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2009年8月23日 (日)

「勤王女傑」~皇室と志士のパイプ役・村岡局

 

明治六年(1873年)8月23日、「勤王女傑」と呼ばれた村岡局が88歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

・・・とは言え、名誉が回復されるのは、彼女が亡くなった後の事・・・上記のような名声も、従四位という官位が贈られるのも明治二十四年(1891年)になってからの事なのです。

88歳の長寿を真っ当されたのは何よりですが、ひょっとしたら、老後を過ごされた京都・北嵯峨直指庵(じきしあん)での暮らしは、肩身の狭いものだったのかも知れません。

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一般的に、村岡局(むらおかのつぼね)と呼ばれますので、本日もそのように呼ばせていただきますが、実はこれは役職名で、実際の名前は津崎矩子(のりこ)と言います。

昨年の大河ドラマ「篤姫」では、星由里子さんがこの村岡の役を演じておられたので、その印象が強いかも知れませんね。

彼女の父は、京都・大覚寺門跡の家臣・津崎右京・・・兄も大覚寺門跡の役人で、津崎家は代々大覚寺の家士を世襲する家柄だったのです。

そんな彼女は、祖母が老女として仕えていた縁から、13歳で近衛(このえ)家に仕えるようになります。

ご存知のように、近衛家は摂関家の一つ・・・例の藤原氏が近衛家九条家に分かれ、その後に、近衛家から分裂して鷹司(たかつかさ)ができ、九条家からは一条家二条家が分流し、合計で5つ。

この5つは五摂家と呼ばれて、代々摂政・関白を受け継ぐ家柄ですが、その中でも近衛家は筆頭でした。

そんな近衛家で、田鶴須賀野村岡とスキルアップを重ね、村岡となってからは、近衛家を代表する外交官のような役割を果たすようになります。

なんせ、彼女が村岡として仕えていた頃の近衛家の主は忠煕(ただひろ)という人で、安政四年(1857年)には左大臣になってますし、第121代孝明天皇の皇太子時代からの側近でもあった人ですから、おいそれと外部と接触するわけにはいかず、実質的には、彼女が、その近衛家の窓口となっていたわけです。

そんな中、ペリー黒船来航(6月3日参照>>)で幕府は開国を迫られ、このまま鎖国を続けていく事が困難な状況となってくるわけですが、たびたび、書かせていただいている通り、かの孝明天皇が開国に反対だった事から、天皇を尊ぶ尊王思想と、外国を排除する攘夷(じょうい)思想が結びついて尊王攘夷となるのですが、ここに、もう一つ、現在の第13代将軍・徳川家定の次ぎの将軍に一橋徳川慶喜(よしのぶ)を推す運動が加わります。

当然、本来は、尊王攘夷と「慶喜を将軍に」は別々のものですが、鎖国政策を維持するには、正しい人物を将軍にするしかないというわけで、そんな尊王攘夷派が選んだ正しい人物が一橋慶喜・・・。

そして、それを幕府に働きかけるには、影響力のある孝明天皇の存在・・・という事で、「尊王&攘夷&慶喜推し」の運動が一つにまとまったわけです。

・・・で、そんな「尊王&攘夷&慶喜推し」グループの1人が、第11代薩摩藩主・島津斉彬(なりあきら)です。

もともと、忠煕さんの正室は、第10代薩摩藩主・島津斉興(なりおき)の養女・郁姫(いくひめ)なので、島津家と近衛家のつながりはあったわけですが、政治に対する何か提案がある場合、斉彬は、まず、配下の西郷隆盛を通じて、近衛家と縁の深い清水寺の本坊・成就院(じょうじゅいん)の住職・月照(げっしょう)に頼み、月照が近衛家の窓口である村岡に話し、村岡が忠煕に取り次ぐ・・・そして、忠煕が「承知」となると、何日か後には、天皇の意思として、それが公表されるといった具合です。

その斉彬の養女・篤姫と将軍・家定の結婚の時には、亡き郁姫に代わって養母役を務めたりもして、近衛家と村岡が骨をおっているところが、昨年の「篤姫」でも描かれていましたね。

