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2009年8月31日 (月)

天地人・第35回:「家康の陰謀」より利長が気になる

 

イモトのマラソンに衆院選と、ライバルの多かった昨日の「天地人」ですが・・・

第35回「家康の陰謀」・・・なかなか、よかったですね。

放送時間に限りが出てきたせいか、ホームドラマ的な描写が大幅にカットされ、天下分け目の関ヶ原に向かっての大きなうねりは、合戦中心の戦国モノを期待していた者にはありがたいです。

それでも、「娘が、和歌を詠むようになった」と、嫁のお船兼続に言った時には「まだ言うか!」と思いましたが、さすがに、今回の兼続は一蹴・・・相手にしませんでしたね(笑)。

ところで、今回、気になったのが、前田利家さん・・・

さすがに、徳川家康の首に小刀を当て、「ここで、(お前を)殺す事もできるんだから、豊臣に忠誠を誓え!」と、ドラマのまんま言ったかどうかはともかく、秀吉亡き後の、豊臣家の存亡を、一番気にかけていたのは、やはり、彼と石田三成だったでしょうからね。

この部分はとても重要だったと思います。

来週の予告を見る限りは、このシーンを、次回に活かしてくださるのかどうかは微妙なようですが、このような出来事が本当にあった事はあったでしょうね。

もちろん、細かなシチュエーションはわかりませんが、少なくとも、三成が、「前田家は、豊臣存続の一番の味方になってくれる」と信じた瞬間があったのは確かという事です。

昨日のドラマでは、病気見舞いに訪れた家康を、近くに呼び寄せた利家が、上記のごとく、隠し持っていた小刀を家康の首に当てて、豊臣家に忠誠を誓うのかどうかを問いただし、家康が「誓います」と言ったのを、そばにいた兼続と、利家の息子・利長に・・・

「聞いたか?」
「はい、しっかりと聞きました」
「証人がいたら安心だ」
てな、感じのシーンだったと思いますが、ここに、息子の利長がいた事が、個人的にはとてもウレシイ・・・

それは、三成を含め、後々、関ヶ原で西軍となる武将たちにとって、この前田家(息子)の裏切りが最もショックだったと思われるからです。

実際の利家も、ドラマの通り、織田家家臣の時代からの友人である事もあって、豊臣家の存続を一番に願っており、その遺言も、
「豊臣家に謀反を起す者あれば、必ず討て!」
というものであったはず・・・

つまり、利家自身も、まさか自分亡き後に、嫁さんと息子が家康につくとは思っていなかったわけで、その裏切り行為を強調するために、昨日のシーンで利長の同席をしっかりとアピールさせてくれたのだとすれば、なかなか、今後の展開が楽しみというものです。

・・・とは言え、別に、利家の遺言に背いて家康についた前田家を批判するつもりではありません。

天下分け目の戦となった以上、世は戦国に逆戻りしたのと同じ、義理を立てて上司のもとに居残るか、勝ちが見えているほうについてわが家を守るかは、本人の自由です。

現に、かの利家も、賤ヶ岳の合戦の時に、柴田勝家に無断で、あっさりと兵を退いているわけですから・・・(4月23日参照>>)

いや、むしろ関ヶ原における前田家の場合は、娘婿である宇喜多秀家が先頭に立って参戦した事、弟の前田利政が現地には行かずとも西軍への意思表明をしていた事とのバランスを考えれば、妻・まつが、家康の「加賀征伐」の脅しにあっさりと徳川の人質として江戸に行った事や、利長が関ヶ原の先駆けとばかりに、北陸の豊臣勢を蹴散らす戦いに身を投じる(8月8日参照>>)のは、利に叶ってます。

西軍・東軍のどちらが勝っても前田家が存続するためには、これが最善の方法だった事でしょう。

五大老のうち、家康本人以外の、毛利輝元上杉景勝・・・そして上記の秀家が西軍となる中で、ただひとり東軍につく事にした利長には、おそらく、相当の覚悟が必要だった事でしょう。

そのへんの描写を盛り上げるために、昨日の病気見舞いのシーンで、利長に証人になってもらっているのだとしたら・・・(◎´∀`)ノもう、ワクワクしますねぇ~楽しみです。

いよいよ来週は「三成・襲撃事件」・・・そちらの予習は3月4日のページでどうぞ>>

★゜・。。・゜゜・。。・゜☆゜・。。・゜゜・。。・゜

ところで、秀吉が死んだという事は、小早川隆景さんも死んじゃってるわけですから、もう、横内正さんは出てこないんですよね・・・いつの間に(;;;´Д`)(見逃してるのかな?)・・・寂しいです。
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2009年8月29日 (土)

浅井長政、最後の手紙

 

天正元年(1573年)8月29日、小谷城・落城を目前にした浅井長政が、片桐直貞宛に、最後の感状をしたためました。

・・・・・・・・・・

再三の上洛要請に応じない越前(福井県)朝倉義景と、その義景に協力する姿勢の近江(滋賀県)浅井長政を相手に、織田信長が戦った姉川の合戦(6月28日参照>>)・・・。

あれから三年たった天正元年(1573年)・・・

7月に室町幕府最後の将軍・足利義昭京都から追放(7月18日参照>>)して、事実上天下を掌握した信長は、翌・8月、姉川の合戦以降、未だに反目し続ける浅井氏を滅ぼすべく、長政の居城・小谷城(滋賀県湖北町)を囲みます。(7月22日参照>>)

窮地に立った小谷城を救援すべくやってきた義景を追撃し、先に朝倉氏を滅ぼした(8月6日参照>>)信長は、すぐさまUターンし、8月26日には、小谷城攻撃の基地となる虎御前山砦に舞い戻ります。

信長の帰還に朝倉の滅亡を悟る長政・・・小谷城内も、さすがにあわただしくなってきます。

翌・27日、信長が、配下の羽柴(後の豊臣)秀吉に、総攻撃・開始の命令を下す中、小谷城を守る国人衆の間では、
「総攻撃を受ける前に、速やかに開城して、信長の指示に従おう」
「いや、徹底抗戦して、城を枕に討死しよう」
と、喧々囂々の議論が飛び交います。

そんな議論の結果を待たず、家臣の1人・浅井井規(ゆきのり)織田方に投降・・・彼が、道案内をした事で、怒涛のごとく押し寄せた秀吉軍は、またたく間に京極丸を占領し、続く小丸へと攻撃を仕掛けます。

この日、小丸を守っていた長政の父・浅井久政が、追い詰められて自刃・・・翌・28日、本丸にいた長政も、妻・お市の方(信長の妹?)に子供たちを託して、自ら命を断ちます

・・・と、小谷城の落城と、長政の自刃による浅井氏の滅亡は、すでに、一昨年の8月28日に、このブログに書かせていただいている(2007年8月28日参照>>)のですが、そのページでも、父・久政の死が27日、長政の死が翌・28日とさせていただいております。

それは、信長に関する第1の史料とされる『信長公記』に上記の日づけで記載されており、『国史大辞典』でも28日とされ、この日づけが歴史の通説となっていますので、通常、浅井氏・滅亡は28日という事になっています。

しかし、ここに、落城を悟った長政が、家臣の片桐直貞に宛てた一通の感状が残っていて、それが、長政の最後の書状であるとされています。

Azainagamasasyozyoucc 石川文化事業財団 お茶の水図書館蔵

その日づけは、「元亀四 八月廿九日」・・・
(注:元亀四年は、7月に信長によって天正元年に改元されますが、長政は天正の元号を使っていません)

当然の事ながら、死んだ後に書状を書く事はありえませんので、長政の自刃は、この書状を書いた直後の8月29日か、翌日の9月1日という事になります。
(注:もともと旧暦に8月31日はないうえ、この年の8月は小の月で30日もありませんでしたので、29日の翌日は9月1日となります)

これによって、ひょっとしたら、小谷城の落城は9月1日だったかも知れないとも言われますが、その決定は、歴史の専門家のかたにおまかせするとして、本題は、この書状の内容・・・

「今回は、思いもよらん事で、この小谷城も、もはや、無事なんは、この本丸だけになってしもた・・・
何かと、不自由な籠城の中、君は、忠義を尽くしてくれて、ホンマ、感謝してるで!

しかも、他のヤツが次々と城を抜け出して敵に投降して、城内はメチャメチャ混乱状態やのに、それでも、頑張ってくれて・・・僕の気持ちは、言葉にできひんし、ここには書ききられへんほどや」

・・・てな感じの内容なのですが、長政が、この手紙を渡した片桐直貞という人は、後に、秀吉VS柴田勝家賤ヶ岳の合戦「賤ヶ岳の七本槍」(4月21日参照>>)の1人として名を馳せ、大坂の陣の時には、豊臣と徳川の交渉役ともなった片桐且元(かつもと)(8月20日参照>>)お父さんです。

上記の書状は、単に、直貞に感謝の意を伝える手紙・・・というよりは、彼が、次に仕える事になる新たな主君への推薦状の意味合いが込められているのです。

つまり、前の主君=長政が、これほど感謝するようなすばらしい家臣である事の証明書・・・

言い換えれば・・・
「僕は、ここで死ぬけど、君は、新たな場所で、また、頑張ってね」
と、家臣との主従関係を断ち切る、別れの手紙でもあったわけです。

死を目前にしてもなお、家臣を統率し、家臣の事を思いながら、毅然とした態度を貫く長政の姿が目に浮かぶようです。

別れの言葉が、一語も書かれていない別れの手紙・・・心、うたれます。
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2009年8月28日 (金)

死人に口無し?大老・堀田正俊刺殺事件

 

貞享元年(1684年)8月28日、江戸城内において、若年寄・稲葉正休が、大老・堀田正俊に斬りかかって殺害するという刃傷事件がありました。

・・・・・・・・・・

思えば、あの浅野内匠頭(あさのたくものかみ)吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りかかった江戸城・松の廊下の刃傷事件(3月14日参照>>)からさかのぼること17年・・・

しかも、加害者が若年寄で被害者が大老なんて、どう見ても、こっちのほうが、登場人物のランクが上だし、何たって被害者が死に至ってますし・・・

なのに、あっちは、芝居になり浄瑠璃になり・・・さらに、平成の今の世となっても、話題に上るほどの一大事件となっているにも関わらず、本日の堀田正俊(ほったまさとし)殺人事件に関しては、ほとんど聞いた事かありません。

実は、コレ・・・加害者である稲葉正休(いなばまさやす)堀田に斬りかかった動機がまったくわからない・・・しかも、主君のご乱心で改易となった稲葉家も仇を討たない・・・(堀田さんも死んでますし)

なので、ストーリー的に浄瑠璃や芝居になりようもないのですが、それもそのはず、なんせ、上記のように、被害者・堀田は殺害され、加害者・稲葉は、騒ぎを聞いて駆けつけた大久保忠朝戸田忠昌安倍正武3名にその場でメッタ斬りにされ即死・・・

つまり、両者とも、その場で亡くなってしまった以上、もはや、その原因を調べようにも調べられないわけです。

それにしても、だいたい殿中で刃傷に及んだら、その身はどうなるのかは承知のはず・・・

まして、稲葉は美濃国(岐阜県)青野1万2千石領する藩主で、自らも若年寄という要職についた前途のある身・・・一族郎党が、この先、路頭に迷う事を考えれば、よほどの事がない限り、そんな行動に出る事はありません。

しかし、幕府の公式記録=徳川実記では、事件の発端は「正休の発狂」で片付けられていて、その動機は明らかにされていません。

だいたい、駆けつけた3人が、その場で稲葉を殺害っていうのも臭います。

現に、あの浅野内匠頭のほうは、取り押さえられています
(ドラマでは茶坊主に・・・)

現在にも通じる事ですが、こういう事件の場合、犯人をちゃんと捕まえて、その動機を究明してから処分するなりなんなりしてこそ、真の解決に至るわけで、直後に殺してしまって、その理由もわからずじまいというのは、むしろ、彼ら3人の不手際です。

しかし、事件後、彼らが、その不手際を罰せられたという記録は残っていません・・・不可解です。

有名なところでは、新井白石が後に語ったとされる話・・・淀川の改修工事でのモメ事です。

淀川の改修工事にあたって、稲葉は事前の視察を行い、4万両で工事を請け負う見積もりを立てていたのに、堀田が2万両で、河村瑞賢(ずいけん)という人物に依頼をしてしまった・・・ほんでもって、稲葉が、「ウチにやらしてくれ」と、頼み込んできたのを、堀田が断ったために、稲葉がブチ切れ・・・というもので、「二人が事件前夜に口論しているのを見た」という目撃証言もあります。

しかし、結局のところ、工事のモメ事は、命を賭けてまでブチ切れるほどの出来事ではないように思いますよね。

また、堀田の家臣が残した記録では、時の将軍=第5代・徳川綱吉との関係がこじれた事に要因があるとしているものもあります。

それによれば、もともと第4代将軍・家綱の臨終の際、次期将軍を決めるにあたって、時の大老・酒井忠清と大いにモメた堀田が、「何としてでも・・・!」と、強く綱吉を推した事で、綱吉は5代将軍になり、それとともに、堀田は、酒井に代わって大老に任ぜられたわけで、二人は、お互いが持ちつ持たれつのイイ関係にあったはずなのですが、綱吉自身が、何事も自分の意見を通したいタイプであり、堀田も、自分の意見を譲らない性格であったため、いつしか、綱吉が、堀田の事をうっとうしく思うようになっていたというのです。

加えて、堀田が、あまりにも綱吉の信頼を受けている事に増長して、調子にに乗りすぎの横柄な態度を取っていた事にも、綱吉は怒っていたのだと・・・

それで、綱吉は、堀田に隠居を勧める決意をするのですが、その将軍の意向を、堀田に告げる役目を頼まれたのが、稲葉だった・・

しかし、城内の御用部屋にいた堀田に、稲葉が将軍の意向を伝えても、堀田はあっさりと拒否・・・将軍の命令は絶対だと思っていた稲葉は、将軍の命令に従わない堀田にブチ切れ・・・というのが、その家臣のお話・・・

でも、この話でもやっぱり、稲葉のブチ切れとなっているのが、どうも引っかかります。

かの浅野内匠頭は、なにやら日頃からブチ切れやすい性格で、本人もそれを悩んでいて、精神安定剤のような薬を常用していたなんて聞きますが、稲葉に関しては、そんな話はありません。

むしろ、同時代の学者・戸田茂睡(もすい)などは、彼の事を、「忠義といい、分別といい、他に類を見ないほどの良い人物」と称しています。

そんな人が、そう簡単にブチ切れるでしょうか?

確かに、その忠義の精神から、「将軍の命令は絶対だ」と思っていて、それを堀田が断ったとしても、戸田さんが言うように、他に類を見ないほどのすばらしい人物であるなら、その場でブチ切れる事なく、冷静に説得するか、新たな方法を考えて出直すはずです。

・・・と、ここで、ムリヤリなトンデモ説ではありますが、一つだけつじつまが合うのではないか?と思う事が・・・

それは、将軍・綱吉が、稲葉に頼んだのは、「堀田を説得する事」ではなく、「堀田を殺害する事」ではなかったのか?という事です。

この時に、綱吉が何等かの報酬的なものを約束したかどうかは微妙ですが、殿中で刃傷沙汰を起せば、自分自身は死ぬ以外にないわけですから、いくら将軍の頼みだと言っても、自分も死に、お家も取り潰しになるのなら、ワリにあわないでしょう。

しかし、もし、自分自身は死ぬ運命にあったとしても、残された一族郎党の前途が約束されるなら、彼はやったかも知れません。

もともと、将軍の命令にさからう事も処分を受けるだろうし、自らの命と引き換えに、事が丸く納まり、お家が守られるなら・・・と、

・・・で、駆けつけた老中たちは、そのすべてを知っていて、何も聞かず、即座に正休を殺害し、死人に口なしとばかりに、その後、お家も改易に・・・

まぁ、トンデモな仮説ですが・・・
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2009年8月27日 (木)

この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明・衣笠城の合戦

 

治承四年(1180年)8月27日、衣笠城の合戦で、城を落とされた三浦氏の当主・三浦義明が討死しました。

・・・・・・・・・・

平治の乱(12月9日参照>>)に敗れ、一介の流人となっとていた源頼朝(みなもとのよりとも)(2月9日参照>>)・・・

その挙兵が成功した要因は、
「貴族化した平家に対して、坂東平氏と呼ばれる関東の武士たちが反感を持っていたから」
とか、
「平家中心の圧政に地方の武士たちの不満が頂点に達しつつあったから」
とか言われ、
一連の源平の合戦を見てみても、源氏の御曹司に味方した東国の武士たちが、滅び行く平家に圧勝したようなイメージがありますが、実際には、それほどしっかりとした見通しがあったわけではありません。

事実上、全国ネットで、平家の支配下にある現状で、流人の頼朝が立ち上がっても、いったいどれだけの味方が集まるのか・・・最初の段階の頼朝には、大した勝算があったわけではなく、いたって不安な状況であったと思います。

そんな中、治承四年(1180年)8月17日の頼朝の挙兵(8月17日参照>>)に、いち早く賛同したのが三浦義明とその一族・・・

衣笠城(神奈川県横須賀市)を居城とし、三浦半島一帯を支配下に置き、周囲の制海権も握る関東屈指の豪族です。

・・・とは言え、義明は、この時、すでに89歳・・・さすがに、自ら先頭を切ってというわけにはいかず、息子の義澄(よしずみ)義連(よしつら)、孫の和田義盛など一族の総力を挙げて、決戦の石橋山へと向かわせます。

しかし、おりからの豪雨により途中の酒匂(さかわ)が氾濫・・・行く手を阻まれた8月23日、かの石橋山での頼朝の敗戦(8月23日参照>>)のニュースを耳にします。

やむなく、衣笠城へと戻る三浦勢でしたが、そこへ遭遇したのが、平家方の畠山重忠・・・両者は由比ヶ浜で激突します。

三浦勢300騎に畠山勢500騎・・・この時は、死者を出しつつも、からくも勝利をもぎ取り、なんとか、衣笠城へと戻りましたが、重忠は、未だ参戦していない近隣の豪族に声をかけ、軍勢を増強して衣笠城へと攻め込んできます。

当然迎え撃つ覚悟の三浦勢ですが、いかんせん、つい先ほどの由比ガ浜での死闘で、皆、疲労困憊・・・しかも、矢も使い果たし、もはや、敗戦の色は濃くなるばかり・・・

ここで、城を枕に討死覚悟の息子たちに、義明は、城からの脱出を勧めます。

「いち早く脱出し、即座に頼朝公の存亡を確かめ、お助けするように」と・・・

そして、「自分自身はここ衣笠城に残り、畠山勢を迎え撃つ」と言います。

驚く息子たちに義明は・・・
坂東平氏の1人として、ようやくこの歳になって、再興のチャンスに恵まれた・・・このうえは、老い先短いこの命を、頼朝公のためになげうって、子々孫々の手柄にせよ
と、言い放ったのです。

泣く泣く父を置いて脱出する息子たち・・・

・・・と、これは、北条氏の正史『吾妻鏡』にあるお話で、『平家物語』では老いて足手まといとなる義明を置き去りにして一族が脱出したとされていますが、ここはやっぱり、吾妻鏡のほうのカッコイイ義明さんであった事を希望しますよね~置き去りは悲しすぎる・・・(ρ_;)

・・・で、一族が脱出して間もなく、衣笠城は猛攻撃を受けて落城・・・治承四年(1180年)8月27日義明は壮絶な討死を遂げる事となります。

一方の息子たちは・・・
5日間山中をさ迷い歩いて、石橋山から海岸にたどり着いた頼朝を、その制海権をフルに活用してサポート・・・頼朝が、船で安房国(千葉県)勝山近くに上陸した時には、すでに現地に到着していた義澄・義盛らが出迎えたのです(10月6日参照>>)

その後、休む間もなく鎌倉で再起した頼朝とともに、平家追討に参戦した彼ら三浦一族・・・。

平家が滅亡した後には、義澄は、実質的な相模(神奈川県)の守護に、義盛は侍所別当(警察庁長官)に、義連も頼朝の側近として重用されました。

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時は、義澄は、その使者として鶴岡八幡宮で、勅使(ちょくし・天皇の使者)からその文書を受け取るという大役も仰せつかります。

さらに、その後、頼朝が上洛した際には、配下10人の御家人が官位をいただく事になりますが、その10人のうち3人までもが三浦一族だったと言います。

よく、戦国武将でも・・・
「負けるとわかっててなぜ、突き進むのか?」
「なぜ、死に急ぐのか?」
「捨て石となる事に無念はないのか?」

と、現代人の私たちには、理解し難い行動に出る事がありますが、その根底にあるもののふの主従関係・・・

先人が命を賭けて、その場所を守る事で、残った者に与えられる目に見えぬ優先座席・・・

頼朝政権下での、三浦一族の活躍ぶりは、この後、何百年に渡って引き継がれる武士同士の暗黙のルールという物が、すでに彼らの中に誕生していたという事なのでしょうね。
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2009年8月26日 (水)

関白・藤原基経と怪しすぎる天皇交代劇

 

仁和三年(887年)8月26日、第58代・光孝天皇が崩御されました。

・・・・・・・・・・

先日書かせていただいた【摂関政治の始まり】(8月19日参照>>)の続きとも言えるお話です。

藤原不比等(ふひと)の息子=4兄弟のうち、房前(ふささき)のひ孫である藤原冬継の息子・良房(よしふさ)が娘・明子(あきらけいこ)を第55代・文徳天皇女御(奥さん)にし、二人の間にできた皇子を、生後わずか8ヶ月で皇太子にする事に成功!

