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2009年6月30日 (火)

箱根の関所は6ヵ所あった?~江戸時代の女性の旅

 

寛永十二年(1635年)6月30日、江戸幕府・第3代将軍・徳川家光によって、参勤交代の制度が定められました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

参勤交代については、すでに2006年の6月30日に書かせていただいておりますが・・・

その一番の目的は、各大名に領国と江戸を一年交代で往復させて、その経済力を削減させる事・・・そして、彼らの妻子を常に江戸に住まわせる事で人質の役割を果たす事でした(2006年6月30日を見る>>)

・・・で、大名の奥さんが国元へと逃げ帰ったりしないように、特に、女性の出入りは厳しく制限したわけですが、それが、よく耳にする「入鉄砲に出女(いりでっぽうにでおんなという言葉・・・

しかし、そうなると、自然と、一般女性の旅をも規制する事になります。

江戸・約300年で、伊勢参りブーム・・・いわゆる「おかげ参り」のブームが3度ほど起きているそうですが、その中の最初の宝永二年(1705年)のブームの時には、50日間ほどで365万人ほどの人出があったそうで、当時の総人口が約3千万人とすると、わずか2ヶ月足らずで、10人に1人が伊勢参りを経験した計算になり、そりゃ、もう、ものスゴイ事になってたでしょうね。

しかし、そんな大ブームの時でさえ、その女性の割合は、4~5%に過ぎなかったと言いますので、いかに女性が少なかったかがわかりますね。

・・・というのも、もともと、この頃の旅は、男の人でも基本的に半命がけ・・・なんせ、移動手段が徒歩ですから・・・

命の次ぎに大事な、その旅費を狙って、ゆすりたかり追いはぎ山賊がウヨウヨ・・・もちろん、歩くうちには、足が動かないほどに疲れる事もあり、ゆったりしていて、次ぎの宿場町にたどりつく前に、日が暮れたりなんかしたら、泥棒に遭わなくとも、箱根の山で野垂れ死に・・・なんて記録も、かなりの数残っているそうです。

なので、江戸時代を通じて、女性の一人旅というのは、まずあり得ない事で、何かの用事があって旅をする時は、親兄弟同伴か、男性を含むグループ旅行、あるいは使用人=ボディガードつきでという事になります。

その上に、冒頭に書いた「入鉄砲出女」で、女性の移動に関しての規制が厳しいのですから、そりゃぁ、旅に出る人は少なかったでしょうね。

まずは、手形の発行の時点で、男性と女性には大きな差がありました。

もともと、旅に出るには、往来手形という身分証明書と、関所を通るための関所手形が必要なのですが、男性は、武士の場合は藩の係の人、町人の場合は、名主などから関所手形を発行してもらえて楽なのですが、女性の場合は、その名主などに証明書を発行してもらい、それを持って町奉行に許可をもらいに行き、さらに、それらの書類を幕府御留守居役に提出して御関所女手形なる物を発行してもらわないといけなかったのだとか・・・

さらに、旅に出た後の、関所での検問も、女性は特別でした。

全国に53ヶ所あった関所の中の、重要な関所が22ヵ所・・・その中の17ヵ所には、人見女(ひとみおんな)改姥(あらためうば)と呼ばれる女性のチェック係がいたんです。

もちろん、男性がそのチェックをすれば、即セクハラになるくらい厳しいチェックをするために、わざわざ近所のバァサンを雇ってるわけですので、それはそれは大変・・・。

先ほどの手形には、男性の場合は、旅の目的やどこからどこまで行くなんて事くらいしか書かれていないのですが、女性の場合は髪質や髪の長さ、身体的特徴なども書かれてあり、そのバァサンたちは、それを、いちいち入念にチェックするわけです。

さらに、チェック係の女性は、二人一組で、どちらか1人でも、NOなら、もう関所は通れません。

中には、このチェックに引っかかり、しかたなく、もう一度、江戸へと戻り、御留守居役から、新たな証文を発行してもらって、15日かかって関所を通った・・・なんて話も記録として残っているようです。

しかも、このチェック係の女性は、常に関所に待機しているわけではなく、女の通行人があるたびに、足軽が関所のそばの住居に呼びに行った・・・って言うんですから、その時間のかかり具合に、話を聞いただけでも旅に出る気をなくしますわな・・・こりゃ。

そころで、そんな関所・・・一つそんなモンがあったって、抜けようと思えば、抜けれるんじゃないの?と思ってしまいますが、実は、よく時代劇などで見る関所・・・アレは、アレ一つでまかなってるわけではないんですよ。

たとえば、最も重要と言われた箱根の関所の場合は、いわゆる箱根の関所と呼ばれる本関所のほかに、裏関所というのが5ケ所・・・仙石原根府川矢倉沢川村谷ヶ村に設けられていて、本関所と合わせたこの6ヵ所は、きっちりと柵でつながれていたんです。

もし、抜けるとなれば、それらすべてを迂回しなければならないし、見つかれば死罪の重罪ですから、やはり、よほどの犯罪者でない限り、手続きが面倒で、順番待ちに時間がかかっても、ちゃんと関所を通らざるを得なかったんでしょうね。
 

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2009年6月29日 (月)

大河ドラマ「天地人」での、世にも不思議な真田一家

 

昨日の「天地人」・・・第26回・関白を叱る。。。

有能な直江兼続に惚れこんだ豊臣秀吉が、「家臣になれ」と誘うものの、兼続は「自らの主君は上杉景勝だけ」と突っぱねる・・・第1回の冒頭のシーンへとつながるお話でしたね。

黄金の茶室から、いきなり、第1回の外のシーンへワープするのにも驚きましたが、題名にある「関白を叱る」のが、主役の兼続ではなく、おねさんだった事にもちょっとびっくり・・・

さらに、びっくりは、「この書状は不要になったので燃やせ」と景勝に言われた家臣が、手紙を燃やしているところに遭遇した兼続が、その手紙を勝手に呼んじゃう・・・

「オイオイ、それは、いかんだろ!」
と、ツッコミを入れる間もなく、声に出して読み始める兼続・・・

「我らにもしもの事があったら、上杉の義を懸けて秀吉と戦え」・・・と、それは、まさかの時は、秀吉と刺し違える覚悟をしていた景勝の、越後に残った者へ宛てた遺書だったのです!

・・・と、この遺書を読んで、感激の涙にむせぶ兼続ですが・・・
オイオイ、あれだけ、越後の民のために・・・と言っていたのに、その越後の民を無視して、一家臣のために殿様が死んでしまう事に感激している場合ではないゾ!

しかも、「もしもの事があったら、秀吉と戦え」って言われても、まだ、後継ぎもいない上杉家は、誰を担いで、秀吉と戦うのだろう?

仮に戦ったとして、おそらく、領内は焦土と化し、領民は大いに苦しむ事になるが、それでも兼続クンは感激の涙にむせぶのだろうか?

よくワカラン主従関係ですが、とにもかくにも、福島正則が宙を舞ったり、殿様が倒れたり、千利休が自分の切腹はおろか、石田三成が関ヶ原で負ける事まで知ってて・・・と、てんやわんやの上洛も終わり、この後は、景勝も兼続も、越後の平定へとまい進してくださるものと思いますが、今までの事を考えると、新発田(しばた)佐渡攻略(6月15日参照>>)の合戦シーンはナレーションで終ってしまうかも知れません。

ところで、昨日の放送の最後のほうでは、京都を去る兼続を、真田幸村(信繁)が沿道から見送りながら、なにやら、笠を取って、深々と礼をして、兼続が「幸村~再び会おうぞ」なんて言ってましたが、あの礼は何の礼だったのでしょう?

・・・と、それも含めて、本日は、この「天地人」での真田一家の不思議について・・・何だか、天地人での真田一家の扱いが、個人的には、とても不思議だと思うのですが・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

だいたい真田昌幸は、智将にはほど遠い、ただのずるいオッサンのような雰囲気で、しかも、いくら母親の身分が低いからと言って、娘・初音くの一にするような・・・

だいたい、戦国の世に、自分の娘を、そんなもったいない使い方(言い方が悪いですが・・・)をしたりするのでしょうか?

・・・と、その前に、豆知識を一つ・・・

実は、歴史上、武装して戦う女忍者という者の記録はありません。

くの一というのは、「女装して敵を欺く」、あるいは「女を使って情報を得る」の事を指していて、女の忍者の事ではないのです。

ただし、忍者の役目の中に、情報収集というのがありますので、「女を使って情報を得る」場合、その雇った女性を、忍者と呼べなくもないわけですが、その場合は、大抵、その女性は敵の中から選んで、お金を積んで寝返らせるか、あるいは知り合いを雇って潜入されるわけで、その女性は忍術を取得している忍者ではないので、由美かおるのように、武装して戦う事はないのですよ。

・・・って、事なのですが、それはそれとして、あくまでドラマですから、仮にその初音という人が、「敵に潜入して、色じかけで情報を得る」という役目をしていたくの一だったとして、先ほどの、そんなもったいない使い方・・・

上記のように、くの一は、金を出せばいくらでも雇う事はできますが、娘を雇う事はできませんよね。

戦国時代、娘や姉や妹・・・これら女性は、近隣諸国との講和には重要な役目を果たします・・・いわゆる政略結婚

現に、この「天地人」の中でも、武田勝頼の妹が、景勝の嫁になる事で、上杉と武田の講和がうまくいったわけですし、昨日も、徳川家康の横で巨漢の旭姫(秀吉の妹)が爆睡しているおもしろいシーンがありました(あのシーンはもっと見たかったww)

この旭姫は、秀吉が家康を味方につけたいがため、前夫と離縁させてまで嫁がせていんです。

さらに、先日、2011年の大河ドラマに決まった事を書かせていただいたお江(ごう)さん(6月19日参照>>)・・・子供のいない秀吉は、このお江さんやお初さんといった自分の娘でない人物まで、政略の道具に使っているのですから・・・

そう言えば、昨年の篤姫なんかも、適当な年頃の娘がいないために、わざわざ分家から養女にして嫁がせてます~

そりゃぁ、確かに、昌幸には、娘は何人もいますが、上記の事を踏まえれば、1人でも多いにこしたことはない気がするのですが・・・まぁ、身分の低い母親が、妊娠した事を告げずに身を隠し、母の手元で、父にナイショで育てられた事にでもしときましょう。

そんな初音さん・・・以前は、春日山城の中にまで平気で侵入し、本能寺の変の後には、多くの武者の警固をかいくぐって、単独で明智光秀の前に現れ、手ぬぐい一本で果敢にアタックするほどの剛の者であったはずなのに、いつの間にか、傷だらけのか弱い乙女に変身!

北条から逃げ出して、仲間であるはずの真田の忍者に追われ、結局は、現在のポストを懸けて秀吉に頼み込んだ三成のおかげで助かって一件落着・・・って、なぜに秀吉?

先日は、弟の幸村が、「兼続が、秀吉の家臣になれば、初音は助かる」的な事も言っていて、どこがどうなって、秀吉に頼めば助かる話になるのかが、よくわかりません。

秀吉が、真田に話をつける・・・という事なのか?それとも、逃げた相手の北条に話をつけるのか?

そして、先ほど書いた昨日のシーンで兼続を見送る幸村・・・幸村が頼んだにも関わらず、結局は、兼続は秀吉の家臣にはならず、初音を助けたのは三成なのに、笠を取ってまで深々とした、あの礼は何の礼?

上杉の人質から、秀吉の人質になっちゃってゴメンネ・・・の礼?

それなら、ちょいと納得・・・
なんせ、人質なのに、たった1人で自由に京の町をかっ歩して、大好きな人のお見送りもできるんだったら、秀吉のところにいたほうが良いかも知れませんもんね。
(確か、そばに、見張り的な人いませんでしたよね?)

もう、こうなったら、愛するがゆえのツッコミを楽しむ今日この頃・・・

これだけ、重要に扱われている真田一家・・・次に訪れる一家の出番は、小田原征伐か?・・・って事は、例の八王子城・攻防戦(6月23日参照>>)も、じっくりとやってくれるという事なのかしら?

密かに、期待してしまいます。
 

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2009年6月27日 (土)

時代別年表:室町時代・後期1(戦国時代・安土)

 

このページは、戦国・安土の時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代も安土桃山時代という区分もなく、いわゆる室町時代なわけですが、この室町時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

安土桃山って「いつ?」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、とりあえず、信長政権が安土、秀吉政権が桃山って事で、このページでは、前後の年表とのバランスを考えて織田信長が足利義昭を奉じて上洛する1568年9月26日から、秀吉が太政大臣になって豊臣の姓を賜る1686年12月19日までを「室町時代・後期1(戦国時代・安土)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaiaduti 



 

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出来事とリンク
1568 9 26 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
【織田信長、上洛!】
10 18 足利義昭が室町幕府15代将軍になる
【足利義昭擁立で初登場!謎の明智光秀】
12 12 薩埵峠の戦い
【武田信玄・駿河に進攻~薩埵峠の戦い】
12 13 今川館の攻防戦
【今川館の攻防戦~駿河を攻略
12 27 ~翌年5/17まで掛川城攻防戦
【今川氏滅亡~掛川城・攻防戦】
1569 1 9 信長が堺の町を攻撃
【本能寺の変と堺の関係】
3 2 信長が副将軍への誘いを拒否する
【信長が副将軍を断り「銭ゲバ」と化す?】
4 8 京都での宣教師の居住と布教を許可
【信長とキリスト教~神になろうとしたか?】
8 11 長宗我部元親が安芸城を開城させる
【長宗我部元親の安芸城攻略作戦】
10 6 三増峠の戦い
【三増峠の戦い~武田VS後北条】
12 6 駿河蒲原城・落城
【武田信玄・蒲原城を奪取!】
1570 1 23 信長が義昭に「五ヶ条の掟書」を示す
【信長、義昭に掟書を示す】
4 26 朝倉の手筒山・金ヶ崎城を攻撃
【手筒山・金ヶ崎城の攻防戦】
4 27 織田軍、金ヶ崎から撤退を開始
【危機一髪~金ヶ崎の退き口】
6 28 姉川の合戦
【信長の判断ミス?姉川の合戦】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
8 石山合戦・勃発
【信長を一番困らせた男~本願寺・顕如】
8 20 佐嘉城攻防戦・今山の戦い
【鍋島直茂の奇襲作戦~今山の戦い】
11 26 堅田の戦い
【信長VS浅井・朝倉~堅田の戦い】
1571 3 27 深沢城攻防戦
【信玄・強気の深沢城矢文】
5 16 長島一向一揆・勃発
【対・長島一向一揆戦】
9 12 比叡山焼き討ち
【信長の比叡山焼き討ち】
【信長の比叡山焼き討ちは無かった?】
【殺戮か?完全主義か?戦国との相違】
10 3 北条氏康・没
【謙信・信玄に撃ち勝った隠れた名将】
1572 3 2 岩村城・攻防戦
【岩村城攻防戦~おつやの方の女の決断】
10 3 武田信玄が甲斐を出陣
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
10 13 一言坂の戦い
【家康に過ぎたる~忠勝・一言坂の戦い】
10 14 ~12/19二俣城・攻防戦
【いよいよ三方ヶ原~信玄・二俣城を攻略】
12 22 三方ヶ原の戦い
【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】
【武田信玄・上洛~その真意と誤算】
12 23 信玄が平手汎秀の首を信長に送る
【三方ヶ原・その後~犀ヶ崖の戦い平手の死】
1573 1 11 野田城・攻防戦
【武田信玄最後の戦い~野田城・攻防戦】
4 4 信長の上京焼き討ち
【信長の「上京焼き討ち」の謎】
4 12 武田信玄・没
【武田信玄公の命日なので】
7 18 信長が義昭の籠る槇島城を攻撃
【ネバる!足利義昭・ボロは着てても・・】
8 6 ~20日・信長が越前征伐
【朝倉氏滅亡とともに一乗谷は歴史の・・・】
8 14 刀禰(根)坂の戦い
【生きた山内一豊と死んだ斉藤龍興】
8 28 北近江・小谷城が落城
【小谷城・落城~浅井氏の滅亡】
【落城の生き残り~海北友松の熱い思い】
8 29 浅井長政が片桐直貞宛てに感状を書く
【浅井長政・最後の手紙】
12 26 松永久秀の多聞城を織田信長が攻略
【信長をも魅了した松永久秀の築城センス】
1574 3 28 信長が東大寺・正倉院の宝物を見物
【正倉院・アッと驚く豆知識】
9 29 長島一向一揆・終結
【長島一向一揆の終結】
1575 5 16 長篠の合戦で鳥居強右衛門が磔になる
【史上最強の伝令・鳥居強右衛門勝商】
5 21 長篠の合戦・設楽ヶ原の戦い
【長篠の合戦!武田氏の真の敵は?】
【もう一人の伝令~信長勝利の鍵】
7 16 長宗我部元親が甲浦城を攻略
【元親・土佐統一~四万十川の戦い】
1576 1 15 波多野秀治が織田から毛利へ寝返る
【八上城攻防戦は光秀の謀反のきっかけ?】
5 3 天王寺合戦
【織田信長VS石山本願寺~激戦!天王寺】
7 13 第一次木津川口海戦
【信長を悩ませた村上水軍】
1577 9 13 上杉謙信が七尾城を攻略
【七尾城・攻防~上杉謙信の「九月十三夜」】
10 10 信貴山城・攻防戦
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
1578 3 13 上杉謙信・没
【謙信・暗殺説~容疑者・信長&直江兼続】
3 29 羽柴秀吉が別所長治の三木城を包囲
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
7 3 上月城攻防戦
【山中鹿之介奮戦!上月城の攻防】
7 8 本願寺が雑賀衆に信長迎撃を要請
【雑賀衆と鉄砲~あの長篠の3段撃ちは・・】
8 12 大友宗麟が日向・無鹿に着陣
【宗麟の理想のキリシタン王国・ムシカ】
9 30 信長が鉄甲船の観艦式を開催
【信長・歓喜!華麗なる鉄甲船の登場】
10 21 荒木村重が有岡城に籠城
【荒木村重・謀反の真意は?】
11 6 第二次木津川口海戦
【信長VS石山本願寺~第2次木津川口海戦】
11 11 耳川の戦い・初日~高城川攻防
【戦国大名・大友氏の落日】
【大友の大砲と島津の奇襲】
11 12 耳川の戦い2日め~耳川の逃亡
【島津の秘策・釣り野伏】
1579 3 17 御館の乱で上杉景虎が自刃
【謙信の死後・御館の乱】
8 29 徳川家康が正室・築山殿を殺害
【築山殿~悪女の汚名を晴らしたい!】
9 15 徳川家康が嫡男・信康を自刃させる
【なぜ信康を殺さねばならなかったのか?】
10 16 有岡城・開城
【有岡城・落城~如水と半兵衛と息子たち】
10 24 明智光秀が丹波平定を報告
【明智光秀と丹波・福知山の明智藪】
10 30 宇喜多直家が降伏する
【謀略の達人・宇喜多直家~本当はイイ人?】
11 7 毛利秀元・誕生
【「三本の矢」の毛利を救った4本目の矢】
11 26 龍造寺隆信が肥後を平定
【肥前の熊・龍造寺隆信の人生波乱万丈】
1580 1 17 別所長治・自刃、三木城開城
【秀吉包囲網・三木城籠城戦】
3 9 柴田勝家らが金沢御坊を攻撃
【金沢御坊・落城~加賀一向一揆の終焉】
8 2 石山合戦・終結
【石山本願寺、焼失】
8 19 筒井順慶が筒井城を破却
【信長・秀吉・家康だけが成しえた城割とは?】
11 17 柴田勝家が鳥越城を落す
【加賀一向一揆・完全終結と政教分離の話】
1581 2 23 信長が黒人・弥介と対面する
【織田信長と黒人さん】
3 22 第三次・高天神城の戦い
【武田滅亡へのカウントダウン~高天神城】
7 12 ~10/25秀吉が鳥取城を包囲
【鳥取城攻防戦~秀吉の兵糧攻め】
7 24 佐久間信盛・没
【ともに30年~佐久間信盛の悲惨な末路】
9 3 ~9/11第二次天正伊賀の乱
【信長の伊賀攻め~第二次天正伊賀の乱】
1582 2 天正遣欧少年使節の派遣
【天正遣欧少年使節の帰国】
3 11 武田氏滅亡
【武田勝頼、天目山に散る】
3 柴田勝家が魚津城を包囲する
【富山・魚津城の攻防戦】
4 3 織田方が恵林寺を攻撃
【恵林寺炎上】
4 27 秀吉が備中高松城攻め開始
【備中高松城・水攻め】
5 28 明智光秀が愛宕山で連歌会を催す
【連歌会の句は本能寺の意思表明か?】
5 29 信長が本能寺へ入る
【本能寺の変と堺の関係】
5 30 徳川家康が堺を見物
【本能寺の変~家康・黒幕説について・・・】
6 2 本能寺の変
【今日はやっぱり本能寺の変】
【数時間のタイム・ラグを埋める物は?】
【本能寺の変・秀吉黒幕説】
【逃亡で「人でなし」~織田長益の歩く道】
【信長の首は静岡に?】
~7日・伊賀越えで岡崎に帰る
【徳川家康・決死の伊賀越え】
6 3 魚津城・落城
【富山・魚津城の攻防戦】
6 4 秀吉が備中・高松城を落す
【備中高松城・落城~清水宗治・自刃】
6 6 秀吉が高松城を出発
【秀吉の大バクチ・中国大返し】
6 11 秀吉軍・摂津富田へ移動
【洞ヶ峠を決め込んだのは明智光秀】
6 13 山崎の合戦
【天下分け目の天王山!山崎の合戦】
6 18 神流川の戦い
【本能寺の余波!神流川の戦い】
6 27 清洲会議
【清洲会議~信長の後継者】
7 8 秀吉が近江で初の検地を行う
【太閤検地と刀狩】
9 21 長宗我部元親が勝瑞城を落す
【ラッキーサプライズで阿波平定】
10 15 秀吉が信長の葬儀を行う
【後継者へ~秀吉演出の信長の葬儀】
12 4 土岐頼芸・没
【道三を有名にした頼芸の国盗られ物語】
1583 3 9
11
柴田勝家が北ノ庄を出陣
秀吉が佐和山城に入り合戦準備
【秀吉VS勝家・一触即発の賤ヶ岳前夜】
4 21 賤ヶ岳の合戦
【勝家VS秀吉・賤ヶ岳の合戦】
【9人いるのに「賤ヶ岳の七本槍」】
4 23 前田利家が秀吉軍の先鋒として出陣
【賤ヶ岳の合戦~前田利家の戦線離脱】
4 24 越前の北ノ庄城を攻撃・柴田勝家自刃
【柴田勝家とお市の方の最期】
5 2 織田(神戸)信孝・自刃
【報いを待つのは秀吉か?信雄か?】
大坂城築城に伴い下水が整備される
【江戸の上水・大坂の下水】
1584 3 13 小牧長久手の戦い~犬山城攻略戦
【秀吉VS家康・小牧長久手の戦い勃発】
3 17 小牧長久手の戦い~羽黒の決戦
【森長可の屈辱】
3 28 小牧長久手の戦い~小牧の陣
【秀吉VS家康の睨み合い~膠着・小牧の陣】
4 9 長久手の戦い
【天下は何処・長久手の戦い】
【鬼武蔵・森長可~遺言に託された願い】
4 11 秀吉が戦死した恒興の母に手紙を出す
【池田恒興の母に送った豊臣秀吉の手紙】
6 15 蟹江城攻防戦
【小牧・長久手の最終戦!蟹江城攻防戦】
8 28 佐々成政が朝日山砦を攻撃
【末森城攻防戦~夫婦愛と奇襲の連携】
11 11 織田信雄が秀吉と単独講和
23日~【佐々成政の北アルプスさらさら越え】
11 21 家康が次男を人質に出し秀吉と講和
【結城秀康~その運命の分かれ道】
1585 3 21 ~4/22 紀州征伐
【紀州征伐と根来寺の数奇な運命】
4 16 丹羽長秀・没
【丹羽長秀・人生最後の抵抗】
7 26 秀吉が四国を平定する
【一宮城・攻防戦~長宗我部元親の降伏】
8 2 上田城・神川の合戦・勃発
【真田の勝利と石川の寝返り】
8 5 伊東義祐・没
【雅を夢見た日向の王~伊東義祐の最期】
9 11 立花道雪・没
【ハンディを克服して大友氏を支えた道雪】
10 8 伊達政宗が父・輝宗を射殺
【伊達政宗の父親射殺事件の謎】
11 13 石川数正が家康側から秀吉側へ
【石川数正・出奔の謎】
1586 5 4 荒木村重・没
【荒木村重・謀反の真意は?】
6 14 秀吉の要請を受けて上杉景勝が上洛
【上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事】
7 27 島津義弘が大友配下の岩屋城を攻略
【全員討死!岩屋城の激戦】
9 9 滝川一益・没
【滝川一益の人生波乱万丈】
9 18 島津討伐に向けて仙石秀久が府内に着陣
【どん底からの復活・仙石秀久】
10 27 秀吉と家康と大坂城で会見
【負けたのに勝った?人たらし秀吉の離れ業】
11 25 戸次川の戦い
【秀吉の九州征伐開始~戸次川の合戦】
12 12 島津が大友配下の鶴崎城に総攻撃
【鶴崎城を死守~女城主・吉岡妙林尼】
12 19 秀吉が太政大臣になり豊臣の姓を賜る
【豊臣の姓に秘められた秀吉のコンプレックス】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】
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2009年6月26日 (金)

信長の弟・秀孝射殺事件~その処置に問題あり?

