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2009年7月10日 (金)

中国の覇権をめぐって~幻の毛利と尼子の縁組

 

大永五年(1525年)7月10日、尼子経久出雲(いずも・島根県)伯耆(ほうき・鳥取県)の兵を率いて、毛利元就・吉川興経・大内義興を、安芸銀山に攻めました

・・・・・・・・・・

・・・という事で、本日は、中国地方の覇権をめぐって争った、この尼子氏&毛利氏&吉川氏&大内氏の関係について・・・。
 

ご存知のように、後に、中国一帯にその勢力を誇るのは、毛利元就(もとなり)・その人なわけですが、この大永五年(1525年)の頃は、毛利氏の家督を継いで、まだ2年目の27歳・・・当時の力関係はまったく違っていました。

周防(すおう・山口県)を本拠地とした大内義興(よしおき)大内氏は、鎌倉時代から続く正真正銘の守護大名。

そして、出雲を本拠地とする尼子経久(つねひさ)(11月13日参照>>)の尼子氏は、守護の京極氏(8月7日参照>>)を、守護代の家系であった経久自らが倒し、1代で中国・11ヵ国を支配する大名にのし上がったばかり・・・

互いの領地拡大を狙って、常に争うこの二つの大大名の下で、元就の毛利氏と、吉川興経(きっかわおきつね)吉川氏は、その時々の形勢によって、尼子についたり、大内についたり・・・両者に挟まれた安芸(広島県)国人衆の一つだったのです。

そもそも、永正三年(1506年)に、元就の父・弘元(ひろもと)が病死した時、家督を継ぐべく長男が、まだ15歳と歳若く、しかも、元服もまだだった事から、不安をつのらせた毛利家中は、すぐに頼れる名門・大内氏への服従を表明し、義興の傘下となります。

その翌年に元服して毛利を継いだのが毛利興元(おきもと)・・・元就のお兄さんです。

しかし、この興元は、そのわずか5年後、24歳の若さで亡くなってしまい、その後を継いだのは、わずか2歳の興元の長男・幸松丸(こうまつまる)・・・でした。

・・・で、今日、イチオシでご紹介したいのが、ちょうど、その頃出した物であろうと推定される尼子経久の書状・・・

宛先は、吉川経基(つねもと)・・・先ほど出てきた吉川興経の曽祖父にあたる人物です。

その内容は・・・
「お手紙はすべて拝見させていただきました。
せっかく、オススメいただいた毛利との縁談ですが、ウチは毛利とは、距離が離れていますし、自分は無力で、お役に立てそうもありませんので、辞退したいのですが・・・

確かに、ウチには年頃の孫娘が二人ほどいますが、どちらも、すでに決まった相手がおり、他に適当な娘もいません。

これは、大方(妻)も言ったと思いますが、ただ、それだけで、それ以外に深い理由はありませんが、度々、縁談のお話を持ってきてくださるので、僕のほうからも申し上げておきます」

・・・で、この妻というのは、経久の正室となっていた経基の娘・・・

つまり、吉川経基が娘婿である尼子経久に、「あんたの娘(もしくは孫娘)を毛利と結婚させたらどうや?」と言ってくるのを、嫁が断っても、さらに勧めてくるので、経久自身が断りの手紙を書いているのです。

この吉川経基の吉川氏は、ご存知のように、後に、元就の次男が、興経の養子に入って吉川元春と名乗る事でもおわかりのように、結果的に毛利の一門に取り込まれてしまうわけですが(9月27日参照>>)、この時点では、経基の孫(つまり興経の父)元経(もとつね)妹が元就へと嫁ぎ、逆に、元就の妹が元経に嫁いでいる(お互いの妹を嫁にしている)という密接な関係・・・

ああ・・・ややこしい!

とにかく、上り調子の尼子氏が、ここんとこ、度々、安芸や備中(岡山県)に進攻するもんだから、わが領地を守らんとしる安芸一帯の国人衆は、大内の傘下へと傾きつつあったこの頃。

自分の息子の嫁の実家であり、娘の嫁ぎ先でもある毛利氏を、やはり、自分の娘の嫁ぎ先である尼子氏と結びつけるために、経基さんが、尼子&毛利・両家の縁談を勧めていたって事です。

残念ながら、上記の返信の通り、経久が断ったので、この縁談が成立する事はありませんでしたが、その甲斐あってか、毛利氏の家督を継いでから、わずか7年後にかの幸松丸が9歳という幼さで亡くなり、いよいよ元就が毛利氏の家督を継ぐ頃には、毛利は、尼子の傘下となります。

しかし、その元就の家督相続の時、対抗馬として担ぎ出された異母弟・相合元綱(あいおうもとつな)を、ウラで後押ししていたのが尼子氏だったと、後に知った元就は、大永五年(1525年)1月に、また、大内傘下へと戻ってしまい、冒頭の大永五年(1525年)7月10日尼子経久の出陣となり、この争いは、やがて、元就が頭角をを表す安芸郡山城の攻防戦(1月13日参照>>)へとつながっていく事になります。

それにしても、今回の尼子経久の手紙・・・

結果的に、実現しなかった縁談ですが、年齢から考えて、吉川経基が勧めた相手は、おそらく元就・・・もし、この縁談が成立して、尼子氏の姫が元就のもとに嫁いでいたら、その後の中国地方の覇権はどうなっていたんでしょうね

ひょっとしたら、尼子&毛利の強力タッグで、まったく違った歴史になっていたかも知れません。

しかし、現実には、ご存知のように、ここで、尼子氏と手を切った元就は、もう、2度と尼子の傘下となる事はなく、最終的に、月山富田城(11月28日参照>>)上月城(7月3日参照>>)二度に渡って、尼子氏は滅亡の憂き目に遭う事になるわけです。
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