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2009年8月 1日 (土)

美濃三人衆の内応~いざ!信長・稲葉山城へ

 

永禄十年(1567年)8月1日、美濃斉藤義興の家臣・美濃三人衆が織田信長に内応し、稲葉山下の井ノ口城に攻撃を仕掛けました。

・・・・・・・・・・

自らの主君である美濃(岐阜県)の守護・土岐頼芸(よしなり)を追放して(12月4日参照>>)、美濃一国の主となった美濃のマムシこと斉藤道三(どうさん)

長年、抗争を繰り返してきた隣国・尾張(愛知県・西部)織田信秀とも、天文十六年(1547年)の加納口の戦い(9月22日参照>>)を最後に、自らの娘・帰蝶(濃姫)と、信秀の息子・信長の結婚という形で治まりました。

しかし、その8年後の弘治元年(1555年)、息子の義龍(よしたつ)クーデターを決行され、居城の稲葉山城を占拠されてしまいます(10月22日参照>>)

息子との決戦を明日に控え、数に劣る自分は、おそらく負けるであろうという予想のもと、悲しみとともに、「もし、死んだら娘婿・信長へ美濃を譲る」という内容が書かれた手紙が現存するお話は、すでに書かせていただきました(4月19日参照>>)が、その道三の予想通り、翌日の長良川の戦いに敗れて、道三は、この世を去ってしまいます(4月20日参照>>)

その時、出陣はしたものの、義父を助ける事ができなかった信長は、その「譲り状」を大義名分に、「舅の弔い合戦」と称して、その後、たびたび美濃へと進攻しますが、義龍は、ことごとく返り討ちにしています。

その昔、信長に初めて会った道三が、「わが国は婿殿への引き出物となるであろう」・・・つまり、自分の息子たちより、信長のほうが器量が勝っていて美濃は取られるだろうという事を言ったという有名な話がありますが、そんな道三は、かの長良川の戦いの時の息子・義龍を見て「器量を見誤った」と言ったとも言われています。

本当に言ったかどうかはともかく、そんな話が登場する事も納得できるくらい、どうやら義龍は、かなりの名君だったようです。

内政にも長け、家臣の統率も見事・・・この義龍が美濃を治めていた間の信長は、まったく歯が立たない状態でした。

しかも、当時の信長は、まだ尾張の統一すらできてませんでしたから、まずは、国内の情勢に目を向けながら、度々国境を脅かす東海の大大名・今川義元に気をくばる日々でしたが、やがて、永禄二年(1559年)に尾張を統一し、その翌年には、まさかまさかの桶狭間で、その大大名の義元を倒してしまいます(5月19日参照>>)

義元を討ち取り、一気に全国ネットに躍り出た信長が、その桶狭間の戦いで自由の身となった三河(愛知県・東部)徳川家康と同盟を結び、いよいよ美濃攻めに本腰を入れようとした矢先の永禄四年(1561年)、義龍は34歳という若さで急死してしまいます。

おそらく、この義龍がもっと長生きしていれば、信長は稲葉山城を落す事ができなかったのでは?と思わせてくれるくらい重要な死ですが、とにもかくにも、義龍の息子・龍興(たつおき)が、わずか14歳で家督を継ぐ事になってしまいます。

しかし、これが、どうやらケチのつき始め・・・まぁ、この龍興が、父や祖父ほどの器量の持ち主ではなかったという事もあるかも知れませんが、なんと言っても未だ14歳で、しかも、父は急死という事で、おそらく、後継者たるべき準備も何もされていなかったのかも知れません。

とにかく、このあたりから、美濃の家臣団の中に亀裂が生じはじめてきます。

その間にも、信長はたびたび美濃攻めを決行しながら
*永禄四年(1561年)5月14日:森部の戦い>>
* 同5月23日:美濃十四条の戦い>>
永禄六年(1563年)には、美濃攻略の拠点とすべく小牧山城を構築し、主力部隊をそちらに移し、さらに執拗に攻撃を仕掛けます。

ただ、さすがは天下の名城・稲葉山城・・・それでも、なかなか落ちませんでした。

そんな稲葉山城を、1度落とした事があったのが、例の竹中半兵衛重治(はんべえしげはる)・・・以前書かせていただいた永禄七年(1564年)の稲葉山城・乗っ取り事件(2月6日参照>>)です。

