1月3日参照>>)

幕臣の兄の事が心配で、いてもたってもいられない凌雲は、早々に帰国の途につきますが、彼が日本に着いた時には、すでに江戸城は開城され、江戸は新政府のものとなり、心配していた兄は、江戸城開城を不服として鳥羽伏見の生き残りを召集し、衝鋒隊(しょうほうたい)という組織を結成して、関東から北に向かって行く新政府軍相手に転戦中でした。

そこで、凌雲は、その時、江戸湾を出る寸前だった軍艦・開陽丸(8月19日参照>>)にいた榎本のもとを訪ね、頼み込んで軍艦に乗せてもらったのでした。

そのまま、榎本と行動をともにしてきた凌雲は、その後、蝦夷共和国(12月15日参照>>)となった函館で、函館病院長を務めていたのです。

そして、例の明治二年(1869年)5月11日新政府軍による総攻撃が始まった時(5月11日参照>>)、当然の事ながら、新政府軍の兵士が病院内にも踏み込んで来たわけですが、健康な者にならともかく、治療中の患者にまで、「賊軍め!覚悟!」とばかりに刀を振りかざしたのです。

それを見て凌雲は一喝!

「病院は、敵味方の区別なく治療しとるんや!ケガ人や病人まで攻めるなんぞ、武士道に反する行為やろ!」と・・・

そうです。
彼は、それまでの木古内(きこない)矢不来(やふらい)の戦い(4月29日参照>>)で傷ついた兵士たちを、敵味方の区別なく収容・・・つまり、ここでは、新政府軍の兵士も治療を受けていたのです。

凌雲の一喝で、その事実を知った新政府・薩摩軍の隊長は、慌てて、この病院の玄関に『薩州隊改メ』と書かれた札を立てさせたのだそうです。

つまり、「ここは、すでに薩摩が確認したので攻撃をしないように」と・・・もちろん、その立札が立った後は、この病院が攻撃される事はありませんでした。

この一件で、新政府軍からの信頼を得ると同時に、薩摩とのパイプができた凌雲・・・で、薩摩藩士であった黒田が、この凌雲を通じて、榎本を説得したのです。

凌雲から、その人となり聞いた榎本は、黒田を信頼して大事な大事な国際法の洋書を、「このまま燃やしてしまうわけにはいかない」と彼に預け、黒田は黒田で、榎本を「このまま死なせてしまってはいけない」と、熱意の説得をしたわけです(2007年5月18日参照>>)

かくして、五稜郭・開城の前日、亀田八幡宮の近くの応接所で、2人は初対面を果たしたのですが、間に入ってくれた凌雲のおかげで、またたく間に意気投合し、明治二年(1869年)5月18日五稜郭は開城される事に決定したのです。

戦争終了後の凌雲は、未だ治療が必要な88人の患者とともに江戸(東京)に移動・・・やがて、やっと最後の患者が退院の運びとなった10月下旬になって、阿州藩(徳島県)預かりの身となります。

・・・と、ここで、簡単に阿州藩と言いましたが、これの決定が意外と難航したのだとか・・・

と、言うのも、負けた幕府の奥医師なので、賊軍の人間として「預かり」の処分という罪人扱いなわけですが、彼が、優秀な医者である事はすでに超有名・・・「預かる=自分の藩に来てくれる」わけですから、どの藩も、彼を預かりたくてしかたがないわけですよ。

取り合いの末、凌雲を勝ち取った阿州藩でしたが、翌年の3月には、その罪が許され、晴れて自由の身となった時、当然、「この地に留まってくれるように・・・」と、彼を説得するのですが、凌雲は、「主君である徳川家が静岡なので・・・」と、その話を断り、もちろん、その後にやってくる他の藩からのお誘いも、そして、新政府からの出仕の要請もすべて断るのでした。

それには、やはり、お世話になった徳川家への義もあったのでしょうが、実は、かの函館戦争で、総攻撃の翌日の5月12日、敵の砲弾を受けた兄・佐久左衛門が、その4日後に亡くなってしまったという事があり、それも影響しているのかも知れません。

彼は、浅草で開業し、町医者として貧しい人々の治療をする道を選びます。

やがて、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)で、またまた、名医の凌雲へ、声がかかります。

しかし、それも、断ります。

博愛の精神のもと、敵味方の区別なく治療をした凌雲も、兄の命を奪った戦争という敵には、もう、接したくなかったのかも知れません。

ところが、その後、その西南戦争での病院施設の劣悪な環境を、人づてに聞いた凌雲・・・自ら、手伝いを申し入れ、その環境の改善にあたっています。

ケガ人の事を考えると、やっぱり、じっとしていられなかったんでしょうね。

その後、仲間と一緒に、貧困にあえぐ人々を無料で診察する同愛社という組織を設立し、大正五年(1916年)10月12日、81歳でこの世を去るまで、貧民施療一筋に尽力しました。

その日、彼が亡くなった事を知らせる新聞記事には、「それまでに治療した患者の数は111万人を越える」と書かれていたのだとか・・・。

医は仁術・・・彼もまた、函館戦争において「このまま死なせてしまってはいけない」人物だった事は確かです。
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2009年5月16日 (土)

時代別年表:平安時代(後期・源平争乱の時代)

このページは、平安時代・後期の武士が活躍する源平争乱の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaigenpei



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
1156 7 2 鳥羽天皇・崩御
【乱のきっかけとなった天皇の死】
7 11 保元の乱
【武士の時代の幕開け…保元の乱】
【天皇・摂関・源平…それぞれの乱】
7 14 藤原頼長・没
【乱に散った藤原頼長の悲しい末路】
1158 平清盛が大宰大弐に…
【清盛と日宋貿易】
1159 12 9 平治の乱・勃発
【乱を引っ掻き回した藤原信頼】
12 15 平治の乱で信西の首が晒される
【平治の乱で「さらし首」となった信西】
12 25 平治の乱で二条天皇が脱出
【平治の乱~清盛の天皇救出劇】
12 26 平治の乱・終結
【平治の乱・終結】
1160 1 4 源義朝が騙まし討ちされる
【サウナで謀殺!無念・源義朝の最期】
1 17 源義朝の愛妾・常盤御前が都落ち
【伝説に彩られた常盤御前…と信長?】
1 25 悪源太・義平が斬首される
【世が世なら源氏の棟梁~悪源太義平】
2 9 近江にて源頼朝が捕まる
【少年・源頼朝を逮捕!死罪から流罪へ】
1164 8 26 崇徳天皇・崩御
【史上最強!崇徳天皇・怨霊伝説】
12 17 三十三間堂で落慶法要
【蓮華王院=三十三間堂の建立】
1167 2 11 平清盛が太政大臣に就任
【清盛の異常な出世~天皇ご落胤説】
【暴君・清盛~もう一つの顔】
1170 8 6 源為朝・自刃
【源為朝・琉球王伝説】
1171 2 14 祇王・没?
【平清盛の寵愛を受けた祇王と仏御前】
12 14 平清盛の娘・徳子が入内
【建礼門院・平徳子の入内】
1172 2 10 平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮に
【女性の助力で清盛・頂点へ…】
6 11 平清盛が厳島神社に法華経を奉納
【平清盛と厳島神社】
1176 6 17 義経と弁慶が五条大橋で出会う
【義経×弁慶・運命の出会い】
7 8 建春門院・平滋子が死去
【平家の盛と衰を導いた女性…平滋子】
1177 5 29 鹿ヶ谷の陰謀
【悲喜こもごもの鹿ヶ谷の陰謀】
1179 3 2 鬼界ヶ島に流された俊寛が死亡
【鬼界ヶ島に1人~俊寛の悲しい最期】
11 17 治承三年の政変
【ブチ切れ清盛の治承三年のクーデター】
1180 4 9 以仁王が令旨を発する
【逆賊・平清盛を倒せ!】
5 26 以仁王と源頼政が挙兵
【源平合戦の幕開け 宇治の橋合戦】
【以仁王・生存説】
8 17 源頼朝が伊豆にて挙兵する
【伊豆に白旗!頼朝挙兵】
8 23 石橋山の合戦
【頼朝敗走・石橋山の合戦】
8 27 衣笠城の合戦
【この命、頼朝に捧ぐ~三浦義明の合戦】
9 3 頼朝が葛西清重に参陣要請
【頼朝に味方した秩父平氏・葛西清重】
9 7 市原の合戦
【義仲・初陣!市原の合戦】
10 6 源頼朝・鎌倉入り
【源頼朝・鎌倉で再起】
10 20 富士川の戦い
【源平激突!富士川合戦】
10 21 源頼朝と源義経が対面する
【頼朝・義経黄瀬川の対面】
11 4 金砂城の戦い
【源平争乱…金砂城の戦い】
11 16 福原から都を戻す
【平清盛・全盛からの転機~福原遷都】
【わずか半年の都・福原】
12 28 南都・焼き討ち
【故意?失火?重衡の南都焼き討ち】
1181 1 14 高倉上皇・崩御
【峰の嵐か松風か~天皇と小督の悲恋】
2 4 平清盛・没
【諸行無常・平清盛の死】
3 16 墨俣川の戦い
【平家の圧勝~墨俣川の戦い】
6 14 横田河原の合戦
【木曽に義仲あり!横田河原の合戦】
1183 5 3 越前・加賀の合戦
【倶利伽羅峠の前哨戦~越前・加賀】
5 9 般若野の合戦
【義仲快進撃の幕開け!般若野の合戦】
5 11 倶利伽羅峠の戦い
【義仲圧勝!倶利伽羅峠の合戦】
6 1 篠原の合戦
【無残やな 兜の下の篠原の合戦】
7 25 平家・都落ち
【維盛の都落ち】
【忠度の都落ち】
【経正の都落ち】
7 28 木曽義仲が京に入る
【木曽義仲・堂々の入京】
10 1 水島の戦い
【義仲・初の敗戦~源平・水島の戦い】
11 18 木曽義仲が法住寺殿を攻撃
【木曽義仲・法住寺殿を焼く】
12 20 上総介広常が梶原景時に暗殺される
【奥州制覇を狙う頼朝に消された広常】
1184 1 11 木曽義仲が征夷大将軍に任命される
【征夷大将軍・木曽義仲】
1 16 木曽義仲の追討開始
【義仲追討に義経が動く】
【宇治川の先陣争い】
1 21 木曽義仲が粟津で戦死
【木曽の最期】
【巴御前~義仲からの最後の使命】
2 7 一の谷の合戦
【生田の森の激戦】
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
2 14 平通盛の妻・小宰相が入水自殺
【ともに一つの蓮のうえ】
3 10 平重衡が鎌倉へ護送される
【平家の公達・平重衡と輔子】
3 28 平維盛が入水自殺
【清盛嫡流の誇りと責任…維盛の決断】
4 10 木曽義仲の息子・義高が頼朝に殺される
【頼朝の愛娘・大姫のお話】
1185 2 16 義経が屋島へ出航
【めざせ!屋島~嵐の船出】
2 19 屋島の合戦
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】
【弓流し】
3 24 壇ノ浦の合戦で平家滅亡する
【潮の流れと戦況の流れ】
【壇ノ浦・先帝の身投げ】
【平家の勇将・平教経の最期】
【平知盛の最期】
【安徳帝生存説】
5 24 源義経が腰越に留められる
【義経の腰越状】
6 21 平宗盛が斬首される
【愛溢れる敗軍の将~平宗盛】
6 23 平重衡・斬首
【捕らわれた敵将との恋…平重衡と千手】
10 11 堀川夜討ち
【義経危機一髪!堀川夜討ち】
10 24 鎌倉・勝長寿院の落慶法要
【高綱~意地とプライドのパフォーマンス】
11 3 源義経が都を出る
【義経都落ち】
11 17 静御前が吉野で捕まる
【静御前・吉野にて捕まる】
12 20 源頼朝軍が吉野山に義経を追う
【佐藤忠信・吉野山奮戦記】
1186 3 1 静御前・鎌倉入り
【静御前の白拍子なる職業】
4 8 鶴岡八幡宮での静の舞い
【鶴岡八幡宮・静の舞】
5 12 源行家が斬首される
【寄らば大樹の陰も最後に~行家・斬首】
6 2 平頼盛が死去
【生き残った清盛の弟・平頼盛】
7 29 静御前が男の子を出産
【静御前・男児出産】
8 15 源頼朝が鶴岡八幡宮で西行に会う
【武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎の西行】
9 21 佐藤忠信・討死
【みちのくの勇者・佐藤忠信の最期】
1187 2 10 義経が奥州の藤原秀衡のもとに逃げ込む
【義経を受け入れた藤原秀衡の思惑】
1189 4 30 藤原泰衡が源義経を討つ
【衣川の合戦~義経・主従の最期】
【夫・源義経との最期を選んだ郷御前】
【武蔵坊弁慶・架空の人物説】
【源義経=ジンギスカン伝説】
【義経と牛若は同一人物か?】
6 26 藤原泰衡追討の院宣を要求
【頼朝が『泰衡追討の院宣』を要求】
8 10 阿津賀志の戦い
【進む頼朝VS防ぐ泰衡】
【謎が謎呼ぶ結城城・埋蔵金伝説】
9 3 藤原泰衡が家臣に殺害される
【奥州・藤原氏の滅亡】
1190 12 1 源頼朝が右近衛大将・権大納言に…
【右近衛大将を3日で辞任・頼朝の思惑】
1191 10 31 栄西が臨済宗とお茶を持ち帰る
【栄西のお土産~日本茶の日】
【お茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
1192 2 8 貞慶が隠遁を願い出る
【エリートコースを捨てて…信西の孫・貞慶】
7 12 頼朝・征夷大将軍に任命される
【鎌倉幕府の誕生は…いつ?】
源平豆知識 【橋姫の怖い話】
【ほおずき市の起源は頼朝さん?】
【僧侶の武装と堕落】
【八幡太郎義家が冷遇されたワケは?】
【後白河天皇と今様】
【今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」】

