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2009年7月21日 (火)

たった500人で関ヶ原の勝敗を左右?田辺城・攻防戦

慶長五年(1600年)7月21日、徳川家康とともに会津征伐へと向かい、そのまま東軍となった細川忠興の城・田辺城への攻撃が開始されました。

・・・・・・・・・・・

ご存知、天下分け目の関ヶ原の合戦・・・・(一連の流れは【関ヶ原の合戦の年表】でもどうぞ>>)

天下統一を果たした豊臣秀吉の死後(8月18日参照>>)、表面化する加藤清正武闘派の家臣たちと、石田三成文治派の家臣たちによる豊臣家内の対立・・・(3月4日参照>>)

そんな中、前田利家亡き後、豊臣配下の武将の中でトップの座となった徳川家康は、伏見城に居座り、徐々に、亡き秀吉の決めたルールを破りながら、天下人のごとく、会津上杉景勝(かげかつ)上洛を要請します。

しかし景勝が、この上洛要請を拒否した事で(4月1日参照>>)、家康は、「上杉は謀反を企てている」として会津征伐を開始・・・伏見城を後にして、一路、東へと軍を進めます。

この家康の留守を見計らって、三成は行動を開始します。

まずは、西軍の大将として、西国の雄・毛利輝元大坂城へと呼び(7月15日参照>>)、次ぎに、長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)など、会津へ向かわなかった西国の大名の東下を阻止・・・

さらに、家康とともに会津征伐へと向かった諸将の妻子の帰国を禁止し、大坂城に留めおこうとします。

これは、もちろん、家康とともにいる武将を西軍に味方させるための人質で、しかたなく大坂城に入る者もいましたが、当然の事ながら、この強引な人質作戦に抵抗する者も・・・

その中で、加藤清正や黒田如水(じょすい=官兵衛)父子の妻子などは、うまく脱出しますが、悲劇たっだのは、やはり、家康とともに会津へと向かっていた宮津城主・細川忠興(ただおき)の妻・玉子(洗礼名:ガラシャ)・・・

彼女が、大坂城への入城を拒否して自害した事で(7月17日参照>>)、結局、西軍は、この人質作戦を中止せざるをえなくなり、逆に諸将の反感を買う結果となってしまいました。

次ぎに、西軍は、東軍配下の諸将の城への攻撃を開始・・・まずは、家康の留守を守る伏見城・・・(7月19日参照>>)

この西軍の動きに、居城の宮津城(京都府)を捨て、田辺城へと移って守りを固めるのは、すでに嫁が死を選んだ忠興の父・細川幽斎(ゆうさい・藤孝・・・彼もまた、死を覚悟しての田辺城入城でした。

なんせ、領内に残る兵は、ごくわずか・・・領主の危機を聞いて駆けつけた農民や町民・僧侶たちを含めても、わずか500の軍勢で、田辺城を守らねばなりません。

一方の西軍は、一刻も早い畿内制圧を目標に、援軍を派遣・・・福知山城主・小野木重次(おのぎしげつぐ=重勝・公郷とも)を大将に、援軍を含む1万5000で田辺城を囲み慶長五年(1600年)7月21日攻撃を開始しました。

東方では、会津征伐を中止した家康が、従う諸将に、大坂で待つ妻子の事を告げ、「このまま家康の東軍につくか?大坂に戻って西軍にくみするのか?の選択を迫っていた頃・・・

ちなみに、西軍につく決意をした父・真田昌幸と弟・幸村(信繁)と袂を分かち、東軍につく決意をした兄・真田信幸(信之)父子の犬伏の別れ(2008年7月21日参照>>)も、同じ、この日でした。

