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2009年8月 3日 (月)

律令・平城京・記紀~新体制の仕掛人・藤原不比等

 

養老四年(720年)8月3日、藤原不比等が62歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

奈良時代から平安時代にかけて栄華を極めた藤原氏・・・

平安の宮中文化華やかなりし頃、9歳になる孫・後一条天皇を即位させた藤原道長は、
♪この世をば わが世とぞ思う 望月の
  欠けたることの なしと思えば ♪

「自分の栄華は、満月のように欠けたところすらない」と、高らかに勝利宣言してみせます(10月16日参照>>)

そんな藤原氏の最初の人となったのは、ご存知、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)・・・

それまで、中臣鎌足(なかとみのかまたり・鎌子)と名乗っていた彼は、中大兄皇子(なかのおおえののみこ・後の天智天皇)とともに、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺のクーデター(6月12日参照>>)を起こし、大化の改新を決行した功績により、亡くなる直前に、天皇から藤原の姓を賜り(10月15日参照>>)、以来、由緒正しき貴種=源・平・藤・橘(げん・ぺい・とう・きつ)の一つ・藤原氏として続いていく事となります。

・・・と、確かに、藤原の姓を賜って、藤原氏の祖となったのは鎌足ですが、上記のような奈良から平安にかけて一大勢力を誇り、今なお続く藤原氏の礎となったのは、実は、その鎌足の息子の藤原不比等(ふじわらのふひと)なのです。

・・・というのも、あの壬申の乱です(7月22日参照>>)

壬申の乱は、第38代・天智天皇亡き後に起こった天智天皇の息子・大友皇子(おおとものみこ・弘文天皇)と、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのみこ・後の天武天皇)・・・簡単に言うと、甥っ子と叔父さんの間で次の天皇の座を争った戦いなのですが、この時、まだ天智天皇が生存中の段階で、大海人皇子は皇位を辞退し、出家して吉野の山へ入っています(10月19日参照>>)

なので、天智天皇の死後は、その息子・大友皇子がすんなりと後継者となり、近江(滋賀県)の都にて政権を握っていたわけで、そこへ、吉野から兵を挙げて戦いを挑んで、政権を奪取して、大海人皇子は第40代・天武天皇となる・・・つまり、武力による政権交代をしたわけです(2月25日参照>>)

・・・で、上記のように鎌足は、天智天皇とともに蘇我氏を倒して、その後の政治に手腕を発揮した人なわけですから、このように、武力による政権交代となった場合、鎌足の息子である不比等は、天智天皇の後継者である大友側の人間という事で、負け組という事になります。

しかし、幸か不幸か、この壬申の乱の時には、不比等はまだ13歳だったために、一連の合戦にはまったく関与せず、処罰の対象にもならなければ、功績の対象にもならなかったわけなのです。

ただ、不比等自身は処罰は受けなかったものの、鎌足の親類にあたる中臣氏の者が多数処罰されている事でもわかるように、負け組に入った事は確かで、ここで、父の功績がすべてリセットされてしまった事は事実で、彼は、この時、ゼロからのスタートとなるのです。

つまり、この後、不比等が世に出なければ、ここで、藤原氏は歴史の彼方に消えた過去の一族になっていたかも知れないのです。

そんなこんなで、最後には、大変な大物となる不比等ですが、史実としての記載は非常に少なく、謎多き人でもあります。

ただ、そのぶん想像のしがいもある魅力的な存在ではありますが、おそらく、彼は、この不遇の日々に、とんでもなく、勉強に励んだものと思われます。

彼が、次に歴史の表舞台に登場する時には、まれに見る知識と才能を身に着けた政治家として登場します。

ただ、いくら水面下で勉強に励んで、スゴイ知識を身に着けたところで、それを発揮できる場がなければ、彼は、結局、多くの下級官人の中の1人として埋もれていたかも知れないところですが、勝ち組である天武側に嫁いだ妹たちをわずかのつてとしながら、その政治手腕で徐々に出世の道を歩みはじめていた不比等は、亡き天武天皇の後を継いたその奥さんである第41代・持統天皇の時代になって、またとないチャンスをつかみます。