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2009年5月15日 (金)

幕臣の意地・彰義隊~散り行く上野戦争

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月15日、上野寛永寺に陣取る彰義隊へ、政府軍が総攻撃を開始・・・世に言う『上野戦争』がありました。

・・・・・・・・・・・

鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)の後、新政府に恭順な態度を示し、上野・寛永寺にて謹慎生活を送る第15代・江戸幕府将軍の徳川慶喜(よしのぶ)・・。

その警固のためと称し結成された彰義隊(しょうぎたい)(2月23日参照>>)は、途中、幕府から、江戸の町の治安維持を任されたりもしましたが、4月11日に江戸城が明け渡され、5月1日には、江戸の治安維持の役目が幕府から新政府大総督府へと移る事が決定され、幕府は寛永寺の彰義隊に解散命令を出すのですが、なおも、彼らは上野に居座り続けます。

ついに、新政府首脳陣は、彰義隊の討伐を決定し、兵法に通じた大村益次郎を江戸へ派遣・・・度重なる軍儀にて、5月15日の上野総攻撃が決定・・・というところまで、すでに、書かせていただきました(4月4日参照>>)

かくして慶応四年(明治元年・1868年)5月15日未明、雨の降りしきる中、新政府軍は江戸城を出陣・・・益次郎の作戦通り、上野の山を取り囲むように陣取ります。

Uenosensoucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

最も重要と思われる黒門の前には、西郷隆盛が指揮する薩摩藩に加え、鳥取熊本の3藩。

不忍池(しのばずのいけ)を挟んだ本郷台に建つ加賀藩邸には佐賀岡山の3藩。

北西に位置する団子坂には長州大村佐土原の3藩・・・さらに、長州藩の別働隊を用意し、その他の諸藩には江戸市中&周辺の警備にあたらせました。

・・・と、この配置を見てみると、あきらかに北東が薄い・・・実は、これも益次郎の作戦で、すべて囲んでしまわず、ある程度バレバレの逃げ道を作っておいて、敵に決死の突撃をさせないための策でした。

人間、窮地に陥ると火事場の馬鹿力を発揮してしまいますし、益次郎にとって、彰義隊の隊士一人一人を根絶やしにする必要はなく、彰義隊という団体が機能しなくなれば良いわけですから、今日の戦いに関しては、何よりも、すみやかに勝敗を決して解散してくれればそれでいいわけです。

やがて夜が白々と明け、未だ静かな上野の山を見回る彰義隊・頭並(かしらなみ)天野八郎・・・彼が根岸のあたりにいた頃、突然響き渡る砲撃の音・・・慌てて、黒門まで駆けつけると、黒門より前に出張るように造った畳や俵の防御壁に、身を隠しながら小銃を撃ちかけている彰義隊の姿。

しかし、薩摩藩の容赦ない砲撃に、そのにわか作りの防御壁はすぐに破られ、黒門の内側に撤退して、今度はそこの土塁や胸壁に身を隠しながら銃撃し、後方の山王台からは大砲が援護・・・さすがに、こちらはにわか作りでないぶん、薩摩藩もなかなか破れません。

一方の団子坂のほうでも戦闘が開始され、谷中門をめざして進む長州藩でしたが、雨のため、途中にある藍染川の水かさが増し、なかなかその先へ進めません。

しかも、ここでは、彰義隊隊士が、民家や寺に潜みながらのゲリラ的攻撃を加えるうえ、新政府軍が用意した最新鋭のスナイドル銃の使い方がわからず、宝のもちぐされとなる始末・・・

池に面した穴稲荷門へも、新政府軍の岡山柳川などの藩が、小舟で池を渡って攻撃を仕掛けますが、なんせ、池の位置が低いですから、逆に、岸の上から狙い撃ちされてしまいます。

しかし、この一進一退の様相が続いたのは、開始から2~3時間程度・・・それは、黒門での戦いに進展がない事で考えた鳥取藩と熊本藩の作戦変更にありました。

鳥取藩と熊本藩は黒門での攻撃を薩摩藩に任せ、自らは迂回して寛永寺の東側に回りこみ、建物の2階から銃撃・・・思わぬ方向からの攻撃に、彰義隊は、少し、足並みが乱れます。

さらに、加賀藩邸に設置されていた佐賀藩の誇るアームストロング砲での攻撃が、ここにきて本領を発揮し始めます。

以前、江藤新平さんのご命日のページでチラッと触れましたが(4月13日参照>>)、この佐賀藩が持ってる最新鋭の武器は、とにかくスゴかったんです。

そのアームストロング砲が、寛永寺の吉祥閣(きっしょうかく)という象徴的な建物に命中し、炎に包まれて燃え上がると、さすがに周囲の者たちには動揺が走ります。

ここで、西郷の突撃許可により、薩摩藩が黒門へ殺到すると同時に、グッドタイミングで、長州の別働隊が動きます。

実は、この別働隊・・・団子坂から谷中門を目指していた長州藩の部隊とは、別に組織されていた部隊で、見た目はまるっきり会津藩の格好をした部隊・・・「会津から来た援軍です」と、堂々と新黒門から進入し、奥に入ったところで、いきなり会津の旗を降ろして、長州の旗を掲げ、鉄砲で攻撃をしたのだとか・・・

さすがに、これには彰義隊も大混乱し、アッと言う間に薩摩藩に黒門を突破され、敗走する兵で、あたりはさらに混乱状態となります。

それでも、中央に位置する根本中堂付近で、最後の決戦をしようと、わずかの兵が残っていたのですが、それも、この場を指揮する大久保忠宣(ただのぶ)が銃弾に倒れるに至って、「もはやこれまで!」と、歴代将軍のお墓の前で割腹する者や、燃え盛る堂搭にその身を投じる者が続出します。

もちろん、益次郎の考えた通り、多くの者は北東の根岸方面へと敗走していきました。

その中には、かの天野八郎も・・・。

江戸城西の丸にて、「夕方には始末がつきますよ」と語っていた益次郎のもとに、戦勝の知らせが届いたのは、まさに、夕方5時頃だったと言います。

こうして、上野戦争は、わずか一日で決着がつく事になりました。

旧幕臣で結成した彰義隊が、散り行く者の最後の意地を見せた江戸の死守・・・が、しかし、これで彰義隊が終ったわけではありませんでした。

敗走した者の中には、後にあの榎本武揚とともに北上する者、そして、もう一人・・・そうです、途中の方針転換で、袂を分かったとは言え、彰義隊結成当時は、頭取を務めた男・渋沢成一郎(しぶさわせいいちろう)がいます。

新たに、振武軍(しんぶぐん)を結成し、旧友の窮地に加勢しようと動いていた彼のもとへと上野から命からがら逃げて来た者たち・・・

次ぎに、新政府軍は、彼ら振武軍を相手にする事になるのですが、飯能(はんのう)戦争と呼ばれるそのお話は、5月23日のページでどうぞ>>
 .

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2009年5月14日 (木)

土方歳三の最後の命令を預かった市村鉄之助

 

明治二年(1869年)5月14日、新政府軍に五稜郭を囲まれ、討死を覚悟した榎本武揚は、敵・参謀の黒田清隆に対して、留学先から持ち帰った国際法に関する本『万国海律(かいりつ)全書』を送りました。

・・・・・・・・・・

明治二年(1869年)5月11日から始まった明治新政府軍による函館総攻撃(5月11日参照>>)・・・その後、投降する者、逆に、壮絶な自刃を遂げる者を目の当たりにし、ついに18日、榎本武揚五稜郭の開城を決意し、ここに、品川沖を脱走してからの約9ヶ月にわたる函館戦争は終結するわけですが・・・

実は、上記の『万国海律全書』を送った話も、その五稜郭開城のお話も、すでに一昨年に書かせていただいているので(2007年5月18日参照>>)、今日は、別のお話を・・・

・‥…━━━☆

その函館総攻撃が開始された5月11日に五稜郭を脱出し、ちょうど、この14日頃も、ただひたすら南に向かって走る一人の少年がおりました。

彼の名前は市村鉄之助・・・彼は、美濃国(岐阜県)大垣の生まれで、慶応三年(1867年)、わずか15歳で兄・辰之助とともに新撰組に入隊し、その若さゆえ、即戦力というよりは、いわゆる小姓として雑用をこなしていた少年で、この時も、先の5月11日の戦いで壮絶な討死を遂げた、新撰組・副長の土方歳三の世話係として従っていたのです。

元新撰組隊士・中島登(なかじまのぼり)の記録では、その11日に行方不明となったままとされている彼・・・

また、『幕府陣歿者氏名考』では、16歳で病死したとなっている彼・・・

しかし、実は、死を覚悟した土方の命を受け、その遺品を届けるために五稜郭を脱出し、土方の故郷・日野(東京都日野市)に向かったというのです。

公式の記録には残らない鉄之助の行動・・・

それは、後に、東京の大東屋島田魁(かい)に送った手紙に書かれています。

島田は、あの壬生浪士の時代からの新撰組仲間・・・この函館戦争でも、土方と行動をともにしていましたが、11日は、別働隊として行動していた事で生き残っていたのです。

大東屋は、その手紙の中で、「鉄之助が函館脱出後に大東屋を訪ね、土方から預かった手紙と品物を届けに来た事、土方の手紙を読んでから、その品物の一部を売った事」などを、島田に伝えています。

大東屋によれば、「上記の品物以外にも、土方は鉄之助に刀二本を預けたようだが、大東屋に着いた時には、すでに、その刀二本は無かった」との事・・・

おそらく、質屋に預けてお金に換えたのだろうという事ですが、そのすでに無くなっていた刀も、そして、遺品の一部を売ったお金も、もちろん、鉄之助の旅費となったに違いありません。

銃弾飛び交う中を脱出し、官軍の目をかいくぐってここまで来たのですから、16歳の少年のその苦労は計り知れません。

おそらく、最初に預けられた刀二本も、旅費とするために土方が渡した物なのでしょう。

その後、7月になって、ようやく鉄之助は、土方の義兄にあたる、日野の佐藤彦五郎の家にたどり着き、遺髪や写真、辞世の和歌や手紙などを届けたと伝えられています。

その土方の手紙には「使の者の身の上頼み上げ候」と書かれてあったのだとか・・・

その後、明治四年(1871年)、鉄之助が故郷・大垣に帰るまでの約2年間、その土方の遺言通りに、彼は佐藤家の保護を受けています。

おそらく、わずか16歳の少年を、自らの供として討死させる事をヨシとしなかった土方が、その遺品を故郷に届けさせるという名目で、彼を生き残らせようと考えたのでしょうが・・・

もちろん、日野の佐藤家を去ったその後の鉄之助の消息については、まったくの不明です。

ただ、明治十年(1877年)に勃発した西南戦争(1月30日参照>>)に、西郷軍の1人として参戦して討死したという噂だけが佐藤家に届いたという事です。

もし、その風の便りが本当だとすれば、彼は、わずか22歳で、土方から託されたその命を散らした事になりますが、もし、あの世で土方と再会したのだとしたら、「主君の命令のウラにある真意を読め!」と・・・小姓としての基本を、再び教わっているのかも知れません。
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2009年5月13日 (水)

北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意

 

慶応四年(明治元年・1868年)5月13日、信濃川を挟んでの北越戊辰戦争のプロローグ朝日山争奪戦が行われました。

・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)が明けてまもなく、鳥羽伏見の戦いを皮切りに始まった戊辰戦争(1月9日参照>>)江戸無血開城の後、東北・北陸へと舞台を移します。