・・・で、話を田辺城に戻しますが・・・

30倍もの数の兵に囲まれた風前の灯火の田辺城・・・もはや、「数日ももたずに落城するだろう」と、誰しもが思うところですが、これがなかなか踏ん張ります。

・・・というのも、籠城する細川側は、当然の事ながら、必死のパッチでの守り・・・なんせ幽斎自らが、死を覚悟しての籠城ですから・・・

しかし、一方の西軍の士気は、さほど高くはなかったのです。

それは、すでに戦いが開始されてまもなくの段階で、朝廷の干渉があったからなのです。

そうです・・・例の『古今伝授(こきんでんじゅ)です。

以前、幽斎さんのご命日のところで書かせていただいたので(8月20日参照>>)、少し内容がかぶりますが・・・この『古今伝授』・・・要するに、「古今和歌集を正しく読める奥儀を身に着けた人」という事なのですが、これが、現代人が思う以上に重要な人物だったわけです。

書面に写すとしても手書き、写真も録音機もビデオも無い時代ですから、こういった伝統ある歌集の解釈が、人から人へと口伝えされていくうちに、間違った解釈をしてしまう事を防ぐため、奥義をマスターした人から、直接その奥義を学び、教えた人が「こいつは完璧にマスターした」と判断した時点で、その生徒に『古今伝授』を授けるというシステムになっていたわけです。

幽斎は、この古今伝授を受けていましたから、彼がいなくなると正統が途絶えてしまう事になるのです。

時の後陽成(ごようぜい)天皇をはじめ、公家たちは、これが気にかかる・・・。

結局、そのために朝廷が介入した事によって、最初の数日間しか激しい戦闘は行われず、後は、ずっと膠着状態が続く事に・・・

7月27日には、後陽成天皇の弟・八条宮智仁親王(はちじょうのみやとしひとしんのう)(12月29日参照>>)が使いを出し、立て籠もる幽斎へ、開城するように説得します。

しかし、幽斎は逆に、その使者に手紙を1通・・・

そこには、
♪古(いにしへ)も 今もかはらぬ 世の中に
  心のたねを のこす言
(こと)の葉(は) 
の歌とともに、智仁親王に古今伝授を行った旨の「証明書」があったのです。

これで、幽斎の決死の覚悟を確認した天皇は、すぐに勅使(ちょくし・天皇の公式な使者)を派遣して、さらに、降伏&開城の説得を続けます。

この間の西軍は、天皇の介入におそれおおき事とひれ伏すばかり・・・攻撃なんてできるわけがありませんよね。

結局、ねばりにねばった幽斎が開城をしたのは、9月13日・・・あの関ヶ原の合戦の2日前まで頑張りました。

この2ヶ月近くの間、西軍は1万5000もの兵を、ただ田辺城を見守るだけに費やしてしまい、この時期の畿内の制圧に大きく影響したとされ、後にこれを知った家康は大いに喜んだと言います。

そういう意味では、幽斎の思惑は見事に成功・・・一般人を含めたたった500人で、関ヶ原の勝敗を左右する事になったわけですからね。

徳川の世で、細川が優遇されるのも、ここに端を発しているのかも知れません。

ただ・・・
自分の留守中に田辺城を攻撃された形の忠興は、そこに参戦した諸将を許す事ができなかったらしく、15日の関ヶ原本チャンの後、小野木重次の福知山城を攻める事になるのですが、そのお話は9月27日の【関ヶ原余波~細川忠興VS小野木重次の福知山城攻防戦】でどうぞ>>
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コメント

細川幽斎(剃髪前は、藤孝)については、その友人であった明智光秀と同様に優秀な武将であることは、以前、コメントをしましたが、幽斎の最大の武器は、したたかさと優れた教養に加えて、京都の情勢に詳しかったことにあると思います。もちろん、田辺城での籠城戦は、幽斎が武将としての本領を発揮したと言っても、過言ではないでしょう。幽斎は、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の視点から見れば、家臣として召し抱えたい人物だったのではないでしょうか。

投稿: トト | 2016年2月23日 (火) 13時19分

トトさん、こんばんは~

魅力的な武将だったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年2月24日 (水) 01時18分

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