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2009年6月 1日 (月)

河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略

 

慶応四年(明治元年・1868年)6月1日、長岡藩家老・河井継之助を中心とする奥羽越列藩同盟軍が今町を攻略すべく出陣しました。

・・・・・・・・・・・・

慶応四年(明治元年・1868年)の1月3日の鳥羽伏見の戦い(1月9日参照>>)に始まった戊辰戦争は、その舞台を北に移し、北越戊辰戦争へと突入します。

抵抗する会津藩庄内藩を中心として結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わった長岡藩の家老・河井継之助(かわいつぎのすけ)は、一旦は、新政府軍の本営のある小千谷(おじや)に近い朝日山を奪取します(5月13日参照>>)、まもなく、逆襲してきた新政府軍に、拠点である長岡城を奪われてしまいます(5月19日参照>>)

拠点を失ってしまった長岡藩・・・

逆に、新政府軍は、北は今町、そこから南東へ向けての森立峠までの防御ラインを築き、北東へと退去した同盟軍の逆襲に備えます。

継之助は、まず、最北の今町を奪取し、その勢いのまま長岡城へと迫り、長岡城を奪回しようと考えます。

長岡城を取り戻しさえすれば、再び、そこを拠点に持久戦へと持ち込む事も可能・・・そして、何とか、冬まで、持ちこたえたなら、雪国に不慣れな新政府軍を一掃できると、作戦を練っていたのです。

5月21日、継之助は、手元の隊を率いて、加茂(かも・加茂市)へと移動し、大昌寺(だいしょうじ)に本営を置きます。

そこへ、約450名の米沢藩の援軍を率いてやってきてくれたのは、総督の色部長門(いろべながと)と副総督の千坂高雅(ちさかたかまさ)・・・早速、彼らは軍儀を開き、総勢・約2800名となった同盟軍を、いくつかの隊に分け、敵陣を取り囲むように配置し、時間差をおいて攻撃を仕掛けるゲリラ戦法を計画します。

この時の配置については、長岡口出雲崎口与板口の3方面、もしくは、弥彦から与板口にかけての5箇所のいずれかであったと言われています。

Hokuetuimamatizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして、慶応四年(明治元年・1868年)6月1日今町攻略に向けて出陣した同盟軍・・・継之助が率いる本隊は右翼から、山本帯刀(たてわき)率いる牽制隊は真ん中から、さらに別働隊が左翼から、それぞれ今町へと迫ります。

迎え撃つ新政府軍は、三好軍太郎率いる尾張高田藩を中心とする軍勢・・・

実際に、戦闘が開始されたのは、翌・2日のお昼過ぎ、牽制隊が中央部分から砲撃を開始し、文字通り、敵の注意をひきつけて牽制をかけ、この部隊を本隊と思い込んだ新政府軍がそちらへ向かっていくすきに、継之助率いる主力部隊が前進し、今町の西側にある中之島を占拠します。

兵の数では圧倒的に少ない同盟軍でしたが、今回ばかりは、この継之助の時間差攻撃が見事に的中し、やがて、新政府軍は抵抗空しく敗走・・・継之助は今町の奪回に成功したのです。

そう、北越戊辰戦争で、新政府軍を最も困らせたのは、この継之助の絶妙な指揮によるところが大きかったのです。

まだ、日本に3門しかなかった最新鋭の秘密兵器・ガトリング砲・・・そのうち、長岡藩が2門も持っていた事で、何となく注目を浴びるガトリング砲ですが、実は、実際には、それほどの効果は無かったのではないか?と言われています。

先の【長岡城・陥落】(5月19日参照>>)のページでも、その題目を【ガトリング砲も空しく】とさせていただきましたし、「継之助自らが発射した」と書かせていただきましたが、問題はそこです。

本来、大将自らが、そのような武器を発射する事は、あまりありませんよねぇ・・・つまり、このガトリング砲を、ちゃんと使える人が誰もいなかったのです。

確かに、1分間に150発~200発を発射するスグレモノの機関銃ですが、なんせ継之助が、これを購入したのは、この慶応四年に入ってからの事・・・この時代ですから、機関銃とは言えど手動です。

正確に扱えなければ、正確に連射する事ができないのは当然ですが、まだ、ほとんど訓練もしないまま実戦となってしまったのです。

ただ、この最新鋭の武器がある事によって、確かに味方の士気は高まったでしょうが、結局は、それよりも、継之助の巧みな作戦のほうが功を奏したようです。

こうして、この敗戦に危機感を抱いた新政府軍・・・ここに来て、嘉彰親王(よしあきらしんのう・小松宮)を総督に、西園寺公望(さいおんじきんもち)参謀に任命し、北越へと派遣します。

さらに、あの西郷隆盛までもが、自ら薩摩軍を率いて参戦する構えを見せるのですが・・・、そのお話は、やはり「その日」である7月24日へどうぞ>>
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コメント

はじめまして。
少し前に『会津士魂』や『峠』で読んだ長岡の戦いの判り易い解説!!愉しく拝読しました!!今日があの、“奪回作戦”の日だったのですね!!

投稿: Charlie | 2009年6月 1日 (月) 21時56分

Charlieさん、はじめまして。

あまりドラマではお目にかからない北越戊辰戦争ですが、最近は、徐々に河井継之助さんの生き方も注目されるようになってきたみたいですね。

また、遊びに来てください。

投稿: 茶々 | 2009年6月 1日 (月) 23時19分

本文の内容とは関係ないんですが、米沢藩からの援軍指揮者である、色部氏と千坂氏って、赤穂浪士に出てくる…色部又四郎と千坂兵部の子孫ですか?。それから、上杉家の家老って言えば、今の大河では直江家ですが、兼継の子孫は家老になってないんですか?それと兼継の同輩である泉沢政秀も家老になってますが彼の子孫も家老職には就いてなかったんでしょうか?。継之助が主人公ですが、何故か彼よりそちらに興味を引かれ、お門違いな質問をしました。

投稿: マー君 | 2009年6月 2日 (火) 17時30分

マー君さん、こんばんは~

赤穂浪士のほうはちょっとわかりませんo(_ _)o・・・また、調べておきます。

直江兼続は長男が早くに亡くなった後、養子をもらったりもしましたが、最終的にはその養子縁組も解消され、兼続の代で断絶してしまうので子孫はいません。

また泉沢さんのほうも、先日のドラマでは、「子供が槍を・・・」と大騒ぎになってましたが、実際には子供はおらず、やはりこちらも断絶してますので子孫はいません。

投稿: 茶々 | 2009年6月 2日 (火) 19時51分

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