旧幕府勢力の強い会津藩庄内藩をターゲットにし、それに同調する東北・北陸の諸藩を倒すべく、東征を開始した新政府軍・・・

対するは、佐幕派の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)・・・。

そんな中、新政府から、「会津藩への出兵か」「3万両の軍用金の献納か」の二者択一を迫られた長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は、その返答を棚の上にあげたままの5月2日、新政府軍が本営を置く小千谷(おぢや)へと向かいました(4月25日参照>>)

後に、「小千谷会談」と呼ばれる事になるこの日の会見に臨んだのは、長岡藩側は継之助ひとり、新政府側からは軍監・岩村精一郎以下、淵辺直右衛門(ふちべなおうえもん)杉山荘一郎白井小助の4名。

継之助は、まずは、先の二者択一の返事をしなかった事を謝罪した後、会津や桑名などの列藩同盟に参加している諸藩から再三の参戦要求を受けている事や長岡藩の藩内でも、列藩同盟とともに立つべきという意見と新政府に恭順すべきと意見が分かれている事などを包み隠さず話しました。

そして、「少しの時間の猶予をもらえたならば、藩内を幕府・新政府のどちらにもつかない中立の立場という意見にまとめる事、その上、東北・北陸の諸藩を新政府に恭順するように説得し、長岡藩が、その仲介役となりたいと訴えたのです。

しかし、この思いは継之助の一方通行・・・会談は、わずか30分で決裂してしまうのです。

この時、未だ血気盛んな23歳の若者だった精一郎は、後に、「あの時、河井の事を夢見物語のアホ家老だと思っていた」と語った事でもわかるように、まったく継之助の事を信用しおらず、彼の言い分を、単なる時間稼ぎだと思い込んでしまったのです。

結局、失敗に終ってしまった小千谷会談・・・継之助は、2日後の5月4日に、列藩同盟への参加を表明し、新政府軍との開戦を決意します。

継之助ら、長岡藩が本拠とする長岡城から、信濃川と並行に走る三国(みくに)街道を南へ下ると、(えのき)朝日山という軍事的要所があります。

Hokuetuasahiyamazucc_2↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そこから、信濃川を挟んで向かい側は、新政府軍の本営のある小千谷・・・この時、榎峠と朝日山には、すでに新政府軍が駐留していましたから、まずは、ここを落し、その後、小千谷を攻撃するという作戦を立てます。

慶応四年(明治元年・1868年)5月10日長岡城下を出陣した彼らは、途中、列藩同盟軍の本営のある摂田屋(せったや)に立ち寄って合流した後、三国街道を行く隊と、山側を迂回する隊の2隊に分かれて南下します。

そして、長岡藩軍事掛(かかり)萩原要人(かねんど)率いる街道南下部隊が正面から、川島億二郎率いる迂回部隊が搦(から)め手から・・・同時に、榎峠の新政府軍に攻めかかりました。

翌・11日には、対岸の小千谷本営からの援軍も参加し、少しは踏ん張る新政府軍でしたが、列藩同盟軍の勢いに勝てず敗退・・・この日、列藩同盟軍は朝日山の占拠に成功します。

実は、この時、すでに敵陣の動きを察していた総督府下参謀の山県有朋(やまがたありとも)は、急ぎ、柏崎から小千谷に向かってひた走っていたのですが、遠く、榎峠から聞こえる銃声を耳にして、「すわ!合戦が始まった!」と、さらに、その足を速めて本営へと向かいました。

そころが、いざ、本営に着いてみると、精一郎以下、現地の幹部らは、思いっきりのんびりと食事中・・・

「対岸で合戦始まっとるのに、何しとんじゃ!」と、怒り爆発の有朋は、すぐさま彼らをクビにし、奇兵隊の同志だった時山直八(ときやまなおはち)を連れて、最前線を視察して、朝日山奪回の秘策を練ったと言います。

かくして、迎えた慶応四年(明治元年・1868年)5月13日・・・この日、その有朋は、更なる援軍を連れてくるため、持ち場を離れていたのですが、ここしばらくの間、あたりを覆っていた霧が晴れた事で、留守を守っていた直八が、「絶好の機会である」と判断し、朝日山への総攻撃を開始したのです。

奇兵隊の200名を引き連れて、信濃川を渡る直八・・・

迎え撃つは、立見鑑三郎尚文(たつみかんざぶろうなおふみ)(3月6日参照>>)率いる桑名藩・雷神隊・・・

一進一退の攻防を繰り返す両者でしたが、途中で直八が銃弾に倒れるに至って、大将を失った新政府軍は、しだいに西岸へと敗退していき、最終的に、この日の戦いは、新政府軍の死者・46名、列藩同盟軍の死者は、わずか9名という列藩同盟軍側の勝利となりました。

鳥羽伏見の戦いで決起して以来・・・ほとんど無傷のまま進んできた新政府軍にとって、この日の負け戦は、手痛い一戦となりました。

結局、このまま信濃川を挟んで、こう着状態が続く事になる両者・・・

やがて、この状態を打開すべく、継之助は、さらに北の前島に主力を集結させ、信濃川を渡って、小千谷の敵の本営を攻撃する作戦を立てます。

一方の有朋も、北側から信濃川を渡って長岡城を攻める作戦・・・

神のイタズラか悪魔の仕業か、この二人の作戦は、ともに、来る5月19日に決行する事に決まるのですが・・・そのお話は、やはりその5月19日のページでどうぞ>>
 .

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2009年5月12日 (火)

和歌で領地を取り戻す~カリスマ歌人・東常緑

 

文明元年(1469年)5月12日、東常緑斎藤妙椿京都にて会見・・・奪われた篠脇城の返還が決定されました。

・・・・・・・・・・・・

なんとも風流なお話です。

文明元年(1469年)と言えば・・・戦国の幕開けとも言える応仁の大乱が勃発(1月17日参照>>)してから2年後の事・・・

もちろん、応仁の乱は10年に渡って繰り広げられますので、まさに、その真っ只中であったわけですが、そんな中で、武力で奪われた城を和歌で取り返す・・・そんな出来事があったんですねぇ。

先日ご紹介した『古今和歌集』(4月18日参照>>)の序文で、編者の1人である紀貫之(きのつらゆき)が書いた文章を思い出しますね~。

歌は「力を用いず天地を動かし・・・鬼をも感動させ、勇猛な武士をも泣かす」

いつの世も、すばらしい歌は、人の心を動かすもの・・・という事なのでしょう。

・・・で、本日の主役・東常緑(とうつねより)は、下総(千葉県)千葉氏の分家という由緒正しき家柄・・・鎌倉時代に、美濃(岐阜県)郡上(ぐじょう)に領地を得た事で、こちらに移住したのが東氏の始まりでした。

中世の武将というのは、勇猛果敢であるのはもちろんですが、文芸をもたしなむ風流をもかねそなえていなければ一流とは言えませんが、常緑の場合は、その芸事がハンパじゃなかった・・・。

若い頃は京都にいて、二条派尭孝(ぎょうこう)から、先の『古今和歌集』秘事口伝を学んでいます。

この「古今和歌集の秘事口伝」・・・いわゆる『古今伝授』ってヤツなんですが、以前、戦国武将の細川幽斎(藤孝)が、この『古今伝授』されていた事から、関ヶ原の合戦での危機一髪の時、「このまま幽斎が死んだら、古今伝授が耐えてしまう~」と心配した後陽成(ごようぜい)天皇が、思わず戦いを止めに入ったと書かせていただきましたが(8月20日参照>>)それくらい重要、かつ貴重な、和歌の専門家なわけです。

なんせ『古今和歌集』を正統に伝えていく役なのですから・・・

一方、もう一人の主役・斎藤妙椿(みょうちん)・・・彼は、当時、美濃の守護・土岐(とき)守護代として勢力を誇っていた武将でした。

ご存知のように、応仁の乱は、室町幕府8代将軍の足利義政の後継者争いで、義政と嫁の日野富子の間に生まれた次期将軍候補・義尚(よしひさ)に味方した山名宗全(やまなそうぜん)(3月18日参照>>)と、もう一人の次期将軍候補である義政の弟・義視(よしみ)についた細川勝元の両巨頭とともに、それぞれに味方した管領家の畠山家斯波(しば)の家督争いもからみつつ、日本全国を東西・真っ二つに分けた戦いだったわけです(1月7日参照>>)

当然、美濃の国も、その乱の影響を受ける事になるのですが、この時、美濃の守護であった土岐成頼は、細川派・・・一方、常緑が将軍・義政の側近であった事から、東氏は山名派とみなされ、応仁二年(1468年)9月、守護・頼成の命により、妙椿が、東氏の居城である篠脇城を攻撃したのです。

この時、当主の常緑は、本家の所領でのモメ事の加勢として下総に出かけていて、その留守を守っていたのは、常緑の兄で、すでに隠居していた氏数でしたが、なんせ、兵の数が少ない・・・。

多勢に無勢ではどうしようもなく、篠脇城は敵の手に落ちてしまいました。

この一報を、遠く下総の地で聞いた常緑・・・ちょうど、亡き父の命日が近かった事から、その命日に合わせて、一首の歌を詠みます。

あるが内に 斯(か)かる世をも 見たりけり
  人の昔の 猶
(なお)も恋しき 
「僕が生きてるうちに、こんな事になってしまうなんて・・・お父ちゃんの生きてた頃が懐かしいわ」

たまたま、この歌を京都の歌会で、他の人から聞いた妙椿・・・実は、彼も相当な歌ファンで、歌仲間ではカリスマ的存在の常緑の歌に感動を覚えたのです。

早速、妙椿は常緑に手紙を書きます(ファンレターかい!)

「遠く関東にいて、地元を奪われて、さぞかし不本意に思てはる事でしょう。実は、僕も歌の道を志してますねん。常緑さんは歌仲間やと思てます。どうか、僕のために歌を作ってもらえませんか?ほんなら、あの所領、返しますさかいに・・・」

「歌を作ってくれたら領地返す」て・・・そんなアホな!
って思いますが、

よくよく考えてみたら、平成の今だって、大好きなミュージシャンが、自分のために歌を作って歌ってくれるんなら、いくらお金を出したっていい!・・・て、思う人がいても、おかしく無いかも・・・

大好きな漫画家が、自分を主人公に漫画を書いてくれたりなんぞしたら、天にも昇る気持ちになるかも知れませんね。

・・・で、この手紙を受け取った常緑・・・

吾世(わがよ)(へ)む しるべと今も 頼む哉(かな)
  みののお山の 松の千歳(ちとせ) ♪
「僕の領地は、ほんのわずかやけど、千年の寿命を持つ松のように、長きに渡って大切にして来た物ですねん」
をはじめとする10首の歌を妙椿に送ります

これを受け取った妙椿・・・もちろん、今をときめくカリスマミュージシャンの新曲、しかも10曲もの大サービスに感動しないわきゃありません。

早速、妙椿も・・・

(こと)の葉に 君が心は みづくきの
  行末とをらば 跡はたがはじ
 ♪

「あなたの誠意は、今回の歌でよくわかりました。そのお気持ちが今後も変わらへんのやったら、領地はお返ししますよってに」
と、返します。

かくして文明元年(1469年)5月12日京都にて会見した二人・・・妙椿は、その場で、正式に篠脇城を、常緑に返還したのです。

故郷の 荒るるを見ても 先すと思う
  しる辺
(べ)あらすは いかかわけこむ ♪ 常緑
「戦場となって荒れてしもた故郷やけど、相手が雅なええ人やなかったら戻ってもけぇへんかったやろな」

此頃の しるべなくとも 故郷に
  道ある人そ やすく帰らむ
 ♪ 
妙椿
「何をおっしゃいますやら・・・僕のせいやなくて、お宅がすばらしいからええ結果になったんですやん」

こうして、常緑は、無事、領地を取り戻したのです。

まさに、「芸は身を助く」・・・戦国武将は、政治や軍事だけでなく、芸術の才能も身につけておかなければ一流ではないのです。

かの司馬遼太郎氏は、「東常緑は、歴史上、最も高い原稿料を取った」と・・・

確かに、わずか10首で、城と領地(郡上市大和町)とは、ぼったくり・・・いや、これも風流のなせるワザといったところでしょうか。
 

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2009年5月11日 (月)

函館戦争・総攻撃開始~土方歳三・最期の日

 

明治二年(1869年)5月11日、明治新政府軍による函館総攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・

江戸無血開城のあったその日に、幕府海軍・副総裁の榎本武揚(えのもとたけあき)は、その指揮下にある軍艦を新政府に渡す事を拒否して江戸湾を脱出・・・その後、海路で北海道に渡り(8月19日参照>>)蝦夷共和国を設立して(12月15日参照>>)なおも抵抗を続けていました。

しかし、翌・明治二年(1869年)4月9日に始まった新政府軍の上陸作戦で、上陸まもなく江差を制圧され、21日には木古内(きこない)を、29日には矢不来(やふらい)を落とされ、榎本軍は函館へと追い詰められます(4月29日参照>>)

やがて、月が変った5月2日、本国・フランスからの帰国命令を受けながらも、榎本軍への軍事指導を続けてくれていたフランス人・プリュネが、「日本の友人には申し訳ないけど、もはや万策尽きたゎ」と、函館港に停泊中のフランス艦へと戻って行き、最終決戦の予感は徐々に高まっていきます。

その5日後の5月7日、今、動ける軍艦は回天だけとなっていた函館湾に、新政府軍の艦隊が侵入・・・4時間に渡る砲撃により、この回天も操縦不能となってしまいます。

もはや、陸戦で戦うしかなくなった榎本軍は、函館の市街を南北に流れる亀田川に沿って、弁天岬台場一本木関門千代ヶ岡陣屋五稜郭権現台場四稜郭一直線の戦線を造り上げます。

Hakodatesensoukankeizu(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そんな中、明治二年(1869年)5月11日、いよいよ新政府軍は、函館に総攻撃を仕掛けるのです。

早朝、新政府軍が函館山を制し、その山頂に、合図とも言うべき菊紋章の入った旗を立てます。

さらに、新政府軍は、北の四稜郭、西の七重浜(ななえはま)、南の函館山の3方向から同時に函館市街に向けて攻め寄せます。

もちろん、七重浜では、朝陽(ちょうよう)丁卯(ていほう)の2隻の軍艦による援護砲撃も・・・と、この時です。

先の5月7日の函館湾の海戦の時には修理中だったために出撃できなかった榎本軍の最後の軍艦・蟠龍(ばんりゅう)の放った砲弾が、朝陽の火薬庫に見事命中!

