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2009年5月28日 (木)

明智光秀の愛宕山連歌会の句は本能寺の意思表明か?

 

天正十年(1582年)5月28日、明智光秀愛宕山西坊で、紹巴らを招いて「愛宕百韻」を催しました。

・・・・・・・・・・・

天正十年(1582年)・・・この年の3月に武田勝頼を自刃に追い込み、戦国乱世にその名を馳せた武田氏を滅ぼした織田信長・・・(3月11日参照>>)

その時に武田から寝返り、滅亡に一役かった穴山梅雪(ばいせつ・信君)(3月1日参照>>)を連れて、徳川家康が挨拶がてら安土を訪れたのは5月15日でした。

この年は、織田と徳川が同盟を結んで、ちょうど二十年目にあたる節目の年でもあり、戦国最強と言われた武田を滅ぼした事もあり、その日の酒宴は大いに盛り上がったようですが、ちょうど同じ日に信長のもとに届いたのが、中国地方への遠征担当だった・羽柴(豊臣)秀吉からの援軍要請です。

この時、備中(岡山県・西部)高松城を水攻め(4月27日参照>>)の真っ最中だった秀吉が、「敵は、毛利輝元ら主力軍が出陣する事となったので・・・」と、信長自らのお出ましを願ってきたわけです。

信長は、自ら出陣する準備に取り掛かると同時に、5月17日、明智光秀に、その先鋒を努めるよう命令を発します。

光秀は、その日のうちに安土を発ち、坂本城へ入城・・・さらに、5月26日には丹波亀山城(京都府亀岡市)に入り、中国出陣の準備を始めます。

翌・27日には、嫡男の十五郎光慶(みつよし)ら、わずかな側近だけを伴って山道を上り愛宕山を参拝します。

以前から、時おり書かせていただいております通り、愛宕神社のご本尊は勝軍地蔵・・・その名の通り、合戦に勝利をもたらしてくれる神様で、当時の武将たちから篤い信仰を受けていた神様です(1月24日参照>>)

Dscn6806800 清滝から愛宕山への登山道

『信長公記』によれば、この日、山内の太郎坊でおみくじを引いた光秀は、2度も3度も引きなおしたのだとか・・・引いても引いても「凶」だったからって事らしいですが、どうも、この話は、後づけ臭いですね。

そして、翌日・・・天正十年(1582年)5月28日、愛宕山内の西坊威徳院(にしのぼういとくいん)で、「愛宕百韻(あたごひゃくいん)として有名な連歌会を催すのです。

当時の連歌会は、茶会と同様の文化・教養を披露しつつ、学びつつ行われる社交行事で、今回のように神仏を前に行う場合は、戦勝祈願の意味合いも含まれています。

主催したのは、光秀と仲良しの威徳院・住職の行裕(ぎょうゆう)、宗匠(そうしょう)として招かれたのは、有名連歌師だった里村紹巴(さとむらじょうは)ら9名・・・

連歌会では、順番に出席者による即興の句が次々と詠まれていくわけですが・・・ここで、光秀が一番に詠んだのがあの有名な例の句です。

♪ときは今 あめが下知る 五月(さつき)かな♪

このあと・・・
♪水上(みなかみ)まさる 夏山♪ 行裕
♪花落つる 流れの末を せきとめて♪ 紹巴
・・・・と続き、
最後に、嫡男の光慶が
♪国々は 猶(なお)のどかなるころ♪
と、最後を締めくくる句を詠んでいます。

この時の光秀の句が、「自分が天下を盗る」=「本能寺の変を起す」という意志表明だったのではないか?と言われているわけですが、その解釈は・・・

光秀が土岐(とき)の出身であるとされるところから・・・

最初の
♪ときは今♪「土岐は今」
♪あめの下知る♪「天(あめ)の下知る」
となって、「土岐氏(の自分)が、今、天下を盗る」という意味に取れると・・・

果たして・・・
その真相は、もちろん、今も謎なわけですが・・・

・・・で、黒幕がいたか?いなかったか?、謀反のを起した光秀の心境は?というお話は、別のページで見ていただくとして、本日のところは、この句が、本能寺の意志表明だったかどうかについて書かせていただきますね。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

結論から言わせていただくならば・・・「ない」と思っています(個人の感想です)

この句の解釈も、先のおみくじ同様、この後の出来事を知っている後世の人の後づけだと思います。

それは、以前から時々書かせていただいているように、「この時の光秀は天下を取ろうとは思っていなかった」と考えるからです。

その理由の一番は・・・
天下を取ろうと思うのであれば、一番の味方になってくれるであろう筒井順慶やら細川藤孝やらに根回しをせず、味方になってくれるかどうかもわからない状態で事を起こすのは無謀極まりないと思うからです。

