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2009年8月19日 (水)

藤原北家・独占!摂関政治の始まり

 

貞観八年(866年)8月19日、藤原良房が、皇族以外で初めての摂政となりました。

・・・・・・・・・・

またまた出ました~!
日本史を語るうえで外せない一族=藤原氏・・・

ご存知のように、あの中臣鎌足(なかとみのかまたり)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺(6月12日参照>>)して、大化の改新を決行・・・その功績により、天皇から藤原姓を賜った事で(10月15日参照>>、藤原氏が始まるわけですが、先日も書かせていただいた通り、その後の壬申の乱(7月22日参照>>)で政権交代する中、鎌足の息子・藤原不比等(ふひと)が、娘・宮子を第42代・文武天皇夫人とする事に成功し、再び政治の表舞台に藤原氏が登場します(8月3日参照>>)

さらに、その文武天皇と宮子の間に生まれた皇子が第45代・聖武天皇となった事で、見事、外戚(天皇の母方の実家)をゲット!・・・しかも、天皇の妃となっていた不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)が、皇族以外で初の皇后=光明皇后となりました。

ここで、世代が不比等から4人の息子へと移り、長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)を初めとする藤原氏以外の実力者を次々と追い落として、やがては、平安時代に、その栄華を♪欠けたところのない満月のようだ♪と称した、あの藤原道長頼通(よりみち)父子の全盛時代(10月16日参照>>)へと続いていくわけですが、そこにたどりつくためには、やはり、本日の藤原良房(よしふさ)さんなくしては考えられなかったわけです。

そもそも、ご存知のように、不比等の4人の息子たち・・・藤原氏と言えど、彼ら全員が繁栄に至ったわけではありません。

4人の息子たちは、それぞれ・・・
武智麻呂(むちまろ)南家
房前(ふささき)北家
宇合(うまかい)式家
麻呂(まろ)京家
と、4つの家に分かれますが・・・

武智麻呂の南家は、息子・藤原仲麻呂(恵美押勝)が、ライバルだった橘氏を倒して(7月4日参照>>)、全盛を築いたのもつかの間、ラブラブだった孝謙天皇道鏡に取られて、哀れ反逆者となってサヨナラ・・・(9月11日参照>>)

宇合の式家は、息子・広嗣(ひろつぐ)の反乱(9月3日参照>>)と、ひ孫・薬子の乱(9月11日参照>>)ダブルパンチで脱落・・・。

麻呂の京家は、やはり息子の浜成(はまなり)氷上川継(ひかみかわつぐ)の乱に加担していたため、伊豆へ流罪となって終了・・・

・・・で、結局、残ったのは房前の北家・・・

房前のひ孫にあたる藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、第52代・嵯峨天皇のお気に入りとなり、天皇の息子である第54代・仁明天皇の後宮に娘・順子(じゅんし・のぶこ)を入れる事に成功・・・さらに、その嵯峨天皇の皇女・潔姫(きよひめ)を自分の息子の妻に迎える事にも成功します。

この冬嗣の息子が良房です。

Yosifusasessyoukeizu2cc そして、その仁明天皇と順子との間に生まれたのが第55代・文徳天皇

さらに良房は、自分の娘・明子(あきらけいこ)を文徳天皇の後宮に入れ、二人の間に生まれた皇子が第56代・清和天皇となり、またまた藤原氏が外戚ゲット!となります。

あぁ・・・ややこしい!
つまり、清和天皇から見て良房は、母方のおじいちゃんであり、父の叔父さんでもある・・・嵯峨天皇は、父方のおじいちゃんであり、母方のひいじいちゃんでもあるわけです。

とにかく、めちゃめちゃ濃い関係・・・しかも、この清和天皇の即位にあたっては、それまで、文徳天皇の長男である惟喬親王(これたかしんのう)が、ほぼ次期天皇とされていたにも関わらず、生まれて、わずか8ヶ月で皇太子にするというあらわざでの即位でした。

なんせ、この頃の政治の中心は天皇・・・しかし、天皇は男系男子で受け継がれていきますから、天皇の父方の実家は、必ず天皇家なわけで、そこに他人が入る余地があるとすれば、天皇の母方の実家=外戚になる事・・・

天皇が幼ければ幼いほど、母方の実家の意見がまかり通るわけですから、必死になるのもムリはありません。

さらに、良房は、この清和天皇にも、姪の高子(たかいこ)を嫁がせようとして、あの女たらしの在原業平(ありわらのなりひら)チョッカイ出されたりなんかしとります(5月28日参照>>)

次く、あの応天門炎上事件(9月22日参照>>)で、犯人と疑われた周囲の人間が失脚する中、なにやらひとり勝ちとなって、さらにトップの座を揺るぎないものとし、いよいよ貞観八年(866年)8月19日摂政に就任するのです。