 

弘治元年(1555年)6月26日、織田信長の弟・織田秀孝が馬で一騎駆け中、織田信次の家臣・州賀才蔵の放った矢に当たり、命を落としました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

織田秀孝は、尾張(愛知県西部)の戦国武将・織田信秀の七男か八男・・・つまりは、上記のように織田信長の6番目か7番目の弟という事になるのですが、とにかく、亡くなった年齢もわからないくらい、その史料が少ない人です。

あの『信長公記』には、「亡くなった時は15~16歳で、例えようのないイケメン」と書かれていますが、それだと、信長の3番目の弟(つまり秀孝の兄)信包(のぶかね)よりも年齢が高くなってしまうので×です。

逆に、亡くなった年齢を信じるならば、信長のすぐ下の弟・信行(信勝)、その次の信包との間という事になります。

こうなると、その「例えようのないイケメン」というのも怪しくなってきますが、あの戦国一の美女とうたわれたお市の方が同じ両親から生まれた妹なので、ひょっとしたら、本当に美形だったかも知れません。
(信長・信行・信包も同じ両親なんですが・・・( ̄Д ̄;;)

とにもかくにも、この秀孝さん・・・ちょっとした勘違いで命を落としてしまいます。

弘治元年(1555年)6月26日、織田信秀の弟(つまり信長・秀孝らの叔父)である守山城主織田信次が家臣を引き連れて、自らの領内で狩りをしていたところ、目の前を下馬もせずに、ただ一騎で通り過ぎる武者が・・・

「こら、無礼者!」(信次は殿様ですから・・・)
と、ばかりに、信次の家臣である州賀才蔵が、おどしのつもりで弓を引くと、それが、見事に、しかも、急所に命中・・・その武者は、即死してしまいます。

慌てて駆け寄って、その顔を見て、信孝である事を確認した信次主従・・・

なんたって、この頃は、すでに、信長は織田家当主ですから、その弟を、誤ってとは言え、射殺しておいて、何のお咎めもないわけがありません。

信次は、すぐに、その場から逃亡・・・姿をくらまし、ほったらかしとなった守山城は、信長の報復を恐れて籠城の臨戦態勢に入ります。

しかし、このニュースを聞いて、真っ先に行動を起したのは、信長ではなく、そのずぐ下の弟・信行・・・。

早速、出陣し、守山城下に火を放ち、城下を焼き払った後、さて、籠城する守山城をどうしてやるか・・・

ところが、ここで、当主である信長から、「彼らを許す」との判断が下されます。

「俺の弟もあろう者が供の者も連れず、怪しまれるような単独行動をとっていたのも悪いのだ」という事らしいのですが、それにしても、泣かないだけでホトトギスを殺してしまうほどの信長さんにしては寛大な処置・・・

・・・と、言いたいところですが、これにはウラがあります

そう、この時、即座に守山城への報復を行った信行さん・・・すでに、ブログに書かせていただいていますが、後に、信長が自らの手で暗殺する事になる人です(11月2日参照>>)

ご存知の通り、若い頃の信長は、ワル仲間と領内を暴れまわる「大うつけ」・・・父・信秀の葬式にも、とんでもない格好で現れ、焼香を投げつけて手も合わせず去っていくというシーンは、時代劇でも度々登場します。

一方の弟・信行は、利発で実直・・・父の葬式での凛した態度は、兄・信長より後継者にふさわしいのではないか?の声があがるほどでした。

もちろん、最後に、信長が信行を殺すのも、信行が、その声を受けて、自らが織田家当主になろうと謀反を画策したからなのですが、実は、今回の秀孝の事件の処置には、その事が絡んでいると思われます。

この秀孝さん・・・生前は、信行さんの味方をしていたのだとか・・・

逆に、叔父の信次は、信長派だった・・・

ちょっと、わかりやすすぎの感もありますが・・・
さすがに、亡くなったのは実の弟ですし、直接敵対している信行が死んでもいないのですから、すべてを、信長が画策したとは言いませんが、やはり、事件後の寛大な処置にはは、信行との関係が少なからず関わっていたと思われますね~。

結局、家臣の間からも、「弟が亡くなったのに、この処置は冷たすぎるんじゃない?」なんて声も出て、まったく罪を問わないとはいかず、この後の守山城主として、さらに下の弟の織田信時が入る事で、一件落着となりました。

ただし、かの信次は、その後も、信長の配下として働き、あの長島一向一揆の最終日に討死しています(9月29日参照>>)
 

その史料の少なさから、ドラマなどでは、まったく登場した事のない秀孝さん(このあいだのNHKのヒストリアに一瞬出ましたが・・・)ですが、それほどの美形となると、一度くらいは見てみたいものですね。
 

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2009年6月25日 (木)

秀吉の京都改造計画と鴨川の納涼床

 

今や、夏の京都の風物詩ともなった鴨川の納涼川床・・・

二条あたりから五条のへんまで、ずらりと約90軒ほどが軒をつらねていて、川風に提灯が揺られるさまは、見ているだけでも涼しげです。

少し前までは、6月1日から8月16日のあの五山の送り火(8月13日参照>>)の日まで・・・というのが定番でしたが、最近では、5月1日に始まり、9月いっぱい楽しめるのが一般的となっています。

ツウの間では、5月の床を「皐月(さつき)の床」と呼び、お盆から後の床を「後涼み」、もともとの期間を「本床」と呼ぶらしい・・・

「床は、やっぱり、本床がええなぁ」って人も多いらしいですが、なかなか本格的な懐石料理に手が出ないワタクシとしては、予約もいらず、格安の値段でランチを提供してくれる5月の床はたいへんありがたい!

ちなみに、この鴨川の川床は「川床」と書いて「ゆか」と呼び、貴船は、同じく「川床」と書きますが、呼び方は「かわどこ」と呼びます。

Dscn3096a800 五条大橋あたりの鴨川床・・・雨の日で開放感に欠けますが・・・

ところで、この鴨川の川床は、いつから、どんな風に始まったのか?

もちろん、現在のような形で、お店の一部を床として、木の板を張って薄縁(うすべり・ゴザの高級なヤツ)を敷いて座敷机に座布団に・・・という形のものには、「ウチが元祖だ!」と名乗りをあげるお店もありましょうが、もともと、この鴨川の河原自体が、都の人々のお手軽リゾートであり、夕涼みの定番の場所であったという歴史があります。

現在、京都・南座の横に「阿国歌舞伎発祥の地」なる石碑が立っていますが、もちろん、現在の南座の場所のような「地」の上で、阿国歌舞伎が行われたわけではなく、阿国が本邦初でもありません。

昔の鴨川は、もっともっと幅が広く、間にはいくつもの砂州ができていて、何本にも枝分かれした鴨川がその間を縫うように走っていたわけで、そのような、だだっ広い河原や砂州に、簡単な舞台を作って、阿国歌舞伎よりも前から、猿楽などが披露されていたようです。

考えて見れば、もともと、そういった芸能は大道芸で、現在のように劇場内で披露するものではなかったわけで、都のような人のいっぱい集まるところでやりたいけど、街中でやって、予想以上に人が集まれば、近所の店屋から怒られるだろうし、かと言って、人が多く集まらないと見物料は稼げない・・・

そうなると・・・
都のすぐそばにあって、迷惑のかからないだだっ広い場所・・・う~ん、納得ですね~。

この鴨川での猿楽興行は、以前【将軍・義政の贅沢猿楽興行】(4月1日参照>>)でも書かせていただいたように、南北に流れる鴨川のあちらこちらで、阿国歌舞伎が始まる以前から行われていた事でしょう。

この義政の時は、糺河原(ただすがわら)・・・現在の、下鴨神社の近く、京阪電車の出町柳駅から橋を越えた川が枝分かれする所でしたね。

ただ、このように、以前から行われていた鴨川での猿楽興行を一変するのが阿国歌舞伎・・・それは、阿国という女性の登場と、グッドタイミングな時代の変貌が、見事に重なりあった事で、この鴨川での芸能の歴史が塗り替えられるのです。

それは、豊臣秀吉による平安京の大改造にあります。

平安京=京の都と言えば、やはり、延暦十三年(794年)に平安遷都した桓武天皇の平安京(10月22日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、現在の京都のような町を造ったのは、豊臣秀吉なのです。

この時、応仁の乱をはじめとする度重なる戦乱で破壊され、昔の内裏のあたりは田んぼとなり、都は上京と下京に分断され、上下を行き交う事ができるのは室町通の一本だけという状態だったのだとか・・・

現在の京都市街に建つお寺で、応仁の乱以前の建物が、大報恩寺(千本釈迦堂)だけという事を考えてみても、いかに乱世の戦火がはげしかったかがわかりますよね。

そんな京都の町に、道を造り、町を造り、都らしい景観を整えていった秀吉・・・。

そして、秀吉が京都の町を造るのと同時に行ったのが、あの聚楽第(じゅらくだい)を中心に京都の町をお土居(どい)という塀で囲った事・・・

今や、そのお土居の跡が、とぎれとぎれに発掘されている状態で、その全貌は未だ謎ですが、おそらく、当時は、守りに弱い京都の町を、堅固な城塞都市にするがのごとく、囲まれていたわけで、そんな塀に囲まれた町から外に出るには、何箇所か作られた狭い出入口を通って外へ出なければならなかったはず・・・

ただでさえ塀で囲まれているという日頃の精神的圧迫感がある中、狭い出口を通り抜けたその先に、広々とした鴨川が流れていたら・・・もはや、それだけで、都の人々の開放感はMAXになった事でしょう。

つまり、その開放感が、たまに「多くの人が集まって芸能を見物する、都のはずれの広い場所」というのから、「一大リゾート地」へ変貌する要因になったのではないでしょうか。

そんな場所に阿国は陣取り、歌や踊りを披露する・・・阿国が最初の場所に四条周辺の河原を選んだのは、やはり八坂神社の影響があったのかも知れません。

古すぎてその歴史ははっきりしませんが、おそらく八坂神社は、平安京が平安京になる以前からあの場所にあって、八坂神社を基点に四条通りを西に伸ばした可能性が高い事を考えると、その囲われた都から、四条通を通って外に出る人の数もハンパなく多かったでしょうからね。

やがて、その開放感は、手軽なリゾートを求める人々の間で、舞台での芸能を見ながら、友人と話しながら、ゆっくりと休日を過ごす場所となっていき、そうなると、当然、そこには食事も持参する事になります。

やがて、江戸時代には、裕福な商人が、河原や砂州に床をしつらえ、取引先の接待をする・・・

その後、寛文年間(1661年~72年)に行われた大規模な治水工事で、両岸に石積の護岸ができた事で、そこに茶店や出店が出現し、現在とよく似た雰囲気に・・・

それでも、現在のような茶店の床だけでなく、河原には一般の人がしつらえた床もあり、川に足を浸しながら、夕涼みを楽しんだようです。

新撰組の前身・浪士隊を組織して、京都に乗り込んだ幕末の志士・清河八郎も、「京都は、食べ物の好みも、趣味もまったく肌に合わない最悪の場所」と言いながらも、この夏の鴨川の夕涼みだけは大絶賛で、「砂州をさらえて、一面に床を敷き、客を待つのはタマラン」のだそうです。

秀吉の築いたお土居が、もはやほんの少しの跡形を残すだけになった現在も、人は、開放感と涼しさを求めて鴨川に集まる・・・今も昔も変らぬ、京都の夏の風物詩です。
 

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2009年6月24日 (水)

将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱

 

嘉吉元年(1441年)6月24日、播磨の守護・赤松満祐が第6代室町幕府将軍・足利義教自宅にて騙まし討ち・・・世に言う嘉吉の乱がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒し、さらに、後醍醐(ごだいご)天皇とモメにモメた後、京都室町にて幕府を開いた初代室町幕府将軍・足利尊氏(たかうじ)・・・(くわしくは【足利尊氏と南北朝の年表】で>>)

その尊氏の孫にあたる足利義満(よしみつ)は、わずか11歳で第3代将軍となり、細川頼之(よりゆき)山名氏清(うじきよ)大内義弘(よしひろ)など、有力守護を次々と征したうえ、元中九年(明徳三年・1392年)には南北朝の合一(10月5日参照>>)に成功します。

また、義満が(中国)と開始した日明貿易は莫大な富を生み、その明の皇帝への書状にも『日本国王』と署名し、まさに天皇をしのぐ権力を手に入れたのです(8月22日参照>>)

しかし、この義満の時代を全盛期に、その後は早くも室町幕府に陰りが見え始めます。

晩年は、あの北山殿(金閣寺)に引退しながらも、その権力を維持していた義満は、次男・義嗣(よしつぐ)を後継者に・・・と願っていたとも言われますが、それが実現する事なくこの世を去ります。

そして、これまた、わずか9歳で父の後を継いだ第4代将軍の足利義持(よしもち)は、そんな父が嫌い・・・「明に貢物を献上して、貿易させてもらってる感満載の貿易なんか、恥やんけ!」と、かの日明貿易を廃止し、ことごとく反発します。

やがて、義持は39歳で出家して、わずか17歳の長男・義量(よしかず)に将軍職を譲りますが、その後も実権は握ったままで離さずじまい・・・

しかも将軍となった、その義量は義量で、これまた大酒飲みで仕事らしい仕事もしない・・・ってか、オヤジが実権握ったままじゃなにもできないし、そのウップンを酒にぶつけたくなる気も、わからんではありませんが・・・。

・・・で、結局、その義量は、酒飲みがたたって2年後、わずか19歳で、オヤジより先に亡くなってしまうのですが、そんな若い義量には子供がなく、しかも、この頃にはオヤジも病気がちになってしまい、次期将軍の事が急を要する大問題となります。

候補者は、義持の弟・3人なのですが、三宝院満済(さんぽういんまんさい)をはじめとする幕府首脳部が、今や死の床にある義持に、その意向を聞いても・・・
「俺が決めたって、お前らが承認せなどないもならん・・・お前らがえぇと思うヤツにしてくれ~」と・・・

3人の弟には、それぞれに有力者がついているし派閥もあるし・・・誰を選んでも、また別の誰かの派閥から文句が出る・・・託された彼らも、虫の息の彼を囲んで、「あーだ、こーだ」と議論を重ねるも決着つかず・・・

困った彼らはとうとう・・・

満済が義持の前でクジを作り、時の管領・畠山満家が石清水八幡宮で、それを引く・・・つまり、くじ引きで将軍を決める事に・・・

やがて、義持がこの世を去った翌日、クジを開封・・・見事当選したのは、義持のすぐ下の弟で、天台座主となっていた青蓮院(しょうれんいん)の僧侶・義円

彼は、還俗(げんぞく・出家していた人が一般人に戻る事)して、名を義教(よしのり)と改めて、第6代将軍に就任しました。

ところで、くじ引きと聞くと、商店街のガラガラや、お楽しみスピードくじなんかを思い浮かべてしまって、つい「そんなんで決めんなよ!」と思ってしまいますが、今よりずっと神の存在が大きかった時代、神前の神聖な場所で引くクジは、神様のお告げ神託なのです。

ちなみに、余談ですが、後の明治天皇も、明治という元号を決めるに当たってくじ引きという方法で決定していますが、これも、「神の子孫である天皇が引く=神のお告げ」という考えのもとで、安易に決めているわけではないのです。

・・・で、この事から「くじ引き将軍」と呼ばれた6代将軍・足利義教(よしのり)ですが、その就任にあたっては、斯波(しば)畠山氏細川氏といった管領家に、「俺の承諾なく、勝手に事を決めるな」という証文を取るなど、かなり強気の姿勢を見せました。

当然、そんな強気で高飛車な姿勢は、将軍になってからも変わらず、やたらときびしい独裁政治を行うのです。

「勝手に事を決めるな」と言い放った管領家には、逆にその家督相続にまで首を突っ込んで、自分のお気に入りに継がせるし、ささいな理由で、自分の意にそぐわない貴族や大名を次々と抹殺・・・

永享十一年(1439年)には鎌倉公方足利持氏(もちうじ)と、その息子たちによる永享の乱結城合戦で、公方を滅亡に追いやります(2月10日参照>>)

また、そんな恐怖政治をいさめようと説教した日蓮宗の日親に対して、火で真っ赤に熱した鍋を頭にかぶせ、「もう、2度とつまらぬ説教をしないように」と、舌を切って追放した・・・なんて恐ろしい逸話も・・・

そうなると、「ひょっとして、彼の気に入らない事をしてしまったかも・・・」と、身に覚えがあったり、あるいは、そんなのがなくても疑心暗鬼になって、「次ぎは、自分が抹殺されるのでは?」と、恐怖におののく者が出てくるのは当然です。

そんな中の1人が、以前、播磨(兵庫県)の守護の座を巡って、義教のお気に入りと争った過去がある赤松満祐(あかまつみつすけ)でした。

やや、病的なくらい怯えていたとも言われる満祐ですが、巷でも、「次ぎは赤松では?」というウワサになっていたのも事実・・・「こうなったら、殺られる前に殺ったる!」と決意した満祐・・・

かくして嘉吉元年(1441年)6月24日、満祐は、先の結城合戦の祝勝会と称して、将軍・義教を自らの屋敷に招いたのです。

宴もたけなわの頃あいを見計らって、庭園へと誘い出したところへ暴れ馬を放ち、ドサクサにまぎれて武装集団が乱入・・・一瞬のうちに義教の首をはねたのです。

この酒宴には、管領家をはじめ有力大名や公家たちも招かれていましたが、皆が逃げ惑うばかりで、すぐに将軍の仇を討とうとする者はほとんどいなかったのだとか・・・。

さらに、直後に赤松の家臣が、「将軍だけをターゲットにしたもので、他の者に危害を加える気はない」と説明すると、皆、すみやかに退席したと言います。

これだけの独裁的政治を行った将軍・・・このような結果も自業自得といった感も拭えませんでしたが、さすがに、赤松氏という一大名が、将軍を暗殺するという事件を、そのままにしておくわけにはいきませんから、当然、他の大名による討伐軍が編制され、追い詰められた満祐は、自刃する事になるのですが、そのお話はまた、別の機会にさせていただく事にします。

この後の戦国乱世を予感させる事件でした。
 

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2009年6月23日 (火)

小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦

 

天正十八年(1590年)6月23日、この年の3月から開始された豊臣秀吉による小田原征伐に於いて、別働隊による八王子城攻撃が開始され、この日のうちに八王子城は陥落しました。

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すでに、たびたび書かせてはいただいておりますが・・・

天正十三年(1585年)に四国を平定(7月25日参照>>)、翌・天正十四年から十五年にかけて九州を平定した(4月17日参照>>)豊臣秀吉・・・その間に、越後上杉景勝(かげかつ)に上洛を要請して臣下におさめ(6月15日参照>>)徳川家康をもまんまと配下に加えました(10月17日参照>>)

残るは、関東と東北ですが・・・
こちらには、やはり天正十四年から十五年にかけて、関白の名において『関東惣無事令』『奥両国惣無事令』発布します。

『惣無事令』とは、「大名同士の私的な争いを禁じる」という事で、未だ実質的には配下に治めていない関東と東北に対してのこの令は、まさに、豊臣政権下でこの国を治めるという天下統一の号令でもあります。

そんな中で、未だ関東での勢力を維持し、再三に渡る上洛要請をダラダラと先のばしにする北条は、秀吉にとって目の上のタンコブだったわけですが、ラッキーな事に、その北条が、天正十七年(1589年)10月23日、真田昌幸配下の名胡桃城(なぐるみじょう)を奪取するという事件を起してくれます(10月23日参照>>)

上記の『関東惣無事令』に違反してます。

北条を攻める大義名分を得た秀吉は、早速、11月24日には北条氏政宛てに宣戦布告の書状を送りつける一方で、配下におさめた諸将はもちろん、東北の武将たちにも出陣を要請・・・未だ、秀吉の配下となっていない東北の武将にとっては、これは秀吉につくか?敵対するか?の二者択一の難問でもあったわけですが、12月10日に京都の聚楽第(じゅらくだい)で開かれた軍儀では、「出陣は天正十八年2月1日から3月1日までとする」という文言を決定し、まさに、その姿勢を問うたのです(12月10日参照>>)

かくして、その期限通り、3月1日に京を出陣した秀吉は、小田原征伐を開始(3月29日参照>>)・・・4月3日は小田原城を包囲しました(4月3日参照>>)

小田原城は、かつて、あの武田信玄上杉謙信も落せなかった天下の名城・・・当然、その事を百も承知の秀吉は、小田原を見下ろす石垣山に有名な一夜城を構築して(6月26日参照>>)、はなから長期戦の構えで挑む一方で、別働隊による関東一円の北条配下の支城への攻撃を開始します。

