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2009年7月14日 (火)

保元の乱に散った藤原頼長の悲しい末路

 

保元元年(1156年)7月14日、保元の乱に敗れた藤原頼長が、逃走先の奈良で死亡しました。

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藤原頼長(よりなが)・・・関白・藤原忠実(ただざね)を父に持ち、幼い頃から、その頭の良さはハンパなく、人は彼の事を「日本一の大学生」と呼び、そのうえ、男にまでモテモテのイケメン・・・

もはや、将来の大出世は約束されたようなもの・・・彼の人生のスタートは、こんな華やかな雰囲気でした。

忠実の次男として、保安元年(1120年)に生まれた頼長は、兄である忠通(ただみち)との年齢差が24歳・・・つまり、お父さんが、ずいぶんと高齢になってからガンバった子供であるため、もう、頼長の事がかわいくてかわいくて仕方がない!

やがて、成長した頼長は、子供がいなかった兄の養子となり、政治家の仲間入り・・・七光りだけでなく、マジメで頭も良く、努力家な彼は、右大臣を経て、左大臣にまで上りつめました。

一見、非のうちどころのない彼でしたが、そんな彼にも、欠点はあります。

それが、マジメで努力家・・・そう、本来は、長所であるはずのそんな部分でも、度が過ぎると、それは欠点となってしまうもの・・・

ある時、書庫を作る担当となった彼は、そうれはもう、見事なまでに蔵書を分類し、綿密な計算のもと、寸分の狂いもない完璧な書庫を作り上げましたが、そんな自分と同じ事を他人にも求めてしまうのです。

努力家な彼は、他人が努力しないと、本気で怒ります。
どれもこれも、完璧な仕上がりにならないと許せないのです。

それも、その怒り方が尋常じゃない・・・。

中には、公務に遅刻したために、自宅を燃やされてしまった人もいたくらい・・・

そんな彼を、人はいつしか「悪左府(あくさふ)と呼ぶようになり、やがて、同僚や後輩からは嫌われ、上司からの信頼もなくしていくのです。

ちょうどその頃に、兄・忠通に待望の男児が誕生する事となり、兄弟の間にも大きな溝が誕生してしまいます。

なんせ、そんな弟は、息子の出世の妨げになりますからね。

しかし、それでも、息子へのかわいさがおさまらない・・・いや、逆に、こんなにマジメで優秀なのにも関わらず、他人からどうこう言われてしまう息子だからこそ、余計にかわいいのかもかも知れません。

父・忠実の頼長への溺愛が、ますますエスカレートしていくのです。

忠実は、関白の座を頼長に譲るように、忠通に働きかけますが、当然、断られます。

すると、今度は、鳥羽上皇(第74代天皇)に働きかけて、関白に順ずる「内覧の宣旨(ないらんのせんじ)を与えてもらい、さらに、藤原家の氏長者(うじのちょうじゃ)の権利を、忠通から取り上げて、これも頼長のものにしてしまいます。

こうして、鳥羽上皇にも、時の天皇である第76代・近衛天皇にも、うっとおしがられる頼長でしたが、その近衛天皇が若干17歳亡くなり、弟の第77代・後白河天皇が即位すると、その対立は決定的となります。

頼長は、後白河天皇からの「内覧の宣旨」を貰えなかったのです。

これには、上記の行動にブチ切れた忠通が、「近衛天皇の死は、頼長の呪いによるもの」という話を、後白河天皇にチクッた事も影響していました。

政界の中央の座から、転がり落ちてしまった頼長・・・こうなったら、力ずくでも、兄を失脚させて、自分が、その後釜に座ろうと考えます。

そんな頼長が目をつけたのが、自分と同じく、表舞台から引きずり下ろされた人物・・・後白河天皇の兄で、第75代の天皇だった崇徳(すとく)上皇(8月26日参照>>)です。

やがて、保元元年(1156年)7月2日、鳥羽上皇が亡くなった事をきっかけに、その戦いは幕を開けます(7月2日参照>>)

後白河(弟)VS崇徳(兄)の天皇家と、
  忠通(兄)VS頼長(弟)の摂関家の争いに、

源義朝(子)VS源為義(父)
平清盛(甥)VS平忠正(叔父)と、それぞれの味方についた武士を巻き込んだ保元の乱(7月11日参照>>)です。

ご存知のように、この保元の乱は、わずか4時間ほどの戦いで後白河天皇側(上記の紺色グループ)の勝利に終るわけですが、その勝敗を分けた最も大きな要因は、フットワークの軽さ・・・

つまり、いち早く仕掛けたほうが勝ったわけですが、この時、父・為義(ためよし)とともに、崇徳+頼長側についていた源為朝(みなもとのためとも)は、この乱の前夜に、敵に夜討ちをかける事を提案(3月6日参照>>)しますが、あっさりと却下・・・ところが、その夜、逆に敵から夜討ちをかけられ、彼らは、敗れてしまうのです。