・・・と、ここで、摂政と聞くと、あの第33代・推古天皇(3月7日参照>>)・・・その女帝のもとで摂政となった聖徳太子を思い出しますが、本来、この摂政という役職は、天皇が幼少だったり、中継ぎの女帝だったりした時に、そのサポートにために設けられ、聖徳太子や中大兄皇子のように、皇太子か、それに準ずる皇族が就任するのが通例でした。

しかし、ここで、初めて臣下として、天皇の外祖父にあたる良房が就任したわけです。

以後、この摂政になるのは、天皇の外戚である事が必須条件となり、良房の次には、息子(養子)基経(もとつね)が、この地位を継承し、仁和三年(887年)には、基経は関白となります。

ちなみに、この関白という役職は、成人した天皇のもとで、摂政と同様の職務を行う役職で、この基経の時代に設置されたものです。

つまり、この先、応徳三年(1086年)に白河上皇院政をはじめるまで、200年近くに渡って続く事になる、いわゆる摂関政治が、この良房・基経父子のもとでスタートしたわけです。

こうして、ほぼ藤原北家の独占となった摂政・関白が、道長の全盛へと続いていくのです。
 

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平安時代」カテゴリの記事

コメント

いつも楽しく通わせていただいています。
ところで文徳天皇は、嵯峨天皇と冬嗣の娘の子ではなく、仁明天皇と冬嗣の娘の子ではないでしょうか?細かいですが一応…。

投稿: k | 2009年8月19日 (水) 06時00分

kさん・・・
ありゃりゃ(*´v゚*)ゞホントです。

仁明天皇の後宮に入って、嵯峨天皇の子供を産んじゃいけません(爆)

当然、そこは仁明天皇です。

見つけてくださってありがとうございます。
訂正させていただきました。

投稿: 茶々 | 2009年8月19日 (水) 13時13分

あぁ~、ややこしい!叔父さんがどうたら外戚が・・・わかりずらいですね。この時代の武士(戦闘集団)は何をやってたんですか?

投稿: DAI | 2009年8月19日 (水) 13時22分

DAIさん、おっしゃる通り、メチャメチャややこしいので、遅ればせながら系図を造ってみました。

ちょっとは、わかりやすくなったかも・・・

この系図・・・少し略してありますが嵯峨天皇は、かなりの子沢山(50人くらい)で、すべての子供を皇室とするわけにいかないので、母親の身分の低い子供などに源の姓を与えて臣下としたのです。

系図で嵯峨天皇の子供となっている源信(みなもとのまこと)とか源融(みなもとのさとる)とか・・・これが、後の源氏です。

源信は、仁明天皇の時代には大納言となり、あの応天門炎上事件でも暗躍したりして、なかなか力をつけてきてはいたようですが、武装して藤原氏を圧倒するようになるのには、もう少し時間がかかりそうですね。

投稿: 茶々 | 2009年8月19日 (水) 16時02分

ブログ名が『♂執事は鬼畜に恋をする♂』から『‡ 鬼畜茶屋♂腐♂陰の間 ‡』に変わったので、変更お願いします!

そしてここは私が苦手な範囲www
分かりやすく書かれているので、覚えられそうな気がしてきましたよwww
本当に・・・この時代とか苦手なんですよね(苦笑

投稿: 猫 犬狼 | 2009年8月20日 (木) 05時37分

猫 犬狼さん、御意にございますm(_ _)m
変更しときますた!

投稿: 茶々 | 2009年8月20日 (木) 20時57分

ややこしいですよね。いきなり祖父さんの弟が天皇になったり、叔母と平気で結婚したり。
ところで、細いですが嵯峨源氏は嫡流は後々も公家として栄え、確か江戸時代も公家で何家かいるので、嵯峨源氏が武装して後の源氏に、というのは勘違いされないかなぁと思います(源氏で武家化しているのは清和源氏と宇多源氏、村上源氏が殆どで、数多いる他の○○源氏は数が少ないせいか公家化していますし。嵯峨源氏も本家筋以外は武家化していなくもないですが、それは藤原北家も同様ですし)。

投稿: おみ | 2009年8月21日 (金) 13時00分

おみさん、こんばんは~

言葉足らずで勘違いさせてしまって申し訳ありません。

「これが後の源氏」というのは、嵯峨源氏が直接、頼朝や義経につながるという意味ではなく、嵯峨天皇が自分の皇子たちに源という姓を与えて臣下とした事から、いわゆる源氏という一族が始まったという事を言いたかったのです。

武装して、武士とて名を馳せたかどうかは、細かく枝分かれした個々の家系それぞれによるところもあるので、源氏でひとくくりにはできないものと思っています。
(嵯峨源氏でも渡辺綱なんかもいますし・・・ちなみに、亡き祖母によれは、わが家は清和源氏だそうです(*゚ー゚*))