大爆発を起こし、大きな火柱を上げて沈没する朝陽を目の前に、士気あがる榎本軍・・・

この時、窮地に陥っていた七重浜への救援に駆けつけていた元新撰組・副長の土方歳三(ひじかたとしぞうは、この起死回生の一発をきっかけに「このチャンスを逃すな!」と叫びながら、もともとの持ち場であった一本木関門へと、急ぎ戻ります

そこに、「弁天岬台場が孤立している」との情報が・・・。

この弁天岬台場は、榎本軍が構築していた戦線の最南端の場所で、当時、最高とうたわれた大砲を装備していましたが、すでに、5月3日に忍び込んだ新政府ゲリラによって、釘を打ち込まれて、大砲そのものは使い物にならなくなっていました。

・・・が、たとえ大砲は使えなくとも、基地としては重要・・・死守しなければなりません。

七重浜から戻った土方は、弁天岬台場の救援に向かおうと、再び、一本木関門を出撃しますが、その直後・・・腹部に銃弾を浴びて倒れてしまったのです。

享年・35歳・・・

この日は、土方だけでなく、隊長クラスが多数死傷しました。

やがて、蟠龍の砲弾も尽きて炎上・・・さらに、四稜郭・権現台場が陥落し、榎本軍の基地は、本営の五稜郭と千代ヶ岡陣屋、弁天岬台場の3箇所のみとなってしまいました。

翌・12日から、新政府軍・参謀の黒田清隆(8月23日参照>>)による榎本への降伏勧告が開始されます。

15日には弁天岬台場が降伏、16日には千代ヶ岡陣屋も陥落しますが、未だ榎本の気持ちは討死覚悟の五稜郭・死守・・・ちょうど、この頃、その気持ちをつづった手紙とともに、「この本の価値をわかってくれる君に・・・」と、昔、留学していた時に手に入れた大切な本を黒田に送っています・・・

その、榎本×黒田の友情物語函館戦争終結については、2007年5月18日のページでどうぞ>>(函館戦争の事を始めてブログに書いたページですので、蝦夷共和国の話など、内容がかぶっていますが・・・)

・・・と言いたいところですが、その前に、この日、討死した土方から、最後の望みを託されて五稜郭を脱出した市村鉄之助・・・彼のお話もどうぞ=5月14日へ>>

久しぶりに、イラストを書いてみました~

Hizikatahakodatecc そりゃぁ、もちろん、土方さんで・・・

蝦夷共和国・政権の旗とともに・・・
 .

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2009年5月 9日 (土)

時代別年表:平安時代(前期・貴族の時代)

このページは、平安時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaiheian110
 

・・・・・・・・・・

出来事とリンク
794 10 22 平安京・遷都
【未完の都・平安京】
【究極の魔界封じの都・平安京誕生】
【平安京の変化~朱雀大路と千本通】
11 8 新しい都を平安京と命名
【平安京はいつから京都に?】
797 11 15 坂上田村麻呂が征夷大将軍に…
【坂上田村麻呂の真実】
798 7 2 坂上田村麻呂が清水寺を建立
【田村麻呂が清水寺建立に込めた思い】
799 1 20 和気広虫・没
【日本を2度救った慈愛の人・和気広虫】
2 21 和気清麻呂・没
【清麻呂に思いを馳せる茶臼山古墳】
806 2 崇道天皇のためにお経を転読
【早良親王・怨霊伝説~お彼岸の由来】
810 9 11 藤原薬子が服毒自殺
【悪女・藤原薬子の乱】
【「私刑」?薬子の乱の藤原仲成】
812 12 14 空海が潅頂を授ける
【最澄と空海の間に亀裂が入った瞬間】
822 6 4 最澄・没
【比叡山を日本仏教の母山とした最澄】
823 1 19 空海が東寺を賜る
【弘法大師・空海と東寺】
825 7 6 高棟王が平姓を賜って臣籍に下る
【「八色の姓」を払拭…桓武平氏の誕生】
835 3 21 空海・没
【弘法大師・没】
【弘法大師の伝説・あと隠しの雪】
838 12 15 小野篁が隠岐に流罪となる
【魔界の使者・小野篁】
842 7 17 承和の変
【藤原繁栄の基…実に怪しい承和の変】
848 6 16 疫病退散祈願で和菓子を供える
【和菓子の歴史~ルーツと豆知識】
850 5 4 橘嘉智子・没
【美しき者も高貴な者も~皇后・嘉智子】
860 2 15 興福寺で涅槃会が行われる
【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図】
860
頃?
3
11
18
28
小野小町の忌日
【伝説に彩られた小野小町】
【小野小町、伝説の後半生】
865 1 27 高丘親王が天竺に向けて船出
【めざせ天竺!マレーに消えた高丘親王】
866 8 19 藤原良房が摂政に就任
【藤原北家・独占!摂関政治の始まり】
9 22 応天門・炎上事件で伴善男が流罪に
【「応天門・炎上事件」犯人は誰だ?】
878 5 4 藤原保則が蝦夷制圧に出発
【善政で蝦夷を制圧した藤原保則】
880 5 28 在原業平・没
【伊勢物語に見る藤原氏への抵抗】
12 4 清和天皇・崩御
【藤原・全盛の道を開いた天皇のジレンマ】
887 8 26 光孝天皇・崩御
【関白・基経と怪しすぎる天皇交代劇】
894 9 14 菅原道真が遣唐使・廃止を建議
【保身?英断?道真の遣唐使・廃止】
9 30 菅原道真の進言により遣唐使を廃止する
【白紙に戻そう遣唐使】
900 11 21 三善清行が「辛酉革命」を予言
【三善清行の「辛酉革命」予言】
901 1 25 菅原道真が大宰府へ左遷
【学者じゃない?道真の策謀的政治手腕】
903 2 25 菅原道真・没
【菅原道真・没】
【学問の神様・菅原道真の学力は?】
905 4 18 「古今和歌集」が完成
【たった一首で大歌人?謎の猿丸太夫】
909 4 4 藤原時平・没
【意外に敏腕?左大臣・藤原時平】
923 9 27 平中こと平貞文が死去
【モテモテ平中=平貞文の失恋話】
927 12 26 「延喜式」が完成
【『延喜式』ってどんな物?】
930 6 26 清涼殿への落雷で5人死傷
【清涼殿に落雷!菅原道真の怨霊か?】
931 7 19 宇多天皇・崩御
【御室桜のごとき宇多天皇の寛平の治】
934 12 21 紀貫之が国司の任務を終えて土佐を出発
【紀貫之のツラ過ぎる土佐日記】
939 11 21 平将門の乱・勃発
【平将門の乱~坂東のヒーロー・決意!】
12 15
19
平将門が上野・国府を占拠
平将門が新皇を名乗る
【新皇・平将門は独立国家を望んだか?】
12 26 藤原純友の乱・勃発
【海賊将軍~藤原純友・天慶の乱】
940 2 14 藤原秀郷が平将門を討つ
【平将門・怨霊伝説】
941 6 20 藤原純友の乱・終結
【天慶の純友・瀬戸内に散る】
951 12 2 醍醐寺・五重塔の落慶法要
【京都で最古の醍醐寺・五重塔】
959 12 7 紫辰殿の前庭に「右近の橘」が植えられる
【平安貴族の住宅事情】
967 12 27 三蹟の一人・小野道風が没す
【空海に物申す~結構過激な小野道風】
969 3 25 安和の変
【藤原一族最後の陰謀?安和の変】
972 9 11 空也上人が没す
【市聖~空也上人の伝説】
983 8 1 奝然が宋に向け出港
【大陸に渡った奝然と釈迦像と清涼寺と】
985 1 3 慈恵大師良源が没す
【延暦寺・中興の祖…慈恵大師良源】
988 11 8 藤原元命が訴えられる
【不正許さん!尾張国郡司百姓等解文】
990 1 25 藤原道隆の娘・定子が入内
【中宮・定子と清少納言】
1005 9 26 安倍晴明・没
【安倍晴明さんのご命日なので・・・】
1008 2 8 花山天皇・崩御
【平安の好色一代男~花山天皇の奇行】
1011 6 13 一条天皇が譲位
【一条天皇、悲しみの譲位】
1012 1 16 藤原道長の三男・顕信が出家
【満月の陰り…息子・藤原顕信の出家】
1018 10 16 藤原道長が「この世をば」の歌を詠む
【藤原道長・栄華物語】
1027 12 4 藤原道長が死去
【全盛を誇った藤原道長の最期】
1028 6 5 平忠常の乱が勃発
【源平合戦に繋がる…平忠常の乱・勃発】
8 5 平忠常の乱で追討使・平直方が出立
【源平の友情…平忠常の乱と源頼信】
1053 3 4 平等院鳳凰堂が完成
【藤原頼通の平等院鳳凰堂の見どころ】
1062 9 17 前九年の役・終結
【前九年の役で滅びる安倍一族のお話】
【12年なのに「前九年の役」?】
1063 2 27 源義家が出羽守に任ぜられる
【武勇の八幡太郎義家が冷遇された?】
1071 2 2 中国に向かう成尋が大雲寺を発つ
【離れてもなお母の愛~成尋とその母】
1074 2 2 藤原頼通・没
【藤原頼通と平等院と末法】
1084
3 21 和泉式部・没
【和泉式部・恋のテクニック】
1086 11 26 白河上皇が院政を開始
【白河上皇の院政の影に武士の存在】
1087 11 14 後三の役・終結
【後三年の役・金沢柵の攻防】
【5年なのに「後三年の役」?】
1090 1 22 白河上皇が熊野三山に行幸
【今も昔も信仰あつき…「蟻の熊野詣」】
1098 10 23 源義家が昇殿を許される
【武士で初の昇殿…八幡太郎の苦悩】
1107 12 19 源義親の乱
【平正盛の出世のキッカケ「源義親の乱」】
1128 7 13 藤原清衡・没
【奥州藤原100年の基礎を築いた清衡】
1131 11 23 平忠盛・暗殺計画
【殿上闇討~平家物語の始まり~】
1135 8 21 忠盛の海賊討伐の功により清盛が昇進
【平忠盛の海賊退治で息子・清盛が昇進】
1140 10 15 佐藤義清が出家して西行となる
【武士?僧侶?ストーカー?スパイ?謎の西行】
1151 4 10 源頼政の鵺退治
【源頼政の鵺退治】
1153 1 15 平忠盛が没す
【基礎を作った清盛の父・平忠盛が死す】
1155 8 16 悪源太・義平が源義賢を討つ
【義仲が木曽にいたワケは?】
10 25 後白河天皇が即位
【暗愚の後白河天皇が天下を動かす】
1156 7 2 鳥羽天皇・崩御
【乱のきっかけとなった天皇の死】
7 11 保元の乱
【武士の時代の幕開け…保元の乱】
番外編 【源氏物語を書き地獄に堕ちた紫式部】
【竹取物語は社会派風刺小説】
【邪教の神~酒呑童子の叫び】
【大阪の昔話~在原業平と交野の君】
【歌に詠まれた八重桜~今も咲き誇る】
【浮気がバレた??…「今昔物語」より】
【気はやさしくて力持ち…大井子の力石伝説】
平安豆知識 【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】
【平安時代のカキ氷~冷スイーツの歴史】
【香りにうるさい平安貴族~香あわせ】
【平安のトレンド~イケメン僧侶に貝合わせ】
【玉の輿に乗りたい!平安の自分磨き】
【平安時代の流れ星】
【平安時代は今より温暖化だった?話】