この為朝の夜討ちの提案を却下したのが、頼長だと言われています。

そう、ここにきても、まだ、彼は、マジメな努力家・・・「天皇VS上皇という、由緒正しき人同士の戦いで、夜討ちなんて姑息なマネができるか!」というのが、彼の考えだったのです。

しかし、結局は、その夜討ちをかけられて敗走する彼ら・・・逃げる途中で、首に矢を受けた頼長は、重傷を負いながらも奈良まで逃れます。

実は、この奈良には、父・忠実がいたのです。

大量の出血を目の当たりにして、もはや死を悟った頼長・・・

その最後の望みは、最愛の父に会う事・・・しかし、最愛の父は、この対面を拒みます。

幼い頃から、その才能を開花させ、エリートの道を歩み続けるはずだった頼長・・・父の愛と期待を一身に受け、走り続けた最後の最後に、その父に拒まれた心境はいかばかりであったでしょうか。

かくして、保元元年(1156年)7月14日、失意のまま、その傷が悪化した頼長は、潜伏先で37歳の生涯を閉じたのです。

しかし、彼の悲しみは、ここで終わりませんでした。

一旦、埋葬されていた彼の遺体は、「本当に頼長が死んだのかどうかを確認する」として、役人によって掘りおこされるのですが、当然の事ながら、すでに遺体は白骨化し、誰なのかは確認できない状態・・・。

しかも、その遺体が確認できないとわかった役人は、さっさと立ち去ってしまう・・・つまり、その遺体は埋め戻される事なく、そのまま放置されてしまったというのです。

乱を起こしたとは言え、あまりに悲しい末路・・・

確かに、戦いとは、常に無情なものではありますが、せめて、亡くなった以上は、敵にも敬意を現すという基本は守っていただきたいです。
 

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コメント

本当に悲惨ですね。
謀反 というトガをかけられた高貴な人達には、皆 恨みから化けて出てきても、そりゃあムリも無い ~ ~ と、思うものがあります。
同時代を生きた人達にすれば、恐くて堪らないでしょうね。
土を掘り起こして、ちゃんと見届けなければ不安、でも、そのガイコツを見たら恐怖心が爆発・・・、逃げ散った人達は、その後はきっと、ずっと生きた心地を失ったままになってしまったのではないでしょうか。。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年7月14日 (火) 15時35分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

そうですね~

忠通の息子は、祖父にあたる忠実の怨霊に悩まされている事を、その日記に書き残しているようなので、やっぱ、怖かったんでしょうね~

投稿: indoor-mama | 2009年7月14日 (火) 18時38分

保元の乱って関わった人たちそれぞれの関係が覚えきれなくてそのまんまになってたけど、今日はすっきりとよくわかりました。ありがとうございます。いつの時代もリーダーになる人はカチンカチンのまじめ人間だけでなく、ある程度ゆとりを持って周りを見渡せる人、できれば自然に人を惹きつけられる人望ある人じゃなきゃうまくいかないんでしょうねぇ・・・頼長さんの骨は・・・そのままうっちゃっておかれたのかしら・・‘歴史に選ばれた人’はどんな人でも手厚く葬ってあげた方がいいような気がします。

投稿: Hiromin | 2009年7月14日 (火) 20時56分

こんばんは。
頼長さん真面目だけどそれが空回りというのがどこか悲しいですよね。
ところで、忠通との確執について次のような説が有力になりつつあります。元々頼長は子供のいない忠通の後継者となる予定だったのが、47歳になって忠通に男子(基実)が生まれた為に忠通が自分の子を後継者にすべく、頼長を忠通の後継者から外そうと工作を始めた、と。
(この説に基づくと忠通さんのほうが「我儘」ということになりますが・・・)

保元の乱では死体ひっくり返しという事態も悲惨ですが、平治の乱では保元の乱では行われなかった「晒し首」が行なわれ、20年後の治承寿永の乱ではタブーだった公卿の晒し首まで実行。敗者に対する仕打ちがエスカレートしているような気が・・・
敗者に対する残酷な処置の開始も「保元の乱」がある意味始まりだったのかも知れませんね。

投稿: さがみ | 2009年7月14日 (火) 22時46分

Hirominさん、こんばんは~

>頼長さんの骨は・・・

そのまま野ざらしだったようです。

おっしゃる通り、後で怨霊にビビリまくるんなら、最初からちゃんと葬ってさしあげたほうがいいと思います。

投稿: indoor-mama | 2009年7月14日 (火) 23時09分

さがみさん、こんばんは~

おっしゃる通りですね~

本文にも書きましたが、忠通さんに息子が生まれた事で、兄弟の縁も切れたってとこでしょうか・・・

もはや、死人に口無しで、本当に「悪左府」って呼ばれてたかどうかも、アヤシイもんですよね。

投稿: indoor-mama | 2009年7月14日 (火) 23時13分

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