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2009年7月16日 (木)

幕末の名君~薩摩藩主・島津斉彬の毒殺説

 

安政五年(1858年)7月16日、幕末期に登場した薩摩藩の名君とうたわれる第11代薩摩藩主・島津斉彬が亡くなりました

・・・・・・・・・・

昨年、大人気となった大河ドラマ・篤姫・・・ドラマの中で高橋英樹さんが演じていた、篤姫の養父となる人が島津斉彬(なりあきら)です。

後継者を巡る争いに勝利して、第11代薩摩藩主となった斉彬は、世界情勢にもくわしく、自らも洋学を学んでいて、薩摩藩には、積極的に西洋の技術を取り入れて、富国強兵・殖産興業政策を行いました。

嘉永五年(1852年)に、大砲鋳造のための反射炉を建設したのをはじめ、溶鉱炉ガラス工場・・・さらに、鍛冶場紡績所などなど、多くの工場を建設します。

安政四年(1857年)には、この工場の集合体を集成館と名付け、ここは、鉄砲などの軍用品から、お酒や生活用品、薬までが生産される東洋一の工場地帯となっていました。

篤姫が、嫁入り道具として持参した事で一躍有名となった薩摩切子(さつまきりこ)も、この集成館内のガラス工場で作られたものでした。

事実上、琉球を支配下に治めていた事で、刻々と変化する世界情勢も把握済みの斉彬は、鎖国を解いた今となっては、「外国と積極的に貿易し、果ては留学生を派遣して藩の近代化をはかり、諸外国と対抗できる力をつけなければならない」とも思っていたようです。

幕府より一歩先行く考えを持っていた・・・そんな斉彬でしたが、開国から四年後の安政五年(1858年)7月16日、にわかに体調を崩し、50歳で急死してしまったのです。

その日の軍事演習に参加した後、いきなり倒れたと言われていますが、軍事演習への参加は、この時が初めてではありませんし、むしろ、軍備の近代化も推し進めていた斉彬ですから、国元に滞在している時は、毎日のように軍事演習に参加し、時には、見学だけでなく、指揮もとっていたようですので、演習参加での疲れではなく、何かの病気にかかっていたものと思われます。

記録では、高熱や腹痛・下痢などの症状があり、一般的には、その死因はコレラだったと言われています。

もちろん、彼を診察した医師も、「コレラ」と診断していますし、おそらく、そうなんでしょう・・・が、やはりあります!毒殺説!

・・・というのも、この斉彬さんの死・・・あまりにも絶妙なタイミングで彼が亡くなってしまう事で、どうしても、人為的な疑いを持ってしまうのです。

確かに、世界に対抗できるレベルの軍事力をめざしていた彼でしたが、さすがに、最初は、その軍事力で幕府を倒そうなんて考えはなく、あくまで、現在の幕府内での、自分の発言権を強めて幕政改革を行おうと考えていました。

それが、養女・篤姫の13代将軍・徳川家定への輿入れであり、次期将軍に水戸家出身の一橋(徳川)慶喜を推す事でした。

以前は、この篤姫の輿入れは、その次期将軍を慶喜にするための大奥工作であったという説が有力でしたが、近年の研究では、この輿入れの話は、それ以前の嘉永年間の頃から、すでに打診があった事が確認されていて、次期将軍問題とは関係なく、あくまで、徳川家と島津家を結ぶ絆であり、島津が幕府内でより力を持つための婚礼であったようです。

ただ、篤姫の婚礼とは無関係であっても、斉彬が、次期将軍に慶喜を推していた事は事実で、それも、幕政改革の一部であったわけですが、ご存知のように、安政五年(1858年)4月、事態は急変します。

あれよあれよと言う間に彦根藩井伊直弼(なおすけ)大老となり、次期将軍は、紀州の慶福=後の徳川家茂(いえもち)に決定してしまいます。

これには、やはり、大奥が根っからの水戸嫌いであった事と、何より、家定自身が、慶喜を快く思っていなかったからという説が有力です。

なんせ、次期将軍を決定するのは、現将軍なのですからね。

結局、斉彬ら一橋派は完敗となったわけですが・・・

そうです・・・同じ意志を持つ人物を将軍にして幕政の改革を行おうとしていた事が、失敗に終ってしまったわけですから、かくなるうえは、現段階では、幕府の上をいく薩摩の武力を行使しての幕政改革も考えなくてはなりません。

斉彬がそう思い始めた頃、更なる出来事が起こります。

この7月6日、家定が亡くなってしまうのです。

もちろん、家定が亡くなったから、すぐに、篤姫の立場がどうこうなるわけではありませんが、徳川家と島津家を結ぶ絆としての役割には、影響があるはず・・・少なくとも、この先、幕府内での島津家の発言権が、さらに強まる事は望めません。