その後、その皇子が9歳で第56代・清和天皇として即位する事で、最も権力の握れる外戚(がいせき・天皇の母親一家)をゲット!

その勢いのまま、臣下の者としては初めて摂政になり、その後は、その良房の養子・基経(もとつね)が、初の関白となり、摂関政治が始まる・・・てな、とこらへんまでお話させていただきましたが・・・

この基経さんが、最もラブラブだった天皇が本日の第58代・光孝天皇・・・あっ!ラブラブだったと言っても、男女の恋愛のようなラブラブではなく、お気に入りという意味ですヾ(;´Д`A誤解のないように・・・

基経は、光孝天皇が大好きで、まだ幼い頃から、ずっと見守り続けていたとの事ですが、ある時、父・良房主催の大宴会が催され、そこに、まだ時康親王と呼ばれていた光孝天皇も出席していたのですが・・・

途中、当時宴会には欠かすことのできない(きじ)の足が、主賓の良房の前に置かれていなかった事を、1人の配膳係が気づきます。

慌てた配膳係は、光孝天皇の前に置かれていた雉の足を取り、何食わぬ顔で、そっと良房の前に置き換えたのです。

それを見た光孝天皇・・・怒るどころか、逆に配膳係のミスが良房にバレないよう、そっと燈火を落としてあたりを暗くしたのだとか・・・この光景を目の当たりにした基経は、そのお人柄に感動!

また、先代の第57代・陽成(ようぜい)天皇の後継者を決める段階で、基経は、誰を指名しようかと、何人もの親王のもとを訪問しますが、どの親王もアタフタと大騒ぎして落ち着きがない・・・

そんな中、この光成天皇だけが、擦り切れた畳、ボロボロの簾(すだれ)の質素な場所でありながら、堂々とした態度で基経に対応した・・・それを見た基経は「これや!この人しかない!」と、次期天皇に指名したのだとか・・・

・・・と、そうなんです。

光孝天皇を、第58代の天皇に決めたのは基経・・・しかも、この光孝天皇は、残念ながら、その在位中、ほとんど基経にまかせっきりで、何をしたという特筆すべき出来事がないのですよ。

さらに、自らの甥っ子であるはずの前天皇・陽成天皇を廃したのも、基経・・・

そうなると・・・臭いますねぇ~
失礼ながら、上記の感動逸話も、「どこまで本当なんだろ?」と、つい、疑いの目を向けたくなります。

とにかく、お話の前に、あのややこしい例の関係図を・・・

Mototunekanpakukankeizu 誰の子供なのか?を知るためには、何代か前から書く必要アリと考えたら、以前の良房=摂政の時よりもさらに人数増えて、とんでもない事になってますが、とにかく、■色の部分あたりが、今回の関係者・・・自分でも、こんがらがってますので、もしかして間違いに気づかれましたら、速やかにお知らせくださいませ。(クリックして大きく見てね→)

・・・で、そもそもは、良房に男子がいなかった事で、その良房の兄・長良の息子である基経が、養子となったわけですが、彼には、実の妹がいまして、その人が、コマシの業平(在原業平・ありわらのなりひら)(5月28日参照>>)にコマされちゃったあの高子

その高子が、清和天皇の女御となって生まれた皇子が、陽成天皇だったわけで、本来なら、この陽成天皇の外戚となった事で、基経は、父と同じような権力を維持する事ができ天皇が幼少であるために政治的サポートをする摂政だけではなく、天皇が成人でもサポートする関白という座を手に入れる事ができたわけで、感謝感激のはずです。

ところが、この血縁関係にある陽成天皇との相性が、どうやら、あまり良くなかったようで・・・

9歳という若さで天皇に即位した陽成天皇・・・甥っ子の即位で、太政大臣にまで上りつめる基経でしたが、この天皇が元服するまでに成長した頃から、二人の関係は悪化してきます。

『愚管抄』によれば、この陽成天皇は「もののけによるわざわいがひどく、狂気のふるまいは言葉にできないほど・・・」だったのだそうです。

さらに、蛙を捕まえたり、蛇を捕まえたり、犬とサルを戦わせたりの悪行・・・って、コレ今なら確かに動物愛護協会から怒られますが、当時としては、どうなんでござんしょ?やっぱりいけない事だったんでしょうか?

またまたさらに、人を木に上らせて墜落死させて喜ぶ・・・って、さすがに、これはイカンな~とは思いつつも、
キタ━(゚∀゚)━!って感じですね。

第26代・継体天皇の正統性を強調するために、悪のレッテルを貼られた(自分が勝手に思ってるだけですが)武烈天皇の悪行と同じじゃないですか!(12月8日参照>>)

400年近く経って、まだ、こんな事やってるのか!と思うか、さすがは藤原氏!一族の伝統守るなぁ~と感心するか・・・てな、とこですが、とにかく、何の証拠もありませんんが、私としては、メッチャ怪しい気がします。

・・・で、結局、上記の奇行&乱行により、陽成天皇は、基経によって皇位を廃され、二条院に遷されます。

それも、「一緒に花見に行こうよ」と、基経のウソの誘いに騙されて内裏(だいり)から連れ出されたのだとか・・・

この後、82歳という長寿を真っ当される陽成天皇が、わずか17歳での退位・・・それも、自らが望んだ退位ではなかった事の理由は、なにやら勝者の都合で書き換えられてしまったような気がしてなりません。

そして、その後を継いだのは、失礼ながらコレといって、何もしなかった光孝天皇・・・この時55歳。

17歳の若者から55歳のアラ還に交代って・・・とても違和感のある交代劇です。

・・・で、結局、55歳という年齢で即位した光孝天皇は、子供のほとんどが、天皇家を継ぐ事はないだろうと、源氏とかの臣下になってしまっていたため、わざわざ、息子の1人を源氏姓から親王にして、次期天皇とし、仁和三年(887年)8月26日58歳で崩御されます。

その次期天皇が、第59代・宇多天皇なのですが・・・

今度は、基経さん・・・またまた、この宇多天皇とモメますが・・・そのお話は7月19日のページでどうぞ>>
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2009年8月25日 (火)

鉄砲伝来~異説とその後・・・

 

天文十二年(1543年)8月25日、種子島に漂着した中国船に乗船していたポルトガル人によって、日本に鉄砲が伝えられました。

・・・・・・・・・・

鉄砲伝来については、すでに3年前の8月25日に、島民の様子やら領主の種子島時尭(ときたか)の話やら書かせていただいたので、その定番の経緯については、そちらでご覧いただくとして(2006年8月25日を見る>>)、本日は、異説・・・というか、別ルートでも伝来していた?というお話と、戦国の戦い方を変えた鉄砲のその後のお話をさせていただきます。

・‥…━━━☆

そもそも、定番となっている鉄砲伝来についての記録というのは、慶長十一年(1606年)に成立した『鉄砲記』なる書物に書かれている事で、それが、書面に残る唯一の鉄砲伝来の記録という事になっています。

しかし、実は、この書物・・・種子島久時という時尭さんの息子が書いたもの・・・

つまり、戦国の戦い方を一変させた鉄砲という武器を最初に手に入れたオヤジさんの功績を、メッチャかっこよく書いてる可能性アリって事です。

そもそも、伝えた側のポルトガルの記録によれば、「日本を発見したのは1542年」という事で、すでに1年前に、誰かが日本に来てるという事になります。

また、この時代のヨーロッパでは、火縄ではなく火打ち石式の銃が主流で、火縄が主流だったのはベトナムやマレーなど東南アジアだったのだとか・・・

・・・で、上記の様々な矛盾を解決する説として考えられているのが、前年の天文十年(1542年)に例のごとく、中国船の漂着というサプライズで種子島に来たポルトガル人が、まだ、日本に鉄砲が伝わっていない事を知り、「これは商売になるゾ!」とばかりに、翌年、見本とも言うべき鉄砲を持って、再び、種子島にやって来る・・・

持参したのは、もちろん、母国で使ってるほうではなく、アジアで大流行している火縄銃のほう・・・という事になります。

先ほどのポルトガル側の記録にある1542年に日本を発見した人物は、アントニオ・ダモッタフランシスコ・ゼイモトアントニオ・ペイショットという3人の人物・・・

日本側の記録にある翌・天文十二年(1543年)8月25日に鉄砲を伝えたポルトガル人の名前は「牟良叔舎」←コレが、中国語で読むと「フランシスコ」なのですよ!

・・・とは言うものの、「売る気満々の商売人から買った」というよりは、「たまたま漂着して助けてやった人物が持っていた物を、若き殿様が目に止め・・・」ってなほうが、世紀の武器の伝来ドラマとしては、確かにカッコイイですわな。

・‥…━━━☆

・・・と、公式の鉄砲伝来のお話とは別に、もう一つ、非公式の伝来のお話も残っています。

それによれば、鉄砲伝来は、先の種子島より3年早い天文九年(1540年)に、当時、五島列島付近を中心に荒らしまわっていた海賊の頭目・王直が、平戸城主だった松浦興信(おきのぶ)に、弾薬付きで一挺の火縄銃を献上したのだそうな。

この王直という人物は、名前でお察しの通り中国人・・・明を追われて倭寇(わこう)を率いていた人物で、以前、応永の外寇(6月26日参照>>)のところで書かせていただいた、倭寇の後半に登場する中国人自身による倭寇の集団を率いていたのです。

この時、鉄砲を気に入った興信は、さらに十挺の銃と三十貫の弾薬を王から購入したという事なので、やっぱりこれも見本持参のビジネスという事なのか?
(そら、スーパーの肉売り場の横で、オバチャンが肉を焼いて配るはずやww)

・・・で、その興信の息子の26世・興信が、本来、伝わったとされる天文十二年に起こった肥前相神ノ浦の戦いで、鉄砲を使用したという事なので、これが本当なら、こっちが初という事になりますが、あくまで非公式なので・・・

・‥…━━━☆

ところで、そんな鉄砲・・・最盛期には全国に30万挺はあったと言われるほど戦国武将に大人気だったわけですが、徳川家康が天下を取って太平の世となってからは、その膨大な数の鉄砲はどうなっちゃったのか?

まったく、噂を聞かないので、平和の中じゃ無用の長物として無くなっちゃったのかと思いきや、これがなかなか・・・皆、意外と鉄砲を持ってたんですね~

江戸幕府は、各藩に「君とこは○○石やから○○挺」と、石高に応じて一定の数の鉄砲を、むしろ常備するように義務づけています(そのほうが管理しやすい)、民間でも、狩猟に鉄砲を使っていたのはご存知の通り・・・

あの島原の乱(2月28日参照>>)の時には、秋月藩の黒田家が鉄砲を使用していますし、大塩平八郎の乱(2月19日参照>>)の時も、大塩が持っていた大砲に対して、幕府は鉄砲で応戦してます。

・・・と、そうです。

この二つの乱は、すでにブログに書かせていただいておりますので、お気づきでございましょうが、島原の乱は大坂夏の陣から約20年後の3代将軍・徳川家光の時代

そして、大塩の乱は、黒船が来航する15年前の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の時代

つまり、江戸時代のはじめのほうと終わりのほう・・・その間、誤解から鉄砲自殺をしちゃった福知山城主の稲葉紀通さん(12月7日参照>>)なんかもいましたが、幕府や藩の持つ鉄砲を総動員して戦うような大きな合戦はなかったわけです。

・・・て事で、要は、江戸時代を通じて、鉄砲はたくさん保持されていたわけですが、実践に使われる事がほとんどなく、ただ、持ってただけ・・・なので、この間、技術的にはほとんど進歩がなく、幕末の長州征伐(6月14日参照>>)のところで書かせていただいたように、多くの藩は、外国との交戦で痛い目を見て、最新鋭の武器に切り替えた長州には、太刀打ちできないような戦国さながらの火縄銃・・・てな事になったわけなのです。

以上、本日は、鉄砲伝来記念として、イロイロ書かせていただきました~

この後は、おふざけで家電の取説風に書いた【火縄銃・取扱説明書】もお楽しみください>>
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2009年8月24日 (月)

「米百俵」の精神~焦土の長岡に小林虎三郎が立つ

 

明治十年(1877年)8月24日、幕末の北越戊辰戦争で焦土と化した長岡の復興に尽力した儒学者・小林虎三郎が、50歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・

このブログでも何度か書かせていただいている北越戊辰戦争・・・

 *くわしくはコチラ↓を・・・
   ●戊辰戦争~新政府軍・北へ
   ●北越戊辰戦争・朝日山争奪戦~河井継之助の決意
   ●ガトリング砲も空しく~長岡城・陥落
   ●河井継之助の時間差攻撃~戊辰戦争・今町攻略
   ●北越戊辰戦争~河井継之助の長岡城奪回作戦
   ●河井継之助・無念~長岡二番崩れ

 

一連の戊辰戦争の中で最も激戦となった、この北越地方・・・慶応四年(明治元年)7月29日に長岡城が陥落した時、藩主・牧野忠訓(ただくに)をはじめ、多くの藩士やその家族は、奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結んでいた会津へと逃れますが、その中心人物であった家老の河井継之助(つぎのすけ)が、長岡城攻防戦で受けた傷がもとでまもなく死亡すると、あれだけの激戦をくぐり抜けた藩兵たちの士気も一気にさがります。

さらに、三春藩(みはるはん・福島県)盛岡藩など、周囲の藩が次々と降伏していく状況を目の当たりにして、忠訓は、これ以上の抵抗は意味のない事であると判断し、9月25日、新政府に降伏の文書を提出しました。

結果・・・藩主・忠訓こそ、東京にて謹慎の処分となりますが、先代藩主の牧野忠恭(ただゆき)と家臣たちは長岡に戻る事が許され、石高も大幅カットの2万4千石とは言え、お家そのものは取り潰される事なく、無事、再興できる事になりました。

しかし、長岡城陥落以来・・・2ヶ月ぶりに長岡に戻った彼らが目にしたのは、戦火によって85%が失われた故郷の姿でした。

そんな長岡の町を、亡き継之助に代わって立ち直らせたのが、儒学者・小林虎三郎でした。

文政十一年(1828年)、長岡藩士・小林又兵衛の三男として生まれた彼は、幼い頃に天然痘にかかり、左目を失明するというハンディを背負いながらも、地元の学校ではトップクラスの成績をおさめた秀才でした、

23歳で江戸に出てきて、佐久間象山(しょうざん)の門下として学んだ時は、あの吉田松陰(しょういん・寅次郎)とともに、「象門の二虎」と、門下生の中でも飛びぬけた二人が、並び称されるほどの存在でありました。

長岡に戻った虎三郎は、早い段階から「横浜開港説」を藩主に訴えて謹慎させられた事もありましたが、『興学私議』なる著書を通じて、教育によって優秀な人材を育てる大切さを訴える姿を見て、彼の開いた塾に入学する者も少なくありませんでした。

かの継之助とは幼なじみではあるものの、政治の方向性による違いから疎遠になった時期もあり、虎三郎が火事に見舞われた時に、支援してくれた継之助に対して「感謝のしるしにイイコトを教えてやる」と言って、継之助の藩政を痛烈に批判した事もあったのだとか・・・

しかし、継之助は、それでも「お互いの意見は違っても優秀な人物」と、虎三郎を高く評価していたと言います。

やがて、冒頭の北越戊辰戦争の果て・・・廃墟と化した故郷で、虎三郎が手腕を発揮する時がやってきます。

亡き継之助と共通の友人であった三島億二郎の依頼で、新政府への嘆願書を起草した事から藩政に関わるようになった彼は、明治二年(1869年)の版籍奉還(はんせきほうかん)(6月17日参照>>)によって、藩が朝廷の配下に組み込まれる事になり、その組織が大きく変わる中、かの億二郎とともに、大参事という役職に抜擢されます。

新体制では、藩主は世襲制ではなく、中央政府から任命される知藩事となり、その下に大参事権参事少参事権少参事などの役職が設けられ、彼ら二人の他に、元家老の牧野頼母(たのも)も、大参事に抜擢されていました。

・・・で、先に書いた通り、以前から教育の大切さを訴えていた虎三郎は、「一日学問をサボれば、それだけ他藩から遅れをとる!」とばかりに、まずは、城下の昌福寺(しょうふくじ)仮の学校を開設します。

それまでの藩の正式学門であった漢学に加えて、国学も学ぶ事から「国漢学校(こっかんがっこう)と呼ばれたこの学校は、翌年、さらに大きな元家老屋敷跡へと移転され、新たに学堂演武場も併設され、身分の分けへだてなく教育が受けられる場所となっていきます。

ちょうど、その移転が実施されていた頃です。

近隣藩が集まって行われた大参事会議に出席していた億二郎の尽力で、牧野家の分家筋に当たる三根山藩(みねやまはん・新潟県西蒲区)から、戦後の困窮にあえぐ長岡藩へ支援として、「米百俵」が送られて来たのです。

そう、某総理大臣の所信表明演説の中で引用され、超有名となった「米百俵の精神」・・・アレです。

もちろん、ここで、飢えをしのぐために、この米を皆に分配しようという多数の意見に反対して、その米百俵を金に換え、教育資金に回そうという意見を貫いたのが、虎三郎と億二郎だったわけです。

「今、この米を食べて飢えをしのいでも、わずか数日後には、また飢える・・・教育によって優秀な人材を育成すれば、その何倍もの富をもたらす!と・・・。

こうして約270両に換金された米百俵は、教科書や学習器材の購入にと、有意義に使われたのです。

・・・と、ここで、ドラマやお芝居なら、やがては、すばらしい人材を輩出する、夢多き長岡藩の未来像へと舞台は飛んで、ハッピーエンドとなるのでしょうが、実際には、そう、うまくは行きません。

なんせ、人材が育つには時間がかかる・・・で、結局、わずか1年後に長岡藩は潰れます。

米百俵の名場面の後も、当然の事ながら藩の困窮は続くわけで、先代の忠訓から藩主を受け継いだ牧野忠穀(ただかつ)自らが、率先して酒屋を営み、藩士総出で、工業や製造業に従事するのですが、それでも、藩の財政が立ち直る事はなく、明治三年(1870年)10月、忠穀が知藩事を辞職し、藩の廃業を願い出たのです。

まぁ、その翌年の7月に廃藩置県(はいはんちけん)(7月14日参照>>)が実施されて、結局、全国すべての藩は廃止されるわけですが、長岡藩は、その一年前に、自らの意思で廃したという事になります。

・・・とは、言え、虎三郎の理念は、そこで学ぶ多くの若者たちに引き継がれた事は確か・・・

その性質ゆえ、少しの時間を要しますが、その芽は、確実に花開く事となるのです。

駐米大使としてバネー号事件で日本を救った斉藤博
政治学者で東京帝国大学総長となった小野塚喜平次
解剖学者で東京大学に銅像がある小金井良精(よしきよ)
このブログにも書かせていただいた渡辺豹吉(ひょうきち)さんの弟・廉吉(れんきち)さんもそうですね(9月8日参照>>)

もちろん、同じそのページに余談で登場した連合艦隊司令長官山本五十六(いそろく)も・・・

薩摩や長州といった勝者ではない、敗者・長岡から、多くの優秀な人材が輩出されるのは、「人材」という、何ものにも替えがたい未来への遺産を最優先した虎三郎の武士の心意気と言ったところでしょうか。

当の虎三郎は、明治四年(1871年)に、自らの事を「病翁」と呼ぶくらい持病に苦しんでいたようで、明治十年(1877年)8月24日湯治先の伊香保温泉で50歳の生涯を閉じました。

・・・いつか、長岡出身の若者が、全国で活躍する来たるべき未来を夢見て・・・
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2009年8月23日 (日)

「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役・村岡局

 

明治六年(1873年)8月23日、「勤王女傑」と呼ばれた村岡局が88歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

・・・とは言え、名誉が回復されるのは、彼女が亡くなった後の事・・・上記のような名声も、従四位という官位が贈られるのも明治二十四年(1891年)になってからの事なのです。

88歳の長寿を真っ当されたのは何よりですが、ひょっとしたら、老後を過ごされた京都・北嵯峨直指庵(じきしあん)での暮らしは、肩身の狭いものだったのかも知れません。

・‥…━━━☆

一般的に、村岡局(むらおかのつぼね)と呼ばれますので、本日もそのように呼ばせていただきますが、実はこれは役職名で、実際の名前は津崎矩子(のりこ)と言います。

昨年の大河ドラマ「篤姫」では、星由里子さんがこの村岡の役を演じておられたので、その印象が強いかも知れませんね。

彼女の父は、京都・大覚寺門跡の家臣・津崎右京・・・兄も大覚寺門跡の役人で、津崎家は代々大覚寺の家士を世襲する家柄だったのです。

そんな彼女は、祖母が老女として仕えていた縁から、13歳で近衛(このえ)家に仕えるようになります。

ご存知のように、近衛家は摂関家の一つ・・・例の藤原氏が近衛家九条家に分かれ、その後に、近衛家から分裂して鷹司(たかつかさ)ができ、九条家からは一条家二条家が分流し、合計で5つ。