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2009年5月 8日 (金)

大坂夏の陣で自害~淀殿の素顔と生存説

 

元和元年(慶長二十年・1615年)5月8日、昨日からの総攻撃により大坂城が炎上、豊臣秀頼とその母・淀殿らが自害し、大坂夏の陣が終結しました。

・・・・・・・・・・・

元和元年(慶長二十年・1615年)5月6日に、大坂城へと向かう徳川家康の軍を迎え撃った道明寺・誉田の合戦&若江・八尾の合戦から本格的な合戦が開始された大坂夏の陣

翌・5月7日、大坂城を囲んだ徳川軍によって、正午頃から開始された総攻撃により、大坂城は炎上します。

城外から戻った大野治長は、豊臣秀頼とその母・淀殿の助命を願って、秀頼の妻となっていた家康の孫・千姫脱出させ(2月6日参照>>)、秀頼・淀殿らは、天守閣の北に位置する山里曲輪の土蔵に身を隠しますが、その土蔵に銃弾が撃ち込まれた事で、助命が拒否された事を察します。

炎を逃れて、本丸下の蘆田曲輪(あしだくるわ)にある朱三櫓(しゅさんやぐら)食糧貯蔵庫に逃げ込んだ秀頼は、
「もはやこれまで」
覚悟を決め
「甲斐守(かいのかみ)は母君を、氏家は我を、毛利は女・幼子を介錯せよ」
と命じ、豊国大明神を拝んだ後、淀殿の前に進み出て
「あの世にて…」
と挨拶し、母を頼んだ甲斐守=速水守久(はやみもりひさ)に目配せする・・・

と、速水が淀殿に向けて刀を振り下ろしますが、それと同時に、秀頼が懐から出した脇差を腹に当て、かの氏家行広(うじいえゆきひろ=卜伝)が介錯をしたと・・・

その後、秀頼の言葉通りに、毛利勝永(もうりかつなが)(2015年5月7日参照>>)が女たちを介錯し、彼ら側近たちも、それに続きました。『豊内記』『明良洪範』など

ここに、大坂夏の陣が終結し、豊臣家はわずか2代で滅びる事となったのです。

冬と夏・・・二度に渡って繰り広げられる大坂の陣のそれぞれの出来事・経緯につきましては、すでにイロイロと書かせていただいていますので、【大坂の陣の年表】>>で、くわしく見ていただくとして、

本日は、そのヒロインとも言うべき淀殿について・・・

・‥…━━━☆・

天下人・豊臣秀吉が、側室となった彼女のために、現在の京都競馬場近くのの地にお城を建てます。

その時から、淀殿と呼ばれるようになった彼女は、北近江(滋賀県)・小谷城主の浅井長政織田信長の妹・お市の方との間に生まれた3人姉妹の長女・・・その頃は、茶々と呼ばれていました。

やがて、その浅井氏が信長によって滅ぼされる(8月27日参照>>)、母のお市の方とともに信長に引き取られ、その信長が本能寺で果てた後は、織田家の重臣であった柴田勝家と再婚した母について、越前(福井県)北ノ庄で過ごしました。

翌年、秀吉との間に勃発した賤ヶ岳の合戦に敗れた勝家とともに、お市の方は自害・・・3人の娘たちは城から助けられ、秀吉の庇護のもとに置かれます(4月24日参照>>)

やがて、茶々こと淀殿は秀吉の側室となり、すぐ下の妹・お初京極高次に嫁ぎ、この大坂の陣では、豊臣×徳川の講和交渉の使者としても活躍しました(12月19日参照>>)

一番下の妹・小督(おごう・お江与・江)佐治一成羽柴秀勝の妻を経て、家康の息子・徳川秀忠に嫁いでいます。

・・・と、散々「淀殿」「淀殿」と書いておりますが、淀殿が存命中の史料や文書には、「淀殿」と表記されたものは存在せず、本来は、単に「淀」あるいは「淀様」と呼ぶのが正しいのだそうですが、もう、慣れ親しんでしまっていますので、とりあえず、このブログでは淀殿(よどどの)と呼ばせていただきます

ちなみに、テレビなどでよく使われる「淀君(よどぎみ)という呼び方は、歴史の史料には一度も出てきません。

一度も出てこないと言えば、秀吉の側室というのも・・・これも、同時代の史料には登場せず・・・もちろん愛妾でもなく、あのお禰(ね・ねね)さんとともに、二人ともが正室とみなされていたようで、逆に、二人の事を「両御台様(みだいさま)と記された文書が存在しています。

まぁ、江戸時代の武家諸法度によって、武家の様々な事が決められる以前は、正室・側室というのも、もっと曖昧なものだったようですので、正室二人というのも、この時代ならアリなのかも知れません。

ところで、そんな淀殿の印象・・・ドラマなどで描かれるイメージとしては・・・
秀吉の唯一の子供である秀頼を産んだ事によって、その寵愛を一身に受け、秀吉亡き後は、正室のお禰を大坂城から追い出し、実質的に豊臣家をしきっていて、そのプライドの高さから徳川に屈する事を拒み、ついには豊臣家を滅亡へと導いていく・・・

大坂の陣では、諸将の進言を聞かず、あたかも女城主のように振る舞い、ヒステリー気味の采配を振るう・・・こんな感じでしょうか。

しかも、このうえに、「息子可愛さのあまり・・・」という付録もついて、何となく良いイメージで描かれる事が少ないように思いますね。

絶世の美女と噂されるお市の方の娘だけあって、淀殿自身も、母に似た美女として描かれる事が多く、ドラマでは美人でありながら憎まれるという難しい役どころをこなさなければならず、女優さんの演技力が試される見せ場でもあります。

ただし、実際の彼女は、少し違うようです。

確かに武装して自ら兵に檄を飛ばすような事もあったようですが、これは、息子可愛さというよりは、むしろ当たり前の事・・・

大坂の陣の段階では、彼女は秀頼を後見する立場にあり、彼女のような「おふくろ様」「おかか様」と呼ばれた先代の未亡人あるいは現当主の生母が大きな力を持つ事は、戦国のならわしであり当然の事なのです。

しかも、彼女がお禰を追い出したように映る出来事も、実はそうではなく、未だ幼なかった秀頼と豊臣家を守るための二人の御台所の連携プレーのなせるワザなのです。

秀頼の生母である淀殿は、大坂城を離れる事ができませんから、彼女はとにかく大坂城内の事を仕切り、代わりに、自由に動けるお禰が、朝廷や外部との交渉にあたったり、豊国神社の祭祀に関与したり・・・という役割分担が、二人の間にできていたのだろうといのが、現在の見方となっています。

Yodohi40 どうやら、最近では淀殿の印象が変わりつつあるようです。

ところで、そんな淀殿・・・実は、生存説があります。

もちろん、伝説の域を超えないものではありますが、その言い伝えによれば・・・

後に初代総社藩主となる秋元長朝(ながとも)が、まさに夏の陣で奮戦しているその時、いかにも位の高そうな女性が助けを求めてきます。

その気品と美しさから、彼女を淀殿だと確信する長朝・・・彼は、もともと浅井の家臣だった人ですから、世が世なら主君のお嬢様・・・丁重に保護し、自らの領地へと連れ帰ったのだそうです。

このお話だけなら、「あら、そうなの?」って感じですが、群馬県前橋市にある元景寺というお寺には、その時、淀殿が乗っていた駕篭(かご)の引き戸や、着ていた打ち掛けが残っているのだとか・・・

引き戸には、豊臣家の「桐」と浅井家の「菊」の家紋がほどこされており、打ち掛けも天下人の側室にふさわしい、金糸銀糸をふんだんに使った見事なものだそうです。

また、お寺には「心窓院殿華月芳永大姉」と刻印されたお墓があり、これが、淀殿のものだと伝わっているのだそうです。

・・・で、総社にやってきた淀殿は、その後どうしたのか?

それが、淀殿の美しさに負けた長朝が、妻にしようと言い寄るものの、プライドの高さから、それを拒み続ける中、とうとう、長朝が力づくで押し倒してやっちゃったために、傷ついた淀殿が利根川に身を投げて自殺した・・・という話と、

やはり、長朝が言い寄るものの、拒み続けた淀殿に、長朝が逆ギレして、生きたまま箱に詰めて利根川に沈めた・・・というものがあります。

普通、生存説として語られる場合、たとえ地位や名誉やお金がなくなったとしても、天寿を真っ当する・・・いわゆる長生きするものが大多数を占めています。

そんな中での不幸な結末の生存説・・・トンデモ説でさえ、特別扱いのような伝えかたをされる淀殿は、やはり、歴史上まれにみる女性と言えるかも知れません。

戦国の世に生まれた淀殿・・・

燃え盛る北ノ庄城から脱出し、母・お市の方と別れたあの日から、おそらく、自分自身のために生きる事はなかったように思います。

きっと、その日、彼女は決意したに違いありません。

この後は、妹たちを守る父となり母となろうと・・・

やがて、生きる術として、母の仇とも言える秀吉の保護を受け、今度は、家康からわが子を守る・・・娘時代にも増して、自分の素顔をひた隠しに隠しながら・・・。

伝説に伝説をかぶせたようなベールに包まれ、おそらく、未だ誰も知らない彼女の素顔を、いつか見せていただける日が来る事を願って・・・。
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2009年5月 7日 (木)

大坂夏の陣~グッドタイミングな毛利秀元の参戦

 

元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂夏の陣において、この日、開始された総攻撃にギリギリセーフで間に合った毛利秀元が奮戦しました。

・・・・・・・・・・・

そもそも、西国で強大な力を持ち、豊臣秀吉の時代には五大老に1人に数えられた毛利が、大幅に領地を減らされたのは、あの関ヶ原の合戦毛利輝元西軍の総大将に担ぎ上げられてしまったため・・・。

以前、【動かぬ総大将~毛利輝元・関ヶ原の勝算】(7月15日参照>>)で書かせていただいたように、この時の毛利氏の動きは・・・

西軍・総大将となった輝元は大坂城に留まったまま、従兄弟で養子の毛利秀元を名代の毛利隊の大将として関ヶ原の現地に派遣

一方で、従兄弟の吉川広家が東軍に通じ、「関ヶ原に兵は出すものの参戦はしない」という約束を本多忠勝井伊直政らと交わし、当時配下に収めていた8カ国の所領は安堵されるはずでした。

もちろん、これには、西軍・東軍、どちらが勝っても毛利が傷つかないという思惑があったのだろうという事も、そのページに書かせていただきました。

ところが、ご存知のように、「その約束したんは、僕やなくて、本多君と井伊君やもん!総大将やっといてお咎めなしなんか、ありえへんやろ」という、タヌキのオッチャン・徳川家康の見事なペテンで、周防・長門(山口県)の2国だけという大幅減封となってしまったわけです。

関ヶ原の合戦は、毛利にとって、合戦で敗戦したというよりは、何やら騙された感の強い遺恨を残す結果となってしまったはず・・・

そして、あれから15年・・・そんな毛利の思いを知ってか知らずか、家康は、今回の大阪の陣にあたって、毛利にも出兵の命令を出してくるのです。

まずは、現地に出兵する前に、瀬戸内を往来する船の検問から始まった毛利の大阪の陣への参戦・・・結局、前半戦の冬の陣では、住吉などの海岸線の警固を任されただけで、最後まで、大坂城を囲む最前線へ行く事はなかったのです。

ところで、以前書かせていただいた【「三本の矢」の毛利を救ったのは4本目の矢(11月7日参照>>)のページで、先ほどの関ヶ原合戦で、輝元の名代として現地・関ヶ原へ向かった秀元の事を、「彼なしでは毛利は語れないほどの重要人物だと思う」というような事を書かせていただきましたが、この大阪の陣に於いても、やはり、秀元なしでは、大阪の陣での毛利は語れないほどの活躍をしてくれています。

そもそも、関ヶ原の時も、東軍と密約を交わしてしたのは広家で、一応、輝元と秀元は、その密約の事を知らなかったとされています。

しかも、秀元に至っては、関ヶ原であのような結果になった後も、秀頼のいる大坂城に籠って、もう一戦、家康と構える覚悟であったとも言われ、そんな彼を広家が必死で説得したなんて話もあります。

血気盛んに徹底抗戦を訴える秀元が、「領地は安堵されるのだから・・・」という広家の言葉を信じて、故郷に帰ったにも関わらず、蓋を開けたら大幅減封だったわけですから、その受けた屈辱としては、かなりのものだったはずです。

ところが、この大阪の陣では、その事を忘れたかのように、毛利の先頭を切って参戦しているのです。

冬の陣で、海岸線の警固を命じられた時も、命じられたのは輝元であって、実は、秀元は江戸にいて、彼には出兵の要請がなかったのですが、わざわざ本多正信のもとへと足を運び、「なんで、俺を先鋒にしてくれへんねん!俺の事、信用してくれへんねんやったら、このまま大坂城に行って、秀頼の味方するゾ!」と抗議したのだとか・・・。

そして、その訴えを聞いた家康から大坂へと招かれた秀元は、毛利勢の大将である輝元よりも先に、天王寺・茶臼山(ちゃうすやま)(4月14日参照>>)に本陣を構える家康のところに「がんばりまっせ!」と挨拶に立ち寄っています。

まぁ、上記の通り、この時の冬の陣では大坂城包囲には関与する事なく、そのまま秀元は長府(山口県)へと帰ってはいるのですが・・・。

・・・で、その翌年に起こった今回の大坂夏の陣・・・

早速、家康から、諸大名に出撃命令が下ったこの時、輝元は病気療養中ですでに隠居していて、その息子・秀就(ひでなり)が家督を継いでいたのですが、秀元はすぐにでも大坂に行くようにと進言・・・

しかし、なかなか重い腰をあげない秀就・・・ウダウダ言ってるうちに5月になってしまって、「これは、いかん!」とばかりに、秀元は、独自に船団を組んで海路大坂入りして参戦するのです。

実は、これが見事なグッドタイミング!

