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2009年5月22日 (金)

いかにして第二次長州征伐は始まったか?

 

慶応元年(1865年)閏5月22日、長州征討の趣旨を天皇に奏上するため、第14代江戸幕府将軍・徳川家茂が京都に入りました

・・・・・・・・・・

いわゆる第二次長州征伐ってヤツですが、この時、第121代・孝明天皇から下された勅語(ちょくご)は・・・

「しばらく大坂城に滞在して、長州征伐は猶予せよ」
というもので、結局、幕府は、天皇のお許しが出るまでの約一年間、数万という大軍もろとも、ここ大坂で足止めされてしまう事になるのですが・・・

・・・で、本日は、そもそも、なぜ、幕府が長州藩を征伐する事になったのか?その流れを、おさらいも含めて振り返ってみたいと思います。

・‥…━━━☆

嘉永六年(1853年)6月3日、浦賀に来航したペリー率いる4隻の黒船によって(6月3日参照>>)不平等な条約で開国してしまった幕府は、安政の大獄を決行して反対派を一掃させますが、そのような徹底的な弾圧に反発した水戸浪士らによって大老・井伊直弼(いいなおすけ)桜田門外の変で暗殺されてしまいます(3月3日参照>>)

このあたりは、幕府の敵と言えば水戸藩だったわけですが、その後も攘夷(じょうい・外国排除)を訴える朝廷との融和をはかるため、幕府は、朝廷と幕府が協力して政治を行う公武合体を推し進めます。

その象徴として、文久二年(1862年)に行われたのが、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と孝明天皇の妹・和宮婚礼でしたが(8月26日参照>>)、翌・文久三年(1863年)には、家茂は将軍として260年ぶりに上洛し、孝明天皇に「攘夷の決行」を約束します。

当時、攘夷論一色だった長州藩は、この「攘夷の決行」を受けて、5月10日、関門海峡を通りがかったアメリカ商船に砲撃したのを皮切りにフランスオランダの船を次々と攻撃しますが、逆に手痛い反撃を喰らった事で、高杉晋作を総督とする「奇兵隊」を結成して近代軍隊の育成に着手します。

一方で、京都において政治の中核を荷っていた長州でしたが、8月18日、突然、京都から追い出され、長州に加担していた三条実美(さねとみ)公卿7名も追放されてしまいます【八月十八日の政変】(8月18日参照>>)

さらに、元治元年(1864年)6月5日、京都の池田屋に潜伏していた長州藩士らが新撰組に襲撃される【池田屋事件】(6月5日参照>>)が起こると、長州藩の強硬派の家老たちが兵を率いて上京・・・御所の蛤御門(はまぐりごもん)で、守る桑名会津・薩摩の藩兵たちと激しい戦闘となります【蛤御門(禁門)の変】(7月19日参照>>)

この時、長州藩からの発砲が御所の壁に命中した事で、長州藩は朝敵となり、天皇から長州征伐の勅許(ちょっきょ・天皇のお許し)を得た幕府は、諸藩に軍を起す事を命令します。

さらに、このタイミングで、アメリカ・フランス・イギリス・オランダの4カ国の連合軍が、あの関門海峡での砲撃の仕返しのために来襲・・・長州側の砲台はこれら連合軍の攻撃で壊滅状態となり、何とか講和を結びます(8月8日参照>>)

それと同時に、長州藩内の「俗論派」が、先の蛤御門で主導権を握っていた家老ら3人に切腹を命じて、幕府に恭順の姿勢を見せたため、この時の第一次長州征伐は戦う事なく終わりを告げました(11月12日参照>>)

しかし、そんな藩の恭順姿勢に不満を持つ高杉晋作が、奇兵隊を率いてクーデターを決行(12月16日参照>>)・・・これで、俗論派は一掃され、生まれ変わった長州藩は、表向きは幕府に従いながらも、裏では武力を蓄える不気味な存在となります。

すでに、幕府の許可なく拠点を萩から山口に遷していた事もあり、長州藩の水面下での不穏な動きに警戒を強めた一橋(徳川)慶喜(よしのぶ)松平容保(かたもり)の主張によって、幕府は2度目の長州征伐を決定するのです。

しかし、慶応元年(1865年)閏5月22日の将軍・家茂の上洛を以っても、長州征伐の許しを得られず、一年間の足止めを喰らった幕府は、翌・慶応二年(1866年)の5月1日、老中・小笠原長行(ながみち)を広島に派遣して・・・

毛利敬親(たかちか)は隠居して蟄居(ちっきょ・謹慎)、息子の元徳(もとのり)も蟄居して、家督は息子の興丸へ譲り、領地は10万石マイナスし、興丸へ26万9411石を与える」
という処分を伝えます。

しかし、長州はこの処分を拒否し、両者の交渉は絶たれます。

実は、この一年、幕府がモタついている間に、あの蛤御門であれだけ長州に敵対した薩摩藩が、すでに水面下で長州と軍事的同盟を結んでおり(1月21日参照>>)、密かに薩摩藩を通じて武器を購入・・・長州は、充分に戦いの準備を整えていたのです。

さらに、この長州征伐に関して、薩摩は出兵を辞退・・・この薩摩の出兵拒否は、幕府にとって想定外の事でしたが、なんせ、コチラは国、相手は一つの藩・・・その威信に賭けても、このままにしておくわけにはいきません。

そんなこんなの6月5日、幕府は半ば強引に、天皇から長州征伐の勅許を取りつけ、長州に宣戦布告を申し渡します

こうして、幕府側からは第二次長州征伐・・・長州側からは四境(しきょう)戦争と呼ばれる戦いの幕が上がる事になるのですが、そのくわしいお話は、やはり第二次長州征伐の幕が切って落とされる6月8日【大島口・攻防戦】>>に書かせていただく事とします。
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