この5つは五摂家と呼ばれて、代々摂政・関白を受け継ぐ家柄ですが、その中でも近衛家は筆頭でした。

そんな近衛家で、田鶴須賀野村岡とスキルアップを重ね、村岡となってからは、近衛家を代表する外交官のような役割を果たすようになります。

なんせ、彼女が村岡として仕えていた頃の近衛家の主は忠煕(ただひろ)という人で、安政四年(1857年)には左大臣になってますし、第121代孝明天皇の皇太子時代からの側近でもあった人ですから、おいそれと外部と接触するわけにはいかず、実質的には、彼女が、その近衛家の窓口となっていたわけです。

そんな中、ペリー黒船来航(6月3日参照>>)で幕府は開国を迫られ、このまま鎖国を続けていく事が困難な状況となってくるわけですが、たびたび、書かせていただいている通り、かの孝明天皇が開国に反対だった事から、天皇を尊ぶ尊王思想と、外国を排除する攘夷(じょうい)思想が結びついて尊王攘夷となるのですが、ここに、もう一つ、現在の第13代将軍・徳川家定の次ぎの将軍に一橋徳川慶喜(よしのぶ)を推す運動が加わります。

当然、本来は、尊王攘夷と「慶喜を将軍に」は別々のものですが、鎖国政策を維持するには、正しい人物を将軍にするしかないというわけで、そんな尊王攘夷派が選んだ正しい人物が一橋慶喜・・・。

そして、それを幕府に働きかけるには、影響力のある孝明天皇の存在・・・という事で、「尊王&攘夷&慶喜推し」の運動が一つにまとまったわけです。

・・・で、そんな「尊王&攘夷&慶喜推し」グループの1人が、第11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)です。

もともと、忠煕さんの正室は、第10代薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の養女・郁姫(いくひめ)なので、島津家と近衛家のつながりはあったわけですが、政治に対する何か提案がある場合、斉彬は、まず、配下の西郷隆盛を通じて、近衛家と縁の深い清水寺の本坊・成就院(じょうじゅいん)の住職・月照(げっしょう)に頼み、月照が近衛家の窓口である村岡に話し、村岡が忠煕に取り次ぐ・・・そして、忠煕が「承知」となると、何日か後には、天皇の意思として、それが公表されるといった具合です。

その斉彬の養女・篤姫と将軍・家定の結婚の時には、亡き郁姫に代わって養母役を務めたりもして、近衛家と村岡が骨をおっているところが、昨年の「篤姫」でも描かれていましたね。

そう、そんな篤姫の将軍家への輿入れでさえ、実は、大奥を、「次期将軍=慶喜」という考えに変えさせるための画策だったと言われているくらい、熱心に慶喜を推す斉彬でしたが、ドラマでも描かれていた通り、大奥は、大の水戸嫌いで、水戸出身である慶喜に傾く事はなく、ご存知のように、次期将軍候補は、慶喜のライバルであった紀州出身の徳川慶福(よしとみ・後の家茂)に決定してしまいます。

安政五年(1858年)、大老となった井伊直弼(なおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許可)を得ないまま、日米和親条約に調印し、反対派である尊王攘夷派を一掃する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)

逮捕者79人・・・うち、8人が切腹や死罪・獄門にさらされ、当の慶喜も隠居の処分となり、その父である第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)国許永蟄居(くにもとえいちっきょ)という終身の謹慎処分となってしまいます。

翌・安政六年(1589年)2月・・・74歳になっていた村岡も、その犠牲者の一人となります。

先の、清水寺の月照→村岡→近衛忠煕→孝明天皇のラインでの活動が尊王攘夷に尽くしたとみなされたわけですが、この時、かの島津斉彬は、すでに亡くなっており(7月16日参照>>)、月照は西郷とともに京都を脱出(11月16日参照>>)・・・忠煕も、村岡が逮捕されたのと同時期に左大臣を辞職して謹慎生活に入っています。

逮捕後、江戸に送られた村岡は、信州(長野県)松本藩主・戸田光則に預けられ、その屋敷に特設された檻の中で過ごし、吟味のある時だけ屋敷を出て評定所に出頭するという生活を送ります。

出頭の時には、身分の低い者の手に握られた腰綱をかけられ、駕篭に乗せられたり綱を引かれたりという近衛家の老女としては屈辱の扱いを受けました。

8月27日には、そんな彼女に押込の判決が下り、その後、1ヶ月に渡って戸田屋敷の牢屋に押込られる事になりますが、一応、3度の食事もちゃんとした物が出て、お風呂にも入れたという事で、むしろ、吟味中の時よりは、判決後のほうがゆるやかだったようです。

その後、押込が解除されて京都に戻り、当時は住職不在で荒れ放題だった北嵯峨の直指庵を再興して、晩年は、そこで、静かに余生を過ごしました。

・・・で、結局、実際のところ、彼女がどこまで尊王攘夷派だったのか?心の底から次期将軍に慶喜を推していたのか?といった記録という物は、ほとんど残っていません。

ただ、かの安政の大獄で真っ先に逮捕されて獄中で死亡した梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)が、「彼女は信頼できる人」「彼女は近衛家の清少納言だ」と、称しているところをみれば、それなりのしっかりとした考えを持った頭のいい人であった事は確かでしょうが、ひょっとしたら、近衛家の窓口としての職務を真っ当したに過ぎないのかも知れません。

マジメに老女の仕事をこなしていたら、それが尊王攘夷運動になっちゃったみたいな・・・

ところが、そんな彼女への評価は、明治維新が成った後・・・静かに立ち昇ってきます。

「昔、村岡局という女の人とこんな事をやった」
「あんな話をした」
「こんな事を教えてもらった」

そんな声があがりはじめます。

幕末の動乱の時代に、彼女と接触した志士たちが、今や華やかな政治の表舞台に駆け上がりました。

かつて、勢いだけで突き進んでいた青き時代・・・

悩める時に解決のヒントを提示し、困った時に相談に乗り、時には母のように包み込み、時には上司のように叱咤激励する・・・

血気盛んな若者たちは、おそらく、雲浜が抱いたと同じような印象を彼女に持っていたに違いありません。

紙に記録が残らずとも、人の記憶は消えません。

彼女の事を語る声が、いつしか、彼女を「勤王女傑」と祭りあげる事になるのです。

その称号が、彼女にとって、うれしい物なのか、気恥ずかしい物なのかは、もはや知るよしもありませんが、京都は右京区・嵯峨の亀山公園にある彼女の像は、今も、柔和な笑みを浮かべています。

Dscn9748aa800 村岡局像
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2009年8月21日 (金)

毛利水軍VSポルトガル船~前代未聞の門司城の攻防

 

永禄四年(1561年)8月21日、毛利元就が、大友宗麟の攻撃を受けていた門司城の救援に、息子・小早川隆景を派遣しました。

・・・・・・・・・

戦国三大奇襲戦の一つと言われる厳島に戦い陶晴賢(すえはるかた)を倒し(10月1日参照>>)た後、若き当主・大内義長を自刃に追い込んで、中国地方の名門・大内氏を滅亡(4月2日参照>>)させた安芸(広島県)の戦国大名・毛利元就(もとなり)

その大内氏と覇権を争っていた、やはり名門の尼子氏も、ここのところの度々の交戦で弱体化が見え始めていました(12月24日参照>>)

そんな中の、九州の玄関口・門司に建つ門司城・・・室町時代からこの城を支配していた大内氏が滅亡した事で、その後は豊後(大分県)大友宗麟(そうりん・義鎮)にゆだねられるはずであったこの城を、永禄元年(1558年)6月に元就の三男・小早川隆景(たかかげ)が奪取し、毛利はここを拠点に北九州への勢力拡大を謀ろうと考えます。

一方、その翌年の永禄二年(1559年)に、それまでの豊後・肥前(佐賀県)肥後(熊本県)に加え、新たに豊前・筑後・筑前((福岡県南部)の守護となり、室町幕府13代将軍・足利義輝から九州探題を任される事となった宗麟にとって、この毛利の体制を許しておくわけにはいきません。

もとより、日明(にちみん)貿易南蛮貿易でガッポガッポ儲けている大友氏にとって、門司と関門海峡の制海権は生命線とも言える物です。

かくして永禄四年(1561年)春、宗麟は、配下の名将の立花道雪戸次鑑連)に1万5千の大軍をつけ、門司半島を攻撃させますが、門司城は標高175mの山頂にあるなかなかの要害・・・しかも、守備を任された城将・仁保隆康(にほたかやす)以下、守備兵が踏ん張り、容易に落す事ができませんでした。

この状況にイラだった宗麟・・・前代未聞の作戦に出ます。

先ほども書いたように、海外との貿易に長けた宗麟・・・しかも、ご存知のようにキリスト教がらみで、外国にはかなり顔が効きます(11月11日参照>>)

Nanbansencc ・・・で、その人脈を利用して、なんと、博多に停泊中だったポルトガル船の出動を要請・・・

8月1日、関門海峡に現れた南蛮船は、海上から門司城に向かって砲撃を開始したのです。

日本の軍事史上、初の艦砲射撃だったとされるこの攻撃・・・インドゴアからやってきたこの最新兵器には、さすがのも隆康も驚愕し、城兵たちもビビりまくります。

今度、これに慌てたのは元就です。

「このままでは、門司城があぶない!」とばかりに、永禄四年(1561年)8月21日、かつて、この門司城を落した立役者=息子の隆景を救援に向かわせるのです。

Mozizyoukankeizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

隆景の到着後、ほどなく瀬戸内最強の毛利水軍が大量に押し寄せ、何とか関門海峡の制海権を握る毛利水軍・・・。

やがて、門司城に入った隆景を待っていたのは、内応工作・発覚のニュース・・・宗麟の仕掛けた内応工作に答えて、門司城内には、すでに内通者がいたのです。

事前に発覚した事で、この内通者を処分し、大事には至りませんでしたが、隆景は、逆に、この一件を利用する事を思いつきます。

周囲にいる大友勢に向かって烽火(のろし)をあげて、あたかも内通が成功したかのように見せかけたのです。

烽火の合図を信じて一気に門司城へと迫る大友軍・・・寸前のところまでひきつけておいて、いきなり、怒涛のごとく城外へ撃って出ると同時に、それまで海上に展開していた水軍の兵が、これまた怒涛のごとく上陸し、城に近づいた大友軍を挟み撃ちにします。

10月10日、明神尾の激戦と呼ばれるこの衝突で、戦況は一気に毛利へと傾きます。

しかし、大友軍はなおも諦めず、10月26日の激戦では、道雪らが、大量の弓矢と鉄砲を城内へと撃ちこんで奮戦したりもしますが、結局、最後まで毛利有利の展開をひっくり返す事はできず、ついに11月5日、大友軍はやむなく撤退を開始・・・ここに門司城攻防戦は、毛利軍の勝利となったのでした。

それにしても・・・
海上からの艦砲射撃と聞けば、幕末の薩英戦争(7月2日参照>>)函館戦争(5月11日参照>>)を思い浮かべてしまいますが、戦国時代・・・それも、意外に早い段階で行われていたとは・・・

ちょっどびっくりですね。
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2009年8月20日 (木)

鍋島直茂の奇襲作戦~佐嘉城・今山の戦い

 

元亀元年(1570年)8月20日、大友宗麟の命により龍造寺隆信佐嘉城を囲んだ大友親貞の軍に、龍造寺配下の鍋島直茂が奇襲をかけて大友軍を撃破した今山の戦いがありました。

・・・・・・・・・

周防(山口県)の名門・大内氏なのどの介入もあり、様々に政情が変化した戦国時代の九州地方・・・そんな中、ここにきて「九州三強」と呼ばれはじめたのが、薩摩(さつま・鹿児島県)島津義久豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)肥前(ひぜん・佐賀県)龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・

しかし、鎌倉以来の豪族とは言え、もともと九州北部を支配していた少弐(しょうに)の配下であった龍造寺の(8月15日参照>>)、しかも分家の出身である隆信は、隣国の宗麟にとっては新興勢力です。

元亀元年(1570年)3月、「ここは一つ、これ以上勢力をつける前に叩いてやろう」と、隆信の本拠地・佐嘉(さが)城への侵攻を開始します。

・・・とは言え、日頃から、現地へ赴いて最前線に立つ事が少ない宗麟・・・今回も一族(甥とも)大友親貞(ちかさだ)を総大将に佐嘉城・攻略戦に向かわせます。

なんだかんだで、この時点で北九州では最大の勢力を持つ大友氏・・・地元はもちろん、進軍する先々で国人たちが味方につき、最終的に6万という大軍勢になって佐嘉城を囲みます。

一方、守る龍造寺は、わずか3000・・・男・隆信、最大のピンチです。

数にものを言わせて、佐賀平野を埋め尽くすがごとく城を囲み、圧力をかける大友勢ですが、これが、終始小競り合い程度で、なかなかズバッとした攻撃を仕掛けて来ない・・・。

城の北西10kmほどのところにある今山に本陣を置いた総大将の親貞・・・「これだけ囲んどいて、何をモタモタしてるんだ?」と思いきや、これが、どうやら占いによる行動だったらしい・・・

つまり、占いで、「まだ攻撃をしちゃいかん!」なる指示が出ていて、運気が好転するまで、ちゅうちょしていたのだとか・・・

現代人の我々にとっては、そんな迷信に頼らず、情報を収集して絶好の機会に撃って出るべき・・・と考えますが、以前、軍師のお仕事のページ(5月23日参照>>)でもご紹介させていただいたように、意外と戦国武将は縁起を担いだり、運に頼ったりしてます。

・・・とは言え、あまりの戦勝報告になさに、イラ立つ宗麟は、筑後福岡県南部)まで出張ってきて、総攻撃をうながすのに答えて、来たる8月20日に総攻撃を仕掛ける決意を固めた親貞は、その前日、戦勝祝いと称して酒宴を開きます。

「何やっとんだ!」
と、怒りたくもなりますが、親貞にしてみれは、それだけ、数のうえでも負けるはずのない城攻めだった・・・あるいは、これもゲンかつぎって事なのでしょう。

しかし、そんな大友勢の油断を見逃さなかったのが、龍造寺の重臣の鍋島直茂(信生)・・・彼は、隆信に、わずかな手勢での奇襲作戦を提案します。

Sagazyouimayamazucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

あまりの大胆な作戦に、最初は猛反対だった隆信でしたが、直茂・本人のヤル気、母・慶誾尼(けいぎんに)モーレツ説得(3月1日参照>>)などにより、この作戦の決行を許可します。

大友勢が宴会もたけなわの前夜、わずか500人の手勢を従えて、佐嘉城を出て、密かに、総大将・親貞のいる本陣へと向かいます。

そうです・・・総勢6万とは言え、広範囲に兵力を配置していたため、この時の本陣には、わずか数千の兵しかいない事も確認済み・・・

かくして、元亀元年(1570年)8月20日未明・・・本陣・今山の背後に身をひそめて機会を待っていた直茂の手勢は、一斉に鬨(ときの声を挙げ、前日の祝宴で、未だ爆睡中の大友勢に襲いかりました。

仕掛けられた側は、何がなんだかわからず、大混乱となる中、次々と兵を打ち破る直茂らは、とうとう総大将・親貞の首も討ち取ってしまいます。

こうなると、大軍は散り々々となり、我先にと戦線離脱していきます。

なんせ、先に書いた通り、6万というのは、途中から加わってきた国人衆を含んでの数・・・それも、寄らば大樹の陰とばかりに、とりあえず勢いのある大友に味方しておこうと言った、いわば烏合の衆で、心から大友に忠誠を誓った臣下の者ではありませんから、崩れるとなると早いです。

こうして、今山の戦いは、あっけなく龍造寺の勝利に終わります。

ただ、宗麟が出張ってきていた事もあり、この一戦だけで、大友勢が兵を退く事はなく、この後も、しばらくの間、佐嘉城の包囲は続きますが、結局、何をするという事もなく、半年後には、和議を結んでの撤退とあいなりました。

ちなみに、ご存知のように、肥前の熊とよばれた龍造寺隆信は、晩年、酒におぼれ家臣からの信頼を失い、島津との沖田畷(おきたなわて)の戦いで戦死(3月24日参照>>)・・・その後の龍造寺氏は一気に勢力を失い、今回の今山の戦いで大活躍した直茂がとって代わるかたちとなり、江戸時代を通じて、佐賀=鍋島藩という事になるのです(10月20日参照>>)

そんな龍造寺からの交代劇も含んだ鍋島の化け猫騒動については、9月6日のページでどうぞ>>
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2009年8月19日 (水)

藤原北家・独占!摂関政治の始まり

 

貞観八年(866年)8月19日、藤原良房が、皇族以外で初めての摂政となりました。

・・・・・・・・・・

またまた出ました~!
日本史を語るうえで外せない一族=藤原氏・・・

ご存知のように、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)して、大化の改新を決行・・・その功績により、天皇から藤原姓を賜った事で(10月15日参照>>、藤原氏が始まるわけですが、先日も書かせていただいた通り、その後の壬申の乱(7月22日参照>>)で政権交代する中、鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)が、娘・宮子を第42代・文武天皇夫人とする事に成功し、再び政治の表舞台に藤原氏が登場します(8月3日参照>>)

さらに、その文武天皇と宮子の間に生まれた皇子が第45代・聖武天皇となった事で、見事、外戚(天皇の母方の実家)をゲット!・・・しかも、天皇の妃となっていた不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)が、皇族以外で初の皇后=光明皇后となりました。

ここで、世代が不比等から4人の息子へと移り、長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)を初めとする藤原氏以外の実力者を次々と追い落として、やがては、平安時代に、その栄華を♪欠けたところのない満月のようだ♪と称した、あの藤原道長頼通(よりみち)父子の全盛時代(10月16日参照>>)へと続いていくわけですが、そこにたどりつくためには、やはり、本日の藤原良房(よしふさ)さんなくしては考えられなかったわけです。

そもそも、ご存知のように、不比等の4人の息子たち・・・藤原氏と言えど、彼ら全員が繁栄に至ったわけではありません。

4人の息子たちは、それぞれ・・・
武智麻呂(むちまろ)南家
房前(ふささき)北家
宇合(うまかい)式家
麻呂(まろ)京家
と、4つの家に分かれますが・・・

武智麻呂の南家は、息子・藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ライバルだった橘氏を倒して(7月4日参照>>)、全盛を築いたのもつかの間、ラブラブだった孝謙天皇道鏡に取られて、哀れ反逆者となってサヨナラ・・・(9月11日参照>>)

宇合の式家は、息子・広嗣(ひろつぐ)の反乱(9月3日参照>>)と、ひ孫・薬子の乱(9月11日参照>>)ダブルパンチで脱落・・・。

麻呂の京家は、やはり息子の浜成(はまなり)氷上川継(ひかみかわつぐ)の乱に加担していたため、伊豆へ流罪となって終了・・・

・・・で、結局、残ったのは房前の北家・・・

房前のひ孫にあたる藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、第52代・嵯峨天皇のお気に入りとなり、天皇の息子である第54代・仁明天皇の後宮に娘・順子(じゅんし・のぶこ)を入れる事に成功・・・さらに、その嵯峨天皇の皇女・潔姫(きよひめ)を自分の息子の妻に迎える事にも成功します。

この冬嗣の息子が良房です。

Yosifusasessyoukeizu2cc そして、その仁明天皇と順子との間に生まれたのが第55代・文徳天皇

さらに良房は、自分の娘・明子(あきらけいこ)を文徳天皇の後宮に入れ、二人の間に生まれた皇子が第56代・清和天皇となり、またまた藤原氏が外戚ゲット!となります。

あぁ・・・ややこしい!
つまり、清和天皇から見て良房は、母方のおじいちゃんであり、父の叔父さんでもある・・・嵯峨天皇は、父方のおじいちゃんであり、母方のひいじいちゃんでもあるわけです。

とにかく、めちゃめちゃ濃い関係・・・しかも、この清和天皇の即位にあたっては、それまで、文徳天皇の長男である惟喬親王(これたかしんのう)が、ほぼ次期天皇とされていたにも関わらず、生まれて、わずか8ヶ月で皇太子にするというあらわざでの即位でした。

なんせ、この頃の政治の中心は天皇・・・しかし、天皇は男系男子で受け継がれていきますから、天皇の父方の実家は、必ず天皇家なわけで、そこに他人が入る余地があるとすれば、天皇の母方の実家=外戚になる事・・・

