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2009年8月27日 (木)

この命、頼朝公に捧ぐ~三浦義明・衣笠城の合戦

 

治承四年(1180年)8月27日、衣笠城の合戦で、城を落とされた三浦氏の当主・三浦義明が討死しました。

・・・・・・・・・・

平治の乱(12月9日参照>>)に敗れ、一介の流人となっとていた源頼朝(みなもとのよりとも)(2月9日参照>>)・・・

その挙兵が成功した要因は、
「貴族化した平家に対して、坂東平氏と呼ばれる関東の武士たちが反感を持っていたから」
とか、
「平家中心の圧政に地方の武士たちの不満が頂点に達しつつあったから」
とか言われ、
一連の源平の合戦を見てみても、源氏の御曹司に味方した東国の武士たちが、滅び行く平家に圧勝したようなイメージがありますが、実際には、それほどしっかりとした見通しがあったわけではありません。

事実上、全国ネットで、平家の支配下にある現状で、流人の頼朝が立ち上がっても、いったいどれだけの味方が集まるのか・・・最初の段階の頼朝には、大した勝算があったわけではなく、いたって不安な状況であったと思います。

そんな中、治承四年(1180年)8月17日の頼朝の挙兵(8月17日参照>>)に、いち早く賛同したのが三浦義明とその一族・・・

衣笠城(神奈川県横須賀市)を居城とし、三浦半島一帯を支配下に置き、周囲の制海権も握る関東屈指の豪族です。

・・・とは言え、義明は、この時、すでに89歳・・・さすがに、自ら先頭を切ってというわけにはいかず、息子の義澄(よしずみ)義連(よしつら)、孫の和田義盛など一族の総力を挙げて、決戦の石橋山へと向かわせます。

しかし、おりからの豪雨により途中の酒匂(さかわ)が氾濫・・・行く手を阻まれた8月23日、かの石橋山での頼朝の敗戦(8月23日参照>>)のニュースを耳にします。

やむなく、衣笠城へと戻る三浦勢でしたが、そこへ遭遇したのが、平家方の畠山重忠・・・両者は由比ヶ浜で激突します。

三浦勢300騎に畠山勢500騎・・・この時は、死者を出しつつも、からくも勝利をもぎ取り、なんとか、衣笠城へと戻りましたが、重忠は、未だ参戦していない近隣の豪族に声をかけ、軍勢を増強して衣笠城へと攻め込んできます。

当然迎え撃つ覚悟の三浦勢ですが、いかんせん、つい先ほどの由比ガ浜での死闘で、皆、疲労困憊・・・しかも、矢も使い果たし、もはや、敗戦の色は濃くなるばかり・・・

ここで、城を枕に討死覚悟の息子たちに、義明は、城からの脱出を勧めます。

「いち早く脱出し、即座に頼朝公の存亡を確かめ、お助けするように」と・・・

そして、「自分自身はここ衣笠城に残り、畠山勢を迎え撃つ」と言います。

驚く息子たちに義明は・・・
坂東平氏の1人として、ようやくこの歳になって、再興のチャンスに恵まれた・・・このうえは、老い先短いこの命を、頼朝公のためになげうって、子々孫々の手柄にせよ
と、言い放ったのです。

泣く泣く父を置いて脱出する息子たち・・・

・・・と、これは、北条氏の正史『吾妻鏡』にあるお話で、『平家物語』では老いて足手まといとなる義明を置き去りにして一族が脱出したとされていますが、ここはやっぱり、吾妻鏡のほうのカッコイイ義明さんであった事を希望しますよね~置き去りは悲しすぎる・・・(ρ_;)

・・・で、一族が脱出して間もなく、衣笠城は猛攻撃を受けて落城・・・治承四年(1180年)8月27日義明は壮絶な討死を遂げる事となります。

一方の息子たちは・・・
5日間山中をさ迷い歩いて、石橋山から海岸にたどり着いた頼朝を、その制海権をフルに活用してサポート・・・頼朝が、船で安房国(千葉県)勝山近くに上陸した時には、すでに現地に到着していた義澄・義盛らが出迎えたのです(10月6日参照>>)

その後、休む間もなく鎌倉で再起した頼朝とともに、平家追討に参戦した彼ら三浦一族・・・。

平家が滅亡した後には、義澄は、実質的な相模(神奈川県)の守護に、義盛は侍所別当(警察庁長官)に、義連も頼朝の側近として重用されました。

頼朝が征夷大将軍に任ぜられた時は、義澄は、その使者として鶴岡八幡宮で、勅使(ちょくし・天皇の使者)からその文書を受け取るという大役も仰せつかります。

さらに、その後、頼朝が上洛した際には、配下10人の御家人が官位をいただく事になりますが、その10人のうち3人までもが三浦一族だったと言います。

よく、戦国武将でも・・・
「負けるとわかっててなぜ、突き進むのか?」
「なぜ、死に急ぐのか?」
「捨て石となる事に無念はないのか?」

と、現代人の私たちには、理解し難い行動に出る事がありますが、その根底にあるもののふの主従関係・・・

先人が命を賭けて、その場所を守る事で、残った者に与えられる目に見えぬ優先座席・・・

頼朝政権下での、三浦一族の活躍ぶりは、この後、何百年に渡って引き継がれる武士同士の暗黙のルールという物が、すでに彼らの中に誕生していたという事なのでしょうね。
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コメント

私は、自分自身を哀れむ野生の生き物を見たことはない
小鳥は凍え死に枝から落ちても
決して自分自身を哀れとは思わない
<D.H.ロレンス>

ってのを、思い出しました~

投稿: 山は緑 | 2009年8月27日 (木) 20時14分

山は緑さん・・・

深いですね~

投稿: 茶々 | 2009年8月27日 (木) 23時25分

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