前日の5月6日には、道明寺・誉田の合戦(4月30日参照>>)後藤又兵衛薄田隼人が討死し、若江・八尾の合戦では木村重成が討死する(2011年5月6日参照>>)という大きな野戦によって、本格的な火蓋が切られた大坂夏の陣・・・布陣図はコチラから>>別窓で開きます)

翌日の元和元年(慶長二十年・1615年)5月7日、大坂城を包囲した徳川方によって、大坂城への総攻撃が開始される事になるのですが、この時、先鋒となって、真っ先に大坂城へと突進していったのは、家康の孫・松平忠直隊・・・

それを迎え撃つ大坂方は、あの真田幸村隊・・・しかし、一昨年のその日のページに書かせていただいたように(2007年5月7日参照>>)幸村の一番の目的は、後方に位置する大将・家康の首・・・なので、先鋒の忠直隊にかまってるヒマはありません。

一方の忠直隊も、一番の目的は大坂城への突入ですから、この忠直隊と幸村隊の激突は、激突というよりも、お互いを蹴散らしながら、どんどんと先へと進む・・・といった感じの戦い方だったはずなのです。

だからこそ、あれよあれよという間に、忠直隊を突破した幸村隊が、家康の本陣へと切迫し、あわや!という状況に陥ったわけです。

逆に、忠直隊のほうは、大坂城への一番乗りを果たし、数々の戦利品を持ち帰っています(9月8日【陣形と陣立のお話】参照>>)

実は、このタイミングで、この合戦の場に駆けつけたのが、本日の主役・毛利秀元・・・(長い前置き、スンマセンどした)

『毛利家乗』によれば・・・
「公(秀元の事)衆に先んじ高麗橋に薄(せま)り、大に接戦す。諸部往々次を乱して破れ却(しり)ぞく・・・」

大阪の地図を見ていただければ、その位置関係がわかりますでしょう。

大阪城があり、そのまっすぐ南に天王寺・・・大坂方の先頭にいた幸村隊はこの天王寺に近い茶臼山に陣を構え、そこから、さらに南に向かって、家康の本陣へと・・・

その、今、まさに激戦最中の戦場へ、高麗橋付近から秀元登場・・・つまり、徳川方を攻撃中の大坂方の後方から攻め込んだ形となったわけです。

しかも、その状況は、バッタバッタと敵をなぎ倒し、敵は敗れ退く・・・です。

幸村隊に迫られ、一度は死を覚悟したと言われるこの時の家康・・・あわやという場面を救った秀元の大活躍は、その奮戦を目にしていた徳川方の諸将の口伝えで家康の耳まで届き、夏の陣終了後、二条城にて、家康は直接秀元に対面し、大いに喜んだと言います。

実は、この時、かの秀就が大坂に到着したのは、合戦終了から数日経ってから・・・そう、全然間に合っていなかったのですが、秀元の活躍に、家康がご機嫌だったおかげで、秀就の遅参は、まったくのお咎めなしとなったのです。

それにしても、関ヶ原であれだけ苦渋を味わったにしては、この積極的な参戦は、いったいどういう事なのでしょうか?

何が、秀元を、そこまで徳川寄りにさせたのか?

一つには、彼の奥さん・・・

実は、大坂冬の陣の前年、彼は、家康の異父弟である松平康元娘を嫁に貰っていのです。

しかし、秀元にとっては、嫁の実家・・・というよりも、これからは、徳川の時代・・・「怨みつらみだけでは、この先、生き残ってはいく事はできない」という、冷静な判断のほうが勝っていた事でしょう。

それには、何よりも、家康からの篤い信頼を得る事・・・先の冬の陣の時の彼のセリフのように「自分を信用できないんですか!」なんて事を言わなくてもいいように、自分の忠誠心を見せつけなければならないと感じていたのではないでしょうか。

ただ、秀元がここまでして、徳川への忠誠をアピールしなければならないのには、未だ徳川から見て、毛利には疑わしい部分があったからなのですが・・・。

それは、先ほどから参照としている一昨年のページを見ていただいた方の中には、「んん?」と、すでに、その名前にお気づきになった方もおられる事でしょうが、大坂方に参戦し、幸村とともに天王寺口を守り、あの本多忠朝を討ち取るという大活躍の武将の名前が・・・毛利勝永(2015年5月7日参照>>)

ただ、彼は、同じ毛利という姓ではあるものの主家の毛利氏と血縁関係はない一族ではあるんですが、もともとは「森」という姓だったのを輝元の許しを得て「毛利」と改名したなんて話もあり・・・現に関ヶ原では秀元の指揮下で南宮山にいたので、まったくの無関係とも言えない雰囲気・・・

がしかし、家康が毛利に疑いの目を向ける、この勝永以上の人物が、もう一人・・・実は、この大坂の陣には、毛利家の重臣が大坂方として参戦していたのですが・・・

記事も長くなって参りましたので、そのお話は、燃え盛る大坂城から脱出したその者が捕らえられ、切腹の処分を受ける事になる5月21日【陰謀か?出奔か?毛利の存続を賭けた「佐野道可事件」】でどうぞ>>
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2009年5月 6日 (水)

奮戦!薄田隼人~道明寺・誉田の戦いIN夏の陣

 

元和元年(慶長20年・1615年)5月6日、大坂夏の陣の道明寺・誉田の戦いにおいて、薄田隼人兼相が討死を遂げました。

・・・・・・・・・・

薄田隼人兼相(すすきだはやとかねすけ)は、講談本に描かれた剣豪・岩見重太郎(いわみじゅたろう)同一人物とも噂され、その生年も含め、謎の前半生を送った武将・・・。

しかし、「柔術・兼相流」の開祖「剣術・無手流」の開祖、などどいう肩書きを見ると、その猛将ぶりは、さぞかし・・・との期待を抱かせてくれる人でもあります。

そんな彼が、歴史の舞台に登場するのは、あの朝鮮出兵=慶長の役の頃・・・当時は、豊臣秀吉の馬廻りを務め、後に豊臣秀頼に仕えて3千石を有したと言いますが、ウソかマコトか、あの大坂冬の陣(11月29日参照>>)の開戦時の11月19日には、娼家で女遊びをしていたため、自らが担当する砦の防御に間に合わなかった・・・なんて、ある意味、豪快なエピソードも残っています。

・・・で、その大坂冬の陣後の和睦交渉の末(12月19日参照>>)、外堀を埋め立てられ、裸城(はだかじろ)になってしまった大坂城に、再び、徳川家康が迫る大坂夏の陣の勃発となるわけですが、その流れについては、一昨年の5月6日のページで見ていただくとして・・・(2007年5月6日を見る>>)

この日、裸城同然の現在の大坂城では、籠城戦は不利と判断した大坂方・・・真田幸村後藤又兵衛基次らは、家康本隊が大坂にやって来る道筋で待ち伏せしようと、道明寺・誉田(ほんだ)へと撃って出ます。

第一軍として、先に向かったのは、後藤又兵衛・・・(又兵衛に関しては4月30日参照>>)

薄田隼人は、3千の兵とともに、その第二軍として、ここ道明寺口にやってきます。

ところが、到着してみると、すでに戦闘は終わり、親友の又兵衛は討死した後・・・敗れた大坂方の兵が、こちらに向かって逃げて来ているところで、それを追って来た伊達政宗水野勝成本多忠政らの軍勢と、彼は、相対する事になります。

もはや、親友の死の感傷に浸っているわけにはいきません。

「我こそは当手の大将・・・」
と、大きく名乗りをあげ、大長刀を振り上げながら集団の中に踊り出て、群がり来る敵を斬っては捨て、斬っては捨て・・・

冒頭に書いた通り、武勇優れた隼人は、その配下の者もスゴ腕揃いだったもんだから、「これは強敵だ!」と感じた伊達隊の先鋒・片倉小十郎重長は、彼らの側面から、鉄砲隊による一斉銃撃を加えます。

嵐のような銃撃に、一旦兵を退いた隼人は、高台に上り戦況を見据え、やがて、再び、決死の戦いに挑みます。

次の激戦で長刀が折れた彼は、槍に持ち替え、またまた突いては捨て、突いては捨て・・・しかし、蹴散らしても蹴散らしても、次々に新手の兵が襲い掛かってきます。

槍も使い物にならなくなってからは、三尺六寸の大太刀を振りかざし、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ・・・

鬼神のごとく戦場を駆け抜ける姿に、後に鬼日向の異名で知られる事になる水野勝成が、「もう、誰でもえぇからアイツを討ち取れ!」と、自軍に檄を飛ばします。

すると、水野隊から1人・・・川村新八なる者が飛び出し、馬上の隼人めがけて斬りつけました。

その身を反らせてかわした隼人は、すかさず、大太刀を新八の頭上に振り下ろしますが、鉄の兜がそれを阻み、カチンと火花が散って押し戻され、バランスを崩します。

それを見たた新八は、ここぞとばかりに、隼人の足を掴み、馬から引きずり下ろさんばかりにしがみつきますが、逆に隼人は、新八の体をグイッと引き上げ、その首をねじ切る勢い・・・。

そこへ、同僚の危機を見かねた中川島之介なる者が、隼人の馬をめがけて槍を突きたて、馬の前足が、ガクッと落ち、隼人は、ゴロンと転倒します。

しかし、それでも新八の首を離さず、さらに、馬乗りになったうえ、島之介をも引き寄せ、二人をもろともに・・・

そこへ、勝成の小姓・寺島助九郎が、太刀を振り上げ、二人の馬乗りになっている隼人の足に斬りつけ、その足を斬りおとします。

痛みにのけぞる彼を、新八&島之介が二人同時に胸と胴を貫き元和元年(1615年)5月6日剣豪・薄田隼人は、命果てました。

・・・とは言うものの、また別の史料では、薄田隼人を討ち取ったのは渋谷右馬允(しぶやうまのすけ)なる人物・・・という記述も見え、上記のあまりの細かな描写も、とても事実とは言い難い範ちゅうの物である事は確かです。

・・・というのも、冒頭の岩見重太郎と呼ばれた時代の武者修行&諸国漫遊の伝説めいた過去も含め(岩見重太郎については9月20日参照>>)、薄田隼人という人は、一昔前の少年たちにとって、あこがれのヒーロー

日本に、アニメというジャンルが生まれる前の世代にとって、彼は、鉄腕アトムであり、ドラゴンボールの悟空であったわけですから、より強く、よりかっこよく、少年たちが胸躍らせるヒーローとして、ちょっとだけオーバーに演出してしまったのも、歴史の専門家ではない私にとっては、うれしい創作・・・と言える範囲内のもの。

できれば、再び、伝説のヒーローとして、ブラウン管・・・いや、液晶orプラズマの中で薄田隼人の大活躍を見てみたいものです。
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2009年5月 5日 (火)

時代別年表:奈良時代・後半(天平)

このページは、奈良時代・後半の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidainara110



 

