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2009年7月23日 (木)

かりそめの征夷大将軍~護良親王の最期

 

建武二年(1335年)7月23日、鎌倉に幽閉中の護良親王を足利尊氏の弟・直義が暗殺しました。

・・・・・・・・・

大搭宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう・もりながしんのう)は、あの建武の新政(6月6日参照>>)を行った第96代・後醍醐(ごだいご)天皇(8月16日参照>>)の皇子です。

はじめは比叡山延暦寺で僧となり尊雲法親王(ほっしんのう)と名乗って天台座主(ざす)となっていましたが、父・後醍醐天皇が打倒・鎌倉幕府の動きを見せ始めると、還俗(僧となって出家した人が一般人に戻る事)して参戦します。

・・・というより、もともと気性の激しかった護良親王は、近畿地方の武士を集めて、むしろ積極的に参加し、鎌倉幕府に目をつけられて自由行動ができない父に代わって、「ともに戦おう!」令旨(天皇家の命令)を連発し、各地でゲリラ戦を展開したりしました(2月1日参照>>)

やがて、後醍醐天皇に協力した足利尊氏楠木正成新田義貞佐々木道誉(どうよ)らの力もあって鎌倉幕府は滅亡(5月22日参照>>)、政権を握って建武の新政を行う父のもと、護良親王は征夷大将軍に任命されます。

この征夷大将軍の任命に関しては、もともと、同時に鎮守府将軍に任命された尊氏にライバル心を燃やしていた護良親王自身が、拒否る後醍醐天皇に要求して強引に獲得したというものと、鎌倉幕府のような武家政権が誕生する事を恐れた後醍醐天皇のほうが、尊氏に対抗させるため息子を征夷大将軍にしたという2つの説があります。

前者の場合は、すでに鎌倉幕府討伐の時点で、後醍醐天皇の預かり知らぬところで護良親王が令旨を連発したところから、すでにこの時、親子関係に亀裂が生じていたとも言われますが、前者と後者に共通しているのは、やはり、尊氏・・・いや、源氏という武家に対する警戒や対抗意識があったというところでしょう。

しかし、いくら武芸にすぐれ、自らが先頭に立ってゲリラ戦をこなしてきたとは言え、護良親王は天皇の息子・・・ちょっと腕に覚えのあるヤンチャなぼんぼんが張り切ったところで、プロの戦闘集団の武士を統率できるはずもなく、征夷大将軍は名ばかりのものとなり、結局、数ヶ月後には解任されてしまいます。

こうなると護良親王も、自らの周囲に武士を集める有効な手段がなくなり、もともと取り巻いていた武士からも見放され、やがては、数少ない手持ちの武士たちとともに、辻斬りをやったりのテロ行為に走ります。

・・・で、結局、後醍醐天皇の命により、「皇位簒奪(さんだつ・天皇と血縁関係にある者が皇位を奪取する事)の罪で、建武元年(1334年)10月に、参内したところを捕らえられて鎌倉に幽閉・・・尊氏の弟・足利直義(ただよし)監視下に置かれます。

しかし、その翌年、鎌倉幕府・最後の執権だった北条高時の遺児・北条高行を担いでの諏訪頼重(すわよりしげ)らの中先代の乱(なかせんだいのらん)が勃発し、北条の幕府再興軍に親王を救出されて奉じられる事を恐れた直義によって、建武二年(1335年)7月23日護良親王は幽閉先で暗殺されてしまうのです。

この時、護良親王は・・・
「尊氏より、父のほうが、ずっとうらめしい」
と、言ったとか、言わなかったとか・・・

そもそもは、護良親王に皇位簒奪の意志が本当にあったのかどうかも怪しいところで、なにやら、父・後醍醐天皇と、ライバル・尊氏という海千山千の猛者たちの抗争に巻き込まれて翻弄された感の拭えないお気の毒な末路です。

ところで、ご存知のように、征夷大将軍と言えば、もともとは、古代律令国家が蝦夷(えぞ・東北より北の地方)を征討するための司令官に与えた役職・・・古くは、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)(11月5日参照>>)なんかが有名ですが、畿内の律令国家の東北経営が一段落した弘仁年間(810年~824年)頃からは中断されていました。

やがて、ご存知のように、建久三年(1192年)に源頼朝が、この役職に任命されてからは、室町幕府の足利、江戸幕府の徳川と、中世・近世を通じて武家の棟梁あるいは幕府の長が、この征夷大将(略して将軍)と呼ばれる事になるのですが、すでに書かせていただいているように、あの木曽(源)義仲も、源平の戦いの真っ只中で、一時、強引に征夷大将軍を獲得しています(1月11日参照>>)

ただし、上記の通り、義仲の場合は鎌倉幕府という最初の武士政権が誕生する以前・・・それを考えると、源頼朝以降から明治維新まで、武家の長という意味で征夷大将軍に任命された中で、護良親王は、唯一の幕府を持たない征夷大将軍という事になります。

護良親王・・・享年28歳、
武門の棟梁を夢見て征夷大将軍となったマッスル皇子にとっては、まだまだ夢の途中・・・

はがゆいばかりの最期だった事でしょう。
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コメント

だけど、森良はそれなりに親孝行です。そうでないなら討幕で、活躍しないし、父の政治を守ろうとして、たかうじを倒そうとしたのだから。

投稿: ゆうと | 2012年3月15日 (木) 23時50分

ゆうとさん、こんばんは~

この頃は、未だ後醍醐天皇は尊氏ラブでしたから、息子さんの思いも空回りしてたのかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 00時22分

\(;゚∇゚)/
護良はいい男なんっす。
尊氏ラブなお父さんを
最後まで守ろうとしたんす。
民に近い皇子だったんす。

投稿: いとし | 2014年1月23日 (木) 15時19分

いとしさん、こんばんは~

そうですね。
おっしゃる通り、護良は一所懸命な人だったと思います。

投稿: 茶々 | 2014年1月23日 (木) 16時26分

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