それは、県犬養三千代(あがたのいぬかいのみちよ)という女性との恋・・・そして、彼女をモノにした事で、さらに飛躍する糸口をつかむのです。

この時、不比等はすでに40前後・・・後に藤原の北家・南家・式家・京家を継ぐ事になる4人の男の子の他に女の子ももうけていましたし、お相手の三千代さんも、第30代・敏達天皇(びたつてんのう)4世の孫・美努王(みぬおう)との間に3人子供を持つ人妻でした。

しかし、いつしか二人は深い仲に・・・

・・・で、なぜ、不比等が三千代を落とした事がチャンスなのか?

実は、この三千代さんの県犬養という家柄も、もともとは、天皇家の倉番をするだけの大した事にない家柄だったのですが、彼女の伯父にあたる県犬養大伴(あがたのいぬかいのおおとも)という人が、かの壬申の乱の時、最初の段階から大海人側ついていた人だったのです。

その大海人皇子の吉野へのページにも書かせていただいたように、この時、大海人とともに吉野に入った人は数十名・・・最終的に、地方の豪族を味方につけ、寝返り組も含めて、壬申の乱に大勝利する大海人さんですが、この吉野入りの時は、かなり、寂しい雰囲気だったわけで、その不遇の時代から味方についていてくれた者には、大いに感謝して、戦後、多大の恩賞を与えたのです。

その恩恵にあやかったのが三千代さん・・・ちょうど、持統天皇の孫・軽皇子(かるのおうじ)が生まれたばかりの頃に、グッドタイミングで彼女も子供を出産した事で、軽皇子の乳母というポストをゲットします。

しかも、その献身的な乳母ぶりで、天皇家からの篤い信頼をも勝ちとっていたのです。

そんな彼女に、「わが娘・宮子を軽皇子の妻に・・・」娘の売り込みと同時に彼女のハートもゲットしたのが不比等です。

・・・と、書けば、なにやら、不比等が一方的に得をする打算まるだしの恋愛のようですが、三千代のほうにもメリットはあります。

それが、まぎれもない不比等の才能・・・溢れんばかりの知識と、政治力を身につけた彼は、彼女から見て、確実に出世を見込める男だったわけです。

確かに、彼女の夫は敏達天皇の4世の孫という天皇家の血筋の人ではありますが、そこまで枝分かれしてしまうと、よほどの腕の持ち主でないと、政治の中心に関わる事などできませんから、現在以上の生活は望めません。

彼女は、乳母として、まだ歳若い軽皇子が、この先、天皇の座についた時、そのブレーンとして手腕を発揮してくれるであろう不比等に、「皇子の味方になってやってね」と望んだに違いありません。

そして、自らも、そのブレーンとなる人の妻に・・・

先に書いたように不比等は40歳くらい、三千代も27~28歳前後・・・今よりも、ずっと平均寿命の短い頃ですから、もはや、打算のない感情だけに走る恋をする年齢ではありません。

お互いに、先を見通す力を持ち、この相手となら、上に登れると見込んでの恋愛・・・これも恋なのです。

かくして文武元年(697年)、軽皇子は第42代・文武天皇(もんむてんのう)として即位し、不比等の娘・宮子が皇夫人となります。

やがて、大宝元年(701年)、不比等は大宝律令の制定に尽力し、本格的な律令国家の基礎を築いた功績により、2階級特進の正三位大納言へと大出世・・・しかも、この同じ年、宮子が男子を産み、三千代が女子を産みます。

この宮子の産んだ男の子が首皇子(おびとのおうじ)が後の聖武天皇、三千代の産んだ女の子が安宿媛(あすかべひめ)が後の光明皇后となるのです。

まさに、二人の計画通り・・・おそらく、三千代は、先の文武天皇に引き続き、新皇子の乳母の座もゲットし、乳兄弟となった媛は、将来天皇になるでろう皇子に、最も近い女性となっていったに違いありません。