・・・・・・・・・・・

出来事とリンク
708 2 15 平城京遷都を布告
【なぜ、平城京はあの場所に?】
710 3 10 平城京遷都
【なんと(710)大きな平城京】
711 3 9 現在の群馬県に多胡郡を設置
【1300年のタイムカプセル…「多胡碑」】
712 1 28 太安万侶が元明天皇に古事記を献上
【太安万侶が古事記を作る】
【稗田阿礼ってどんな人?】
713 5 2 元明天皇が風土記の編さんを命じる
【丹後風土記の「浦の島子」の物語】
717 8 20 阿倍仲麻呂が唐を出発
【三笠の山に出でし月かも】
11 17 養老の滝にちなんで養老に改元
【記念に改元~元正天皇・養老の滝伝説】
720 3 4 大隅隼人の乱で大伴旅人を将軍に任命
【大伴旅人と隼人族の悲しみ】
3 18 柿本人麻呂・没
【謎が謎呼ぶ柿本人麻呂】
4 21 舎人親王らが日本書紀を完成
【末梢しきれなかった記紀神話の真と偽】
8 3 藤原不比等・没
【律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人】
723 7 6 太安万侶・没
【古事記をSFとして読めば・・・】
724 11 8 建物に瓦葺や丹塗りを許可
【奈良の都の住宅事情~貧しい庶民】
729 2 12 長屋王の変
【孤軍奮闘空しく~長屋王の悲劇】
【長屋王の邸宅跡の木簡発見で…】
8 10 藤原光明子が皇后になる
【初の民間・光明皇后と聖武天皇】
730 4 17 光明皇后が施薬院を設立
【奈良に始まる福祉の歴史】
733 1 11 橘(県犬養)三千代・没
【浮かぶ橘~県犬養三千代の出世物語】
4 2 10回目の遣唐使船が日本を出航
【ルート変更で命がけ~遣唐使のお話】
735 4 25 遣唐使・吉備真備が天皇に書物を献上
【天平の陰陽師・吉備真備】
11 14 舎人親王が没す
【しこのますらを=親王のカッコイイ生き方】
736 5 18 インド僧・菩提僊那が来日
【奈良にやって来たインド僧…菩提僊那】
11 8 遣新羅使・雪連宅満が壱岐で死亡
【万葉集に残された遣新羅使・雪連宅満】
11 11 葛城王が橘諸兄に改名
【王を辞めて臣下に~橘諸兄の決断】
737 9 21 防人を廃止する
【単身赴任のルーツ・防人の歌】
740 9 3 ~10月23日藤原広嗣の乱
【身内思いの反乱者~藤原広嗣の乱】
12 15 恭仁京へ遷都
【恭仁?志香楽?聖武天皇・迷走の謎】
743 10 15 聖武天皇が大仏建立の詔を発する
【大仏の大きさは天皇の恐怖の大きさ】
745 1 1 志香楽宮(しがらきのみや)・遷都
【木簡に万葉歌!「紫香楽宮」って?】
747 7 7 聖武天皇が七夕の宴と相撲見物を行う
【七夕の夜に日本最古のK-1ファイト】
749 2 2 行基・没
【弾圧の小僧・行基~大出世の裏事情】
751 3 12 第一回・二月堂修二会(おたいまつ)
【あをによし奈良の都のお水取り】
752 3 22 新羅からの使者が大宰府に到着
【新羅と日本…古代の関係】
4 9 大仏・開眼供養が行われる
【大仏開眼~大仏の大きさデータ】
【大仏開眼と光明皇后】
【奈良の大仏と鎌倉の大仏】
753 12 20 鑑真和上が6度目の渡航で日本に到着
【男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日】
754 1 16 鑑真和上が平城京に到着
【鑑真が日本に来たかったワケは?】
755 11 9 安禄山の乱(中国)
【楊貴妃は日本で生きていた?】
756 6 21 正倉院・建立
【正倉院~アッ!と驚く豆知識】
757 7 4 橘奈良麻呂の乱
【歴史の闇に消えた橘奈良麻呂の乱】
759 8 3 鑑真和上が唐招提寺を建立
【鑑真和上が唐招提寺を建立】
760 6 7 光明皇后・没
【慈愛と懺悔の藤原氏期待の星】
763 5 6 鑑真和上・没
【男・鑑真、66歳…6度目で悲願の来日】
764 9 11 ~18日藤原仲麻呂の乱
【盛者必衰~藤原仲麻呂の乱】
10 9 孝謙太上天皇が称徳天皇として即位
【道鏡事件のウラのウラ】
765 10 23 淳仁天皇・崩御
【没後・千年経て天皇に~悲しみの天皇】
769 9 25 和気清麻呂が流罪になる
【和気清麻呂・大隅へ流罪】
770

4

26 百万塔陀羅尼が完成
【戦国の活版印刷と世界最古の印刷物】

10

1 第49代・光仁天皇が即位
【光仁天皇&桓武天皇・父子2代の改革】
776 7 20 田中広虫女が病死(日本霊異記)
【牛になった女房~田中広虫女の話】
781 7 6 富士山・最古の噴火
【富士山~最古の噴火記録】
784 11 11 長岡京へ遷都
【渾身の新都~幻の都・長岡京遷都】
785 8 28 大伴家持・没
【万葉の貴公子・大伴家持】
9 28 早良親王・死して怨霊となる
【お彼岸の起源・由来】
794 10 22 平安京・遷都
【未完の都・平安京】
【究極の魔界封じの都・平安京誕生】
奈良豆知識 【人は別れる時、なぜ手を振るのか?】
【お花見の歴史は万葉から・・・】
【万葉の恋歌~別れ歌】
【奈良・平安の食生活~グルメの醍醐味】
【昔の人口ってどれくらい?】
【時間にキッチリ?奈良の都の勤め人】
【飛鳥~現代・日本の土地制度の変化】
【謎呼ぶ天平人の忘れ物・藤原宮の瓦】
【東大寺・二月堂の昔話~良弁杉】

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2009年5月 3日 (日)

織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺合戦

 

天正四年(1576年)5月3日、石山本願寺を取り囲むように構築された織田信長勢の砦を巡っての激しい攻防戦天王寺合戦が繰り広げられました。

・・・・・・・・・・・

織田信長に反発した第15代室町幕府将軍・足利義昭(7月18日参照>>)の呼びかけで、浅井長政朝倉義景武田信玄らの武将によって形勢された信長包囲網・・・

そこには、第十一世・顕如(けんにょ)の先導で、全国に一向一揆の嵐を巻き起こした浄土真宗の門徒たちも加わっていました。

現在の大阪城の建つ位置にあったとされる石山本願寺は、まさに、その一向一揆の中心の場所・・・

そんな本願寺と信長との戦い・・・世に言う石山合戦は、元亀元年(1570年)から天正八年(1580年)まで、11年の長きに渡って繰り広げられます(11月24日参照>>)

一時は、それこそ全員を敵に回して、ピンチの連続だった信長も、浅井・朝倉を倒し(8月27日参照>>)義昭を追放し、信玄の死にも助けられ・・・と、一つ一つ潰していく中、天正二年(1574年)の9月には、顕如の呼びかけに連動して発起した長島一向一揆を終結させます(9月29日参照>>)

翌・天正三年(1575年)10月には、信長と顕如の間で講和が成立し、戦いは小休止となりますが、ここは、お互いが力を蓄えるための様子見ぃの講和・・・。

この間に、信長は安土城の建設を急ぎ、顕如は鉄砲に長けた紀州(和歌山県)雑賀(さいが・さいか)に声をかけ、このゴタゴタの張本人である義昭は、信玄亡き後の大物武将として上杉謙信毛利輝元に助けを求めます。

・・・で、結局、先の講和から、わずか半年後の天正四年(1576年)4月14日再び合戦の火蓋が切られるのです。

Tennouzikassenzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

北東の守口、北西の野田、南の天王寺と、石山本願寺を囲むように、多くの砦を構築した織田の軍勢・・・各砦を拠点に、荒木村重明智光秀細川藤孝原田直政らが、本願寺に向けて攻撃を開始しました。

この時、石山本願寺自身には、4万余りの宗徒が籠城していたと言いますが、信長自らが陣頭指揮に立ち、士気あがる織田軍の猛攻撃によって、一時は敗色が濃くなった本願寺・・・しかし、天正四年(1576年)5月3日、かねてより、顕如が声をかけていた雑賀衆の一番手が登場します。

木津川口から、逆に織田軍を包囲した雑賀衆は、数千挺の鉄砲を一斉射撃!・・・直政は討死し、村重・光秀・藤孝らは、慌てて天王寺砦へと逃げ込みます。

この日の敗戦には、さすがの信長も、一旦、若江城(東大阪市)へと退却し、態勢の立て直し・・・

やがて、5月7日、再び本願寺に迫った織田軍は、やはり戦いのプロ・・・5倍近くの数の宗徒を蹴散らし、本願寺の城戸口前まで攻め寄せます。

『陰徳(いんとく)太平記』によれば、このように、本願寺がヤバくなると、真っ赤な法衣をまとった顕如が皆の前に現れ、その姿を目にした者は、たとえ織田の兵であっても、その神々しさにひれ伏し、たちまちのうちに武器を捨てて念仏を唱えはじめ、その度に形勢が逆転する・・・てな事が書かれていますが、この文献は軍記物に分類されるものなので、かなりオーバーに書かれているとは思います。

ただ、織田軍が攻撃をやめたかどうかはともかく、顕如のお出ましによって、味方の宗徒たちの士気があがった事は間違いないでしょう・・・なんせ、プロの戦闘集団でない彼らにとって、メンタルな部分の結束は一番重要ですから・・・。

ともあれ、この天王寺合戦の後に、さらに砦の数を増やした信長・・・そのおかげで、籠城する本願寺側は、完全に孤立状態となり、確保した兵糧が無くなるのも時間の問題となります。

・・・と、ここに登場するのが、西国の雄・毛利・・・。

ようやく、重い腰をあげた輝元は、海に強いその特性をフルに生かして海路からの兵糧補給を試みます。

毛利配下の村上水軍小早川隆景配下の小早川水軍・・・海賊時代に培ったそのゲリラ的航行術を駆使する海の民の出現に、この先、石山合戦の舞台は、大坂湾の海の上へと移動する事になるわけですが・・・

そのお話は、やはり、第一次木津川海戦が行われる7月13日へどうぞ>>
 .

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2009年5月 2日 (土)

織田信孝・自刃~報いを待つのは秀吉か?信雄か?

 

天正十一年(1583年)5月2日、織田信長の三男・信孝が、兄・信雄に追い詰められ、尾張・内海の野間大御堂寺で自刃しました。

・・・・・・・・・

織田信孝は、永禄元年(1558年)に織田信長の三男として生まれます。

上記の通り、最終的に彼を死に追いやる兄の信雄(のぶかつ・のぶお)ですが・・・実は、彼も永禄元年生まれ。

本当は、信孝のほうが何日か早く生まれていたものの、母親の身分が低かったため、信雄を次男とし、信孝を三男としたとも言われますが、その真偽はともかく、そのような噂が囁かれるくらい、二人は同時期に誕生したようです。

信孝11歳の時、父の信長が北伊勢一帯を配下に治めた事で、その時、信長の傘下となった神戸城(三重県鈴鹿市)の城主・神戸具盛(かんべとももり)の養子となって神戸氏を継いだので、その後は神戸信孝と名乗ります。

神戸となった後も、父・信長に従い、長島や越前の一向一揆の平定に参戦したり、長兄の信忠に従って有岡城攻めも行っています。

天正十年(1582年)の本能寺の変の直前に、信長は、いよいよ四国征伐に乗り出しますが、この時、四国攻めの総司令官に任命されたのが信孝でした。

その前年の馬揃えの順番でいけば、
one長男・信忠
two次男・信雄
three信長の弟・信包・・・と、
信孝はfour番目となるのですが、すでに信長の後継者に決定していた長男の信忠を除けば、この中で、地方征伐の指揮官に任命されたのは、信孝のみ・・・。

母親の身分が低く、すでに神戸氏を継いでいる事で、織田家内の地位としては4番目の信孝でしたが、その武将としての力量には、父・信長も期待していた事がうかがえます。

しかし、彼が、重臣の丹羽長秀(にわながひで)とともに、大坂にて、その四国攻めの準備をしている時に、かの本能寺の変が勃発するのです。

本来なら、自らが先頭に立って、父の弔い合戦を!!・・・と行きたいところですが、四国攻めのために集めた兵が、信長の死に動揺して散り々々になってしまったため、信孝は、備中・高松城がら、奇跡の中国大返しで戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉と合流して、山崎の合戦(6月13日参照>>)で、父の仇・明智光秀を倒しました。

この山崎の合戦の時、秀吉の要請で、総大将となった信孝ですが、それが、主君の敵討ちを前面に推したい秀吉の策略である事は、すぐ後の清洲会議(6月27日参照>>)で明らかとなります。

