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2009年8月 7日 (金)

長尾為景~守護を倒して戦国大名への第一歩

 

永正四年(1507年)8月7日、長尾為景越後を追われた上杉房能が、松之山郷天水越にて自害しました。

・・・・・・・・・

長尾為景(ながおためかげ)・・・

管領が将軍を追放した細川政元(6月23日参照>>)、一武将が公方を倒した北条早雲(10月11日参照>>)とともに、この為景という人も守護代が守護を倒すという下克上をやってのけ、戦国乱世という時代の幕を開けた1人であります。

戦国も前半の群雄割拠の頃という事で、なかなかドラマではお目にかからない為景さんですが、あの上杉謙信のお父さんと言えば、「おぉ・・・そうなのか!」と、なんとなく親しみが湧きますよね。

長尾家は代々上杉家に仕える守護代という家柄・・・関東管領職を独占していた同じ上杉家内で、扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)山内上杉(やまのうちうえすぎ)が関東の覇権を巡って争った永正元年(1504年)の立河原の戦い(9月27日参照>>)では、この為景が、山内上杉家の顕定(あきさだ)を助けるべく参戦したとの記録も残りますから、はじめはこの山内上杉の配下にあったわけです。

以前から度々書かせていただいております通り、もともと関東・鎌倉に拠点を置く足利家が、京都にて室町幕府を開いた事で、そもそもの室町幕府の守護というのは、その京都や鎌倉に身を置き、守護を務める現地の内政は、守護代が取り仕切っていましたが、「それでは基盤が弱くなる」として、この戦国期になって、現地に赴任するようになっていたのです。

しかし、ここ越後(新潟県)には、もともと国人という代々その土地を治める豪族がいるわけで、彼らにとっては上杉は関東からやってきたよそ者・・・なので、上杉家は、現地の国人たちとモメる事なくすんなりと配下にするためにも、土地の権利に関しては守護不介入を約束し、彼らの土地の多くを安堵していたのです。

ところが、守護・上杉房定(ふささだ)の病死に伴い、後を継いだ息子・上杉房能(ふさよし・顕定の弟)が赴任すると、彼は、かの不介入の制度によって守護の収入が非常に少ない事に驚き、新たな検地を実施します。

検地を断行すれは、納める税は増えるし、今まで、同じ郷里の者として暗黙の了解で行っていた未登録の田畑へのお目こぼしもなくなり、国人たちだけでなく、農民の反発をも買う事になってしまいました。

そんな中で、この守護不介入の土地を一番多く所有していたのは、守護代の長尾家です。

もう、ここで、長尾家の不満ムンムンさは感じますが、それでも為景の父・能景(よしかげ)は、従順に不介入の土地を上杉に差し出しています。

しかし、穏やかな父と違い、激しい性格の為景のムンムンは、水面下で大きくなるばかり・・・先の立河原の戦いの兵役への出費の不満もさることながら、為景が、その顕定から、宴会の席で目下の者の盃を受けるよう強要されたのを、盃を叩き割って反発した事で、さらに険悪なムードが漂います。

やがて、永正三年(1506年)、従順だった父・能景が越中(富山県)にて奮戦中に戦死してしまい、しかも、その時に救援要請があったにも関わらず房能が兵を出さなかったという事があり、為景の決意は固まります。

為景の出生の記録が曖昧であるため、確かな年齢はわかりませんが、おそらく、この時点で、20代の前半であったと思われる血気盛んなお年頃だった為景ですが、さすがは、戦国の幕開けに名を残す武将・・・そこは、血気にはやらず、周到に準備を重ねます。

このまま、房能を討っただけなら、単なる謀反・・・力衰えたとは言え、守護や幕府自体を敵に回してしまいますから・・・。

亡き父の家督を継いだ為景・・・まずは、その幕府への根回しとして、幕府有力者である名門・畠山氏に事前連絡

さらに、房能の養子であった定実(さだざね)を手なずけて、傀儡(かいらい・あやつり人形)として手元に確保・・・この定実を次期守護にするという大義名分を掲げ、房能の住む府中の稲荷館のすぐそばにある荒川館にて挙兵しました。

もちろん、このニュースを聞いた房能は、すぐに配下の国人を召集しますが、先に書いた通り、あの検地の一件で、すでに国人たちの心は房能から離れ、急を聞いて駆けつける者はほとんどいませんでした。

しかたなく、わずかの側近を従えて、府中を逃げ出す房能・・・めざすは、もちろん、関東の兄・顕定のところです。

安塚(やすづか)街道を、ひたすらに逃走する房能でしたが、約40km地点の天水越(あまみずこし・新潟県十日町市)にて、為景軍に追いつかれ、永正四年(1507年)8月7日無念の自刃を遂げます。

そして、先の根回しが見事に功を奏して、幕府が定実を次期・守護を認めたため、為景の主君への謀反の罪などは存在せず、当然不問・・・

かくして、前守護に不満を抱いていた国人を統合し、お飾りの新守護のもと、事実上、実権を握った為景・・・後の謙信へとつながる戦国大名への第一歩を踏み出した為景・・・この後、永正十一年(1514年)の永正の乱の勝利により、その定実は名ばかりの守護となり、事実上、為景が国政を掌握する事になるのですが、そのお話は、5月26日【永正の乱~越後守護・上杉定実VS守護代・長尾為景】のページ>>でどうぞm(_ _)m

・・・と、いかにも悪人で不人気のお役人に為景が正義の鉄槌を・・・てな雰囲気の筋書きですが、これは、あくまで勝者・為景の言い分で、敗者には敗者の言い分があろうかとは思いますが、本日のところは、為景主役という事で、房能さんには、悪役に徹していただく事に・・・
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戦国・群雄割拠の時代」カテゴリの記事

コメント

 謙信公が、あれほど正義にこだわったのは、爺っちゃんと父っちゃんの特に為景さんの「曹操ばりの奸雄」に起因するんじゃないかと思ってました~。
 理由はともかく、今度「能景の戦死」の地ってのを、観てこようかな~って。

投稿: 山は緑 | 2009年8月 8日 (土) 08時10分

山は緑さん、こんにちは~

>今度「能景の戦死」の地ってのを、観てこようかな~・・・


あ・・・そうですね~富山ですもんね。

行かれたあかつきには、また、現地の様子をお聞かせくださいね!

投稿: 茶々 | 2009年8月 8日 (土) 14時17分

 越後領国経営は守護代に任せていた。
しかし、越後守護・上杉房能は、郡司不入権を破棄して、越後国の直接支配に乗り出した。
突然の方針転換に代官は反発し、市民も租税に苦しんだ。
日増しに権力強化を図る房能への反発は大きくなり、
1507年8月1日、ついに反発する国人衆と上杉定実と共に挙兵し、上杉房能を討伐した。
 領民を顧みない守護・房能を、国人衆達の支持を得て、守護代・長尾為景は討伐したのだ!

上杉為景は、越後のヒーローだ!

※出典:地元郷土史等より。

投稿: 地元 | 2010年9月18日 (土) 12時27分

地元さん、こんにちは~

おっしゃる通りに書いているつもりですが、何か間違っていた箇所がありましたのでしょうか?

記事の内容に対するご意見など聞かせていただければ幸いです。

投稿: 茶々 | 2010年9月18日 (土) 15時28分

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