ただ一つ、彼ら二人の計画通りといかなかったのは、かの文武天皇が病弱だったため、即位後、わずか10年でこの世を去ってしまった事でしょう。

さすがに、まだ7歳の首皇子を天皇の座につける事はできず、皇子が成人するまでの中継ぎとして文武天皇の母であった阿閇皇女(あへのひめみこ)が、第43代・元明天皇として即位します。

しかし、不比等&三千代夫婦・・・ただでは起きません。

元明天皇の即位を祝う宴の席で、三千代は、これまでの功績により(たちばな)という姓を賜ります。

先の藤原と並ぶ由緒正しき貴種です。

この橘の姓は、彼女の前夫・美努王との間に生まれていた子供たちが継いでくれます。

後に、左大臣となる橘諸兄(たちばなのもろえ)が、彼女の長男・・・ただし、50年後、皮肉にも、この藤原氏をおびやかす最大のライバルになるのも、この橘氏なのですが・・・(7月4日参照>>)

やがて、行われた平城京遷都にも、不比等は深く関わっています(2月15日参照>>)

天皇家中心に皇族が行っていた政治を、天皇を中心にしながらも、力あのある貴族や豪族によって運営していく新体制のためには、旧勢力の影響を受ける明日香(飛鳥)の地を捨て、新天地への移転が重要だったわけです。

その後、古事記・日本書紀の編さん・・・ひょっとしたら不比等は、律令体制の確立や新しい都の建設の仕掛け人となっただけでなく、それまでの歴史をも、くつがえしているのかも・・・。

どことなく、つじつまの合わない記紀の記述を読み解きながら、あーだこーだと古代の日本を語る私たちは、1300年経った今もなお、不比等&三千代・夫婦の立てた、見事なまでの計画に翻弄されているのかも知れませんね。

やがて、養老二年(718年)に養老律令を完成させた不比等は、2年後の養老四年(720年)8月3日、藤原氏全盛へのすべての準備を終えたかのように病に倒れ、この世を去りました。

ただ、一つの心残りと言えば、わが娘・宮子が産んだ首皇子が、聖武天皇になる姿を、その目で見る事ができなかった事くらいでしょうが、この後、彼の残した4人の息子たちは、その期待通り、藤原氏最初の壁となった長屋王を排除する事になるのですが、そのお話は2月12日のページでどうぞ>>
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コメント

私なりに持っている印象なのですが、
自分が子供の時に消滅してしまった親や家の権威を再興させた人、不比等 は、稀にみる親孝行な人だなぁ ~ と、感心してしまうんです。
40歳から頑張って、62歳で往生を遂げた ~ ~ 、20年間躍進を続けて、登りつめた ということですよね。
奈良時代のアラフォーには大した人物が居たものです、絶対、現代の(二世)政治家の中には居ませんね。

投稿: 重用の節句を祝う | 2009年8月 3日 (月) 22時17分

重用の節句を祝うさん、こんばんは~

ホントですね。
父・鎌足が有名なので、不比等はその威光を笠にきてホクホクと育ったのかと思っていましたが、ものすごく苦労してるんだなと改めて感じました。

投稿: 茶々 | 2009年8月 4日 (火) 01時13分

またお邪魔してしまいました。不比等がどんな人か調べていました。700年頃の歴史が分からないのは、どうしてなのかと。藤原京の実在が最近になって分かったので、藤原氏はこれと共存できないでしょう。木簡から長屋は律令から天皇の子供と分かったようです。高市が天皇として柿本人麻呂から長い挽歌を奉じられていた。持統は架空だった、吉備内親王は吉備国で育てられ、藤原氏のように外戚となる予定が狂ってしまったものでしょうか。という小説を考えてみましたがどうでしょうか。

投稿: いしやま | 2014年2月 2日 (日) 16時51分

いしやまさん、こんばんは~

ドラマや小説は創作物なので、その発想は作者の自由だと、私は考えております。
そのお話の中でつじつまが合っており、史実より魅力的は流れになっていれば、それで、良いんじゃないでしょうか?

投稿: 茶々 | 2014年2月 2日 (日) 18時28分

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