天皇が幼ければ幼いほど、母方の実家の意見がまかり通るわけですから、必死になるのもムリはありません。

さらに、良房は、この清和天皇にも、姪の高子(たかいこ)を嫁がせようとして、あの女たらしの在原業平(ありわらのなりひら)チョッカイ出されたりなんかしとります(5月28日参照>>)

次く、あの応天門炎上事件(9月22日参照>>)で、犯人と疑われた周囲の人間が失脚する中、なにやらひとり勝ちとなって、さらにトップの座を揺るぎないものとし、いよいよ貞観八年(866年)8月19日摂政に就任するのです。

・・・と、ここで、摂政と聞くと、あの第33代・推古天皇(3月7日参照>>)・・・その女帝のもとで摂政となった聖徳太子を思い出しますが、本来、この摂政という役職は、天皇が幼少だったり、中継ぎの女帝だったりした時に、そのサポートにために設けられ、聖徳太子や中大兄皇子のように、皇太子か、それに準ずる皇族が就任するのが通例でした。

しかし、ここで、初めて臣下として、天皇の外祖父にあたる良房が就任したわけです。

以後、この摂政になるのは、天皇の外戚である事が必須条件となり、良房の次には、息子(養子)基経(もとつね)が、この地位を継承し、仁和三年(887年)には、基経は関白となります。

ちなみに、この関白という役職は、成人した天皇のもとで、摂政と同様の職務を行う役職で、この基経の時代に設置されたものです。

つまり、この先、応徳三年(1086年)に白河上皇院政をはじめるまで、200年近くに渡って続く事になる、いわゆる摂関政治が、この良房・基経父子のもとでスタートしたわけです。

こうして、ほぼ藤原北家の独占となった摂政・関白が、道長の全盛へと続いていくのです。
 

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2009年8月18日 (火)

苦労人の宮さま~クーデターを決行した中川宮朝彦親王

 

文久三年(1863年)8月18日、公武合体派の公卿が会津藩・薩摩藩の武力を借りて、過激な尊王攘夷派であった公卿と長州藩を京都から追い出した八月十八日の政変がありました。

・・・と、八月十八日の政変については、すでに昨年の今日書かせていただいていますので、その経緯については昨年のページを見ていただくとして(2008年のページを見る>>)、本日は、その政変の中心人物となった中川宮さまについて・・・

・‥…━━━☆

戦国とともに日本史で最も人気の時代である幕末・・・何度も小説やドラマで描かれている時代ですが、そんなドラマに出て来そうで出てこない中川宮朝彦親王(なかがわのみやあさひこしんのう)・・・

ややこしいので、本日は中川宮で通させていただきますが、とにかく次から次へと名前を変え、実際にはたくさんのお名前をお持ちです。

そもそも中川宮という事は、宮さまなのですから皇族のかた・・・しかも親王さまですから、本来なら、とてもとても高貴なご身分なわけで、むしろ箱入りお坊ちゃまでなくてはいけない人生のはずなのですが、そのご身分とはうらはらな、さばけた性格をお持ちなうえ、下積みの苦渋をなめる経験も積まれた苦労人でもあります。

そんな中川宮は、北朝3代・崇光天皇を祖に持つ世襲親王家の一つ伏見宮の第20代・伏見宮邦家親王(ふしみのみやくにいえしんのう)の第4皇子として文政七年(1824年)に京都で生まれます。

天保七年(1836年)に第120代・仁孝天皇の養子となり、その2年後の天保九年(1838年)には、奈良興福寺の塔頭である一乗院の門主となります。

つまり、この時点では僧侶という事ですが、当時、奈良奉行だった川路聖謨(かわじとしあきら)(3月15日参照>>)には、自ら酌をして、ともにお酒を飲むというきさくな人だったようで、しかも、この僧侶時代に、すでにカノジョがいて子供までつくってしまうおおらかさ・・・なんとも魅力的です。

その後、青蓮院門跡門主の座につき、この時点では青蓮院宮、あるいは、その場所が粟田口にあった事から粟田宮と呼ばれます。

しかし、ここで、例のペリー黒船来航(6月3日参照>>)で起こった日米修好通商条約の締結に反対し、次期将軍問題で一橋徳川慶喜を推したために、その後、大老となった井伊直弼(いいなおすけ)安政の大獄(10月7日参照>>)蟄居(ちっきょ)の処となって相国寺で隠居・幽閉生活を送り、獅子王院宮と称します。

そんな直弼が桜田門外の変(3月3日参照>>)で倒れると、還俗(げんぞく・出家した人が俗世間に戻ること)して、ここで中川宮を名乗ります。

この頃、時の天皇である第121代・孝明天皇が、何かと相談していたのが、この中川宮です。

それこそ、俗世間とは一線を引く生活を送っている天皇にとって、他の環境を知り、下積みの苦労を知っている中川宮は、天皇という立場では知り得ない様々な事を知る強い味方であった事でしょう。

・・・で、この時に朝廷内で主流の立場にあったのが、尊王攘夷派の公卿たち・・・

この尊王攘夷(そんのうじょうい)というのは、もともと、天皇を中心に据えて尊ぶ文字通り尊王の思想と、かの修好条約以来、入国してくる外国人を排除しようとする攘夷の思想とが合体した物・・・

孝明天皇自身が、外国を排除したいと考えていたので、この尊王思想と攘夷思想がくっついたわけですが、確かに、天皇を大事にしてくれて、外国を追い払おうとしてくれて、それはそれで結構なのですが、孝明天皇が考える攘夷は、あくまで幕府が行うもの・・・しかし、現在の尊王攘夷派は倒幕すら視野に入れた過激なものだったのです。

そんな過激な尊王攘夷を嫌う孝明天皇の意を引き出した中川宮は、京都守護職を務めていた会津藩と、トップクラスの軍備を持つ薩摩藩に同盟を組ませ、彼らに御所の警備を任せる事にし、文久三年(1863年)8月18日過激な長州藩を禁門(蛤御門・御所の門の一つ)の警備から外した・・・これが、八月十八日の政変です。

この日、御所の警備陣に阻まれた尊王攘夷派の公卿たちは、御所の中に入れてもらえず、警備から外された長州藩も、その舞台から下ろされる事となったわけです。

ちなみに、この年に元服して弾正尹(だんじょうのいん)に任ぜられた中川宮は、ここからは尹宮と呼ばれます。

・・・で、上記の通り、この政変で中央から追われた長州藩は、その中川宮と会津藩主・松平容保(かたもり)襲撃する計画を立てるわけですが、その計画を練っていた密会場所を一網打尽にしたのが、翌・元治元年(1864年)に起こったあの新撰組の池田屋事件(6月5日参照>>)です。

ちなみに、この年に中川宮は、宮号を賀陽宮(かやのみや)の変更・・・

その後、京都を奪回すべく、兵を率いて押し寄せた長州藩が、御所の前で諸藩と交戦した禁門の変(蛤御門の変)(10月21日参照>>)、その報復にと幕府が決行した2度の長州征伐(5月22日参照>>)と続きますが、この長州征伐の陣中で第14代将軍・徳川家茂(いえもち)が亡くなり(7月20日参照>>)長州征伐は終結・・・(7月27日参照>>)

さらに、その年末に孝明天皇が亡くなり(12月25日参照>>)、強い味方を失った中川宮とその仲間たちは、朝廷内で急激に力を失っていきます。

会津とタッグを組んでいた薩摩は、すでに長州と同盟を結び(1月21日参照>>)、ともに倒幕へとまっしぐら・・・やがて、中川宮らと交代するように朝廷内に暗躍するのは、やはり、以前は公武合体(朝廷と幕府の協力体制)を主張していたはずの、あの岩倉具視(ともみ)でした。

やがて慶応三年(1867年)12月9日の小御所会議で発せられた倒幕側のクーデター・王政復古の大号令(12月9日参照>>)にて、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)総裁に就任・・・以後、中川宮の出る幕はなくなりますが、ここで、ムリに政情にあらがう事なく、万事をスルーするのは、やはり、下積みを味わった経験と皇族のおおらかさの両方を兼ね備えた中川宮のなせるワザと言ったところでしょうか。

明治維新がなった後、もともとの本籍であった伏見宮に戻し、その後、明治八年(1875年)には新しい宮家・久邇宮(くにのみや)を創設・・・で、最後のお名前は、久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)となります。

しかし、大胆でおおらかな中川宮ではありますが、明治の世となった後も、その心の奥底に流れる真の強さを見せつけてくれます。

かの政変で敵となった長州へ屈する事を許さず、新政府に入らないばかりか、生涯、東京に引っ越す事もありませんでした。

それでも、公家社会に隠然たる勢力を持ち続けるのは、やはり、世情を知り尽くした、その人生経験によるものでしょうか。

誇り高く、それでいて気さくな皇子は、伊勢神宮の祭主も務め、皇學館大学を創設し、9男・9女という子宝にも恵まれ、明治二十四年(1891年)、68歳でこの世を去ったのでした。
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2009年8月17日 (月)

幕末・日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲

 

慶応三年(1867年)8月17日、幕臣の栗本鋤雲がパリに到着しました。

・・・・・・・・・・

以前、慶応三年(1867年)にパリで開催された万国博覧会に日本が初めて参加した時に、そのご挨拶として、15代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の弟・徳川昭武(あきたけ)将軍の名代としてパリを訪問した事を書かせていただきましたが(3月7日参照>>)、そのパリ万博でちょっとした問題が起こっていました。

もちろん、日本として漆器や刀など、日本らしい様々な品を出品した幕府でしたが、同時に、薩摩藩が「薩摩琉球国」として、独自に出品していたのです。

これでは、今の日本が一枚岩でない事がバレバレ・・・幕府としての面目まるつぶれです。

しかも、ここに来て、幕府とフランスの関係も微妙になってきつつありました。

それこそ、薩摩藩が独自に万博に出品するくらい、幕府の力が衰えつつある時、何とか、もちこたえていられるのは、フランスとの提唱があればこそ・・・の部分もあり、その関係が崩れてもらっては困るのです。

そこへ、薩摩問題&フランスとの交渉のために派遣されたのが、外国奉行として活躍していた栗本鋤雲(くりもとじょうん)でした。

鋤雲は、文政五年(1822年)、幕府の典医だった喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男坊として江戸に生まれました。

兄である喜多村直寛(なおひろ)も、幕府医学館の重鎮で、多くの医学書を残した人なので、根っからの学者・医者一家の中、彼もまた、その優秀なDNAを受け継いで、天才・秀才の集まりである幕府の学問所でもトップクラスの成績でした。

ただ、好奇心や向学心があまりにも旺盛で、少し、破天荒なところがあり、学校を退学処分になってしまうような規格外の行動があったという事で、マジメ一方の秀才ではなく、なんとも魅力的な人です。

やがて、26歳の時に、幕府の奥医師であった栗本氏の養子となって栗本姓を継ぎ、彼自身も幕府のお抱え医師となります。

上記の通り、頭も良く、医師としても優秀だった彼は、即、奥詰医師に昇格し、何度も幕府からその腕前を賞賛される名医となりますが、その破天荒な性格は未だ健在・・・

35歳の時に、長崎海軍伝習所で練習船として使用されていたオランダ製軍艦・観光丸への試乗を願い出て、心踊らせながら、初めて外国船の中を見物させてもらいます。

ところが、これが幕府の逆鱗に触れるのです。

どうやら、当時の幕府の奥医師は、西洋医学を学ぶ事を禁じられていて、つまりは、彼が西洋文化に触れた事がお気に召さなかったようで・・・。

・・・で、いきなり免職され、蝦夷地への移住を命じられ、一家ともども函館に引っ越す事になってしまいます。

思いっきり左遷です。

しかし、これが、逆に鋤雲にラッキーをもたらします。

函館にて、布教活動をしていたフランス人宣教師・メルメ・カションと知り合い、お互いにフランス語と日本語を教えあう仲となり、フランス語を習得します。

さらに、樺太(からふと)国後(くなしり)択捉(えとろふ)の巡検を命じられた事も、自身の学識を高めてくれました。

あちらこちらを自由に探索し、のびのびと研究するうち、蝦夷地には、本州にはない薬草などが豊富にある事を知り、それを幕府に献上したりなんかして優秀さをアピールし、函館医学所をも創設して、意外にも、この地で大活躍したのです。

結局、そんな功績が認められて、文久三年(1863年)、再び江戸へと呼び戻されます。

舞い戻った江戸で、自らが学んだ学問所の頭取を命じられる鋤雲でしたが、そうこうしているうちに、今度は、横浜のフランス公使館で、あのカションと再開するのです。

そう、カションは、鋤雲から習った日本語力を活かし、フランス公使・ロッシュの通訳をやっていたのでした。

すでに、幕閣の小栗忠順(おぐりただまさ)からの信頼も篤かった鋤雲とカションの、この運命的な再会により、幕府はフランスと急接近・・・その提携によって幕府改革を進める事になるのです。

横須賀の造船所建設、フランス式の陸軍を目標にした陸軍への移行・・・などなど。

その後、外国奉行となって、外国との交渉の役目を荷う彼は、あの下関砲撃事件(5月10日参照>>)の交渉役もこなしました。

そんなこんなの慶応三年(1867年)・・・冒頭のパリ万博の問題です。

男、鋤雲・46歳、慶応三年(1867年)8月17日、パリに到着した彼は、その交渉を見事成功させ、フランスとの関係を修復させました。

ところが・・・です。

ご存知のように、彼がフランスに行っている間に、大政奉還(10月14日参照>>)王政復古の大号令(12月9日参照>>)・・・この一連のニュースを聞き、慌てて帰国する鋤雲でしたが、彼が、日本に到着したのは、翌・慶応四年(1868年)の4月・・・

すでに、ともに幕府改革を行った小栗は、新政府の手によって処刑され(4月6日参照>>)、友人の多くは亡くなるか、新政府に移ったか・・・変わり行く日本の地に、もう彼の居場所はなかったのです。

もちろん、優秀な鋤雲の事は、誰もが知るところですから、新政府からのお誘いは当然あったわけですが、彼は、そのすべてを断ります。

自らを育て上げてくれた幕府への義を貫きたい彼は、「忠臣は二君に仕えず」の言葉を残して隠居の道を選び、歴史の表舞台から去る事になります。

・・・が、しかし、鋤雲の旺盛な好奇心&破天荒な性格は、ここにきても、まだ健在だったのです。

その右手の刀をペンに持ちかえて・・・明治の世を生きる鋤雲は、報知新聞の記者となり、反政府の立場を貫くジャーナリストとして、再び表舞台に登場する事となります。

まさに、「忠臣は二君に仕えず」・・・彼は、優秀な医者であると同時に、義に篤い根っからのサムライだったのかも知れませんね。
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2009年8月15日 (土)

織田信長・天下への第一歩~稲葉山城・陥落

 

永禄十年(1567年)8月15日、かねてより再三に渡って織田信長の侵攻を受けていた斉藤氏の居城・稲葉山城が陥落しました。

・・・・・・・・・・

弘治二年(1556年)4月20日、主君を倒して国を盗り、美濃(岐阜県)のマムシの異名をとった斉藤道三が、息子・義龍のクーデター(10月22日参照>>)により長良川に散りました。

ウソかマコトか、その道三から「娘婿に国を譲る」という約束(4月19日参照>>)をとりつけていた織田信長(正室・濃姫が道三の娘)は、「舅の弔い合戦」を大義名分に、その後、再三に渡って美濃へ侵攻しますが、天下の名城とうたわれた居城・稲葉山城はさすがに堅固であり、また、義龍がなかなかの名君であった事から、度々の苦戦を強いられます。

そんな中の永禄四年(1561年)、義龍が35歳とい若さで急死し、息子の龍興(たつおき)14歳で家督を継ぐと、信長はチャンスとばかりに、すかさず美濃侵攻を開始・・・翌日の5月14日の森部(森辺)の戦い(5月14日参照>>)、続く23日の美濃十四条の戦い(5月23日参照>>)と立て続けに勝利します。

なんとなく、酒や色に溺れた愚将と称される龍興ですが、それは、あくまで信長側から見た後世の見解で、個人的には、それほどダメな武将とは思えないのですが、とにかく、祖父・道三と父・義龍が、あまりにすばらしかったため、「そこまでの器ではない」と言ったところでしょうか・・・やがて、家臣との亀裂が生まれ、それを諌めようとした竹中半兵衛「稲葉山城乗っ取り事件」(2月6日参照>>)なんかもありつつも・・・

その間に尾張(愛知県西部)を統一し、ラッキーがらみの桶狭間(5月19日参照>>)で今川義元を倒した彼は、今こそチャンスとばかりに、本格的に稲葉山城の攻略へと的を絞り、その拠点とすべく小牧山に城を建設・・・

さらに永禄八年(1565年)にも、堂洞合戦(8月28日参照>>)で美濃を侵攻しつつ、かねてより、小回りのきく木下藤吉郎(後の豊臣秀吉によって、水面下で行われていた美濃の国人衆への調略が功を奏し、永禄十年(1567年)、斉藤氏以前の土岐氏の代からの美濃の重臣であった美濃三人衆稲葉一鉄(いなばいってつ)氏家卜全(うじいえぼくぜん)安藤守就(もりなり)勧誘に成功・・・その呼びかけに応じた彼らは、8月1日、稲葉山下の井ノ口城下に火を放ち、稲葉山攻略ののろしを挙げました(8月1日参照>>)

美濃国人衆を含めた織田軍の総勢は約1万5千・・・一方の斉藤軍の詳細な数は不明ながらも、堅城の防御力を活かし、なかなかの抵抗を試みますが、あらかじめ兵を分散して配置していた事が、かえって致命的となってしまいます。

信長は、四方に鹿垣(ししがき・柵)を築いて金華山を囲み、城と外部の連絡を遮断する「取り籠め」作戦を決行しながら、徐々に攻め立てます。

Inabayamazyoufuzinzucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

正面の上り口にあたる大手・七曲がり口からは、美濃国人衆を含む旧斉藤家・家臣たちが、信長本隊とともに進み、城の守りの要所であった瑞龍寺口からは柴田勝家佐久間信盛とともに攻め上ります。

かくして永禄十年(1567年)8月15日、信長の総攻撃に半月間耐えた堅固な城も、とうとう陥落する事となります。

この時、(から)め手に位置する険しい山道を、少数の精鋭のみで登り、ゲリラ的作戦で敵を翻弄させ、目を見はる武功を挙げたと言われているのが、かの木下藤吉郎・・・ただし、この藤吉郎の動きに関しては、前年の墨俣の一夜城(9月14日参照>>)の一件も含めて、創作の可能性が高いとの事ですが、果たして搦め手から劇的に突入したかどうかはともかく、この一連の稲葉山城の攻略において、彼が相当な働きをした事は確かなようで、この戦いが、木下藤吉郎・大出世の飛躍の合戦になった事だけは事実と言えるでしょう。

道三の死から11年・・・悲願の稲葉山城を攻略し、龍興を追放した信長は、井ノ口と呼ばれていたこの地を岐阜と改めます。

その名前の由来は、信長の側近だった僧・沢彦(たくげん)が発案した、古代中国の周王朝文王殷王朝を倒した時に挙兵した地名「岐山(ぎざん)「岐」と、孔子が誕生した地の「曲阜(きょくふ)「阜」を取ったものと言われています。

城の名も、稲葉山城から岐阜城に改められ、その城郭は、名城の稲葉山城を土台にしながらも、さらに難攻不落で、しかも、山頂とふもとの2ヶ所に天主(安土城と同じく天守ではなく天主です)がある壮麗な造りに建てなおされました。

現在、千畳敷と呼ばれる石組みのある場所がふもとの天主のあった場所で、それは信長の居館として使用され、広い庭園や豪華な障壁画で飾られていたのだとか・・・

この岐阜城にて天下取りの道へと歩む事になる信長と、興福寺を脱出した将軍家の後継・足利義昭(7月28日参照>>)が出会うのは、この翌年・永禄十一年(1568年)の事となります(10月4日の後半部分参照>>)

一方の龍興は、一旦、伊勢に逃れて長島の一向一揆(5月16日参照>>)と同調した後、近江(滋賀県)浅井長政から越前(福井県)朝倉義景の元に身を寄せていた天正元年(1573年)、信長の越前征伐で最も激戦となった刀禰坂(刀根坂・とねざかの戦い(8月14日参照>>)にて、壮絶な戦死を遂げています。

思えば、信長が稲葉山城攻略に費やした11年間というものは、半士半農の国人&土豪の集団を束ねるそれまでの戦国大名と同じだった尾張の田舎侍が、全国ネットに躍り出て、自らの家臣をプロの戦闘集団に育て上げるために費やした時間だったと言えるかも知れませんね。
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2009年8月14日 (金)

外国関連の歴史年表

このページは、お目当ての記事を探しやすいようにと、外国関連の出来事を年表形式にまとめて、各ページへのリンクをつけた「ブログ内・サイトマップ」式の年表です。

「このページを起点に、各ページを閲覧」という形で利用していただければ幸いです。

なお、あくまでサイトマップなので、ブログに書いていない出来事は、掲載しておりませんので、とても年表とは言えないかも知れませんが、ブログに記事を追加し次第、随時加えていくつもりでいますので、ご了承くださいませ。