それとなく打診して、それなりの感触を得てからでないと、誰も味方にはなってくれません・・・現に、2人とも光秀側にはついてくれませんでした。

第二に・・・というか、こっちのほうが重要ですが、以前も書かせていただいた信長の息子・信忠を無視しての本能寺攻撃です。

この本能寺の時点では、すでに後継者は信忠に決まっていたわけですから(11月28日参照>>)信長1人を殺害しても、信忠が、その後を継ぐだけで、光秀に天下は回ってきません。

ですから、この時、光秀が本当に天下を盗るつもりであるのならば、本能寺にいる信長と、妙覚寺にいる信忠を、同時に攻撃しなければ話になりません。

しかし、兵の数は充分にあったにも関わらず、ご存知のように、光秀は、本能寺だけに攻撃を仕掛け、信長の遺体を捜しまくり、その後、思い出したように妙覚寺の信忠の攻撃へと向かいます。

この時、光秀が本能寺の信長にかまっている間に、信忠が安土へと逃走するか、大坂で四国への出陣準備をしている弟・信孝と合流しているかすれば、もう、それで、終っていたのです。

信忠が、逃避せずに、妙覚寺から二条御所へと移動して籠城してくれたおかげで、光秀は信忠をも討つ事ができ、そこで、はじめて「天下」という話になるわけです。

信忠の自刃は、むしろ光秀にとってはラッキーサプライズで、そこに計画的な天下盗りはありません。

この日詠んだ句が、「信長を討つ」という意味にとれる内容なら、意志表明だったかも知れませんが、「天下を盗る」という意味にとれる内容なので、これは、本能寺の変の意志表示ではありません・・・と、これが、現在のところの、連歌会の句に対する私的な見解であります。

・・・とは言え、連歌会の句が意志表示でなかったとしても、この時点で、光秀に謀反の意志があったかどうか・・・というのは、黒幕説と同様、まだまだ検討の余地アリです。

これまでに書いた「本能寺の変」関係のページ・・・よろしければどうぞo(_ _)o

 
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

この連歌についても色々と解釈が為され、意見の分かれるところですね。僕も概ね茶々さんの意見に賛同しますが、やはり、この歌を光秀の天下取りの意思表示だと見る人達に言わせると、茶々さんが言った…筒井順慶や細川藤孝に相談した節がないって点について、大事を為すには味方をも欺く必要があり、また光秀の与力とは言え家臣でない筒井・細川両氏には光秀に追従する義務はなく、両氏の口から信長に事が漏れるかも分からない事を考えれば、両氏に相談した節がないのは当然だなんて言うでしょうね。

投稿: マー君 | 2009年5月28日 (木) 17時22分

マー君さん、こんにちは~

>光秀の与力とは言え家臣でない筒井・細川両氏には光秀に追従する義務はなく・・・

確かにそうです。

ただ、それなら、筒井や細川にも打診しなかった極秘の本心を、愛宕山で発表する事もないでしょうし、一番の問題である信忠の件を考えれば、やっぱり天下を狙う気はなかったように思えますね。

投稿: 茶々 | 2009年5月28日 (木) 18時44分

面白かったです~!今日初めて関連ページも読みましたが読み応えありました!信長さんのご遺体は行方不明、って初めて知りました。いかにも歴史上の大スターらしいエピソードですね。ところで茶々さんはなぜ光秀は信長を討ったと思いますか?私はさっぱり想像がつきません・・・

投稿: Hiromin | 2009年5月28日 (木) 21時21分

 こんばんは

 私も関連ページともども大変、面白く読ませて頂きました。
 ほとんど知識のない私は、信長が今でいうイジメを光秀に長い間していて、それを光秀が恨みに思い、本能寺の変につながったのかと単純に考えていました。
 陰湿なイジメを信長が光秀に繰り返していたのではないのだとしたら、諸説あるとしてもやはり何故、光秀が信長を討ったのか、私にもさっぱり想像がつきません。
 私もその辺のところ、茶々さんの見解をお訊きしてみたいです。

投稿: おみや | 2009年5月29日 (金) 00時56分

Hirominさん、こんばんは~

「信長さんの首は、実は本能寺から○○へ運ばれ・・・」(゚ー゚;おっと・・・

これは、本能寺の変の日に書こうかと思ってとってあります・・・と言いながらも、「いい加減6月2日に違う事書けよ」という自分へのツッコミもあり、書くか書かないか悩んでおります。

投稿: 茶々 | 2009年5月29日 (金) 01時52分

おみやさんこんばんは~

>茶々さんの見解を・・・

ごむたいな・・・
博識な歴史家の方々でさえ迷宮入りの難問です・・・なかなか答えは出ませんねぇ。

「こうも考えられる」
「ああも考えられる」
と、たどっていくと、一つの結論にはなかなかたどりつけなくて・・・

いっその事、ドラマのように、信長さんが光秀を足蹴にしててくれれば楽なんですけどねぇ。

投稿: 茶々 | 2009年5月29日 (金) 01時57分

 こんにちは

 やっぱり無体ですか?(笑)『ごむたいな。』ってよく時代劇などで聞く台詞なのでちょっと笑ってしまいました。
 本当にこれは戦国時代最大のミステリーですよね。
 ところで信長という人は、よく時代劇で描かれるように、すぐカッとなって家臣をぶったりけったりするような人であったことは事実なんでしょうか?
 光秀もそのせいで殺意まで抱くようになるほどではなくても犠牲者の一人だったのでしょうか? 