また、地方に派遣された中から力をつけて武士団を形成していった事などに関しましては、すでに書かせていただいている平将門や藤原純友を参照していただければ幸いですが、それは、武士の成り立ちとも言うべき話なので、コメントでは書けるものではないかなと思い、大いにはしょらせていただきましたが、ちょっとはしょりすぎてしまいましたかね。

申し訳ありませんでした。

投稿: 茶々 | 2009年8月21日 (金) 21時26分

こんにちわ~
こちらこそ、差し出がましくすみません。まあ、はしょっておられるのかなぁ、とは思ってました。
いい加減私の先日のコメントは長いので、「以下僣越ながら~」以下を削除して頂けないでしょうか?
お手数おかけして申し訳ありませんが、よろしくお願い致します

投稿: おみ | 2009年8月25日 (火) 11時03分

プラス、よそですでにお書きでしたらそこへのリンクを貼って頂けると、後から見た方に親切かなと思います。またまた差し出がましいですが、ご検討頂けると幸いです。

ちなみに、うちも清和源氏のようです(*^_^*)。
ただ、頼朝や足利氏、新田氏などの嫡流よりの系統じゃなく、摂津源氏のほうです(酒天童子退治の源頼光や、宇治川の戦いの源頼政のほう)が…江戸時代の先祖の屋号も多田屋でした。
とりあえず、1100年くらいさかのぼると同じ祖先の、もの凄く遠い親戚同士のようですね(笑)

投稿: おみ | 2009年8月25日 (火) 11時31分

おみさん、本当に申し訳ないです(*_ _)人

「コメントで長くなっては・・・」と思ってはしょったうえにリンクも・・・

実は、以前、他の商業用サイトに誘導する大量のコメントをいただいた事がありまして、それ以来、コメント欄にリンクを貼るのを禁止する設定にしておりましたので、つい、コチラもすっ飛ばしてしまいました。

しかし、その安易な考えで、おみさんには、不快な思いをさせてしまいました。
深く反省し、今後は、良い方向への改善を検討させていただきます。

重ね重ね申し訳ありませんでした。

プラス、ご指摘の部分は排除させていただきます。

それにしても、ご先祖さまの事を考えるとワクワクしますね。

投稿: 茶々 | 2009年8月25日 (火) 11時53分

いえいえ、まったく全然不快になど思っておりませんので…どうかお気になさらずに。て、今更ですが。遅くなりすみませんm(__)m

ご先祖はワクワクしますよね。実は母方は菅原道真に辿り着くらしい美作菅党ですが(菅原氏に辿り着くかは異説もありますが)、かの前田利家の前田家が同族かもしれません(家紋も前田とまったく同じ梅鉢です)。また、あの菅直人氏も菅党で同祖です。更に、ローカルですが、大学の先輩、高校の同級生や先生、果ては中学の時好きだった女の子も菅党で同祖のようで…。意外なとこで繋っていてかなり面白いです。
この間も、清和源氏繋りの友人(但し、彼は新田氏流なので私とはかなりかなり遠いですが(笑))と某八幡様に詣でましたが、何気に感慨深かったです。

まあ、彼は歴史に疎いのでそうでもなかったようですが…(笑)

投稿: おみ | 2009年9月 2日 (水) 00時41分

おみさん、こんばんは~

そうですか・・・菅原さんの家系ですか・・

ウチは、清和源氏と言っていた祖母は母方で家紋は桔梗です。
桔梗の家紋と言えば土岐氏が有名ですが、土岐氏も清和源氏なのでそうなのかも知れませんし、ひょっとしたら明智光秀かも知れませんww・・・何代か前までは四国に住んでいたようなので・・・あの坂本龍馬も明智の子孫なんて話もありますし・・・

父方は村上水軍で、例の「上」の字の入った家紋です。
先日の世界陸上のやり投げで銅メダルを取った村上選手が、父と同じ島の出身なので、応援してましたww

投稿: 茶々 | 2009年9月 2日 (水) 02時21分

代々摂政・関白を出したので、次第に藤原北家=藤原宗家(鎌倉時代以降は近衛家)になったんでしょうか?
良房から6代後の頼通が、「平安期最年少の摂政」となっております。藤原頼通は摂政・関白を通算50年務めたんですが、これは最長記録かも。
フィクションですが「源氏物語」での右大臣家と左大臣家は、おそらく藤原家を指している(登場人物が名字で呼ばれない)と思います。平安時代後期になると藤原家もかなり分家(「分家の分家」と言う家もあります)が増えてきて、藤原一族の「殿上人」で100人を超えたかもしれないですね。

投稿: えびすこ | 2011年5月 7日 (土) 09時09分

えびすこさん、こんにちは~

光源氏のモデルは源融という説が有力ですが、一部には藤原道長では?という話もありますね。

でも、そんな道長自身が、紫式部に「早く続きが見たい」と、源氏物語の原稿?を催促していたとか…
おもしろいです。

投稿: 茶々 | 2011年5月 7日 (土) 12時07分

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