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2009年7月22日 (水)

関ヶ原に向けて~直江兼続・越後一揆を扇動

 

慶長五年(1600年)7月22日、徳川家康会津征伐を目前に、直江兼続が弟・大国実頼に、越後一揆を扇動するよう命令を発しました。

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昨日に引き続いての関ヶ原関連って事で、とりあえず簡単に流れを整理しますと・・・

そもそもは、豊臣秀吉亡き後、合戦での活躍でのし上がって来た加藤清正武闘派と、内政の功績で出世して来た石田三成文治派との対立(3月4日参照>>)につけ込んで、天下の実権を握ろうとする徳川家康が、会津の上杉景勝(かげかつ)上洛を要請・・・

それを、景勝が拒否し(4月1日参照>>)、さらに、上杉家臣の直江兼続(かねつぐ)が、あの「直江状」を突きつけてダメ押し(4月14日参照>>)をした事で、家康は「会津に謀反の疑いあり」として会津征伐を決意し、軍勢ととも伏見城を出陣・・・

・・・で、家康が畿内を留守にした間に、三成が行動を開始します。

7月15日には西軍の大将をお願いした毛利輝元を大坂城へ招き入れた後、未だ会津征伐には向かっていない諸将の東下を阻止すると同時に、会津へ向かった諸将の妻子を大坂城へと入城させ人質とします。

7月17日には、家康とともに会津に向かった細川忠興(ただおき)の妻・玉子(ガラシャ)が、その大坂城への入城を拒否して自害する(7月17日参照>>)という悲劇もありながら、7月19日には家康が留守となった伏見城を攻撃(7月19日参照>>)し、昨日、7月21日には、その玉子の舅である細川幽斎(ゆうさい)の籠る田辺城への攻撃を開始します(2009年7月21日参照>>)

・・・で、昨日も書かせていただいたように、この田辺城攻撃を同じ日に、会津征伐に向かう途中で三成の書状を受け取った真田昌幸信幸(信之)父子が、東西別々の軍へと袂を分かつ(2008年7月21日参照>>)わけですが・・・(その他の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でどうぞ>>)

この時点では、家康は、まだ会津に向けて進攻中・・・家康としては、本当に上杉を討とうとしていたのか?はたまた、畿内を留守にして三成に行動を起させようとしたのか?

その真意のほどは、本人のみぞ知るところですが、まだ、ここでは、畿内の様子は家康には届かず・・・7月21日に江戸城を発った家康以下会津征伐軍は、さらに北東の小山(栃木県)へと向かい、7月24日に小山に到着し、ここで、三成が伏見城を攻撃した事を知り、翌・25日に、あの有名な「小山評定」を開くわけで、その評定の場で、ともに会津に向かっていた諸将に、「このまま東軍につくのか?大坂へ戻って西軍につくのか?」を問い、自らも、会津征伐を中止して、西へのUターンを表明するのです(7月25日参照>>)

つまり、本日7月22日の時点では、ポーズかも知れない疑いはあるものの、まだ、家康は会津征伐をするために北上し、上杉も、家康が来れば迎え撃つ態勢であったわけです。

かくして慶長五年(1600年)7月22日、ご存知、今年の大河の主役・兼続は、弟である大国実頼(おおくにさねより)を通じて、家臣を越後に派遣し、上杉の息のかかった昔馴染みの越後の土豪(どごう・半士半農の地侍)たちに声をかけ、越後の領民たちを一斉蜂起させて、一揆を扇動するように命令を出したのです。

これは、現在、越後を治めている堀秀治(ほりひではる)が、家康寄りである事を受けて、その行動を封じ込めるためのもので、すでに、三成も承諾済み・・・7月14日付けの兼続宛ての三成の書状には、「越後はもともと上杉の所領なので、秀頼公の意向により、上杉に返還する」と、兼続の計画を、むしろ喜んでる雰囲気です。

・・・と、上杉と言えば、ついつい越後を思い浮かべてしまいますが、実は慶長三年(1598年)の10月1日、秀吉からいきなり、会津への加増転封を命じられ、越後から会津へお引越しをしています。

これは、それまで会津を治めていた蒲生氏郷(がもううじさと)が亡くなった事によって、会津の蒲生家が宇都宮へ引越し、その会津に上杉が・・・そして開いた越後に堀が・・・って事なのですが(1月10日参照>>)、実は、このお引越しの際に、すでに、序章は始まっていたのです。

普通、大名の国替えの場合、領民から徴収する年貢米は、前半の半年分のみを徴収し、残りの半年分は、新たにやってくる大名のために残しておくのが常識だったのです。

もちろん、堀秀治はそのつもりで、自分のところの下半期分を新領主に引き継いで越後にやってきましたが、いざ、年貢を徴収しようとすると・・・「すでに渡したので、もう、ありません」と・・・

つまり、上杉が一年分を先に徴収し、それを持ったまま、会津に引っ越してしまっていのです。

当然の事ながら、半年分の年貢の返還を、上杉に求める秀治・・・

しかし、兼続は・・・
「そんなん知らんがな、蒲生も一年分持っていってるし、それをせーへんかったお前とこが悪いんちゃうん」と、秀治の要求を一蹴します。

しかたなく、秀治は、入国後すぐに検地を行い、寺社からは所領を没収し、農民には追加の増税を行います。

当然の事ながら、これで、寺社や農民からの反感を買う事になります。

しかも、その引越しの時、上杉は、秀吉から、家臣団はもちろん、奉公人にいたるすべての関係者を連れて引越しをするように命じられていましたが、越後に勢力を残しておきたい上杉は、これも、ちゃんとやってはおらず、未だ、上杉の息のかかった者が、多く越後に残ったままになっていたのです。

この両方が相まって、兼続が一声かければ、一揆爆発の状態が、すでに越後の中に存在していたのです。
・・・なかなかやりますねぇ~景勝&兼続さん。

かくして、この関ヶ原直前のタイミングで勃発した越後一揆・・・もちろん、会津からも密かに兵を派遣し、一揆勢は、上条城下倉城などを次々と攻略して堀勢を翻弄し、気勢をあげます。

しかし、一揆勢の盛り上がりとはうらはらに、ここで三成から兼続へ「堀は西軍についた」との知らせが入ります。

実は、秀治は、この時、越中へと兵を進め、家康側にたって奮闘する前田利長(8月6日参照>>)を攻撃する構えを見せていました。

三成からの知らせもあり、秀治の動向もあり、で、とにかく、ここで一揆の停止命令を出してしまった兼続でしたが、実は、これは秀治の謀略・・・利長を攻撃する構えは、本当に構えだけで、この秀治の策略に、見事、三成は騙されてしまったのです。

9月に入って、東軍での参戦を明白しにする秀治・・・慌てて兼続は、再び、一揆勢に立つように扇動しますが、もはや手遅れ・・・一揆は急速に勢いを失ってしまいました。

終ってみれば、ある程度、堀勢を苦しめはしたものの、その成果のワリには、越後領内を荒廃させ、国内に深い傷跡を残すだけの一揆となってしまいまいた。

はてさて、またもや、楽しみが増えましたね。

義を重んじる上杉がルール違反の年貢徴収、大事な越後の民に、自ら越後を焦土と化す一揆を扇動・・・果たして、心やさしき今年の妻夫木兼続さんは、ここらあたりをどのように演じてくれるのか?

「天地人」の原作を読んでいない私は、是非とも、大いにかっこよく描いていただきたいと、心待ちにしております。
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