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2009年5月20日 (水)

加賀百万石を守った男~前田利長・毒殺疑惑

 

慶長十九年(1614年)5月20日、加賀百万石の祖・前田利家の長男で、初代・加賀藩主となった前田利長が亡くなりました

・・・・・・・・・・・

親友・豊臣秀吉の政権下で、五大老の1人として活躍した父・前田利家・・・その利家とまつの間に長男として生まれたのが前田利長(としなが)さんです。

秀吉亡き後、五大老として徳川家康に対抗できる位置にあった利家でしたが、彼も、秀吉の後を追うように亡くなってしまい(3月3日参照>>)、その夜には、もう、加藤清正らの武闘派の面々が、文治派の石田三成を襲撃するという事件が起こり(3月4日参照>>)豊臣家内での内紛の兆しが見え始めます。

利長は、亡き父の家督を継いで五大老の1人となり、秀吉の息子・豊臣秀頼傅役(もりやく)も引き継ぐ事になりますが、ご存知のように家康は、利家という気をつかう相手がいなくなったせいか、生前の秀吉と交わした約束事を無視して、大名同士の勝手な婚姻を結んだり、勝手に恩賞を与えたり、自らの派閥の形成へと動き出します。

利家は、その死の間際に、遺言として、息子・利長に「三年間は加賀に戻るな」と言い残していましたが、そんな豊臣家内のモメ事や、家康の態度に嫌気がさしたのか、利長は、父との約束を破って、加賀へと戻ってしまいます。

その利長の態度に、「これ幸い」前田家潰しに取り掛かる家康・・・「秀頼の傅役を無断で放棄して加賀に帰ったのは、浅野長政大野治長(はるなが)らと組んで、家康暗殺を企てているのだ」と、根も葉もない暗殺計画をでっち上げ、加賀征伐を仕掛けてきたのです。

この家康からの売られたケンカを、買うのか?買わないのか?・・・前田家の家臣団は真っ二つに分かれます。

そもそも、父・利家の遺言である「三年間は加賀に戻るな」というのは、「幼い秀頼と豊臣家の現状を守れ」という意味ですから、すでに豊臣家のバランスを崩そうとしている家康の味方になる事は、その遺言に反してしまう事になります。

・・・かと言って、家康に対抗して、この先、前田家が存続できるのかどうか・・・

ここで、「亡き利家の遺言に反してでも前田家を存続させる道を選ぶべき」との意見を通したのが、他ならぬ利家の妻=利長の母・まつでした。

まつは、自ら、家康の求めに応じて、人質として江戸へと下る道を選びます。

この時、まつは、「覚悟はできているので、いざという時は、母を捨ててでも家を守りなさい」と、利長に言い残して江戸に向かいます(5月17日参照>>)

それが、慶長五年(1600年)5月の事・・・そう、その前月の4月1日には、会津上杉景勝家康からの上洛要請を拒否し(4月1日参照>>)、4月14日には、景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)が、家康に対して強気の「直江状」を叩きつけています(4月14日参照>>)

それを受けた家康が、会津征伐と称して大坂をあとにするのが6月16日ですから、もう、すっかり関ヶ原へのカウントダウンが始まっていた時期という事になります。

母の思いをしっかりと受け止めた利長・・・関ヶ原の現地へ出陣する事はありませんでしたが、北陸の関ヶ原とも言える浅井畷(あさいなわて)の戦い(8月8日参照>>)での勝利をはじめ、北陸における反家康勢力を抑えるという役目を果たし、見事、大幅加増で前田家を守り抜きました。

ただ、母の意志を汲み、人質となった母の身の安全のために、関ヶ原で家康についた利長ですが、その心の内が、どうであったかは定かではありません。

いや、おそらく、心から望んで家康の味方になったわけではなかったでしょう。

利長は、関ヶ原から五年後、わずか43歳にて隠居して、異母弟の利常(としつね)に家督を譲ります。

そして、その9年後の慶長十九年(1614年)5月20日53歳でこの世を去る事になるのですが、その利長が、心の底から自分の味方にはなっていない事は、おそらく、家康自身も気づいていたに違いありません。

なぜなら、上記の隠居という事態になっても、まだ、まつが加賀へ返される事はなく、まつが金沢に戻る事ができたのは慶長十九年(1614年)の6月・・・つまり、利長の死の1ヵ月後です。

しかも、この慶長十九年・・・何があったか、もうお解かりですね。

そう、大坂冬の陣です。

その原因となった、あの方広寺の鐘に、家康がイチャモンをつけるのが7月21日・・・(7月21日参照>>)

まさに、利長の死はその直前の出来事となるわけですが、もちろん、徳川幕府の正式な史料には、その死因について「病死」と書かれていて、利長が長い間、病気に苦しんでいた事が記されています。

しかし、このタイミングでの死には、やはり、疑いを持ちたくなってしまうわけで、さらには、病気に苦しむ利長のために、家康から医師を派遣した」なんて事を聞くと、逆に「その医者に毒を盛られたんちゃうん?」と、思ったりなんかもします。

7月17日には、大坂城にいたあの織田信長の弟・織田信包(のぶかね)急死していて、彼にも毒殺疑惑がある事も、以前書かせていただきました(7月17日参照>>)