北陸から参戦した秀吉の親友・前田利家を大将とする北国連合軍は、2月15日、信濃松代城にて、越後の上杉景勝、真田昌幸と合流して東山道から挑みます。

前田隊=約1万8千、上杉隊=約1万、真田隊=約3千・・・総勢・3万5千の堂々の別働隊は、碓氷(うすい)峠から北条領内へと侵入し、まずは、その国境を守る松井田城(群馬県安中市)を攻撃します。

この時、今年大人気の景勝の重臣・直江兼続(かねつぐ)は、城下を焼き討ちしたり、再三に渡って城の外郭に突撃したりと、なかなかの活躍をしてくれたようですが、大河ドラマでは、きっと、焼き討ちなんてアコギなまねはしないんでしょうねぇ・・・。

・・・で、結局、激戦の末、4月22日・・・北条の重臣であった城主・大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は降伏し、松井田城は開城となります。

この頃には、すでに小田原城の包囲を固めた事もあり、もともと本隊であった浅野長政木村吉清といった直臣や、徳川家康配下の本多忠勝鳥居元忠といった面々も、北条の各支城の攻略に当たっています。

ちなみに、あの石田三成武蔵忍城(おしじょう)の攻撃(6月9日参照>>)へと向かったのも、この頃です。

次ぎに、北条氏康の四男・北条氏邦の籠る鉢形城(埼玉県大里郡)を攻める別働隊でしたが、強固な防備に阻まれ、北国連合軍は大苦戦してしまいます。

結局、最後は、徳川配下の忠勝らの助けを借り、ようやく6月14日に降伏・開城させますが、この時は、さすがに秀吉お気にの兼続も、こっぴどく怒られたようです。

かくして天正十八年(1590年)6月23日、次ぎのターゲットとして北条氏照(北条氏政の弟)が城主を務める八王子城へと攻撃を開始するのです。

この八王子城は、標高445mの山の上の構築された山城で、東西2km、南北1kmに渡る広大な敷地を持つ、言わば戦国山城の完成形ともいえるものでしたが、城主・氏照は、ただ今、小田原城にて籠城中・・・留守を預かるのは、家臣の狩野一庵(かのういちあん)以下、わずか1000名。

しかも、その中には、大軍の接近を聞きつけて、急遽集められた領民の奥さん&子供が多数含まれており、とてもプロの戦闘員を相手にできる体制ではなかったのです。

まずは、6月23日未明・・・先日、豊臣に降ったばかりの松井田城の大道寺政繁が先鋒を務め、大手門から突撃し、北条勢は早くも城の奥へと退き下がる以外にありませんでした。

八王子城は、本丸を中心に構成された要害地区と、その手前にある住居地区の二つに分かれていたのですが、前田隊は、その住居地区の中心にあたる金子曲輪に突入・・・さらに後退する城兵は、自然と要害地区へと追い込まれます。

前田隊が、金子曲輪で金子家重らを討ち取っている間に、直で、山頂の本丸方面に向かった上杉軍は、北条勢をさらに追い込みます。

やがて、乱戦の中、多くの兵士とともに一庵が討死すると、残った兵も、果敢にアタックして討死するか、主君の後を追って自刃するか・・・さらに、非情な攻撃を仕掛ける上杉軍の前に、討死も自刃もできない領民の妻や子は、皆、櫓のそばにあった御主殿の滝に身を投げたのだとか・・・

こうして、わずか一日で決着がついた八王子城の戦いは、非戦闘員の婦女子を含む全員が死亡するという小田原攻めで最も悲惨な戦いとなりました。

さぁ、この八王子城の一件を、今年のラブ&ピースのいい人兼続は、どのように処理してくれるのか?

とても楽しみです。

できるなら、戦国の空しさ悲惨さを含む、ちゃんとした理由での戦いに持っていっていただきたい・・・くれぐれも、兼続の預かり知らぬところで、誰の仕業かもわからぬまま、勝手に殺戮が行われたってな事にはしないでね!

まさかのナレーションスルーも無しヨ!
 

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2009年6月22日 (月)

猛将・畠山重忠の最期~武蔵二俣川の合戦

 

元久二年(1205年)6月22日、頼朝亡き後の武蔵二俣川の合戦で、畠山重忠が討死しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

畠山重忠(しげただ)は、武蔵国(埼玉県)秩父を本拠とする豪族・畠山重能(しげよし)の息子・・・大力で名を馳せた彼も、まだ初々しい17歳の頃、伊豆蛭ヶ小島で流人の生活を送っていた源頼朝が、平氏打倒の旗を揚げたのです(8月17日参照>>)

京の都で大番役という役職についていた父の影響を受け、彼は、平氏の一員として腕を揮います。

由比ヶ浜では、母の実家である三浦氏と戦い、その三浦氏の衣笠城を攻め、祖父にあたる三浦義明を死に追いやりました(8月27日参照>>)

しかし、そんな重忠が、途中で頼朝傘下へと降ります。

すでに勇将として知られていた彼の行動で、相模国(神奈川県)の武将は次々に頼朝への帰順を表明したと言います。

寝返りっちゃー寝返りですが、それは、この先の関東一帯の情勢を見据えての行動・・・考えてみれば、頼朝は流人の身分なのですから、それまでは、皆、平氏配下の武将であるわけで、もともとは、嫁・政子の実家のあの北条氏だって平氏なわけですから・・・。

その事は、頼朝も充分承知・・・むしろ、「心強い男が味方に加わってくれた」とばかりに彼を重用します。

その期待に応えるかのように、重忠も、木曽義仲の討伐や平氏追討に大活躍!

あの宇治川では先陣を名乗り出て、いち早く川に飛び込んだり(1月17日参照>>)一の谷の鵯越では愛馬を背負って駆け下りたり、ことごとく対立する源義経梶原景時の一触即発の口論の場では、二人を抑える潤滑油の役割も果たしていました。

無事、平氏を倒して、源氏の世となった後に、一度、謀反の疑いをかけられた時は、正々堂々と頼朝の前に出て、揺るぎない忠誠心を見せ付けて、主君・頼朝を感動させました。

しかし、鎌倉幕府の大黒柱であった頼朝が亡くなって(12月27日参照>>)から、政情は大きく変わります。

頼朝の息子・頼家(よりいえ)が2代将軍を継ぎますが、頼朝とともに苦労して平氏を倒し、現在の世を勝ち取った御家人たちから見れば、その頼家も世間知らずのお坊ちゃん・・・将軍の独裁的な政治を恐れた彼らは、選ばれた御家人13名の合議制で、幕政の重要事項を決定するという先進的なシステムをスタートさせます。

しかし、これが、逆に幕府をおかしくしてしまいます。

実際に、合議制がスタートすると、将軍のリーダーとしての価値は失われ、力の強い御家人や、外戚(母方の親戚)の思惑に左右されるようになり、今度は、将軍への影響を与える者の追い落としが始まります。

まずは、生前の頼朝に最も気に入られ、さらに頼家の信頼も篤かった梶原景時が、頼朝の死からわずか1年後に犠牲となります(1月20日参照>>)

次ぎにターゲットとなったのは、比企能員(よしかず)でした。

能員の娘・若狭の局は頼家の奥さん・・・つまり、能員は、上記の外戚で、さらに、この頼家が、嫁にベッタリなものだから、その幕府内での力は、徐々に大きくなっていきます。

嫁の実家が強くなってオモシロくないのは、ダンナの実家・・・つまり、頼朝の嫁である政子と弟・義時(よしとき)、そして父・北条時政、しかも、頼家と若狭の局の間には、一幡(いちまん)という男の子も生まれていますから、このまま、その子が次期将軍となれば、ますます比企氏の天下となってしまいます。

そこで、時政は、たまたま頼家が病気にふせった事を理由に次期将軍候補として、もう一人の孫(つまり政子の子供で頼家の弟)千幡(せんまん)を立てたうえ、能員を騙まし討ちして、その後、一幡もろとも、比企氏を滅亡へと追いやり(9月2日参照>>)、未だ歳若い千幡を、3代将軍・実朝(さねとも)とし、その後見人として初代・執権の座につきました。

ただ、この比企氏への成敗・・・裏では思いっきり時政のたくらみであったとは言え、表向きは例の合議制で決まった事になっていましたので、攻撃には重忠も加わっていました。

それが、どうやら重忠にとって、本意ではなかったようなのです。

幕府の決定事項とは言え、あれだけ忠誠を誓った先代の頼朝の直系である一幡を死に追いやってしまったのですから・・・

重忠は、やがて、自らの館に引きこもるようになりますが、この行動が、「次ぎのターゲット=畠山」となってしまうのです。

直接の原因となったのは、時政が娶った若い後妻・牧の方の息子・平賀朝雅(ともまさ)・・・と、息子と言っても、この人は、牧の方が時政と結婚した時に連れてきた娘の夫という事で、北条とは血のつながりも何もない人なのですが、牧の方は、この義理の息子を出世させたくてたまらない・・・さらに、親子ほど違う若い嫁にベッタリの時政は、その夢を叶えさせてやりたくてしかたがない・・・

後に、時政は、自分の孫である実朝を廃して、この朝雅を将軍にしようとするくらいですから・・・その時は父の暴走にブチ切れた政子と義時によって、逆に執権の座を追われますが・・・

そんな朝雅は、元久元年(1204年)、3代将軍・実朝と藤原信清との娘との結婚が決定した時、かの姫を迎えに行く有力御家人の息子たちの1人として京へと上ります。

そして、重忠の息子・畠山重保(しげやす)も、そのお迎え役の1人として京に上ったのですが、その時、開かれた酒宴の席での事・・・

今をときめく時政を、義父に持った事で、何かと高飛車な態度をとる朝雅・・・昔からの御家人たちの息子に、あまりにエラそうに振舞う朝雅に腹を立てた重保が、「ええかげんにせい!」と注意をしたところ、口論となってしまいます。

まわりも、すぐに止めに入ったので、刃傷沙汰になる事もなく、祝宴の席でもあるという事で、その場はおさまりますが、お察しの通り、朝雅は、この事を義母の牧の方にチクリ、牧の方は時政に「このうっとぉしいヤツ、何とかしてぇ~」と猫なで声・・・

時政は、政子や義時の反対を押し切って、畠山父子の討伐へと腰をあげるのです。

それも、なかなか館から腰をあげない重忠を見越して、鎌倉で謀反が起こったとの情報を流しておびき寄せる作戦・・・詳細のわからぬまま、とりあえず「いざ!鎌倉!」と飛び出した父子・・・

まずは、由比ヶ浜で重保が討たれます

その知らせを聞いた重忠・・・息子の死によって、もはや、これが謀略である事は明白です。

現に、家臣も、「一旦、本拠へ戻って、兵を立てなおしてから決戦に挑みましょう」と進言しますが、重忠は、それを聞き入れず、武蔵二俣川にて果敢に戦うのです。

元久二年(1205年)6月22日、こちらは、鎌倉に着いてから兵や武器の再編制があるものと信じてのにわか装備の軍、あちらは、しっかりと準備万端整えた軍・・・しかも、数の上でも、かなうわけはありませんでした。

畠山重忠・享年42歳・・・猛将の名にふさわしい、壮絶な最期は、郎党たちの涙を誘い、皆、彼の後を追って、その場で自刃したと言います。

おそらく、もはや源氏のものではなくなった鎌倉幕府に、未来を夢見る事はなかったのでしょう。

それでも、止まらない北条氏の御家人追い落とし作戦・・・やがて、暴走気味の父に代わって、2代目執権となった義時は、8年後、最後の大物・和田義盛に狙いを定めます・・・【幕府を揺るがす和田合戦】へはコチラからどうぞ>>
 

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2009年6月20日 (土)

時代別年表:室町時代・中期(戦国・群雄割拠の時代)

 

このページは、戦国時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

歴史上、戦国時代という区分はなく、いわゆる室町時代なわけですが、この時代は、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただきました。

戦国の幕開けに関しては、「いつ」という点で、ご意見も多々あろうかと思いますが、前後の年表との量的な事も考えて、とりあえず、このページでは、北条早雲が伊豆討ち入りする1493年10月11日から、織田信長が足利義昭を奉じて上洛する1568年9月26日までを「室町時代・中期(戦国・群雄割拠の時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaisengoku1



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1493 10 11 北条早雲が古河公方を倒す
【北条早雲・伊豆討ち入り】
1499 3 25 蓮如・没
【浄土真宗を日本一にした蓮如の経営戦略】
【蓮如上人・没】
1503 2 18 北野天神縁起絵巻ができる
【学問の神様・菅原道真の学力は?】
1504 9 27 立河原合戦
【関東の支配をめぐって】
1506 8 6 九頭竜川の戦い
【朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い】
1507 6 23 細川政元が暗殺される
【戦国の幕を開けた男・細川政元】
8 7 上杉房能が長尾為景の追われ自刃
【長尾為景~守護を倒し戦国大名への第一歩】
8 8 雪舟・没
【雪舟さんのご命日です】
1511 8 24 船岡山の戦い
【いよいよ戦国の幕が上がる】
1516 7 13 新井城の攻防
【北条早雲・相模を制覇】
1517 10 22 毛利元就・初陣~有田城外の合戦
【西国の桶狭間・有田城外の合戦】
1519 8 15 北条早雲・没
【石橋を叩いて渡る北条早雲】
1521 11 3 飯田河原の戦い
【武田信虎・甲斐統一!飯田河原の戦い】
1525 7 10 尼子経久が、毛利・大内を攻撃
【覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組】
1526 11 12 鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い
【鎌倉・鶴岡八幡宮の戦い】
1530 1 21 上杉謙信・誕生
【上杉謙信・女説】
8 15 田手畷の戦い
【佐賀・鍋島~下克上の幕開け】
1533 9 24 朝倉義景・誕生
【名将?愚将?義景の汚名を晴らしたい】
1534 5 12 織田信長・誕生
【織田信長さんのお誕生日なので】
1536 6 10 花倉の乱
【今川義元・登場!花倉の乱】
1537 1 1 豊臣秀吉・誕生?
【豊臣秀吉・1月1日誕生日説】
1538 10 7 第一次・国府台合戦で足利義明が討死
【小弓公方の最期】
1541 1 13 尼子氏が郡山城の総攻撃を開始
【尼子氏衰退の第一歩?郡山城・攻防戦】
6 14 武田信玄が父・信虎を追放する
【信玄が父を追放したワケは?】
11 13 尼子経久・没
【尼子経久~下克上の果てに・・・】
1543 8 25 種子島に中国船が漂着する
【鉄砲伝来で戦国が変わる】
【異説とその後】
1544 9 23 井ノ口の戦い
【織田・朝倉連合軍VS斉藤道三】
1546 4 20 河越夜戦
【戦国屈指の夜襲で公方壊滅】
11 29 黒田官兵衛孝高(如水)・誕生
【ジッチャンの薬で先を見る目を養った?】
1547 9 22 加納口の戦い
【信長&濃姫の結婚へと向かわせた戦い】
1548 2 14 上田原の合戦
【信玄・痛手~上田原の合戦】
1549 2 24 織田信長が斉藤道三の娘・濃姫と結婚
【こつ然と姿を消す信長の正室・濃姫は?】
7 3 フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸
【ザビエが以後よく広めるキリスト教】
11 6 安祥城の戦い
【信長&家康に今川と絡む運命の糸】
11 27 織田信広と徳川家康の人質交換
【徳川家康は四人いた?説】
1550 2 10 大友二階崩れの変
【棚ぼた?計略?宗麟の大友二階崩れ】
9 9 戸石城・攻防戦
【戸石崩れが山本勘助ヒーロー伝説へ?】
9 27 毛利元就が吉川興経・父子を殺害
【毛利元就の吉川&小早川乗っ取り作戦】
1552 12 9 周防(山口県)でクリスマス祝賀会
【日本のクリスマスはいつから?】
1553 4 22 第一次川中島の合戦~更科八幡の戦い
【川中島・前哨戦~更科八幡の戦い】
9 1 第一次川中島の合戦~布施の戦い
【第一次川中島の合戦~布施の戦い】
1555 6 26 信長の弟・織田秀孝が射殺される
【秀孝射殺事件~その処置に問題あり?】
7 19 第二次川中島の合戦~犀川の戦い
【第二次川中島の合戦~犀川の戦い】
8 13 朝倉宗滴が加賀一向一揆を撃退
【齢79!生涯現役・宗滴の長寿の秘訣】
10 1 厳島の戦い
【戦国屈指の奇襲戦・厳島の戦い】
10 22 斎藤龍興が弟・2人を殺害
【道三より大物?龍興の親から国盗り物語】
1556 4 19 斉藤道三が遺言状を書く
【道三から信長へ~「美濃を譲る」の遺言状】
4 20 長良川の戦い
【美濃のマムシは二人いた】
1557 4 3 大内義長・自刃
【義長の自刃で大内氏・滅亡】
8 29 第三次川中島の合戦~上野原の戦い
【第三次川中島の合戦~上野原の戦い】
10 27 正親町天皇が践祚
【天皇の権威復活~正親町天皇と信長】
11 2 織田信長が弟・信行を暗殺
【織田信長が信行を暗殺】
11 25 毛利元就が3人の息子に教訓状を送る
【毛利元就の三矢の教え~その願いは?】
1558 11 27 13代将軍・足利義輝が5年ぶりに入京
【剣豪将軍・義輝~京都奪回作戦の日々】
12 30 蜂須賀家政・誕生
【阿波の古ダヌキ・蜂須賀家政】
1559 4 27 上杉謙信が上洛・北信濃の平定を託される
【上杉謙信・2度の上洛の意味は?】
1560 3 18 徳川家康に長女・亀姫誕生
【宇都宮釣天井の仕掛け人】
5 1 今川義元が出陣命令を発する
【今川義元・出陣の理由は?】
5 19 桶狭間の戦い
【一か八かの桶狭間の戦い】
【桶狭間の戦い~その時、家康は・・・】
5 26 長浜表の戦い
【長宗我部元親・初陣!】
12 24 尼子晴久・没
【尼子氏衰退のターニングポイント】
1561 8 21 門司城の救援に小早川隆景を派遣
【毛利水軍VSポルトガル船~門司城攻防】
9 10 第四次川中島の合戦~八幡原の戦い
【鞭声粛々・川中島の戦い】
【川中島の合戦はなかった?】
【補佐役に徹した武田信繁】
1562 12 大坂・堺でクリスマス祝賀会
【日本のクリスマスはいつから?】
1563 7 6 松平元康から徳川家康に改名
【松平元康から徳川家康へ】
9 5 ~64年2月 三河一向一揆
【三河一向一揆~徳川家臣が真っ二つ!】
1564 1 8 第二次国府台の合戦
【第二次国府台の合戦】
2 6 竹中半兵衛が稲葉山城を乗っ取る
【竹中半兵衛稲葉山城乗っ取り事件】
8 3 第五次川中島の合戦~塩崎の対陣
【第五次・川中島の戦い~塩崎の対陣】
1565 7 28 足利義昭が興福寺を脱出
【孤高の将軍・足利義昭~興福寺を脱出!】
1566 9 15 墨俣の一夜城完成?
【墨俣の一夜城凸建設中!】
9 30 武田信玄が上野箕輪城を陥落させる
【箕輪城落城~新陰流・誕生の影に・・・】
11 19 第2次・月山富田城戦で尼子氏が降伏表明
【落日の尼子氏と尼子十勇士】
11 21 第2次・月山富田城戦で尼子氏が降伏する
【山中鹿之助の一騎打ち】
11 28 尼子義久が月山富田城を開城
【山陰の雄・尼子氏の敗因は?】
1567 8

1

美濃三人衆が信長に内応
【美濃三人衆内応~いざ!信長・稲葉山城へ】
8

15

稲葉山城・陥落
【信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落】
10

10

松永久秀が東大寺・大仏殿を焼く
【乱世の梟雄・松永久秀~運命の日爆死!】
10 19 武田信玄の嫡男・義信が自刃
【武田の運命も変えた武田義信の自刃】
1568 9 26 織田信長が足利義昭を奉じて上洛
【織田信長、上洛!】
戦国豆知識 【戦国時代の食べ物事情】
【軍師のお仕事・出陣の儀式】
【陣形と陣立のお話】
【火縄銃・取扱説明書】
【戦国の伝達システム~のろしと密書】
【姉川の七本槍と旗指物のお話】
【つなげれば、みんな親戚、戦国武将】
【伊賀忍者VS甲賀忍者】

 

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2009年6月19日 (金)

2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待

 

去る17日、2011年のNHK・大河ドラマが、「江~姫たちの戦国~」に決定したとの発表がありました。

脚本は、あの「篤姫」と同じ田淵久美子さんで、原作はなく、彼女のオリジナルの作品となるそうです。

篤姫人気にあやかって女性層をターゲットに展開した事で、世にも不思議な戦国モノとなってしまった今年の「天地人」・・・(天地人の感想はコチラで>>)

同じ轍は踏まない!
とばかりに、また、脚本家を戻しましたね(゚ー゚;

篤姫もかなり創作の部分が多かったですが、私としては、個人的には許せる創作でしたし、それによって物語が数段おもしろくなっていたので、あのような感じになるのであれば「○かな?」って思います。

ただ、大奥の幕を引いた篤姫に対して、今度は、大奥の幕を開けるお江とは・・・2匹め(3匹めか?)のドジョウを狙う気満々過ぎる感じがしないではありませんが・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

では、本日は、お江さんをご紹介しながら、ここの部分を、ドラマでは、どう描いてくださるのか?・・・私なりに気になる部分を書かせていただきます。

まずは、その名前ですが・・・達子(みちこ)小督(おごう)お江与(えよ)お江(ごう)と、イロイロありますが、ちょっと前までは小督がお江与がドラマでよく使われていたものの、最近はお江が一般的なのだそうで、今度の大河でもお江という事ですから、今回はお江さんで通させていただきます。

彼女は、北近江(滋賀県)の戦国大名・浅井長政と、織田信長の妹・お市の方の三女として、天正元年(1573年)に生まれます。

そうです・・・豊臣秀吉の側室となって秀頼の生母となるむ、あの淀殿(5月8日参照>>)です。

戦国一の美女とうたわれたお市の方の娘なのだから、さぞかし美しい姉妹であっただろうと、「美人三姉妹」と称している小説などもあるようですが、実のところ、淀殿は美人だったという話が残っていますが、お江さんの容姿に関しては、その記録はありません。

戦国時代って・・・美人だったら、美人だと書き残すのが定番のような気がしますので、ひょっとしたら、美人ではなかった可能性もありますが、ドラマの場合は、やはり美しい女優さんに主役をはっていただきたいと思います。

・・・で、そんなお江さん・・・北近江の小谷城(おだにじょう)で、やさしい父と美しい母、そして頼もしい?二人の姉とかわいい弟に囲まれて、すくすくと育ちますが、元亀元年(1570年)、母の兄である信長が、越前(福井県)朝倉氏を攻めます。

この時、父・長政は、嫁・お市の実家である織田家より、長年同盟を結んでいた隣国・朝倉につくのです(4月27日参照>>)

浅井と朝倉の挟み撃ちに遭う事を恐れた信長は、一旦兵を退きますが、2ヶ月後に姉川の合戦(6月28日参照>>)で再び衝突・・・さらに2年後、朝倉を滅亡に追いやった信長は、その勢いのまま小谷城を攻撃し、城は炎上、父は自刃して果てます

母子5人は城から脱出しますが、弟は男子であるため殺され、母と娘3人が、信長の庇護のもとに置かれます。

やがて、天正十年(1582年)、信長が本能寺(6月2日参照>>)で倒れた後、母・お市が、織田家重臣の柴田勝家と再婚したので、彼女は、姉・二人とともに、勝家の北ノ庄城(福井県)へと移り住みます。

しかし、その翌年、今度は、その織田家の後継者を巡っての争いが勃発・・・対立していた秀吉との賤ヶ岳の戦いで敗れた勝家は、北ノ庄城の落城と運命をともにしますが、この時は、母・お市の方も、勝家とともに自害します(4月24日参照>>)

助け出された三姉妹は、今度は、秀吉の庇護を受ける事になります。

・・・と、この時、お江は10歳前後・・・
ここまで、父を失い、母を失い・・・
そして、いずれも、その後、仇である人物の庇護を受け・・・

戦国の世とは言え、本人たちの預かり知らぬところで、過酷な運命にもてあそばれて来た三姉妹ですが、ここから、それぞれの進む道が分かれます。

翌・天正十二年(1584年)、美しい姉たちをさしおいて、一番目だたなかった彼女に、一番先に縁談話が持ち上がります。

これには、まだまだ下っ端であった頃から主君の妹・お市の方に憧れていた秀吉が、その母に似た美人の茶々(淀殿)をモノにしたいために、ジャマな妹たちから先に嫁に出した・・・なんて事も言われます。

現に、この次ぎに嫁にいくのは、2番目の姉・お初なのですが、そこンところは、事実かどうかは定かではありません。

とにかく、お江は、母・お市の姉(つまりは信長の妹)お犬の息子・佐治一成に嫁ぎます(従兄弟じゃん!)