*便宜上、日付は一般的な西暦表記とさせていただきました

 Zidaigaikoku
 

・・・・・・・・・・

出来事とリンク
-3千 2 17 ノアの洪水がこの日から40日続く
【ノアの方舟・洪水伝説】
-383 2 15 釈迦が入滅
【釈迦の入滅~涅槃会と涅槃図】
79 8 24 ベスビオ火山が噴火
【ボンベイ・最後の日】
398
9 5 神功皇后に三韓征伐の神託が下る
【神功皇后の三韓征伐】
528 10 5 達磨大師・没
【ダルマさんのご命日】
552 10 13 仏教伝来
【仏教伝来~物部VS蘇我】
607 7 3 第1回遣隋使・小野妹子を派遣
【国書を失くした妹子が出世する不思議】
630 8 5 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
【世界情勢で変化した遣唐使の役目】
663 8 27 白村江の戦い
【その敗戦の原因は?】
717 8 20 安倍仲麻呂が遣唐使として出発
【三笠の山に出でし月かも】
754 1 16 鑑真和上が平城京に到着
【鑑真和上が日本に来たかったワケは?】
755 11 9 安禄山の乱
【楊貴妃は日本で生きていた?】
894 9 30 遣唐使の廃止を決定
【白紙に戻そう遣唐使】
1274 10 5 対馬西岸に元軍が到着
【フビライの日本侵略計画はあったか?】
10 19 元軍が博多湾に侵入
【蒙古襲来・文永の役】
1275 9 7 北条時宗が元の使者を斬殺
【時宗が元との徹底抗戦を決意した日】
1281 6 6 元軍が再び博多湾に侵入
【第2次蒙古襲来~弘安の役】
1282 12 8 北条時宗が円覚寺を建立
【蒙古襲来絵詞に隠された元寇のその後】
1419 6 26 応永の外寇
【朝鮮軍・襲来!応永の外寇】
1492 10 12 コロンブスが新大陸発見
【西欧の地球分割支配と朝鮮出兵】
1549 7 3 フランシスコ・ザビエルが鹿児島上陸
【ザビエルが以後よく広めるキリスト教】
1552 12 3 フランシスコ・ザビエルが死去
【ザビエル死して奇跡を残す】
1555 5 4 ノストラダムスが「諸世紀」を出版
【ノストラダムスの大予言】
1569 4 8 信長が京都での宣教師居住と布教を許可
【織田信長とキリスト教】
1581 2 23 織田信長が黒人・弥介と対面
【織田信長と黒人さん】
1587 6 19 豊臣秀吉がキリシタン禁止令を発令
【秀吉が切支丹禁止令を出したのは?】
1590 6 20 天正遣欧少年使節団が帰国
【天正遣欧少年使節団の帰国】
1592 4 13 文禄の役で豊臣隊が釜山上陸
【文禄の役・釜山上陸】
1593 1 26 碧蹄館の戦い
【泥沼の朝鮮出兵~碧蹄館の戦い】
1597 2 5 長崎で26名のキリスト教徒を処刑
【長崎二十六聖人・殉教の日】
1598 11 20 慶長の役・終結
【慶長の役終結~悲惨な戦の残した物】
1600 3 16 リーデフ号が豊後に漂着
【三浦按針・漂着~そしてヨーステンは】
1620 8 26 支倉常長が帰国
【伊達政宗の幕府転覆計画】
9 16 メイフラワー号がイギリスを出発
【新天地への旅立ち】
1629 10 3 江戸幕府が山田長政に朱印状を交付
【アユタヤの戦士・山田長政は実在した?】
1668 3 8 江戸幕府が長崎貿易の禁制品を定める
【日本人の輸入品好きは昔から?】
1742 1 14 エドモンド・ハリー・没
【ハリーとハレー彗星の話】
1829 9 25 シーボルトが国外退去
【シーボルト事件のウラのウラ】
1842 8 29 アヘン戦争・終結
【アヘン戦争の終結】
1853 6 3 ペリーが浦賀に到着
【ペリーが予測した「ものづくり日本」】
10 14 ロシアのプチャーチンが下田に入港
【開国の嵐に不幸続きのプチャーチン】
1856 7 21 初代アメリカ領事・ハリスが下田に到着
【ハリスと唐人お吉】
1862 8 21 生麦事件
【島津を180度変えた生麦事件】
1863 5 10 長州藩がアメリカ商船を砲撃
【長州が外国船を攻撃!下関戦争・勃発】
7 1 イギリスが薩英戦争のGOサインを出す
【未遂に終った「スイカ売り決死隊」】
7 2 薩英戦争・勃発
【薩英戦争~新生・薩摩の産みの苦しみ】
9 28 第1回・薩英和平会談が開かれる
【戦いすんで~薩英戦争・その後】
1864 2 23 幕末遣欧使節団がエジプト国王を訪問
【使節団・珍道中~スフィンクスと侍】
3 20 遣欧使節・池田団長がフランス外相と会見
【池田団長が日本人で初めてした事は?】
8 6 下関戦争・終結
【幕府も新政府も借金まみれの原因は?】
1866 8 20 徳川幕府がフランスと$600万の借金交渉
【でるか?徳川埋蔵金】
幕末・横浜・フランス兵殺人事件
【幕末・横浜・フランス兵殺人事件】
1867 3 7 徳川慶喜の弟・昭武がパリに到着
【慶喜の弟がパリ留学の間に・・・】
8 17 外国奉行・栗本鋤雲がパリに到着
【日本とフランスの架け橋~栗本鋤雲】
1868 1 11 アメリカ兵・射殺事件
【日本の危機?アメリカ水兵射殺事件】
1871 11 12 津田梅子ら女子留学生がアメリカへ
【津田梅子のアメリカ留学】
1872 9 13 マリア・ルーズ号事件で清国人奴隷を解放
【副島種臣の英断~マリア・ルーズ号事件】
1874 1 27 宮城県の男性が外国人女性と結婚
【国際結婚&結婚の歴史】
4 18 征台の役で木戸孝允が辞職
【近代日本初の対外戦争】
1877 4 16 札幌農学校のクラーク博士が北海道を去る
【生涯の誇り~クラーク博士のambitious】
1885 1 27 第1回・官約ハワイ移民が日本を出発
【明治に始まった日本人移民の苦悩】
1890 9 16 エルトゥールル号・遭難事件
【95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難】
1891 5 11 大津事件
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋1】
【ロシア皇太子襲撃!大津事件の波紋2】
 【大津事件…その後】
1894 6 2 伊藤博文内閣が朝鮮への派兵を決定
【近代日本の日清戦争への足音】
6 9 大鳥圭介が海軍陸戦隊と仁川に上陸
【いよいよ日清戦争へ…】
7 25 豊島沖海戦
【日清戦争・開戦!豊島沖海戦】
7 29 成歓の戦い
【日清戦争・成歓の戦い】
9 16 平壌・陥落
【日清戦争~平壌・陥落】
9 17 黄海・海戦
【日清戦争~制海権を握った黄海海戦】
11 21 旅順口・攻略
【日清戦争~旅順口攻略】
1895 2 2 日清戦争で威海衛を攻略
【終結へ…威海衛・攻略】
4 7 正岡子規が従軍記者に…
【日清戦争と正岡子規~従軍記者として】
4 17 下関条約・締結
【下関条約締結で日清戦争・講和成立】
4 23 露・独・仏が三国干渉
【日清戦争の後の「三国干渉」のこと】
1896 4 6 ギリシャのアテネで近代オリンピック開会
【第1回・近代オリンピック】
11 25 神戸でエジソンのキネトスコープを公開
【映画の日に映画の歴史】
1904 2 10 日露戦争・勃発
【日露戦争・勃発!】
3 27 日露戦争・旅順閉塞作戦で広瀬中佐・没
【旅順港閉塞作戦に散った広瀬武夫】
8 10 日露戦争・黄海海戦
【力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦】
9 4 日露戦争で遼陽に入城
【日露戦争・初めての大野戦~遼陽会戦】
1905 1 2 旅順・陥落
【日露戦争のキーポイント・旅順陥落】
3 10 奉天占領(日露戦争)
【日本軍・極寒の奉天占領】
5 27 日本海海戦
【伝説の東郷ターンは?】
1907 3 5 初のミスコンテストでミス日本が決定
【ミス日本に選ばれて退学処分】
1909 10 26 伊藤博文が暗殺される
【真犯人は別にいる?】
1911 5 31 タイタニック号の進水式
【タイタニック号にまつわる不思議な話】
1918 6 1 板東俘虜収容所で捕虜が第九を演奏
【武士の情けの収容所に響く「歓喜の歌」】
1923 9 1 関東大震災
【関東大震災での災害ボランティア】
1927 3 18 アメリカから青い目の人形が到着
【青い目の人形・到着】
1929 8 26 アーネスト・サトウが没す
【幕末の日本を駆た外交官・サトウ】
1932 4 24 日本で初めてダービー開催
【競馬の歴史~日本ダービー記念日】
1933 11 13 イギリスでネッシーの撮影に成功
【ネッシー写真で大論争】
1941 6 22 ドイツがソ連への攻撃を開始
【史上最恐の暗号・エニグマ】
12 8 日本軍がハワイの真珠湾を奇襲
【真珠湾攻撃】
1943 7 29 日本軍が「キスカ撤退作戦」を決行
【キスカ撤退作戦・成功!】
1945 1 21 ラース・ビハーリー・ボースが日本で没す
【インド独立に貢献したボースと頭山満】
4 7 戦艦・大和が沈没
【戦艦大和、海に散る】
8 6 広島に原爆投下
【広島平和記念日】
8 17 インドネシアが独立宣言
【インドネシア独立の為戦った日本人】
9 27 昭和天皇がマッカーサー元帥を訪問
【昭和天皇とマッカーサー元帥】
12 5 大西洋上でアメリカ空軍機が消息を絶つ
【バミューダ・トライアングルの日】
1957 1 29 日本南極観測隊が昭和基地を命名
【南極探検と観測の歴史】
1963 6 15 「上を向いて歩こう」が全米チャート1位に
【すき焼きは、国際的の証?】
1979 1 22 ~1999:海王星と冥王星の軌道が交代
【冥王星と海王星が・・・】
1885 3 17 トルコ航空がイランの日本人を救出
【95年後の恩返し~エルトゥールル号・遭難】
1986 7 31 杉原千畝・没
【6千人のユダヤ人を救った杉原千畝】
番外編 【悲劇の人・おたあジュリア】
世界豆知識 【男女の前あわせとネクタイの始まり】
【7月・8月と大の月が続くのは?】

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2009年8月13日 (木)

暴れん坊・徳川吉宗~怪しすぎる8代将軍・誕生劇

 

享保元年(1716年)8月13日、江戸幕府第8代将軍に、紀州藩主の徳川吉宗が就任しました。

・・・・・・・・・・・

就任直後から、「享保の改革」(6月18日参照>>)と呼ばれる様々な改革を行い、崩れ行く幕府の態勢を立て直した中興の名君として讃えられる8代将軍・徳川吉宗・・・。

確かに、ここで吉宗さんが登場しなければ、江戸時代という徳川の時代も、7代で終っていたかも知れないと思わせるほどの名将軍ではありますが、御三家とは言え、地方藩主の四男坊が、天下の徳川幕府の将軍になった経緯については、あの「暴れん坊将軍」で受ける爽やかなイメージとはうらはらな謎多き人でもあります。

以前、江戸時代に実際に起こった事件をモデルにした「天一坊事件」(4月21日参照>>)についても書かせていただきましたが、この時、「実は、あなたの子供です」と名乗り出た見知らぬ人物を、「絶対に違う!」と、真っ向から否定できないほど、実は紀州のぼんぼん時代は遊びまくっていた・・・。

つまり、将軍になるなんて思ってもみなかった、なるはずもなかった紀州時代には、よくも悪くも、いろんな女性と、ほぼ自由な恋愛をしていて、隠し子の1人や2人いてもおかしくない自由奔放でのびのびとした生活を送っていたわけです。

そんな吉宗が17歳になった元禄元年(1697年)、越前国(福井県)丹生(にゅう)という地を与えられ、本来なら、その後は丹生3万石の大名として生きていくはずでした。

ところが22歳になった宝永二年(1705年)・・・二人の兄の死をきっかけに、その人生が変わっていくわけですが、その後、紀州藩主になり、やがて享保元年(1716年)8月13日将軍に就任します。

・・・と、この将軍になるまでの12年間で、身近な人&将軍継承にかかわる人が合計8人亡くなっている事になるのですが、その方たち、いずれか1人が欠けても、吉宗が将軍になる事はなかったのです。

臭いますねぇ・・・。

もちろん、すべてが怪しい死だというわけではありませんが、中には原因不明の急死とされる不可解なものもあります。

まずは、宝永元年(1704年)、長兄・綱教(つなのり)の奥さん・鶴姫天然痘で亡くなります。

実は、この鶴姫さん、あの5代将軍・徳川綱吉の娘・・・ご存知のように、綱吉は、あの「生類憐みの令」(1月28日参照>>)を発した人物・・・一説に、この法律が生まれた原因は、綱吉の長男・徳松が亡くなって後、男の子が生まれなかったせいだとも言われていますが、それが事実かどうかはともかく、そんな噂が飛び交うほど、実際にその後継者に困っていたのも確かなのです。

そんな中、実子のいない綱吉が次期将軍にと考えた人物が二人・・・一人は綱吉の兄の子=つまり甥っ子の甲府藩主・徳川綱豊、そしてもう一人が吉宗の長兄・綱教だったのです。

しかも、当時の綱吉は、かなり綱教さんに傾いていたのだとか・・・確かに、甥っ子には、自分の血は流れていませんが、将来、娘が産む子供=孫には、自分の流れている事になります。

すでに紀州藩主を継いでいる綱教ですが、娘婿の彼が次期将軍になれば、当然、その息子が次の将軍になるわけで、まだ見ぬ孫に、その夢を託す気持ちはわかります。

しかし、上記の通り、この鶴姫さんは、子供を産む事なく亡くなってしまい、そうなれば、当然、綱教を将軍にという話も立ち消えとなるわけですが、その翌年、その長兄の綱教が病死し、すぐ後に父・光貞も亡くなります。

この二人の死に関しては、いずれも病名こそ記されていないものの、不可解な部分は少なく、現在のところ、鶴姫・綱教・光貞に関しては、怪しい部分はないとされています。

しかし、問題は、次の頼職(よりもと)の死・・・この方は、光貞の三男=つまり、吉宗のすぐ上のお兄さんなのですが、二男の次郎吉さんという方が早くに亡くなっているので、長兄亡き後、紀州藩主を継ぐべき人物で、実際、この時、藩主を一旦継いだ後、実務をこなすために江戸から紀州へと帰国の途についていたのですが、その旅の途中に謎の急死を遂げます。

急に発病して・・・となっていますが、もちろん病名も不明・・・この次兄の死によって、四男坊の吉宗に藩主の座が転がり込んでくるわけですから、ここは疑われてもしかたのないところ・・・ただし、証拠はありません。

こうして、わずか一年で、父と二人の兄を亡くした吉宗は、この同じ年、第5代・紀州藩主となり、しばらく内政の改革などをこなす事になります。

この間の宝永六年(1709年)に綱吉が亡くなり(1月10日参照>>)、次の将軍には、かの綱豊が徳川家宣(いえのぶ)と名を改めて6代将軍となりますが、その家宣は、在位わずか3年で亡くなり、その息子・鍋松が、わずか4歳にして第7代将軍・徳川家継となります。

ただ、その家継も、わずか8歳で亡くなってしまうのです。

先の綱吉が29年間も将軍の座についていたにも関わらず、その後、7年間で2回も将軍が交代するという胡散臭さ満載の展開ですが、これには、家宣・家綱ともに病弱だったという話もあり、また、吉宗が・・・というよりは、二人の将軍の母による大奥内でのドロドロした関係が取りざたされているようです。

よく大奥ドラマで描かれるように、将軍の母となると、膨大な権力を手中に収める事ができるのですが、たとえ将軍のお手がついて、その子供を産んだとしても、身分の低い側室は、身分が低いままで、その子供は正室の子として育てられるわけです。

しかし、その子供が将軍になった場合は別・・・将軍の生母として優遇されるのです。

・・・で、この時の大奥に君臨するのは、家宣の正室・天英院と、家継の生母・月光院の二人がいる事になるわけですが、後者の月光院さんは、まだ家継が幼い頃から、我が子を将軍にするために、他の側室の産んだ子を暗殺したといった噂の耐えないしたたかな女性でありました。

しかも、上記のように、家宣亡き後の家継の生母という事で、それまでトップだった天英院の権力が、将軍交代で月光院に移り、その華美な生活は頂点を極めていたわけですが、この二人の確執は、大奥内には留まらず、それぞれの派閥の老中や御用人といった幕府幹部を巻き込んでの派閥闘争にも関与する事になります。

・・・で、この時、病弱な家継を心配して、生前の頃から、すでに次期将軍を誰にするかが取りざたされていたのですが、ここで月光院派が推していたのが、尾張徳川家の吉通(よしみち)・・・と、そのまま、月光院派が権力を握っていれば、たとえ家継が亡くなっても、次期将軍は、その吉通になるはずでした。

が、しかし、ここで、一つの事件が起こります。

あの大奥最大のスキャンダルと言われる「絵島・生島事件」(3月5日参照>>)です。

月光院派のナンバー2であった絵島が、生島新五郎というイケメン役者に惚れこんで、大奥の門限に遅れた・・・あるいは、男子禁制の大奥に彼を招きいれ、逢瀬を楽しんだと言われ、大奥内、果ては幕府内の月光院派が大量処分された事件です。

これによって、大奥内&幕府内の権力は一転して天英院派へと戻る事になるのです。

・・・で、その天英院が次期将軍に推していたのが、吉宗・・・その人です。

徳川家の正史である『徳川実記』では、「これは、亡き先代将軍・家宣様のご遺志である」という天英院の強い主張により、吉宗に決まった事が記されていますが、一方の月光院派で、この後失脚する事になる新井白石の著によれば、「家宣様は、次期将軍には尾張の吉通を・・・もしダメなら、鍋松を将軍にして、吉通を後見にする」と言った事が書かれていて、勝者と敗者の言い分の食い違いが生じてします。

どちらが正しいかは、更なる証拠の発見を見るしかないわけですが、最初に書いた通り、家宣は、綱吉の後の将軍の座をめぐって、一時は紀州の綱教とライバルとなった人ですから、その人がはたして、自分の次の将軍に、ライバルだった人の弟を指名するかどうかは、はなはだ疑問だという歴史家の指摘もあります。

とにもかくにも家継亡き後、こうして将軍の座を射止めた紀州の四男坊・徳川吉宗・・・この後、享保の改革の一環として、先のスキャンダルで月光院派がいなくなった大奥に、未だ残っている天英院派を一掃する大幅リストラに踏み切るのは、さすがの大奥女帝の上をいくしたたかさを持っていたという事なのでしょうか。

「世の中に人間ほどおそろしいものはない。善人にも悪人にも心を許してはならない・・・人は、色と酒と欲を好むものゆえ、その人の好みを知って取り入っていけば、願いが叶わない事などない」
これは、吉宗が著したとされる『紀州政事草』の中の一説ですが、まさに・・・

実践あるのみですな・・・吉宗さん。

・・・で、この後、吉宗は御三卿という、自分の子孫だけが将軍職を継ぐシステムを、ちゃっかり作り上げる事になるのですが、そのお話は、11月10日【いつの世も次期将軍でモメる?】のページでどうぞ>>
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2009年8月12日 (水)

関ヶ原の合戦と伊達政宗

 

慶長五年(1600年)8月12日、宇都宮城に入っていた徳川秀忠が、北目城伊達政宗に、協力して作戦遂行する旨の書状を送りました。

・・・・・・・・・・

慶長五年(1600年)8月12日徳川秀忠から伊達政宗協力要請・・・何への協力か?

