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2009年5月26日 (火)

全盛の平家に一矢報いた以仁王~その生存伝説

 

治承四年(1180年)5月26日、源頼政とともに宇治の橋合戦に敗れた以仁王が、奈良へと逃走中、平家に追撃され死亡しました。

・・・・・・・・・

後白河法皇の第三皇子として生まれた以仁王(もちひとおう)・・・聡明かつ人望もあり、次期天皇候補として充分な素質を持っていた以仁王でしたが、当時、権力を欲しいままにしていた平清盛によって、その夢を断たれてしまいます。

一方、先の平治の乱(12月9日参照>>)で、平家側についたおかげで、平家全盛の時代にも生き残った源氏の源頼政(よりまさ)も、齢70を過ぎ、もはや出世も望めない状況・・・。

この2人が結びついて、源氏をはじめとする各地に残る反平家に対して打倒平家を呼びかける令旨(りょうじ・天皇家の命令書)を発したのは治承四年(1180年)の4月9日でした(4月9日参照>>)

しかし、やがて彼らの動きは、各地の反平家勢力が挙兵をする前に平家側の知るところとなり、危険を感じた以仁王は三井寺へと逃走・・・三井寺でおちあった頼政とともに、奈良の興福寺へと向かいました。

逃げる以仁王と追う平家・・・両者がぶつかったのは治承四年(1180年)5月26日正午頃、宇治川を挟んでの対峙。

宇治橋を落として追手を防ぐ頼政でしたが、怒涛のごとく襲い掛かる平家軍に、「もはやこれまで!」と、以仁王を先に奈良方面へと逃し、頼政は平等院にて自害しました。

これが、一の谷から壇ノ浦へと続く源平争乱の幕開けとなった宇治の橋合戦と呼ばれる戦いです。

その後、わずかの側近とともに、宇治を後にした以仁王も、木津川を渡ったあたりで追いつかれ、命を落す事になるのですが、ここまでは一昨年の5月26日に書かせていただきましたので、くわしくは、そちらで見ていただくとして(5月26日参照>>)・・・本日は、やはり、あります「以仁王・生存説」

・・・と、言うのは、結局は失敗に終った以仁王と頼政の平家打倒でしたが、横暴を極める平家への不満は、すでに頂点に達しており、それに対抗した聡明な以仁王への期待が大きく膨らんでいたからなのでしょう。

それと同時に、以仁王は先々代天皇の息子という高貴なお方・・・その素顔を知る人が極めて少なかったため、討ち取られた首を自信をもって検分できる人がおらず、果たして、本当にその人が以仁王だったかどうだったのか?・・・というところから、噂が噂を呼んで、生存説へと発展していったようです。

そして、西国に勢力を誇る平家に対抗という背景からか、その生存説は、やはり東へ逃れた・・・というところから始まります。

まずは・・・
♪夏がく~れば 思い出す~♪
の歌でもお馴染み、ミズバショウで有名な尾瀬(おぜ・群馬県)・・・。

この尾瀬という地名は、以仁王の侍臣・尾瀬中納言頼実(おぜちゅうなごんよりざね)の名前からきているのだとか・・・

頼実が、以仁王とともに、この地まで逃れたものの、ここで病に倒れ、そのまま没したというのです。

湿原の中ほどには、尾瀬塚と呼ばれる塚が現在も残っているのですが、この尾瀬塚が頼実のお墓だと、現地では伝えられているのだそうです。

そして、もちろん、以仁王は、ここ尾瀬より、さらに逃走して日光へ向かったのだとか。

さらにさらに、福島県南会津郡下郷町に建つ高倉神社なる神社は、ある者が、ここまで逃れて来た以仁王を、その恩賞欲しさに討とうとしたところ、雷鳴が鳴り響いた・・・「このような高貴なお方を討ってはならないという神のお告げでは?」と思ったその人物は、以仁王を討つ事を断念し、逆に王を祀った神社を建立したのだそうです。

確かに、その高倉神社の主祭神は以仁王・・・そう言えば、伝説ではなく、一応正史とされる歴史上で、宇治から奈良へと向かった以仁王が討たれた場所とされる京都府相楽郡山城町にも以仁王のお墓がありますが、そこも高倉神社ですね。

もちろん、以仁王が高倉宮と呼ばれていた事で、神社の名前が同じなのは当然ですが、京都と福島・・・まったく違う場所に、同じ方を祀る同じ名前の神社がある事に、何だか感動しますね。

いやいや、群馬→福島と来て、さらに・・・今では、三条市の一部となった新潟県南蒲原郡下田村というところには、以仁王と行動をともにした椿家の末裔という一族の伝説が残るのだとか・・・。

・・・とは言え、もちろん、これらは、やはり伝説の域を出ないもの・・・おそらくは、一般的な歴史の通りに、木津川を渡るあたりで討ち取られ、志半ばで京都・山城町の高倉神社に眠るというのが正解なのかも知れません。

しかし、以仁王の放った一矢は、確実に平家を捕らえ、やがては立ち上がる源頼朝へ、木曽義仲へと届いた事は確か・・・それは、この先の歴史が証明しています。
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

 悲運に亡くなる方は、大抵、聡明とか英邁で将来よき君主になられたであろうって云う書き方ですよね~。(始皇帝の長子、扶蘇を一番に思い浮かべます、次は重盛・信忠・信康ですかね 私としては~)
 以仁王って「親王」さんじゃないからどうなんでしょうか?
 王から天皇に成られた人がいるのでしょうか? 天皇制の混乱期を除き、英邁だから天皇に推されてなるってことが、あったかどうか、また教えてください~

投稿: 山は緑 | 2009年5月26日 (火) 20時28分

山は緑さん、こんばんは~

確かに、以仁王は母の実家が摂関家じゃありませんし、天台座主の最雲の弟子にもなっていますが、出家はせずにいましたし、最雲亡き後は寺も出ていますので、難しいとは思いますが、まったく資格がなかったわけでもないのではないか?と思います。

また、この時、後の安徳天皇を、生後わずか1ヶ月で皇太子に立て、その後、高倉天皇を退位させて、3歳に満たない安徳天皇へ譲位させるというような清盛の態度は、ある意味、天皇家の異常事態だったような気がするのです。

一旦、源氏の姓を賜り、臣籍となった後に天皇となった宇多天皇の例もあるので、異常事態の場合は、わずかの可能性に反平家勢力が期待する・・・という事があったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年5月26日 (火) 23時37分

もしかすると打ち取られた以仁王の風貌がわかる人は、後白河法皇か平氏や一部の貴族しかいないのでは?
源義経でも「大陸逃亡説」がありますからね。義経の場合は頼朝の側近が首実検してはいますが、影武者がいた可能性はあります。

「平清盛」の後半は出演者の平均年齢がかなり若くなりそうですね。源義経は誰がやるんでしょう?

投稿: えびすこ | 2012年5月26日 (土) 09時01分

えびすこさん、こんばんは~

義経は、頼朝のもとに届くまでに、なぜか3ヶ月もかかって、しかも夏の時期でしたから、とても確認できる状況じゃ無かったみたいですしね~

トラマは大幅にテコ入れされるみたいですが、どうなるんでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年5月27日 (日) 00時48分

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