佐治氏は、それほど大きな大名家ではありませんでしたが、知多半島を領地とし、佐治水軍なる水軍を持っていましたので、秀吉によって有意義な相手だったのかも知れません(信長も、そのつもりで、妹・お犬を嫁がせたはずです)

秀吉の思惑が絡んだ政略的背景のある結婚ではありましたが、この一成さんという人は、なかなかやさしいダンナさんだったようで、お江も幸せな新婚生活を送る事ができたようです。

・・・というのも、これまで何となく影の薄い目立たない少女だったお江が、この結婚によって、美しい大人の女性の魅力漂うようになったと、されているから・・・あくまで噂ですが、それってイコール幸せだったって事でしょうからね。

ところが、そんな幸せは長くは続きませんでした。

その後、信長の次男・織田信雄が、徳川家康の力を借りて秀吉に刃向かった小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)で、一成が信雄&家康側についた事で、秀吉が激怒し、二人は離縁させられてしまいます。

そして、文禄元年(1592年)、今度は、やはり秀吉の薦めで、甥(秀吉の姉・ともの息子)秀勝のもとへ嫁ぎます。

まもなく女の子を出産し、母としての喜びもつかの間・・・文禄の役(4月13日参照>>)で、朝鮮に渡っていた夫が、かの地で戦死してしまいます。

・・・で、その次ぎに秀吉が考えた彼女の嫁ぎ先・・・これが、秀吉が妹・朝日姫を嫁に出してまで、味方につけたかった家康・・・ただし、いくら再々婚とは言え、まだお江は20歳を過ぎたばかり・・・あんなタヌギのジッチャンのところへ嫁がせるのは、さすがに秀吉もちゅうちょしたのか、今度は、家康の息子の秀忠との結婚です。

・・・とは言え、こっちはこっちで、お江=23歳の3度目、秀忠=17歳の初婚と、当時としては不釣合いな結婚ではありましたが、とうとう彼女はここで、幸せを掴みます。

そうです、ご存知のように、この秀忠が江戸幕府2代将軍となり、彼女が正室でありながら次期将軍・家光の生母となる(家光以外の将軍はすべて側室の子か養子)・・・しかも、娘を天皇家に嫁がせてまでいます。

・・・と、今までは定説とされてきた、このお江の出世街道まっしぐら・・・この通りに描くと、秀吉の命のまま、夫を失うたびに、よりランクが上の夫へとアップし、自分の思惑とは関係のないところでトップレディになった感が拭えないですが、昨年の篤姫同様、女性の意志の強さ、揺るぎない決意的なものを表現するであろうと思われる今度の大河では、はたしてこのあたりをどのように描いてくださるのか、とても楽しみです。

もちろん、大坂の陣で敵味方に別れる姉・淀殿に対する彼女の心の描写も見ものです。

さらに、今年の直江兼続と同様、この秀忠も、側室を持たず、お江さん一人を妻とした人・・・おそらく、そこンとこが、女性ターゲット大河としてはイチオシのところでしょうが、一説には、このご夫婦はかなりのカカァ天下で、ヒステリックにキレまくるお江さんに、実直で生真面目な年下夫は頭があがらず、とてもじゃないが側室なんて恐ろしくてムリムリってな事も言われています。

このあたりは、そうではなく、お江さんが魅力的な女性だったからこそ、妻一筋なのだと描かれるでしょうから、その魅力的な部分はいかなるものか?が楽しみです。

・・・とは、言え、この秀忠さん、一度だけ浮気して、子供もできてしまっています。

この息子が、会津藩の祖となる保科正之(ほしなまさゆき)(12月18日参照>>)なのですが、秀忠は、お江に遠慮して、彼女が死ぬまで、息子には一度も会わなかったとされていますが、そのあたりは、どう描かれるのか?

そして、最も気になるのは、あの春日局(かすがのつぼね)(10月10日参照>>)との関係・・・一般には、家光は、乳母である春日局にばかりなついたために、母・お江は、弟の国松を可愛がり、次期将軍には国松を・・と望んだ(6月10日参照>>)と言われていますが、ここも、そのままのストーリーでは、絶対に女性層の支持は得られないですからねぇ。

とにかく、名家の出身で将軍の正室で生母・・・こんな華やかな経歴のわりには、史料の少ないお江さん・・・おそらく、脚色しがいのあるキャラクターだと思いますので、ぜひとも、数段おもしろくなるような、ステキな脚色をしていただいたいと願うばかりです。
 

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2009年6月18日 (木)

徳川吉宗の「享保の改革」に学ぶこと

 

享保八年(1723年)6月18日、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗「足高の制」を制定しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

8代将軍・徳川吉宗と言えば、ご存知!暴れん坊将軍・・・昔から、幕府中興の名君=流れのままにマンネリ化して崩れていく態勢を途中で立て直した人として賞賛されてきました。

学校の歴史の授業でも、そう習いました。

初代・徳川家康から、秀忠家光→・・・と、子から孫へと将軍職が受け継がれる中、いつしか将軍の権威が低下し始め、大老側用人(そばようにん)といった側近たちに政治の中心を牛耳られたうえ、肝心の幕府の財政も切迫していた・・・

そこへ、直系の徳川将軍家が絶えた事により、御三家の一つ・紀州からやって来て、享保の改革と呼ばれる一連の改革を行って、江戸幕府に新風を巻き起こして財政を立て直した・・・確かに、その通りでしょう。

ただ、最近では、その幕府の財政建て直しは、庶民の犠牲の上に成り立ったもの・・・つまり、幕府はよかったけど、庶民(特に農民)にはヒドイもんだったなんて事も言われ、その怪しすぎる棚ぼた方式での将軍就任劇も含めて、以前ほどは評価されていないようです。

次から次へと人が死に、その度に順番が繰り上がり、最後の最後に将軍のイスを勝ち得たその不可解な部分については、将軍就任の日のページ(8月13日参照>>)で見ていただくとして、このページでは、やはり、この日制定された「足高の制(たしだかのせい)を含む、享保の改革について書かせていただきます。

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・で、この「足高の制」というのは、幕府官僚体制を整備する事が目的の法令で、いわゆる古い確執を取り除いて、能力に応じた人材登用を実現させるもの・・・という事ですが、実は、能力に応じた人材登用は、それまでもありました。

この法令の本来の目的は、その人材登用された人が、その役職を引退した時の話・・・

あたりまえですが、大抜擢されて出世すれば、それとともに給料があがるわけですが、以前は、一旦あがった給料は、その役職を引退しても、そのままで、果ては、その本人だけでなく、その後、子々孫々と代々、その高い給料が維持される・・・といった具合だったのを、この「足高の制」から、役職を引退した時点で、それ以前の給料に戻すという事で、幕府の財政を少しでもやわらげようという事のようです。

しかし、この頃は、給料が石高(こくだか)だった時代・・・石高=禄(ろく)という物は、その家に代々受け継がれる物で、よほどの失敗をして、失脚する的な事がない限り、減らされる事がないというのが、武士の頭の中にありますから、結局は、役職についた時にupされた石高は、そのまま、その家に世襲される事が多く、あまり効果がなかったようです。

世襲というのは、いつの時代も、「このままではいかん!」と思いながらも、ず~っと続いてきたぶん、「どこでやめるのか?」という事を決定するのが難しく、結局は、ダラダラと次ぎの時代へと受け継がれるモンです・・・つい、最近、よく似た光景を見た気がします。

・・・で、もちろん、享保の改革は、この足高の制だけではありません。

その主な施策は・・・

  1. 「足高の制」・・・上記の通りです。
  2. 「目安箱」・・・庶民の意見を聞くために設置
  3. 「新田開発」・・・新作物作りも奨励
  4. 「株仲間結成」・・・商業の統制を図る
  5. 「上米(あげまい)の制」・・・武士の財政難救済
  6. 「定免法(じょうめんほう)・・・これから紹介します

などなどありますが、やはり、一番の目的は幕府の財政難を解消するための年貢増徴策・・・早い話が増税・・・。

今なら、増税を一番意識させられるのは消費税ってところなのでしょうが、この頃の税は年貢=米・・・なので、吉宗が「米将軍」とも呼ばれるようになるのも、いかに、享保の改革の中心がそこにあったかを物語っているものと思います。

・・・で、その年貢増徴策の一つとして行われたのが「定免法」です。

これは、それまでは、「検見取法(けみどりほう)といって、秋の実りの季節に、藩の役人などが各村々を巡り、その年の作物のでき具合によって年貢の量を決めていたものを、出来高に関係なく、あらかじめ決めてあった年貢の量を納めさせるというものです。

確かに、以前は、その見回りをする役人の小手先しだいで年貢の量がどうにでもなる事で、いわゆるワイロが耐えなかったのも事実・・・金は渡すわ、接待するわ、あげくのはてには、村一番のべっぴんをその日の夜伽に差し出すなんて事も行われていたようで、それを防止するために・・・

・・・だったら、吉宗さんカッコイイんですが、実は、村の事情なんか関係なく、ただ単に、「一定の年貢を毎年確保したい!」というのがホンネだったようです。

だって、そんなもん、はなから少なく設定するなんて事ありえませんからねぇ・・・で、結局は、農民はしぼり取れるだけしぼられた・・・というのが現状のようです。

それを、如実にあらわしているのが、人口の停滞です。

実は、この享保の改革が始まった途端、それまで順調にのびていた人口が、ピタリととまり、中には、減少となった年もあるのです。

つまり、年貢をしぼり取られて、貧困にあえぐ農民たちには、子供を育てる余裕などないわけで、オギノ式や避妊の技術もないこの頃は、悲しいかな、間引きという行為が行われ、一家につき、2~3人の子供がいれば、その後生まれた子供は間引くというのが暗黙の了解になっていたようです。

農民たちは、泣きながら「神様に戻した」とか「お地蔵様の弟子にした」と、自分自身に言いきかせていたのだとか・・・

先ほど、世襲のところで、「最近、そんな光景見たような」と、申し上げましたが、これも、最近聞いたような・・・

もちろん、平成の世に間引きはありませんが、いわゆる結婚しない若者少子化・・・。

結婚しなければ、子供ができる確立も、うんと少ないですからねぇ・・

こうして、享保の改革での人口停滞の事を考えると、小手先の少子化対策ではなく、まずは、経済の回復・・・ダンナが、奥さんと子供を養えるだけの給料と、この先、10年・20年はかかる子育て期間の収入が見通せる事ができたなら、自然と若者は結婚し、自然と子供が生まれると思うんですが・・・

女性の社会進出が叫ばれて久しいですが、意外と、専業主婦を夢見る女性も多いんですよ・・・なんせ、女性には母性本能というものが備わってますから・・・

専業主婦を「ダンナの家政婦」と考える人もいるようですが、母性本能が旺盛な人なら「愛しい人の世話をやきたい!」というのがあるのも確かで、そんな女性は、経済が安定すれば、必ず結婚し、必ず子供を産むと思います。

いったい誰かワカランが・・・平成の吉宗公!
世襲でもなんでもいいから、この不況を、何とかしてくだされ~

・・・と、取り乱してしまいましたι(´Д`υ)アセアセ
 

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2009年6月17日 (水)

いよいよ大詰め~第二次長州征伐・小倉口ゲリラ作戦

 

慶応二年(1866年)6月17日、第二次長州征伐・小倉口の戦いで、再び長州軍が小倉に上陸しました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ほぼ毎日のように第二次長州征伐の話題で恐縮ですが、やはり、続いて起こった出来事は、続いて書いたほうが良いのでは?と、こうなったらトコトン書かせていただきます。

・・・で、とりあえず、久々にご覧になる方のために・・・

そして、昨日の小倉口の戦い・初戦では、奇しくも、生涯一度だけの高杉晋作坂本龍馬という幕末2大スター・夢の共演となったわけですが、この小倉口・・・

その名の通り、小倉藩の居城・小倉城の城下町・・・東の本営を広島城に置いていた幕府は、西の本営を、この小倉城に置いていて、こちらの総督には老中の小笠原長行(おがさわらながみち)が着任していました。

しかし、先日来より、足並みが揃わない幕府軍なのですが、ここは、その乱れっぷりもハンパなく・・・。

長行は、総督命令として、九州の各大名に兵の動員を呼びかけますが、まずは薩摩藩がはなから出兵を拒否しているところに、佐賀藩も出兵を拒否・・・何とか、肥後藩久留米藩が出兵し、小倉藩とあわせて2万(諸説あり)ほどの兵が集結します。

しかし、やっぱり、ヤル気があるのは、小倉藩だけ・・・昨日の初戦でも、主力として戦ったのは、小倉藩でした。

なんせ、小倉藩は、現実に上陸されて、領地内を攻撃・略奪・放火されちゃってますから、そりゃぁ必死で守り抜かねばなりませんわな。

ところで、肥後・久留米・小倉と、並べて見ると、久留米と小倉には失礼ですが、どう考えても、肥後が飛びぬけて大きな大名・・・本来ならば、主力となって奮戦していただきたいところなのですが、この肥後兵の指揮官である家老の長岡監物(けんもつ)は、もともと、長州征伐自体が「大義のない戦いである」と、否定的な姿勢であったために、最初のうちから何かと総督の長行と衝突してしまいます。

・・・で、とうとう「自分とこの担当とされた場所を守る事は守りますげど、それ以外の事は知らんからな!」てな険悪ムードに・・・

ただ、まだ幕府軍には、諸藩の兵以外に、八王子千人同心(江戸の西を守る隊)から派遣された幕府直属の部隊もいたのですが、これが、この慶応二年(1866年)6月17日長州の再上陸で、エライ事になってしまいます。

長州征伐に於いては、幕府千人隊と呼ばれたこの一軍をまとめていた軍目付の斎藤図書(ずしょ)が、長州の再上陸と同時に逃げ出してしまうという大失態・・・この幕府直属のヤル気のなさに、もはや、手伝う諸藩の士気もさがりっぱなしの状況となってしまいました。

しかも、昨日の初戦のように、長州兵の攻撃は、怒涛のごとく上陸しては、雷鳴のごとく暴れ回り、事が終れば嵐のように去って行くというゲリラ攻撃を繰り返します。

これは、奇兵隊を中心とした精鋭であるとは言え、この小倉口の担当が、わずか1000人ほどという人数の少なさのために、晋作がとった言わば苦肉の作戦なのですが、押しては退き、退いては押すの繰り返しの中で、徐々に徐々にと、その進む先を、またその先へ・・・と攻撃する範囲を広めていきます。

Sikyousensoukokuracc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そんな中の7月3日、大里(おおさと)という所で、大きな衝突が起こります

この日、門司から上陸した長州軍は、海岸側と山側の二手に分かれて進み、2方向から同時に、大里を守っていた小倉藩兵に襲いかかり、敵陣地をぶっ壊して大打撃を与えます。

ただ、ここでも例のごとく、夕方になると潮が退くように軍を撤退させ、船に分乗して対岸へと戻ろうとしたのですが、この日は停泊していた幕府軍艦が追撃・・・海上でも激しい砲撃戦となりました。

しかし・・・・
やはり、結局、この日も戦ったには小倉藩の兵だけ・・・

「もはや、城を枕に討死するしかないのか・・・」
小倉藩兵には、悲壮感が漂います。

・・・と、これまで、本営で高見の見物をしながら、指示だけを出していた長行・・・さすがに、ここに来て、自ら、小倉藩兵を陣中見舞いし、
「これからは、千人隊を率いて、俺自身が戦線に出るから・・・」
と、約束し、やっと重い腰をあげた!

・・・っと、思いきや、長行の頼りは、やはり大大名の肥後・・・

今度は、肥後藩が矢面に立って戦う事になるのですが、そのお話は、やはり、またまた長州が上陸作戦を決行する7月27日(7月27日参照>>)で見ていただくとして、その前に、7月15日には、別働隊の石州口に動きがでますので、とりあえずは、コチラからどうぞ>>
 

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2009年6月16日 (火)

晋作・龍馬・益次郎~役者が揃った第二次長州征伐

 

慶応二年(1866年)6月16日、第二次長州征伐における小倉口と石州口での攻防戦が開始されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、6月5日の幕府の宣戦布告から始まった第二次長州征伐=四境戦争ですが、ここに来て、残る2ヶ所・小倉口石州口(せきしゅうぐち)に、長州(山口県)は同時に討って出ます。

また、いずれ、くわしく書かせていただく事もあるかと思いますが、この長州征伐・・・幕府という政府、言わば日本国という国を相手に一地方である長州が戦ったにも関わらず、結果的に兵の数が断然少ない長州の勝利となる要因の一つとして、この討って出る作戦があります。

少ない兵で大きな組織に立ち向かう時、その方法は、一点集中の守りを固めるか?、神出鬼没のゲリラ作戦に討って出るか?・・・これは、孫子の時代からの兵法の鉄則です。

源頼朝の攻撃を受けた藤原泰衡(やすひら)は、天然の要害・阿津賀志山(あつかしやま)に一点集中の防御線を貼りました(8月10日参照>>)

鎌倉幕府の攻撃を受けた楠木正成は、何度もこの方法で千早城に籠城しました(2月5日参照>>)

石山本願寺(5月3日参照>>)
北条の小田原城(4月3日参照>>)
大坂の陣真田幸村(12月4日参照>>)
天草四郎原城(2月28日参照>>)・・・と、どれもこれも、強固な守りとゲリラ戦を駆使して挑むわけですが、上記の中で、勝利に至るのは、正成の千早城だけ・・・

それは、強固な守り=籠城となると、その兵糧が尽きるまでに、いかに外にいる中立の立場の者を寝返らせて世間の風を自分たちのほうに向かせるか、或いは、ゲリラ戦を駆使して、いかに相手の中心部分にダメージを与える事ができるかにかかってくるわけで、それができた楠木正成だけが勝利を収めたという事がわかります。

長州の場合、すでに書かせていただいているように、薩摩(鹿児島県)が参戦を断り、幕府の権威は地に落ち、しかも参戦した多くの藩にヤル気がなかった・・・頑張れば、世間の風が、長州に吹いて来る日も近いわけですが、悲しいかな、長州には、守りを固めるべき拠点がありません。

関ヶ原で負けて以来、そのような拠点となるべき城を構築する事は許されず、難攻不落にはほど遠い萩城で、江戸時代を生き抜いて来たのですから・・・

しかし、後づけではありますが、この長州征伐に関しては、それが幸いしました。

守るべき拠点のない長州は、討って出るしかないのです。

冒頭に、幕府の宣戦布告で開始された長州征伐・・・と書かせていただきましたが、実際の戦闘を勝利に導いたのは、慶応二年(1866年)6月16日討って出る作戦なのです。

この日、石州口の指揮をとったのは、あの大村益次郎、そして、小倉口の指揮をとったのは高杉晋作でした。

まずは石州口・・・こちらに位置するのは、福山藩(広島県)浜田藩島根県浜田市)・津和野藩(島根県鹿足郡津和野町)ですが、位置的にまず、ぶつかるのは津和野藩。

ところが、津和野藩は、長州の兵が領内に入ってきても、防戦どころか、「どうぞ、どうぞ」あっさり通してしまいます。

長州は長州で、領内は通るものの城下への進入は避け、大きく迂回して通過します・・・長年隣同士で仲良くやってきた2つの藩には、どうやら、すでに何らかの約束ができていたようです。

こうして、一兵も失う事なく、津和野を通過した長州は、浜田藩との境界線・扇原関門(おうぎはらかんもん・島根県)に進みます。

ここは、浜田藩の岸静江(きししずえ)という武士が、わずかな部下と農民部隊で守っていたのですが、当然の事ながら、長州の進軍を聞いて、「この人数ではどうしようもない」と、すでに福山藩へ、援軍の要請をしていたのですが、かの福山藩からは、まったく返事も貰えずじまいで、この状況となってしまいました。

しかたなく、静江は部下と農民兵を先に逃がし、自らがたった1人で、街道に仁王立ち・・・「ここから先は一歩も通さぬ!」と、長州軍相手に大きく立ちふさがりますが、さすがに、1人では・・・

長州から放たれた数発の銃弾を受けて、戦闘らしい戦闘もなく倒れた静江・・・しかし、この身を呈しての武士らしい姿には、「敵ながらアッパレ!」と、長州の兵たちも大いに感銘を受けたと言います。

石州口では、この翌日、浜田藩領内の益田へと、さらに進んだ長州軍と、迎え撃つ福山藩の兵が萬福寺(まんぷくじ)にて交戦し、福山藩兵も決死の覚悟で戦い、激戦となりましたが、いかんせん、持っている銃が違います。

長州は600mを射程距離に収めるエネミー銃、福山藩のゲーベル銃は、その半分もありません・・・しかも、先日書かせていただいたように、長州の狙撃の腕前はものすごく、福山藩兵が、まったく届かない距離のところから、確実に大将クラスの者だけに命中させのですから、とてもじゃないが、戦う気もうせるっちゅーもんです。

案の定、多くの者が戦意を喪失して、戦場を立ち去り、ここ益田は、長州の手に落ちました。

一方の小倉口・・・

6月16日夜、長州主力軍艦・丙寅丸(へいいんまる)に乗り込んで、田野浦湾(北九州市)に向かった高杉晋作・・・そして、もう一隻・乙丑丸(いっちゅうまる)に乗り込んで門司浦(北九州市)に向かうのは、あの坂本龍馬です。

実は、この乙丑丸は、長州が龍馬の亀山社中を通じてグラバーから購入したもの・・・常時は、亀山社中が運用し、戦時には長州に返すという約束になってたのですが、かねてから、長州の桂小五郎(木戸孝允)に、「合戦見物させてぇ~」と頼み込んでいた龍馬は、これ幸いと、乙丑丸に乗ったまま門司へ・・・。

かくして、田野浦と門司裏の両方から、同時に砲撃を開始します。

さらに、その混乱に乗じて上陸した長州兵は、幕府の砲台をぶっ壊し、兵糧や弾薬の盗み、民家に放火したかと思うと、嵐のように去っていきました。

まさにゲリラ作戦・・・なんせ、幕府には、先日の大島口にも登場した富士山丸(ふじさんまる)というスゴイ軍艦がありますから、まともに戦っては勝ち目はありません。

しかも、ここは、ご存知、あの源平合戦の最後の戦が行われた壇ノ浦・・・お馴染みの、潮の流れがあります(3月24日参照>>)

長州の持つ小さい舟は、それこそ、潮の流れに逆らえませんから、文字通り、潮が退くごとく兵も退くという、アッと言う間の出来事出来事でした。

確かに、ここも、大島口奪回の最初の奇襲と同様、幕府軍自体に大きなダメージを与える事はできませんでしたが、「たかが長州一国にしてやられた」といった精神的なダメージを与えるには充分でした。

こうして、益田を落とした石州口(7月15日:石州口・浜田城陥落へ>>)、幕府に一発をぶち込んだ小倉口(6月16日:小倉口ゲリラ作戦へ>>)・・・この先の第二次長州征伐は、更なる展開を迎える事になります。
 

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2009年6月15日 (月)

上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事

 

いや~、今回の「天地人」は、放送日がピッタリでしたね。

上杉景勝の上洛は、天正十四年(1586年)6月14日の事・・・実際には、旧暦なので、梅雨というよりは夏真っ盛りの季節だったでしょうが、とにかく、都の皆様は、皆やさしくてよかったですね~。

以前、今回の「天地人」は、ツンデレばかりがご登場で・・・と書かせていただきましたが(ツンデレの意味も含めて5月25日参照>>)、今回ばかりは、皆さん、初対面からデレデレ

途中に立ち寄った金沢のガードマン利家さんも、豊臣秀吉の奥さんの緋牡丹おねさんも・・・まるで、息子を諭すように親切に教えてくださり、あの福島天気予報士のウザイもてなしだって、悪意があってやってるわけではなく、都になじませてやろうという親切心からきているのですから・・・戦国の腹の探り合いとは無縁のやさしさです。

果ては、利休の娘まで、ほぼ、初対面で愛の告白・・・

それにしても、なんで、皆、あの兜の前たての「愛」の文字の意味を聞きたがるんだろう?