やはり、利長の豊臣家への忠誠心は、ずっと、彼の心の奥底に残っていて、家康もそれを脅威に感じていたのかも知れませんね。

ただ、一方では、その忠誠心ゆえ、豊臣家を守りきれない自分の立場に心を痛めていという話もあります。

『懐恵夜話(かいけいやわ)という加賀藩の文書には、その冬の陣の前には豊臣方から「味方につくように」とのお誘いの書状が送られてきてはいたものの、未だ母は人質の身、さらに、家督を譲った弟・利常の奥さんは家康の孫娘・・・しかし、自分の気持ちは・・・と、大いに悩んでいた事が書かれています。

・・・で、結局その葛藤に悩まされた利長は、自ら毒を飲んで自殺したのだとも言われています。

病死・毒殺・自殺・・・もちろん、いずれが事実かは藪の中ですが、彼が、自らの気持ちを押し殺し、母とともに、父の遺言に背いてまで、家康傘下を貫いてくれたおかげで、加賀百万石は守られ、明治に至るまで、その安泰をはかる事ができたわけですから、やはり、以前、利常さんのページのコメント欄で書かせていただいた通り(10月12日参照>>)加賀藩の祖は前田利家でも、初代・藩主は利長さん・・・江戸時代の加賀百万石は利長あっての事だと、個人的には思っております。
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家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事

コメント

面白く読ませて頂きました。
戦国武将達には、夫々得意の戦法やら 奥の手やら があったように思われるのですが、
豊臣の者は、水攻めとか兵糧攻めとか、○○攻めをよくやっていましたよね?、
こちらの記事には 毒殺 がよく出てきましたので、そういえば、それは徳川の得意技ではなかったか、と感じた訳です。
大奥の話しにも、毒殺は、よく出てきますから。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年5月20日 (水) 22時32分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

そう言えば、加藤清正も毒殺説、幕末には、徳川家定や家茂さんも・・・

ただ、水攻めとか兵糧攻めとかは、あくまで、いくさ場での作戦みたいな感じですが、毒殺は、また別物のような気がして・・・何か複雑ですね。

投稿: 茶々 | 2009年5月20日 (水) 23時22分

利長さん…前田家の基礎を築いた父上と、鼻毛を伸ばしたり人前で陰嚢を晒け出すなどの奇行で、百万石を守り抜いた弟の陰に隠れて、影が薄い印象が有りますが、中々どうして父の遺訓に背いてまで家を守ったのは偉いです。彼の苦労を見てきたからこそ弟である第三代藩主…利常も恥も外聞もかなぐり捨てて、隠忍自重して阿呆のふりをしたんだろうと考えたら、利長さんはもっと評価されて良いと思います。

投稿: マー君 | 2009年5月21日 (木) 00時35分

マー君さん、お早うございます。

私も、利長さんは、なかなかの人物だと思います。

投稿: 茶々 | 2009年5月21日 (木) 06時18分

前田利長は、父親の前田利家と比較してしまうと、地味な印象があるかもしれませんが、加賀藩百万石の初代藩主として、結果的に幕末まで長く存続させることに成功した点では、大いに賞賛して良いでしょう。そのために、母親の芳春院(出家前は、おまつ)を、徳川家康の人質として差し出さなければならないなどの苦悩もありましたが、利長は、思慮深い武将だと思います。その一方で、毒殺疑惑が浮上したということは、偶然にも利長が、家康よりも早く死去してしまったから、そういう疑惑が、まことしやかに囁かれたのではないでしょうか。もし、利長が長生きしていたら、幕末の加賀藩の進むべき方向性が違ったものになったような気がします。

投稿: トト | 2016年3月14日 (月) 18時31分

トトさん、こんばんは~

利長さんは…
関ヶ原での弟=利政との役割分担と、その後の処理なんかは、父の利家さんに劣らぬ、なかなかの武将だと思っています。

投稿: 茶々 | 2016年3月15日 (火) 02時20分

父利家の命に背いて家康に降った利長は、結果的に加賀百万石の礎を築いたのでしょうが、武将としては評価出来ませんね。

あの時点での前田家の声望と他の大老や三成達と組めば決して家康に負けるものではないでしょううに。
ましてや父の遺命もあるのに!

前田家すら徳川に付いたとなれば家康の勢いが増したと諸大名は見たでしょう。

同時代の立花宗茂公は利長をこう評しています。
「あの腰抜けが」と。

投稿: 閣下 | 2016年9月 6日 (火) 00時48分

閣下さん、こんばんは~

>あの時点…
>三成と組めば…

とは関ヶ原の事ですよね?

関ヶ原での前田家は利長は東軍ですが、弟の利政と妹婿の宇喜多秀家が西軍で参戦して、結果的に東軍が勝ったので加賀百万石が利長に…となるので、もし、利長までもが西軍で参戦していたら、全滅になってたかも知れませんよ。

逆に西軍が勝っていたとしても、利長がそうであったように、利政が加賀百万石を継ぎ、秀家とともに利長の命乞いをして、その後の生活を援助する手はずになっていたでしょうから、家を残すためには最善の策であり、個人的は、これも武将としての才能だと思います。

立花さんが、いつ、その「腰抜け」のセリフをおっしゃったのか存じませんが、彼もまた、ほどなく降伏開城して、徳川配下となり、15年後の大坂の陣には徳川方で出陣してますからね。
もちろん、それも生き残り術であって、私は「腰抜け」とは思いませんが…

投稿: 茶々 | 2016年9月 6日 (火) 02時44分

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