もう、おわかりですね?
そうです・・・関ヶ原の合戦です。

・・・とは言え、関ヶ原は岐阜県・・・今の政宗は遠く宮城県、しかも、かの宇都宮城の秀忠は、この後、関ヶ原へは間に合わず、東軍の主力となるのは、東海道を西へ行った父の徳川家康とその仲間たち、一方の西軍・総大将の毛利輝元は大坂城に留まったままで、主力は石田三成とその仲間たち・・・。

これまで、ドラマや小説で度々描かれてきた関ヶ原ですが、この時、同時に起こった東北の関ヶ原とも言える一連の戦いは、ほとんど登場してきませんでした。

今年の大河ドラマ「天地人」は、上杉家が主役・・・今年こそ、この東北の関ヶ原が、くわしく描かれるものと期待に胸を膨らませている今日この頃ですが、この時、上杉は西軍側・・・かたや、東軍側に着いて東北の関ヶ原を主役なみで駆け抜けるのが、かの伊達政宗なわけです。

そもそも、生前の豊臣秀吉は、自分にもしもの事があった時、未だ幼い息子・秀頼を盛りたてて豊臣家を守ってくれるよう、五大老と五奉行をはじめとする配下の者に、様々な約束事をとりつけていたわけですが、秀吉の死後、その約束事を最初に破ったのは、他ならぬ家康と政宗です。

秀吉の後を追うように前田利家が亡くなると、もともと豊臣家内でくすぶっていた朝鮮出兵の最前線にて命がけで戦った武闘派と、天下人・秀吉の名の下で国家の内政をこなす文治派との亀裂が表に出てきます(3月4日参照>>)

その亀裂をうまく利用しながら京都は伏見城にて政務をこなす家康は、今や、豊臣家内で実力トップの座にいるわけですが、もちろん、家康の本心は、自らが、豊臣家に代わって天下を取る事であり、このまま豊臣家の家臣=五大老の1人として生きていくつもりはありませんから、徐々に、その意思表明・・・その第一歩が慶長四年(1599年)の家康の六男・松平忠輝と、政宗の長女・五郎八(いろは)姫との婚約でした。

かの秀吉との約束事の中には、「大名同士の私的な婚姻は禁止」というのも含まれていますから、これは明らかに約束違反ですが、実は、政宗にとっても渡りに船だったんです。

現在、上杉が治めている会津は、もともと政宗の領地・・・小田原参陣に出遅れ(6月5日参照>>)葛西大崎一揆への関与を疑われ(2月4日参照>>)て大幅減封となってしまい蒲生氏郷(うじさと)の物となった会津は、その氏郷亡き後、上杉の手の中にありました。

豊臣家どっぷりの上杉ですから、このまま豊臣の世が続けば、さらに領地を拡大する可能性もあり・・・なんとか、伊達家開祖の地・伊達郡も含めて、元の領地を取り戻したい政宗にとって、豊臣に反旗をひるがえす気配の家康と結んでおく事に越した事はありませんし、ここで天下が転べば、その混乱に乗じて、再び奥州の覇王になる事も・・・いえ、まだまだ歳若い政宗なら、天下を狙う事だってできるかも知れません。

そりゃ~ハリキリまっせ!

かくして、自らの約束破りは棚の上に置いといて、領国へ戻った上杉景勝(かげかつ)上洛を求める家康・・・拒否の返事に謀反の疑いありとし、会津征伐を決意します(4月1日参照>>)

この時、家康が命じた諸将のダンドリは・・・
南の白河口家康本人&秀忠
東の仙道口からは佐竹義宣(よしのぶ)
同じく信夫(しのぶ)からは政宗
北の米沢口最上義光(もがみよしみつ)
西の津川口からは前田利長掘秀治

こうして、東北があわただしくなる中、一方の上杉もじっとしてはいられません。

7月22日には、上杉の家老・直江兼続(かねつぐ)が、越後一揆を扇動し、現在の越後の領主である掘秀治を牽制します(7月22日参照>>)

ハリキリボーイ(と言っても30歳過ぎてますが・・・)政宗は、北上してきた家康が小山(おやま・栃木県)に到着した7月24日、早くも、上杉領の最北端にある白石城へ攻撃を仕掛け、翌・25日には開城させてしまいます。(7月25日参照>>)

しかし、ここで状況が変わります。

後に、「小山評定(ひょうじょう)と呼ばれる事になる、この25日の軍儀・・・ここで、家康は、ともに会津征伐へとやってきた諸将に、会津征伐を中止して西へと戻る事を発表します(7月25日参照>>)

そうです・・・すでに7月19日から、家康が留守にした伏見城へ、石田三成の命を受けた毛利秀元小早川秀秋らの攻撃が始まっていたのです(7月19日参照>>)

これについては、兼続が家康を東北へ惹きつけておいて、その間に三成が挙兵するという二人の密約があったとか、逆に、家康が三成から攻撃を仕掛けさせるために、わざと会津征伐を口実に伏見城を留守にしたとか・・・後の歴史を知っている私たちから見れば、イロイロな想像を掻き立てられる部分ではありますが、いずれも、確固たる証拠があるわけではありません。

とにかく、家康は、ここで、ともに来た諸将に、「西軍につきたい者は、遠慮せず、この場から去ってくれ、ともに来てくれる者は残ってくれ」と問うたのです。

なんせ、彼らの妻子は大坂城に人質状態となってますから・・・しかし、福島正則山内一豊ら、東海道に城を持つ武将らが率先して、持城と兵糧を提供してまでの全面協力に、その場で西軍へと降った者はほとんどいなかったと言います(9月20日参照>>)

これにより、しばし会津は停戦状態となったのです。

家康は、次男・結城秀康(11月21日参照>>)を宇都宮城に配置して上杉の攻撃に備えるとともに、政宗や義光にも、その動向に注意を払うよう命じ、自らは、居城の江戸城へと向かいますが、ここで気になるのは、佐竹義義宣の行動・・・

実は、上記の会津攻めのメンバーに入っている義宣さんですが、なにやら怪しい動きをしていたのも、事実・・・この先、家康がもっと北へと向かっていたら、白河で上杉と合流して、取って返すつもりであったとも言われています。

さすがに家康も疑っていたようで、北関東の諸将には、佐竹の動向を探るように言い残して、自らは、この後、1ヶ月間江戸城に籠ります。

この時の、家康の江戸城滞在は、一つには、今後の戦況を有利に進めるために全国の諸大名に戦後の恩賞をチラつかせた手紙を送る事・・・細川忠興(ただおき)には但馬(兵庫県)を、加藤清正には肥後筑後(熊本・福岡県)を保証する」といった具合にです。

もちろん、かの政宗にも、8月22日付けで、勝利のあかつきには苅田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井など旧領7ヶ所=50万石加増の約束・・・世に言う「百万石のお墨付き」を与えています。

100mangokunoosumitukicc これがウワサの「百万石のお墨付き」=『徳川家康領地覚書』(仙台市博物館蔵)

そして、もう一つには、豊臣恩顧の武将を中心に構成した東海道を西へ行く先発隊が、ちゃんと東軍として働いてくれるかどうかを見極めるため(8月11日参照>>)・・・なんせ、昨日まで、豊臣のために働いていた彼らですからね。

・・・と、ここで、上杉が、家康を追撃していたら、実際のところ、家康は相当危なかった・・・。

しかし、上杉は動きませんでした。

以前、「直江状のところで書かせていただきましたが(4月14日参照>>)、とにかく、景勝が首を縦にふらなかったのです。

この後の歴史を考えれば、この時の上杉の追撃のあるなしが、天下を分けたターニングポイントだったのかも知れません。

結局、ヤル気満々だったのに、殿様に反対されて家康への追撃ができなかった兼続は、次に、国境を接している最上の領地を占領すべく、北へと進攻します。

それが、関ヶ原の合戦と同じ日に勃発する長谷堂の戦い(9月16日参照>>)なのですが、もちろん、これにも東軍側として援軍を出した政宗・・・

ただ、ご存知のように、肝心の関ヶ原が、わずか1日で決着がついてしまいます.

それでも、気持ちが収まらない政宗は、大勢が決まった後も、家康の制止を振り切りながら、福島城をはじめとする上杉領への進攻を度々繰り返しています。

なんせ、「百万石のお墨付き」ですから・・・

しかし、政宗のドサクサまぎれの行動に、家康がブチ切れ激怒した事により、しかたなく刀を納める事になった政宗は、わずか2万石が加増されただけでした。

この時、政宗34歳・・・もはや、戦での領地拡大の時代ではない事を悟った政宗は、これからは、内政を重視し、領国をを発展させる事によって石高を増やす近代大名への道を歩む事になります。

・・・と思いきや、まだ、諦めてませんね~

それは支倉常長(はせくらつねなが)の事。

そのお話は・・・
3年も前に書いたページですが、よろしければコチラからどうぞ>>
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2009年8月11日 (火)

今年も運行!京都・嵐電の妖怪電車

 

京都の夏の風物詩・嵐電の妖怪電車が今年も出ます!

京福電鉄・・・昔は、その名の通り、京都福井の両方で電車が走っていて、「いつしか、この二つはつながるのかいな?」と、思っていたのですが、私の知らぬ間に福井のほうは他社に譲渡されたようで、その後は京都の嵐山線北野線のみの運行という事で、現在では、京福電鉄という正式名称よりも「嵐電=らんでん」の呼び名で親しまれています。

・・・で、その嵐電で3年前から行われているこのイベント・・・

Youkaidnsya 普段の京福電鉄の車両に、ゲゲゲの鬼太郎のラッピングをほどこした通称「化け電」と呼ばれる車両が、8月17日~23日までの7日間、17時25分・四条大宮駅発を皮切りに、夜の京都を3往復とちょっと・・・

もちろん、車内には、約30種に及ぶ妖怪の紹介や妖しい光を放つ装飾、不気味な音楽も流れてムード満点!
しかも、そこへ妖怪たちが・・・゜.+:。(*´v`*)゜.+:。

そもそも、平安時代に語られるようになった「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)

妖怪魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類が、深夜の都を列をなして徘徊するというもので、今昔物語には、あの安倍晴明が、幼くして、この鬼の行列を目撃した事で、師匠である賀茂忠行(かものただゆき)が、その才能を見いだしたという話も残されています。

(*安倍晴明の逸話についてはホームページにて書いておりますので、よろしければコチラから・・・【晴明怪奇譚】へ>>

古くから、多くの説話集に登場する妖怪たちですが、現在の私たちが思い描く妖怪のイメージを定着させたのは、江戸中期の浮世絵師・鳥山石燕(せきえん)の描いた「画図百鬼夜行」によるところが大きいようです

Gazuhyakkiyagyoucc 彼は喜多川歌麿(きたがわうたまろ)の師匠としても知られる人物で、ろくろ首雪女といった妖怪を、その百鬼夜行の中で、約140種(後に追加して200種)も登場させています。

彼が活き活きと描いた妖怪たちが、後世の絵師に引き継がれ、現在ではスタンダードな妖怪の姿となって定着していますね。

そんな百鬼夜行にちなんでの京都ならではの企画が、この妖怪電車・・・確かに、交通が発達した現代なら、夜に徘徊するのも、電車を使ったほうがより広範囲巡れるというもんです。

ところで、このイベントとの連動企画として・・・
8月15日には午前11時から嵐山駅にて「写生大会」、同じく午後5時からは「妖怪仮装コンテスト」など、おもしろ企画も盛りだくさん行われます。

また、期間中を通じて北野白梅駅に近い大将軍商店街に、雪女特製かき氷などのオリジナルメニューが用意された「妖怪喫茶 ぬらり茶房」も出現!

さらに、8月18日~31日までの期間は自分の考えたデザインが「化け電」のヘッドマークになる(平成24年3月31日まで使用の予定)という、電車好きにはたまらない「ヘッドマークのデザイン募集」や、「妖怪川柳募集」も行われています。

・・・と、なにやら、嵐電のまわし者のような記事になってしまいましたが、なんせ、私は、こういうオモシロ企画が大好きなのです。

妖怪電車の運賃は・・・
大人:200円
小人:100円
妖怪: 50円・・・えぇ?50円!?

このクソ暑い中、用もないのに、四条大宮⇔嵐山間を3往復もして、車内を盛り上げてくれるのに、バイト代くれると思いきや金取るんかい!

・・・と、思ったら、どうやら、一般の人が、妖怪の扮装で電車に乗ると、運賃が50円という企画らしい・・・おもしろい!

ただ・・・四条大宮駅で、妖怪姿のまま17時25分の電車を待つのは、ちょっとツライものがある気がしないでもないが、「あなたは妖怪電車に現れた妖怪です」と書かれた認定書が貰え、しかも上記の通り、運賃が50円なので、レア物好きとしてはぜひとも入手したいアイテムである事は確かです。

けど・・・
単に、風邪をひいたためマスクをして乗っただけなのに、口裂け女と勘違いされた場合は、どうしたらいいんだろう?

色が白いだけで雪女、頭部が○○なだけで河童、化粧が濃いので山姥・・・

イロイロ想像すると、身の毛もよだつわぁ~

運行表
17:25 四条大宮→嵐山ゆき
18:05 嵐山→四条大宮ゆき
18:42 四条大宮→嵐山ゆき
19:19 嵐山→四条大宮ゆき
19:47 四条大宮→嵐山ゆき
20:21 嵐山→北野白梅ゆき
20:46 北野白梅→西院ゆき

(くわしくは京福電鉄・妖怪電車のページへ>>)

 

今日は「百鬼夜行」以外は歴史ではありませんが(^-^;
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2009年8月10日 (月)

力づくの勝利~日露戦争の黄海海戦

 

明治三十七年(1904年)8月10日、日露戦争黄海海戦において、日本軍の連合艦隊が勝利しました。

・・・・・・・・・・・・・

この年の2月、日本の宣戦布告によって開始された日露戦争(2月10日参照>>)・・・。

開戦前から、陸軍には朝鮮半島の占領と満州南部のロシア軍の撃破、海軍には旅順(りょじゅん)ウラジオストックに拠点を持つロシア太平洋艦隊の撃破して黄海&日本海の制海権を握る事が目標とされていました。

開戦間もなくの仁川(じんせん)沖海戦で勝利(2月9日参照>>)した日本軍は、すぐに仁川へ上陸し、韓国政府との間で、兵の駐留を認める議定書に調印します。

次の目標は、旅順港に停泊中のロシア艦隊の主力を撃滅させる事ですが、これがなかなかうまくいきません。

旅順港内は鉄壁の要塞となっており、戦うには、相手が、その港から出撃してくれなければならないわけですが、艦隊を温存したいロシアが出撃をしないのです。

決死の覚悟で近距離から砲撃を浴びせるも、旅順要塞からの砲弾によって、多数の被害が出る(3月27日参照>>)・・・結局、これらのくりかえしによって、旅順の攻略は、陸軍へとゆだねられる方向へと変わりました。

そんなこんなの8月7日、旅順港内に籠りっぱなしのロシア艦隊に、本国・ロシアから、「艦隊をウラジオストックに移せ」との命令が届きます。

先の、陸軍による陸からの旅順攻略作戦を見込んでの命令でした。

もし、日本軍が陸路で旅順を攻略すれば、その眼下に広がる港に停泊する艦隊を攻撃するのは、いとも簡単な事になってしまいますから・・・。

Nitirotizucc ↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

かくして明治三十七年(1904年)8月10日早朝・・・旅順の港を出るロシア艦隊・・・。

一方、6時15分に、このニュースを聞いた司令長官・東郷平八郎は、ただちに、周辺に停泊中の連合艦隊に出撃命令を発し、ロシア艦隊への追撃を開始します。

12時30分、遼東半島沖でロシア艦隊を捉えた連合艦隊は、90度左に回転し、進んで来るロシア艦隊にふさがる形となります。

先の「旅順への陸路の攻略に備えて・・・」というロシア側の判断を知るよしもない日本軍は、「こう着状態を打開するためロシアが決戦に及んだ」と判断し、すぐさま砲撃を開始します。

しかし、当然の事ながら、ロシア艦隊は、ある程度応戦はするものの、とにかく、射程距離から脱出する事のみを目標に、スピードを落す気配はありません。

そうなると、徐々に距離が開いていくのは当たり前・・・15時20分、東郷は砲撃中止の命令を発します。

なんとか、逃げ切ったロシア艦隊・・・しかし、時節は夏真っ盛り!
まだまだ、日が傾くには時間があります。

連合艦隊は、その世界に誇るスピードを生かして、追撃を再開・・・17時30分、再び射程圏内にロシア艦隊を捉えます。

暮れなずむ黄海を、ロシア艦隊に並走しながらの猛攻を加える連合艦隊・・・。

やがて18時37分、連合艦隊の旗艦・三笠が放った砲弾が、ロシア艦隊の旗艦・ツェザレウィッチに命中・・・しかも、重要な部分に着弾した事で司令官や参謀に被害が出ます。

さらに、操舵室で運転中の兵士が、舵に寄りかかって亡くなったため、ツェザレウィッチは大きく左に旋回します。

まだ、無線もままならない頃・・・旗艦が左に旋回すれば、それが作戦かと勘違いし、後に続く艦船も次々と旋回しますが、360度旋回したツェザレウィッチは、その後に続く艦隊の列に突っ込んで、もう、ロシア艦隊は大混乱となります。

こうなって、やっと旗艦・ツェザレウィッチの異常を知った他の艦船は、指揮命令系統が崩壊したまま、散り々々に・・・ある船はサイゴンへ、ある船は樺太へ、また、ある船は旅順へと帰港しましたが、もはや戦闘能力はゼロ

結局、目的のウラジオストックには、一隻も到着しなかったのです。

こうして、黄海海戦は、日本軍の連合艦隊の大勝利となったのです。

後の東郷によれば・・・
「5月27日の日本海海戦(5月27日参照>>)の日ではなく、この黄海海戦の日こそ海軍記念日にしてほしい」との事・・・

確かに、日本海海戦は大勝利ではありますが、東郷の予想が的中したラッキーな部分も拭えない勝利・・・それに比べると、こちらは、自らが、決死の覚悟で挑んだ激戦により、勝利をもぎ取った感じがします。

おそらく、東郷さんにとっては、こっちの黄海海戦のほうが「やったった!」が強いのかも知れませんね。

この後に、陸軍が奮戦する旅順攻略1月2日のページでどうぞ>>

Rengoukantaicc 本日のイラストは、夕暮れ迫る黄海での連合艦隊の勇姿を描いてみました~

ちなみに、一番向こうのが先頭を行く旗艦・三笠・・・のつもりです。
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2009年8月 8日 (土)

将軍に愛された美少年・世阿弥~謎の後半生

 

嘉吉三年(1443年)8月8日、猿楽から発展したを、芸術の世界にまで引き揚げた世阿弥がこの世を去りました。

・・・・・・・・・

能のルーツとなった猿楽は、もともと農村で行われていた神事の芸能です。

言い伝えによれば・・・
南北朝動乱の時代、大和(奈良県)には五ヶ所の声聞師(しょうもじ)の村があったのだとか・・・声聞師とは、門付けして経文などを唱える芸能人の事で、彼らの村には十ほどの曲舞座があったと言います。

世阿弥(ぜあみ)の父である観阿弥(かんあみ)は、そんな曲舞座の一つの乙鶴で女曲舞を学び、神事の芸能に女曲舞を取り入れた新しい芸能を生み出し、結崎座(ゆうざきざ・観世流)を組織して、各地を巡回・・・村の祭礼や社殿の造営の時に招かれて演技を披露し、これが、なかなかの喝采を浴びていました。

やがて、醍醐寺での興業で人気を博した結崎座は、京の都を中心に活動するようになりますが、そんな一座の一員として舞いを披露していた少年が、観阿弥の息子・鬼夜叉・・・後の世阿弥元清です。

そんな彼が12歳の時、一大転機がやってきます。

それは、京都は今熊野神社で行われた神事猿楽興業・・・その神事を見物に来ていた、時の将軍・足利義満が、その世阿弥の美しさに一目ぼれ!

世阿弥は、10歳の時に初舞台を踏んでから、その容姿の美しさとともに、演舞の見事さは目を見張るばかり・・・そう、彼は、メチャメチャ美少年だったのです。

・・・と、上記の「将軍が美少年を」という文章で、ほとんどの方が、戦国武将にありがちなオッサンと美少年の構図を想像されたでしょうが、おっとドッコイ・・・この時、将軍・義満も、まだ17歳!