このブログでも、あの「愛」の文字は、愛染明王の「愛」か愛宕権現の「愛」・・・個人的には、おそらく、愛宕神社の「愛」だと思うという事と、戦国時代には、現在の私たちが「愛」という言葉を聞いて思い描くような意味で「愛」という文字は使われてはいなかったであろうという事を書かせていただきました(3月23日参照>>)

しかし、そこを、あえて、現代の私たちが「愛」という言葉を聞いて、即、思い描くようなそのまま意味でドラマの中で使用して、愛溢れる武将として描きたいという事なのでしょうとも書かせていただきましたが、どうやら、違うみたいですね。

だって、今現在、私たちの回りで、胸に「LOVE」という文字が書かれたTシャツを着ている人に、「なんでLOVEて書いてるの?」「LOVEってどういう意味?」と聞く人はいませんよね。

それは、皆が「LOVE=愛」という事を知っていて、その「愛」という言葉が表す意味も知っているからなのですが、会う人会う人が、「なんで?」と聞くという事は、ドラマの中でその意味を知っているのは、兼続と奥さんだけって事?

おかげで、デ~ンと「愛」という文字を掲げている事が、とってもカッコ悪い事のようになってませんでしたか?・・・いったいどう描きたいのか?とても不可解です。

京都でのとまどいぶりは良かったですね。

やはり、あの時代、越後から初めて都に行くとなると、現在の海外旅行の比じゃないくらいの一大事だったと思います。

ましてや、冒頭に書いた通り、真夏の京都・・・ジリジリと太陽が照りつける中、オッサン連中への挨拶まわりとなれば、耳鳴りもすりゃ頭痛もして、倒れるのもムリはありません・・・そのワリには兼続はメチャメチャ元気なご様子だったので、何となく、倒れた景勝が我がママ適応傷害ようになってしまってましたが・・・。

ところで、景勝も初の上洛で大冒険だったでしょうが、大河ドラマもイロイロと冒険してくれてますね~。

本能寺の変の時に、「サブリミナルでは?」と疑われたために、さすがに今回は少しゆっくりめではあったものの、まるで外国ドラマのようなカット割りとBGM・・・

さらに、ワイヤーアクションで福島天気予報士が飛んだ時は、「めちゃイケの色とり忍者」よろしく、庭一面に粉があるのでは?と思ってしまいましたが、さすがにそれはなかったです~(当たり前だ!(*´v`*))

まぁ、ドラマなので、こんなお笑い色の強いのんびりした回があっても、それはそれでよいのですが、やはり、歴史として押えておきたい事が・・・。

それは、先日の落水での秀吉との対面から真田幸村の人質うんぬんと、今回の上洛との間の起こった出来事・・・。

ドラマでは、その間、兜の「愛」の文字の決定と、オヤジがやたら若い後妻を連れて訪問し、その嫁が、「ひとりでは寝られないのぅ」と、久々の親子水入らずの夜をジャマするという鬼のようなママ母ぶりを披露しただけで終ってしまいましたが、歴史上では、上条政繁の出奔という一大事が巻き起こっています。

この上条政繁(まさしげ)という人は、畠山氏の出身で、上杉謙信の養子となっていた人・・・つまり、景勝、景虎と同じく、謙信の後継者だったわけですが、謙信が亡くなった時には、すでに上杉の一門である上条家を継いでいたので、あの御館(おたて)の乱(3月17日参照>>)では、景勝についた人なのです。

・・・というより、実は、ドラマでは兼続がやった事になってた春日山城の占拠・・・謙信が亡くなる前に、いち早く占拠したのは、この政繁さんなのです(3月13日参照>>)

上記の5月25日「ツンデレ満載」のページで、「天地人」には、新発田重家(しばたしげいえ)さんは出て来ないかも・・・と書かせていただきましたが、この重家さんは、あの武田勝頼を寝返らせるために大金を手土産に交渉に行ったとされている人なのです。

つまり、本来は御館の乱では、ほとんど史料に登場しない兼続の見せ場として、ドラマでは、あの春日山城の占拠と、武田との交渉という重要事項を兼続がした事にしてしまっているので、重家を登場させる事ができない状況なのだと・・・
(注:ドラマでは主人公に見せ場を与えるのは当然ですので、ドラマを批判しているのではありません)

なので、この政繁さんも・・・・

ただ、まったく登場しない重家さんとは違い、この政繁さんは、すでにチョコッとだけドラマに登場してましたが、どこかに救援に向かったきり戻ってきてない状態ですので、この後どのような扱いになるのやら・・・

とにかく、史実とされているのは・・・

今回の上洛で秀吉の傘下となる上杉は、救援を求めてきた真田がそうであったように、景勝の上洛にさきがけて、秀吉へ人質を差し出すわけですが、子供がいなかった景勝は、この政繁さんの孫(養子の子)を養子に迎えて、その子を人質として差し出しています。

景勝と同じように謙信公の養子という立場にあった人ですから、血縁関係はなくとも、彼の孫を人質に・・・というのは当然、しかも、先に書いたように、御館の乱の時は、いち早く春日山城を占拠して、その後も一門の重臣として大活躍していた人なのですから・・・。

・・・で、そんな政繁なら、さぞかし景勝も大事に・・・と思いきや、これが、ご存知、兼続が大出世して、結果的に、彼をも追い越す力を持ってしまった事で、政繁は、上杉を出奔し、秀吉のもとへと走ったわけです。

これが、景勝が上洛するより前の事だとされているので、おそらく、ドラマでは描かれないのではないかと、本日は書かせていただきました。

★それにしても、木村佳乃がミョーにカワユかったのはなぜだろう??「流転の王妃」の時は常盤ちゃんのほうがキレイだったのに・・・
 

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大河ドラマに思う事イロイロ

 

このページは、よりスムーズに記事が探せるようにと、ジャンル別で記事へのリンクをつけたまとめページ=目次で、今回は、【大河ドラマ】関連をピックアップさせていただきました~

大河ドラマの感想や、大河ドラマを見て思いついたテーマ、あるいは、その日の歴史を書いた時でも「ドラマではこう描かれていましたが、史実ではこうだと言われているんですよ」的な事を書いたり、ツッコミ入れたりしていますので、「このページを起点に各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

ただし、記事の内容は、決して大河ドラマを批判しているわけではなく、私自身は「ドラマはドラマ、歴史とは別物なので、大いに創作していただいてよろしい」と思っているのですが、デキの良い作品ほど、それが事実だった」と思ってしまう事が多々ありますので、そこンところは、しっかりと押えておきたい!というつもりで書いております。

また、左サイドバーに【お楽しみメニュー>ジャンル別】としてリンクを表示しておきますので、気になった時はいつでもい見にきてくださいね・・・もちろん、記事を書けば、この目次も更新していきますよ!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

★2011年・江~姫たちの戦国~
  ●2011年・大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」への期待
  ●徳川の礎を築いた将軍の隠し子・保科正之

★2009年・天地人
  ●謙信暗殺説~容疑者・信長と兼続の本心
  ●大河ドラマ「天地人」に思う事
  ●大河ドラマ「天地人」にどうしてもツッコミたい
  ●ツンデレ満載の「天地人」~忘れちゃいけない新発田城
  ●上杉景勝・上洛!・・・の前の一大事
  ●小田原攻めで最も悲惨な戦い~八王子城・攻防戦
  ●「天地人」での、世にも不思議な真田一家
  ●先の読めない「天地人」から目が離せない
  ●天地人・第35回:「家康の陰謀」より利長が気になる
  ●天地人・第36回:三成はそんなに嫌われていたのか?
  ●関ヶ原敗戦での毛利の転落と先の読めない天地人2
  ●自刃まで考えた~直江兼続の長谷堂・撤退
  ●ここに来て 千も救うか 天地人

★2008年・篤姫
  ●江戸城無血開城~最後まで城に残ったのは・・・
  ●徳川家茂&新撰組の主治医~松本良順
  ●ポッチャリ型が好み?小松帯刀と二人の妻
  ●晩年の篤姫~ドラマでは語られなかった温泉旅行
  ●「天璋院・篤姫展」に行ってきました~

★2007年・風林火山
  ●風林火山孫子の兵法2・始計篇
  ●軍師のお仕事・出陣の儀式

★2006年・功名が辻
  ●土佐・一領具足の抵抗~浦戸一揆

★2005年・義経
  ●鶴岡八幡宮・静の舞

★番外編
  ●こんな所にも影響?~大河ドラマと株価の連動
 

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2009年6月14日 (日)

第二次長州征伐~明暗分ける芸州口の戦い

 

慶応二年(1866年)6月14日、第二次長州征伐芸州口の先鋒として進軍していた彦根藩・井伊隊に長州軍が奇襲攻撃・・・芸州口の戦いが開始されました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昨日も、周防(すおう)大島の奪回作戦について書かせていただいた第二次長州征伐・・・長州側からの名称・四境(しきょう)戦争の名の通り、朝敵・長州(山口県)4方向から、幕府軍の攻撃を受ける形となり、それは、ほぼ同時進行で展開される事になります。

・・・で、初めてのかたは、まずはコチラ↓を・・・
 ●いかにして第二次長州征伐は始まったか?>>
 ●周防大島口・攻防戦>>
 ●長州の大島奪回作戦>>
すでに、読んでくださってるかたは飛ばしていただいて・・・

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

・・・で、本日は、芸州口(げいしゅうぐち)の戦い・・・
(合戦関係図はコチラから>>・別窓で開きます

上記の関係図を見ていただくと位置関係がわかりやすいかと思いますが、この時、幕府側の本営は広島に置かれていて、先鋒の総督を務めていたのは、紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)

西側からの長州への進攻は、当然、下関となりますが、東側からは山陰と山陽の二つの道があります。

しかし、当時は瀬戸内という流通の要がありますから、やはり、山陽側のほうが街道も賑やかだし町も大きい・・・なので、この山陽側は攻める側に於いても守る側に置いても、最大の要所となります。

当時、広島から西へと伸びる西国街道は、大野(広島県廿日市市)へと通じ、その大野からは、山側に入って四十八坂(しじゅうはちさか)という山越えの道と、海側の港町を通って岩国へ通じる2ルートに分かれていました。

岩国城は、長州藩の支藩である吉川氏の本拠地ですから、ここが、長州・東側の最前線・・・なので、この「岩国に入れてはならず!」とばかりに、その手前の2つのルート上にある2ヶ所で、両者は激突する事になるわけです。

かくして慶応二年(1866年)6月14日朝・・・幕府軍の先鋒を仰せつかって意気揚々と街道を進むのは、彦根藩井伊隊・・・あの井伊直政武田から受け継いだひこにゃんでもおなじみの『井伊の赤備え(あかぞなえ)(2月1日参照>>)でビシッと決めた一隊は、大野を越え小瀬川(こせがわ)に差し掛かります。

この小瀬川は、安芸(広島県)周防(山口県)を分ける境界線の役目を果たす川・・・ここを越えれば、向こうは長州の領地です。

「我こそは!」と、二人の従者をともなって、先頭を切って小瀬川を渡ろうとするのは彦根藩士・竹原七郎平・・・しかし、そこへ、突然、山上に身を隠していた長州軍が、その3名を狙撃!

実は、彼ら先鋒がやって来る前に、長州の狙撃部隊は、少し上流で渡河し、すでに、山中に潜んで待っていたのです。

七郎平ら3名の死が合図であったかのように、長州軍は縦横無尽に山中を駆け巡り、微妙に身を潜めながら河畔の井伊隊に銃撃を繰り返し、井伊隊は大混乱となります。

そうです。

はなから、数で圧倒的に差のある政府=徳川幕府と戦う長州は、まともに戦っては勝ち目はありませんから、当然、奇襲の連続のゲリラ戦を行う事になるのですが、このゲリラ的作戦に供えて、軽装の軍服に、必要な物は一切持たないという身軽な状態の準備が整えられていたのです。

しかも、手にした武器は、坂本龍馬の仲介で薩摩藩から流してもらった最新鋭のミニエー銃・・・さらに、訓練に訓練を重ねた精鋭たちは、200m先に吊るされたコインを撃ち抜くという名手揃い・・・

一方の井伊隊は・・・

もはや、時代は幕末・・・関ヶ原でその名を馳せた赤備えも、今となっては時代遅れ以外の何物でもありません。

馬に乗る者は横倒しとなり、海に逃げようと小舟に殺到して溺れ死ぬ者が続出する中、自慢の赤備えの具足は、逃げるに重いと、その場にうち捨てられたと言います。

そして、この井伊隊の敗走を聞いた高田藩榊原隊・・・後方に位置していた彼らは、戦う事なく撤退する事になってしまいました。

こうして、芸州口の初戦は、長州の圧勝となり、広島へ逃げ帰った両隊は、残りの藩に大いにバカにされた・・・という事ですが、ここで、彦根藩・高田藩の名誉のためにも、一つ、つけ加えておかねばなりません。

それは、この第二次長州征伐は、長州と幕府の戦いである・・・という事です。

現在の日本という国を考えると、政府=日本で、日本という国には、日本列島のすべての地方が含まれるわけですが、江戸時代の藩というものは、あくまで独立国家であり、幕府は、それらをまとめるにすぎない物なのです。

だからこそ、薩摩藩のように、「今回はパス!」って、参戦を断る事もできたわけです(ただ、それを、許してしまうところに、幕府の力の衰えを感じますが・・・)

一つ一つの藩にとっては、今回の長州征伐は、あくまで幕府の戦いの手伝いをしてるだであって、自分たちの戦いではないのですから、ヤバくなれば逃げて当然という事になります。

戦国時代そのままの甲冑を身にまとった時代錯誤のいでたち・・・というのも、江戸時代を通じて、城の構築や改築、新たな武器の調達などを、勝手にやってはいけない事になっていたわけですから、武家諸法度の決まり通りにしていたなら、それも仕方ない事で、本当は、最新鋭の武器を持ってるほうが違反なのですから・・・(ただ、それを、そのままにしているところに、幕府の力の衰えを感じますが・・・)

彦根藩や高田藩に限らず、未だ多くの藩が、心の底では戦いたくないという気持ちを持ったまま、しかたなく参戦し、火縄銃と槍で戦おうとしたり、ほら貝を吹いて突撃命令を出すといった戦いかたをやっていたのが、この第二次長州征伐だったわけです。

逆に、長州から見れば、そこに食い込むスキがあったわけです。

幕府に参戦した藩が、皆、ヤル気満々で、最新鋭の武器を持っていたなら、こんな風に応戦はできず、またたく間に周防は焦土となったはずですから・・・

・・・とは、言うものの、実は、四境(4方向)から攻められた長州は、昨日の大島同様、他の場所では、すべて圧勝とも言える勝利を収めますが、ここ芸州口だけは、一進一退の戦況となっています。

井伊隊が去った後、その勢いのまま東へと向かい、安芸へと進攻しようとした長州軍でしたが、井伊隊の後を埋めるべくやってきた紀州藩・新宮城主の水野忠幹(ただもと)隊・・・当主自らが軍を率いている事でもわかるように、ここはヤル気満々で、しかも西洋式の装備を持っていました。

6月19日、四十八坂で激突する両者でしたが、長州軍がいくら押しても水野隊は撤退する事なく応戦し、結局、この場所だけは、両者引き分けの膠着状態となり、他の場所の展開へと、その結果をゆだねる事になります。

この後は、山陰の石州口(せきしゅうぐち)と、西側の小倉口・・・へと進みます(6月16日へ>>)
 

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2009年6月13日 (土)

高杉晋作の奇襲で幕を開けた長州の大島奪回作戦

 

慶応二年(1866年)6月13日、第二次長州征伐=四境戦争で、最初の衝突の地となり幕府側に奪われていた周防大島へ、長州の大島奪回作戦が開始されました。

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慶応二年(1866年)6月5日の幕府の宣戦布告によって開始された朝敵(天皇の敵)長州(山口県)への幕府の武力制裁・・・幕府側からは第二次長州征伐と呼び、長州川からは四境(しきょう)戦争と呼ばれる一連の戦いですが、その戦いまでの経緯は、すでに書かせていただいた【いかにして第二次長州征伐は始まったか?】(5月22日参照>>)で、その最初の衝突となる周防大島口の戦い【大島口攻防戦】(6月8日参照>>)で見ていただくとして、本日は、その続きのお話・・・。

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慶応二年(1866年)6月8日、長州の東南の玄関口・周防大島に幕府軍の兵が上陸し、第二次長州征伐の幕が切って落とされました。

江戸幕府という政府を相手に戦う長州は一地方・・・もとから少ない兵を、さらに分散してはかえって負けが濃くなるであろうという予想のもと、この周防大島へは兵を配置せず、言わば、捨石として置かれた場所でした。

しかし、ほとんど無抵抗な状態のまま、非戦闘員である多くの島民が戦いに巻き込まれて犠牲になった事がニュースとして届くと、やはり、長州軍部にも怒りの声が上がります。

ここは一つ、勝敗を抜きにして一矢報いらねば、長州藩士の男がすたる!とばかりに、小倉口に配置されていた一部の兵を、大島へと差し向ける事が決定されます関係図はコチラからどうぞ>>別窓で開きます

この大島反抗作戦のトップを切って出撃したのが、あの高杉晋作です。

晋作は、長州軍が大島奪回作戦で上陸を開始する前に、敵側の動揺を引き出す秘策をたずさえて、丙寅丸(へいいんまる)に乗り込みます。

丙寅丸は、鉄製の全長125mの軍艦・・・先日の幕府の大島上陸の時に活躍した幕府の軍艦・富士山丸(ふじやままる)が木造ではあるものの224mの全長を誇りますから、丙寅丸は、その約半分・・・。

しかし、その丙寅丸は、晋作自身が惚れ込んで、イギリスの商人・グラバーから、藩に無許可のまま購入した蒸気船で、小型ながらも最新鋭のアームストロング砲を3門も搭載した心強い味方でもありました。

そして、6月12日・夜・・・晋作は前代未聞の作戦を決行します。

その夜、大島の北側、久賀沖に密かにやってきた兵寅丸・・・そこには、八雲丸をはじめとする4隻の幕府軍艦(富士山丸はいなかったようです)がイカリを下ろして停泊中・・・。

すでに蒸気機関も停止して、皆が眠りについているあたり一帯は、恐ろしいほどの静寂・・・しかも、夜の海は真っ暗闇です。

その中に、ほのかに浮かびあがるのは、船べりに吊るされている小さなカンテラの灯り・・・

晋作は、そのカンテラの灯りを頼りに、敵の船を位置を確認し、敵艦の間にスルスルと入り込んでいきます。

そして、「ここがド真ん中!今や!」とばかりに、一斉に砲撃を開始・・・右に左に、あの最新鋭のアームストロング砲が火を吹きます。

さらに、その小型である機動力を生かして、敵艦の周囲を縦横無尽に走りまくりながら、狙いもクソもなく、めったやたらと撃ちまくります。

もちろん、その攻撃に驚いた幕府軍の兵も、一斉に飛び起き応戦しようとしますが、いかんせん蒸気船・・・当然の事ながら、蒸気を起すのにも時間が必要・・・。

逆に、長州は、わずか一隻で立ち向かうわけもありませんから、ここは、敵が動けぬ間に立ち去るのが上策・・・とばかりに、未だ動けぬ敵艦を尻目に、一方的に撃ちまくるだけ撃ちまくって颯爽とその場から走り去っていきます。

久賀港沖海戦とも呼ばれるこの作戦・・・幕府の兵があっけにとられている間の、あっという間の出来事でした。

確かに、この奇襲攻撃・・・実際には、わずか一隻の小型船では、敵艦に対してさほどのダメージを与える事もできなかった奇襲ではありましたが、幕府の兵への精神的ダメージは充分に与えた作戦でした。

それを物語るのが、翌日・慶応二年(1866年)6月13日上陸作戦です。

本州側から、大島出身の世良修造率いる長州の第二奇兵隊が上陸し、幕府軍を撃破・・・その時、島民は手に手に石を持って、長州兵とともに戦ったと言います。

かくして6月17日、激戦の後に、彼ら長州軍は大島を奪還し、幕府軍は大島口から撤退する事となりました。

四境(4方)のうちの1方向を、長州の勝利に終らせる事ができたのです。

さぁ、まだ、あと3方向残っていますが・・・まずは、明暗分けた芸州口の戦いへどうぞ>>
 

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2009年6月12日 (金)