投稿: おみや | 2009年5月29日 (金) 13時38分

おみやさん、こんにちは~

上司として、部下が失敗した時には、それなりに叱責したでしょうが、光秀だけに特別という事はなかったと思います。

今、言われている信長さんのパワハラ的逸話のほとんどは、「精神的にまいってしまうほどの何かがなければ、光秀ともあろう人が、無謀とも思える謀反を起すはずがない」と考えた後世の人の創作だと思われます。

実際に信用のおける記録として残るのは信長政権下において、一番の出世頭で一番のお気に入りです。

他家の武将に自慢する時も、失敗した部下を叱る際に良い例として出す時も、1番が光秀、2番が秀吉です。

実際に、親の代からの家臣・柴田勝家や丹羽長秀を飛び越えて、途中入社である光秀と秀吉のほうが出世してます。

しかも、一番最後に入社した光秀が一番先に城をもらってます。

本当に、その理由が見当たらないので、イロイロな推理が・・・って事だと思います。

PS:最初にupする時に忘れていたので、遅ればせながらリンクをつけましたが「八上城・攻防戦」のお話も読んでいただけるとおありがたいです。

投稿: 茶々 | 2009年5月29日 (金) 16時24分

 こんにちは

 光秀は信長のお気に入りだったんですか。
 『お気に入り』で秀吉と利休のことを想いました。
 この『お気に入り』っていうのがなかなかのクセモノなんですね、きっと。いったん亀裂が入ると、悲劇的な結末へとまっしぐら…。
 ただお互いがお互いにとってどうでもいい相手ではなかったということだけは確かなんでしょう。

 リンクも読ませて頂きました。本当に謎だらけですが、いっそう興味をひかれますね。ありがとうございます。


投稿: おみや | 2009年5月30日 (土) 15時19分

おみやさん、こんばんは~

>ただお互いがお互いにとってどうでもいい相手ではなかった・・・

だからこそ、その歯車が狂った時に、カヤの外の人間からは、原因がまったく読めない行動に出てしまうのかも知れませんね。

おかげで、色々な推理が楽しめますが・・・

投稿: 茶々 | 2009年5月30日 (土) 17時59分

この時の「決意声明」の逸話は有名ですね。
TBSの番組では、「本気で天下を狙うならばもっと大勢が協力するはず」、と言っていました。ましてやたった10日ほどで、羽柴秀吉にやられるはずがない(山崎の戦いはある意味で「織田家中の内輪もめ」とも言えます)です。

ちなみに小和田哲男先生が監修の大河作品での、明智光秀と石田三成はあまり「悪役然」とはしてない、と言われます。

投稿: えびすこ | 2011年5月26日 (木) 14時03分

えびすこさん、こんにちは~

最近は、信長=悪になる傾向があったように思いますが、「江」でまたまたイイ人でしたね。

投稿: 茶々 | 2011年5月26日 (木) 16時43分

織田信長の人物像。このところは中年俳優が演じる事が多いので、確かに「破天荒」な人とは描写されないですね。
明智光秀は格式や権威を重んじる人と思いますが、謀反の理由が光秀の誤解(今年の大河ドラマではそれが理由だったので)だとしたら、お互いに不幸でしたね。ただ「ウマの合わない主従」と言うのは、どこにでもいたと思います。

「江 姫たちの戦国」は3月の地震以降、ほぼ20%弱で推移しております(関東)。伸び悩みの一因に、「40代以上の男性の支持が低いのではないか?」と思います。でも、主演の上野さんはじめ、出演者がこれに嘆く事はないと思います。女性の支持は「篤姫」とほぼ同水準だと思います。

投稿: えびすこ | 2011年5月26日 (木) 18時31分

えびすこさん、こんばんは~

今回の「江」の光秀謀反の理由には驚きましたね。

「勘違い」とか…
「自分でもわからない」とか…

ドラマでも小説でも、歴史モノという物は、おおむねその先のストーリーは決まっています。

それこそ、死んだ人を生きている事にしたり、あった合戦をなかった事にするのはルール違反ですから…

この先、どうなるのかをわかっているのに、なぜ、視聴者や読者は見るのか?
それは、未だ謎になってる部分や細かい部分を、この作家がどう描いてくれるのか?を期待して見るんだと思うんですが…

「江」の脚本家の方は、そんな重要な部分をウヤムヤにしてし、どーでもいい恋愛話ばかりを盛り上げます。
とても残念です。

投稿: 茶々 | 2011年5月27日 (金) 02時43分

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