まぁ、これは、落としたというより、半兵衛は斉藤家の家臣なわけですし、その後、一旦追放した龍興に、城を返還して隠居するところをみても、主君に取って代わろうとする謀反ではなく、家臣の統率をとれなくなっている龍興をいさめようよする趣旨だったと思われます。

しかし、考えようによっちゃぁ、それだけ、家臣の亀裂は決定的と言える状況になっていたわけですが、そんな中で、やっぱり、信長の攻撃は続き、永禄八年(1565年)には堂洞合戦(8月28日参照>>)・・・。

さらに、永禄九年(1566年)には、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による、あの墨俣(すのまた)の一夜城の構築(9月14日参照>>)で、一気に稲葉山城がヤバくなった・・・なんていう話もありますが、これは、伝説かも知れないので置いといて・・・

とにかく、この間も、亀裂はさらに拡大の一途をたどっていたわけで、そんなこんなの永禄十年(1567年)8月1日一大事件が起こります。

美濃三人衆の離反・・・信長に内通したのです。
もちろん、信長による水面下の地道な根回しの成果ですが・・・。

この美濃三人衆とは・・・
西美濃曾根城主稲葉一鉄(いってつ)
西美濃大垣城主氏家卜全(うじいえぼくぜん)
西美濃北方城主安藤守就(もりなり)
の三人・・・皆、西部なので、西美濃三人衆と呼ぶ事もありますが、いずれも、斉藤家以前の土岐氏の時代からの美濃どっぷりの家臣たちです。

特に、安藤守就は、半兵衛の嫁のオヤッサンで、先の乗っ取り事件の時は、半兵衛に味方していたくらいですから、もはや、すっかり心は龍興から離れていた事でしょう。

とにかく、この三人の信長への内通は大きかった・・・

これによって、さらなる離反が相次ぐと同時に、美濃の家臣団も、もう修復が不可能なくらいグラグラに揺らいだのは間違いなく、もちろん、信長も、この絶好の機会を逃すわけがありません。

この後、一気に稲葉山城を攻め落とす事になるわけですが、そのお話は、やはり、信長軍が怒涛のことく攻めかかる8月15日のページでどうぞ>>
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

美濃三人衆が寝返ったのを足がかりに、
稲葉山城を落としたとは書かれていますが、
どうやって城を落としたかはあまり書かれていないんですよね。
岐阜城へ行ってきたばっかりなので8月15日が楽しみです♪

投稿: 花曜 | 2009年8月 1日 (土) 21時15分

花曜さん、こんばんは~

>どうやって城を落としたかはあまり書かれていないんですよね。

すみませんo(_ _)o

信長が稲葉山城を攻略するのは、8月15日なので、その事は、その日に書かせていただく予定にしております。

本日は、美濃三人衆が信長への内応を明らかにした日という事でお許しを・・・(ρ_;)

投稿: 茶々 | 2009年8月 1日 (土) 22時44分

言葉が足りずに申し訳ありません。

小説や歴史本などでは、どうやって稲葉山城を落としたかはあまり書かれていないという意味ですm(_ _)m

なので8月15日を楽しみにしております(*^_^*)

お気を悪くなさいませんよう…。

投稿: 花曜 | 2009年8月 2日 (日) 18時41分

花曜さん、こんばんは~

そうでしたか・・・
こちらこそ、見当違いの返答をしてしまって申し訳ありませんでしたo(_ _)o

確かに、本能寺の変なんて見て来たような記述がワサワサあるのに、稲葉山城の攻略については、あまり書かれていませんね。

私も、どこまで迫れるかわかりませんが、頑張ってみます。

投稿: 茶々 | 2009年8月 2日 (日) 21時24分

楽しく読ませていただいております!
途中から斎藤龍興が義興になっている気がします。
ご確認下さい。

投稿: | 2014年6月 7日 (土) 13時21分

わぁ!!(゚ロ゚屮)屮

ホントです~
ぜんぜん気づいてませんでした~
速やかに訂正させていただきますm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2014年6月 7日 (土) 13時45分

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