金のなる木は俺のモノ!景勝と兼続の佐渡攻略

 

天正十七年(1589年)6月12日、越後上杉景勝佐渡へ渡り、河原田城を攻撃・・・城主・本間高統が自害しました。

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ご存知、佐渡は日本で最大級の金の産地・・・古くは、『今昔物語』に登場する西三川(にしみかわ)砂金山、戦国時代には鶴子(つるし)銀山が有名でした。

ちなみに、佐渡金山の代名詞とも言える相川金山は、発見が慶長六年(1601年)なので、今日のお話には登場しません。

・・・で、すでに、書かせていただいている毛利尼子銀山争奪戦(12月24日参照>>)でもわかるように、金のなる木・・・いや、金のなる山は、やはり、誰しもが手に入れたい物・・・。

この佐渡島は、鎌倉時代から佐渡守護代として本間氏が統治する島で、上杉謙信の時代には、金堀人足を送り込んで、何かしらの関係を築いてはいましたが、完全に支配下に治めるまでには至っていませんでした。

ただ、そんな本間氏も一枚岩ではなく、当時は、

  • 西三川金山・・・羽茂(はもち)本間氏
  • 新穂(にいぼ)金山・・・久知くじ)本間氏潟上(かたがみ)本間氏
  • 鶴子銀山・・・河原田(かわはらだ)本間氏沢根(さわね)本間氏

という5つの氏族に分裂していたのです。

やがて、天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の要請に応じて上洛を果たし、正式に豊臣の傘下となった上杉景勝(かげかつ)は、その秀吉から佐渡討伐の許可を得た後、再三に渡って、その本間氏に春日山城への出仕を要請します。

秀吉の要請に答えて上洛したら豊臣の傘下となる・・・この事でもわかるように、景勝の要請に応じて春日山城へ出向く事は、イコール上杉の傘下となる事を意味します。

もちろん、狙いは佐渡の金山を支配下に治めて、その利益を得る事・・・。

しかし、当然の事ながら、すんなり応じるはずはありません。

良い返事が帰って来ない事にいらだつのは、景勝の重臣、ご存知、直江兼続(かねつぐ)です。

上記の通り、もともと一つの家だったところが分裂したとなると、やはり、そこには少なからずの確執があるのも当然の事・・・中でも、現在の佐渡では、羽茂城主の羽茂本間高茂(たかもち)と、河原田城主の河原田本間高統(たかつな)が勢力を誇っていました。

そこで、自ら佐渡攻めの総司令官となった兼続が目をつけたのは、そんな一番手の下に隠れた沢根氏と潟上氏・・・

兼続は、この2氏に、刃向かえば出兵も辞さない事を予告しつつ、半ば脅迫めいた書状を再三に渡って送りつけ、上杉への協力・・・つまり寝返りを要請するのです。

そんな圧迫に耐え切れなかったのか、本間氏のトップへの野望があったのか、沢根城主の沢根本間左馬助が上杉に内通します。

Uesugisadocc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、天正十七年(1589年)6月12日、景勝・兼続自らが1000余艘の大船団を組んで佐渡へと向かい、密かに真野湾へ侵入・・・左馬助の案内により、3千とも数万とも言われる大軍が沢根から上陸します。

上杉の上陸を知った本間氏は、続々と河原田城へと集結し、5手に分かれて立ち向かおうと試みますが、悲しいかな、すべてを合わせても500ほどの数です。

しかも、彼らは、これまで島内での小規模な戦闘の経験しかないような国人たち・・・その相手となるのは、秀吉に服従したとは言え、戦国の屈指の大名・上杉です。

圧倒的な武力の差に、たちまちのうちに大混乱となり、間もなく、沢根の兵に放たれた火によって、河原田城は炎に包まれて落城・・・高統も、その城の中で自刃しました。

河原田城の落城を知った国人たちは、続々と沢根へと降りますが、まだ、佐渡の南側に位置する羽茂城が残っていました。

16日、羽茂城近くに陣取った上杉軍が総攻撃を開始・・・竹林に隠れて狙撃するというゲリラ作戦を展開した羽茂本間氏でしたが、すでに他の佐渡の国人を味方に引きいれて、さらに多勢となった上杉軍には、到底かないませんでした。

結局、この羽茂城もこの日のうちに落城し、城主・高茂は、城を脱出して秋田へ逃亡・・・

しかし、出航した船が嵐のため、秋田ではなく越後へと漂着し、上杉方に捕らえられ、まもなく処刑されました。

こうして、佐渡の金山は上杉の物となります。

佐渡の支配を任された兼続は、例の上田衆与板衆を代官として佐渡に置き、金山経営でガッポガッポ儲ける事に・・・

ただし、ご存知のように、関ヶ原と同時に勃発した長谷堂の戦い(9月16日参照>>)で西軍についたため、その後は、金山の経営は徳川のものとなり、さらに冒頭に書いたように、新たに最大の金山も見つかって、今度は、徳川がガッポガッポ儲ける事になります。
 

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2009年6月11日 (木)

古文書の虚偽と真実~これぞ歴史の醍醐味!

 

天正十年(1582年)6月11日午後、尼崎に到着した羽柴秀吉の陣に、中川清秀と高山右近が合流しました。

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例の明智光秀の謀反・本能寺の変織田信長が倒れたの後の羽柴(豊臣)秀吉中国大返し・・・この時の、諸将の動きについては、すでにいくつか書かせていただいておりますが、同時進行でイロイロと動きまわられるので、とりあえず、流れをまとめてみますと・・・

2日 早朝 光秀 本能寺で信長を襲撃の後、二条御所の信忠を襲撃
午後 光秀 安土に向かうが瀬田橋が落とされていたため、断念して坂本城へ入る
家康 飯盛山(四条畷市)で本能寺の変を知り、交野にて一夜を明かす(伝承)
3日 光秀 佐和山城・長浜城など近江各地の城を平定しながら諸将に手紙を書く
勝家 魚津城を落す
家康 津田・穂谷を抜け宇治へと向かい宇治田原で宿泊
秀吉 本能寺の変を知る
4日 秀吉 備中高松城を攻略
勝家 本能寺の変を知る
家康 信楽に到着
5日 家康 伊賀越え中
6日 夕刻 秀吉 毛利の撤退を確認し京へ発つ
秀吉 亀山城へ到着
家康 白子浦から乗船し海路、岡崎へ
7日 光秀 安土城の光秀のもとに朝廷からの使いが来る
秀吉 80kmを移動し姫路城へ到着
家康 岡崎へ到着
8日 秀吉 姫路城で軍を休息させる
9日 秀吉 姫路を発つ
10日 光秀 秀吉がまもなく尼崎へ到着の知らせを聞き京を発つ
秀吉 移動中
11日 秀吉 尼崎へ到着

・・・てな感じになります。

個々の出来事につきましては・・・

・・・で、天正十年(1582年)6月11日、上記の通り、秀吉は尼崎に到着し、一方の光秀は洞ヶ峠に陣を置く(2007年6月11日参照>>)という事になります。

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そして、ちょうど、この頃の事でしょうか・・・有名な『太閤記』には、京都から移動中の光秀のもとに、「チマキ」を献上に行った農民たちの話が出てきます。

「戦いに勝てますように」との祈りを込めて、農民たちが持ってきたチマキを受け取った光秀は・・・

「おぉ、みんなよぉ聞け!
主君に悪行があった時は、その主君を殺すのは、この国だけやない。
中国でも、昔、悪名高い主君を倒し、民衆を救って周王朝を開き、860年もの長きに渡って平安をもたらした者がおるんや。
俺も、京都の町に平和をもたらしたんゾ~!」

と、声高らかに宣言しますが、なんと、そのチマキの包みを開けずに、そのままパクリ!

見た目は平静を装っていても、内心はドキドキ・・・心の動揺を隠しきれなかった光秀の様子を見た農民たちは・・・

「大将がアレでは、明智は負けやなぁ。
こんな軍のところにいててもしゃぁない・・・行こ、行こ」

と、さっさと立ち去ったのたとか・・・

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・・・と、長い長い前置きをしていましたが(前置きやったんかい!)、今日、お話したいのは、これら一つ一つのストーリーではありません。

上記の逸話の中の農民のセリフをお聞きになって、どう、思われました?

どう考えても、この先の合戦の勝敗を知っている人のセリフですよね。

確かに、この時、すでに秀吉のところには、続々と助っ人が駆けつけ、光秀のところには地元のわずかな味方しか来ていないわけですから、その事を踏まえれば、ある程度、この後の山崎の合戦の予想が付けられるかも知れませんが、それこそ、ヘリでも飛ばして、秀吉の陣から光秀の陣までを駆け巡り、両方の様子をほぼ同時刻にでも観察しなければ、そんな事は不可能ですよね。

つまり、この逸話は、この後の歴史を知っている人が、後世に付け加えた可能性が高い・・・もちろん、すべてがウソだとは言いませんが、少なくとも、最後の農民の勝敗予想は、結果ありきの発言のように思います。

実は、この『太閤記』には、この後、織田家家臣内のトップ争いの場となる賤ヶ岳の合戦(4月21日参照>>)のお話も出てくるのですが、そこでは、勝家の敗因として「柴田勝家の撤退命令も聞かず、先走りすぎた佐久間盛政が無謀の攻撃を仕掛けたのが敗因である」てな感じの事が書かれています。

そのため、今、現在でも盛政は愚将扱いされ、さらに、部下をちゃんと管理できなかった勝家の評価までもが低いのが現状です。

しかし、以前、【前田利家の戦線離脱】(四月22日参照>>)のところでも書かせていただきましたように、私自身は、賤ヶ岳での勝家の敗因は、中国大返し並みのスピードで秀吉が美濃から戻ってきた事と、その利家の戦線離脱にあると思っています。

特に、利家の戦線離脱によって柴田軍の足並みが乱れ、形を整えたままの撤退が出来なくなった事が大きいように思います。

しかし、『太閤記』には、そうとは書いてない・・・

実は、この『太閤記』を書いた人・・・小瀬甫庵(おぜほあん)という人なのですが、この人は、この『太閤記』を書いた時は、前田家に籍を置いていた人なのです。

そうなんです。
出版社なんてない昔は、不特定多数の読者を対象にして本を書く・・・なんて事はないわけで、大抵は、この甫庵さんのように、どこかの大名に仕えて、その大名をスポンサーとして書くわけです。

たとえば、昔の画家の場合も、自分で好きなものを好きなように描いて、その絵が高く売れてプロとして生計を立てられるなんてのは、ごく一部の有名な画家さんだけで、それができない場合は、好きな絵を描きつつも、貴族やお金持ちの注文を受けて、その肖像画を描いたりして報酬を得るわけです。

当然、そういう場合は、相手をメッチャ男前、あるいは美人に描かなくては、高くは買ってもらえないわけで、実際よりは、数段、美しく描く事になります。

つまり、このような書物にも、そういう脚色がしてあるのでは?・・・いや、おそらくしているものと思って見てよいと思います。

確かに、利家は、勝家の家臣ではなく、織田家の家臣・・・ともに織田家の家臣である秀吉の味方をしようが、勝家の味方をしようが自由なわけですが、最初っから秀吉に味方していたならともかく、戦場に出てからの、いきなりの撤退は、なんとなく、ルール違反の臭いがします。

裏切り・寝返りとまではいかないまでも、やっぱり、コスイというかズルイというか・・・そんな印象が拭えません。

だから、利家の撤退の事はサラッと書いて、「敗因は盛政と、それを止められなかった勝家」という事にしておかなくてはならないのです。

そして、もちろん『太閤記』ですから、そのご主人様である利家が味方した秀吉も、強くかっこよく書かなければ・・・そうなると、自然と、敵である光秀をかっこ悪く書かなくてはならないわけです。

これらの歴史的文書というものは、この『太閤記』に限らず、そして、この時代に限らず、たとえ、一級の史料と称されるものでも、その時代背景と、書いた人物の立場というものを踏まえながら、読み解いていく事が重要なのです。

たとえば、冒頭に書いた本能寺の変の後の7日の出来事・・・安土城にいた光秀のもとに朝廷からの使者がやってきています。

この事は、その使者であった吉田兼見(かねみ)の日記に書かれているのですが、「訪問して談笑した」という事以外は、すべて削除されているのです。

おそらくは、そこには本能寺の変が謀反ではなく革命の類であるとか、光秀を新たなトップとして認めようかといったような内容が書かれていたからこそ排除しなければならなかったのではないでしょうか。

このように、日記でさえ、後世に力を持った人間によって書き換えられるのですから、古文書というものも、やはり・・・。

以前、【信長とキリスト教】(4月8日参照>>)でご紹介したフロイスの見た信長・・・果たして本当に信長は神になろうとしていたのか?

また、【比叡山焼き討ちは無かった?】(5月12日参照>>)で書かせていただいたように、信長の魔王のような殺戮は、敵である延暦寺の僧が流した噂を書いただけではないのか?

かと言って「そんなんだったら、何も信用できない!」・・・というのではありません。

必ず、その中には真実もあります。

書いた人物の立場から、時代の背景から、何が本当で、何が違うのか?を読み解く・・・

特に、敗戦後、その地位も名誉も失くしてしまった、信長、光秀・勝家などに関しては、注意深くその真意を探っていきたい!

それこそが、歴史を楽しむ醍醐味のような気がします。
 

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2009年6月10日 (水)

時間にキッチリ?奈良の都の勤め人~時の記念日

 

ご存知、今日、6月10日は『時の記念日』です。

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すでに、2006年の6月10日に書かせていただいたように、『日本書紀』の天智十年(671年)の四月二十五日のところに、「漏刻(ろうこく・洩剋)を新しき台(うてな)に置く、始めて候時(とき)を打つ、鐘鼓(かねつづみ)を動(とどろ)かす、始めて漏刻を用いる」と書かれてあり、この日づけを太陽暦に換算すると6月10日になる・・・というところから、大正九年(1920年)に「時間を守り、欧米のように生活の改善・合理化を図ろう」と制定されたのが『時の記念日』です(2006年のページを見る>>)

Dscn1521 上記の漏刻というのは、天智天皇が皇太子時代の斉明六年(660年)に造ったとされる「水時計によって時間を計り、時間に合わせて鐘を打つシステム」の事ですが(くわしくはHPで>>)、長年、日本書紀の記述のみで、どのような物なのかが謎だったところ、昭和五十一年(1981年)に、奈良県明日香村での水落遺跡の発掘によって、その詳細が明らかになったものです(これも2006年に書かせていただきましたスンマセン)

・・・て事で、本日は意外に時間に縛られていた奈良時代・平城京の勤め人のお話・・・。

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上記のように、天智天皇が、明確に時を知らせるシステムを作っちゃったもんだから、その時から、宮仕えの役人たちは、毎朝、鐘や太鼓の音で起され、時間内に出勤という現代のサラリーマン並みの規則正しい生活を余儀なくされるようになりました。

特に、平城京へと都が遷ってからは、陰陽寮(おんみょうりょう)という専門職の人が、キッチリと時間を計ってキッチリを鐘を打つし、さぞかし慌てさせられた事でしょう。

以前、【昔の人口は?】(1月29日参照>>)のところで書かせていただいたように、この時代の平城京の総人口は約20万人足らず・・・そのうち、朝廷へ出仕する役人は、1割に満たないくらい(あくまで予想です)・・・。

その中でも、上級の役人は、都に永住していましたが、下級役人の多くは地方に本籍を置いたまま、言わば単身赴任の形で、年2回の特別休暇の時は、地元に帰って農業の手伝いなどしなければならず、けっこう大変だったようです。

もちろん、以前【今も昔も役人天国】(8月3日参照>>)でも書かせていただいたように、その給料も、上級と下級では雲泥の差があり、役人と言えど下級の人は、お気の毒なくらいの状況でした。

例の漏刻のおかげで、現代で言うところのタイムカード制が導入されていたという事ですので、おそらく、時間に関しても・・・

それこそ、上級なら、重役出勤も当たり前なんでしょうが、下級だと、そうはいきません。

朝は、午前6時半に内裏朝堂の大門が開き、即、文書作成や書類への捺印などの作業に取り掛からねばなりません。

ただ、正午には、その漏刻での太鼓の音が鳴り響いて終業となります。

つまり、仕事は午前中だけ・・・でも、これは基本的に・・・というのがついてまして、やっぱり、ここでも、下級の役人たちは、けっこう遅くまで残業なければならない状況だったようです。(←サービス残業、ハンタ~イ!)

中には、残業しても正規の給料だけではやっていけず、さらに夜遅くまで写経のバイトをして、日々の生活の足しにしながら、土間にムシロ一枚というわびしい居室に、ごくわずかの日用品を置いただけの場所で、毎日、泥のように眠っては、翌日出勤する・・・といった人も多かったようです。

当然ですが、有給休暇はありませんので、いくら疲れていると言っても、欠勤すれは、即、給料に響いてきますから、彼らは、仕事を休むにも、事前の「欠勤届」なるものが必要だったようです。

あの正倉院には、そんな彼らの「欠勤届」も残ってます。

まずは、2行くらいで、その休む理由を書くのですが、多いのは、やはり「身内の不幸」「法事」・・・(今も変らん)

さらに、「家屋の修理」「盗難に遭った」・・・中には「衣類の洗濯」って、いかにも単身赴任っぽいのもありますが、そんな欠勤理由の後に、「仍具事状(よってことのじょうぐす)謹解」としるし、最後に、その日づけを書いて提出します。

正倉院の文書には、その後に書き込まれたと思われる「○月○日参」という、新たな日づけ・・・つまり、ちゃんと休んだ後に、予定通り出勤したかどうかが書かれていて、やはり、予定以上の欠勤が、後日の給料の支給に影響している事がわかります。

そんな、下級役人の、数少ない息抜きと言えば・・・お昼頃から日没まで開かれていた東西2ヶ所の「市」

西市は右京八条二坊・・・現在の薬師寺のちょい南あたりですね。
東市は左京八条三坊・・・大安寺の少し南あたりかな?
(平城京は東西に10本の条・南北に9本の坊という大路で区切られていました・・・2月15日参照>>

そこには、決まった店舗を持つ商人だけではなく、行商人も多くやって来て、食料品や日用品はもちろん、薬や牛馬まで売られていて、たいそう賑やかだったのだとか・・・

 

テンポの効いた客引きや、行商人のここち良い売り声・・・
時には、唐渡りの高級な絹で目の保養をしつつ、巧みな大道芸を楽しみ、夕暮れ迫る都の空の下、ちょいとだけお酒を飲みながら・・・

ガード下の赤ちょうちんに集う現代サラリーマンのように、彼らも、帰りの時間を気にしつつ、明日の日本を語ったのでしょうか・・・

何となく、彼らを身近に感じます。
 

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2009年6月 9日 (火)

加賀一向一揆の支配は、なぜ100年も続いたか?

 

長享二年(1488年)6月9日、加賀で本願寺門徒による一揆が勃発し、守護・富樫政親の籠る高尾城を攻め、政親を自刃に追い込みました。

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この長享二年(1488年)6月9日の守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ高尾城(たかお・たこ・たこうじょう)攻め・・・ご存知のように、この後、加賀(石川県)は、約100年間の長きに渡って本願寺門徒が支配する「百姓の持ちたる国」となるのですが、本日の高尾城の戦いを長享一揆(ちょうきょういっき)と呼び、それ以前からの本願寺門徒の戦いと、この後の100年に渡る本願寺門徒の支配を総称して加賀一向一揆と呼びます。

もちろん、以前書かせていただいたように、蓮如(れんにょ)さんは、「浄土真宗を一向宗と呼ぶのは間違い」とおっしゃっていますので(11月28日参照>>)、厳密には本願寺門徒の一揆は一向一揆とは呼べないのですが、歴史上その名称となっていますので、今まで通り加賀一向一揆と呼ばせていただきます。

・・・で、今日の高尾城の戦いに関しても、加賀一向一揆(6月9日参照>>)として、すでにブログに書かせていただいているのですが、まだ、ブログをはじめて間もない頃の記事で、書き足りない事山のごとしで、もう少しくわしくご紹介したい!と思うものの、そのお話は、発端となる出来事から順を追って、それぞれの「その日」に書かせていただく事にして、本日は、この100年という歳月・・・。

加賀一向一揆は、なぜ、100年もの長きに渡って、加賀を支配する事ができたのか?について迫りたいと思います。

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この加賀一向一揆・・・本日の長享一揆に代表されるように、一見、本願寺の勢力を抑えようとする守護・富樫政親と、それに抵抗する本願寺門徒との戦いのように見えますが、実際には、一揆勢の中には、門徒ではない白山衆の百姓や、地元の国人衆が多く含まれていました。

現に、当時、このニュースを聞いた京都の人々は、この一揆を百姓の土一揆と認識していたようです。

しかし、実は、そのどちらでもない大きな要素が、この加賀一向一揆を100年に渡って続かせるその土台となっていたように思うのです。

もちろん、本来は烏合の衆である彼らを、守護をも倒すほど一体化させたのは、その根底に浄土真宗という強い絆があったわけで、それなしでは、彼らは、団体行動をとる事すら難しかったかも知れません。

しかし、一揆と言いながら、この、高尾城を攻めた時の彼らは、その総大将に、同じ富樫の一族で政親と対立していた富樫泰高(とがしやすたか)を据えています。

政親とは、親子以上に歳の離れた70歳前後の老将です。

泰高は、政親が自刃した後には、加賀の守護にもなっています。

ところが、いつの間にやら「百姓の持ちたる国」・・・守護・富樫泰高は完全に名前だけの存在になってしまいます。

同時期に起こった、あの山城の国一揆でも、わずか8年後に新たな守護が幕府から派遣され、そこで終焉を迎えているように(12月11日参照>>)、本来、このような状況の場合、幕府が新たな守護を派遣するなりなんなりして、鎮圧しなければならないのでは?

ところが、加賀一向一揆は、そうはならなかった・・・実は、ここには、当時最大の権力者である管領・細川政元(ほそかわまさもと)の思惑がからんでいるようです。

政元さんの人となりについては、そのご命日の日に書かせていただきましたが(6月23日参照>>)、彼は、初めて、管領の上司である将軍を、自分の意のままになる人物へと交代させで自らが実権を握るというクーデターを決行し、戦国の幕を開けた人であります。

山城の国一揆が文明十七年(1485年)。
今回の長享一揆が長享二年(1488年)。

そして、政元のクーデター・明応の政変が明応二年(1493年)です。

・・・で、先ほどの山城の国一揆の守護・・・もともと一揆が勃発した時には、その国人たちの行動を容認していたはずの政元が、クーデターを決行した途端、そのわずか4ヶ月後に、新たな守護を派遣して、終了に向かわせているのです。

要は、天下の実権を握った今、山城の国一揆は利用価値がなくなったという事でしょう。

では、加賀一向一揆は?