この時の斉彬は、勢力の巻き返しを図るため、兵を率いての上洛を考えていたと言われていて、あの西郷隆盛も、彼からの密命を受けて、その準備に奔走していたのだとか・・・

・・・で、このタイミングです。

このタイミングで、軍事演習中に体調を崩すのですから、やはり、なにやら疑いを持ちたくなってしまいますよね。

当然の事ながら、斉彬が考える兵を伴っての上洛は、幕府にとって快い事ではありませんから、とてつもない怒りを買う事になるかも知れません。

藩の中には、「そういった行動で幕府を刺激し、お取り潰しにでもなってしまったら大変だ!」と考える保守派も数多くいたと言います。

まして、斉彬と藩主の座を争った異母弟・久光も、まだまだ健在なのですから、彼が死んで、その後継者に困るという事もありません。

・・・とは、言え、やはり、毒殺説は、何の証拠もない憶測ではあります。

・・・が、後に維新の立役者となる薩摩が、この斉彬の死によって、少し停滞してしまった事は確かで、もし、本当に、斉彬の死が保守派の画策によるものであったのなら、少なくともこの時点では、彼らの思惑通りになってしまったわけです。

しかし、彼の幕政改革への思いは、薩摩隼人の心の内に、すでに芽吹いていたに違いありません。

斉彬の後を追って死のうとした西郷は命を拾い(11月6日参照>>)寺田屋で発起した九烈士は命を落とし(4月23日参照>>)・・・

されど、維新へのカウントダウンは、いずれリーダーシップを取る事になる薩摩藩士のもとで、着々と刻まれていく事になるのです。
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幕末・維新」カテゴリの記事

コメント

こんにちは、はじめまして。
私は大河ドラマのファンで篤姫も毎回夢中になって視聴していました。
斉彬の毒殺説、ありえそうですねー。
あれだけの名君、もし維新まで存命していればまた世情はまた違ったのでしょうか。
とても詳しい時代解説勉強になります。

投稿: まっちゃん | 2009年7月16日 (木) 13時02分

まっちゃんさん、こんばんは~

昨年の篤姫は、おもしろかったですね~
私も毎週見てました( ̄ー ̄)

歴史に「もしも」はありませんが、やはり、「もう少し長生きされていたら・・・」と、イロイロ想像してしまいますね。

投稿: 茶々 | 2009年7月16日 (木) 23時16分

斉彬さんにも毒殺~暗殺説があったとは知りませんでした。
私は、毒をもる やり方は徳川家の伝家の宝刀、専売特許、得意技、常套手段、奥の手、朝飯前、・ ・ ・ だと思っているのですが、それはさておき、幕末は、暗殺が多いですねぇ!。
竜馬さんについては いつも ‘維新を見ずして、云々’ と、その死 (暗殺) を悲劇的に言い伝えるものですが、斉彬さんも、もうちょっと生きていれば、という点で 同じ ですね。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月17日 (金) 10時55分

 こんにちは

 毒殺説は斉彬さんだけではなく、家定公にもありましたよね。
 篤姫さんは御主人を亡くされてからあまり時をおかずして養父である斉彬さんまで失ってしまったんですよね。本当にお気の毒です。
 でも家定公はもちろんのこと、この御身分の方だとお毒見役もついているであろうし、毒殺といっても簡単にはできないだろうと私などには思えるんですが、毒殺だとしたら、いったい、いつ、どのようにして毒を盛ったのか…?謎です。
 『そんなこと、知るか!?』と言われそうですが、indoor-mamaさんは何か『こうではないかしら?』と思っていらっしゃることがおありなのですか?

投稿: おみや | 2009年7月17日 (金) 16時22分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

幕末は、絶妙なタイミングで絶妙のキャラクターのかた登場して時代を引っ張っていきますが、そんな方々が志半ばで去っていかれるのは、本当にはがゆいですね~。

投稿: 茶々 | 2009年7月17日 (金) 17時41分

おみやさん、こんばんは~

確かに、家定公も毒殺説ありますね~
いつか「その日」に書かせていただこうと思ってるんですが・・・

>毒殺といっても簡単にはできないだろう・・・

そうですね~
なかなか難しいかも知れませんが、幕末の場合は、味方の中に敵がウジャウジャいたりしますから、殿様クラスの人は、常に油断できない状態だったかも知れませんね。

投稿: 茶々 | 2009年7月17日 (金) 17時46分

こんにちは、はじめまして。通りがかりで失礼します。
私の母方の先祖は、蘭学を学んだ後、斉彬の御殿医に任命され、斉彬公に仕えておりました。
斉彬公にはとても大切にして戴いていたそうですが、ある日突然急死したそうです。原因は毒殺。
彼を妬んだ漢方医によって毒殺されたとうちでは語り告がれています。
私はこの話を祖母から聞きました。
斉彬公の急死と何らかの関係があるかも知れません。
ご参考になればと思い、書かせて戴きました。

投稿: まぁる | 2011年7月22日 (金) 13時34分

まぁるさん、こんにちは~

やはり根強いですね…毒殺説。
タイミングがよすぎますからね~どうしても、

ありがとうございましたo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2011年7月22日 (金) 16時35分

幕末の頃は薩摩に限らず名君が揃っていたように思いますが、それぞれの立場の違いで藩の命運が分かれましたね。

実は私の亡き祖母は西郷隆盛の孫と言う人と面識がありました。昭和10年代の頃の話です。これは以前にも書いたかな?

投稿: えびすこ | 2018年1月16日 (火) 22時51分

えびすこさん、こんばんは~

そうですね~
情勢が刻一刻変わる時代だけに舵とり&立ち位置が難しかったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2018年1月17日 (水) 02時24分

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