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2009年7月18日 (土)

父に愛され、母に抹殺された鎌倉2代将軍・源頼家

 

元久元年(1204年)7月18日、伊豆・修善寺に幽閉されていた鎌倉幕府第2代将軍・源頼家が入浴中に謀殺されました

・・・・・・・・・・・

栄華を誇った平家一門を倒し、鎌倉幕府という武士政権を誕生させた、ご存知・源頼朝(よりとも)・・・

そんな頼朝と、妻・北条政子の間に、長男の頼家(よりいえ)が誕生したのは、頼朝が富士川にて平家を破った(10月20日参照>>)2年後・・・寿永元年(1182年)の事でした。

石橋山の敗戦から再起を誓って、そして富士川で勝利して・・・打倒平家と、その後の源氏の世を夢見る頼朝にとって、自らの後継者の誕生は、ことのほか嬉しかったようです。

やがて、成長した頼家は、父の期待を裏切る事なく、りっぱな体格の少年に育ち、父の言う事をよく聞き、武芸にも勉学にも励む素直な性格でした。

頼家が、富士の裾野で開かれた狩りに、大人に混じって参加した12歳の時、初めての狩りにも関わらず、見事、鹿を射止めた事があったのですが、大いに喜んだ頼朝は、すぐに祝宴を開き、さらに、鎌倉にいた政子のもとにルンルンの手紙を出しています。

ところが、それを受け取った政子は、「武士なら当たり前」と、意外と冷静・・・どうやら、このお父さんとお母さん、子育てに対する信念が、ちょっとばかり違ったようではあります。

そんな両親の間で、なかなかの武将に育った頼家でしたが、悲しいかな、次期将軍への完璧なバトンタッチの土壌を設定する前に、父・頼朝は亡くなってしまいます(12月27日参照>>)

その頼朝の後を継いで、18歳で二代目将軍となった頼家・・・

そもそも、流人の身であった頼朝が、今までに無い武家政権を造れた背景には、ためにならないと思えば身内でもバッサリと排除する一方で、有力だと思える武将は御家人として重用し、その賞罰には私情を挟む事なく、絶妙なバランスで配下の者を管理していた事があったわけですが、どうやら、政子をはじめ、頼朝と苦楽をともにした御家人たちは、頼家には、未だそんな幕府を統率する能力がないと判断したようです。

それが、合議制のスタート・・・政子の父の北条時政をはじめとする御家人・13人による合議制で、幕府の重要事項の決裁をするというものでした(4月12日参照>>)

先進的なシステムではありますが、当然の事ながら、これでは、将軍のリーダーシップを発揮する事はできません。

それこそ、頼家が、父の期待を裏切るようなボンクラな武将でいてくれたら、そのままうまくいったのかも知れませんが、なまじ、なかなかの器量を持ち合わせていたぶん、その不満はつのります。

さらに、その合議制は、将軍ではない力のある御家人の意見jに左右される状況となってきます。

そんな時に力を持ち始めたのが、比企能員(ひきよしかず)です。

彼は、頼朝の乳母の養子で、妻は頼家の乳母、さらに、娘・若狭局頼家の寵愛を一身に受け一幡(いちまん)という息子ももうけています。

これは、嫁・政子の実家として御家人トップの座にいた時政と息子・義時(政子の弟)にとっては、由々しき問題です。

そんなこんなの建仁三年(1203年)、頼家が病にかかり、一時重体となった事をきっかけに、時政らが動き始めます。

それは、総守護職と関東28カ国の地頭職を頼家の長男・一幡に、関西38カ国を頼家の弟・千幡(せんまん)に相続させようというもの・・・

そうです、現在、重体にある頼家に、このまま、もしもの事があると、ずべてが、その息子である一幡に行ってしまいますから、少しでも、それを阻止しようと企んだわけです。

・・・で、この弟の千幡・・・頼家の弟という事は、そう、母親は政子その人ですから、何とか、半分だけでも、北条が外戚として、その勢力を維持できる事になります。

しかし、当然の事ながら、能員側は不満です。

そこで、若狭局を通じて、病床に頼家に、「北条は、千幡を担ぎ出して、将軍職を奪おうとしてる」とチクリ・・・その話を聞いた頼家は激怒!