政元のクーデターは、第10代室町幕府将軍・足利義稙(よしたね)を追放して、自分の思い通りになる足利義高(後の義澄)を第11代将軍に擁立したわけですが、この追われた前将軍・義稙が潜伏して、あわよくば京へ戻ろうと画策していたのが北陸・・・しかも、この義稙に味方していたのが、かの富樫泰高・・・。

つまり、政元は、義稙に挽回させないためにも、泰高を守護とは認めたくなかったわけです。

しかも、加賀の一向一揆の勃発直後に、その事に激怒とた9代将軍・足利義尚(よしひさ)が、蓮如に対して加賀の本願寺門徒への破門を要求した時、間に入って将軍の怒りを収めたのが政元であった事で、以来、蓮如と本願寺自身は政元に協力的な立場をとっていましたから、ここは一つ、飾り物の守護には、そのまま飾り物でいていただいて、実質的な権力は加賀一向一揆が持つ形にして、本願寺を通じて一揆の動向を見ていくって事でいいんじゃないの?

・・・てな形で、一揆を容認したという事なのではないでしょうか?

これによって、本願寺は加賀国主としての地位を得て、やがて訪れた群雄割拠の時代には、すでに戦国大名と匹敵する地位が確立されていたという事なのでしょう。

確かに、下克上の乱世ですから、地元の国人の中にも「戦国大名に成りあがりたい!」と考える者もいたでしょうが、ここまでになると、容易に手が出せるものではありません。

たとえ、加賀の一向一揆を倒しても、もはや本願寺門徒は各地に存在するわけですから、彼ら全員・・・つまり、全国の本願寺門徒を相手にしなくてはなりません。

隣国・越前(福井県)朝倉氏も、たびたび進攻してくる加賀一向一揆と戦い、ある時は勝利したりもしますが(8月13日参照>>)、結局は、自国の領土を守るだけで精一杯で、加賀一向一揆を潰す事はできなかったわけです。

そうして100年の長きに渡って、加賀を支配した一向一揆でしたが、やがて、100年後に、全国の本願寺を相手に戦える脅威の武将が登場します。

ご存知、織田信長・・・彼は、本願寺の本拠地である大坂石山本願寺を押さえ、第11代法主(ほっす)顕如(けんにょ)(11月24日参照>>)に、自ら全国の本願寺門徒に武力蜂起の停止を呼びかけさせる事によって、加賀一向一揆に終焉を迎えさせるのです(3月9日参照>>)
 

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2009年6月 8日 (月)

第二次長州征伐・開始~大島口攻防戦

 

慶応二年(1866年)6月8日、江戸幕府の軍艦・富士山丸が砲撃を開始し、幕府軍歩兵が周防大島に上陸・・・第二次長州征伐の戦端が開かれた大島口の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

慶応二年(1866年)6月5日の幕府の宣戦布告によって開始される今回の第二次長州征伐・・・そもそも、蛤御門(はまぐりごもん・禁門)の変で、朝敵(天皇の敵)となった長州(山口県)への幕府を挙げての制裁なわけですが、その細かな経緯は、以前書かせていただいた【いかにして第二次長州征伐は始まったか?】(5月22日参照>>)で見ていただくとして、この長州征伐というネーミング・・・。

以前もチョコッと書きましたが、この第二次長州征伐という呼び方は、幕府側の呼び方・・・長州藩側からの名前は『四境(しきょう)戦争』と呼ばれます。

その名の通り、4つの国境=4方向から、囲むように幕府に攻められたので、そのように呼ぶわけですが、実は、当初の幕府の計画では、5方向から攻め込む事になっていたのです。

  1. 安芸(広島県)方面からの芸州口(げいしゅうぐち)
  2. 石見(島根県)方面からの石州口(せきしゅうぐち)
  3. 瀬戸内海の周防(すおう)大島からの大島口
  4. 九州・小倉方面からの小倉口
  5. 本拠地・を攻める萩口

ところが、この最後の萩口を担当するはずになっていたのが、あの薩摩藩(鹿児島県)・・・そうです、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が長州征伐のために入京してから約1年間、幕府がチンタラやってる間に、すでに、薩摩と長州は薩長同盟を成立させていて(1月21日参照>>)、薩摩藩は、幕府の傘下にいながらも出兵を拒否するという行動に出たのです。

・・・で、やむなく萩口を除いた4方向からの攻撃となり、その名も四境戦争・・・

Sikyousensoukankeizu3cc↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

そして、最初の激突の舞台となったのは、岩国の南側、瀬戸内海に浮かぶ面積・約138k㎡の周防大島という島・・・この周防大島は、西側が丸く東側が細く突き出たオタマジャクシのような形の島で、ほとんどが山地ではありましたが、わずかに集落となっていた小さな港町に幕府は狙いを定めます。

まずは、6月7日の早朝、島近くに、幕府の軍艦・富士山丸(ふじやままる)が現れ、東側にあった油宇(ゆう)、南側にあった安下庄(あげのしょう)などに砲撃をしますが、これは、ほんの小手調べ・・・いわゆる、翌日の下見ってヤツです。

かくして慶応二年(1866年)6月8日、幕府は、周防大島に上陸作戦を開始します。

昨日の富士山丸をはじめ、複数の軍艦が油宇湾内に侵入し、砲撃を開始するとともに、歩兵が次々と上陸・・・さらに、安芸の宮島から出航した幕府船団が、島の周囲を取り囲み、雨あられのような砲撃を繰り返します。

この無差別な攻撃は、多くの女子供を巻き込み、ほぼ無抵抗な島民は、慌てて海岸から山中へと逃げ込みます。

そのため、この大島は、幕府側の一方的な攻撃により、またたく間に占領されてしまいました。

・・・というのも、実は、長州は、最初からこの大島は、捨てるつもりでいたのです。

住民には気の毒ですが、そもそもこの戦争は、幕府を相手に、長州という一国が戦う戦争・・・はなから兵の数は雲泥の差なわけですから、その少ない兵を、あまりに多くの地に分散してしまっては、幕府の大軍を相手にする事など到底できず、結局は全滅してしまう事にもなりかねませんから、ここは、心を鬼にして、大島を捨てたのです。

・・・とは言え、この大島にも、本来は、この島を治めるべく地侍と呼ばれる地元の武士たちがいたのですが、なんと、彼らは、「幕府が攻めて来た!」という声を聞くなり、農民の姿に変装し、彼らに、混じって逃げてしまっていたのです。

日頃、「俺らにまかしとけ!」とふんぞりかえり、権力を笠に着ていただけに、彼らが何の抵抗もしないまま、多くの非戦闘員の犠牲者が出た事で、農民たちは皆、嘆き悲しんと言います。

・・・が、しかし、ここで戦闘が終っていたのでは、幕府の一方的な攻撃で、お題のよに大島口攻防戦とは呼べません。

大島での戦闘は、まだ続きます・・・そう、この島民の嘆きに、黙ってはいられなくなった人物がいたのです。

その人は、あの高杉晋作・・・。

大島を占領した事で、この後の14日には、ここを拠点とし、対岸の岩国に攻め込むつもりでいた幕府軍・・・

そんな幕府軍を、晋作が、前代未聞の海戦の夜襲とう方法で攻撃するのは、4日後の6月12日夜・・・って事でこのお話の続きは、やはり、その日・6月13日【長州の大島奪回作戦】>>に書かせていただきました。
 

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2009年6月 7日 (日)

時代別年表:室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)

  

このページは、室町時代の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」です。

室町時代は、いわゆる戦国時代も含まれますので、ブログに書いている出来事が非常に多い・・・って事で、とりあえず、前期・中期・後期・・・そして後期を安土と桃山の計・4つに分けさせていただき、このページでは、北条高時が自刃して鎌倉幕府が滅亡した1333年5月22日から、南北朝を経て、北条早雲が伊豆討ち入りする1493年10月11日までを「室町時代・前期(南北朝・足利全盛期時代)とさせていただきました。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、まだ掲載しておりません。
年表として見た場合、重要な出来事が抜けている可能性もありますが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaimuromati110



 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 

出来事とリンク
1333 5 22 鎌倉幕府・滅亡
【鎌倉幕府の滅亡】
1334 8 21 若狭・太良荘にて一揆が勃発
 【中世の名も無き人の名前とは?】
1335 7 23 足利直義が護良親王を暗殺
【かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期】
12 11 箱根・竹ノ下の戦い
【弟のニセ綸旨で反旗を決意?】
1336 5 25 湊川の戦いで楠木正成が討死
【七生報国・湊川の戦い】
10 11 ~13日新田義貞・北国落ち
【新田義貞・北国落ちの悲劇は本当か?】
1338 7 2 新田義貞が越前で討死
【恋に戦に・新田義貞の純情】
8 11 足利尊氏・征夷大将軍に任ぜられる
【おめでとう!足利尊氏さん】
1339 8 16 後醍醐天皇・没
【北闕天を望みたい~後醍醐天皇の最期】
1340 10 佐々木道誉・紅葉事件
【佐々木道誉・紅葉事件で婆沙羅を卒業】
1350 2 15 吉田兼好・没
【兼好法師の恋愛感って・・】
10 26 観応の擾乱・勃発
【観応の擾乱~尊氏+師直VS直義】
1358 8 22 足利義満・誕生
【足利義満の「王権争奪計画」】
10 10 新田義興が謀殺される
【新田義興の怨念?神霊矢口の渡し】
1366 佐々木道誉・花見の会の逸話
【お花見の歴史は万葉から】
1392 10 5 南北朝の合一
【南北朝の合一】
1397 4 16 金閣の立柱棟上式
【金閣寺の建立】
1415 2 26 蓮如・誕生
【浄土真宗を日本一にした経営戦略】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・来襲!応永の外寇】
1428 9 18 正長の土一揆
【日本初!正長の土一揆】
1439 2 10 足利持氏・自刃~永享の乱
【鎌倉公方・断絶!永享の乱と結城合戦】
1441 6 24 嘉吉の乱
【将軍暗殺!赤松満祐の嘉吉の乱】
1443 8 8 世阿弥・没
【将軍に愛された美少年~謎の後半生】
1457 4 8 太田道灌が江戸城を築く
【公方から関東を守れ~江戸城・築城】
1461 7 26 備中新見荘の代官・裕清が京を発つ
【たまがきの恋物語~手紙に託した思い】
1464 4 1 足利義政主催の「勧進猿楽」が興行される
【将軍・義政の贅沢猿楽興行】
1467 1 17 御霊合戦
【応仁の乱の口火を切る御霊合戦】
5 20 細川勝元が山名・追討命令を受ける
【応仁の乱・勃発!】
10 3 応仁の乱・相国寺の戦い
【応仁の乱・激戦~相国寺の戦い】
1469 5 12 斎藤妙椿から東常緑へ領地が返還される
【和歌で領地を取り戻す~歌人・東常緑】
1471 7 27 蓮如が越前・吉崎に道場を建てる
【蓮如、吉崎に道場を建立】
1474 2 16 一休宗純が大徳寺の住職に就任
【一休さんのとんちは本当?】
1477 5 13 用土原の戦い(長尾景春の乱)
【太田道灌とライバル・長尾景春】
1483 6 27 銀閣寺・完成
【銀閣寺が銀箔じゃないワケは?】
1485 12 11 山城の国一揆が両畠山氏に撤退要求
【下克上の至り~山城の国一揆】
1487 12 2 近江鈎の陣に甲賀衆が奇襲をかける
【近江鈎の陣・甲賀の奇襲作戦】
【意外に仲良し?伊賀忍者VS甲賀忍者】
1488 5 13 加賀一向一揆・勃発で富樫正親・自刃
【百姓の叡智・加賀の一向一揆】
【加賀一向一揆は、なぜ100年続いたか?】
【一味同心・一揆へ行こう!】
1490 1 7 足利義視・没
【応仁の乱のきっかけとなった足利義視】
1493 10 11 伊豆討ち入り
【北条早雲・伊豆討ち入り】
室町豆知識 【栄西のお茶・その後~闘茶と御茶壷道中】
【南北朝動乱~ある公家の悲しい都落ち】
【なぞなぞのルーツ~室町時代の謎かけ】

【姥捨て山は本当にあったのか?】
【トイレの歴史】
【世界最古の入れ歯は日本製?】
【僧兵と護摩の灰~僧侶の武装と堕落】

 

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2009年6月 6日 (土)

幕末ナンバー1のイケメンは誰?~結果発表!

 

『幕末ナンバー1のイケメンは誰?』
のアンケート投票にご協力いただきありがとうございましたo(_ _)oペコッ

また、投票募集のページには、それぞれの方々の写真も紹介していた事から、楽しいコメントもいただき、とてもうれしく拝見させていただきました。

そのコメントも含め、本日、このブログ上にて、結果発表をさせていただきます。

改めて投票募集のページをご覧になりたいかたはコチラからどうぞ>>(別窓で開きます)

・‥…━━━☆・‥…ジャ~━━━☆・‥…━━━☆

1位 東郷平八郎:19票
これは、日本海海戦のあたりの軍服を着た写真が有名であるがため、ご紹介した若い頃の写真とのギャップに驚きを隠せない感じでした
2位 土方 歳三 :12票
やはり、強い!鬼の副長・・・その知名度とともに「生き方が好き」という+α込みの堂々の2位です
3位

渋沢平九郎: 6票
アップの写真がないのが残念でした・・・初めて見た時は、虫メガネを持ち出しでアップで確認したくなるほど男前だと思いました

4位 池田 長発 : 4票
いわゆるシュッとした男前・・・美男子というよりは、颯爽とした爽やかな現代風の雰囲気で堂々の4位
5位 桂 小五郎 : 3票
確かに、洋装のお写真を見た時は、さほど思いませんでしたが、武士のいでたちの写真を見るとなかなかのイケメンです
5位 松平 容保 : 3票
個人的には、気弱そうな雰囲気のする容保さんですが、そこが母性本能を刺激して、なかなかの人気のようです
7位 大鳥 圭介 : 2票
唄子の相方を思い出す名前でハードルが下がり、はにかんだ写真で好感度upと思ったんですが、ちょっと伸び悩みました
8位 坂本 龍馬 : 1票
幕末屈指の人気ですが、やはりその生き方に魅力ありで、イケメンかとなると考えてしまうかも知れません
8位 徳川 慶喜 : 1票
なかなかの男前だと思いますが、やはり、鳥羽伏見での武士の棟梁としてあるまじき戦線離脱が脳裏をよぎっちゃいますね~
10位 宮川助五郎: 0票
これは、やっぱり、「あのポーズで写真を撮るか?」という意味合いでの色っぽさで、イケメンかどうかは判断できない写真でしたね・・・失礼しました

と、このような結果となりました~ご協力感謝します。

゜。°。°。°。°。°。°。°。゜。°。°。°。

では続いて、投票コーナーにいただいたコメントを・・・(いただいた順に表示しています)

東郷平八郎 写真を見て思わず目が釘付けになりました。 (女性/20代/鹿児島)
 「私もです」
渋沢平九郎 みんな目線とポーズ決まってますな~ (男性/50代/岐阜)
 「ブロマイドみたいです」
東郷平八郎 さりげなく逸らした視線がかっこいいです。 (女性/30代/愛知)
 「ホントこの写真は反則モンです」
池田長発 キリリとした日本男児風に1票 (女性/40代/東京)
 「堂々としてる感じですね」
土方歳三 誰が何と言おうと侠前は歳さんです! (女性/30代/兵庫)
 「譲れない!ってのはあります」
土方歳三 松平容保公を敬慕いたしておりますが。。土方に一票! (女性/50代/大阪)
 「好きと男前は違うって事ですね」
東郷平八郎 現代でもOK! 30年前に30年前の私の前に現われて欲しかった。 (女性/50代/海外)
 「そしたら、即、逆ナンしますね」
松平容保 瑛太っぽい感じです。 (男性/30代/福井)
 「瑛太さんも母性本能をくすぐります」
大鳥圭介 タイプです (女性/50代/大阪)
 「上目づかいがたまりませんね~」
松平容保 真面目で不憫さが(違うか~) (男性/50代/富山)
 「不憫なとこにも母性本能が・・・違うか~」
東郷平八郎 知的で落ち着きがあるように見える (女性/60代/山口)
 「いくつくらいのお写真なんでしょうね」
土方歳三 顔ももちろんですが(笑)生き方もステキです (女性/20代/東京)
 「やっぱり、そうですね」
渋沢平九郎 現代風のイケメンですよねー。驚き! (女性/30代/東京)
 「目元パッチリ、鼻筋クッキリ」
渋沢平九郎 カッコイイ~ (女性/20代/大阪)
 「扇子は本人の希望か写真屋のアドバイスか」
池田長発 オードリー春日みたいでカッコイイ (女性/10代/愛知)
 「トゥースσ(・・)池田のココ空いてますよ」
東郷平八郎 年とってからの写真しか知らないのでびっくり! (女性/40代/千葉)
 「ホント、俳優さんみたいです」
徳川慶喜 きりっとしてるよね (男性/30代/愛知)
 「やはり、将軍の威厳が・・・」
東郷平八郎 この時代に洗練されてるなんて、貴重。 (女性/30代/東京)
 「宮古湾海戦に出てるので幕末でOKですよね」
土方歳三 やっぱりでしょう (女性/50代/茨城)
 「やっぱりですねぇ~」
土方歳三 歳三様がナンバー1だと思います。 (女性/20代/東京)
 「ですよねぇ~」

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

以上、楽しいコメントをありがとうございました~

これからも、不定期ではありますが、何かオモシロイ投票のお題を思いつきましたら、投票コーナーを設けてみたいと思いますので、その時は、ぜひぜひご協力いただけますようよろしくお願いします。
 

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2009年6月 5日 (金)

新撰組・絶好調!池田屋事件

 

元治元年(1864年)6月5日、新撰組が京都の旅館・池田屋に集まった尊王攘夷派志士を急襲した騒動・・・池田屋事件がありました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

話は一年前にさかのぼります。

世は、まさに、尊王攘夷(そんのうじょうい・天皇中心&外国排除)公武合体(こうぶがったい・朝廷と幕府が協力)かと真っ二つに分かれていた頃・・・それは朝廷内でも同じでした。

公武合体派の中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)は、やはり公武合体派の会津藩薩摩藩と協力して、尊王攘夷派の公卿・三条実美(さねとみ)ら7人を御所から閉め出し、さらに、京都からの退去を命じます・・・これが、八月十八日の政変と呼ばれるクーデターです(8月18日参照>>)

京都に居場所がなかうなった実美らは、尊王攘夷派の長州藩を頼って都落ちするはめに・・・これで、政治の中心から尊王攘夷派が一掃されたわけですが、もちろん、それまで政治の表舞台にいた長州藩も、舞台から引きずり下ろされたわけですから、このままで済むわけがありません。

すぐには表立って反撃できない尊王攘夷派の志士たちは、京都の市街や近郊に身をひそめ、挽回の機会を狙う事になりますが、そんな過激派の志士たちの探索&取り締まりにあたったのが、あの新撰組です。

八月十八日の政変での活躍で、壬生(みぶ)浪士組から新撰組に名をあらため、対立していた芹沢鴨(せりざわかも)を排除して(9月18日参照>>)近藤勇のもと一枚岩となった新撰組でしたが、脱走者は多数出るわ、不潔で病人は多いわで、未だ京都の町の人々から見れば、危険極まりない浪人たちの集団でしかありませんでした。

そんな新撰組のイメージを一転させたのが、この池田屋事件・・・

元治元年(1864年)6月5日・・・この年の4月頃から、京都には何人もの長州人が入りこみ、密かにテロの計画をたてているなどの噂が流れはじめていた事から、日々、取り締まりにあたっていた新撰組は、この日の朝に、かねてから狙いをつけていた四条小橋の道具屋・桝屋家宅捜索を行い、何やら怪しげな手紙や武器などを発見します。

Dscn2966a800 ・・・で、桝屋の主人・喜右衛門(きえもん)こと古高俊太郎(ふるたかしゅんたろう)を捕らえて、壬生の屯所(旧前川邸)で厳しく取り調べたところ、京都市街への放火や天皇奪取などのテロ計画を自白します・・・と幕府の記録にはありますが、最近では、そのような自白は無かったという説が主流となってします。

・・・というのも、冒頭に書いた通り、この後、新撰組は池田屋に集結している過激派志士たちと一戦交えるわけですが、池田屋に向かうのに、わざわざ、局長の近藤率いるグループと、副長の土方歳三の率いるグループに分け、さらに、わずかな距離の池田屋まで2~3時間を要しています。

これは、おそらくは、具体的な供述などは何もなく、とりあえず「どこかで何かの話し合いがある」みたいな情報だけをもとに、そこらあたりを片っ端から探索して回ったという感じだったため、多くの時間を費やしてしまったのでしょう。

いや、むしろ、よく見つけました・・・なんせ、彼らは、わずか34人の人数で探しあてたのですから・・・

とにもかくにも、何らかの怪しい情報を得た近藤らは、会津藩の配下にある新撰組として行動すべく、京都守護職に報告し、隊士を八坂神社の前の祇園会所に集合させ、会津藩のGOサインと援軍を待ちます。

しかし、待てど暮らせど援軍も来なければ、命令も出やしない・・・

どうやら、肝心の藩主・松平容保(かたもり)が病床にあった事で、周りの重臣たちが、何かあった時の責任をとりたくがないため「もし、長州の恨みをかって、どえらい大ゴトになったらどうすんねん」と、誰も命令の決定を下せずにいたのです。

Ikedayakankeizucc【近藤&土方・進路】クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは池田屋への進路をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

約束の午後8時になっても、音沙汰がない事にしびれを切らした近藤は、土方に24人の隊士を預けて祇園方面の探索に向かわせ、自らは、沖田総司藤堂平助原田左之助永倉新八ら10人とともに、鴨川の西側の四条から木屋町通りを探索するべく出発します。

やがて、三条小橋のあたりに到着した時、旅篭・池田屋の前に「一文字に三つ星」の提灯が掲げてあるのを見つけ、「これは、長州の紋では?」と野生の勘が働いた?

表口と裏口をそれぞれ3人ずつで固め、近藤が、「御用改めである!」と声をかけながら、戸をけたたましく叩くと、中で、池田屋の主人が、何やら大声で叫んでいる声が聞こえる・・・。

Ikedayamitorizucc【池田屋・見取り図】クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは池田屋内での様子ををわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

これで、過激派志士の潜伏を確信した近藤は、素早く、沖田とともに裏階段を駆け上がり、すでに行灯(あんどん)が消されて、暗闇となった二階の座敷に突入!