山崎の合戦では、「ぜひ総大将に・・」と、自分を推してくれた秀吉が、信長の後継者を決める清洲会議では、信長とともに亡くなった長男・信忠の息子・三法師を推し、信孝を推した柴田勝家を押さえ込んで、織田家後継者を三法師に決めてしまったのです。

結局、美濃(岐阜県)一国・岐阜城の城主と決まった信孝・・・

とは言え、信長健在の頃でも、上記の通り、4番目という地位に納得していた信孝ですから、信長から、すでに家督を譲られていた信忠亡き後は、その息子・・・いわゆる直系の筋である三法師が後継者となる事には、まったく文句なく、おそらく、信孝自身も納得していた事でしょう。

ただ、彼が許せなかったのは、その三法師が幼い事を良いことに、好き勝手にふるまう秀吉の態度・・・で、結局、同じように、それが許せなかった勝家とともに、秀吉に対抗する事となるのです。

これが、あの賤ヶ岳(しずがたけ)の合戦(3月11日参照>>)・・・この時、越前(福井県)の勝家、伊勢滝川一益、そして自らの岐阜と、見事に一直線の秀吉包囲網を形成した信孝でしたが、相手の秀吉が、次男の信雄を看板に掲げて美濃の国人衆を仲間に引き入れたうえ、ご存知のように、賤ヶ岳の合戦で勝利し、勝家を自刃に追い込んでしまいます(4月24日参照>>)

この時、秀吉側について、北伊勢で戦っていた信雄は、勝家死すのニュースを聞いて、すぐに軍を美濃へと移動させ、信孝の岐阜城を包囲しました。

取り囲まれた城からは逃げ出す者が続出して、最後まで信孝のもとに残ったのは、わずか27人だったとも言われていますが、この状況に、さすがの信孝も、岐阜城・開城に踏み切ります。

岐阜城開城の時点では、その命を保証されていた信孝でしたが、その後、尾張国・内海(愛知県知多郡)の野間大御堂寺(おおみどうじ)に移され、天正十一年(1583年)5月2日兄・信雄に切腹を命じられたのです。

この後の時代の流れを知っている私たちから見れば・・・
「信雄!なに、秀吉の思う壺にハメられとんねん!兄弟で潰し合ってる場合か!」
と、思ってしまいますね。

なんせ、ご存知のように、結局は、信雄を後継者にする気なんてさらさらない秀吉との間で、この信雄さんは小牧・長久手で戦い(3月13日参照>>)最終的に取って変わられる事になってしまうわけですからね。

ただ、この時期の信雄さん・・・信長の弟や、自分の妹の徳姫など、織田一族を庇護下に置いており、自分自身も、そして周囲も、織田家の惣領=信長の地位の継承者としての認識があったようなのです。

実際に、天正十四年(1586年)7月23日付けの書状で、父・信長が使用した「天下布武」のハンコに似せた「威加海内(天下に威力を示す)という、信雄のハンコが押された物が滋賀県で発見されており、どうやら、天下統一の意思が・・・というより、この信孝の死後、しばらくは、信長の後継者として、信雄が、実際に活動していた可能性があるのです。

・・・と、なると、秀吉に踊らされたというよりは、「後継者になりたい」という野望があって、自ら率先して弟・信孝を死に追いやったという事なのかも知れません。

これまで、小牧長久手の戦いは、天下を狙う秀吉と、それを阻止したい徳川家康が主流で、信雄は、あくまで、家康が秀吉と戦う大義名分のために用意した看板であったかのように思われており、このブログでも、散々、そのように書いてきましたが、実際には、信雄のほうがヤル気満々だったのかも・・・ですね。

小牧長久手の戦いが天正十二年(1584年)で、その年の11月に、信雄は、家康にナイショで単独講話(11月16日参照>>)して戦いが終結・・・さらに、その翌年の2月に信雄が上洛して秀吉と面会し、7月に秀吉が関白に・・・

しかし、上記の書状の日づけを見る限りでは、それでも、まだ、天下への夢は捨てていなかった?のかもしれませんね。

ただ、あの15代室町幕府将軍・足利義昭が、信長に京都を追放された後も、しぶとく生き残り、後に、秀吉の説得で将軍職を辞任した後も、秀吉から「室町内府公」なんて称号で呼ばれて、朝鮮出兵の時には、喜んで名護屋まで出陣していますので、それこそ、人たらしの秀吉のワザで、淡い夢を見させられていただけなのかも知れませんが・・・

かくして、兄から切腹を命じられた信孝・・・有名な辞世が残っています。

♪昔より 主をうつみ(内海・討つ身)の 野間なれば
   報
(むく)いを待てや 羽柴筑前♪  信孝・辞世

これは、その昔、あの平治の乱に敗れた源義朝が、家来の長田忠致(おさだただむね)を頼って来た時、恩賞に目がくらんだ忠致が、風呂に入っていた義朝を騙まし討ちするという話(1月4日参照>>)・・・その舞台が、この野間という場所だったのです。

結局、後に平家を倒した義朝の息子・源頼朝によって、この忠致は処刑されるわけですが、その話になぞらえて・・・

「昔から、主君を裏切る地であった野間・・・そのうち報いが来るだろうから待っていろ!羽柴秀吉め!」

てな、感じの、まさに、強烈な怨み節なわけですが、さすがに、こんなモロに名指しの歌を詠んで、そのまま、それが後世に伝えられるとは、とても考えられないですから、おそらく、豊臣家が滅亡した後の、江戸時代に作られたものでしょうね。

それを、見事に証明してくれるのが、先の「威加海内」のハンコ・・・上記の通り、あの日づけの時点でも、信雄がこのハンコを使用していたとなると、信孝が、この切腹の時点で怨むべき相手は、秀吉ではなく、信雄ですからね。

後に、秀吉が天下を取る事を知っている人しか、この歌は詠めません。

ただ、この歌を作った人も、悪気はなく、「おそらく、とてつもない怨みを抱いて死んでいったのだろう」という思いからの創作であった事でしょうが・・・。
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2009年5月 1日 (金)

アンケート投票・目次

これまでに、ブログ上で行った「アンケート投票募集」「結果のページ」をまとめさせていただきましたので、「このページを起点に各アンケートを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

また、不定期ではありますが、新しいアンケートを行えば、更新していきます。

+*+:;;;:+*+:現在募集中のアンケート+*+:;;;:+*+

  • 現在募集中のアンケートはありません

+*+:;;;:+*+終了したアンケートと結果:+*+:;;;:+*+

・‥…━━━☆・
 

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まもなく桶狭間~今川義元・出陣の理由は?

 

永禄三年(1560年)5月1日、今川義元が、全軍の出陣命令を発しました。

・・・・・・・・・

駿河(静岡県東部)の戦国大名であった今川義元・・・

永禄三年(1560年)の今日、5月1日出陣命令を出し、実際に駿府(すんぷ・静岡市)を出立するのは5月12日・・・

その後、
13日には掛川城
14日・引馬城(ひくまじょう・浜松市)
15日・吉田城(豊橋市)、16日・岡崎城
17日・池鯉鮒城(ちりゅうじょう)と、すでに今川配下となっていた遠江(とうとうみ・静岡県西部)から三河(愛知県東部)の城を移動し、

18日には、尾張(愛知県西部)との国境を越えて、近藤景春沓掛城(くつかけじょう・豊明市)に入っています。

その先には、今川最前線の鳴海城大高城・・・

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そして、さらに、その先には・・・織田信長清洲城

そうです。
この時の義元の行軍に、信長が仕掛けるのが、あの桶狭間の合戦です。

以前は、この時の義元の出陣は、上洛が目的であり、桶狭間の戦いは、その途中に起きた一つの合戦であるとされていましたが、最近では「上洛目的ではない」という説のほうが主流になりつつあります。

・・・というのも、以前、桶狭間の合戦のその日のページ(5月19日参照>>)にも書かせていただきましたが、この時の義元の軍勢が、総勢2万5千ほど・・・

確かに多いですが、たとえここで信長を蹴散らしたとしても、上洛するとなれば、その先には美濃(岐阜県)斉藤氏もいますし、近江(滋賀県)六角氏もいますから、これらを倒しての上洛は、おそらく、この数では不可能な気がします。

もちろん、上洛には、もう一つ、平和的な上洛もあり得ます。

以前、書かせていただいた上杉謙信の上洛(4月27日参照>>)・・・彼の2度の上洛は、天皇や将軍に拝謁する事を一番の目的としたものだったわけですが、こういう場合は、当然、通っていく他国の者に対して、事前に、その事を通達しておかねばなりません。

もちろん、目的地である京都にも、誰に会うのか?どこに滞在するのか?の打ち合わせも必要になってきますが、この時の義元は、それをやっていなかったようです。

天下を狙う上洛にしては軍勢が少なく、平和のための上洛にしては根回しがない・・・よって、今回の出陣の目的は、上洛ではなかったというのが、いまのところ主流の見解となっています。

では、何のために、義元は出陣を決意したのでしょうか?

実は、信長の父・織田信秀の時代から、取ったり取られたりの領地争奪合戦を繰り返していた織田と今川・・・ここに来て、その最終段階を迎えようとしていたようなのです。

そもそも、この少し前、群雄割拠していた戦国武将の中で、力をつけてきていたのが、駿河の義元であり、甲斐(山梨県)武田信玄であり、相模(神奈川県)北条氏康・・・お互いの国境を接して、こちらでも争奪合戦を繰り返していた三国でしたが、彼らも、敵はこの3人だけではありません。

義元が信秀と争っているように、信玄には越後(新潟県)の謙信というライバルがいますし、氏康も隣接する上野(こうずけ・群馬県)下野(しもつけ・栃木県)へと手を伸ばしたい・・・。

そこで、3者の思惑が一致します。

天文二十一年(1552年)、義元は、信玄の息子・義信に自分の娘を嫁がせて今川×武田の同盟を成立させ、翌年には、信玄が、氏康の息子・氏政に娘を嫁がせて武田×北条の同盟が成立・・・さらに、その翌年、氏康が、娘を義元の息子氏真(うじざね)に嫁がせて今川×北条の同盟も成立・・・ここに、甲相駿(こうそうしゅん)三国同盟が成立し、お互い、気になっていた他の隣国への攻略に全力を傾ける事ができるようになったわけです。

一方の織田家は、駿河にちょっかいを出していた信秀が、天文二十年(1551年)に亡くなり(3月3日参照>>)、後継者となった信長は、とりあえず、先に、尾張国内の統一に力を注ぐのです。

そう、信長が後を継いだ頃は、まだ織田家は、尾張下4郡の守護代・織田大和守(やもとのかみ)の、さらに家臣という立場で、さらに、上4郡の守護代・織田伊勢守(いせのかみ)もいたのですから、外にちょっかいを出すより、織田家の中でトップになる事のほうが先決だったわけです(11月26日参照>>)

ただ、国内を統一しようとして、争い事が激化すると、多くなるのが、その配下の国人たちの離反・・・やっぱ不安ですからねぇ。

ちょうど、この織田家内のゴタゴタの頃に、織田から今川へ寝返ったのが、大高城を奪ったばかりの鳴海城主の山口教継(のりつぐ)(4月17日参照>>)沓掛城近藤景春・・・つまり、ここが、今のところの今川の最前線だったわけです。

・・・で、現在では、義元の出陣は、信長の尾張そのものに対しての出陣であったであろうとの見方がされています。

・・・と言いますのも、上記の鳴海城と大高城が、今川の物となってしまった事で、信長は、これらの城に対して付城(つけじろ)を構築しているのですが・・・

付城とは、狙いを定めた城に対して、攻撃をしやすいように、あるいは、監視しやすいようにと、すぐ近くに造る砦・城の事ですが、鳴海城には丹下善照寺中島の3つの砦、大高城には鷲津丸根の2つの砦・・・計・5つの砦を構築しています。
(桶狭間の時の布陣図を見ていただくとわかりやすいです=別窓で開く>>

つまり、この時の出陣は、この二つの城に付けられた砦を潰すためだったのではないか?というわけです。

実を言うと、かの2万5千という大軍ではありますが、それを皆、義元自身が率いていたかと言えば、そうではなく、各城に散らばって配置され、義元の側にいたのは2~3千だったとも言われ、そうなると、単に2つの城の砦を潰すための出陣であった可能性も充分考えられますね。

また、ご存知のように、この時の義元は、馬ではなく、輿に乗っての出陣・・・

以前は、この輿での出陣が、公家のマネをして軟弱化した姿と、義元を愚将扱いする格好の材料となっていたわけですが、今では、この輿に乗っての出陣は、力のある大名が将軍家から許された特権であった事がわかっていますので、馬ではなく、あえて輿で出陣した義元としては、抗う織田の青二才に、今川との差を見せつけながら、周辺の砦をぶっ潰して最前線の城を救援するここまで、僕の物やから・・・という線引き的な事だったのかも知れませんね。
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