こ・・・これは、このところ、一部腐女子という方々に人気のボーイズ・ラブ=BLというヤツですねΣ(;・∀・)

ともあれ、これ以降、将軍の寵愛を受けた事で、能は隆盛を極めていくのですが、世阿弥自身は、父・観阿弥とは、少し違う道をめざす事になります。

それは、父の観阿弥の演舞が、あくまで庶民的な、いわゆる大衆芸能をめざしていたのに対し、世阿弥の能は、洗練された貴族的なもの・・・芸術=アートという高みをめざすものでした。

・・・と言っても、父の芸能を否定するのではありません。

彼は、全盛期と言われる応永七年(1400年)に、代表作である『風姿花伝(ふうしかでん)を著していますが、その中でも、あくまで父・観阿弥の残した遺訓を通して、その芸能論を語ります。

世阿弥にとって、父は、生涯にわたって尊敬すべき師匠であり、美学の境地であった・・・彼にとっては、そんな父に追いつき、いつしか追い越す事が最終目標だったのかも知れません。

皆さん、よくご存知の言葉・・・
「初心不可忘=初心忘るべからず」
これは、世阿弥の『花鏡(かきょう)の中にある言葉です。

その生涯で200番ほど書いた謡曲のうち、約120番以上が、今もなお演じられているという現実は、能を見た観客が味わう感動を「花」と称し、その「花」が咲き乱れる事を、最も大切にした世阿弥ならではの偉業とも言えるでしょう。

しかし、その晩年は、一転して不遇の日々となります。

それは、世阿弥が46歳の応永十五年(1408年)に義満が亡くなり、その息子で第4代将軍・義持(よしもち)の頃・・・

義持が、父・義満の、あまりに偏った世阿弥への寵愛を嫌っていた事や、豊作祈願の田遊びから発展した田楽が大好きであった事で、しだいに、彼を遠ざけるようになります。

すでに高尚な芸術となって民衆から離れていた能にとって、セレブから見放されるのは命取りです。

さらに、将軍家の能ばなれは、6代将軍・足利義教(よしのり)の時代に、決定的となります。

永享元年(1429年)、世阿弥と、その息子・観世元雅(かんぜもとまさ)は、仙洞御所での演能を禁止され、その後、間もなく、元雅は急死します。

しかも、世阿弥・72歳の永享六年(1434年)には、佐渡へ流罪となってしまうのですが、実は、この世阿弥の流罪・・・流罪にされた事だけはわかっているものの、その原因がまったくの不明です。

流罪というのですから、何か、他人を傷つけたり、大きな失敗をしたり・・・と、それなりの罪を犯しているはずなのですが、その記録はまったくありません。

一説には、義教が世阿弥の甥である音阿弥(おとあみ)を好んでいて、秘伝書とともに、後継者の座を音阿弥に譲るよう命令したにも関わらず、世阿弥が息子の元雅に観世大夫を継がせた事で、義教が激怒したとも・・・

確かに、この義教さん・・・このブログの嘉吉の乱(6月24日参照>>)でも書かせていただきましたが、あまり評判の良いかたではありません。

自分の意にそぐわない者を、次々と抹殺したという噂が、本当だとしたら、世阿弥も、些細な事が、その逆鱗に触れ、流罪となったのかも知れません。

また、一方では、息子も元雅が急死している事から、なにやらきな臭い噂も飛び交います。

それは、観阿弥が、あの楠木正成(5月25日参照>>)の血縁だとし、それゆえ、観阿弥・世阿弥父子は南朝のスパイであったと・・・

・・・で、スパイ活動をしていたところがバレた息子は暗殺され、世阿弥は流罪にというわけです。

いずれにしても、やはり義教のご機嫌をそこねての流罪であったようで、義教が暗殺された嘉吉元年(1441年)頃に、罪を許されたとされていますが、その後は京都に舞い戻ったとも言われるものの、結局は、その消息もはっきりしない状態です。

日本の伝統文化の中で、その代表格である能というものを大成させたにしては、あまりに悲しい末路となった世阿弥の生涯・・・

しかし、芸術家にとって、その作品が命であり、生きた証だとすれば、600年の時を越えて、今なお演じられ、見る人に感動の花を咲かせている事こそが、彼のめざした最終目標だったのかも知れません。

Zeamicc 追記:遅ればせながら、世阿弥のイラスト描いてみました~

・・・というより、途中まで描いてたんですが、記事のupに間に合わなかったんです(´Д⊂グスン

女っぽくなってしまいましたが、妖艶な美少年という事で・・・
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2009年8月 7日 (金)

長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩

 

永正四年(1507年)8月7日、長尾為景越後を追われた上杉房能が、松之山郷天水越にて自害しました。

・・・・・・・・・

長尾為景(ながおためかげ)・・・

管領が将軍を追放した細川政元(6月23日参照>>)、一武将が公方を倒した北条早雲(10月11日参照>>)とともに、この為景という人も守護代が守護を倒すという下克上をやってのけ、戦国乱世という時代の幕を開けた1人であります。

戦国も前半の群雄割拠の頃という事で、なかなかドラマではお目にかからない為景さんですが、あの上杉謙信のお父さんと言えば、「おぉ・・・そうなのか!」と、なんとなく親しみが湧きますよね。

長尾家は代々上杉家に仕える守護代という家柄・・・関東管領職を独占していた同じ上杉家内で、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)山内上杉(やまのうちうえすぎ)が関東の覇権を巡って争った永正元年(1504年)の立河原の戦い(9月27日参照>>)では、この為景が、山内上杉家の顕定(あきさだ)を助けるべく参戦したとの記録も残りますから、はじめはこの山内上杉の配下にあったわけです。

以前から度々書かせていただいております通り、もともと関東・鎌倉に拠点を置く足利家が、京都にて室町幕府を開いた事で、そもそもの室町幕府の守護というのは、その京都や鎌倉に身を置き、守護を務める現地の内政は、守護代が取り仕切っていましたが、「それでは基盤が弱くなる」として、この戦国期になって、現地に赴任するようになっていたのです。

しかし、ここ越後(新潟県)には、もともと国人という代々その土地を治める豪族がいるわけで、彼らにとっては上杉は関東からやってきたよそ者・・・なので、上杉家は、現地の国人たちとモメる事なくすんなりと配下にするためにも、土地の権利に関しては守護不介入を約束し、彼らの土地の多くを安堵していたのです。

ところが、守護・上杉房定(ふささだ)の病死に伴い、後を継いだ息子・上杉房能(ふさよし・顕定の弟)が赴任すると、彼は、かの不介入の制度によって守護の収入が非常に少ない事に驚き、新たな検地を実施します。

検地を断行すれは、納める税は増えるし、今まで、同じ郷里の者として暗黙の了解で行っていた未登録の田畑へのお目こぼしもなくなり、国人たちだけでなく、農民の反発をも買う事になってしまいました。

そんな中で、この守護不介入の土地を一番多く所有していたのは、守護代の長尾家です。

もう、ここで、長尾家の不満ムンムンさは感じますが、それでも為景の父・能景(よしかげ)は、従順に不介入の土地を上杉に差し出しています。

しかし、穏やかな父と違い、激しい性格の為景のムンムンは、水面下で大きくなるばかり・・・先の立河原の戦いの兵役への出費の不満もさることながら、為景が、その顕定から、宴会の席で目下の者の盃を受けるよう強要されたのを、盃を叩き割って反発した事で、さらに険悪なムードが漂います。

やがて、永正三年(1506年)、従順だった父・能景が越中(富山県)にて奮戦中に戦死してしまい(9月19日参照>>)、しかも、その時に救援要請があったにも関わらず房能が兵を出さなかったという事があり、為景の決意は固まります。

為景の出生の記録が曖昧であるため、確かな年齢はわかりませんが、おそらく、この時点で、20代の前半であったと思われる血気盛んなお年頃だった為景ですが、さすがは、戦国の幕開けに名を残す武将・・・そこは、血気にはやらず、周到に準備を重ねます。

このまま、房能を討っただけなら、単なる謀反・・・力衰えたとは言え、守護や幕府自体を敵に回してしまいますから・・・。

亡き父の家督を継いだ為景・・・まずは、その幕府への根回しとして、幕府有力者である名門・畠山氏に事前連絡

さらに、房能の養子であった定実(さだざね)を手なずけて、傀儡(かいらい・あやつり人形)として手元に確保・・・この定実を次期守護にするという大義名分を掲げ、房能の住む府中の稲荷館のすぐそばにある荒川館にて挙兵しました。

もちろん、このニュースを聞いた房能は、すぐに配下の国人を召集しますが、先に書いた通り、あの検地の一件で、すでに国人たちの心は房能から離れ、急を聞いて駆けつける者はほとんどいませんでした。

しかたなく、わずかの側近を従えて、府中を逃げ出す房能・・・めざすは、もちろん、関東の兄・顕定のところです。

安塚(やすづか)街道を、ひたすらに逃走する房能でしたが、約40km地点の天水越(あまみずこし・新潟県十日町市)にて、為景軍に追いつかれ、永正四年(1507年)8月7日無念の自刃を遂げます。

そして、先の根回しが見事に功を奏して、幕府が定実を次期・守護を認めたため、為景の主君への謀反の罪などは存在せず、当然不問・・・

かくして、前守護に不満を抱いていた国人を統合し、お飾りの新守護のもと、事実上、実権を握った為景・・・後の謙信へとつながる戦国大名への第一歩を踏み出した為景・・・この後、永正十一年(1514年)の永正の乱の勝利により、その定実は名ばかりの守護となり、事実上、為景が国政を掌握する事になるのですが、そのお話は、5月26日【永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】のページ>>でどうぞm(_ _)m

・・・と、いかにも悪人で不人気のお役人に為景が正義の鉄槌を・・・てな雰囲気の筋書きですが、これは、あくまで勝者・為景の言い分で、敗者には敗者の言い分があろうかとは思いますが、本日のところは、為景主役という事で、房能さんには、悪役に徹していただく事に・・・
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2009年8月 6日 (木)

朝倉VS加賀一向一揆~九頭竜川の戦い

 

永正三年(1506年)8月6日、越前に進攻してきた加賀一向一揆朝倉宗滴(教景)が撃破した九頭竜川の戦いがありました。

・・・・・・・・・・・

長享二年(1488年)に、加賀の本願寺門徒が高尾城を攻め、守護・富樫政親(とがしまさちか)を自刃に追い込んだ長享一揆(ちょうきょういっき)(2016年6月9日参照>>)にはじまる加賀一向一揆が、100年の長きに渡って、その支配を保ち続ける事ができた背景には、その一向一揆が、単に本願寺門徒の信仰のみによる戦いではなく、彼らに協力して勢力拡大を図ろうとする国人や、彼らの力を利用して現状を左右しようとする武将たちの思惑も絡んでいたわけです(2009年6月9日参照>>)

その筆頭とも言うべきが、そのページにも書かせていただいた管領・細川政元(6月23日参照>>)・・・

明応二年(1493年)に明応の政変と呼ばれるクーデターを決行し、時の10代将軍・足利義稙(よしたね)を追放し、自分の意のままになる傀儡(かいらい・あやつり人形)将軍である足利義澄(よしずみ・義高)を11代将軍に据えた政元に対して、その義種は北陸に潜伏し、勢力回復の機会を狙っていたわけです。

そして永正三年(1506年)7月、そんな義種を支持する勢力を一掃すべく、本願寺に協力を要請した政元に答えて、本願寺門徒に挙兵の指示を出したのが、亡き蓮如の後を継いで、第9代法主となっていた息子の実如(じつにょ)でした。

つまり、先の将軍の動きを抑えるべく、再び一向一揆が立ち上がったわけです。

その動きに同調したのが、朝倉元景(もとかげ)です。

この人は、越前(福井県)朝倉氏の現在の当主である朝倉貞景(さだかげ)叔父に当たる人・・・貞景の祖父で7代当主の朝倉孝景(たかかげ)の息子で、もともとは景総(かげふさ)と名乗っていた彼でしたが、母親の身分が低かったため、兄でありながら常に兄弟の中で下に扱われる不満から、弟の1人を殺害してしまい、以降、朝倉家を離れて政元の家臣になっていました。

その後、貞景が9代当主を継ごうとした時、自らが朝倉氏を継ぐべく、その暗殺計画を立てますが事前に発覚して、以後、能登に逃れ、身を隠していたのです。

そんな元景が、この期に乗じて越前へ進攻しようと、超勝寺(ちょうしょうじ・福井市)へ協力を要請・・・それに答えた超勝寺は、加賀・越中・能登の門徒を率いて発起したのです。

ここに、朝倉氏以前に越前の守護代だった甲斐氏の残党が加わり、総勢30万もの大軍となった一揆勢は、7月初旬、越前への進攻を開始します。

九頭竜川(くずりゅうがわ・福井市)を挟んで、彼らを迎え撃つ朝倉方の大将は、当主・貞景の叔父・朝倉宗滴(そうてき・教景)・・・

貞景の叔父・・・という事は?
そうです・・・実は、この宗滴も7代当主・孝景の息子って事で=元景とは兄弟です。

もともと、元景が貞景の暗殺を計画していたあの時、この宗滴も、その計画に加わっていたのが、途中で寝返って密告・・・つまり、この宗滴によって、元景の計画が発覚してしまい未遂に終っていたという過去があったのです。

運命のいたずらか、兄弟の元景が誘発した一向一揆と相対する事になった宗滴・・・っと、この宗滴さん、以前、弘治元年(1555年)に、やはり、総大将となって一向一揆勢を蹴散らした時に、その人となりについて、このブログで書かせていただきましたが(8月13日参照>>)、直後に79歳でこの世を去る宗滴は、その弘治元年の戦いが、一向一揆との最後の戦い、そして、今回の九頭竜川の戦いが、一向一揆との最初の戦いとなります。

この時、宗滴30歳・・・思えば、この先、50年弱に渡る人生を、この一向一揆との戦いに費やす事になるのですね。

上記のページにも書かせていただきましたが、この宗滴さん・・・生涯現役を貫いた猛将なのですが、よく語られるその類の大将クラスの武将でも、実際に自らの刀を血に染めて、先頭を切って戦うというのは、意外に少ないです。

よく、誰々が誰々を討ったという表現をする場合、ドラマやゲームでの合戦シーンを思い出し、あたかも、本人が斬りまくってる印象を受けますが、本来、大将は、軍団の指揮をとる=采配を揮うのが役目ですから、自ら、戦っていては、指示を出し難いわけです。

そんな中で、宗滴は、自ら刀を振るって戦い抜いた武将だったわけですが、この九頭竜川の戦いの時も、それまで、しばらくの間、川を挟んで対峙していた最中、8月5日夜半に約3000の精鋭とともに川を渡り、一揆軍に奇襲をかけます。

不意を突かれた一揆軍は、またたく間に総崩れとなり、討たれる者、川で溺れる者が続出し、壊滅状態となった一揆軍の中で、加賀に逃げ帰る事ができたのは、3分の1=10万ほどだったとか・・・(上記の一連の実数には諸説あり)

宗滴は、馬上から長刀を振って敵を討ち、部下に首を取らせるという方式で、多くの首を挙げました。

かくして永正三年(1506年)8月6日一揆勢を撃ち破った宗滴・・・九頭竜川での勝利に勢いづいた貞景は、この勢いのまま、吉崎御坊をはじめとする本願寺の主要寺院&道場を破却しました。

この九頭竜川の戦いに端を発した一向一揆VS朝倉の戦いは、後に朝倉に身を寄せる足利義昭(7月28日参照>>)の仲介によって和睦が成立し、元亀二年(1571年)、朝倉義景の娘と本願寺第11代顕如(けんにょ)の息子・教如との結婚によって終止符を打たれ、ともに織田信長という共通の敵に立ち向かう事となります。
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2009年8月 5日 (水)

世界情勢とともに変化した遣唐使の役目

 

舒明二年(630年)8月5日、犬上御田鍬らが第1回遣唐使として派遣され、中国へと向かいました。

・・・・・・・・・・

以前、第10回の遣唐使派遣のページ(4月2日参照>>)で、そのルート変更により、危険性が格段に増した事など書かせていただきましたが、本日は、第1回の派遣という事で、日本をとりまく周辺諸国の状勢により、徐々に変化していく遣唐使の役目などについてお話させていただきます。

ちなみに、上記の第10回のページと同様、有名な小野妹子(おののいもこ)に始まる遣隋使は、遣唐使とは、また、別の使節とご理解いただきたいと思います。

・・・で、今回の第1回の遣唐使・派遣・・・

この頃は、すでにが滅びて唐に代わってから12年・・・唐にとっては内政も整い、国内も落ちついていた時期で、皇帝の玄宗(げんそう)も、たいそうご機嫌で犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)らを、熱烈歓迎してくれています。

翌年、彼らが帰国する時には、高表仁(こうひょうじん)(皇帝の正式な使い)を持たせてお礼の訪問をさせ、「日本は遠いよって、毎年貢物せんでもえぇねんで~」てな、おやさしい事をおっしゃって、次に遣唐使が派遣されるのは22年後という事になります。

・・・にも関わらず、この次の回となる白雉四年(653年)と白雉五年(654年)には、立て続けに二年連続の第2回と第3回の遣唐使を派遣・・・。

これは、おそらく、朝鮮半島の情勢の悪化によるもの・・・例の白村江の戦い(8月27日参照>>)が、天智二年(663年)ですから、それを睨んでの派遣という事でしょう。

そして、結局その朝鮮情勢に、百済(くだら)の救援という形で参戦して、唐&新羅の連合軍に敗れた日本は、天智八年(669年)派遣の遣唐使では、「高麗を平定したお祝い」という姿勢をとっています。

しょっぱなの遣隋使の時の、皇帝・煬帝(ようだい)を怒らせたとウワサの、あの聖徳太子「日出(い)ずる処(ところ)の天子・・・」の手紙(7月3日参照>>)以来、一貫して同じ独立国家として対等の外交姿勢を貫いていた日本としては、ちょっと、腰が退けた状態となってしまいました。

・・・とは言え、やはり、中国にとっての日本は、陸続きの他のアジア諸国とは、少し違う存在だったようです。

もともと中国は、国は代われど伝統的に『冊封(さくほう)体制』をとっていました。

いわゆる、世界の中心に中国という国があり、周辺の諸国は、その中国に臣下の礼をとる事で国家として認めてもらい、その国の王も、中国の承認があってこそ、名実ともに王なのだ・・・といった具合で、ときには、中国の要請によって兵役を課せられる事もあり、属国とまではいかないものの、それに近いものだったのです。

しかし、日本は、その冊封体制には組み込まれておらず、あくまで『朝貢国』・・・一定期間に決まった回数の使節を送り、挨拶を欠かさないという立場でした。

ただ、これは、あくまで、上記の聖徳太子の時代から日本側の主張する一環した姿勢であり、中国から見れば、結局は臣下の国の一つに過ぎなかったようですが、それでも、他のアジア諸国が毎年、しかも一年に何度も使節を訪問させているのに対し、日本は、相変わらず20年に1度のままだったわけで、その点では、やっぱり、特別扱いです。

それには、もちろん、先の玄宗が言ったように、日本は海を隔てた遠くにあり、その航海が危険を伴うものであったからという事が第一ですが、それよりも、中国自身にとって重要だったのは、日本の位置です。

朝鮮半島を臣下としておくためには、その向こうの位置にある日本と仲良くしておく事が大事だったわけです。

何か事を起こそうとしても、中国と日本が友好関係にあれば、必ず、挟み撃ちとなるのですから・・・。

それは、中国だけでなく、周辺諸国も充分承知・・・高句麗滅亡後の文武元年(698年)に、朝鮮半島北部から中国東北部を領土とした渤海(ぼっかい)は、神亀四年(727年)には、自ら使節を日本へと派遣して国交を樹立した後は、むしろ日本の朝貢国のような立場を自らとっています。

これは、渤海滅亡までの200年間・・・日本の遣唐使制度が終った後も続けられていました。

あの新羅でさえ、たびたび日本とは険悪なムードになりながらも、その都度、使節を派遣して、数の上だと、遣唐使をはるかに上回る頻度での交流を持ったのは、やはり、挟み撃ちを恐れての行動なのでしょう。

・・・と、その時代々々によって、政治的背景は多少の差があって、国家を背負って訪問する使節の意味は微妙に違うものの、一貫しているのは、彼らとともに海を渡った留学生による文化的交流です。

遣唐使の留学には、短期長期があるのですが、一旦中国へ着いたその船は、1年後に再び日本への帰途をたどる事になるので、短期というのは、この1年間の留学という事になります。

長期留学の場合は、先に書いた通り、基本、20年に一度の派遣なので、必然的に20年という事になりますが、国の命により派遣された使節の官人よりは、自らの学びたいという意志で渡海してきた留学生のほうが、その情熱も高く、僧ならば、かの最澄空海(12月14日参照>>)、学生ならば、吉備真備(きびのまきび(4月25日参照>>)小野篁(たかむら)(12月15日参照>>)といった、後に中央政界で大活躍する優秀な人材を輩出する事になります。

なかには、あまりに優秀すぎて、唐に滞在中の段階で政治手腕を発揮して、帰るに帰れなくなった安倍仲麻呂(8月20日参照>>)のようなケースもありますが、そもそも、あの鑑真和上(がんじんわじょう)(1月16日参照>>)だって、おそらくは、彼ら留学生の情熱にほだされて、「日本へ行きたい!」という気持ちになったのでしょうから・・・。

それにしても・・・
近代になってこそ、発展途上国の優秀な人材を、国費にて先進国へと向かわせ、その最先端を学ばせるという留学制度が行われるのは当たり前となりましたが、1300年もの昔に、このような制度を行っていたというのは、世界広しと言えど日本くらいなのでは?