中には、20人余りの志士たち・・・1人が即座に斬りかかるも、それを沖田が一刀に・・・さらに、沖田は数人を斬りますが、ここで、持病の結核のために吐血・・・やむなく、倒れた志士の遺体を枕に横になり、戦線離脱します。

鎖帷子(くさりかたびら)で完全武装した近藤らに対して、ふいを突かれた志士たちは、逃げるしかなく、裏庭へと飛び降りる者が続出し、最初、二階で繰り広げられた戦いは、徐々に一階へと移り、近藤も一階に戻って奮闘します。

やがて、藤堂が負傷して、中庭にて戦線離脱すると、いよいよ、近藤と永倉の2人になってしまい、1人が4~5人を相手にする大ピンチとなります。

・・・と、そこへ、グッドタイミングで登場したのが、どこまでもカッコイイ土方率いる別働隊・・・形勢は一気に逆転し、終ってみれば、新撰組の死者が平隊士・3人なのに対し、志士側は14人(人数は諸説あり)

その中には、長州藩の吉田稔麿(としまろ)熊本藩宮部鼎蔵(ていぞう)といった重鎮たちも・・・人数から考えれば、新撰組の圧倒的勝利となりました。

翌・6日の昼、屯所に凱旋帰館した彼らを、大勢の見物人が取り囲み、その行列は、あの赤穂浪士を思わせる晴れ晴れとした光景だったとか・・・

これで、新撰組の人気は一気に上がり、土方曰く「モテてモテて困ってんねん」新撰組絶頂期となるのですが、もちろん、長州も黙ってはいません。

・・・で、長州藩の積極派が、京都を奪回すべく大軍を率いて押し寄せるのが、あの蛤御門(はまぐりごもん・禁門)の変・・・なのですが、そのお話は、2007年10月21日の【禁門の変のシンガリ・幕末の十七烈士】でどうぞ>>
 

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2009年6月 4日 (木)

レキジョに人気の前田慶次郎~爺ちゃんでもカッコイイ!

 

慶長十七年(1612年)6月4日、戦国のかぶき者として知られる前田慶次郎が70歳前後でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・と、上杉側の史料にはありますが、別の史料には慶長十年(1605年)11月9日に73歳で没したというのもあります。

とにかく、謎に包まれた人・・・

空前の戦国ブームと言われる今日この頃ですが、群がるレキジョと呼ばれる歴史好きの女性たちから、真田幸村長宗我部元親伊達政宗らと並んで1・2を争う人気なのが、この前田慶次郎さん。

しかし、上記の通り、本来の歴史にはほとんど登場せず、ゆえに、そのキャラクター設定が極めて広範囲に設定できるところから、様々な小説に取り上げられ、しかも、それらが、かなりのいいデキであるため、今では、そのイメージがバッチリとついてしまった感じですねぇ。

さらに、漫画・花の慶次が大ヒットした事で、最近では、その名前さえ前田慶次という「郎」がつかない形で書かれている書籍もありますが、実は、通称だけでも、慶次郎慶二郎啓次郎宗兵衛と、いくつか存在し、名前も、利益(とします)利太(としたか)利大(としひろ・としおき)利貞(としさだ)利卓(としたか)と色々あります。

なんせ、亡くなった日も定かではないし、その年齢もまちまち・・・当然、生まれた年数もわからなけりゃ、その出自もよくわからないわけです。

・・・で、今日のところは、そのご命日(かもしれない)という事で、「おそらくこれは本当だろう」というようなお話や、よく知られた逸話などをご紹介しながら、前田慶次郎さん(今日はこう呼びます)に迫りましょう!

・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆

前田慶次郎は、その前田という姓からでも察しがつくように、あの加賀百万石の前田家ゆかりの人物・・・

有名な前田利家の兄である利久の養子・・・つまり、義理の甥っ子になるわけです。

その利久に実子がなく病弱であった事から、織田信長の命により、前田家は弟の利家が継ぐ事になって、逆に、利久・慶次郎父子は、その利家に仕える形となります。

豊臣(羽柴)秀吉徳川家康が戦った小牧長久手の戦い(3月13日参照>>)の時には、北陸版の末森城の攻防戦(8月28日参照>>)にも出陣しましたし、小田原城攻め(12月10日参照>>)の時も、一翼を任された利家について参戦しています。

しかし、秀吉の天下がほぼ定まり、平和な日々がしばらく続くと、慶次郎の根っからのかぶき者としての性格が、その本性を現してきます。

かぶき者とは「傾奇者」の文字でもわかるように、いわゆるアウトロー=はみだし者的な人の呼び名で、武士社会の上下関係を嫌い、しきたりや礼節を嫌い・・・

そうなると、当然の事ながら、叔父・利家が、自分の若かりし時の事は棚に上げといて、慶次郎に注意するわけですが、もちろん、彼にとっては、「ウザイ」の一語に尽きるわけで・・・。

やがて徐々に反発が強まる中、天正十五年(1587年)、養父の利久が亡くなった事をきっかけに、もはや前田家とは縁がなくなったと思ったのか、その直後(もしくは3年くらい後)前田家を出奔して浪人の身となります。

この時、慶次郎は、利家を屋敷に招待し、「どうぞ、どうぞ・・・」と、お風呂に入るように仕向け、油断して、すすめられるがまま、用意された水風呂に入った利家が、「ギャァー」と叫ぶのを尻目に、そのまま京都へと逃走した・・・なんて、有名なエピソードもありますが、まぁ、これは、それだけ奇行が激しかったという事を伝えたいんでしょうな。

なんせ、冒頭の死没の年齢から考えると、この時点で少なくとも40代後半・・・ヘタすりゃ、50~60歳近くで、こんな、磯野家のカツオみたいな事、やってる場合じゃないですからねぇ。

・・・で、京都での浪人暮らしをはじめた慶次郎は、思う存分、大好きな文化・芸術に接する事になります。

各武将が開く連歌会に出席したり、古田織部からお茶を習ったり、謡曲や仕舞をたしなみ、源氏物語などにも親しんだり・・・

ちょうど、この頃に京都で知り合ったのが、男盛りの40代の直江兼続(かねつぐ)・・・。

武勇の誉れ高かった事から、浪人中にも、いくつかの仕官の話もありながら、自由奔放に暮らしたいがゆえに断り続けていた慶次郎が、この兼続とは意気投合したようで、「気ままな暮らしをさせてくれるなら・・・」と、この後、会津・上杉家へ仕官します。

この時の有名な逸話として・・・

初めて、上杉景勝と会う事になった慶次郎は、手土産として大根を持参して、「俺は、この大根のように、噛めば噛むほど味わい深い人間だ」と自己紹介したのだとか・・・

もう、こうなったら60歳・70歳になってもかぶき者でいてください!・・・って感じですが、のんびりと、風流に浸っている時間はありません。

そう、関ヶ原の戦いが近づいています。

すでに、ブログで書かせていただいているように、慶長五年(1600年)4月1日に景勝が、家康の上洛要請を拒否した(4月1日参照>>)事で、その雲行きは怪しくなり、4月14日の『直江状』(4月14日参照>>)で決定的となり、家康は会津征伐を決意します。

家康が会津を攻めて来たなら、一戦交える覚悟だった景勝でしたが、ご存知のように、家康が畿内を留守にした事で、石田三成伏見城を攻撃(7月19日参照>>)・・・大乱の幕が切って落とされ、家康は西へと戻り、関ヶ原へと突入します。

家康との直接対決は無くなったものの、関ヶ原と同じ9月15日に勃発する家康配下の最上義光との長谷堂の戦い(9月16日参照>>)では、60~70歳前後でありながら、朱塗りの槍に『大ふへん者』の旗指物(はたさしもの・6月28日参照>>で奮戦した慶次郎・・・この時の戦いぶりが、あまりにも猛々しいので、作家さんは、慶次郎を若武者に描きたくなるんですよねぇ~どうしても・・・。

かく言う私も、この長谷堂の戦いでのお話は、ゆっくりたっぷり書きたいので、今日のところは控えさせていただいて、いずれ、「その日」にという事にしますが・・・

その天下分け目の関ヶ原で、西軍についた形となった上杉家は、米沢30万石へと減封される事になりますが、それでも慶次郎は上杉を離れる事なく、景勝&兼続に従って米沢に向かいます。

もっとも、その後は、城下で源氏物語の講義などしながら、風雅に暮らしたという事なので、他の大名に仕官して、またまた武勇伝を残すよりは、こちらのほうが性に合ってたのかも知れませんね。

かくして慶長十七年(1612年)6月4日、その生涯を終えた前田慶次郎さん・・・おそらく、本当の慶次郎は、現代の私たち描く、あのイメージとはかけ離れた人物なのかも知れませんが、もともと、ほとんどが謎に包まれた生涯なのですから、描くときは思いっきりカッコよく、永遠の20代として描かれていても、それはそれで歴史のロマンの一つなのかも知れませんね。
 

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2009年6月 3日 (水)

黒船来航のペリーが予測した「ものづくり日本」

 

嘉永六年(1853年)6月3日、アメリカ海軍所属の東インド艦隊江戸湾・浦賀に姿を見せました・・・ご存知、ペリー黒船来航です。

昨年は、日本だけではなく、琉球もターゲットになっていた事を書かせていただきましたが(2008年6月3日参照>>)、今回は、アメリカの思惑とペリーのその後について・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

昭和二十年(1945年)、日本の敗戦を伝える8月14日のニューヨーク・タイムズは、その紙上で、「我々は、初めてペリー以来の願望を果たした」と報じたと言います。

また、その半月後の9月2日、太平洋戦争の降伏文書の調印式が行われた軍艦ミズーリ号の船上には、このペリー当時の星条旗が掲げられました。

つまり、ペリー来航の目的は、捕鯨の拠点としての開国だけに留まらず、最終的には日本の占領にあったという事なのかも知れません。

ペリーの時代、産業革命によって昼夜を問わず大量生産を行うようになった工場・・・その動力やランプの灯りの燃料として必要だった鯨油の確保と、その生産した物品を売りさばく市場拡大は、イギリスフランスなどのヨーロッパ各国、そしてアメリカ合衆国の大きな目標でした。

そんな中、アメリカの実業家・アーロン・ヘイト・パルマーは、巨大な中国マーケットを掌握するためには、「まず、ハワイを併合して燃料補給基地とし、その後、日本に開国を求める以外にない」と考え、日本開国の戦略を練り上げて、大統領や国務長官に、意見書を提出します。

  • 艦隊を直接江戸へ向かわせ、将軍または部局の長に面会を求め、開国を要求せよ。
  • 拒否されたならば、武力で江戸湾を封鎖し、品川を制圧せよ。
  • 回答が得られない時は、「祖国が侮辱された」とみなし、どのような結果となっても、その責任は日本側にある。

・・・てな感じの意見書だったそうですが、まさに、ペリーの行動そのものです。

なんせ、交渉の時に、ペリーが大統領の手紙とともに渡した箱の中には・・・

「日本が通商を認めないのは道理に反している。もし、どうしても通商しないのであれば、武力も辞さない。戦争になれば、こちらが勝つに決まっているから、降伏する時は、この旗を立てろ・・・そうすれば、砲撃をやめ、和睦の交渉に応じよう」

という、文書と2本の白旗・・・日本人は、この時、初めて、白旗の意味を知ったのだとか・・・日本での白旗は源氏の旗ですもんね。

・・・で、結局、ご存知のように、スッタモンダの末、日本は、翌年、再来日したペリーと日米和親条約が締結させるわけですが、ペリー自身は、条約締結後は、健康上の理由として、すぐに帰国の途についています。

Perry 日本を開国させた彼の功績は、母国・アメリカでも大いに評価され、そのあと、「中国公使に・・・」という話がありましたが、ペリーは、これを断って、『遠征記』の編さんに専念しました。

遠い異国で、見た事、聞いた事・・・艦隊の活動はもちろん、文化や科学に至るまで、その体験談を後世に伝えたいと思ったようです。

そんなペリーが語る日本人とは・・・

「洗練された理性的な国民で、大陸の人たちよりも、心を開いて我々の説得に耳を傾けてくれる」
「職人の腕前は世界一!発明の能力をもっと自由に発揮する事ができたなら、世界有数の製造業国になるだろう」

おぉ・・・ペリーさん、見事、昭和の日本の高度成長期を予測しちゃってくれてますね~

日本にかなりの好印象を持ってくれたペリーさんですが、悲しいかな、彼には文才がなかったようで、書きたい事はたくさんあるのに、どうも、うまく書けない・・・

・・・で、結局、サナニエル・ホーソンという作家さんにお願いして、補助?直し?ゴーストライター?的な事をやってもらって、ようやく、安政四年(1857年)12月に、全三巻の完成をみました。

しかし、ペリーはその完成の、わずか2ヵ月後に風邪をひいて寝込んしまいます。

さらに、その風邪が治りきらないうちに、持病のリウマチが悪化・・・翌・安政五年(1858年)の3月4日、63歳の生涯を閉じたという事です。

まだ、生きておられる間に全巻が完成した事が、せめてもの救い・・・たくさんの日本の思い出を持って、天国へと向かわれた事でしょう。
 

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2009年6月 2日 (火)

今日は本能寺の変~信長の首は静岡に?

 

天正十年(1582年)6月2日、京都・本能寺に宿泊中の織田信長を家臣の明智光秀が襲撃する・・・いわゆる本能寺の変・・・

もう、書くのも恥ずかしいくらい、毎年のように、この日は本能寺の変を書いておりますが(それぞれは【織田信長の年表】でどうぞ>>)・・・懲りもせずに、またまた・・・本日は、この日命を落す、その信長の首について・・・

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この日、明智光秀に攻められ、本能寺で最期をとげる織田信長に関しては、ご存知のように、「首どころか、死体らしきものすら発見されていない」というのが、歴史の定説です。

だからこそ、寺というよりは、城もしくは砦の様相を呈していた本能寺には、いざという時の抜け穴が設置されており、信長は、自ら火を放って、その地下の抜け穴がら脱出した・・・なんていう生存説まで存在するわけです。

ルイス・フロイス『日本史』にも・・・
「胸に銃弾を受けたので切腹したという者も、御殿に火を放って焼死したという者もいるが、火事が大きかったので、信長がどのようにして死んだのかわからない」
てな事が書かれていますし、

小瀬甫庵(おぜほあん)『信長記』にも・・・
「首を探したがいっこうに見つからず、光秀が大いに怪しんだけれど、遺骸らしきものすら見つけられなかった」
と、なっています。

また、『大慈院旧記』には、伊勢の星合城主・星合教房(ほしあいのりふさ)の妻の話というのが書かれていて、それによると・・・

その妻が京都見物をしていたところ日ノ岡というところで、何やら人が騒ぎはじめ、見ると、市街地の中心のほうで煙が上がっていて、どうやら都で戦いが始まった様子。

とにもかくにも、戦場のほうへ向かって歩いて行くと、誰からともなく、「明智の謀反のよって本能寺が攻められている」という話を聞いて、彼女は「私は、女だが、信長様は主君にあたるお方・・・見捨ててはおけない」と、お供の若い武士を連れて本能寺へ向います。

すると、今まさに、何やら絹の包みを持った男が、本能寺の塀を乗り越えて逃げようとするところに出くわします。

「おのれ!泥棒め!」
と、彼女は、その男に斬りつけて、見事討ち取った後、男の持っていた包みを開けてみると、そこには、信長の首が・・・。

彼女は、涙をこらえながら、もう一度包みを戻し、大徳寺へ運んだという・・・で、その話を聞いた羽柴(豊臣)秀吉が、その妻を大いに褒めた・・・

・・・というのですが、これは、やはり後の創作でしょう。

なんせ、ご存知のように、その秀吉が中心となって、養子の秀勝(信長の四男)を喪主に行われた10月15日の信長の葬儀・・・

大徳寺で行われたその葬儀では、信長の遺骸がなかったために、しかたなく、信長の木像を2体造って1体を燃やして灰にし、遺骸の代わりにしたというのですから、もし、この時、本当に、かの星合の妻が、大徳寺に首を預けていたなら、わざわざそんな事する必要ありませんからねぇ。

やっぱり、「見つからなかった」というのが本当のところでしょうね。

・・・で、この「見つからなかった」、そして「今も見つかっていない」という点から、完全否定できない、もう一つのお話があります。

実は、静岡に存在する「信長の首塚」・・・

静岡県富士郡柴川町の西山というところにある本門寺というお寺・・・興国四年(1343年)に日代(にちだい)が開山した日蓮宗のお寺で、重要文化財の法華経も所蔵する由緒正しき古寺です。

富士宮市北山にある本門寺と区別して、通常、西山本門寺と呼ばれるそうですが、この西山本門寺の境内にある静岡県の天然記念物に指定されている大きなヒイラギ・・・そのかたわらにある首塚が、なんと信長の首塚なのだとか・・・

その言い伝えによれば・・・

信長が本能寺で光秀の襲撃を受けた時、原胤重(たねしげ)なる人物と、その息子・清安(きよやす)宗安(むねやす)の兄弟も巻き込まれ、父と兄は討死するも、弟の宗安だけは、何とか助かり、ちょうど、その時、本能寺に居合わせた本因坊算砂(さんさ・日海)の指示により、父と兄の首とともに、信長の首を持ち出し、炎上する本能寺から脱出したのだそうです。

そして、駿河(静岡県)まで逃亡した宗安は、信長の首を、ここ西山本門寺の境内に埋めて、その横にヒイラギを植えたのだとか・・・確かに、現在、天然記念物のこのヒイラギは推定樹齢が400年~500年という事なので、時代的には合ってます。

さらに、この西山本門寺の第18世住職が、その宗安さんの子・日順(にちじゅん)上人というのも、何やら信憑性がなくもありません。

また、変の当日、本能寺に居合わせたという本因坊算砂・・・この人は、本行院日海(ほんこういんにっかい)の名でも知られる日蓮宗の名僧ですから、彼が、知り合いの同じ日蓮宗のお寺に逃げるように指示した可能性もありますね。

知る人ぞ知る逸話ですが、本能寺の変の数時間前、囲碁の名手でもあるこの算砂は、信長の前で鹿塩利堅(かしおとしかた)と対局し、その時、『劫(こう・交互に相手の石1個を取り返す事ができる形)が三箇所にできる『三劫』といういつまでも勝負がつかない形になった事から、勝負は無効とされ、算砂は不思議がりながら帰った・・・とされていますが、ひょっとして、上記のように勝負が長引いたのであれば、夜遅くなってしまって、泊まった可能性もなきにしもあらず・・・

果たして、その首塚の下には、本当に、信長が眠っているのか否か・・・歴史好きの心をドキドキさせてくれる話である事は確かですね。

:;;;:+*+オマケの豆知識+*+:;;;:

ある時、信長が算砂に対して、五目置いて(弱いほうがあらかじめ盤面に5つの石を置いて対局する事)打ちはじめますが、アッという間に負かされてしまい、それ以来、信長は算砂の事を「名人」と呼ぶようになります・・・つまり、算砂が囲碁の初代・名人

その後、本因坊は子から孫へと受け継がれますが、昭和二十一年(1946年)、第21代本因坊秀哉が引退した後は、世襲制を廃止し、対局による選抜になりました。

現在は、その優勝者に与えられる称号を本因坊と称します(↑「ヒカルの碁」を読んだ人なら知ってるよネ!)
 

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2009年6月 1日 (月)

河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略

 

慶応四年(明治元年・1868年)6月1日、長岡藩家老・河井継之助を中心とする奥羽越列藩同盟軍が今町を攻略すべく出陣しました。

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慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日の鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)で始まった戊辰戦争は、その舞台を北に移し、北越戊辰戦争へと突入します。

抵抗する会津藩庄内藩を中心として結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わった長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は、一旦は、新政府軍の本営のある小千谷(おじや)に近い朝日山を奪取します(5月13日参照>>)、まもなく、逆襲してきた新政府軍に、拠点である長岡城を奪われてしまいます(5月19日参照>>)

拠点を失ってしまった長岡藩・・・

逆に、新政府軍は、北は今町、そこから南東へ向けての森立峠までの防御ラインを築き、北東へと退去した同盟軍の逆襲に備えます

継之助は、まず、最北の今町を奪取し、その勢いのまま長岡城へと迫り、長岡城を奪回しようと考えます。

長岡城を取り戻しさえすれば、再び、そこを拠点に持久戦へと持ち込む事も可能・・・そして、何とか、冬まで、持ちこたえたなら、雪国に不慣れな新政府軍を一掃できると、作戦を練っていたのです。

5月21日、継之助は、手元の隊を率いて、加茂(かも・加茂市)へと移動し、大昌寺(だいしょうじ)に本営を置きます。

そこへ、約450名の米沢藩の援軍を率いてやってきてくれたのは、総督の色部長門(いろべながと)と副総督の千坂高雅(ちさかたかまさ)・・・早速、彼らは軍儀を開き、総勢・約2800名となった同盟軍を、いくつかの隊に分け、敵陣を取り囲むように配置し、時間差をおいて攻撃を仕掛けるゲリラ戦法を計画します。

この時の配置については、長岡口出雲崎口与板口の3方面、もしくは、弥彦から与板口にかけての5箇所のいずれかであったと言われています。

Hokuetuimamatizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、慶応四年(明治元年・1868年)6月1日今町攻略に向けて出陣した同盟軍・・・継之助が率いる本隊は右翼から、山本帯刀(たてわき)率いる牽制隊は真ん中から、さらに別働隊が左翼から、それぞれ今町へと迫ります。

迎え撃つ新政府軍は、三好軍太郎率いる尾張高田藩を中心とする軍勢・・・実際に、戦闘が開始されたのは、翌・2日のお昼過ぎ、牽制隊が中央部分から砲撃を開始し、文字通り、敵の注意をひきつけて牽制をかけ、この部隊を本隊と思い込んだ新政府軍がそちらへ向かっていくすきに、継之助率いる主力部隊が前進し、今町の西側にある中之島を占拠します。

兵の数では圧倒的に少ない同盟軍でしたが、今回ばかりは、この継之助の時間差攻撃が見事に的中し、やがて、新政府軍は抵抗空しく敗走・・・継之助は今町の奪回に成功したのです。

そう、北越戊辰戦争で、新政府軍を最も困らせたのは、この継之助の絶妙な指揮によるところが大きかったのです。

まだ、日本に3門しかなかった最新鋭の秘密兵器・ガトリング砲・・・そのうち、長岡藩が2門も持っていた事で、何となく注目を浴びるガトリング砲ですが、実は、実際には、それほどの効果は無かったのではないか?と言われています。

先の【長岡城・陥落】(5月19日参照>>)のページでも、その題目を【ガトリング砲も空しく】とさせていただきましたし、「継之助自らが発射した」と書かせていただきましたが、問題はそこです。

本来、大将自らが、そのような武器を発射する事は、あまりありませんよねぇ・・・つまり、このガトリング砲を、ちゃんと使える人が誰もいなかったのです。

確かに、1分間に150発~200発を発射するスグレモノの機関銃ですが、なんせ継之助が、これを購入したのは、この慶応四年に入ってからの事・・・この時代ですから、機関銃とは言えど手動です。

正確にクランクを回さなければ、正確に連射する事が難しかったのですが、まだ、ほとんど訓練もしないまま実戦となってしまったのです。

ただ、この最新鋭の武器がある事によって、味方の士気は高まったようではありますが、それがあっても、空しく長岡城が陥落したように、実際には、ガトリング砲よりも、白馬にまたがって、日の丸の軍扇振り振り指示を出す継之助の、巧みな指揮のほうが功を奏したようです。

こうして、この敗戦に危機感を抱いた新政府軍・・・ここに来て、嘉彰親王(よしあきらしんのう・小松宮)を総督に、西園寺公望(さいおんじきんもち)を参謀に任命し、北越へと派遣します。

さらに、あの西郷隆盛までもが、自ら薩摩軍を率いて参戦する構えを見せるのですが・・・、そのお話は、やはり「その日」である7月24日へどうぞ>>
 

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