すぐさま能員を呼び寄せて、北条討伐の密議を交わしますが、その様子を見ていた政子が、今度は、父・時政にチクリ・・・

これを聞いた時政は、「将軍が病気なのを良い事に、その命令だと偽って叛逆を企てている」として、能員をおびき出し、騙まし討ちに・・・

異変を知った比企一族は、とりあえず一幡を奉じて小御所に立て籠もりますが、そこを、和田義盛畠山重忠といった名だたる御家人が包囲・・・激戦の末、比企氏は滅亡し、一幡も、わずか6歳の命を散らしました。(9月2日参照>>)

その日の夜から翌々日にかけて、能員の近臣たちは、ことごとく幽閉や流罪となり、その後、息子・一幡の死を悲しみながらも、病から回復した頼家は、母・政子から剃髪を勧められ、心ならずも剃髪して将軍職を弟の千幡=実朝(さねとも)に譲り、その身は、伊豆修善寺へ護送され、幽閉生活を送る事となりました。

しかし、翌年の元久元年(1204年)7月18日、結局、頼家は、北条の放った刺客によって暗殺されてしまうのです。

享年22歳・・・父の期待を一身に受けて育った若き将軍は、母の手によって、その生涯を閉じました。

その後、未だ12歳の3代将軍・実朝を補佐するため、政所別当となった北条時政は、この後、北条家が代々引き継いでいく事になる鎌倉幕府・執権の座を手に入れる事となります。
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コメント

 こんにちは

 源頼家さんて北条政子さんの本当の子供さんですよね。
 でも政子さんには実の子供さんより実家の方が大事なようにも見えます。
 戦国武将の奥方ってそういうところがあったのでしょうか。

投稿: おみや | 2009年7月18日 (土) 15時19分

ものすごく懐かしい記憶がよみがえりました。大河ドラマたしか「草燃える」で岩下志麻演じる政子と郷ひろみ演じる頼家の緊迫したシーン、ヒロミ・ゴーが「は、母上は私を殺そうと・・・」と嗚咽し、それを上からやはり涙を浮かべ見下ろす政子(岩下志麻)。いまだに記憶がよみがえる位郷ひろみの演技がすごかったなぁ・・・(私はやっぱりこの頃の大河が好き!)この頃は身内同士腹の探り合い、殺し合いが当たり前とはいえ、わが子を亡き者にしようとする母も苦しかったのでは。そのへんの心情が岩下志麻の鬼気迫る表情によく出てたような気がします。

投稿: Hiromin | 2009年7月18日 (土) 20時14分

おみやさん、こんばんは~

あえて、政子さんの味方をさせていただくなら、実家というよりは、鎌倉幕府という組織を守るためだったような気がします。

本文にも書きましたが、流人だった頼朝に、心底からの味方と言える武将はほとんどいなかったのではないかと思います。

政子は、この後、行き過ぎた行動をとる父・時政を、弟・義時といっしょになって、執権の座から引きずり下ろすという事もやってますので、個々の武将の集合体である組織に、同族会社のような私情を挟むと、たちまちのうちに組織が崩れると思ったのかも知れません。

もちろん、かなり政子寄りの、政子を主人公にしたドラマか小説のような見かたですが・・・

投稿: 茶々 | 2009年7月19日 (日) 01時39分

Hirominさん、こんばんは~

溺愛気味の頼朝と比べると、冷静な感じの政子さんですが、我が子がかわいくない母親なんていないと思います。

上記のおみやさんへのコメントにも書かせていただきましたが、もはや、自分個人の持ち物ではない大きな組織となった鎌倉幕府の統率をとるためには、自分個人の心は封印しなければ・・・という感じではなかったでしょうか?

おっしゃる通り、大河ドラマには、キレイ事だけではない、こういう描写がほしいですね~

投稿: 茶々 | 2009年7月19日 (日) 01時51分

頼朝さんも暗殺説がありますね。

投稿: やぶひび | 2013年1月28日 (月) 00時06分

やぶひびさん、こんばんは~

そうですね。
糖尿病の悪化の体調不良で落馬と言われていますが、暗殺説もありますね。

投稿: 茶々 | 2013年1月28日 (月) 03時00分

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