・・・と思ったら、外国にもあるそうです(゚ー゚;
下記コメントで“おみそしるさん”に教えていただきましたので、コメント欄でご確認を・・・(世界史が苦手なもので申し訳ないです・・・加筆させていただいときます)
*補足=トップページでまとめて記事を読んでくださってる場合は、この記事の末尾の【固定リンク】をクリックしていただくとコメント欄が出ます。

かくして、寛平六年(894年)に菅原道真(1月25日参照>>)の進言によって廃止されるまでの260余年・・・命がけで海を渡った若者が、勇気ととも持ち帰った最先端の知識と情報が、当時の日本に様々な影響を与えた事は言うまでもありません。

やがて、遣唐使廃止から9年後には、唐のほうが滅亡してしまいますが、伝えられた文化が見事に融合し、日本人の奥深くに根付いていくのはご承知の通りです。
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2009年8月 4日 (火)

大胆・豪傑~友に好かれた後藤象二郎

 

明治三十年(1897年)8月4日、幕末から明治にかけて活躍した土佐藩出身の政治家・後藤象二郎が60歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

ホント、少ないですねぇ・・・この後藤象二郎(しょうじろう)さんのファンという方・・・

日本の歴史では、戦国時代とともに、その人気を誇る幕末~維新にかけて大活躍したにも関わらず、坂本龍馬西郷隆盛といった志士たちや新撰組のメンバーの影に隠れて、なかなか陽のあたる場所へは立たせてもらえないキャラクターのようです。

幕末期においては、土佐藩士として土佐勤皇党を弾圧しただの、龍馬の考えた大政奉還(10月14日参照>>)の青写真=船中八策(せんちゅうはっさく)のアイデアを横取りしただのと言われ、さらに、その大政奉還を推し勧めたワリには、結局、倒幕へと傾き、土佐藩は、薩摩・長州に次ぐ3番目の貢献度となっています。

明治になってからは、参議の要職につくも、例の征韓論(10月24日参照>>)で、西郷・江藤らとともに下野し、板垣退助とともに自由党を結成した(10月18日参照>>)にも関わらず、政府の頼みで欧州に外遊したあげく政府に取り込まれる・・

次に、藩閥政治打倒に旗を掲げたと思いきや、黒田内閣の逓信大臣となって入閣する・・・「いったい、どう、したいんだ?」と言いたくなるような、このどっちつかずな態度が、その人気に「待った!」をかけてしまうようです。

上記の通り、現在の歴史ファンからは、あまり快く思われていない後藤さんですが、どうやら、彼には、後世の人間にはわからない、とてつもない魅力があったようです。

それは、同時代に生き、彼に直接会った人物のほとんどが彼を好きになるという事実・・・これを、踏まえると、彼に対する見方が少し変わるかも知れません。

幼少の頃から吉田東洋少林塾で学んだ彼は、その恩師である東洋を暗殺したのは勤皇党であると思い込んでいましたし、逆に、勤皇党のほうは、後藤が勤皇党の弾圧に加担し最終的に武市半平太(瑞山)を切腹に追い込んだ(5月11日参照>>)張本人であると信じていたのですが、その両者を和解させるべく、慶応三年(1867年)、長崎にて後藤と初めて会った龍馬も、一発で彼の魅力に取り付かれ、あの船中八策から大政奉還に至る一連の行動をともにしているのです。

刺客に襲われた英国公使・パークスをとっさの判断で救った時も、パークスは後藤を即座に気に入り、永久の親善を誓うとともに、パークスの話を聞いたビクトリア女王から勲剣を賜るという離れ業・・・パークスの通訳をやっていたアーネスト・サトウ(8月26日参照>>)も、「彼ほど理解あのある日本人はいない!」とベタ褒めです。

京都で、あの近藤勇と会った時などは、後藤に刀を向けた近藤に対して、「ボク、武士やけど、戦うの苦手やねん」と笑顔で話して、まずは、刀を納めさせ、その後、見事な話術を武器に、今後の親交を約束するまでに至ったと言います。

そんな象二郎の一番の魅力は、ここ一番の大勝負に懸ける度胸、大風呂敷とまで言われるほどの大胆な発想と行動力、不快をともなわない雄弁さにあるようです。

龍馬とともに海援隊を組織し、日清戦争の時に外相を務めた陸奥宗光(むつむねみつ)(8月24日参照>>)などは・・・
「彼は、明治の世の人ではなく、中国の混乱期である晋の末期が唐の末期に活躍すべき怪傑・・・それが、たまたま、明治の日本に現れた」
と、後藤が・・・というよりは、彼の豪快さを思う存分発揮できない時代のほうを憂うようなコメントを残しています。

それこそ、明治という時代ではなく、もう少し早い幕末か、果ては戦国の乱世に生まれていたとしたら、彼のそこはかとない魅力を、もっと感じられたのかも知れません。

一説には、彼の後藤家は、あの大坂夏の陣で鮮やかに散った後藤又兵衛(5月6日参照>>)の子孫であるという話もあり、もし、その話が本当であるのなら、もし象二郎が戦国に生まれていたら、きっと又兵衛のごとく豪快な武将になったに違いありません・・・と言いたいところですが、そういや・・・戦いが苦手なんを忘れてました~残念!

こうして、象二郎の人となりを見直してみると、少し思います。

豪快で大胆というのは、言い換えれば、細かい事にこだわらない性格という事になりますが、時には、その細かい事にこだわらない性格が、あっちについたり、こっちについたりという一貫性の無いように見える・・・象二郎にしてみれば、寄らば大樹の陰と、保身ばかりを考えて態度を変えているのではなく、ただ単に、過ぎた事にこだわらないだけだったのかも知れません。

なぜなら、かの江藤新平佐賀の乱(4月13日参照>>)を起こして指名手配となった時、「人相書きを作りたいので、江藤の写真を持っているなら貸してくれ」と頼んできた警視庁に対しては・・・

「持ってるよ!友達やもん・・・けど、友達の写真を警察に渡す事なんかできん!どうしても欲しいんやったら、警視総監自らが頭下げに来い!」
と、一蹴したのだとか・・・。

ここには、強い者にへつらって身の安全を図ろうとする姿勢は見えません。

過ぎた事にこだわらず、見えない先の事など気にせずに、今、生きたいように生き、やりたいようにをやる・・・それこそが、周囲を惹きつけてやまない象二郎の魅力だったのかも知れません。

そして、そんな彼が、ただ一つこだわったのは、苦楽をともにした友との友情だったという事でしょう。
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2009年8月 3日 (月)

律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等

 

養老四年(720年)8月3日、藤原不比等が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

奈良時代から平安時代にかけて栄華を極めた藤原氏・・・

平安の宮中文化華やかなりし頃、9歳になる孫・後一条天皇を即位させた藤原道長は、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪

「自分の栄華は、満月のように欠けたところすらない」と、高らかに勝利宣言してみせます(10月16日参照>>)

そんな藤原氏の最初の人となったのは、ご存知、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・

それまで、中臣鎌足(なかとみのかまたり・鎌子)と名乗っていた彼は、中大兄皇子(なかのおおえののみこ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺のクーデター(6月12日参照>>)を起こし、大化の改新を決行した功績により、亡くなる直前に、天皇から藤原の姓を賜り(10月15日参照>>)、以来、由緒正しき貴種=源・平・藤・橘(げん・ぺい・とう・きつ)の一つ・藤原氏として続いていく事となります。

・・・と、確かに、藤原の姓を賜って、藤原氏の祖となったのは鎌足ですが、上記のような奈良から平安にかけて一大勢力を誇り、今なお続く藤原氏の礎となったのは、実は、その鎌足の息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)なのです。

・・・というのも、あの壬申の乱です(7月22日参照>>)

壬申の乱は、第38代・天智天皇亡き後に起こった天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)・・・簡単に言うと、甥っ子と叔父さんの間で次の天皇の座を争った戦いなのですが、この時、まだ天智天皇が生存中の段階で、大海人皇子は皇位を辞退し、出家して吉野の山へ入っています(10月19日参照>>)

なので、天智天皇の死後は、その息子・大友皇子がすんなりと後継者となり、近江(滋賀県)の都にて政権を握っていたわけで、そこへ、吉野から兵を挙げて戦いを挑んで、政権を奪取して、大海人皇子は第40代・天武天皇となる・・・つまり、武力による政権交代をしたわけです(2月25日参照>>)

・・・で、上記のように鎌足は、天智天皇とともに蘇我氏を倒して、その後の政治に手腕を発揮した人なわけですから、このように、武力による政権交代となった場合、鎌足の息子である不比等は、天智天皇の後継者である大友側の人間という事で、負け組という事になります。

しかし、幸か不幸か、この壬申の乱の時には、不比等はまだ13歳だったために、一連の合戦にはまったく関与せず、処罰の対象にもならなければ、功績の対象にもならなかったわけなのです。

ただ、不比等自身は処罰は受けなかったものの、鎌足の親類にあたる中臣氏の者が多数処罰されている事でもわかるように、負け組に入った事は確かで、ここで、父の功績がすべてリセットされてしまった事は事実で、彼は、この時、ゼロからのスタートとなるのです。

つまり、この後、不比等が世に出なければ、ここで、藤原氏は歴史の彼方に消えた過去の一族になっていたかも知れないのです。

そんなこんなで、最後には、大変な大物となる不比等ですが、史実としての記載は非常に少なく、謎多き人でもあります。

ただ、そのぶん想像のしがいもある魅力的な存在ではありますが、おそらく、彼は、この不遇の日々に、とんでもなく、勉強に励んだものと思われます。

彼が、次に歴史の表舞台に登場する時には、まれに見る知識と才能を身に着けた政治家として登場します。

ただ、いくら水面下で勉強に励んで、スゴイ知識を身に着けたところで、それを発揮できる場がなければ、彼は、結局、多くの下級官人の中の1人として埋もれていたかも知れないところですが、勝ち組である天武側に嫁いだ妹たちをわずかのつてとしながら、その政治手腕で徐々に出世の道を歩みはじめていた不比等は、亡き天武天皇の後を継いたその奥さんである第41代・持統天皇の時代になって、またとないチャンスをつかみます。

それは、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)という女性との恋・・・そして、彼女をモノにした事で、さらに飛躍する糸口をつかむのです。

この時、不比等はすでに40前後・・・後に藤原の北家・南家・式家・京家を継ぐ事になる4人の男の子の他に女の子ももうけていましたし、お相手の三千代さんも、第30代・敏達天皇(びたつてんのう)4世の孫・美努王(みぬおう)との間に3人子供を持つ人妻でした。

しかし、いつしか二人は深い仲に・・・

・・・で、なぜ、不比等が三千代を落とした事がチャンスなのか?

実は、この三千代さんの県犬養という家柄も、もともとは、天皇家の倉番をするだけの大した事にない家柄だったのですが、彼女の伯父にあたる県犬養大伴(あがたのいぬかいのおおとも)という人が、かの壬申の乱の時、最初の段階から大海人側ついていた人だったのです。

その大海人皇子の吉野へのページにも書かせていただいたように、この時、大海人とともに吉野に入った人は数十名・・・最終的に、地方の豪族を味方につけ、寝返り組も含めて、壬申の乱に大勝利する大海人さんですが、この吉野入りの時は、かなり、寂しい雰囲気だったわけで、その不遇の時代から味方についていてくれた者には、大いに感謝して、戦後、多大の恩賞を与えたのです。

その恩恵にあやかったのが三千代さん・・・ちょうど、持統天皇の孫・軽皇子(かるのおうじ)が生まれたばかりの頃に、グッドタイミングで彼女も子供を出産した事で、軽皇子の乳母というポストをゲットします。

しかも、その献身的な乳母ぶりで、天皇家からの篤い信頼をも勝ちとっていたのです。

そんな彼女に、「わが娘・宮子を軽皇子の妻に・・・」娘の売り込みと同時に彼女のハートもゲットしたのが不比等です。

・・・と、書けば、なにやら、不比等が一方的に得をする打算まるだしの恋愛のようですが、三千代のほうにもメリットはあります。

それが、まぎれもない不比等の才能・・・溢れんばかりの知識と、政治力を身につけた彼は、彼女から見て、確実に出世を見込める男だったわけです。

確かに、彼女の夫は敏達天皇の4世の孫という天皇家の血筋の人ではありますが、そこまで枝分かれしてしまうと、よほどの腕の持ち主でないと、政治の中心に関わる事などできませんから、現在以上の生活は望めません。

彼女は、乳母として、まだ歳若い軽皇子が、この先、天皇の座についた時、そのブレーンとして手腕を発揮してくれるであろう不比等に、「皇子の味方になってやってね」と望んだに違いありません。

そして、自らも、そのブレーンとなる人の妻に・・・

先に書いたように不比等は40歳くらい、三千代も27~28歳前後・・・今よりも、ずっと平均寿命の短い頃ですから、もはや、打算のない感情だけに走る恋をする年齢ではありません。

お互いに、先を見通す力を持ち、この相手となら、上に登れると見込んでの恋愛・・・これも恋なのです。

かくして文武元年(697年)、軽皇子は第42代・文武天皇(もんむてんのう)として即位し、不比等の娘・宮子が皇夫人となります。

やがて、大宝元年(701年)、不比等は大宝律令の制定に尽力し、本格的な律令国家の基礎を築いた功績により、2階級特進の正三位大納言へと大出世・・・しかも、この同じ年、宮子が男子を産み、三千代が女子を産みます。

この宮子の産んだ男の子が首皇子(おびとのおうじ)が後の聖武天皇、三千代の産んだ女の子が安宿媛(あすかべひめ)が後の光明皇后となるのです。

まさに、二人の計画通り・・・おそらく、三千代は、先の文武天皇に引き続き、新皇子の乳母の座もゲットし、乳兄弟となった媛は、将来天皇になるでろう皇子に、最も近い女性となっていったに違いありません。

ただ一つ、彼ら二人の計画通りといかなかったのは、かの文武天皇が病弱だったため、即位後、わずか10年でこの世を去ってしまった事でしょう。

さすがに、まだ7歳の首皇子を天皇の座につける事はできず、皇子が成人するまでの中継ぎとして文武天皇の母であった阿閇皇女(あへのひめみこ)が、第43代・元明天皇として即位します。

しかし、不比等&三千代夫婦・・・ただでは起きません。

元明天皇の即位を祝う宴の席で、三千代は、これまでの功績により(たちばな)という姓を賜ります。

先の藤原と並ぶ由緒正しき貴種です。

この橘の姓は、彼女の前夫・美努王との間に生まれていた子供たちが継いでくれます。

後に、左大臣となる橘諸兄(たちばなのもろえ)が、彼女の長男・・・ただし、50年後、皮肉にも、この藤原氏をおびやかす最大のライバルになるのも、この橘氏なのですが・・・(7月4日参照>>)

やがて、行われた平城京遷都にも、不比等は深く関わっています(2月15日参照>>)

天皇家中心に皇族が行っていた政治を、天皇を中心にしながらも、力あのある貴族や豪族によって運営していく新体制のためには、旧勢力の影響を受ける明日香(飛鳥)の地を捨て、新天地への移転が重要だったわけです。

その後、古事記・日本書紀の編さん・・・ひょっとしたら不比等は、律令体制の確立や新しい都の建設の仕掛け人となっただけでなく、それまでの歴史をも、くつがえしているのかも・・・。

どことなく、つじつまの合わない記紀の記述を読み解きながら、あーだこーだと古代の日本を語る私たちは、1300年経った今もなお、不比等&三千代・夫婦の立てた、見事なまでの計画に翻弄されているのかも知れませんね。

やがて、養老二年(718年)に養老律令を完成させた不比等は、2年後の養老四年(720年)8月3日、藤原氏全盛へのすべての準備を終えたかのように病に倒れ、この世を去りました。

ただ、一つの心残りと言えば、わが娘・宮子が産んだ首皇子が、聖武天皇になる姿を、その目で見る事ができなかった事くらいでしょうが、この後、彼の残した4人の息子たちは、その期待通り、藤原氏最初の壁となった長屋王を排除する事になるのですが、そのお話は2月12日のページでどうぞ>>
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2009年8月 1日 (土)

美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ

 

永禄十年(1567年)8月1日、美濃斉藤義興の家臣・美濃三人衆が織田信長に内応し、稲葉山下の井ノ口城に攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・・

自らの主君である美濃(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よしなり)を追放して(12月4日参照>>)、美濃一国の主となった美濃のマムシこと斉藤道三(どうさん)

長年、抗争を繰り返してきた隣国・尾張(愛知県・西部)織田信秀とも、天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)を最後に、自らの娘・帰蝶(濃姫)と、信秀の息子・信長の結婚という形で治まりました。

しかし、その8年後の弘治元年(1555年)、息子の義龍(よしたつ)クーデターを決行され、居城の稲葉山城を占拠されてしまいます(10月22日参照>>)

息子との決戦を明日に控え、数に劣る自分は、おそらく負けるであろうという予想のもと、悲しみとともに、「もし、死んだら娘婿・信長へ美濃を譲る」という内容が書かれた手紙が現存するお話は、すでに書かせていただきました(4月19日参照>>)が、その道三の予想通り、翌日の長良川の戦いに敗れて、道三は、この世を去ってしまいます(4月20日参照>>)

その時、出陣はしたものの、義父を助ける事ができなかった信長は、その「譲り状」を大義名分に、「舅の弔い合戦」と称して、その後、たびたび美濃へと進攻しますが、義龍は、ことごとく返り討ちにしています。

その昔、信長に初めて会った道三が、「わが国は婿殿への引き出物となるであろう」・・・つまり、自分の息子たちより、信長のほうが器量が勝っていて美濃は取られるだろうという事を言ったという有名な話がありますが、そんな道三は、かの長良川の戦いの時の息子・義龍を見て「器量を見誤った」と言ったとも言われています。

本当に言ったかどうかはともかく、そんな話が登場する事も納得できるくらい、どうやら義龍は、かなりの名君だったようです。

内政にも長け、家臣の統率も見事・・・この義龍が美濃を治めていた間の信長は、まったく歯が立たない状態でした。

しかも、当時の信長は、まだ尾張の統一すらできてませんでしたから、まずは、国内の情勢に目を向けながら、度々国境を脅かす東海の大大名・今川義元に気をくばる日々でしたが、やがて、永禄二年(1559年)に尾張を統一し、その翌年には、まさかまさかの桶狭間で、その大大名の義元を倒してしまいます(5月19日参照>>)

義元を討ち取り、一気に全国ネットに躍り出た信長が、その桶狭間の戦いで自由の身となった三河(愛知県・東部)徳川家康と同盟を結び、いよいよ美濃攻めに本腰を入れようとした矢先の永禄四年(1561年)、義龍は34歳という若さで急死してしまいます。

おそらく、この義龍がもっと長生きしていれば、信長は稲葉山城を落す事ができなかったのでは?と思わせてくれるくらい重要な死ですが、とにもかくにも、義龍の息子・龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になってしまいます。

しかし、これが、どうやらケチのつき始め・・・まぁ、この龍興が、父や祖父ほどの器量の持ち主ではなかったという事もあるかも知れませんが、なんと言っても未だ14歳で、しかも、父は急死という事で、おそらく、後継者たるべき準備も何もされていなかったのかも知れません。

とにかく、このあたりから、美濃の家臣団の中に亀裂が生じはじめてきます。

その間にも、信長はたびたび美濃攻めを決行しながら
*永禄四年(1561年)5月14日:森部の戦い>>
* 同5月23日:美濃十四条の戦い>>
永禄六年(1563年)には、美濃攻略の拠点とすべく小牧山城を構築し、主力部隊をそちらに移し、さらに執拗に攻撃を仕掛けます。

ただ、さすがは天下の名城・稲葉山城・・・それでも、なかなか落ちませんでした。

そんな稲葉山城を、1度落とした事があったのが、例の竹中半兵衛重治(はんべえしげはる)・・・以前書かせていただいた永禄七年(1564年)の稲葉山城・乗っ取り事件(2月6日参照>>)です。

まぁ、これは、落としたというより、半兵衛は斉藤家の家臣なわけですし、その後、一旦追放した龍興に、城を返還して隠居するところをみても、主君に取って代わろうとする謀反ではなく、家臣の統率をとれなくなっている龍興をいさめようよする趣旨だったと思われます。

しかし、考えようによっちゃぁ、それだけ、家臣の亀裂は決定的と言える状況になっていたわけですが、そんな中で、やっぱり、信長の攻撃は続き、永禄八年(1565年)には堂洞合戦(8月28日参照>>)・・・。

さらに、永禄九年(1566年)には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による、あの墨俣(すのまた)の一夜城の構築(9月14日参照>>)で、一気に稲葉山城がヤバくなった・・・なんていう話もありますが、これは、伝説かも知れないので置いといて・・・

とにかく、この間も、亀裂はさらに拡大の一途をたどっていたわけで、そんなこんなの永禄十年(1567年)8月1日一大事件が起こります。

美濃三人衆の離反・・・信長に内通したのです。
もちろん、信長による水面下の地道な根回しの成果ですが・・・。

この美濃三人衆とは・・・
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いってつ)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主安藤守就(もりなり)
の三人・・・皆、西部なので、西美濃三人衆と呼ぶ事もありますが、いずれも、斉藤家以前の土岐氏の時代からの美濃どっぷりの家臣たちです。

特に、安藤守就は、半兵衛の嫁のオヤッサンで、先の乗っ取り事件の時は、半兵衛に味方していたくらいですから、もはや、すっかり心は龍興から離れていた事でしょう。

とにかく、この三人の信長への内通は大きかった・・・

これによって、さらなる離反が相次ぐと同時に、美濃の家臣団も、もう修復が不可能なくらいグラグラに揺らいだのは間違いなく、もちろん、信長も、この絶好の機会を逃すわけがありません。

この後、一気に稲葉山城を攻め落とす事になるわけですが、そのお話は、やはり、信長軍が怒涛のことく攻めかかる8月15日のページでどうぞ>>
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