そう、そんな篤姫の将軍家への輿入れでさえ、実は、大奥を、「次期将軍=慶喜」という考えに変えさせるための画策だったと言われているくらい、熱心に慶喜を推す斉彬でしたが、ドラマでも描かれていた通り、大奥は、大の水戸嫌いで、水戸出身である慶喜に傾く事はなく、ご存知のように、次期将軍候補は、慶喜のライバルであった紀州出身の徳川慶福(よしとみ・後の家茂)に決定してしまいます。

安政五年(1858年)、大老となった井伊直弼(なおすけ)は、勅許(ちょっきょ・天皇の許可)を得ないまま、日米和親条約に調印し、反対派である尊王攘夷派を一掃する安政の大獄を決行します(10月7日参照>>)

逮捕者79人・・・うち、8人が切腹や死罪・獄門にさらされ、当の慶喜も隠居の処分となり、その父である第9代水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)国許永蟄居(くにもとえいちっきょ)という終身の謹慎処分となってしまいます。

翌・安政六年(1589年)2月・・・74歳になっていた村岡も、その犠牲者の一人となります。

先の、清水寺の月照→村岡→近衛忠煕→孝明天皇のラインでの活動が尊王攘夷に尽くしたとみなされたわけですが、この時、かの島津斉彬は、すでに亡くなっており(7月16日参照>>)、月照は西郷とともに京都を脱出(11月16日参照>>)・・・忠煕も、村岡が逮捕されたのと同時期に左大臣を辞職して謹慎生活に入っています。

逮捕後、江戸に送られた村岡は、信州(長野県)松本藩主・戸田光則に預けられ、その屋敷に特設された檻の中で過ごし、吟味のある時だけ屋敷を出て評定所に出頭するという生活を送ります。

出頭の時には、身分の低い者の手に握られた腰綱をかけられ、駕篭に乗せられたり綱を引かれたりという近衛家の老女としては屈辱の扱いを受けました。

8月27日には、そんな彼女に押込の判決が下り、その後、1ヶ月に渡って戸田屋敷の牢屋に押込られる事になりますが、一応、3度の食事もちゃんとした物が出て、お風呂にも入れたという事で、むしろ、吟味中の時よりは、判決後のほうがゆるやかだったようです。

その後、押込が解除されて京都に戻り、当時は住職不在で荒れ放題だった北嵯峨の直指庵を再興して、晩年は、そこで、静かに余生を過ごしました。

・・・で、結局、実際のところ、彼女がどこまで尊王攘夷派だったのか?心の底から次期将軍に慶喜を推していたのか?といった記録という物は、ほとんど残っていません。

ただ、かの安政の大獄で真っ先に逮捕されて獄中で死亡した梅田雲浜(うんびん)(9月14日参照>>)が、「彼女は信頼できる人」「彼女は近衛家の清少納言だ」と、称しているところをみれば、それなりのしっかりとした考えを持った頭のいい人であった事は確かでしょうが、ひょっとしたら、近衛家の窓口としての職務を真っ当したに過ぎないのかも知れません。

マジメに老女の仕事をこなしていたら、それが尊王攘夷運動になっちゃったみたいな・・・

ところが、そんな彼女への評価は、明治維新が成った後・・・静かに立ち昇ってきます。

「昔、村岡局という女の人とこんな事をやった」
「あんな話をした」
「こんな事を教えてもらった」

そんな声があがりはじめます。

幕末の動乱の時代に、彼女と接触した志士たちが、今や華やかな政治の表舞台に駆け上がりました。

かつて、勢いだけで突き進んでいた青き時代・・・

悩める時に解決のヒントを提示し、困った時に相談に乗り、時には母のように包み込み、時には上司のように叱咤激励する・・・

血気盛んな若者たちは、おそらく、雲浜が抱いたと同じような印象を彼女に持っていたに違いありません。

紙に記録が残らずとも、人の記憶は消えません。

彼女の事を語る声が、いつしか、彼女を「勤王女傑」と祭りあげる事になるのです。

その称号が、彼女にとって、うれしい物なのか、気恥ずかしい物なのかは、もはや知るよしもありませんが、京都は右京区・嵯峨の亀山公園にある彼女の像は、今も、柔和な笑みを浮かべています。

Dscn9748aa800 村岡局像
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