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2009年7月24日 (金)

北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦

 

慶応四年(明治元年・1868年)7月24日、北越戊辰戦争において、先の5月19日に新政府軍に本拠地の長岡城を奪われた長岡藩の河井継之助が、奪回作戦を決行しました。

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江戸城無血開城の後、さらに北へと進攻する新政府軍と、東北の諸藩で結成された奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)との間に勃発した北越戊辰戦争・・・(4月25日参照>>)

慶応四年(明治元年・1868年)5月2日に、新政府軍監・岩村精一郎らと、長岡藩・家老の河井継之助(かわいつぎのすけ)との間で行われた小千谷(おぢや)会談が決裂した両者は、5月13日、新政府軍の最前線である朝日山で争奪戦を展開しました(5月13日参照>>)

信濃川を挟んで西と東・・・東岸から川を渡って新政府軍の小千谷本営を突こうとする継之助と、西岸から川を渡って長岡城へと狙いを定める総督府参謀・山県有朋(やまがたありとも)・・・ともに5月19日に決行する事になっていたこの作戦は、先に決行した新政府軍の勝利となり、長岡城は陥落します(5月19日参照>>)

拠点を失った継之助ら奥羽越列藩同盟軍は、長岡城を奪回すべく、まずはその北に位置する今町を奪還(6月1日参照>>)しますが、この時の敗戦に危機感を抱いた有朋は、しきりに、中央へ援軍を要請します。

また、要請を受け取った中央でも、この北越でモタモタしている事が、外国の公使館にも伝わる事態となり、このままでは新政府の威信にも関わるとして、新たに嘉彰親王(よしあきらしんのう)を総督に任命し、西園寺公望(さいおんじきんもち)を総督府参謀として派遣し、北越方面の新政府軍は総勢3万の大増員となりました。

・・・で、6月1日の今町奪回から、両軍が対峙したまま、しばらく膠着状態が続いていましたが、ここに来て、大総督府参謀の西郷隆盛自らが、薩摩藩兵を率いて出征するとのニュースを聞きつけた継之助は、薩摩の精鋭が到着する前に、長岡城を奪回すべく、起死回生の作戦の決行を決意します。

それは、天然の要害と呼ばれていた八丁沖(はっちょうおき・八町沖)という広い沼地の部分を越えての攻撃作戦でした。

Hokuetunagaokadakkaicc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

長岡城の北東に広がるその場所は、昔から魔物が棲む場所と恐れられ、人を寄せつけない場所・・・足を取られ、身動きができなくなるような地帯でした。

長年、長岡城を本拠としてきた継之助も、おそらく、ここからは敵は来ないだろうと考える場所・・・だからこそ、ここからの攻撃に賭けたのです。

もちろん、そんな難しい場所を、しかも、夜の闇の中に進むわけですので、その準備は正確に整えておかねばなりません。

「山」「川」ならぬ、「誰か」と問えば「雲」と答える合言葉や、暗闇での目印となる提灯は、必ず「時計周りに回す」、全員が白木綿の腹巻を着用するなどなど、周到なまでのルールを決め、いよいよ、作戦決行の慶応四年(明治元年・1868年)7月24日を迎えました。

午後6時半・・・「敵は多勢なれど、同じ死ぬなら城下で死のう!」との継之助の号令に士気も最高潮の690名は、いざ、八丁沖へと進軍します。

泥水に浸かりながら、青竹を杖代わりに・・・八丁沖北側の百束という場所から沼に侵入した一行は、翌・25日午前4時頃、対岸の富島に上陸します。

この富島上陸の際に最初の戦闘があり、前哨部隊の鬼頭熊次郎(きとうくまじろう)が戦死するという悲劇はあったものの、実は、ここで、すでに継之助らにとってラッキーな出来事が起こっていたのです。

それは、この時の新政府軍・・・この25日に、かの今町へ総攻撃をかける予定を組んでおり、長岡の新政府軍本営では、その前日=つまり24日の夜に、「戦勝の前祝」と称する宴会を開いていて、ほとんどの者がベロンベロン・・・未だ、爆睡中だったのです。

そこへ、継之助の号令勇ましく、怒涛のごとくなだれ込む長岡藩兵!

まさに、ふいを突かれた新政府軍は、ただただ逃げるばかり・・・かの有朋は南方の妙見へ撤退し、公望は信濃川を渡って西岸の関原までの逃走を余儀なくされました。

見事、戦いは奥羽越列藩同盟軍の大勝利となり、当然、長岡城の奪回にも成功した事になります。

この時、約2ヶ月ぶりに、古巣・長岡城へと入城する泥まみれの兵士たちに、沿道に集まった城下の人々は、水桶を差し出して歓迎したのだとか・・・

大手通には酒樽が用意され、この日の夜は、まるで祭りのように歓喜に沸いたという事です。

しかし、そんな喜びもつかの間・・・当然の事ながら、大軍を動員した新政府軍が、このまま退き下がるはずはありません。

・・・、再び、長岡城をめぐっての戦いが勃発する事となりますが、そのお話は、やはり「その日」7月29日のページでどうぞ>>
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